かげろうの日記

なほ物はかなきを思へば、あるかなきかの心地する
かげろふの日記といふべし。
                    蜻蛉日記

 半生も既に過ぎてしまって、もはやこの世に何んのなす事もなく生きながらえている自分だが、――一たい顔かたちだって人並でないし、これと云った才能もあるわけではないのだから、こんな風にはかない暮しをしているのももっともの事だとは思うものの、只こうやってぼんやりと明し暮しているがままに、世の中に多い物語などをおりおり取り上げて、そのはしなどを読んで見ると、ずいぶん有り触れた空言そらごとさえ書いてあるようだから、自分の並々ならぬ身の上を日記につけて見たら、そんなものよりも反って珍らしがってくれる人もあるかも知れない。それにまた、世間の人々が、私のようにこんなに不為合ふしあわせになったのは、あまりにも女として思い上っていたためであろうかどうか、そのためしにもするが好いと思うのだ。

 何分にももうすべて一昔も前の事なので、さて、何から書き出したら好いのだろうか知ら。まあ、それ以前の取るに足らない程の、ごとなんぞは、それはそれとして、――今からもう十何年か前の、そう、たしか夏の初めだったと思う、その頃はまだ柏木かしわぎと呼ばれていたあの方が始めて私に御文をよこされたのである。その最初の時からして、あの方と云ったら外のお方とは変ったなされ方で、普通だったらしもじもの女にでもその御文を届けさせようものを、あの方は役所で私の父に先ず真面目とも常談ともつかずにほのめかされて置いて、こちらでそれをどう思おうなんぞという事には少しもお構いなさらずに、或日、馬に乗った男に御文を持って来させられた。その使いの者がまた使いの者で、「どなた様から」とかせることも出来ない程、はしゃぎ切っていたので、こちらの方ではしかたがなしにその御文を受取ってしまってから、はじめてそれが柏木様からのものである事を知ったのだった。が、見れば、御料紙なんぞもこういう折のにかなったものではなかったし、大層御立派だとお聞きしていた御手跡もこれはあの方のではないのではあるまいかと思われる程のものだったし、どうもすべてが疑わしいので、御返事はどうしたものだろうかと迷っていると、昔気質むかしかたぎの父はしきりに恐縮がって、「やはりお出しなさい」と私に無理やりにそれを書かせた。それをきっかけにして、それからもあの方はしばしば私に同じような御文をおよこしになったけれど、最初のうちは私の方ではそれほど熱心になれず、返事も出したり、出さなかったりしていた位だった。
 そう云ったごく通り一遍な消息をやりとりしているうちに、その夏も過ぎて、秋近くなった頃、どうした事からだったろうか、とうとう私はあの方をおかよわせするようになった。そうしてその頃はといえば、あの方は何をかれても、殆ど毎夜のように私のもとにお通いになって入らしったが、そのうちにやがて十月になった。

 その月半ば、私の父は陸奥守むつのかみに任ぜられて奥州へ御下りにならねばならなかった。――それはまだ、私があんまりあの方にもお馴れしても居らず、お会いしている時だって、ただもうさしぐんでいるばかりだったのを、反ってあの方はいとしがられ、一生お前の事は忘れまいなどと御誓いなすったりせられはしたものの、果して人の心なんぞは頼みになれるものやら、なんとも言えず不安で、自分の悲しい行末ばかりが思われてならないような日頃であった。――ところで、いよいよ父たちが出立すべき日になった。みんなが別れを惜しんでいる間に、父はふいと私のもとに入らしって、御形見のすずりに何かお文のようなものを押し巻いて入れて、それからまた黙って出て往かれたようだったが、私はそれをすら見ようともせずにいた。とうとう皆が出立した跡になって、私は少しためらいながら、それにいざり寄って、何だろうと開けて見ると、「君をのみたのむ旅なる心には行末とほく思ほゆるかな」としたためられてあった。見るべき人が見るようにと書き残されたのだろうと思って、私は、それをそのまま元のように収めて置いた。それからしばらくして、あの方がおいでになったけれど、目も見合わさずに、私がじっと思い詰めたようにしていると、あの方は「こんな事は世に有りがちな事だのに、そんなに歎いてばかりおられるのは、わたしの事をちっとも頼みに思っていてくれないからなのだろう」と私を反って恨むように言われるのだった。が、そのうちに、ふと硯にあった御文を見つけられ、それを御手に取られてお読み出しになったかと思うと、しばらくの間それから御目をも放さずに、さもお気の毒なと言いたげなお顔をなすっていらしった。……
 その後、日の立つにつれて、そんな遠い旅空にある父の事を思いやるだけでさえ気がかりでならないのに、私がこうしてもういよいよあの方お一人にお頼りするより外はないようになればなるほど、何だかだんだんあの方の御深切がお口ほどでもないように思われてくる一方で、その心細いことといったらないのだった。

 その明くる年の春から夏にかけて、私はずっと悩み暮らし、八月の末になって道綱みちつなを生んだが、いまから思えば、まあその頃があの方も私を一番何くれとなく深切になすって下すっていた頃だったようだ。
 ところが、その九月になって、あの方がお出かけになられた跡に手筥てばこが置いてあったので、何の気なしに開けて見たら、どこかの女のもとへ送るおつもりだったらしい御文がしのばせられてあった。私は驚いてどうしたら好いかもわからない位だったが、せめて自分がそれを見たと云う事だけでもあの方に知らせてやりたいと、わざとそれをそのまま放って置いた。しかし、あの方はそんな事には少しも気をお留めにならぬらしかった。――そんな事があってから、私はとても気になってそれとはなしにあの方の御様子をうかがっていると、或夕方、急に「どうしても往かなければならない所があるから」とおっしゃって出て往かれた御様子がどうも不審だったので、人を付けさせて見たら、果してまちの小路のこれこれの所へおはいりになったと云う事だった。――矢っ張そうだったのかと、胸もつぶれるような思いで、それからの数夜と云うもの、私はられず、しかしどうしようもなく一人きりで歎き明かしていた。そんな或夜の明け方だった。誰か訪れて来たものがあるらしく、しきりに門を叩いているようだった。すぐあの方がいらしったのだとは分かったものの、私も少し意地になって、いつまでも戸を明けさせずにいた。やがて私の知らない間に、あの方はすごすごお帰りになってしまわれたらしかった。おおかた小路の女の所へでも入らしったのだろうと思った。が、朝になって、何だかそのままにして置いても気になるし、それかと云って戸をちょっとお明けしなかった間ぐらいはとも思うものだから、私は「歎きつつひとりぬる夜の明くるまはいかにひさしきものとかは知る」と、いつもよりか少しひきつくろった字で書いて、しおれかけた菊に挿してやった。すぐ御返事があったが、「私だってお前が戸を明けてくれるのを、夜の明けるまでだって待って見ようとしたのだ。が、折悪しく急ぎの使が来てしまったものだから――」と書いてあるぎりだった。いつもに変らず、こちらがこれほどまでに切ない心もちをお訴えしているものを、あの方はさも事もなげにあしらわれようとしかなさらないのだ。どうしてそんな女の事なんぞを私にもっと出来るだけお隠しなすって、いま暫くなりと、「内裏うちへ」――などと仰ゃってでも、私をおだましになっていて呉れられなかったものなのだろうか。

 それからだっても、あの方はいかにも何気ないような御顔をなすって、おりおりお見えにはなったが、それすらだんだん途絶えがちになり、そのうちにその堪え難いほどだった冬も過ぎ、っと春が立ち返って、三月になった。三日の節句にも、桃の花なんぞを飾りつけてお待ちしていたのにとうとうお見えにならなかった。近頃姉のもとへしげしげとお通いになって来るいまひと方も、いつもはそんな事など一度もなかったのに、その日だけはどうしたわけか、お見えにならずにしまった。が、その翌日、御ふた方とも打揃ってお見えになった。ゆうべから待ちびていた女房どもが、そのままにしてしまうのも何だからと云って、きのう飾ってあった桃の花を再び取り出してきたので、その花の一と枝を折って手にすると、それはもう少し萎れかかっていた。私はそれを見るとつい胸が一ぱいになって、それに手習でもするような気で「待つほどのきのふ過ぎにし花の枝はけふ折ることぞかひなかりける」などと書き散らしていると、それをいきなりあの方が奪いとられ、その枝をかざしながらお読みになって、「何だ、この歌は。お前とは一生をかけて誓っているのじゃあないか。こんな一年毎に咲く花なんぞとはお前が違っているのを知らないのか」などと、いつもの真面目とも常談ともつかないような調子で、私をおいじめなさるのだった。
 その事がいつか姉のもとに来て入らしったいまひと方の御耳にもはいったと見え、「私もゆうべはわざと余所よそで過して来ました。花があるので好んでこちらへ来ただけなのだろうなどと言われそうでしたから」などと、そのお方までがしたり顔にそんな事を言ってよこされた小憎らしさ。

 それからまだ二た月とは立たないうちに、私はいつのまにやら只一人で起き臥しする事の多いような身の上になりながら、姉の方へばかり絶えずいまひと方が出這入ではいりなすっていられるのを、胸のしめつけられるような気もちで見て暮していたところ、五月になると、そのお方さえも、まるでそう云う私をお避けなさりでもするかのように、余所へ私の姉をお連れして往ってしまった。それからは私はほんとうの一人ぎりになってしまったのだった。――が、こう云うはかない身の上になったのは、私ばかりではなく、私なんぞよりもずっと前からあの方がお通いになって、お子様などもたんとおありなさると云うお方のもとへも、この頃は全くあの方は絶えられているとお聞きして、ましてどんなにお心細い事だろうかと、おりおり消息などをさし上げては自分でもわずかに気をまぎらわせようとしていた。が、おとなしそうなそのお方は、なぜか知ら(或は私だけが別して人の苦しみというものを過当に見るようなところがあるのだろうかしら)、いつも私の相手になるのをお避けになるような素気すげない御返事しかおよこしにならなかった。誰もかもみんなそういう私をお避けになったと見える。

 そのうちに六月になった。月初めからずっと長雨ながさめが続き、此頃はとりわけてあの方もお見えにならなかった。
 これまでだったらこんなことは無かったのに、どうしたのか、私はまるで心が空虚うつろになって、そこいらに置いてあるものさえ静かに見られない癖がついてしまっていた。「こんな風にしてあの方は私とお絶えなさるおつもりなのかしら。そうだとすれば、何かあの方の事を自分に思い出させてくれるようなものは残っていないかしら」なんぞと、そんな事まで考え出しながら、あの方がこうしておれになればなるほど、あの方に対してついぞいままで覚えのなかった位にお慕わしさのつのって来るような自分をば、自分でどうしようもなくていた。すると十日ばかり立って、あの方から珍らしく御消息のあったのを読んでいると、何くれとお書きになって、最後に「とばりの柱に結わえて置いた小弓の矢を取ってくれ」と言われるので、まあ、あの方のこんなものが残っていたのにと、やっと気がつき、それを取り下ろして持たせてやるような、悔やしい事さえもあった。
 そんな風に、あの方がますます私からおれがちになっていられる間も、私の家は丁度あの方が内裏うちから御退出になる道すじにあたっていたので、夜更けなどにしばしばあの方が私の家の前をお通りすぎなさるらしいのが、折から秋の長い夜々のこととて、ともすれば私は目覚めがちなものだから、いくら聞くまいと思っていても、手にとるように耳にはいってくる事がある。そんな時などには「何とかしてあれだけは聞かずにいたいものだが――」と思いながら、しかもその一方では、いましがた私の家の前をつづけさまにしわぶきをなさりながらお通りすぎになったあの方が、だんだんその咳と共に遠のいて往かれるのを、何処までも追うようにして、私は我知らず耳を側立そばだてているのだった。……

 それから十年ばかりと云うもの、私の父はずっと受領ずりょうとして遠近おちこちの国々へお下りになっていた。たまさかに京へお上りになっても、四五条のほとりにお住いになるので、一条のほとりにあった私の家とは大へん離れていた。それで、こうやって私たちが人少なに住んでいた家は、誰もつくろってくれるような者なんぞ居なかったので、次第次第に荒れまさって来るのを、私はただぼんやりと眺めながら、ようやく成長して来る道綱一人を頼みにして、その日その日をはかなげに暮しているばかりだった。
 そのうちにやっとその幼い道綱が片言まじりに物が言えるようになって来たが、それも、いつ聞き覚えたのか、あの方がいつもお帰りの時に、「そのうちに又――」などとおっしゃって出て往かれるのを、「又ね……又ね……」などと口真似をして歩きまわったりしているのだった。――そのようなわが子のあどけない姿を見て覚えずほほ笑まされながらも、どうしてまあこうも自分はこんな幼な子の無心の振舞の中にすら、それに写る自分の悲しみをしか見出せないのだろうと歎かずにはいられないのだった。
 こういう私たちの日頃の有様を御覧になっても、あの方は一向無頓著むとんじゃくそうに、たまにおいでになったかと思うと、又すぐお帰りになって往かれた。大かた私たちが心細がっているだろうとさえもお思いにはならないものと見える。いつも云いわけがましく「この頃は為事しごとが多いので――」などと仰ゃっては入らっしゃるけれど、まあちょっとでもこれに目をお留めなすったら、この数知れぬほどなよもぎよりもまさかお為事が多いとは仰ゃれまいにと、私はわが家の荒れ放題になった庭をいまさらのように見やっては、少し自嘲的な気持にもなって、それがますます荒れ果てるがままに任せておいた位だった。
 そんな私に向って、「まだお若い身空ですのに、どうしてそのようにばかりして入らっしゃるのですか」と気づかっては、熱心に再婚などを勧めてくれる人もあった。それだのに、あの方はまたあの方で、「おれの何処が気に入らないのだ」と云った顔つきをなすって、少しも悪びれずにいらっしゃるので、本当にどうしていいのやら、私は思いあぐねるばかりだった。何んとかしてこの胸に余る思いをつぶさにこの人にも分からせようがものはないかと思えば思うほど、私はあの方に向っては一ことも物を言うことが出来ずにしまうのだった。
「今のようにときどき思い出されたように入らっしゃるよりか、いっその事もうすっかりお絶えになって下すった方がどんなに好いか知れやしない」などとまで私はその日頃考え出していたものだった。又意地の悪い事にはそんな時にかぎってあの方がひょっくりお見えになったりする。「どうして私のところへなぞ入らしったのですか」と云った顔をしたぎり、私が何も言わずにいるものだから、あの方も何だかひどく工合悪そうにしていらっしゃる。まあ、折角こうしてお出になっていられるのだから、こうばかりしていてもと、つい弱気になろうとする自分を、私は一生懸命に抑えつけて、あの方がいかにも物足らなそうにお帰りになるがままにさせている。……
 そんな事ばかり繰り返しているうちに、とうとう或日などはあの方もすっかり気を悪くされたと見え、つとはしの方へ歩み出されてから、幼い道綱をお呼び出しになって何か耳打ちをなすっていらしったが、そのままいつにないうらがおをなされて出て往かれてしまった。あの子ははいって来るなり、私の前でしくしく泣いている。「どうしたの」と尋ねて見ても返事もせずにいた。あの方にきっとおれはもう来ないぞ、とでも言われたのだろうと思って、それ以上尋ねるのは止めて、いろいろなだめたりすかしたりしていたが、それから何日たっても、あの方からは音信おとずれさえもなかった。「まさかと思っていたのに、本当にこのままお絶えなさる気なのかしらん」と不安そうに思いながら、それでもまだそれを半ば疑うような気もちで暮らしていると、或日の事、こないだあの方の出て往かれる時にびんをお洗いになった※(「さんずい+甘」、第3水準1-86-60)ゆするつきの水がそっくりそのままになっているのにふと気がついた。よく見ると、その水の上にはもう一面にちりまっていた。「まあ、こんなになるまで――」と私は胸をしめつけられるような心もちで、それに何時までもじっと見入っていた。――そんな事さえも、その日頃にはとかく有りがちなのであった。

 そういう一方に、あのまちの小路の女のところでは子供が生れるとか言って大騒ぎをしていたらしかったが、その頃からどう云うものか、あの方はあんまりその女のもとへはおいでにならなくなったとか云う噂だった。その女の事を憎い憎いと思いつめていた時分に「いつまでも死なせずに置いて私の苦しみをそっくりそのまま味わせてやりたいものだ」と思っていた通りに、すべての事がなって往きそうだった上、その生れたばかりの子供までが突然死んだと聞いた時には、「まあ何んていい気味だろう。急にそんなになってしまわれて、どんな心もちがしているかしら。私の苦しみよりかいま少し余計に苦しんでいる事だろう」などと考えて、本当に私は胸のうちがすっぱりとした位だった。――こんな人らしくもない心の中まで此処に書きつけるのは、ちょっとためらわれもしたけれど、こう云うところに反って生き生きとした人の心の姿が現われているかとも思えるので、この私と云うものをすっかり分って貰うためには、やはりそう云うものまで何もかも私はこの日記につけて置きたいのである。

 さて、そんな事のうちに数年と云うものは空しく過ぎ去ってしまったが、そう、何でも五月の二つあった或年の事である。そのうるう五月には雨が殆ど絶え間もなしに降り続いていた。そうしてその月末から、どうしたのか、私は何処と云うこともなしに苦しくってまらなかった。もうどうなったって好いと思っている自分の事ではあるし、そんな命をさも惜しがってでもいるようにあの方に見られたくはないと思って、私は我慢がまんをしていたが、側の者たちがいろいろと気づかって、しきりに芥子焼からしやきなんぞという護摩ごまなども試みさせるのだけれど、一向その効力はないのだった。――そうやって私がひどく苦しみ続けている間も、あの方は謹慎中だからと言われて一度だって御見舞には来て下さらなかった。何でも新しい御邸おやしきをおつくりなさるとかで、そちらへ毎日のようにおいでになるついでに、ちょっとお立寄りになっては、「どうだ」などと車からもお下りなさらずに御言葉だけかけていらっしゃるきりだった。そんなような或物悲しく曇った夕暮に、私がすっかり気力も衰え切っているところへ、そちらからお帰りの途中だといわれて、あの方は蓮の実を一本人に持たせて、「もう暗くなったので寄らないけれど、これは彼処のだから御覧」とことづけて寄こされた。私は只「生きているのかどうかも分かりません程なので――」とだけ返事をやって、そんな蓮の実なんぞは見る気にもなれずに、そのまま苦しそうに臥したきりでいたが、そのような大そうお見事らしい御邸だって、そのうち見せてやろうなどとおっしゃって下すってはいるものの、こうやって自分の命のほども分からず、それにまたあの方のお心の中だって少しも分からないしするので、どうせ自分はそれをも見ずにしまう事だろうなどと考え続けていると、その心細い事といったら何んともかとも言いようのない程であった。
 そんな工合に何時までたっても同じような容態だったので、名高い僧なども呼んでいろいろと加持を加えさせて見たけれど、一向はかばかしくはならずにいた。そこでしまいには、事によるとこのまま自分もはかなくなってしまうのかも知れない、そうなったって自分の身なぞは露ほども惜しくはないけれど、只あとに一人きり残される道綱がどうなることか知らん、と私は急にそれが気がかりになって、或日、いかにも心もとないあの人だけれど、まあそれでもと、苦しいのを我慢しいしい、脇息きょうそくによりかかりながら、やっと筆を手にして、遺書と云うほどのものではないが、ともかくもあの方に道綱の事をくれぐれもお頼みし、それからその端に「他の人には言われないようなおかしな事までいろいろ申し上げましたけれど、どうぞそんな事をもお忘れなさらずにいて下さいませ」などと書き添えていた。がそのうち、らずらずのうちに、あの方に対する自分の気もちがいつもほど苦くはなくなっているのに気がついた。そうしてあの方との事で今の自分に残っているものと云ったら、不思議に心もちのいい、殆ど静かな感じのものばかりであった。恐らく、私の身の極度の衰えがそういう静けさを自分の心に与えていたのでもあろうか。

 そうこうしているうちに、六月の末頃からいくぶん物心地がついて来たようで、秋も過ぎ、冬になった時分にはもう大ぶ私も人心地がしてきた。その間に、あの方たちは新築した御邸の方へお移りなって往かれたが、私だけはやはり思ったとおり、このまま此処にこうしておれば好いと云う事になったらしかった。
 が、そうなったらそうなったで、別にどうと云うこともありはしないのに、やっと恢復かいふくし出した私はその頃になって反って何だか気もちが落着かずにばかりいたけれど、十一月になってから雪がたいへん降った。そんな雪のふりつづいた頃、どうしたのか、まだ充分にっていなかったらしい身うちにめっきりと衰えが感ぜられ、世のさまざまな事、ことにあの方の事なぞが言いようもなく辛く思われた一日があった。私はその日は日ぐらしそんな雪を眺めたり、又、いつぞやの殆ど死ぬばかりだったような日々の事だの思い出したりしながら、「ああ、雪なんぞだったら、いくらこんなに積ったって、やがてまた消えて往ってしまえるのだ。それだのに、私は一生のうちにたった一度の死期をも失ってしまったような……」などとさえ悔やみ出していた。……

 そのうちに道綱もようやく成人して来た。が、その頃の事になると、まだついこの間の事のように何もかも自分に一どきに思い出されてしまうものだから、さてそれを書こうとすると、反って何だか書かずともよいような事までも書いてしまいそうな気がしてならない。……
 先ず思い出すのは、これも書かずともよい事かも知れないが、まあ、思い出すがままに書いて見ると、或年の丁度若苗わかなえの生い立つ頃、――そう、若苗といえば、そんな事のあった数日前、私はあんまり所在がないので草などの手入れをさせていたら、たくさん若苗が生えていたので、それを取り集めて母屋の軒端にそっくり植えさせて水なども気をつけてやらせていたのだった。が、その日私が見に往ってみると、それはもう残らず色が変って葉なんぞもすっかりしおれかえってしまっていた。――この頃まるっきりあの方のお見えにならない私の家のものといったら、まあ、こんな軒端の苗までも私の真似をして物思いをする見たいだなどと、又してもそんな事を考え出していると、そこへあの方から珍らしく御文があった。「いくらこちらから文をやっても返事がないので、はしたなく思われそうだから遠慮をしていた。今日でも伺いたいと思うが――」などと書いてある。御返事は上げまいと思ったが、側の者たちにかれこれ言われて、私はやっとそれを書いて持たせてやった。それからすぐ日が暮れた。まだそれが往きつかないだろうと思う時分に、あの方が往きちがいにお出になってしまった。皆に「何かわけがあおりなのかも知れません。何気ないようにして御様子をごらんなさいませ」などと言われて、私も少し気をつけていた。が、あの方は「物忌ものいみばかり続いていたのだ。もう来まいなどとおれが思うものか。どうもお前がすぐそうひがむのが、おれにはおかしい位だ」などといかにも裏もなさそうに仰ゃるので、こちらも何だか気の抜けてしまう位だった。「明日は用事があるから、又明後日でも――」などと仰ゃって帰って往かれたけれど、私もそれを本気にはしないものの、しかしたらと思い返えしているうちに、だんだん日数が過ぎて往くばかりだった。
 やはりそうだったのかと気がつくにつけ、前よりも一そう心憂く思われて、相変らず自分の思いつづけている事といったら、仏にお祈りしてでも何とかして死にたいものだと云うような事ばかりだったが、あとに一人残る道綱のことを考えると、それも出来そうもないのだった。「お前が早く成人して、安心の往けるような妻などに預けてしまえたら、どんなに好いだろうに。いま、わたしが死んだら、どんな思いをしてお前が一人でさすらう事だろうと思えば、ほんとうに死ぬのも死ににくい。まあ、かたちでもかえて、世を離れたらと思うのだけれど――」と私が独言でも言うように言っていると、まだ深くは何もわからぬらしいが、あの子も悲しそうに「そうおなりになったら、まろも法師になりとうございます。この世に交わって居りましても、何になるでしょう」と言いながら、目に涙を一ぱい溜めている。私はそれを見ると、やっと気を取りなおしながら、いまの話を常談にしてしまおうとして、「そうなって鷹も飼えなくなられたら、どうしますか」と言うと、道綱はいきなり立ち上って往って、自分の飼っていた鷹をかごから出して矢のように放してしまった。それを傍で見ていたもので泣き出さないものはなかった。
 丁度その暮がたに、あの方から御文が来た。また天下の空言そらごとだろうと思えるので、気強く「只今は心もちが悪うございますので、いずれ後ほど――」とそのまま使いの者を返させた。そんな事もあった。

 七月、――お盆が近いので何かと世間では騒ぎ出していた。毎年母の盆供ぼにの事だけはあの方が几帳面きちょうめんになさって下すっていたのに、今年はどうなるのやら。もうあの方も私からおれになったのかと、亡き母も地下で悲しくお思いになるかも知れない、しかしまあ、もうすこし待って見ようと思っていたところへ、何時ものようにちゃんと盆供を調えて下すった上、御文まで添えてあった。私はそこで「亡くなった人の事はお忘れでないと見えます。しかしわたくしの事などは――いいえ、こんな果敢はかない身の事などは、本当に自分でも忘れられたら忘れてしまいたい位なのですものを」と例によって少しひねくれて書いてやった。
 やがて相撲すまいの頃になった。もう十六になった道綱がしきりにそれへ往きたそうにしているので、装束をつけさせて、先ず殿のもとへと言いつけて出してやった。その夕方、あの方が車のしりへでも乗せて送って来て下さるかと思っていると、他の人に送られて来た。その次の日も道綱は出かけて往ったが、夕方、また雑色ぞうしきなどに送られて来た。子供心にも、いつもなら御一緒に送って下さるものをと、そうやって一人ぼっちで帰って来るのがどんな思いであろうに。……
 ところが、八月にはいって、或日の夕方、突然あの方がお見えになった。「明日は物忌ものいみだから門を強くとざしておけ」などとお言いつけになって入らっしゃるらしかった。私はもう物も言われない位、胸が沸き立つような気もちがしていると、あの方は道綱をお側に引きよせられて、そんな私の方をちらっと見やっては、何かひそひそと耳打ちしていらしっていた。「我慢をしておいで」なぞとささやいているのが、ふと私の耳にも入ったりする。しかし私はどうにもしようがなしに、黙ったまま向き合っていた。翌日も、一日中あの子をお側に置かれて、「おれの心もちはちっとも変らないのに、それを悪くばかりとるのだ」などとお聞かせになって入らっしゃるらしかった。
 それから、どうした事やら、不思議なほどあの方はしばしばお見えになるようになった。この頃急に大人寂おとなさびてきたような道綱があの方のお心をもいたものと見える。それはあの方が何時になくいろいろとあの子の御面倒を見て下さって、今度の大嘗会だいじょうえには何かろくを給わらせよう、それから元服もさせようなどと、おっしゃり出しているのでも分かるのだった。私までも一と頃はいささか昔に返ったような気もちになりかけていた位だった。
 が、道綱の元服もとどこおりなく果てたかと思うと、またしばらく例の御物忌とやらでお見えにならないようになった。毎日のように、道綱は内裏うちに一人で出て往っては、また一人で淋しそうに帰ってくる。そんな或日の事、あの方が「きょうは往けたら往こう」などと御消息を下すったので、もしやと思ってお待ちしていたが、その夜も空しく更けて往くばかりだった。やがて気づかっていた道綱だけが、ただ一人で浮かない顔をして帰ってきた。そうして「殿も只今御退出になりました」などと語るのを聞いて、いくら夜が更けていたって昔ながらのお心さえおありだったならばこんな事はなさるまいに、と私は胸がつぶれるような思いがした。それから、また、以前のように、音沙汰がなくなってしまっていた。

 やっと十二月になって、七日頃にあの方がちょいとお見えになった、何だかもう顔を見られるのも不快なので、几帳をよせて、その陰に引きこもっていると、おいでになったばかりなのに、「日が暮れたな。どれ、これから参内せねば――」と仰ゃってお帰りになられたぎり、音信おとずれもなくて、十七八日になった。
 その日の昼頃から、雨がそんなに強く降ると云うほどではなしに、ただ何となく降りつづいていた。こんな日なんかにはしやと云うほどの気にさえなれず、私はしょうことなしに昔の事などを思い出しながら、昔の自分が心待ちにしていたすべての事と今の自分とは何と云うひどい相違だろう、あの頃はこんな雨風にだって御いといなさらぬものをと自分は信じていたのに、なんぞと考え続けていた。しかしいま、こうやってしみじみと思い返して見ると、その頃だって自分はちっとも気のゆるむような心もちのした事なんぞはついぞ無かったようにも思われた。これと云うのも、一体、以前から自分の心がおごっていたのだろうかしらん。ああ、こんな事になるなんて自分は夢にも思わなかったものを。それほどまで私は大きな夢を持ちつづけていたのに。……
 そんな雨がそのまま小止みなしに降りつづいているうちに、やがて灯ともし頃となった。南面みなみおもてには、この頃妹のところへお通いになって来られる御方がある。足音がするようだから、きっとその御方がおいでになったのだろう。私が「まあ、こんな雨だのによくいらっしゃるわね」と自分の沸き立つような心を抑えつけながら、独言のように言うと、私の前に坐っていた古女房が「昔の殿でしたら、これ以上の雨にだって、御いといなさらずにいらしったものですのに」とすこしなみだぐんで応えた。私はじっと無言のままでいたが、そのうちにふいと何か熱いものが頬を伝い出したのに気がついて、覚えず「思ひせく胸のほむらはつれなくて涙をわかすものにざりける」と口をいて出たままを口の中で繰り返し繰り返ししていた。そうしてとうとうそのまま、そんな臥所ふしどでもない所で、私はその夜はまんじりともせずに過ごしてしまった。

 去年の春、呉竹を植えたいと思って人に頼んでおいたら、それから一年も立ったこの二月のはじめになってっと「さし上げますから」と言ってきた。「いいえ、もう少しも長らえたいとは思えなくなりました此の世に、何でそんな心ないような事をして置けましょう」と私がことわらせると、「まあ、大へん狭いお心ですこと。あの行基菩薩ぎょうぎぼさつは行末の人の為めにこそ、実のある庭木はお植えなされたと申すではありませんか」などと言い添えて、その木を送ってよこしたので、つい私もそれに気もちを誘われるがままに、「そう、此処はこの上もなくふしあわせな女の住んでいた所だと、見る人は見るがいい」と思って、胸を一ぱいにさせながら、それを植えさせた。
 それから二三日して、雨がはげしく降り、そのうち東風までも吹き加わって来たので、あの呉竹はどうなったかしらと思って見やると、もうそれは二三本傾いてしまっていた。早く元のようにしてやりたいと思いながら、雨間あままを待っているうちに、しかしこう云う自分だって、何時その行末はこんな思いがけないような事になるかも知れないのにと、またしても例の物思いをし出そうとしている自分に気がつくと、私はもうそんな自分をば勝手に一人で苦しませるために、さっきの呉竹がますます傾き出しているのをも、わざとそのままにさせて置いた。

 この頃あの方はずっと近江とか云う女のもとへお通い詰めだと云う事をお聞きしていた。
 そんな或日の事、あの方から珍らしく御消息があって「私の心の怠りでもあるが、いま忙しい事も忙しいのだ。夜分でもと思うけれど構わないか。何だかお前が怖いような気もするが――」などと書いておよこしになった。私は「只今気分が好くありませんので何も申し上げられません」と素っ気ない返事をやったが、そのすぐ跡からそんな返事をやった事でもって自分から絶え入るような思いをしていると、その夜、あの方はいかにも平気そうな御様子をなすってお見えになった。ほんとうに悔やしいと思って口も利かずにいると、あの方は悪びれもせずに常談ばかりお言いになっていらしった。それが私にはとても辛くて辛くて、とうとうこの日頃ずっと我慢しつづけていた事をお訴えし出していると、そのうちにあの方は何とも御返事をなさらなくなってしまった。そうしていつの間にかもう寐入ねいってしまわれたようだったので、私は急に気抜けがしてそのまま黙っていると、その時ふいとあの方は薄目をお開けになって、そう云う私に「どうしたのだ。もう寐てしまったのか」と意地悪そうにお笑いかけなすった。けれども、私はもう石のように押し黙ったぎり、そのまま夜を明かしてしまったので、翌朝あの方は物もお言いにならずにお帰りになられた。
 それから二三日するかしないうちに、あの方は何事もなかったかのように、例の縫物などを持って来させて、「これを仕立ててくれ」などと言っておよこしになった。が、私はそれには手もつけずに、そっくりそのままそれを返えしてやった。

 三月も末近くなってから、父が京に上って来られたので、私はあんまりこうして暮してばかり居ても息苦しくってたまらなかったし、それにいみたがえがてら、しばらく父の所へ往くことにした。そちらで、この間から思い立っていた長精進もはじめようかと思い、いろいろその支度をし出しているところへ、あの方から御文があった。相変らず「勘当は未だなのか。もう許してくれるなら、暮方にでも往きたいがどうだ」などとある。私がそのまま返事を出さずにいると、人々がそれではあんまりだと言ってうるさいので、「二た月もお見えにならなかったのに、不思議な御文ですこと」とだけ返事を書いてやった。少しでも早く静かに落着きたいと思うので、急いで父の家へ引き移って往った。月のない空に、夜まで一そう更けまさって見えた。いつものように私の胸の中は沸きたぎるようだったけれど、父の家は手狭でもあったし、生憎あいにく人もごたごたしていたので、息もろくにつけずに、胸に手を置いたような、重くろしい気もちでその夜は明かした。
 思ったとおり、あの方からはそれっきり何の音信もなかった。

 四月にはいると、道綱を側に呼んで「お前も一しょにおし」と言って、いよいよ長精進を初めた。と云っても別にものものしくはせず、ただ脇息きょうそくの上に香を盛った土器かわらけを置いたぎりで、その前で一心に仏にお祈りした。その祈る心も只「大へん私は不為合ふしあわせでございました。昔から苦しみばかりの多い身でございましたが、この頃はほんとうにもう生きている空もない程でございます。どうぞ思い切って死なせて、菩提ぼだいをかなえさせて下さいませ」などとばかりで、少しさしぐみながらお勤を続けていた。
 ああ、一昔前、此頃は女だっても数珠ずずをさげ経を手にしていない者はない位だと人々の語るのを聞き、「そんな尼のような御顔をなすっていらっしゃるからやもめにおなりになるのでしょう」などと非難めいた事まで言った、その頃の自分の心は何処へ行ってしまったのやら。そんな事を私が言っていたのを聞いた人々がもしいまの私を見たら、こうして明け方から日の暮れまでゆまずにお勤しているのを、まあ、どんなに笑止に思うことだろう。こうまで果敢はかない人生をどうしてあんなに気強い事が言えたのかと、いまさらながら昔の自分のそんな無信仰が悔やまれてならないのだった。
 そうやって二十日ばかりお勤をしつづけている間に、私は夜分になると何だか苦しいような夢ばかり見せられていたが、或晩などは、私はそんな夢の中で、腹のなかを這いまわっている一匹の蛇のためにきもを食べられていた。――あんまり恐ろしかったので思わず目を覚ましたが、それからまた私がうとうととしかけると、また夢でもって、それを癒すには顔に水を注ぐが好いと、何人とも知れずに教えてくれた。
 そんな夢の吉凶などは自分にはわからないけれど、こうやって此処に記して置くのは、このような私の身の果てを見聞くだろう人が、夢とか仏などは果して信ずべきか否か、それによって決めるがよいとも思うからである。

 五月になってから、私は物忌も果てたので、自分の家へ帰った。私の留守の間、すっかり打棄うっちゃらかしてあったので、草も木も茂るがままに茂っていたところへ、程もなく長雨ながさめになってしまったものだから、前よりも私の家は一そう鬱陶うっとうしい位であった。雨間あままを見ては、お勤の暇々に、私も少しずつ手入れをさせ出していたが、そんな或日の事だった。私の家の方へあの方のお召車らしいのがいつものように仰々しく前駆させながらお近づきになって来られた。丁度その時私はお勤をしていたところだった。人々は「殿がいらしったようだ」などと騒ぎ出していたが、どうせいつものようなのだろうと思いはしたものの、私も胸をときめかせていると、やっぱりあの方は私の家の前はそのままお通り過ぎになってしまわれた。皆はもう物も言えずに、ただ顔と顔とを見合わせているばかりらしかった。私だけは何気なさそうに、さっきから止めずにいたお勤をなおも続けているようなふりをしていたが、しかし心の中には何かいままでについぞ覚えた事のないような、はげしい怒りにも似たものをき上がらせていた。――

 六月のついたちの日、「お物忌のようですから」と門の下から御文をさし入れていった。おかしな事をすると思って、披いて見ると、「もうそちらの物忌も過ぎただろうに、何だっていつまで余所よそへ往っているのだ。どうもわかり難そうな所なので、つい伺わずにもいるが。――こちらの物詣ものもうでけがれが出来たので止めた」などど書いてある。こちらへもう私の帰って来ている事を今までお聞きにならずにいる筈はないと思われるので、一層腹が立ってならなかったが、やっとそれを我慢して、「こちらにはずっと前から帰っておりました。そんな事なぞどうしてあなた様にお気づきなされましょうとも。わたくしの知った所なんぞとは違った、思いもつかないような所へしじゅう御歩きなされていらっしゃるのでしょうから。――何もかもみな、今まで生き長らえている私の身の怠りなのですから、いまさら何も申し上げようもござりませぬ」と返事を書いて持たせてやった。
 本当にこんな風にときどき思い出されたように何か気安めみたいな事を言って来られたりなんかすると、反って私には辛くってならない。不意にでもあの方にやって来られて、またこの前のように侮やしい事もないとはかぎらない。こんな私なんぞは、いっその事これっきり何処かへひそかに身を引いてしまった方がいいのではないかしら。――「そう、それがいい、――そうだ、西山にはこれまでもよく往った寺があるけれど、あそこへ往って見よう。あの方の御物忌のお果てなさらぬうちに――」と私は突然思い立つなり、一日も早くと思って、四日の日に出かけることにした。
 丁度その日はあの方の御物忌も明けるらしいので、気ぜわしい思いで、いろいろ支度を急がせていると、人々が上莚うわむしろの下から何か見つけ出して「これは何でしょう」などと言い合っていた。ふと見ると、それはいつもあの方が朝ごとにお飲みなすっていた御薬が檀紙たとうがみの中に挿まれたままになって出て来たのだった。私はそれを受け取って、その紙の上に「所詮生れ変らねばと思っては居りますけれど、何処ぞあなた様がわたくしの前を素通りなされるのを見ずにもすむような所がござりましょうかと存じまして、今日参ります。ああ、また問わず語りをいたしてしまいました」と書きつけ、その中に元のように御薬を入れて、道綱に「もし何かかれそうだったら、これだけ置いて早く帰っていらっしゃい」と言いつけて持たせてやった。
 それを御覧になると、余程あの方もお慌てなされたと見え、「お前の言うのも尤もだが、まあ何処へ往くのだか知らせてくれ。とにかく話したいことがあるので、これからすぐ往くから――」と折返し書いておよこしになった。それが一層せき立てるように私を西山へと急がせた。

 山へ行く途中の路はとり立ててどうと云うこともなかったが、昔、しばしばここへあの方とも御一しょに来たことのあるのを思い出して、「そう、四五日山寺に泊ったことのあったのも今頃じゃなかったかしら、あのときはあの方も宮仕えも休まれて、一しょにこもって入らしったっけが――」などと考え続けながら、供人もわずか三人ばかり連れたきりで、はるばるとその山路を辿たどって往った。
 夕方、っと或淋しい山寺に着いた。まず、僧坊に落ちついて、あたりを眺めると、前方にはまがきが結われてあり、そこいら一めんに見知らない夏草が茂っていたが、そんな中にぽつりぽつり竜胆りんどうがもう大かた花も散ったまま立ちまじっているのがびしげに私の目に止まった。
 湯などに入ってそれから御堂にと思っているところへ、里の方から人が駈けつけて来たようなけはいであった。留守居の者の文を急いで持ってきたのだった。読んで見ると、私の出かけた跡にすぐ殿からお使いの者が見えて私を引き止めるようにと云いつかって参った由、留守居の者が私の出立しゅったつの模様やそれから日頃の有様などをくわしく話して聞かせると、その男までつい貰い泣きをし、「ともかくもその事を殿に早くお知らせ申しましょう」と急いで帰った由、――やがてそちらへ殿が御自身で御迎えに往かれる事になりそうですからその御用意をなさいませなどと細々と書いてきた。あれほど此処へ来ている事をあの方にはお知らせしないようにと固く言い置いてきたものを、あの人達ったら何んの考えもなしに、その事ばかりでなく、おまけに有ること無いことまで大げさに話して聞かせたのだろう。ああ、何だか物々しい事になってしまいそうな、――と思いながら、ともかくもそうなったらそれまでと、湯の事を急がせて、御堂に上った。
 暑かったので、しばらく戸を押しあけて眺めやっていたが、此処は丁度山ぶところのようなところになっていると見える。周囲にはすっかり小さな山々がめぐっていて、それらが数知れぬような木々に覆われているらしいけれど、生憎あいにく月がないので、殆ど何も見わけられない……
 そうやって戸を押しあけたまま、御堂で初夜しょやを行っているうちに、何時なのだろうかしら、時の貝を四つ吹くほどになった。そのとき急に大門の方に人どよめきがし出したので、巻き上げていたみすを下ろさせて透して見ていると、木の間から灯がちらちらと見えてくる。やっぱりあの方は入らしったのだ。
 門のところまで、道綱は急いで御迎えに出て往ったらしかった。やがて戻ってきて、あの方が車にお立ちになったままで「御迎えにやって来たのだが、生憎きょうまでけがれがあるので、車から下りられない。何処かに車を寄せる所はないか」とおっしゃっていると取り次いだが、私はそれには全然とり合わずに、「何をお考えちがいなすって、そんな向う見ずな御歩きをなさいます。今宵だけでもと思ってわたくしは此処へ参っているのです。もう夜も更けておりましょう。早くお帰りなさいませ」と返事をさせた。それからそんな文の往復を何度となく為合しあった。一丁ほどの石段を上ったり下りたりしなければならないので、それを取り次いでいた道綱は、しまいには疲れ果てて、ひどく苦しそうな位にまでなった。その上、殿が、これ位の事がとりなせないのか、腑甲斐ない奴だな、などと大へん御気色が悪いと言って、いかにも切ながっていた。それを見ていた側の者たちはしきりに不便ふびんがっていたが、私は何処までも自分を守り通して拒絶したので、あの方もとうとう「よしよし、おれは穢れがあるからこのままこうしても居られない、車をかけてくれ」と[#「と」は底本では「とと」]仰ゃってそのまま御帰りなさるらしかった。私が覚えずほっとした気もちでいると、思いがけず、道綱までが、「まろもお送りして往きます。お車のしりへでも乗せて往っていただきましょう。そうしてもう二度とまろもこちらへは参りませんから」と言い残したぎり、泣き顔をして出て往ってしまった。どんな事になったってこの子だけは自分のものだと思っていたのに、まあ、この子まで、何んてむごいことを言うのだろうと呆れながら、私はもう物も言えずにいた。が、しばらくして、皆がもう出て往ってしまっただろうと思える時分になって、ひょっくりと道綱だけが戻ってきた。そうして「お送りいたそうとしましたら、殿がお前はこちらで呼ぶとき来ればいいと仰せになりました」と言うなり、もうたまらなくなったように、そこに泣き崩れていた。本当にどういうお気もちなのだか自分にもわからなかったが、「いくらあの方だってお前までをこのままになさりなどするものですか」と言いすかしながら、さまざまに道綱を慰めているうちに、いつか時は八つになっていた。こんな夜更けてからのお帰りを皆はお案じしながら、「路も大へん遠いのに、御供の人々も居合せたものだけしかお連れなさらなかったと見え、京の内の御歩きよりも人少なだったようでしたけれど――」などと言い合っていたが、私だけは無言のまま、強いてつれないような様子を見せていた。

 しかし夜の明けかかる時分、道綱がゆうべの事をしきりに気にしては「御門のところからでも御機嫌伺いをして参りましょうか」と言いつづけているので、少しいじらしい気もし、文をもたせて京へ立たせてやった。「ゆうべはずいぶん向う見ずな御歩きと存じましたが、夜も更けておりましたので、ただみ仏に無事にお送り下さるようにとお祈り申し上げて居りました。それにしても何をお考えちがいなすって入らっしゃるのでしょうか。大へん頭が痛みますので、いますぐ帰ることも難しいかと思われますが――」そんな事をなにくれと書いて、その端に、「途々みちみちも、昔御一緒に参ったことのあるのを思い出しながら参りましたが、ほんとうにあなた様の事ばかりお思い申し上げて居るのです。やがてわたくしも此処を下ります」と書き添えた。
 道綱を立たせてやってから、明け方の空をぼんやりと見やっていると、雲だか、霧だか、分からないようなものが、下の方から見る見るうちにいて来て、それが互にせめってはどちらとへともつかず動かされながら、そこいら一面を物凄いほど立ちこめ出していた。……

 昼頃、京から道綱は帰ってきた。「御留守でしたので御文は預けて参りました」という事だった。そうでなくとも、どうせ御返事はないに極まっていると私は思った。
 さて、昼はひねもす例のお勤をし、夜は主のみ仏にお祈りをする。周囲は山ばかりだから、昼間だって人に見られる気づかいはなかったので、みすなどもすっかり巻き上げさせたぎりだった。――ただ、ときどき思い出したように間近かくの木々から鳥が何やら叫びながら飛び立つのに、覚えずぎくりとして誰か人でもと、あわてて簾を下ろしかけては、っと見知らない鳥が二三羽っただけなのに気がつくような事もあった。そんな時など、それほどうつけたようになっているおりおりの自分の姿が、私にも何かしら異様に思われたりするのだった。

 そのうちほどなく身がけがれになったので、私は一度里へとも思ったが、すぐ思い返して、その間だけ寺から少し離れた或みすぼらしい山家に下りている事にした。それを聞きつけて、京から伯母などがやって来てくれた。そんな馴れない山家住いだものだから、何だかちっとも気もちが落着かずに五六日を過しているうちに、もう月の中程になってしまった。山陰の暗いところを蛍が小さく光りながら飛ぶのがしきりなしに見えた。里でまだしも物思いの少なかった頃には、ついぞ二声と続けて聞いたことのないのをうらめしがった時鳥ほととぎすも、いまはすっかり私にも打ち解けて、殆ど絶え間もなしにいていた。水鶏くいなだって、わが家の戸を叩いたかと思うくらい近くを啼いてゆく。――それにしても、何んとまあ物思い自身の巣くっているようなすみかなのだろうかしら。それは自分から思い立ってこうして居るのだから、誰も訪れてくれる者はなくとも、ちっとも辛いなどとは思いもしないし、むしろ気安くていいとさえ思ってはいるものの、只、歎かわしいと思うのは、こう云う物思いにもってこいのような栖をさえ自分から好んでせずにはおられなくなった自分の宿世すくせの切なさと、――それともう一つは、自分の死後に、日頃こうして自分の傍を離れずに長精進なども共にして頼もしげに見える此道綱が、他には力にすべき人も居ないのでさぞ世間にも出にくいだろう、それにこうして精進している自分と同じような粗末な物をばかり食べさせているので、この頃はよくのどにも通らぬらしいのを見るのが自分には辛くてしようがない。――そんな事を考え続けながら、こんな思いを自分もし又子供にまでさせて漸っとこうして自分が気安くしているのかと思うと、遂にはその気安さそのものさえ自分を苦しめ出してくるのだった。ああ、私は一体どうしたらよいのであろうか。……

 夕暮の入相いりあいの音、ひぐらしのこえ、それからそれにつれて周囲の小寺から次ぎ次ぎに打ち鳴らされる小さな鐘などをぼんやり聞いていると、何んともかとも言いようのない気もちがされて来るのだった。
 身の穢れている間は、一日中、何もすることがないので、端近くに出ては、私はそうやってしまいには自分を言いようもなく苦しめ出すのが知れ切っているような物思いばかりをしていたのだったが、或夕方も私がそんな端近くでいつまでもぼんやりしていると、後ろから道綱が気づかわしそうに「もうおはいりになりませんか」と私に声をかけた。子供心にも私に物をあんまり深く思わせまいとするのだろう。しかしもう少しこうして居たいと思って、そのまま私がじっとしていると、再び道綱が「何だってそんな事をなすって入らっしゃるのですか。お体にだってお悪くはありませんか。それに、まろはもう睡くってたまりませんから」と言いかけるので、私はついそんな子供にまで、まるで自分自身に向って言いでもするように、「お前の事だけが気になって、こうして長らえているのだけれど――」と言い出した。「どうしたら好いのだろうね。尼にでもなったら一番好いのかしら。この世に居なくなってしまうよりか、そうでもして生きていたら、お前にしたってお母あ様の事が気にかかればすぐ会いにも来られるし、それでいてあとはもうこの世に居ないものだと諦めてもいられるでしょう。――そうやって尼になったって、お前のお父う様さえ本当に頼りになるのなら、お前の事は少しも心配は入らないのに、それがどうにももどかしいような気がするので、こうやって物思いばかりしているのだけれど……」と、ひとりごとのように言い続けているうちに、ふとこんな言葉が、かわいそうに、此の子をどんなに苦しめているのだろうと気がついて、私は突然言うのを止めた。思ったとおり、道綱はもう返事もできない位、私の背後でやっと泣くのを堪えているらしかった。

 五日ばかりで身がきよまったので、また私は御堂に上った。ずっと来ていて下すった伯母もその日お帰りになって往かれた。その車がだんだん木の陰になりながら見えなくなって往くのをじっと見送ってたたずんでいるうちに、逆上でもしたのだろうか、私は急に気もちが悪くなってひどく苦しいので、山籠やまごもりしていた禅師ぜじなどを呼びにやって加持して貰った。夕ぐれになる頃、そんな人達が念誦ねんじゅしながら加持してくれているのを、ああまらないと思って聞き入りながら、年少の折、よもやこんな事が自分の身に起ろうなどとは夢にも思わなかったので、そうなったならどんなだろうなどと半ば恐いもの見たさに丁度このような場合を想像に描いて見たことがあったが、いまその時の想像に描いたすべての事が一つも違わずに身に覚えられて来るようなので、何だかものでもいて、それが自分にこんな思いをさせているのではないかとさえ私は思わずにいられない位だった。

 それほど、まるで何かに憑かれでもしたかのように、私が苦しみながら山に籠っているのを、京では人々が思い思いにああも言いこうも言っているようだし、のみならず、この頃では自分が尼になったというような噂までし出して居るらしかったけれど、私は何を言われようとも構わずにいた。それが善いにせよ、悪いにせよ、こう云うような私をそっくりそのまま受け入れてくれるのは父ばかりだと思えたが、この頃は京にいらっしゃらないので、田舎の方へすぐ便りを出して置いたところ、このほどその父から「そうして居るのも好いと思う。なるべく目立たぬように、暫くでもそうやってお勤をしている分には、気も安まるだろうから」などと書いておよこしになった。父にだって今の私の苦しい気もちは殆ど御わかりになって居そうにも見えないながら、それなりにもそう父のようにおっしゃって下さるのが一番私には頼りになるのだ。それにしても、私がこうして居るところをこの間御覧なすって帰られたぎり、まだ一度も御消息さえおよこしにならないなんて、まあ、あの方は一体私がどんなになったならば、私の事をもお顧みになって下さるのだろうか。そう思うにつけ、私はこれよりももっと深く山に入るような事があろうたって、どうして里へなんぞ下りるものかと、ますます思いつめて往く一方だった。

 或朝、道綱に無理に「魚でも召し上って入らっしゃい」と言いつけて、京へ立たせてやった。が夕方近くなって、もうあの子も帰ってくるだろうと思っていた時分、にわかに空が暗くなり、つめたい風が吹きはじめたかと思うと、あたりの木々の葉がさあっと無気味にざわめき出した。悪いときに夕立になったなと思う間もなく、すぐもうそこで雷がごぼごぼと物凄いような音を立て出した。――途中でこんな夕立に出逢って、まあ、どんな思いをしているだろうと道綱の上を気づかいながら、几帳きちょうのかげに小さくなって、私はじっと息をつめていた。おりおり山のずうっと彼方に雷の落ちるらしいのが、そんなにおびえた心には、すぐ目のあたりに落ちたのかと思われる位だった。――そんな中でもってさえ、私はいつの間にか、いっそこのままこうして自分が死にでもしたら、せめてはそんな痛ましい最後がおりおりあの方に自分の事を思い出させ、そのお心を充たしてくれるかも知れない――などと考え出していたが、しかし私はこうしているだけでさえ怖くて怖くて、顔も上げられずに、いつまでも腑伏うつぶしたきりになっていた。
 やがてあたりが薄明くなり出したのに気がついて、私ははっと何かからめたような気もちになりながら、そんなちょっとの間だけ、殆ど忘れ去っていた道綱の事を前よりも一層気にし出していた。それからほどなく、道綱は心もち蒼い顔をしたまま、無事に帰ってきた。「夕立が来そうでしたので、いそいで帰って参りましたが――」と、途中の山路で夕立に逢った有様を恐ろしそうに話した。
 こんどはあの方の御文をたくせられて来た。「したまたま山を出られる日があったら前もって知らせてくれ。迎えに往こう。何だかもうそちらで私の事なんぞはすっかりお見棄てらしいから、こちらから近寄るのはすこし怖い」などとある。私はそれをむさぼるように読んでしまうと、すぐ何でもないようにそれをそのまま打棄てて置いた。

 それから二三日後、道綱が「どうか先日の御返事を下さいませんか。又お叱りを受けるかも知れませんから、早く持参したいと思います」としきりにせびるのだった。私はもうあの方にそんな返事など上げる気もちにはなれそうもなかったので、何のかのとまぎらしていたが、しまいには道綱が可哀そうになって、何を書いたのやら自分でも思い出せないような事ばかりを書いて持たせてやった。
 すると、又、この間と丁度同じような時刻になると、突然夕立が来た。そうしてこの前よりももっとはげしいかと思えるような雷が鳴り出した。しかし今度は私は、みすも下ろさずに、横なぐりの雨に打たれながら木々が苦しみもだえるような身ぶりをしているのを、ときどき顔をもたげては、こわごわじっと見入っていた。そうして私は、もし自分が本当に苦しむことを好んでいるのだったら、こんなに何もこわがりはしないだろうにと思いかえしながら、だんだん長いことそれを見つめ出していた。ときおりそんな自分の目のあたりを、その稲光りとともに、何処かの山路でおびえている道綱の蒼ざめ切った顔が一瞬間ひらめいてぎったりするのだった。……
 が、そのうちに、私はそれにもめげずに、じっと空中に目を注いだなり、いつからずらずのうちに自分自身をその稲光りがさっと浴びせるがままに任せ出していた。あたかもそうやって我慢をしている事だけが自分のもう唯一の生き甲斐ででもあるかのように。……

 或日の昼頃、突然、大門の方で馬が気もちのいいくらい高くいなないた。それがどういうわけか、私のうちに言うに言われないような人なつかしさをよみがえらせた。……それからやがて人のおおぜい来たらしい気配がしだした。簾を透かして見ていると、立派な装束をした人々も数人見え、それが木の間をこちらへだんだん近づいて来るのだった。その中には関白殿の御子息の兵衛佐ひょうえのすけなどもお見えになっている。先ず、道綱をお呼び出しになって「これまで大へん御無沙汰申していたおびかたがた、こうやって参りました」と私の方へ取り次がせて置いて、そのまま物静かに木の陰にお立ちになって居られるその兵衛佐の御様子は、何とも言えず奥床しく、京ちかく覚えられる位であった。
「大へんお懐しいことです、どうぞこちらへおはいりなさいますように」と私はすぐお通し申させた。すると兵衛佐は勾欄こうらんにもたれて手水などされてから、こちらへおはいりになって入らしった。いろいろの物語のついでに「昔わたくしとお会いしたのを覚えていらっしゃいますか」と私がなつかしそうにくと「どうして忘れなどいたすものですか、確かに覚えて居りますとも。今こそこう心ならずも疎遠にいたして居りますが――」などとお答えなされて、それからそれへとその昔の頃の事を一しょになって思い出しながら、さまざまな物語を続けていた。が、そのうちに私がふいと物を言いかけて、何だか急に声が変になりそうな気がしたので、そのまま少しためらっていると、相手にもそれがおわかりになったものと見える。すぐには物もおっしゃられずにいたが、やっと兵衛佐は口を開かれて「お声までがそうお変りなされるのももっともの事とは思いますが、もうそんな事はお考えなさいますな。このまま殿がお絶えなされるなんという事があるものですか。どうしてそう御ひがみなされるのか、私共にはわかりませぬ。殿もこちらへ参ったらようく言って聞かせてやって呉れなどと仰せられていました」と私を慰めるように言われる。「何もあなた様にまでそう云う御心配をしていただかなくとも、いずれそのうち此処からは出るつもりなのですけれど――」と私がいつになくつい気弱な返事をすると、「それなら同じ事ですから、今日お出になりませんか。私共もこのまま御供いたしましょう。何よりもまあ、この大夫がときどき京へ出られては、日さえ傾けばまた山へお帰りを急がれるのを、はたで見ていましても本当にお気の毒なようで――」などと道綱の事まで持ち出して切に口説かれるけれど、私はもう何か他の事でもじっと思いつめ出したように、返事もろくろくしないようになった。そのうちに兵衛佐もとうとうお諦めになったように、しばらくまた他の物語などし出されていたが、それももう途絶えがちで、夕方になると、お帰りになって往かれた。

 そういう兵衛佐などにお目にかかるにつけ、ふいと京恋しさをたまらないほど覚えたが、それをやっと抑えつけながら、ただお懐しそうに昔物語をし合っただけで、つれなく京へお帰ししてからと云うもの、私が何とはなしに気の遠くなるような思いで数日を過ごしていたところへ、京で留守居をしている人のもとから消息があった。「今日あたり殿がそちらへ御迎えに入らっしゃるように伺いました。この度もまた山をお出なさらないようですと、世間でもあまり強情のように思うでしょうし、それに後になってから、もし山をお出なさりでもしたら、それこそどんなに物笑いの種になりますことやら」などと言ってきた。そんな世間の噂なぞどうだって構いはしないのだ、いくらあの方が御迎えに入らしったって、自分で出たい時にならなければ出やしないから、と私は自分自身に向って言っていた。丁度その日、私の父が田舎から上洛して来たが、京へくなりその足ですぐやって来て下すった。そうしてさまざまな物語をし合った末、父はつくづくと私を御覧になりながら「そうやって暫らくでもお勤をするが好いと私も思っていたが、大ぶ弱られたようだな。もうこの上はなるべく早く出られた方が好いだろう。今日出る気があるなら一緒に出ようではないか。」そんな事を父までがいかにも確信なされるように仰ゃり出すのだった。私はそれにはどう返事のしようもなく、まったく一人で途方に暮れてしまっていたが、そういう私にお気づきになると「じゃ、また明日でもやって来て見よう」と気づかわしそうに言い残されたまま、その日は父も急いで下山なすった。

 それから数刻と立たないうちに、大門の外に突然人どよめきがし出した。とうとうあの方が入らしったのだろうと思うと、私はますます一人でもってどうしたら好いか分からなくなってしまった。今度はあの方も遠慮なさらずにずんずん御はいりになって入らっしゃるようなので、私は困って几帳きちょうを引きよせて、その陰に身を隠しはしたけれど、もうどうにもならなかった。其処に香や数珠ずずや経などが置かれてあるのをあの方は御覧なさると「これは驚いた。まさかこんなにまで世離れていようとはおれも思わなかった。しかしたら山を下りられはすまいかと思ってやって来て見たが、これでは山を下りでもしたら罰があたるだろう。――どうだ、大夫、お前はこうしているのをどう思っているな」と傍にいた道綱をお振り向きになって尋ねられた。「大へん苦しゅうございますが、いたし方がござりませぬ」と道綱は打ち伏したまま答えた。「かわいそうに」とあの方はおっしゃられながら「じゃ、とにかくお前がお母あ様に出ていただきたいと思われるなら、車をこちらへ寄こしてくれ」とお言いつけなさりも果てぬうちに、もうあの方はお立ちになったままで、そこいらに散らばっていた物なんぞを御自分で取り集められ出した。そうしていつの間にか其処に寄せられたお車の中へそれをみんな入れさせ、それからその居間に引いてあった軟障ぜじょうまでも御はずしになり出していた。
 私が呆れて物も言えずにそれを見ていると、人々は互に目食めくわせしたりしながら、笑を含んで、そういう私の方を見守っているらしかった。「こうしてしまったら、此処をお出でになるより外はあるまい。まあ、み仏にもよくわけを申し上げると好い、それが作法のようだから――」などと、あの方は事もあろうにそんな常談まで仰ゃっていた。私はもう一と言も口がきけず、車の支度がすっかり出来てしまってからも、いつまでもじっと身じろぎもせずにいた。
 あの方の入らしったのはさるの刻頃だったのに、もう火ともし頃になってしまっていた。しかしまだ私がなかなか動きそうにもなかったので「よしよし、おれは先へ往くぞ。あとは、大夫、お前に任せる」と道綱にお言いになって、ずんずん先に出て往かれた。道綱は「早くなさいませ」と私の手をとって、いまにも泣きそうにしていた。こうなってはもうどうにもしようがない、みすみす山を出て行かなければならない私は、自分なんだか他人なんだか分らないようなほどになっていた。……

 大門を出ると、あの方も同じ車に乗って来られ、道すがら、いろいろ人を笑わせるような事ばかり仰ゃっていた。けれども、私は物も言う気にはなれなかった。一しょに乗っていた道綱だけ、ときどき笑を噛み殺しながら、それに内気そうにお答えしていた。
 はるばると乗って、やっと家に着いたのは、もうの刻にもなっていた。

 京では、昼のうちから私の帰る由を言い置かれてあったと見え、人々は塵掃ちりはらいなどもし、遣戸やりどなどもすっかり明け放してあった。私は渋々と車から降りた。そうして心もちも何だか悪いので、すぐ几帳きちょうを隔てて、打ち臥していると、其処へ留守居をしていた者がひょいと寄ってきて「瞿麦なでしこの種をとろうとしましたら、根がすっかり無くなっておりました。それから呉竹も一本倒れました、よく手入れをさせて置きましたのですが――」などと私に言い出した。こんなときに言わずとも好い事をと思って、返事もしずに居ると、睡っていられるのかと思っていたあの方が耳ざとくそれを聞きつけられて、障子ごしにいた道綱に向って「聞いているか。こんな事があるよ。この世を背いて、家を出てまで菩提ぼだいを求めようとした人にな、留守居のものが何を言いに来たかと思うと、瞿麦がどうの、呉竹がどうのと、さも大事そうに聞かせているぞ」とお笑いになりながら仰ゃると、あの子も障子の向うでくすくす笑い出していた。それを聞くと、私までもつい一しょになっておかしいような気もちになりかけていたが、ふとそんな自分に気がつくが早いか、それがいかにも自分でも思いがけないような気がしながら「私と云うものはたったこれっきりだったのかしらん」と思わずにはいられなかった。……
 その夜も更けて、もう真夜中近くになりかかった頃、あの方が急にお気づきになったように「どちらが方塞かたふさがりにあたるか」と仰ゃられ出したので、数えて見ると、丁度此方が塞がっていた。「どうしようかな」と、あの方もお当惑なすったように仰ゃって、「ともかくも、一緒に何処かへ移ろうじゃないか」と私をお促しなさるけれど、私は打ち臥したぎり、まあ、こんな事ってあるものかしらと、胸のつぶれるような思いに身を任せながら、しばらくは返事も出来ないほどになっていた。それから私はようやっとの思いで口を開きながら「また他の日にいらっしゃいませ。ほんとうにかたがお明けになってから入らっしゃると好かったのですのに」と諦め切ったように言った。あの方も、とうとう外にしようがなさそうに「例の面白くもない物忌ものいみになったか」とぶつぶつ言われながら、真夜中近くをお帰りになって往かれた。そういうあの方の後ろ姿は、私の心なしか、いつになくお辛そうにさえ見えた。
 翌朝、すぐ御文をおよこしになった。その御文も「ゆうべは夜も更けていたのでひどくつらかったぞ。そちらはどうだったな。はやく精進明けをしなさい。大夫も大ぶやつれていたようだから」と、いつもに似ずお心がこもっているようだった。こうやってまでして、山から下りたばかりの私をおいたわりになろうとなすって居られるあの方のお心ばえも、そんな生憎あいにくな物忌のために、しばらく私からお遠のきになって入らっしゃる間に、又昔のようにつれなくおなりになられそうな事ぐらいは、私にもよく分かっていた。しかし私には、それをそのままに任せて置くよりしかたがないのだった。

 そう云うあの方の御物忌のお果てなさる日を私は空しくお待ちしているうちに、やがて七月になったが、或日の昼頃に「やがて殿がおいでになる筈です、此方におれとの仰せでした」と言って、侍どもがやって来た。こちらの者も立ち騒いで、日頃から取り乱してあった所などをあわてて片付け出していた。私はそれを何かしら心苦しいような思いで見ていた。が、なかなかお見えにならないままに、日が暮れてしまったので、来ていた侍どもも「御車の装束などもすっかりなすってしまわれたのに、どうして今になってもお見えにならないのかしら」などと不思議そうに言い合っていた。そのうちにだんだん夜も更けて往くばかりだったが、とうとう侍どもが人を見せにやると、その使いの男が帰ってきて「今しがた装束をお解きになって御随身みずいじんたちもお引取りになりました」と告げ知らせた。
 その翌朝、道綱が「どうして入らっしゃらなかったのか伺って参りましょう」と自分から言って出かけて往った。が、すぐ戻って来、「ゆうべは御気分がお悪かったのだそうです、急にお苦しくなられたので、伺えなくなったと仰ゃっておられました」と私に言うのだった。そんなお心の見え透くような御言葉なら、いっそ何にも聞いて来なかった方がよかった位だったのに。同じ御返事にしたって、もっと私の気もちをいたわって下さるようなお言葉がお言いになれないものなのかしら。せめてもの事、「急に差し障りが出来たので往かれなくなってしまった。しか都合がついたらすぐ往こうと思っていたので、車の用意もそのままにさせて置いたのだが――」なんぞとでも言って下されば、まだしも私の気もちも好いものを。
 矢っ張自分の思ったとおり、少しはお心が変られるのかなと考えたのはあの時の私の考え過しで、あの方は相変らず以前のあの方だけだったのらしい。そうして私だけが――そう、私は少くとも、あの山から帰って来てからは、もう昔のような私ではなくなりかけているのだ。……
 その日もまた、私がそんな考えをとつおいつし出していたところへ、西の京にお住いになって居られるあの方の御妹から御文があった。見れば、まだ私があれからずっと山にこもっているものとばかりお思いになっていらしって、何くれと物哀れげにおっしゃって「どうしていつまでもまあそんなお淋しいお住いをなすって入らっしゃるのでしょう。そのようなお住いをも一向苦になさらずにお訪ねいたすお方だっておありでしょうに、つれないあの人はこの頃あなた様からもおれがちだとか。本当にどうして入らっしゃるかと大へん気になって居りますので、ちょっと――」と書いておよこしになった。そこで私はつい今もいま考えていたままに「山の住いはずっと秋までいたそうと思って居りましたのに、又こうして心にもない里住いをいたすようになりました。――仮りに山に入っても、私のような意気地のない者はまことに中途半端なものでございますこと。だが私も、今度という今度ばかりは本当に苦しい思いをいたしました。しかしそのような苦しい思いも、みんなあの方が私にお与え下さるものとおもえば反っていとしくて、或時などは自分から好んでそれを求めたほどでございました。どうぞこういう言葉を私がただ奇矯ききょうな事を申すようにお思いなさらないで下さいまし。そういうおりおりのうつけた私にはどうかいたすと、そんな苦しみが無ければないで、反って一層はかなく、殆どわが身があるかないかになってしまいはせぬかと思われる程なのでございますから。――只、それほどまで私にとっては命の糧にも等しいほどな、その苦しみのお値打ねうちにも、それを私にお与え下さっている御当人は少しもお気づきになって入らっしゃいませんようなのですもの。私はそれをば此頃あの方のために何んだかお気の毒に思っております位。――本当にこんな人並ならぬ気もちさえいたして居りますほどの私の心のうちは、誰やらの申しました『深山みやまがくれの草』とばかり思えて、いくら繁くとも誰方もお認めなさいますまいと思って居ります」と書いて送った。
 そう、本当に私はもう昔みたいにあの方のためになんぞ苦しむまいとは思わないが好いのだ。いくらあの方からお離れしようとも、もう自分がお離れできない事はよく私にも分かっている筈だろうから。まあ、こう云ったこの頃の私の切ない心もちと云ったら、あの根を絶たれて、もうすべての葉は枯れ出しながら、しかもまだそのか細い枝は以前のままに他の木の幹にからみついたままでいる、あの蔓草つるくさに似ているとでも言えようかしら。

 それからほどもない或夜の事、思いがけずあの方がひょっくりお見えになった。そうしてこの間の晩の事をしきりにお言いわけなすって、「今宵こそと思ったから、忌違いみたがえに皆が出かけると云うのを出して置いて、おれだけこちらへ急いでやって来た」などと仰ゃられていた。しかし私には、そう云うあの方のお心の中がすっかり見え透いてでもいるかのように、あんまり言いわけがましく仰ゃるのを反っておかしい位に思いながら、あの方をいかにも何気なさそうにおもてなしをしていた。
 そんな自分を自分でもずいぶん昔とは変ったなと思っていたが、流石さすがにあの方にもそう云った今の私がまるで別人のようにお見えになるらしく、それが何時も屈託なさそうにして入らっしゃるあの方までを、いくらか不安におさせしているらしかった。しかし、明け方になると、それをただその事の所為せいにでもなさるかのように、「勝手の分からぬ所に参っている者共はどうしているだろうな」と仰ゃりながら、何か気がかりなように、お帰りになって往かれた。

 それからまた数日の後だった。今度伊勢守になられた私の父は、また近いうちに任国へお下りにならなければならなかった。それでしばらくでも御一緒に暮らしたいと思って、あの方にはお知らせもせずに、私は父と共に或物静かな家に移った。そんなにまでしたのに、それから二三日した或ひる頃、急に南面の方が物騒がしくなった。「誰だろう、向うの格子を開けたのは」と私の父までも驚いて、皆と一しょに立ち騒いでいると、そこへ突然あの方がおはいりになって入らしった。そうしていきなり私の前に立ちはだかって、いくらか色さえお変えになりながら、傍らにあった香や数珠ずずを投げ散らかされ出した。しかし私は身じろぎもせずに、どんな事をなされようとも、じっとこらえながらあの方のなさるがままにさせていた。
 そんな心にもない乱暴な事をなさりながら、反ってあの方が私にお苦しめられになっているのが、どうという事もなしに、只、そうやってあの方のなすがままになっているうちに、私には分かって来たのだった。しかし御自分ではそれには一向お気づきなされようともせずに入らっしゃるらしかった。
 それからっとあの方は御自分にお立ち返りになられたかと思うと、何だってそんな事をなすったのかはよくお分かりにならぬながら、急にいままでの何もかもをほんの一時の御戯れだったとでも云うようになさろうとして、私にいつものような御常談なんぞを言われ出した。私も私で、あの方がかりそめにも私のためにお苦しめられになったなんぞと云う事をあの方にはお分かりにならせぬのが、せめてもの私の思いやりででもあると云ったように、さも何事もなかったようにしていた。しかしあの方はまだ何かがお気になると見え、御常談もいつもほど思うようには仰ゃれずにいらしった。
 それからその夜は、あの方は私といつになくお心をこめてお語らいになられ出した。私はといえば、そんな事ももう別に嬉しいとは思わずに、只、何もかもすっかりあの方のなさるがままになっていた。そうしてあくる朝になって、やっと平生のいかにも颯爽さっそうとしたお姿に立ち返えられながら、お帰りになって往かれようとなすっているあの方の後ろ姿を、突然、胸のしめつけられるような思いで見入りだしているのは、いつか私の番になっていた。……

底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:「改造」
   1937(昭和12)年12月号
初収単行本:「かげろふの日記」創元社
   1939(昭和14)年6月3日
※底本の親本の筑摩書房版は、創元社版による。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房、1977(昭和52)年8月30日、解題による。
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校正:松永正敏
2004年2月27日作成
2012年4月14日修正
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