一

 人影が動いた、と思ったら、すうっと消えた。
 気のせいかな、と前方まえ暗黒やみを見透しながら、早耳三次が二、三歩進んだ時、橋の下で、水音が一つ寒々と響き渡った。
 はっとした三次、欄干へ倚って下を覗いた。大川の水が星を浮かべて満々と淀み、くい[#「木+戈」、176-下-7]を打って白く砕けている。その黒い水面を浮きつ沈みつ、人らしい物が流れていた。
「や、跳びやがったな!」
 思わず叫ぶと、大川橋を駈け抜けて、三次は、材木町の河岸かしに立った腰を屈めて窺う夜空の下、垂れめた河靄かわもやのなかを対岸北条、秋山、松平の屋敷屋敷の洩灯もれびを受けて、真黒な物が水に押されて行くのが見える。
「この寒空に――ちっ、世話あ焼かせやがる!」
 手早く帯を解いて、呶鳴りながら川下へ走った。
「身投げだ、身投げだ、身投げだあっ!」
 起きいる商家から人の出て来る物音の流れて来るところを受ける気で、三次、ここぞと思うあたりから飛び込んだ。
 人間というものは変な動物で、どこまでも身勝手にできている。どうせ水死しようと決心した以上、暑い寒いなぞは問題にならないはずだが、最後の瞬間まですこしでも楽な途を選びたがるのが本能と見えて、夏は暑いから入水して死ぬ者が多いが、冬は、同じ自殺するとしても、冷たいというので水を避けて他の方法をとる場合が多い。だから、冬期の投身自殺はよくよくのことで、死ぬのにうそ真個ほんとというのも変なものだが、これにはふとした一時の出来心や、見せつけてやろうという意地一方のものや、狂言なぞというのは絶えてありえない。それに、たいがいの投身者が、水へはいるまでは死ぬ気でいても、いよいよとなると苦しまぎれに※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいて助けを呼ぶのが普通だが、今この夜更けに、大川橋の上から身を躍らして濁流に浮いて行く者は、男か女かはわからなかったが、よほどの覚悟をきめているらしく、滔々とうとうたる水に身を任せて一つ立てなかった。
 抜手を切って泳ぎ着いた三次、心得があるからとみには近寄らない。を凝らして見るとどうやら女らしい。海草のような黒髪が水に揺れて、手を振ったのは救助御無用というこころか。が、もとより、へえ、そうですか、と引っ返すわけにはゆかない。強く脚をあおって前に廻った三次、背中へ衝突ぶつかって来るところを浅く水を潜って背後うしろへ抜けた。神伝流で言う水枕、溺死人引揚げの奥の手だ。藁をも掴むというくらいだから真正面まともに向っては抱き付かれて同伴みちづれにされる。うしろへ引っ外しておいて、男なら水褌すいこんの結目へ手を掛けるのだが、これは女だから、三次、帯を押さえた。左手で握ってぐっと引き寄せ、肘を相手の腋の下へ挾むようにして持ち上げながら、右手で切る片抜手竜宮覗き。水下三寸、人間の顔は張子じゃないから濡れたって別条ない。それを無理に水から顔を上げようとするから間違いが起る。三次、女を引いて楽々岸へ帰った。
 岸に立って舟よ綱よと騒いでいた連中、総掛りで引き上げてみると、水を多量に呑んだか、なにしろ寒中のことだから耐らない。女はすでに事切れていた。
 近辺の者だから、皆一眼見て水死人の身許は知れた。材木町の煎餅屋渡世せんべいやとせい瓦屋伊助の女房お藤というのが、その人別であった。
 三次が指図するまでもなく、誰か走った者があると見えて、瓦屋伊助が息急いきせききって駈けつけて来た。伊助、初めは呆然として突っ立ったきり、足許の女房の死体を見下ろしていたが、やがてがっくりと膝をつくと、手放しで男泣きにきだした。集った人々も思わず提灯の灯を外向そむけて、なかには念仏を唱えた者もあった。
 そのうちに、
「畜生ッ!」
 と叫んで、伊助が起き上った。眼が血走って、顔は狂気のように蒼褪あおざめていた。
「己れッ! おふじの仇敵かたきだ――。」
 ふらふらと歩き出そうとするのを、三次が抱きとめた。
「おお親分か――三次親分、お騒がせ申して、また、あんたが引き揚げて下すったそうで、まことに、あいすみません、あいすみません。だが、こ、これはあんまりでげす。こうまでして証を立てられてみちゃあ、あっしも男だ。これから、これからすぐに踏ん込んで――。」
 かれていた水が一度にどっと流れ出るように、伊助はどもりながら何事か言いたてようとする。貧乏世帯でも気苦労もなく普段からしごく晴々していた若女房の不意の入水、これには何か深い仔細しさいがなくてはかなわぬと先刻から眼惹き袖引き聴耳立てていた周囲まわりの一同、ここぞとばかりに犇々ひしひしと取り巻いてくる。
 三次、素早く伊助の言葉を折った。
「まあま、仏が第一だってことよ。地面じべたに放っぽりかしちゃあおけめえ。あっしが通りかかって飛ぶ所を見て、死骸だけでも揚げたというのも、これも何かの因縁だ。なあ伊助どん、話あ自宅うちけえってゆっくり聞くとしょう。とにかく、仇敵討かたきうちってのは穏和おだやかじゃあねえ。次第しでえによっちゃ腕貸うでかししねえもんでもねえから、さあ行くべえ。死んでも女房だ、ささ、伊助どん、お前お藤さんを抱いてな――おうっ、こいつら、見世物じゃあねえんだ! さあ、退いた、どいた。」
 二人で死体を運んで、三次と伊助、材木町通りのなかほどにある伊助の店江戸あられ瓦屋という煎餅屋へ帰って行った時は、冬の夜の丑満うしみつ、大川端の闇黒やみに、木枯こがらしが吹き荒れていた。

      二

 蔵前旅籠町くらまえはたごちょうを西福寺門前へ抜けようとするかどに、万髪飾よろずかみかざ商売あきないで亀安という老舗しにせがあった。
 十八日の四谷の祭りには、女房お藤が親類に招かれて遊びに行くことになっていたので、以前まえまえからの約束もあり、今朝伊助は、貧しい中からいくらかの鳥目をお藤に持たせて、根掛けの板子縮緬いたこちりめんを買いに亀安へったのだった。
 女房とはいえまだ子供子供したお藤。かねて欲しがっていた物が買って貰えることになったので、朝早くからひとりで噪気はしゃいで、煎餅の仕上げが済むと同時に、夕暮れ近くいそいそとして自宅いえを出て行ったが、それが小半時も経ったかと思うころ、蒼白まっさおな顔に歯を喰い縛って裏口から帰って来て、わっとばかりに声を揚げて台所の板の間に泣き伏してしまった。
 吃驚びっくりした伊助、飛んで行ってお藤を抱き起し、いろいろと問いただしてみたものの、ただ、
口惜くやしい、くやしいッ!」
 と泣くだけで、お藤は何とも答えなかった。
 女房思いで気の弱い伊助が、途方に暮れておろおろしているところへ、間もなく、小間物屋亀安の番頭が、頭から湯気を立てて、えら権幕けんまくで乗り込んで来た。
 此家こちらのお内儀かは存じませんが、それ、そこにいる御新造――とお藤を指して――が、私どもの店で、二十五両もする平珊瑚の細工物を万引ちょろまかしたから、今この場で、品物を返すか、それとも耳を揃えて代金を払ってくれればよし、さもなければ、出るところへ出て話を付けて貰おう、それまではこのとおり、店頭へ据わり込んで動かないという言分。煎餅どころじゃない。瓦屋の一家――といっても夫婦二人だが――とんでもない騒動になった。
 正直一徹の伊助が、発狂するほど驚いたことは言うまでもない。お藤は、それでも、泣きながら首を振って、あくまでも身に覚えのないことを主張いいはったが、番頭はいよいよかさにかかる一方、お藤はよよと哭き崩れる。その間に立って気も顛倒てんとうした伊助、この時思い付いたのが、証拠の有無という重大な一事であった。
「ねえ親分。」と伊助は三次のほうへ膝を進めて、「しがない渡世こそしているものの、他人ひと背後指うしろゆび差されたことのないあっし、夫の口から言うのも異なものだが、彼女あれとても同じこと、あいつにかぎってそんな大それたことをするはずは毛頭ありません。こりゃあ何かの間違えだ。いくら先様が大分限だいぶげんでもみすみす濡衣ぬれぎぬせられて泣寝入り――じゃあない、突出されだ、その突出されをされるわきゃあない、とこうあっしは思いましたから――。」
 ぽん吐月峯はいふきを叩いた三次、
「だが伊助どん、待ちねえよ。ただの難癖言掛なんくせいいがかりじゃすまねえことを、そうやって担ぎ込んで来るからにゃあ、先方むこうにだってしかとした証拠ってものがあろうはず。」
「へえ。あっしもそこを突っ込みやしたが。」
「何ですかえ、その亀安の番頭は、お藤さんが珊瑚さんごを釣る現場を明瞭はっきり見たとでも言いましたかえ。」
「めっそうな!」
「そんならいってえ、何を証拠たてに、お藤さんにうたげえをかけたんですい?」
 なんでも番頭の話では、お藤が店へはいると間もなく、そこにあった珊瑚が一つ失くなったことに気がついたので、店じゅう総出で探したが見当らないから、この上はと理解を付けてお藤を奥へれて行き、一応身柄をさぐろうとしたら、お藤はその手を振り解いて泣きながら逃げ帰ったという。
「親分、身柄調べたあひどうがしょう。あっしもそこを言ってやりやした。瘠せても枯れても他人ひとかかあへよくも――。」
「でなにかえ伊助どん。そう追っかけてまでじ込んできたんだから、此家ここで、お前さん立会たちええのうえで、改めて身柄しらべをしたろうのう、え?」
「へえ。」
「品物は、出やしめえの?」
「親分、それが出ねえくらいなら、お藤も死なずに済むはず――。」
「なに? てえと、出たのか。その珊瑚がお藤さんの身柄から出たのか。」
「へえ。」
「ふうむ。それからどうした。」
「それからあっしも呆れて情なくなって、ずうっと口もきかずにいると、お藤は突っ伏したきりでいやしたが、夜中に走って出てとうとう――。」
「いや、お藤さんにかぎってそんな賊を働くなんてことのあるはずはねえが。」
「親分、あ、あんたがそうおっしゃって下さりゃあ、こいつも浮かばれます。」
 隅に蒲団を被せてある死人を返り見て、伊助は鼻をすすった。
「しかし伊助どん。」ぴりっとした調子で三次がつづける。「現物が出た以上、それが何よりの証拠だ。やっぱりお藤さんが盗ったものに相違あるめえ。その珊瑚はどうしたえ?」
「番頭が持って帰りやした。」
「のう伊助どん、つかねえことを訊くようだが、お藤さんは月のさわりじゃなかったかな。よくあることよ。月の物のさいちゅうにゃあ婦女おなごふっと魔が差すもんだ。ま、気が咎めて自滅したんだろ。とむれえが肝腎かんじんだ。」
 三次は立ち上った。そして、気がついたように、
「お藤さんのどこから、珊瑚が出ましたえ?」
「へえ。帯の間から。」
 という伊助の返事に、三次は蒲団をまくって、しばらく死人の帯を裏表審べていたが、やがて、と顔を上げると、
「伊助どん、この家に、固煉かたねりの鬢付びんつ伽羅油きゃらあぶらがあるかえ。」
「さあ――お藤は伽羅は使わなかったようですが。」
「うん。そうだろ。こりゃあちっと詮議してみべえか。もしお藤さんが潔白けっぱくとなりゃあ、おめえに助太刀して仇敵討ちだ。存外おもしれえ狂言があるかもしれねえ。まま明日まで待っておくんなせえ。」
 口唇へ付けるうしべには、かんうしの日にしぼった牛の血から作った物が載りも光沢つやも一番好いとなっているが、これから由来して、寒中の丑の日に水揚げした珊瑚は、地色が深くて肌理きめが細かく、その上、ことのほかりが固いが、細工がきくところから、これを丑紅珊瑚と呼んで、好事こうずな女たちのあいだに此上こよなく珍重されていた。ことに蔵前の亀安と言えばこの紅珊瑚の細工で売出した老舗、今日問題になった品もうし紅物で、細長い平たい面へ九にの字の紀国屋たのすけの紋を彫った若意気向き、田之助たゆう全盛の時流に投じた、なにしろ金二十五両という亀安自慢の売出物だったとのこと。
 伊助の口からこれだけ聞出すと、早耳三次、そそくさと瓦屋の家を出た。
 明けにも間がある。何かしきりに考えながら帰路かえりを急いで、三次は花川戸の自宅いえを起した。

      三

 こん亀甲きっこう結城ゆうき茶博多ちゃはかたの帯を甲斐かいの口に、渋く堅気に※(「にんべん+扮のつくり」、第3水準1-14-9)つくった三次、夜が明けるが早いか亀安の暖簾のれんを潜った。
 四十あまりの大番頭が端近の火鉢にもたれて店番しているのを見て、三次は、ははあ、これが昨日瓦屋へ談じ込んで行った白鼠だな、と思った。
 上りがまちへ腰を下ろしながら見ると、上り際の縁板の上へ出して、畳から高さ一尺ほどの紫檀したんの台が置いてあって、玳瑁たいまいの櫛や翡翠ひすい象牙ぞうげ水晶すいしょう瑪瑙めのうをはじめ、金銀の細工物など、値の張った流行はやりの品が、客の眼を惹くように並べてあった。台の上部うえは土間に立つと三尺ほどの高さで、かぶせ板が左右に一寸ほどみ出ているぐあいが、なんのことはない、経机の形だった。
 大店だから三次もなにかと出入りすることがあったが、いちいち店の者の顔を視覚おぼえているほどではなかったので、三次が、身分を明かして根掘り葉掘り訊き出すまでは、亀安のほうでも、昨日のことについては容易に口を開こうとはしなかった。
 が、煎餅屋の女房が身投げして、それについて花川戸の早耳親分が出張って来たとあっては、何もかも割って話さざるを得ない。
 昨日の午後、というよりも夕方だった。
 煎餅屋の女房が買物に来て、根掛けを選んでいるうちに、と見ると、今まで台の上にあったうし紅珊瑚が一つ足らなくなっている。で、小僧をはげましてそこらを捜して見たが見当らない。すると、前から来ていて買物を済まして、その時出て行こうとしていたおめかけふうの粋な女が、供の下女と一しょに引っ返して来て、こういう事件ことができた以上、このまま帰るのは気持ちが悪いから、気のすむように身柄を審べて貰いたいとかなり皮肉に申し出た。店では恐縮して、奥の一間で衣類なぞをてみたが、もちろん品物は出てこなかった。女はふんと鼻を高くして、下女を連れて帰って行った。そこで、自然の順序として、今度は、煎餅屋の女房をしらべさせて貰うことになったが、このほうは泣いて手を触れさせないばかりかそのうちに隙を見て逃げて帰った。身に暗いところさえなければ嫌疑うたがいらすためにもここは自分から進んで調べてくれと出なければならないところを、これはいよいよもって怪しいとあって、それからすぐに跡を追って家へ行って、おっと立会いの上で身体からだしらべてみたら、案の定、乳の下の帯の間から、失くなった珊瑚が出てきた。ともかく珊瑚が戻ったのだから、今度だけは内済にして、そのうえ別に強談ごうだんもしなかったという。あの内儀おかみがゆうべ自殺したと聞いて、番頭は不思議そうな顔をしていた。
 台の上には、他の物と一しょに、丸にの字の田之助たゆう珊瑚が五つ六つ飾ってある。大きさも意匠いしょうもみな同じようで、帯留の前飾りにできたものだった。三次は黙ってそれを凝視みつめていたが、そのうちに、
「その昨日の珊瑚もこのなかにありますかえ。」
 と訊いた。番頭が、ありますと答えると、三次は、
「どれだか、あっしが当ててみせよう。」
 と言いながら、一つ一つ手にとって指頭で触ってみたり、鼻へ当てて嗅いだりしていたが、やがて、そのうちの一つをてのひらへ載せて、
「これだろう、え?」
 と言って、番頭の眼の前へ突き出した。番頭はびっくりして、頷首うなずいた。
「へえい! こりゃ驚いた。どうしてそれだとわかりました?」
「ま、そんなこたあどうでもえやな。それよりゃあ番頭さん、珊瑚が無えとお前さんが言いだした時、煎餅屋の女房はどうしましたえ。」
愕然ぎょっとして突っ立ちました。」
でえの傍にかけてたろう、え?」
「はい。この台のそばに腰かけていましたが、珊瑚が失くなったと騒ぎだしたら、あわてて起ち上りました。」
 三次はしばらく考えた後、
「この珊瑚珠さんごだまあ毎日拭くんでがしょうな?」
「ええ、ええ、それは申すまでもございません。へえ、毎朝お蔵から出して台へ並べる時に、手前自身で紅絹もみきれ丹念たんねんに拭きますんで、へえ。」
 それにしては、今三次がたくさんの珊瑚の中からそれと図星を指した問題の品に、伽羅きゃら油の滑りとにおいが残っているのが、不思議であった。お藤の帯の裏にも、伽羅油の濃い染みがあったことを、三次は思い返していた。
 一つぐれれば、あとはわけはない。
 眉をしかめて思案にふけっているうちに、早耳三次、急に活気を呈してきた。見得けんとくの立った証拠ににわかに天下御免の伝法風になった御用聞き三次、ちょっと細工をするんだからとばかり何にも言わずに、番頭を通して奥から碁石を一つ借り受けた。それから、例のかまちの上の飾台だいの前に立って、何度となく離れたり蹲踞しゃがんだりして眺めていたが、やにわに台の下を覗き込んだ。
 その、一寸ほど出張った上板の右の裏に、こってりと伽羅油の固まりが塗ってある。冬分のことだから空気が冷えている。油はすこしも溶けていない。にっこり笑った三次、そこへ、くだんの碁石を貼りつけた。
 そうしておいて、ずっと離れたところに腰をかけて、番頭と向き合った。二、三人客がはいって来た。三次も客と見せかけるために、前へいろいろなくしこうがいの類を持ち出すように頼んで、それをあれこれと手にとりながら、声を潜めて言った。
「昨日煎餅屋の女房が来た時に出て行こうとした女、自身から進んで身柄取調べを受けた女、その女がお店で買った物を、あっしが一つ言い当てて見せやしょうか――こうっ、固煉かたねりの伽羅油だろう? どうだ?」
「ああそうでした。なるほどそうです。伽羅を一つお買い下すった。だが親分、どうしてそんなことがおわかりですい? それがまた、なんの関係かかりあいになるんですい?」
「その女は、昨夜あとからまた来たかえ?」
「いいえ。」
「よし。」と三次は何事か決心したように、「お前さん、その女の面にゃあ見覚えがあろうの?」
「さあ。べつにこれといって言いたてるところもございませんが、なにしろ奥まで通したんですから、見ればそれとはわかりましょう。」
「うん。やつが来たら咳払せきばれえして下せえよ。いいけえ、頼んだぜ。」
 番頭は眼で承知のむねを示した。
 それから二人は待った。
 番頭と三次、来るか来ないか解らない昨日の伽羅油の女を、ここでこうして、気永に待ちかまえることになった。
 来るか来ないかはわからない。が、三次は来るという自信を持っていた。しかし、いつまで経っても女は来なかった。
 半時過ぎた。一時経った。その間に、女の客も二、三人あった。けれど、それらしい女は影も形も見せなかった。三次はれだした。ことによると大事を踏んで、午後ひるすぎまでには来ないかもしれない、もうここらで切上げようかしら、こうも思ってはみたものの、死んだお藤や、伊助の狂乱を考えると、ここまで漕ぎつけて打ち切ることは、さすがに三次にはできなかった。
「へん、こうなったら根較べだ。」
 心の中で独言をいって、三次はいっそう腰を落着けた。黙ってじいと事件の連鎖つながりを見つめているうちに、三次には万事がわかったような気がした。今はただ、三次は待っていた。

      四

 雨だった。いつの間にか雨に変っていた。冷たい雨が音を立てて、沛然はいぜんと八百八町を叩いていた。
「好いお湿しめりだ、と言いてえが、これじゃあ道路みちぬかるんでやりきれねえ。いや、降りやがる、ふりやがる――豪気なもんだ。」
 こう言って三次が、煙草たばこの火玉を土間へ吹いた時、
「御免なさい。」
 という優しい声がして、おりからあおる横降りを細身の蛇の目で避けながら、唐桟とうざんずくめの遊人ふうの若い男がはいって来た。三次はそっちを一眼見たきり、気にも留めずにいると、
「女物の羽織紐を一つ見せて下さい。」
 と言っている。
 嫌な奴だな、と思いながら、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみへ当てた手の指の間から、三次、それとなしに見守りだした。のっぺりした好い男で、何となくそわそわしている。そこは稼業しょうばい、こいつあおかしいぞ、と、三次、早くも気を締めた。
 そんなこととは知らないから、番頭はいい気なもの欠伸あくびまじりに、
「へえ――い。」
 とか何とか答えながら、言われた品を取りに背後うしろへ向くと、男は思いきったように進んで、飾台だいの傍へ腰を下ろした。
 おやっと三次はきっとなった。番頭はまだうしろざまに紐の木箱を見立てている。
 と、男の手がするすると動いて台の下へ辷って行った。それも瞬間、まさか碁石とは知らないから台の下から取った物を見もせずに素早く袂へ投げ込むと、男は何食わぬ顔で澄まし込んだ。ちょうどそのとき、番頭が紐の小箱を持って振り返った眼の前へ並べたので、男は何か低声で相談しながら、好みの品を物色し始めたが、結局、気に入ったのが一つもないと言って、何も買わずに店を出ようとした。
 今押さえようか、と三次は思った。が、昨日来たのは女だという。してみれば共犯ぐるに相違ない。それならここはわざと無難に落してやって、跡をけて大きな網を被せるほうが巧者りこうだと考え付いて、三次、静かに男の後姿を凝視みつめていた。
 傘を半開に差しかけた男、風に逆ろうて海老のように身体からだを曲げて、店を出て、右のほうへ行くのを見届けてから、早耳三次、台のところへ飛んで行って下を探った。
 手についたのは伽羅油だけ。付けておいた碁石がない――。
 三次、ものをも言わずに、出て行った男の跡を踏んだ。
 まくった空臑からすねに痛いと感ずるほど、両脚が、太く冷たかった。男は半町ばかり先を行く。三次、撥泥はねを上げて急いだ。

      五

 一度旅籠町の通りへ出て、あれから森田町天王町、瓦町を一丁目まで突っ切ったから、さては橋を渡って浅草御門へかかるかなと思いながらいて行くと、代地の角から右へ折れて、川に沿うて福井町を酒井左衛門様の下屋敷前へ出た。
 これから先は武家邸が多い。こんな人間は要がないはずだ。が、左に新橋あたらしばしがある。これを渡れば神田日本橋とどこまでも伸されるから、これならまず不思議はあるまい。
 ところが、男はあたらし橋も渡らずに、佐竹板倉両侯の塀下を通って、佐久間町二丁目も過ぎ、角の番屋の前から右にきれた。
 松永町だ。二軒目に永寿庵という蕎麦屋そばやがある。そこまで行くと、男はいっそう傘をすぼめて、横手の路地へはいって行った。
 路地の奥、素人家作しもたやづくりの一軒建て、千本格子に磨きがきいて、ちょいと小粋こいき住居すまいだった。
 これへ男の姿が消えたのを見澄みすました早耳三次、窓ぎわへぴったり身を寄せて、家内なかのようすに耳を立てた。
 たださえ早耳と言われるくらいの三次、それが今は、その早耳をことさら押っ立てたのだから耐らない。逐一聞える。
「誰だえ、ああ、助さんかえ、お帰り、御苦労だったね。どうだったえ。」
 というだるそうな女の声。男が答えている。
「どうもこうもありゃあしねえ。しっかり握って出て来たまではいいが、途中で見りゃあ――へん、今日みてえなばかな目に遇ったこたあねえ。ああ嫌だ。嫌だ。」
「あら、どうしたのさ、この人は。貼り付いていなかったというのかえ?」
「いんや、あったにゃあった。あったにゃあったが、これだ、ほい、見てくんねえ。」
「嫌だよこの人は。ちょいとさ、こりゃあお前さん、碁石じゃないか。」
「碁石だよ。」
「碁石だよもないもんだ。おふざけじゃないよ。碁石と知って持って来るやつもないもんじゃないか。」
「へん、はじめから碁石と知って持って来たんじゃねえや。お前が言うにゃあ昨日のうちに細工せえくしてあるというから、俺あ一件のつもりで剥がしてきたんだ。なんだな、やい、お前は珊瑚玉あ猫婆きめやがって、この俺を一ぺいめようとたくらんだんだな。」
「助さん、何を言うんだよ。お前さんこそ真物ほんものちゃあんと隠しておいて独占めしようっていうんだろう。大方そんな量見だろうさ。」
「なにい?」
「おや、白眼にらんだね。おかしな顔だからおよしよ。忘れやしまいね、はばかりながらあたしゃ上総かずさのお鉄だ。仕事にぶきがあるもんかね。昨日あの店で平珊瑚を盗んで、買った伽羅油で台の下へ貼りつけといて、出がけに騒がれたからわざと身柄を見せて威張いばってきたのも、こうやって後から、お前さんに取りに行って貰うためだったのさ。」
「それを俺が、今日行ってみると、なるほど油が強いから貼り着いちゃいたが、珊瑚でなくて――。」
「この碁石かい。」
「お鉄。」
「助さん。」
ひょっとすると足がついたかもしれねえな。」
「こりゃあこうしちゃいられないよ。」
 この時、がらり表の格子が開いて、早耳三次が土間に立った。
「ええ、亀安から碁石を戴きに参りました。裏表に花川戸早耳三次の身内が詰めております。まずお静かにおられましょう。」
 とずいと上り込んで、
「え、こうっ、手前らあ何だぞ、人殺し兇状だぞ。黙れっ、やかましいやい。やい、お鉄、手前と一しょに店にいた女はな、あの時番頭に異なこと言われて突っ立つ拍子に、帯の上前が台の下に引っかかって、手前の貼った珊瑚が帯の中へ落ち込んだんだ。そのために盗賊の汚名を被ても言開きができず、ゆうべ大川へ身を投げた。いわば手前が殺したようなもんじゃねえか。そればかりじゃねえ、その夫も泣きの涙で死ぬばかりだ。これも手前が手にかけたも同然だ。帯に着いていた固煉かたねり油から手繰りだして、俺あすぐと手前たちの手品を見破った。だから台の下へ碁石を貼って、じつあ今朝から網を張って待っていたんだ。鉄に助か、どうだ、おそれいったかっ。」
「お前さんは、どこの誰だい。」
「俺か、俺あ早耳三次だ。」
 と聞いては悪党二人、さすがに諦めがいい。手っ取り早く神妙に観念してしまった。重敲じゅうたたきというから百のむち、その上伝馬町御牢門前から江戸払いに突っ放された。
 文久二年の話である。

底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1-13-21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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