『カラマーゾフ兄弟』のような小説を読むと、誰でも少なくも二日や三日は、作品の世界からぬけきれないで、平凡極まる自分の生活がいやになるに相違ない。ロシアの近代思想を縦横に解剖してゆく検事の論告に読みふけっている最中に、「どうだい近頃は」というような、この上ないコンベンショナル〔型にはまった〕な話しかたをしかけるものがあったら、その瞬間には、相手の男がどんなに大学者であっても、まるで煉瓦れんがのように無知な人間と映ずるに相違ない。
 いわんやそれを読んだ人が不幸にして、小説家であった場合には、どんなに身の程を知らぬ人が、どれ程きびしい督促を受けている場合にでも、二日や三日はペンをとる勇気を失うだろうと思う。「自分の書こうと思っていたことをみんな書いてしまわれた」という気がするに相違ない。自分をかえりみると、ごみのように不必要な、理由の薄弱な存在と映ずるに相違ない。
 ビーストンを読んでペンが萎縮いしゅくする人は、ひとり甲賀三郎氏ばかりでなく、これは、多少発達した感性センシビリティをもった(少なくも探偵小説を書いてみようと思う程度に発達した感性をもった)すべての生物に共通の現象であろうと私は考える。
『新青年』が、ある期間の間、しかもそうとう長期にわたる間、海外の傑作ばかりを紹介することにつとめてきたのは、意識的であるか偶然であるかは(編集者に失礼ながら)わからぬが、探偵小説を志す人の陥ったであろうイージーゴーイング〔無頓着〕な心持ちを抑えつけてしまう効果をもっていたことは争われない。もし、あれだけの海外の探偵小説を紹介する労力が省かれていたならば、日本の探偵小説は、きっと現在よりも遥かに低いレベルから出発して見苦しい発達をとげていたに相違ない。この点で、日本の探偵小説は、ほとんど最近にようやく勃興の機運を示してきたにもかかわらず、かなりフェーヴォラブル〔好意的〕な要約の下に生ぶ声を上げたものと言うべきであろう。
 しかし、何事にも相反する二面がある。危険を予感しているものが必ず危険を最も巧みに避けるものとは限っておらず、衛生のことばかり気にしている人が必ず病気にかからぬとはいえない。それのみか、あまり一つのことを気にしすぎると、かえってへまを演ずるものである。ムイシュキン公爵は、支那製の高価な花瓶をこわしはしないか、こわしはしないかと気にしたためにかえってそれをこわしてしまったのである。平気でいたら決して、こわす気遣いはなかったであろうに。
 それと同じことが探偵小説についても言えるように思う。あまり立派な作品を見たあとでは、作者がかたくなって、常にせい一ぱいのものをかいて読者をあっと言わせてやろうという気で張りつめて、その結果、凝って思案にあまるような作品ができあがる。それから、殺人や、犯罪では、どうも芸術的でない、もっと奇抜な、幻想の世界を織り出して見せるのでなければ、探偵小説が芸術の中で占める椅子が失われるというような考えから、かえって、造花のような力のない作品が生まれることにもなる。
 これらの傾向は、探偵小説の行き詰まり、早老を予感せしめる徴候の一つではないかと私は考える。限りあるエネルギーは最も経済的に、効果的に使用せねばならぬ。鳩を殺すには散弾で足りるとしたら、十二インチ砲をすえつける必要はない。東京から大阪へ行くのを目的とする旅行者は、東海道線を利用すればよいのであって、わざわざ横浜から船に乗りかえてアメリカ経由で地球を一周してゆく必要はないのである。私はまず第一に探偵小説家諸氏に今少しの余裕をもとめる。

 江戸川乱歩氏は、一作ごとに頭の禿げるようなことを考え出す人であると誰かが評したが、実際、思いつきが奇抜で、他人の追随を許さぬところは氏の作品は天下一品である。『心理試験』の中におさめられたもの以後では、私は、「屋根裏の散歩者」「一人二役」「踊る一寸法師」などを読んだに過ぎない。その中で、着想に全くの独創を示しているものは、何といっても「屋根裏の散歩者」である。あんな空想をえがいた人間は、恐らく日本に他にはなかろうと思う。
 しかも、氏が、『文藝春秋』で自白しているところによるとあれを書くまえには、じっさい自分の家の天井裏へ上がって実験したということである。フローベルが『サランボオ』をかくのにアフリカの地をふんで実地踏査をしたというような話は他にもたくさん例があるであろうが、天井へ上がって、板のすきまから、下の部屋をのぞいた人は恐らく世界に例がなかろうと思う。
「一人二役」や「踊る一寸法師」などは、着想においては、それほど奇抜ではなく、誰でも思いつける程度のものであるが、それをあれだけ念入りに、巧みに、書きこなす手腕は、大抵の人には期待できないことである。「一人二役」などは、随分ふざけたもので、最後のさげも見えすいているし、書いてあることは不自然そのものであるが、それをよくあれだけ精巧に途中で投げ出さずに組み立てていったものだと、その点にはほとほと感心する。
「踊る一寸法師」は「白昼夢」などとともに、ポー張りの怪奇談であって、やはり骨を折ったものであり、恐らくグロテスクな一種の芸術的アトモスフィア〔情調、趣き〕を浮かび上がらせている点では、氏の作品の中で最もすぐれたものかもしれぬが、読者は氏の作品に、今では、ほとんどインポッシブル〔(不可能な、信じがたい)〕な何者かを要求するくせがついてしまっている。そのために、「踊る一寸法師」のような、凝った、丹念にみがきをいれた作品に対しても、これきりかというような軽い不満をさえ感じはじめるのである。
 氏のように、落下物体が獲得するような加速度をもって、尖鋭、怪奇、意外、等の最高頂をめがけて突進してきた作家は、一度、方向転換して、余裕のある姿勢をとりなおさぬと抜きさしならぬキュ・ド・サック〔(cul de sac =窮地行き止まり、袋小路)〕へ頭を突っこんで動きがとれなくなりはしないかと考えられる。空気の振動の回数が増すと、一定限度までは高音に聞こえるが、一定限度を越すと人間の聴覚には音としてきこえなくなるという。氏の作品は、早晩そうした限度につきあたりはしないかといらざる取越とりこし苦労もしてみるのである。

 小酒井不木氏の作品は、私は、本誌〔『新青年』〕に出たものは全部よんでおるが、本誌以外に発表されたものは一つも読んでいない。しかしきくところによると、本誌に発表されたものは、氏の最も会心の作だということである。してみれば、本誌に出た作品だけをもとにして、探偵小説家としての氏を論ずるのは、氏の欠点を見逃すおそれはあっても、氏の長所を見逃すことにはなるまいと思う。
 氏の作品は、ほとんど正確に、発表の月と比例して、あとから出たもの程よくなっているように私は思う。したがっていちばん私が感心してよんだのは、新年号に出た「恋愛曲線」である。人間をも含む動物の器官が、適当なコンディションさえ与えれば、身体からだじゅうの本来の位置から取りはずしても、機能を営みつづけてゆくということは、他の書物でも読んだことがある。
 この実験生理学の真理の上に、氏は驚くべきロマンスを組みたてた。失恋した女の心臓へ失恋した男の血液を送って負と負との積は正になるという理屈から、この組み合わせの心臓の鼓膊こはくが「恋愛曲線」を描くというもっともらしい結論をつくりあげ、それを、共通の「恋仇こいがたき」の結婚の日の贈り物としようとする趣向である。しかしそれは、恋を失った二人の生命をもってつくられる贈り物なのである。
「しかし僕は、その曲線を現像することはできない。何となれば、僕はこのまま、僕の全身の血液を注ぎ尽くすつもりだから」というところまで読むと、我知らずはっとさせられる。それは「手術」の胎児を食う場面や、「痴人の復讐」の誤って健全な眼をくりぬくところなどと同じ味わいであるが、なかんずく、「恋愛曲線」の最後のところが、一種のエクスタシーの境地に達しており、したがって、以上三つの中で、この作を最もすぐれたものたらしめているように私は思う。
「虚実の証拠」「遺伝」等の価値については世評半ばしていたようであるが、私は、ネガティブの一票を投じる。
 題材や表現のしかたなどはちがっているが氏の小説にも、江戸川乱歩氏の小説にと同じ危機が迫ってきそうに私には思われる。それは精神病理学的興味の追及にあまりに急である点である。
 横溝正史氏の作品は、新年号の「広告人形」だけしか正確に記憶しているものはない。この作品は、江戸川乱歩氏の作品のある一面と実によく似たところをもっている。この作品に「江戸川乱歩」と署名がしてあっても、ある点まで私はわからずに読んだかもしれない。しかしこの作に代表されている江戸川氏の一面は、良い一面であるとは言えぬ。宇野浩二張りのぬらくらとした、冗舌そのもののような文章と、場末の寄席よせで見るような、デカダンの空気であり、それはまさに、江戸川氏からとりのぞいてもらいたいと思うものである。ただし、横溝氏の作には、この他にはこれと異なった味の出ているよいものがあったように、ぼんやり記憶している。
 城昌幸氏の作品は気分小説といえよう。題は忘れたが、古本屋から日記帳を買ってくる話、「意識せる錯覚」等は、いずれも、いわゆる芸術的小品といえる。しかしそれはあまりに「芸術的」でありすぎる。作者の目的とする効果があまりにデリケートにすぎて、しっかりした客観的な落ちつきを欠いている。時にはぜひ必要な筆触が作者の主観の中で独り合点されて省略されているような場合もある。どこかに鋭いものをもっていそうな感じがするが、未成品である。踏査未了の鉱脈のようなもので、はたしてそれが金鉱であるか銅鉱であるかは今のところ私にはわかりかねる。もっと描写に確実性を与えることが急務であろう。

 以上の四人は、少なくも最近においては、精神病理的、変態心理的側面の探索に、より多く、もしくは全部の興味を集中し尋常な現実の世界からロマンスを探るだけでは満足しないで、まず異常な世界を構成して、そこに物語を発展させようとするようなところが見える。そこで、この怪奇な、ポッシブル〔わずかでも可能な〕ではあってもプロバブル〔まず確実な〕でない世界の構成が、少しでも拙劣だと、作品の存在理由がよほど希薄になる。しかし、人間の心理には不健全な病的なものを喜ぶ傾向は、ほとんどインネート〔生来の〕なものだから探偵小説に、かような一派が生ずることは自然なことでもあろう。
 この不健全派に対して、健全派ともいうべきものが対立して考えられる。
 正木不如丘ふじょきゅう氏の作品のごときはその代表的なものである。氏の筆になったものは、いつか『朝日新聞』か何かに連載されたものと、今度の「赤いレッテル」だけである。氏は、まず何よりもスタイリストである。はじめて氏の文章を読んだ時に私は、夏目漱石のもつスタイルを連想した。こういうスタイルは、学者と芸術家との両面をそなえた人間に特有のもので、その特長は、一つ一つの概念がはっきりして使用されているということである。ぼかし円みが全くない。非連続的であり、多角的である。円を描くのにコンパスを用いないで、どこまでも多角形の角の数を増していって円に近づこうとするといった風である。
 しかし、その当時の印象と「赤いレッテル」から受けた印象とはだいぶ相違している。「赤いレッテル」のスタイルには、もう角がなくなっている。しかし、読んで明るい感じがする点は同じだ。精神病理的作品を読んだあとでこれをよむと重苦しい酒場の中から、せいせいした戸外へ出たような感じがする。あっさりした、それでいてかなり厚味のある筆触で叙述をすすめて最後の場面で軽いウイットでしめくくってあるところは余裕のある書きぶりである。もう少し、蒸留し、圧縮して陰影をくっきりさしたら、軽いながらも上乗の短編となったことと思う。
 甲賀三郎氏の名作という評判のある「琥珀のパイプ」は私は残念ながら読んでいない。しかし氏の作品では、「大下君の推理」「空家の怪」「ニッケルの文鎮」その他名は忘れたが幽霊のことをかいた怪談めいたもの、乞食こじきの出てくる話で、最後のシーンが丸ビルか何かになっている話などを、ちょっと回想しただけでもおぼえている。氏はいろいろな材料を色々な手法で書きこなす人であるが、アブノーマリティ・ハンターというような一面だけはないように思われるから、前の分類に従えば健全派に属すべきであろう。いちばん印象の新しい「ニッケルの文鎮」についていうならば、はじめからしまいまで、あの面倒くさい若い女の言葉で、ひどくこみった事件をさばいてゆく手際には感心した。
 しかし、それにもかかわらず、この作品の内容はあまりに複雑すぎる。これはあの三倍位の長さに引き伸ばして、もっとディテール〔細部、細目〕を書き加うべきであったと思う。あれだけの長さでは、筋だけを追うことしかできないために効果が半減されている。多芸多才、能文達筆の氏にとっては、堂々たる本格探偵小説の長編に精力を集中するのがいちばん適しているのではないかと思う。「ニッケルの文鎮」の中のラジオ小僧と私立探偵との知恵くらべの一くさりのごときはその片鱗へんりんをみせたものと言えるであろう。
 その他の諸氏についても言いたいことがあるが、疲れてしまったから、次の機会にゆずることにしたい。
 最後に一言希望をのべておく。
 いったい私は、自分ではかなり不健全な、病的な趣味を多量にもっているものがあり、かつこれは程度の差こそあれ、すべての人間に共通の現象であると思うのであるが、かかる趣味に対するアンチトード〔反発〕もまたすべての人に共通して存在するであろうと思う。ところが、現代の日本の探偵小説作家はあまりに不健全趣味に片寄りすぎているように思う。あまりに、人工的な、怪奇な、不自然な世界を追いすぎているように思う。かような傾向は、退廃期の特徴である。そしていかなる芸術からも避くべきである。
 蒸せかえるようなペンキ画の道具立て、白粉おしろいの女、安葉巻の煙と、カクテルの複雑な味――そういう雰囲気もたしかに一つの魅力をもっているではあろう。しかし、そういう雰囲気の中に長くつかっていると、外へ出て腹一ぱい酸素を吸いたい欲望が誰にでも起こってくるであろう。それと同じ意味において、私は健全派の探偵小説の今一段の発達を希望するのである。

底本:「平林初之輔探偵小説選〔論創ミステリ叢書2〕」論創社
   2003(平成15)年11月10日初版第1刷発行
初出:「新青年 第七巻第三号新春増刊号・探偵小説傑作集」
   1926(大正15)年2月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。