明石の淋しい檐下を辿つて來ると、おい泊らないかと後から呼び掛けるものがある、振かへると縁臺の上に寢て居た親爺が起きあがりつゝいつたのである、古ぼけた紙看板の吊つてあるみすぼらしい店だ、いくらで泊めるかと聞たら胡坐を掻きながら辨當付で廿七錢にまけてやらうといつた、辨當はいらんといふとそれぢや廿四錢でいゝといふことになつた、滅相に安いので遂泊る氣になつて覗いて見ると涼し相な一間がある、草鞋をとる、井戸へ案内してこゝで足を洗ふがよいといふ、足を洗ふと店先で茶を一杯汲んでそこへ膳を出す、さうして二階へ蚊帳が釣つてあるから何時でも行つて寢るがいゝといふのである、案に相違したが廿四錢の泊りだと思ふと不平はない。
濱で網を曳いて居るから行つて見たらどうだと亭主がいふので草履を借りて横丁から心あてに濱へ出る、闇い夜であるが海だけはぼんやり白んで淡路島がすぐ目の前に見えてともし灯がほのかに光る、淡路島は夜でも近いのである、海岸では唯わつ/\といふ騷ぎである、漁師は今一所懸命に網へたかつて居る所だ、驅け戻つてはつかまり/\よつさ/\と勢よく引つ張る、沖では聲を限りに叫ぶのが聞える、網がだん/\引き寄せられるに隨て沖の聲がだん/\に近づく、だん/\に近づいて網が太くなつて來ると漁師の活動が一層劇しくなる、網に引つからまつた鰯がしら/\と見えて來る、袋の中では今獲物が非常な混雜をして居るだらうと思ふ、あたりには人が一杯に群つて居る、小供等は手に/\小笊を持つて鰯のこぼれを拾つて居る、渚の浪にぬれながら網から盜んで居るのもある、明石の濱の小供が茲へ聚つて仕舞つたかと思ふ程うぢや/\して居る、沖からの叫び聲がとまると小船が二艘ついた、袋はもう引きつけられたのと見えて網を引く手も止つた、盥の中の鰌が人の足音に驚いたといふ樣に騷いで居やしないかと考る、闇さは闇いのに人越しだから何も分らないのだけれど騷いで居るやうな氣がするのである、漁師共は鰯を船の中へ掻き込みはじめた、細鱗は見るうちに船一杯になつた、砂濱へ掻きあげる小さな塚のやうに置いてある、此騷擾のうしろには老松が一列に聳えて、梢からは天の川が悠然たる淡路島へ淡く落ち込んで居る、靜かな宵である。
宿へかへると合宿の荷車引がほろ醉になつて饒舌つて居る、金物商で暫く四國を欺し廻つて居たが、今では此の通り發心して荷車引になつたのだといひながら剃りたての頭を叩いた、靜かな樣でも明石の瀬戸は潮時が惡いと千石積でも動きがとれぬ、いつか和船で垂水から渡らうと思つて酷い目に逢つたことがある、「阿波の鳴門か音頭が瀬戸か又は明石のいや水か」といふ位だからなといふ樣なことをいつて青い頭をまたぺたりと叩いた、蚊は明石の名物である。
(明治三十九年十月十二日發行、馬醉木 第三卷第六號所載)