烟分遠樹幾層横。脚下刀河晩忽明。捲地風來枯葉走。伯勞吐氣一聲々。
 苦吟漸く成る。何となく、うれし。ひとりにて飮む酒も、一種の味を生ず。詩は、よかれ、あしかれ、出來れば、うれしき也。苦しめば、苦しむほど、猶ほうれしき也。
 余は、國府臺の上、掛茶屋に腰かけ、杯を手にして、夕べの景色を眺め入れる也。ふと思ふに、この詩は、四つの俳句を一つの詩に集めたるやうなり。一つ俳句になほして見むとて、
一峯の數峯になりて時雨れけり
落葉して武藏野遠し水明り
飛ぶ鳥を追ひこす山の落葉かな
伯勞鳴くや石の地藏の首が無き
 よかれ、あしかれ、ともかくも、出來上りたり。我が生みたる子が醜ければとて、憎む人はあらじ。醜ければ、なほ更、不便に思ふべし。されど、物事には、程度あり。親は、概して子の愛に溺れて、所謂親馬鹿ちやんりんとなるが如く、藝術家でも概して親馬鹿的なるこそ、傍痛きことなれ。
 國府臺の國府臺とも云ふべき處は、兵營に占領せられたり。こゝは、小利根川と離れむとする臺の一端、四年前に開かれて、公園となりたる也。西方三四里の外に、東京市あれど、目立つは、たゞ凌雲閣と幾百の煙突が吐く烟と也。斜日、陰雲の中に入りたるが、雲をそむるほどには沈まず。遠き處は、早や暮煙低く横はる。一つに連なりし遠林、烟に分れて幾段にも見ゆ。小利根川、近く前を流る。冬の事とて、水落ち、洲出づ。見る/\、川が忽ちばつと明かになりぬ。斜陽が水を射る角度の具合にて、斯く明かになる也。赤に非ず、黄に非ず、白にあらず、唯※(二の字点、1-2-22)明かといふより外なし。山紫水明とは、平生唯※(二の字点、1-2-22)文字上に知りて、晩方になれば、水があかるくなるならむ位に思ひたるが、今はじめて、實際見て、その妙趣を知りぬ。『水明』とは、言ひ得て妙なるかなと、ひそかに感歎す。何處やらにて、伯勞鳴く。きび/\して、氣持よき聲也。
 余の思ひは、四百年の昔に馳せぬ。里見氏は、前後二度こゝにて北條と戰ひて、二度とも大敗せり。敗れたるが故に、云ふに非ず。こゝは、守るには不利なる地也。鎌倉の如きも、三方は山に圍まれ、一方は海に面して、要害のやうなるが、實は要害にあらず。前北條氏の末路以來、鎌倉に據りしものは、前後何人となく、みな破られたり。鎌倉は、守り口、七つもあり。多くの兵を要す。もしも一つの口が破れしならば、本營は、忽ち嚢中の鼠となる也。將棋さすにも、王を一方にとぢこもらせて、金將、桂馬、香車、二三の兵にて守れば、一寸完全なるやうなるも、こは、案外に、もろく敗る。それよりも、王を中央において、まさかの時は、どちらへでも、にぐるやうにするが、却つて安全也。鎌倉に據るは、この王が一隅にとぢこもるが如き也。國府臺は、鎌倉と異なりて、一方に小利根川をひかへたる武總平原中間の岡なり。房總の里見が武相の北條と戰ふには、必ず據りさうな處也。前に小利根川あるは、都合よきやうなれど、この川は、上流下流、どこからでも渡りよき川也。岡があまりに、だゝ廣く且つ低くして、何處からでも上るべし。要害の地にはあらざる也。
 はじめの戰は、一方は、足利義明が主にして、里見義堯、其子義弘、之に副たり。一方は、北條氏綱、其子氏康が大將也。この時、北條勝ちて、義明戰死し、義堯、義弘は敗走せり。後の戰は、一方は義弘が主にして、太田三樂齋、之に副たり。張本人は、太田新六郎也。一方は北條氏康、其子氏政が大將也。
 前戰は略して、後戰をしるさむに、太田新六郎は、太田道灌の子孫也。身のたけ、六尺に餘り、力三十人を兼ねたる剛勇無雙の士也。江戸城主遠山丹波守の女婿となり、江戸城に同じく住み、共に北條氏の麾下に屬しけるが、滿腔の野心、人の下に立つを甘んずべくもあらず。謀戰を企つ。あらはる。にげて、同族なる岩槻の太田三樂齋に據り、共に里見義弘をかつぎて、こゝに國府臺合戰を起しける也。
 わが女婿が謀叛したりとありては、遠山丹波守は、北條氏に對して、相すまず。殊に、其城、敵に近し。葛西の富永四郎左衞門は、なほ更近し。二將、相謂つて曰く、人に先を驅けられては、屍の上の恥辱なりと。この『屍の上の恥辱』の語を味へ。日本の武士道の一端が迸れる也。使を先陣の北條綱成にやりて、先登を申しうくると言ひやる。綱成、快諾す。其子常陸介、懌ばず、松田左衞門佐も懌ばず、共に之を非難しければ、綱成打ち笑ひ、われ先陣の命をうけたる上は、決して他に讓るべきにあらず。されど、松田殿も、拙者も、これまで幾度となく先陣をつとめたり。今後も勤めざるべからず。凡そ戰に臨むの法は、己れの功を專らとせず、敵を破るを功とす。里見太田は、關東の強敵也。遠山、富永も、當家譽れの侍大將也。その遠山、富永が奮躍して先陣を望むに、己れの功を專らにせむとして、其鋭氣をくじくべきに非ずといふに、常陸介も松田も、成程と感服す。さすがに、綱成は、普通の武將以上に超脱したる一種の達人也。狡猾の趣のみを解する者は、或ひは、之をこすいと云ふなるべし。
 こゝに兩軍の兵數を記せむに、北條の方は二萬騎。一方は、里見六千騎、太田二千騎、都合八千騎に過ぎず。衆寡相敵せず。何か地勢の利をたのまざるべからず。されど、國府臺は、さまで、たのみにならざる也。
 遠山、富永の二將は、先陣となりて、市川の方より進んで大いに戰ふ。先陣やぶる。後陣來り助く。北條の軍に、清水太郎左衞門といふ剛勇の士あり。老いたれど、無雙の大力なり。樫棒をふりまはして、手當り次第に、薙ぎ倒す。張本人の太田新六郎、之と鬪ふ。いづれも大力なるが、武器に差あり。新六郎の太刀は、清水の樫棒に折られたり。殘念でたまらず、ひきかへして、八尺の鐵棒をもち出し來たる。清水をさがせど、見えず。今は敵を擇ぶべきにあらずとて、見る間に、十八九人を薙ぎ倒す。恐れて近づくもの無し。遠山丹波守馬を進めて、新六郎に向ひ、今日の振舞見事なり。さりながら、なまじひの軍して、雜兵の手にかゝらむより、兜を脱いで來たるべし。わが功にかへて、舊領安堵ならしめむと云へば、あな、事も愚かや。斯かる大事を思ひたちたる身が、何の面目あつて、再び南方に歸るべき。一死は素よりの覺悟なり。いつにかはらぬ御志は、かたじけなけれど、うつも、うたるゝも、戰場の習ひ、御免候へとて、一撃の下に、之をうちつぶす。富永も討死せり。斯くて、先陣の二將は、屍の上の恥辱はうけざる也。北條の軍、終に大いにやぶれて引き退く。氏康、川を渡りて一つになり、綱成の相圖如何にと待つ。綱成は、敵のうしろへまはりたる也。
 先陣を遠山、富永二將にゆづりたる達人の綱成は、敵のうしろへ廻らむとの奇策をすゝむ。氏康、大いに喜び、氏政をさし副へぬ。松田もその中に在り。この一軍、上流の迦羅鳴起の渡をわたる。今の松戸附近也。晩に及びて、雨ふり、風寒し。皷躁して、敵の不意を襲ふ。氏康の軍、それと知りて、攻め上る。さすがに猛き義弘も、三樂齋も、前後に敵をうけて、終に大いに敗れぬ。
 義弘の馬は、敵の矢に斃れたり。今はこれ迄と覺悟しけるに、安西伊豫守、馳せよりて、馬より下り、義弘に乘らしめて、ひとり留まりて討死せり。かくて、義弘は、わづかに身を免れたる也。
 三樂齋もいたく傷を負ひたり。清水太郎左衞門の子、又太郎に組みふせらる。又太郎、首かゝむとて、かき得ず。三樂齋いらつて、其方は、うろたへたるか、わが首には、咽輪あり。ゆるめて掻けといふ。いみじくも指南せられたり。あつぱれ剛なる最期の際、感じ入る。さらばとて、咽輪をおしのけむとする處へ、舍人孫四郎、野本與次郎の兩人來りて、又太郎を引倒し、三樂齋に首をとらせぬ。かくて、三樂齋も漸く免るゝことを得たる也。張本人の新六郎も、創は負ひたれど、奮鬪して、のがれ去れり。
 これ實に永祿六年正月八日の事也。余は、『關八州古戰録』によりて書きしるしぬ。言葉も、そのまゝに取れる所あり。『屍の上の恥辱』の語も、或は『古戰録』の作者より出でたるべけれど、それにしても、作者が當時の武士一般の感情を言ひあらはしたるもの也。
 茲に氣の毒なるは、里見の侍大將、正木彈正左衞門也。山角伊豫守と組んで、馬より落ちて、上にはなりたるが、落つる拍子に、右の手を突折りたり。左の手のみにては、どうすることも出來ず。曳々聲を出して押付くる間に、終に下よりつき殺されたるは、如何に殘念なりけむ。
 なほ物の哀れをとゞめたるは、里見長九郎弘次の身の上也。『鴻臺後記』に據るに、月毛の馬に乘り、母衣かけて、ひとり落ちゆきしに、松田左京進康吉、追ひつき、剛の者なれば、難なく組みふせ、首かゝむとして躊躇す。弘次は、里見一門の大將也。その首をとらば、非常なる手柄也。左京進は、何故に躊躇したるぞ。あゝ他なし。弘次は、大將は大將なれど、これが初陣にして、年わづかに十五、紅顏花をあざむくばかりの美少年也。強敵をえらぶ習ひの武士、しかも物のあはれを知るの武士、いづくんぞ赤子の腕をねぢるに忍びんや。助けばやとは思へど、味方も多く進み來りぬ。われ助くるとも、他の人之を殺さむ。さらばとばかり、腹には涙、劍は武士が浮世の役目、已むを得ず、首うちおとしけるが、つく/″\無常をさとりて、國へもかへらず、そのまゝ出家して、名を浮世と改め、懇に弘次の菩提を弔へりとぞ。熊谷直實が敦盛に於けると、前後好一對の美談也、この國府臺の公園の一端にある墓は、即ちこの弘次の墓也。傍に露出せる石棺は別にて、上古の制也。
 北條方の事を云へば、氏康は、綱成父子、松田の三人をよびて、大いに之をねぎらひ、今度の戰捷は、汝等三人の力によれり。汝等三人は、我家に於ける漢の三傑なりと賞揚しけるとかや。
 國府臺にては、二度とも敗れたれど、義弘は智勇の名將也。之を先きにしては、安房より進んで、三浦にて北條を破り、海を隔てて、三浦半島を占領せり。國府臺の敗後、北條氏政が佐貫に攻めよせたるに、大いに之を破りて、氏政をして、わづかに身を以て免れしめたり。一勝一敗、義弘は、名將たるに恥ぢざる也。この國府臺の戰の如何ばかり烈しかりしかは、兩軍の死者を數へてもわかるべし。曰く、北條方は三千七百六十人、里見太田方は五千三百二十餘人、凡そ全軍の四分の三也。
 一瓶の酒つきむとして、肴のするめは、多くあまれり。茶屋を守るは、老女一人、針仕事をなす。小猫、その傍に眠る。忽ち飛びたちて逃ぐるを何かと見れば、小犬來れる也。進んで我前に來たる。ふと思ひつきて、するめを與ふること幾回。景色を見入りて、與ふることを忘れしひまに、はや、いづくにか去りぬ。左の袂の方にて、にやアといふ。犬を好みて、猫を好まざれども、さまで嫌ひにもあらず。皿を見れば、するめ猶ほ殘れり。ありツたけ與へけるに、するめ盡きて、猫も亦去りぬ。
 臺を下りて渡舟に乘る。舟夫は、額のつんだる、正直さうな男也。どうして、このやうに水が少なきぞと問へば、いつも、今頃は、この通り也。山がこほる故、水流れ出でず。氷とくる頃には、また水が多くなるなりといふ。明朝は大いに霜がおりて、寒うござりますぞと話しかくるに、なに故ぞと問へば、今日のやうに、どんよりして、東から風がふく時は、明朝は必ず寒きなりといふ。さびしき冬の夕暮、客も一人、船頭も一人。蘆荻、洲に根本まであらはして、枯れながら立てるに、『故壘蕭條蘆荻秋』の句が、場所がら、切に感ぜられぬ。
 上流さして、右岸の堤上を歩す。西天、山の如き一簇の雲を餘して、他の雲は、みな色を生ず。その山の如き雲も、中部は、薄きと見えて、富士の形、黒くあらはれ、其周圍は赤し。川上には、赤城山あはく見ゆ。日光山は男體のみ見えて、大眞子や、女貌や、雲の山の中に沒す。われ國府臺を顧みて、いとゞ感慨に堪へず。日清戰役、日露戰役ありて、武士道とは何ぞやなどと、やかましくなりたるが、武士道はすべてこの國府臺の戰の中にも、ふくまれたり。遠山、富永が屍の上の恥辱なりとて、死を決して先登をのぞみしも、綱成が功をゆづりしも、而して敵の不意を襲ひしも、安西伊豫守が我馬を主君にゆづりて、主君の身代りに立ちしも、三樂齋が死にのぞみて從容として敵に咽輪を教へしも、すべて武士道の精華也。武士道の要は、これ等に盡きたり。されどなほ逸すべからざる一大事件あり。松田左京進が已むを得ず赤子の腕をねぢて、無常をさとりし事也。腹に涙あるとは、かゝる事也。智も勇も、義も禮も、この涙ありてこそ也。之なくば、如何に猛きも、猛獸と異なる所なき也。義の爲には、水火も避けず。されど武夫は、ものの哀れを知る。これ日本の武士の特色也。
 遠く古人に求むるまでも無し。近くは廣瀬中佐が武士道の權化也。日露戰役に於ける旅順閉塞の擧、壯烈鬼神を泣かしむ。而して、中佐は、船が水につかるまでも、部下の兵曹をさぐりて止まざりき。嗚呼、壯烈も、この涙ありての事也。

底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年8月25日作成
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