夜光命も、十口坊も、第一回の夜行に閉口したりけむ、千葉に向つて第二回の夜行を爲したる時は、來り會せざりき。
 同勢五十有二人、本所江東橋畔なる第三中學校の門前に相會し、午後七時半を以て發足す。東京より千葉まで、十里と稱す。陽春四月、寒からず、暑からず、遠足には誂向の好時節、唯※(二の字点、1-2-22)月は無かりき。
 殿軍の幹部には、畫家の岡本一平氏加はりて、異彩を放てり。晩食せざりしにや、蕎麥屋に飛込むものなどありて、幹部よりもおくれたりしが、それも後の雁やがて先になりて、江戸川を打渡り、市川の町をも過ぐ。もう落伍者は無かるべしと思ひの外、息を切らして走りくる少年あり。苗字を問へば『長瀬』、年を問へば『十六歳』といふ。『如何にして斯くは後れたるぞ』と問へば、『三四人一と群れとなり居りたるが、いづれも草鞋を買はむとて、一店に入る。普通一般、草鞋は直ぐ穿けるやうに仕立ててあるものなるに、こゝの店にては、二條の紐が眞直になり居るまゝ也。店主が仕立てて呉れるを、我れ先にと早く買ひたるものは、早く發足す。余は一番あとに取殘されたれば、斯くおくれたるなり』といふ。『旅は路伴れ世は情といふに、さても路伴れの甲斐もない人達かな』とて、少年をいたはれば、少年なつかしがりて、裸男に寄り添ふ。『しかし君、そこが旅の修業なり。人を怨むべきに非ず。妄りに先を爭ふべきにもあらざるが、若し人に後れざらむとならば、なぜ自から仕立てざるぞ。指を銜へて店主の仕立つるを待つは、迂闊も亦甚しからずや』と勵ましつゝ行くに、『この黒いものは何ぞ』と少年叫ぶ。見れば、地上に黒物蜿蜒たり。提燈さしむくるより早く、岡本氏微笑しながら、『何だ、前行者が歩きながら小便したるなり』といふに、一同覺えず、どつと笑ふ。
 中山を過ぎて、船橋にいたる。八兵衛の名に負ひたる成田參詣道中の温柔郷なるが、夜ふけたれば、寂として管絃の音も聞えず。大神宮の石段を上りて休息し、一同握飯を食ふ。午後十時に至りて發足す。
 馬加まくはりを過ぎ、檢見けみ川を過ぎ、右手に海を見るに及びて、頓に目覺むる心地す。顧みれば、空一面に赤く、恰も遠方の火事の如し。されど火事には非ず。さすがは東京なり。滿都の電燈の光、七八里隔たりても、斯ばかり明かに見ゆる也。行手は唯※(二の字点、1-2-22)眞つくらにて、千葉の所謂『光』は見えざれども、最早遠からず。裸男少年に向つて、『これから千葉まで走らずや』と云へば、『走らむ』といふ。さらばとて、共に走る。凡そ十町ばかりも走りけむ、『先生やめて下され。さつき走りし疲れもあれば、もう走れず』といふに、走ることを止めて、殿軍と一所になり、千葉の町に入りて、定めたる旅店に著きしは、恰も午前四時、最先着者より後るゝこと二時間也。
 朝食の後、裸男演説して、一同ひと先づ解散す。更に幹部、其他の有志と共に千葉中學校に至りて演説す。師範學校の生徒も來り聽けり。千葉中學校の校長は海鹽欽衛といふ人也。我等の爲に導をなして猪鼻臺に上る。千葉氏代々の城址にして、千葉第一の遊覽地、老松參差として、千葉の市街に俯す。東京灣※(「水/(水+水)」、第3水準1-86-86)茫として盡くる所を知らず。富士山は霞にかくれ、鹿野山は淡く横はる。殊に海に近くして、洲渚漁村のさま、人をして目幾んど應接に遑あらざらしむ。
 停車場までも、校長に送られて、千葉を辭す。雨至る。中山にて他の幹部の人々とも別れて、一平氏、甥の政隆、長男、次男、裸男、都合五人、汽車を下り、先づ驛前の一亭に午食し、それより法華經寺に詣で、更に市川の桃を見て、市川より電車に乘れり。
 法華經寺は、富木播磨守常忍の開基、日蓮上人の開山に係れる大伽藍、日蓮上人最初轉法輪の道場、本堂宏大にして五重塔もあり。六百年前の建築そのまゝに殘れるもあり。名だゝる泣銀杏、老いて大也。附近の桃林、なほ花を帶びたり。境内には櫻花咲き滿つ。雨に一層の幽趣加はりて、げに浮世の外の清淨界の心地したりき。
 中山と市川との間は、桃幾んど連續せるが、八幡宮のあたりは途絶えたり。この祠の前、千葉街道に接して、凡そ二十間四方の竹藪あり。これ八幡の八幡不知とて有名なるもの也。一説に曰く、古き墓ならむと。又一説に曰く、此地行徳の入會地いりあひちにて、八幡村民妄りに入るべかざるを以て、八幡不知と名づけたりと。裸男は前説を取らむとするもの也。
(大正五年)

底本:「桂月全集 第二卷 紀行」興文社内桂月全集刊行会
   1922(大正11)年7月9日発行
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年8月26日作成
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