ハイネが何處かで、自分は獨逸人の頑固なのは大嫌ひだが、獨逸語は大好きだ、詩の言葉としては世界中で一番美しいだらうといふやうな意味の事を言つてゐたと記憶する。
 この頃、僕も獨逸語がすつかり好きになつてしまつた。しかし僕の獨逸語ときたら、少年の頃、習つたきりなのでほとんど忘れてしまつてゐるが、それでも辭書を引きさへすれば、どうやら意味ぐらゐは通じる。そんな興味も手つだつてか、この頃獨逸語の本を讀む時ぐらゐ愉快なことはない。いま、リルケを讀んでゐる。そのうちヘルデルリン、ノヴァリス等も讀まうと思つてゐる。
 リルケの「マルテ・ラウリッヅ・ブリッゲの手記」を最近讀み出してゐるが、いいものであると思ふ。獨逸語の勉強かたがた、モオリス・ベッツといふ人の佛蘭西語譯を傍に置いて、すこし譯して見てゐる。
 そのベッツの譯が出た時、ジィドの「地の糧」と比較されてかなり問題にされたらしい。しかし、その比較されたのはどういふ點か。なるほど兩者とも、詩とも小説ともつかないものである。それにまたエドモン・ジャルウの言ふやうに、共に「遊離」の文學である點が似てゐないこともない。しかし、兩者の雰圍氣はいちじるしく異ふのである。(ジィドもこの「マルテの手記」には甚だ興味をもつてゐるらしく、一九一一年この原書が出版された當時、いちはやくその斷片を若干「N・R・F」誌上に譯載してゐるとはいへ……)――この書は、丁抹の落魄した若い貴族マルテ・ラウリッヅ・ブリッゲが巴里に漂着して、そこで貧困や病苦と戰ひながら、まつたく一人きりで暮らしてゐるドキュメントである。巴里に滯在してゐた當時のリルケ自身の經驗が骨子となつてゐることは疑へない。
「巴里くらゐ人が容易に孤獨で暮らしてゐられる町はない。通行人がたいへん面白い。私は屡々、町のなかで非常に奇妙な顏立をした人に出會ふと、すぐそれに心を惹かれ、いつまでもそれに就いてあれやこれや考へた。或る夕方、私は一組の戀人たちとすれちがつた。非常にみづみづしく、若くて、幸福さうだつたので、私の方ですつかり面喰つてしまつたほどだつた。私は幸福の風に文字どほりに煽られた。それから私は、その戀人たちのことを何遍となく思ひ出した。數週間といふもの、私は彼等の幸福を生きてゐた。」晩年、リルケがさういふ話をある人にして聞かせたさうであるが、まあ、さういつた插話でこの手記は滿たされてゐるのだ。中にはずゐぶん氣味の惡い話もある。クリストフ・デトレエヴ・ブリッゲの詩の一節などは、いかにも「オペラ」の詩人コクトオの好きさうなものである。
 コクトオと云へば、獨逸を追はれた文士たちがアムステルダムから出してゐる「ザンムルング」といふ雜誌の最近號に、コクトオ自ら獨逸語で書いた詩が載つてゐるのを讀んだ。「三文オペラ」の作曲家クルト・ワイルに獻じてゐる。子供のときの獨逸語を覺えてゐるきりなので、たいへん幼稚なもので恐れ入るが、君にはひどく氣に入つたらしいので、君に捧げるのだとことわつてある。讀んでみると、なるほど子供の使ふやうな無邪氣な獨逸語で書かれてゐて、僕なんぞにも樂にすらすらと讀めるくらゐだ。それでゐて、とても面白い。六篇中、「空を飛ぶ子」は「オペラ」のなかの「人さらひ」と同工異曲であるが、他の五篇はいづれも「プラン・シャン」中の戀愛詩を思ひ出させる。さう云へば「プラン・シャン」一卷は、コクトオの他の詩集に此べると、何處か獨逸的な味はひのある素朴な歌ひぶりであつた。僕は最近、この一卷を特に好んでゐる。さて、その獨逸語で書いた詩だが、例へば「お前には愛するといふことは愛されることに過ぎない。お前の夜は太陽の光を知らないのだ。お前はすべてを受け取るが、何物も與へることを知らない。お前の貧しい生活は何んと悲しさうなことよ!」(「お前」)だとか、「お前がひとりで寢てゐるとき、私はお前の夢が盜人のやうに逃げてゆくのを見る。お前が嘘をつくとき、お前は何んと憎々しいのだ! 眠りと戀とはお前を美しくする。眠りのなかの眞實が、お前の顏の上に暗い光線のうちに現はれるとき、私にはお前の顏が非常に若々しく見える。お前を見まもつてゐるのは私に課せられてゐる永遠の刑罰だ。」(「刑罰」)だとか、「私達は私達の考へてゐるよりかもつと夥しい血をもつてゐる。戀もそんなに迅速にはそれを絶やさないと見える。戀は私達に多くの苦痛を與へるけれど、私達の血はいつまでだつてこのやうに赤いのだ。」(「血」)だとか、かういふ詩句は、何となく僕にハイネの抒情詩を思ひ出させる。かういふ風に日本語に譯してしまふと幾分だらしなくなるが、コクトオの下手な獨逸語でも、聲を出して讀むとなかなか好いのである。
「オペラ」のなかの「人さらひ」は、コクトオ自身の朗讀がコロンビア・レコオドに吹き込まれてゐるので、諸君も御存知だらう。あれも大へん好い詩である。しかし、どうもあんまり洒落すぎてゐて、僕なんぞにはその微妙なところになると分らないのである。ところが、それと同じ主題による獨逸語の「空を飛ぶ子」の方は、何處か無骨で、そしてそれが一種のいい稚拙感を出してゐて、これなら安心して味つてゐられるといふ氣がする。日本語に譯したんでは、その感じもすつかりなくなるが、まあ、どんなものかぐらゐは分るだらうから、ちよつと譯して見よう。

人さらひは顏がない、風のやうに。
もう遠くへ行つてしまつた。ただ母親だけがまだ叫んでゐる、
「坊や! 坊や!」と。
はじめは子供も叫んでゐた。自分の母親を搜してゐた。
お乳は葡萄酒よりもおいしい、パンにはバタアもついてない。
空を飛ぶことは隨分辛い仕事だつた……
しかし子供はそれをやつた、母親が遠くに離れてゐるので。
それから子供は毆られた、子供は泣いた。
一體どうして人間はいつも笑つてゐなくちやならないんだらう?
子供は遲く寢床に這入つた、さうして早く起きなければならなかつた。
子供の顏は看板に描かれてゐた。太鼓が金錢かねを求めてゐた。
子供の母親は死んだ。世界はいつまでたつても新しい。
人は澤山の人間を知つてゐる。が、彼等がどうなるかは知らないのだ……
白い馬のあとから車がごろごろ轉がつて行く。

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「曠野」養徳社
   1944(昭和19)年9月20日
初出:「文藝 第二巻第九号」
   1934(昭和9)年9月号
※初出時の表題は「一夕話」、「堀辰雄小品集・薔薇」角川書店(1951(昭和26)年6月15日)収録時「ハイネが何處かで」と改題
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2010年11月27日作成
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