モオリス・ド・ゲランと姉ユウジェニイ

 Maurice de Gu※(アキュートアクセント付きE小文字)rin はラングドックのシャトオ・ド・ケエラに一八一〇年八月五日に生れた。姉の Eug※(アキュートアクセント付きE小文字)nie はそれより五年前、一八〇五年一月二十九日に生れた。美しい南佛の空の下に、貧しいけれど古い由緒のある貴族の家に生ひ立つたモオリスは、早くも六つのときに母を失ひ、その後は姉のユウジェニイの手で育てられた。シャトオ・ド・ケエラは遠くに溪谷を見おろす人氣のない臺地にあり、モオリスはそこの森などで姉とともに夢多き少年の日を過ごした。十一のとき彼は故郷を離れて、トゥルウズの小神學校に入つた。そのときから姉のユウジェニイとの間に後に有名になつた文通がはじまつた。十四になるとさらに巴里に送られてコレエジュ・スタニスラスに入つた。古典を修めんがためである。學友には Barbey d'Aurevilly などがゐた。そしてそこに五年間勉學をし、その間ケエラには一度も歸らなかつた。一八二九年の夏はじめて歸省し、ひさしぶりで家族のものと共に休暇を過したのち、再び巴里に出た。そこで一八三二年四月業を了へ、ケエラに歸つてきたのは二十二のときであるが、いまはもう昔のやうな信仰を失ひ、人生を前にしていかにも不安に堪へないやうな、傷心憂思の青年になつてゐた。十月までケエラで過し、ユウジェニイと共にその親友 Louise de Bayne を訪れてシャトオ・ド・レエザックに客となつたりしてゐた。彼が心の危機を深く感じて「日記」を書きはじめたのはその間である。あたかもそのときブルタアニュのラ・シェネエに隱棲せるラムネエが、彼の主張する加特力教上の新しい教義に參ずる若い弟子たちを集めてゐた。モオリスもその膝下に加はる決意をなして、再び故郷を離れた。彼がラ・シェネエに著いたのはその冬(一八三二年)のはじめであつた。その當時の彼の手紙や日記には、「ブルタアニュの古い森の中で孜々として學ぶことの異常な強い魅力」のある其地の隱棲生活が印象ぶかく語られてゐる。彼は同時に H. de La MorvonnaisF. de Marzan などのよき友を得て、彼等との交友によつても文學上の影響を大いに受けた。しかし、そのとき師ラムネエにはまさに重大な危機が迫つてゐた。その有力なる同志ラコルデエルは遂に彼と袂を別つて去り、羅馬はその宗教結社の解散を命ずるに至つた。一八三三年九月ラ・シェネエ解散のあと、モオリスはなほブルタアニュに止つてヴァル・ド・ラルゲノンに氣持の佳い家と美しい妻をもつた詩人イポリット・ド・ラ・モルヴォネエの許などに冬ぢゆう滯在してゐた。翌年一月末、彼は巴里に出た。そこで二三の雜誌の寄稿家となり、文筆をもつて世に立たんとしたが、その夢も空しく、彼はしばらく母校の仕事の手傳や家庭教師の仕事などをして口を糊するよりほかはなかつた。それらの仕事のために、彼は朝から晩まで巴里ぢゆうを歩きまはつた。さうしてごく僅かな時間だけアンジュウ街の小さな部屋に閉ぢ籠つて、遠く故郷の美しい空やブルタアニュの豪快な風景を心に描いては自分を慰めてゐた。ことに心衰へた日などには、庭のリラの木を「よろよろしてゐる自分をやつと支へてくれるこの世の唯一のもの」のやうに抱擁したりした。姉のユウジェニイとの間の文通はいよいよ頻繁になり出した。弟思ひのユウジェニイが、さうやつて巴里にひとり暮らしながら怏々としてゐるらしいモオリスの心を慰めるために、をりをりの手紙を書くだけでは物足らなくなつて、ケエラに於ける彼女たちの日々を丹念に日記に書きはじめたのも、その頃(一八三四年の秋)である。また一方、ブルタアニュを去つてからも折をりの考へを書きつづけてゐた「日記」の筆をモオリスが遂に投じてしまつたのも、その頃である。(一八三五年九月)しかし、だんだん巴里の生活にも馴れてきたのみならず、或日再會したバルベイ・ドオルヴィリとの新しい交友は、この絶望した青年の上には非常な效果があつた。あんなにも孤獨だつた彼は、二年後にはもう見ちがへるほど世馴れたダンディな男に變つてゐた。當時の愛人 Mme de Maistre に與へた彼の手紙やバルベイのMemorandaは、さういふモオリスの蠱惑的な風姿をよく彷彿せしめる。文學の上にも大いに自覺して、Le Centaureなどができた。が、一方ケエラにあるユウジェニイには、さういふ弟の巴里における生活上の變化、なかんづくその信仰の喪失が、彼女の日々のおほきな心痛になり出してゐた。それはモオリスとユウジェニイとの間に一種の疎隔を生ぜしめたかに見える。當時の「日記」はもつとも彼女が心血をそそいで書いたもので、彼女はその部分はモオリスにもずつとのちになつてはじめて讀ませたほどであつた。しかし、巴里の生活の無理が祟つてモオリスが肺患に冒され、一八三七年の夏のはじめ、ケエラに歸つてきたときは、ユウジェニイはすべてを忘れて彼を看病した。夏が過ぎて、やうやくモオリスの病の癒えた頃、巴里から Caroline de Gervain といふ印度生れの若い女が伯母に伴はれてケエラまで訪れてきた。そのすこし前からモオリスとの間に結婚の話のもちあがつてゐた可哀らしい女で、彼女の兩親はカルカッタで暮らしてゐる富裕な商人であつた。ユウジェニイにもこの無邪氣なカロリイヌが氣に入つて、彼女はその結婚に大きな希望をいだくやうになる。翌年一月には、モオリスもすつかり恢復して巴里に戻り、シェルシュ・ミディ街にある許嫁のカロリイヌの閑靜な家に移つて、バルベイなどの仲のいい友人と交りながら、はじめて落ちついた生活にはひり出した。春ごろ、ちよつと病氣が再發したが、それはすぐ平癒したかに見えた。さうしてその秋(一八三八年十一月五日)カロリイヌと華燭の式をあげた。故郷からはユウジェニイがその式に加はるべく生れてはじめて巴里に出てきた。(ユウジェニイは三十三のときである。)しかし、モオリスの幸福は長く續かなかつた。結婚後、また病氣が重くなつたのである。ユウジェニイは心ならずもさういふ弟を殘して、翌年の春巴里を離れ、メエトル夫人と共に、ニヴェルネ地方を旅しながら數ヶ月を送つた。その間も、巴里に病む弟のことを考へては彼女は絶えず「日記」を書きつづけてゐた。が、モオリスの容態は惡化し、遂に六月未カロリイヌが附添つてケエラに歸ることになつた。ユウジェニイはコックからトゥルに出て、そこで彼等と落ち合ひ、それからカロリイヌと二人して痛々しい病人を介抱しながら、困難な旅をつづけ、やつと七月のはじめ、ケエラに著いた。しかし、モオリスは故郷のなつかしい空を見てから十日と立たないうちに、最後の息をひきとつた。ユウジェニイの記述によると、彼は死ぬ前に一時歸依してゐたラムネエの教義を否定し、古い信仰に復歸することを言明したといふことである。一八三九年七月十九日のことで、まだ二十九であつた。遺骸はアンディラックの墓地に葬られた。葬式の後、寡婦になつたカロリイヌは一人淋しくケエラを去つていつた。彼女はしばらく巴里にとどまつて、ユウジェニイと文通などしたりしてゐたが、その後兩親のゐる印度に歸つていつた。ユウジェニイは愛する弟の死んだ後も、彼のために書いてゐた彼女の日記を二年あまり廢さなかつた。そしていまはそれを「天國にゐるモオリスに」宛てて書きつづけてゐた。しかし最後には亡弟の無二の親友バルベイ・ドオルヴィリに宛てて書くやうになつたが、一八四〇年の冬メエトル夫人の病氣を見舞ふために再度ヌヴェルの旅に出、その旅のなかば、十二月の最後の日に遂に日記の筆は投ぜられた。それからユウジェニイは一年ばかり巴里に住まつてゐたが、或事情からメエトル夫人とも交を絶つやうなことになり(恐らくバルベイがその二人の間に介在したらしい)淋しくケエラに歸つてきた。(一八四一年十月末)その後は弟の遺稿の出版のために盡力したりしてゐたが、その仕事もなかなか捗取らなかつた。カロリイヌが印度で再婚したことを知つたり、結婚してアルジェリヤに行つてゐた彼女の一番の親友のルイズ・ド・ベエヌがその地で病死したりして、ユウジェニイの晩年は非常に索漠としたものだつた。そして弟よりも十年近く長生きしてゐた彼女は、遂にモオリスと同じやうな病氣の經過をたどりながら、殆ど一生の間離れたことのないケエラで、一八四八年五月三十一日に死んだ。四十二であつた。そしてアンディラックの墓地に弟と竝んで埋葬せられた。ユウジェニイの書き遺した日記や手紙がその前からモオリスの遺稿の出版に骨折つてゐた二人の友バルベイ・ドオルヴィリとトレビュチアンに托せられると、彼等はその姉の遺稿のはうをまづ“Reliquiae”(1855)といふ表題のもとに、五十部ばかり限定出版した。それから五年後、いくたの困難に逢著したのち、トレビュチアンひとりの手で漸くモオリスの遺稿が同じ“Reliquiae”(1860)といふ表題のもとに、サント・ブウブの序文を附して刊行せられた。生前には全く無名だつたモオリスの遺稿の一部が一八四〇年ジョルジュ・サンドによつて「兩世界評論」誌上に紹介せられてから、彼の名は一部の識者間にわづかに知られてゐたが、いまやその姉の名とともに急に喧傳せらるるに至つた。モオリスの遺作は、作品としてはLe CentaureLa Bacchanteの二篇の散文詩が目立つてゐる他は、斷片的なもののみで、むしろ日記や手紙に獨自なるものがある。ことにその日記中のブルタアニュの荒涼たる自然を敍したあたりはモオリスが風景詩人として一流であつたことを示してゐる。しかし、彼の代表的な作品は何んといつても「サントオル」であらう。山のうちの洞窟に棲まへる年老いたる半人半馬神が求道者メランプに向つて彼の若かりし日の妙なる陶醉を語つて聞かせる獨白體のわづか數頁足らずのものであるが、近代においてこれぐらゐ力強く魅力ある筆で古代の自由奔放なる世界をいきいきと描いたものは類を見ない。モオリスはヴァル・ド・ラルゲノンに在りし冬の一日、嵐のさなかに荒れ狂ふブルタアニュの海をうち眺めつつこの作品の靈感を得たといはれる。そののち巴里においてしばしばルウヴル博物館をおとづれて古代希臘の彫刻に親しんだりしてゐるうちに「サントオル」の完き想は成つたのである。彼はまた同じやうな樣式をもつて、La Bacchanteを書いたが、それは未完成に了つた。「サントオル」は獨逸ではライネル・マリヤ・リルケの美しい譯がある。英吉利では古くよりマシウ・アアノルドの譯があり、わが國でも平田禿木が明治二十九年に早くもその飜譯を出されてゐる。ユウジェニイの日記は一八三四年から書きはじめられ、その一册を書きあげるごとに、それを巴里の弟に送つてゐた。そしてその死後もしはらく同じやうに亡き弟にあてて書きつづけてゐたが、それが全部で十四册(そのうち一册紛失す)ある。主としてケエラにおける自分たちの何んの他奇もない日々のこと――臺所での生活だの、をりをりの讀書だの、父や妹や友達や小作人のこと、犬や猫や小鳥のこと、神樣や村の小さな教會のことだの――をいかにも弟だけを相手にするやうな打ち解けた調子で、自分の思つてゐることは何んでも書いてしまふといつたふうに書いてゐて、まことに氣もちのいいものである。アミエルは彼女のことを「田舍のセヴィニエ夫人」だといつてゐるが、言ひ得て妙である。詩人フランシス・ジャムも彼女を非常に愛讀してゐる。

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄小品集・薔薇」角川書店
   1951(昭和26)年6月15日刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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