山吹の花の、わけて白く咲きたる、小雨の葉の色も、ゆあみしたる美しき女の、眉あおき風情に似ずやとて、――
時 現代。
所 修善寺温泉の裏路。
所 修善寺温泉の裏路。
同、下田街道へ捷径の山中。
人 島津正(四十五六)洋画家。
縫子(二十五)小糸川子爵夫人、もと料理屋「ゆかり」の娘。
辺栗藤次(六十九)門附の人形使。
辺栗藤次(六十九)門附の人形使。
ねりものの稚児。童男、童女二人。よろず屋の亭主。馬士一人。
ほかに村の人々、十四五人。
ほかに村の人々、十四五人。
候 四月下旬のはじめ、午後。――
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場面。一方八重の遅桜、三本ばかり咲満ちたる中に、よろず屋の店見ゆ。鎖したる硝子戸に、綿、紙、反もの類。生椎茸あり。起癈散、清暑水など、いろいろに認む。一枚戸を開きたる土間に、卓子椅子を置く。ビール、サイダアの罎を並べ、菰かぶり一樽、焼酎の瓶見ゆ。この店の傍すぐに田圃。
一方、杉の生垣を長く、下、石垣にして、その根を小流走る。石垣にサフランの花咲き、雑草生ゆ。垣の内、新緑にして柳一本、道を覗きて枝垂る。背景勝手に、紫の木蓮あるもよし。よろず屋の店と、生垣との間、逕をあまして、あとすべて未だ耕さざる水田一面、水草を敷く。紫雲英の花あちこち、菜の花こぼれ咲く。逕をめぐり垣に添いて、次第に奥深き処、孟宗の竹藪と、槻の大樹あり。この蔭より山道をのぼる。
狭き土間、貧しき卓子に向って腰掛けたる人形使――辺栗藤次、鼻の下を横撫をしながら言う。うしろ向のままなり。
一方、杉の生垣を長く、下、石垣にして、その根を小流走る。石垣にサフランの花咲き、雑草生ゆ。垣の内、新緑にして柳一本、道を覗きて枝垂る。背景勝手に、紫の木蓮あるもよし。よろず屋の店と、生垣との間、逕をあまして、あとすべて未だ耕さざる水田一面、水草を敷く。紫雲英の花あちこち、菜の花こぼれ咲く。逕をめぐり垣に添いて、次第に奥深き処、孟宗の竹藪と、槻の大樹あり。この蔭より山道をのぼる。
狭き土間、貧しき卓子に向って腰掛けたる人形使――辺栗藤次、鼻の下を横撫をしながら言う。うしろ向のままなり。
人形使 お旦那――お旦那――もう一杯注いで下せえ。
万屋 (店の硝子戸の内より土間に出づ)何もね、旦那に(お)の字には及ばないが、(苦笑して)親仁、先刻から大分明けたではないか。……そう飲んじゃあ稼げまいがなあ。
人形使 へ、へ、もう今日は稼いだ後だよ。お旦那の前だが、これから先は山道を塒へ帰るばかりだでね――ふらりふらりとよ。
万屋 親仁の、そのふらりふらりは、聞くまでもないのだがね、塒にはまだ刻限が早かろうが。――私も今日は、こうして一人で留守番だが、湯治場の橋一つ越したこっちは、この通り、ひっそり閑で、人通りのないくらい、修善寺は大した人出だ。親仁はこれからが稼ぎ時ではないのかい。
人形使 されば、この土地の人たちはじめ、諸国から入込んだ講中がな、媼、媽々、爺、孫、真黒で、とんとはや護摩の煙が渦を巻いているような騒ぎだ。――この、時々ばらばらと来る梅雨模様の雨にもめげねえ群集だでね。相当の稼ぎはあっただが、もうやがて、大師様が奥の院から修禅寺へお下りだ。――遠くの方で、ドーンドーンと、御輿の太鼓の音が聞えては、誰もこちとらに構い手はねえよ。庵を上げた見世物の、じゃ、じゃん、じゃんも、音を潜めただからね――橋をこっちへ、はい、あばよと、……ははは、――晩景から、また一稼ぎ、みっちりと稼げるだが、今日の飲代にさえありつけば、この上の欲はねえ。――罷り違ったにした処で、往生寂滅をするばかり。(ぐったりと叩頭して、頭の上へ硝子杯を突出す)――お旦那、もう一杯、注いで下せえ。
万屋 船幽霊が、柄杓を貸せといった手つきだな。――底ぬけと云うは、これからはじまった事かも知れない。……商売だからいくらでも売りはするが。(呑口を捻る)――親仁、またそこらへ打倒れては不可いよ。
人形使 往生寂滅をするばかり。(がぶりと呑んで掌をチュウと吸う)別して今日は御命日だ――弘法様が速に金ぴかものの自動車へ、相乗にお引取り下されますてね。
万屋 弘法様がお引取り下さるなら世話はないがね、村役場のお手数になっては大変だ。ほどにしておきなさいよ。(店の内に入らんとす。)
人形使 (大な声して)お旦那、もう一杯下せえ。
万屋 弘法様の御祭だ。芋が石になっては困る。……もの惜みをするようで可厭だから、ままよ、いくらでも飲みなさい。だが、いまの一合たっぷりを、もう一息にやったのかい。
人形使 これまでは雪見酒だで、五合一寸たちまちに消えるだよ。……これからがお花見酒だ。……お旦那、軒の八重桜は、三本揃って、……樹は若えがよく咲きました。満開だ。――一軒の門にこのくらい咲いた家は修善寺中に見当らねえだよ。――これを視めるのは無銭だ。酒は高価え、いや、しかし、見事だ。ああ、うめえ。
万屋 くだらない事を言いなさるな、酔ったな、親仁。……
人形使 これというも、酒の一杯や二杯ぐれえ、時たま肥料にお施しなされるで、弘法様の御利益だ。
万屋 詰らない世辞を言いなさんな。――全くこの辺、人通りのないのはひどい。……先刻、山越に立野から出るお稚児を二人、大勢で守立てて通ったきり、馬士も見掛けない。――留守は退屈だ――ああ太鼓が聞える。……
この太鼓は、棒にて荷いつりかけたるを、左右より、二人して両面をかわるがわる打つ音なり、ドーン、ドーンドーン、ドーンと幽に響く。
人形使 笙篳篥が、紋着袴だ。――消防夫が揃って警護で、お稚児がついての。あとさきの坊様は、香を焚かっしゃる、御経を読まっしゃる。御輿舁ぎは奥の院十八軒の若い衆が水干烏帽子だ。――南無大師、遍照金剛ッ! 道の左右は人間の黒山だ。お捻の雨が降る。……村の嫁女は振袖で拝みに出る。独鈷の湯からは婆様が裸体で飛出す――あははは、やれさてこれが反対なら、弘法様は嬉しかんべい。
万屋 勝手にしろ、罰の当った。(店へ入る。)
人形使 南無大師遍照金剛。――(ちびりとのみつつ、ぐたりとなる。)
夫人、雨傘をすぼめ、柄を片手に提げ、手提を持添う。櫛巻、引かけ帯、駒下駄にて出づ。その遅桜を視め、
夫人 まあ、綺麗だこと――苦労をして、よく、こんなに――(間)……お礼を言いたいようだよ――ああ、ほんとうに綺麗だよ。よく、お咲きだこと。(かくて、小流に添いつつ行く。石がきにサフランの花を見つつ心付く)あら鯉が、大な鯉が、――(小流を覗く)まあ、死んでるんだよ。
やや長き間。――衝と避けて、立離るる時、その石垣に立掛けたる人形つかいの傀儡目に留る。あやつりの竹の先に、白拍子の舞の姿、美しくたけたり。夫人熟と視て立停る。無言。雨の音。
ああ、降って来た。(井菊と大きくしるしたる番傘を開く)まあ、人形が泣くように、目にも睫毛にも雫がかかってさ。……(傘を人形にかざして庇う。)
人形使 (短き暖簾を頭にて分け、口大く、皺深く、眉迫り、ごま塩髯硬く、真赤に酔いしれたる面を出し、夫人のその姿をじろりと視る。はじめ投頭巾を被りたる間、おもて柔和なり。いま頭巾を脱いだる四角な額に、白髪長くすくすくとして面凄じ。)
画家 (薄色の中折帽、うすき外套を着たり。細面にして清く痩す。半ば眠れるがごとき目ざし、通りたる鼻下に白き毛の少し交りたる髭をきれいに揃えて短く摘む。おもての色やや沈み、温和にして、しかも威容あり。旅館の貸下駄にて、雨に懸念せず、ステッキを静につき、一度桜を見る。)
人形使 (この時また土間の卓子にむかってうつむく。)
画家 (夫人の身近に、何等の介意なき態度)ははあ、操りですな。
夫人 先生――ですか、あの、これは私のじゃあございませんの。
画家 (はじめて心付きたる状にて)どうも、これは失礼しました。いや、端から貴女がなさると思った次第でもありません。ちょっと今時珍しかったものですから。――近頃は東京では、場末の縁日にも余り見掛けなくなりました。……これは静でしょうな。裏を返すと弁慶が大長刀を持って威張っている。……その弁慶が、もう一つ変ると、赤い顱巻をしめた鮹になって、踊を踊るのですが、これには別に、そうした仕掛も、からくりもないようです。――(覗き覗き、済して夫人のさしかざしたる番傘の中へ半身)純、これは舞姫ばかりらしい。ああ、人形は名作だ。――御覧なさい凄いようです。……誰が持っていますか。……どうして、こんな処へほうり出しておきますかね。
夫人 人形つかいは――あすこで、(軽く指し、声を低くす)お酒を飲んでいるようですの。……そうらしいお爺さんが見えました。
画家 うまいでしょうな、きっと……一つ使わせてみとうございますね。
夫人 およしなさいまし、先生。……たいそう酔っているようですから。
画家 いかにも、酔っ払っていては面倒ですね。ああ、しかし、人形は名作です――帰途にまた出逢うかも知れない。(半ば呟く)貴女、失礼をいたしました。(冷然として山道の方へ行く。)
夫人 (二三歩あとに縋る)先生、あの……先生――どちらへ?
画家 (再びはじめて心付く)いや、(と軽く言う。間)……先生は弱りました。が、町も村も大変な雑鬧ですから、その山の方へ行ってみます。――貴女は、(おなじく眠れるがごとき目のまま)つい、お見それ申しましたが、おなじ宿にでもおいでなのですか。
夫人 ええ、じき(お傍にと言う意味籠る)……ですが、階下の奥に。あの……
画家 それはどうも――失礼します。(また行く。)
夫人 (一歩縋る)先生、あのここへいらっしゃりがけに、もしか、井菊の印半纏を着た男衆にお逢いなさりはしませんでしたか。
画家 ああ、逢いました。
夫人 何とも申しはいたしません?……
画家 (徐に腕を拱く)さあ……あの菊屋と野田屋へ向って渡る渡月橋とか云うのを渡りますと、欄干に、長い棹に、蓑を掛けたのが立ててあります。――この大師の市には、盛に蓑を売るようです。その看板だが、案山子の幟に挙げたようでおかしい、と思って、ぼんやり。――もっとも私も案山子に似てはいますが、(微笑む)一枚、買いたいけれども、荷になると思って見ていますと、成程、宿の男が通りかかりました。
夫人 ええ、そうして……
画家 ああそうです。(拱きたる腕を解く)……「そこに奥さまがおいでです。」と言って行き過ぎました。成程……貴女の事でしたか。お連になって一所に出掛けたとでも思ったでしょう――失礼します。
夫人 まあ、先生。……唯今は別々でしたけれど、昨夜おそく着きました時は、御一所でございましたわ。
画家 貴女と……
夫人 ええ。
画家 存じませんな。
夫人 大仁で。……自動車はつい別になりましたんですが、……おなじ時に、――
画家 私は乗合でしたがな――さよう……お一方、仕立てた方があったように思いますが、それは、至極当世風の髪も七三で……(と半ば言う。)
夫人 その女が……(やや息忙しく)その女が、先生、宿へ着きますと、すぐ、あの、眉毛を落しましたの。(顔を上げつつ、颯とはなじろむ)髪もこんなにぐるぐる巻にしたんです。
画家 ははあ。(いぶかしそうに、しかし冷静に聞くのみ。)
夫人 先生。(番傘を横に、うなだれて、さしうつむく。頸脚雪を欺く)宿の男衆が申したのは、余所の女房という意味ではないのです。(やや興奮しつつ)貴方の奥さまという意味でございました。
――間――
画家 (かくても、もの静に)……と仰有ると?
夫人 昨晩、同じ宿へ着きますと、直ぐ、宿の人に――私は島津先生の――あの私は……(口籠る。小間)お写真や、展覧会で、蔭ながらよく貴方を存じております。――「私は島津の家内ですが」と宿の人に――「実は見付からないようにおなじ汽車で、あとをつけて来たんです。」辻棲はちっと合ないかも存じませんが、そう云いましたの。……その次第は「島津は近頃浮気をして、余所の婦と、ここで逢曳をするらしい。」……
画家 私が。
夫人 貴方が、あの、そして、仮に私の旦那様が。
画家 それは少々怪しかりません。(苦笑する。)
夫人 堪忍して下さいまし。先生、――「座敷を別に、ここに忍んで、その浮気を見張るんだけれど、廊下などで不意に見附かっては不可いから、容子を変えるんだ。」とそう言って、……いきなり鏡台で、眉を落して、髪も解いて、羽織を脱いでほうり出して、帯もこんなに(なよやかに、頭を振向く)あの、蓮葉にしめて、「後生、内証だよ。」と堅く口止をしました上で、宿帳のお名のすぐあとへ……あの、申訳はありませんが、おなじくと……
画家 (微に眉を顰む。しかし寛容に)保養に来る場所ですから、そんな悪戯もいいでしょうな――失礼します。
夫人 あれ、先生、お怒りも遊ばさないで……
画家 綺麗な奥さんに悪戯をされて――かえって喜んでいるかも知れません。――しかし失礼します。
夫人 どうしましょう、先生、私……悪戯どころではありません。
画家 悪戯どころでないというは?(この時はじめて確と言う。)
夫人 (激して、やや震えながら)後生です。見て下さいまし。貴方に見て頂きたいものがあるんです。(外套の袖を引く、籠れる力に、画家を小流の縁に引戻す)ちょっと御覧なさいまし。
鯉を指す、死したる鯉、この時いまだ客者の目につかず。
画家 おお、これは酷い。――これは悲惨だ。
夫人 先生、私は、ここに死んで流れています、この鯉の、ほんの死際、一息前と同じ身の上でございます。
画家 (無言。……)
夫人 (間)私には厳しく追手が掛っております。見附かりますと、いまにも捉えられなければなりませんものですから。――途中でお姿をお見上げ申し、お宿まで慕って参って、急の思いつきで、失礼な事をいたしました。一生懸命なのです。そしてちょっとの間に、覚悟をしますつもりでおります。――眉を落して、形をかえて、貴方の奥さまになって隠れていましても、人出入の激しい旅館では、ちっとも心が落着きませんから、こうして道に迷っております。どうぞ、御堪忍なすって下さいまし。……夢にも悪戯ではないのですから。
画家 いたし方がありますまいな。
夫人 (もの足りなさに、本意なげにて)無理にもお許し下さいましたか。……その上なおお言葉に甘えますようですけれど、お散歩の方へ……たとい後へ離れましても、御一所に願えますと、立派に人目が忍べます。――貴方(弱く媚びて)どうぞ、お連れ下さいましな。
画家 (きっぱりと)それは迷惑です。
夫人 まあ。――いいえ、お連れ下さいましても、その間に、ただ(更に鯉を指す)この姿になります覚悟を極めますだけなんでございますもの。
画家 それは不可ませんな。御事情はどんなであろうと、この形になっては仕方がありません。
人形使 (つんのめりたるが猛然と面を擡げ)お旦那、もう一杯下せえ。お旦那。
画家 (この声を聞く。あえて心に留めず)私一人としてはこんな姿におなりなさるのだけは堅くお止め申します――失礼をします。(衝と離れて山手に赴く。)
夫人 (画家の姿、槻の樹立にかくれたる時、はらはらとあとを追い、また後戻りす。見送りつつ)はかないねえ!
わが声に、思わず四辺を視る。降らぬ雨に傘を開き、身を恥じてかくすがごとくにして、悄然と、画家と同じ道、おなじ樹立に姿を消す。
人形使 お旦那、もう一杯下せえ。
万屋 ちょッ、困らせるじゃあないか。(ついで与う。)
人形使 そのかわり、へ、へ、今度はまた月見酒だよ。雲がかかると満月がたちまちかくれる。(一息に煽切る)ああッ、う――い。……御勘定……(首にかけた汚き大蝦蟇口より、だらしなく紐を引いてぶら下りたる財布を絞り突銭する)弘法様も月もだがよ。銭も遍く金剛を照すだね。えい。(と立つ。脊高き痩脛、破股引にて、よたよた。酒屋は委細構わず、さっさと片づけて店へ引込む。)えい。(よたよた。やがて人形の前までよたよたよた)はッ、静御前様。(急に恐入ったる体にて、ほとんど土下座をするばかり。間。酔眼を鯉に見向く)やあ、兄弟、浮かばずにまだ居たな。獺が銜えたか、鼬が噛ったか知らねえが、わんぐりと歯形が残って、蛆がついては堪らねえ。先刻も見ていりゃ、野良犬が嗅いで嗅放しで失せおった。犬も食わねえとはこの事だ。おのれ竜にもなる奴が、前世の業か、死恥を曝すは不便だ。――俺が葬ってやるべえ。だが、蛇塚、猫塚、狐塚よ。塚といえば、これ突流すではあんめえ。土に埋めるだな、土葬にしべえ。(半ばくされたる鯉の、肥えて大なるを水より引上ぐ。客者に見ゆ)引導の文句は知らねえ。怨恨あるものには祟れ、化けて出て、木戸銭を、うんと取れ、喝!(財布と一所に懐中に捻じ込みたる頭巾に包み、腰に下げ、改って蹲る)はッ、静御前様。(咽喉に巻いたる古手拭を伸して、覆面す――さながら猿轡のごとくおのが口をば結う。この心は、美女に対して、熟柿臭きを憚るなり。人形の竹を高く引かつぐ。山手の方へ)えい。(よたよた。よたよたよた。)
夫人、樹立の蔭より、半ば出でてこの体を窺いつつあり。
人形使 えい。(よたよた)えい。(よたよたよた。)
夫人 (次第に立出で、あとへ引かえしざまにすれ違う。なおその人形使を凝視しつつ)爺さん、爺さん。
人形使 (丈高く、赤き面にて、じろりと不気味に見向く。魔のごとし。)
夫人 (大胆に、身近く寄る)私は何にも世の中に願はなし、何の望みも叶わなかったから、お前さんの望を叶えて上げよう。宝石も沢山ある。お金も持っています――失礼だけれど、お前さんの望むこと一つだけなら、きっと叶えて上げようと思うんだよ。望んでおくれな。爺さん、叶えさしておくんなさいな。
人形使 (無言のまま睨むがごとく見詰めつつ、しばらくして、路傍に朽ちし稲塚の下の古縄を拾い、ぶらりと提げ、じりじりと寄る。その縄、ぶるぶると動く。)
夫人 ああれ。(と退る。)
人形使 (ニヤリと笑う。)
夫人 ああ蛇かと思った。――もう蛇でも構わない。どうするの――どうするのよ。
人形使 (ものいわず、皺手をさしのべて、ただ招く。招きつつ、あとじさりに次第に樹立に入る。)
夫人 どうするのさ。どうするのよ。(おなじく次第に、かくて樹立に隠る。)
舞台しばらく空し。白き家鴨、五羽ばかり、一列に出でて田の草の間を漁る。行春の景を象徴するもののごとし。
馬士 (樹立より、馬を曳いて、あとを振向きつつ出づ。馬の背に米俵二俵。奉納。白米。南無大師遍照金剛の札を立つ)ああ気味の悪い。真昼間何事だんべい。いや、はあ、こげえな時、米が砂利になるではねえか。(眉毛に唾しつつ俵を探りて米を噛む)まず無事だ。(太鼓の音近く聞ゆ)――弘法様のお庇だんべい。ああ気味の悪い――いずれ魔ものだ、ああ恐怖え。
――廻る――
場面。――一方やや高き丘、花菜の畑と、二三尺なる青麦畠と相連る。丘のへりに山吹の花咲揃えり。下は一面、山懐に深く崩れ込みたる窪地にて、草原。苗樹ばかりの桑の、薄く芽ぐみたるが篠に似て参差たり。
一方は雑木山、とりわけ、かしの大樹、高きと低き二幹、葉は黒きまで枝とともに茂りて、黒雲の渦のごとく、かくて花菜の空の明るきに対す。
花道をかけて一条、皆、丘と丘との間の細道の趣なり。遠景一帯、伊豆の連山。
一方は雑木山、とりわけ、かしの大樹、高きと低き二幹、葉は黒きまで枝とともに茂りて、黒雲の渦のごとく、かくて花菜の空の明るきに対す。
花道をかけて一条、皆、丘と丘との間の細道の趣なり。遠景一帯、伊豆の連山。
画家 (一人、丘の上なる崕に咲ける山吹と、畠の菜の花の間高き処に、静にポケット・ウイスキーを傾けつつあり。――鶯遠く音を入る。二三度鶏の声。遠音に河鹿鳴く。しばらくして、立ちて、いささかものに驚ける状す。なお窺うよしして、花と葉の茂に隠る。)
夫人 (傘を片手に、片手に縄尻を控えて――登場。)
人形使 (猿轡のまま蝙蝠傘を横に、縦に十文字に人形を背負い、うしろ手に人形の竹を持ちたる手を、その縄にて縛められつつ出づ。肩を落し、首を垂れ、屠所に赴くもののごとし。しかも酔える足どり、よたよたとして先に立ち、山懐の深く窪み入りたる小暗き方に入り来り、さて両腕を解けば縄落つ。実はいましめたるにあらず、手にてしかく装いたるなり。人形を桑の一木に立掛け、跪いて拝む。かくてやや離れたる処にて、口の手拭を解く)御新造様。そりゃ、約束の通り遣って下せえ。(足手を硬直し、突伸べ、ぐにゃぐにゃと真俯向けに草に俯す。)
夫人 ほんとうなの、爺さん。
人形使 やあ、嘘にこんな真似が出来るもので。それ、遣附けて下せえまし。
夫人 ほんとうに打つの?
人形使 血の出るまで打って下せえ。息の止るまでもお願えだよ。
夫人 ほんとうかい、ほんとうに打つのかね。
人形使 何とももう堪らねえ、待兼ねますだ。
夫人 ……あとで強情られたって、それまでの事だわね。――では、約束をしたものだから、ほんとうに打ってよ。我慢をおし。(雨傘にて三つ四つ。と続けさまに五つ六つ。)
人形使 堪えねえ、ちっとも堪えねえ。
夫人 (鞭打ちつつ)これでは――これでは――
人形使 駄目だねえ。(寝ながら捻向く)これでもか、これでもか、と遣って下せえ。
夫人 これでも、あの、これでも。
人形使 そんな事では、から駄目だ。待たっせえまし。(布子の袖なし、よごれくさりし印半纏とともに脱ぎ、痩せたる皺膚を露出す。よろりと立って樹にその身をうしろむきに張りつく。振向きて眼をりながら)傘を引破いて、骨と柄になせえまし。それでは、婆娑々々するばかりで、ちっとも肉へ応えねえだ。
夫人 (ため息とともに)ああ。
人形使 それでだの、打つものを、この酔払いの乞食爺だと思っては、ちっとも力が入らねえだ。――御新造様が、おのれと思う、憎いものが世にあるべい。姑か、舅か、小姑か、他人か、縁者、友だちか。何でも構う事はねえだの。
夫人 ああ。
人形使 その憎い奴を打つと思って、思うさま引払くだ。可いか、可いかの。
夫人 ああ。
人形使 それ、確りさっせえ。
夫人 ああ。あいよ。(興奮しつつ、びりびりと傘を破く。ために、疵つき、指さき腕など血汐浸む――取直す)――畜生――畜生――畜生――畜生――
人形使 ううむ、(幽に呻く)ううむ、そうだ、そこだ。ちっと、へい、応えるぞ。ううむ、そうだ。まだだまだだ。
夫人 これでもかい。これでもかい、畜生。
人形使 そ、そんな、尻べたや、土性骨ばかりでは埒明かねえ、頭も耳も構わずと打叩くんだ。
夫人 畜生、畜生、畜生。(自分を制せず、魔に魅入られたるもののごとく、踊りかかり、飛び上り、髪乱れ、色あおざむ。打って打って打ちのめしつつ、息を切る)ああ、切ない、苦しい。苦しい、切ない。
人形使 ううむ堪らねえ、苦しいが、可い塩梅だ。堪らねえ、いい気味だ。
画家 (土手を伝わって窪地に下りる。騒がず、しかし急ぎ寄り、遮り止む)貴女、――奥さん。
夫人 あら、先生。(瞳をくとともに、小腕しびれ、足なえて、崩るるごとく腰を落し、半ば失心す。)
画家 (肩を抱く)ウイスキーです――清涼剤に――一体、これはどうした事です。
人形使 (びくりびくりと蠢く。)
画家 (且つこれを見つつ)どうした事情だか知りません。けれども、余り極端な事をしては不可い。
夫人 (吻と息して)私、どうしたんでございましょう、人間界にあるまじき、浅ましい事をお目に掛けて、私どうしたら可いでしょうねえ。(ヒステリックに泣く。)
画家 (止むことを得ず、手をさすり脊筋を撫づ)気をお鎮めなさい。
人形使 (血だらけの膚を、半纏にて巻き、喘ぎつつ草に手をつく)はい、……これは、えええ旦那様でござりますか、はい。
画家 この奥さんの……別に、何と言うではないが、ちょっと知合だ。
人形使 はい、そのお知合の旦那様に、爺から申上げます。はい、ええ、くどい事は、お聞きづろうござりますで。……早い処が、はい、この八ツ目鰻の生干を見たような、ぬらりと黒い、乾からびた老耄も、若い時が一度ござりまして、その頃に、はい、大い罪障を造ったでござります。女子の事でござりましての。はい、ものに譬えようもござりませぬ。欄間にござる天女を、蛇が捲いたような、いや、奥庭の池の鯉を、蠑が食い破りましたそうな儀で。……生命も血も吸いました。――一旦夢がさめますると、その罪の可恐さ。身の置所もござりませぬで。……消えるまで、失せるまでと、雨露に命を打たせておりますうちに――四国遍路で逢いました廻国の御出家――弘法様かと存ぜられます――御坊様から、不思議に譲られたでござります。竹操りのこの人形も、美しい御婦人でござりますで、爺が、この酒を喰います節も、さぞはや可厭であろうと思いますで、遠くへお離し申しておきます。担いで帰ります節も、酒臭い息が掛ろうかと、口に手拭を噛みます仕誼で。……美しいお女中様は、爺の目に、神も同然におがまれます。それにつけても、はい、昔の罪が思われます。せめて、朝に晩に、この身体を折檻されて、拷問苛責の苦を受けましたら、何ほどかの罪滅しになりましょうと、それも、はい、後の世の地獄は恐れませぬ。現世の心の苦しみが堪えられませぬで、不断常住、その事ばかり望んではおりますだが、木賃宿の同宿や、堂宮の縁下に共臥りをします、婆々媽々ならいつでも打ちも蹴りもしてくれましょうが、それでは、念が届きませぬ。はて乞食が不心得したために、お生命までも、おうしないにならっせえましたのは、美しいお方でござりましたもの。やっぱり、美しいお方の苛責でのうては、血にも肉にも、ちっとも響かぬでござります。――またこの希望が、幽霊や怨念の、念願と同じ事でござりましての、この面一つを出したばかりで大概の方は遁げますで。……よくよくの名僧智識か、豪傑な御仁でないと、聞いてさえ下さりませぬ。――この老耄が生れまして、六十九年、この願望を起しましてから、四十一年目の今月今日。――たった今、その美しい奥方様が、通りがかりの乞食を呼んで、願掛は一つ、一ヶ条何なりとも叶えてやろうとおっしゃります。――未熟なれども、家業がら、仏も出せば鬼も出す、魔ものを使う顔色で、威してはみましたが、この幽霊にも怨念にも、恐れなされませぬお覚悟を見抜きまして、さらば、お叶え下されまし、とかねての念願を申出でまして、磔柱の罪人が引廻しの状をさせて頂き、路傍ながら隠場所の、この山崩れの窪溜へ参りまして、お難有い責折檻、苛責を頂いた儀でござります。……旦那様。
――もし、お美しい奥方様、おありがとうござります。おありがとうござります。
夫人 (はじめて平静に)お前さん、痛みはしないかい。
人形使 何の貴女様、この疼痛は、酔った顔をそよりそよりと春風に吹かれますも、観音様に柳の枝から甘露を含めて頂きますも、同じ嬉しさでござります。……はたで見ます唯今の、美女でもって夜叉羅刹のような奥方様のお姿は、老耄の目には天人、女神をそのままに、尊く美しく拝まれました。はい、この疼痛のござりますうちだけは、骨も筋も柔かに、血も二十代に若返って、楽しく、嬉しく、日を送るでござりましょう。
画家 (且つ傾き、且つ聞きつつ、冷静に金口煙草を燻らす)お爺さん、煙草を飲むかね。
人形使 いやもう、酒が、あか桶の水なれば、煙草は、亡者の線香でござります。
画家 喫みたまえ。(真珠の飾のついたる小箱のまま、衝と出す。)
人形使 はッこれは――弘法様の独鈷のように輝きます。勿体ない。(這出して、画家の金口から吸いつける)罰の当った――勿体ない。この紫の雲に乗りまして、ふわふわと……極楽の空へ舞いましょう。
夫人 爺さん、もう行くの。……打たれたばかりで、ほんとに可いのかい。
人形使 たとい桂川が逆に流れましても、これに嘘はござりませぬ。
夫人 何か私に望んでおくれ。どうも私は気が済まない。
人形使 この上の望と申せば、まだ一度も、もう三度も、御折檻、御打擲を願いたいばかりでござります。
夫人 そして、それから。
人形使 はあ、その上の願と申せば、この身体が粉々になりますまで、朝に晩に、毎日毎夜、お美しい奥方様の折檻を受けたいばかりでござります。――はや酔も覚めました。もう世迷言も申しますまい。――昼は遠慮がござりますが、真夜中は、狸、獺、化ものも同然に、とがめ人のござりませぬ、独鈷の湯へ浸ります嬉しさに、たつ野の木賃に巣をくって、しばらくこの山道を修善寺へ通いましたが――今日かぎり下田街道をどこへなと流れます。雲と水と申したけれど、天の川と溝の流れと分れましては、もはやお姿は影も映りますまい。お二方様とも、万代お栄えなされまし。――静御前様、へいへいお供をいたします。
夫人 お待ちなさい、爺さん。(決意を示し、衣紋を正す)私がお前と、その溝川へ流れ込んで、十年も百年も、お前のその朝晩の望みを叶えて上げましょう。
人形使 ややや。(声に出さず、顔色のみ。)
夫人 先生、――私は家出をいたしました。余所の家内でございます。連戻されるほどでしたら、どこの隅にも入れましょうが、このままでは身の置処がありません。――溝川に死ちた鯉の、あの浅ましさを見ますにつけ、死んだ身体の醜さは、こうなるものと存じましても、やっぱり毒を飲むか、身を投げるか、自殺を覚悟していました。ただお煩さの余りでも、「こんな姿になるだけは、堅く止める。」と、おっしゃいました。……あの先刻のお一言で、私は死ぬのだけは止めましてございます。
先生、――私は、唯今では、名ばかりの貧乏華族、小糸川の家内でございますが。
画家 ああ子爵でおいでなさる。
夫人 何ですか、もう……――あの、貴方、……前は、貴方が、西洋からお帰り時分、よく、お夥間と御贔屓を遊ばして、いらしって下さいました、日本橋の……(うっとりと更に画家の顔を見る)――お忘れでございますか、お料理の、ゆかりの娘の、縫ですわ。
画家 ああ、そうですか。お縫さん……お妹さんの方ですね。綺麗なお嬢さんがおいでなさるという事を、時々風説に聞きました。
夫人 (はかなそうに)ええ、先生は、寒い時寒い、と言うほど以上には、お耳には留まらなかったでございましょう。私は貴方に見られますのが恥かしくッて、貴方のお座敷ばっかりは、お敷居越にも伺った事はありませんが、蔭ではお座敷においで遊ばす時の、先生のお言葉は、一つとして聞き洩らした事はないくらいでございます。奥座敷にお見えの時は、天井の上に俯向けになって聞きます。裏座敷においでの時は、小庭を中に、湯どのに入って、衣服を着てばかりはいられませんから、裸体で壁に附着きました。そのほか、小座敷でも広室でも、我家の暗をかくれしのぶ身体はまるで鼠のようで、心は貴方の光のまわりに蛾のようでした。ですが、苦労人の女中にも、わけ知の姉たちにも、気ぶりにも悟られた事はありません。身ぶり素ぶりに出さないのが、ほんとの我が身体で、口へ出して言えないのが、真実の心ですわ。ただ恥かしいのが恋ですよ。――ですがもうその時分から、ヒステリーではないのかしら、少し気が変だと言われました。……貴方、お察し下さいまし。……私は全く気が変になりました。貴方が御結婚を遊ばして、あとまる一年、ただ湧くものは涙ばかり、うるさく伸びるものは髪ばかり。座敷牢ではありませんが、附添たちの看護の中に、藻抜のように寝ていました。死にもしないで、じれったい。……消えもしないで、浅ましい、死なずに生きていたんですよ。
――我が身に返りました時、年紀も二十を三つ越す。広い家を一杯に我儘をさして可愛がってくれました母親が亡くなりました。盲目の愛がなくなりますと、明い世間が暗くなります。いままで我ままが過ぎましたので、その上の我がままは出来ない義理になりました。それでも、まだ我がままで――兄姉たちや、親類が、確な商人、もの堅い勤人と、見立ててくれました縁談を断って、唯今の家へ参りました。
姑が一人、小姑が、出戻と二人、女です――夫に事うる道も、第一、家風だ、と言って、水も私が、郊外の住居ですから、釣瓶から汲まされます。野菜も切ります。……夜はお姑のおともをして、風呂敷でお惣菜の買ものにも出ますんです。――それを厭うものですか。――日本橋の実家からは毎日のおやつと晩だけの御馳走は、重箱と盤台で、その日その日に、男衆が遠くを自転車で運ぶんです。が、さし身の角が寝たと言っては、料理番をけなしつけ、玉子焼の形が崩れたと言っては、客の食べ余を無礼だと、お姑に、重箱を足蹴にされた事もあります。はじめは、我身の不束ばかりと、怨めしいも、口惜いも、ただ謹でいましたが、一年二年と経ちますうちに、よくその心が解りました。――夫をはじめ、――私の身につきました、……実家で預ります財産に、目をつけているのです。いまは月々のその利分で、……そう申してはいかがですが、内中の台所だけは持っておるのでございますけれど、その位では不足なのです。――それ姪が見合をする、従妹が嫁に行くと言って、私の曠着、櫛笄は、そのたびに無くなります。盆くれのつかいもの、お交際の義理ごとに、友禅も白地も、羽二重、縮緬、反ものは残らず払われます。実家へは黙っておりますけれど、箪笥も大抵空なんです。――…………………それで主人は、詩をつくり、歌を読み、脚本などを書いて投書をするのが仕事です。
姑が一人、小姑が、出戻と二人、女です――夫に事うる道も、第一、家風だ、と言って、水も私が、郊外の住居ですから、釣瓶から汲まされます。野菜も切ります。……夜はお姑のおともをして、風呂敷でお惣菜の買ものにも出ますんです。――それを厭うものですか。――日本橋の実家からは毎日のおやつと晩だけの御馳走は、重箱と盤台で、その日その日に、男衆が遠くを自転車で運ぶんです。が、さし身の角が寝たと言っては、料理番をけなしつけ、玉子焼の形が崩れたと言っては、客の食べ余を無礼だと、お姑に、重箱を足蹴にされた事もあります。はじめは、我身の不束ばかりと、怨めしいも、口惜いも、ただ謹でいましたが、一年二年と経ちますうちに、よくその心が解りました。――夫をはじめ、――私の身につきました、……実家で預ります財産に、目をつけているのです。いまは月々のその利分で、……そう申してはいかがですが、内中の台所だけは持っておるのでございますけれど、その位では不足なのです。――それ姪が見合をする、従妹が嫁に行くと言って、私の曠着、櫛笄は、そのたびに無くなります。盆くれのつかいもの、お交際の義理ごとに、友禅も白地も、羽二重、縮緬、反ものは残らず払われます。実家へは黙っておりますけれど、箪笥も大抵空なんです。――…………………それで主人は、詩をつくり、歌を読み、脚本などを書いて投書をするのが仕事です。
画家 それは弱りましたな。けれど、末のお見込はありましょう。
夫人 いいえ、その末の見込が、私が財産を持込みませんと、いびり出されるばかりなんです。咳をしたと言てはひそひそ、頭を痛がると言っては、ひそひそ。姑たちが額を集め、芝居や、活動によくある筋の、あの肺病だから家のためにはかえられない、という相談をするのです。――夫はただ「辛抱を、辛抱を。」と言うんですが、その辛抱をしきれないうち、私は死でしまいましょう。ついこの間もかぜを引いて三日寝ました。水をのみに行きます廊下で、「今度などが汐時じゃ。……養生と言って実家へ帰したら。」姑たちが話すのを、ふいに痛い胸に聞いたのです。
画家 それは薄情だ。
夫人 薄情ぐらいで済むものですか。――私は口惜さにかぜが抜けて、あらためて夫に言ったんです。「喧嘩をしても実家から財産を持って来ます。そのかわりただ一度で可うござんす。お姑さんを貴方の手で、せめて部屋の外へ突出して、一人の小姑の髻を掴んで、一人の小姑の横ぞっぽうを、ぴしゃりと一つお打ちなさい。」と……
人形使 (じりじり乗出す)そこだそこだ、その事だ。
画家 ははは、痛快ですな。しかし穏でない。
夫人 (激怒したるが、忘れたように微笑む)穏でありませんか。
画家 まず。……そこで。
夫人 きさまは鬼だ、と夫が申すと、いきなり私が、座敷の外へ突飛ばされ、倒れる処を髻をつかまれ、横ぞっぽうを打たれました。――その晩――昨晩――その晩の、夜はかえって目につきますから、昨日家出をしたんです。先生……金魚か、植木鉢の草になって、おとなしくしていれば、実家でも、親類でも、身一つは引取ってくれましょう。私は意地です、それは厭です。……この上は死ぬほかには、行き処のない身体を、その行きどころを見着けました。(決然として向直る)このおじさんと一所に行きます。――この人は、婦人を虐げた罪を知って、朝に晩に笞の折檻を受けたいのです。一つは世界の女にかわって、私がその怨を晴らしましょう。――この人は、静御前の人形を、うつくしい人を礼拝します。私は女に生れました、ほこりと果報を、この人によって享けましょう。――この人は、死んだ鯉の醜い死骸を拾いました。……私は弱い身体の行倒れになった肉を、この人に拾われたいと存じます。
画家 (あるいは頷き、また打傾き、やや沈思す)奥さん、更めて、お縫さん。
夫人 (うれしそうに、あどけなく笑う)はアい。
画家 貴女のそのお覚悟は、他にかえようはないのですか。
夫人 はい、このまま、貴方、先生が手をひいて、旅館へお帰り下さる外には――
人形使 そうだ、そうだ、その事だ。
画家 (再び沈黙す。)
夫人 (すり寄る)先生。
画家 貴女、それは御病気だ。病気です。けれども私は医師でない、断言は出来ません。――貴女のお覚悟はよくありません。しかし、私は人間の道について、よく解っておりません。何ともお教えは申されない。それから私が手を取る事です。是非善悪は、さて置いて、それは今、私に決心が着きかねます。卑怯に回避するのではありません。私は自分の仕事が忙しい。いま分別をしている余裕が、――人間の小さいために、お恥かしいが出来ないのです。しかし一月、半月、しばらくお待ち下さるなら、その間に、また、覚悟をしてみましょう。
夫人 先生、私は一晩かくれますにさえ、顔も形も変えています。運命は迫っています。
画家 ごもっともです。――(顔を凝視さるるに堪えざるもののごとく、目を人形使に返す)爺さん、きっとお供をするかね。
人形使 犬になって――
凝と夫人を抱き起し、その腰の下へ四這いに入る背に、夫人おのずから腰を掛けつ、なお倒れんとする手を、画家たすけ支う。
馬になってお供をするだよ。
画家 奥さん、――何事も御随意に。
夫人 貴方、そのお持ち遊ばすお酒を下さい。――そして媒妁人をして下さい。
画家 (無言にて、罎を授け、且つ酌する。)
夫人 (ウイスキーを一煽りに、吻と息す)爺さん、肴をなさいよ。
人形使 口上擬に、はい小謡の真似でもやりますか。
夫人 いいえ、その腐った鯉を、ここへお出しな。
人形使 や。
夫人 お出しなね。刃ものはないの。
人形使 野道、山道、野宿だで、犬おどしは持っとりますだ。(腹がけのどんぶりより、錆びたるナイフを抽出す。)
画家 ああ、奥さん。
夫人 この人と一所に行くのです。――このくらいなものを食べられなくては。……
人形使 やあ、面白い。俺も食うべい。
画家 (衝と立ちて面を背く。)
――南無大師遍照金剛。――南無大師遍照金剛――遠くに多人数の人声。童男童女の稚児二人のみまず練りつつ出づ――
稚児一 (いたいけに)南無大師遍照金剛。……
稚児二 (なおいたいけに)南無大師遍照金剛。……
はじめ二人。紫の切のさげ髪と、白丈長の稚髷とにて、静にねりいで、やがて人形使、夫人、画家たちを怪むがごとく、ばたばたと駈け抜けて、花道の中ばに急ぐ。画家と夫人と二人、言い合せたるごとく、ひとしくおなじ向きに立つ。人形使もまた真似るがごとく、ひとしくともに手まねき、ひとしくともにさしまねく、この光景怪しく凄し。妖気おのずから場に充つ。稚児二人引戻さる。
画家 いい児だ。ちょっと頼まれておくれ。
夫人 可愛い、お稚児さんね。
画家 (外套を脱ぎ、草に敷く)奥さん、爺さんと並んでお敷きなさい。
夫人 まあ、勿体ない。
画家 いや、その位な事は何でもありません。が貴女の病気で、私も病気になったかも知れません。――さあ、二人でお酌をしてあげておくれ。
夫人、人形使と並び坐す。稚児二人あたかも鬼に役せらるるもののごとく、かわるがわる酌をす。静寂、雲くらし。鶯はせわしく鳴く。笙篳篥幽に聞ゆ。――南無大師遍照金剛――次第に声近づき、やがて村の老若男女十四五人、くりかえし唱えつつ来る。
村の人一 ええ、まあ、御身たちゃあ何をしとるだ。
村の人二 大師様のおつかい姫だ思うで、わざと遠く離れてるだに。
村の人三 うしろから拝んで歩行くだに――いたずらをしてはなんねえ。
村の人四五六 (口々に)来うよ来うよ。(こんどは稚児を真中に)南無大師遍照金剛、……(かくて、幕に入る。)
夫人 (外套をとり、塵を払い、画家にきせかく)ただ一度ありましたわね――お覚はありますまい。酔っていらしって、手をお添えになりました。この手に――もう一度、今生の思出に、もう一度。本望です。(草に手をつく)貴方、おなごり惜しゅう存じます。
画家 私こそ。(喟然とする。)
夫人 爺さん、さあ、行こう。
人形使 ええ、ええ。さようなら旦那様。
夫人 行こうよ。
二人行きかかる。本雨。
画家 (つかつかと出で、雨傘を開き、二人にさしかく)お持ちなさい。
夫人 貴方は。
画家 雨ぐらいは何の障もありません。
夫人 お志頂戴します。(傘を取る時)ええ、こんなじゃ。
激しく跣足になり、片褄を引上ぐ、緋の紋縮緬の長襦袢艶絶なり。爺の手をぐいと曳く。
人形使 (よたよたとなって続きつつ)南無大師遍照金剛。
夫人 (花道の半ばにして振かえる)先生。
画家 (やや、あとに続き見送る。)
夫人 世間へ、よろしく。……さようなら、……
画家 御機嫌よう。
夫人 (人形使の皺手を、脇に掻込むばかりにして、先に、番傘をかざして、揚幕へ。――)
画家 (佇み立つ。――間。――人形使の声揚幕の内より響く。)
――南無大師遍照金剛――
夫人の声も、またきこゆ。
――南無大師遍照金剛――
画家 うむ、魔界かな、これは、はてな、夢か、いや現実だ。――(夫人の駒下駄を視る)ええ、おれの身も、おれの名も棄てようか。(夫人の駒下駄を手にす。苦悶の色を顕しつつ)いや、仕事がある。(その駒下駄を投棄つ。)
雨の音留む。
福地山修禅寺の暮六ツの鐘、鳴る。
福地山修禅寺の暮六ツの鐘、鳴る。
――幕――
大正十二(一九二三)年六月