器械を一とまはしガタリと動かすと幾個かの字が出て来る、また一とまはしガタリと動かすと、また幾個かの字が出て来る、幾度かそれを繰りかへして居ると、沢山の字が集つて来るから、それを並べると、立派な学問が出来上る。これがれでも知つて居るガリヴア巡島記で、スヰフトが書いて居るラガトオの大学の記事である。が、これにも増して容易にまた簡単に出来るのものは今日の吾が翻訳である。西洋のある名ある書物を始めて翻訳するのは、可なり骨の折れる仕事であるが、ナニそれでも少し根気よく器械でも動かす積りでやれば、ぢきに出来る。その翻訳が一つ出来上がれば、あとはわけなしで、ラガトオ市の大学で器械を動かすよりも手軽に出来る。およそどんな翻訳にだつて文句をつけて、つけられないのはないのであるからその一つ、出来上つた翻訳に少し間違でも見つけたら、それを大袈裟に吹聴して、それから大体の他の部分にも筆を入れて、前のより少し下手にすれば、それで沢山なのである。下手と云つて悪ければ、前のよりは解らなくするのである。かういふ風にしてこしらへて行けば、翻訳なんてものはいくらでも出来る。かういふ風にして翻訳を作り出す所を私は有限責任翻訳製造株式会社といふ。さういふ翻訳では原文に忠実でないとか、原文の意に反するなんて云ふものもあるが、それは甚しい愚論で、そんな事は決して顧慮すべき事でない、そんな事を顧慮するのは無益といふよりもかへつて有害である。何となればそんな事を云つて居ては、却つて文化の普及を阻害するからである。
 丁度昔紡績女スピンスタアの手仕事であつた紡績が、大工場の一大産業となつて、所謂いはゆる大量生産なるものとなり、為めに昔の工女の手仕事が奪はれたやうに、従来かういふ翻訳も貧乏文士或は教師の手内職であつたものが、今や大資本に依つて多量に生産されるやうになつた。一方に貧乏文士や教師の手内職は奪つたやうであるが、他方に於てはそれは資本家自身を富ますのみならず、また多大な富を翻訳者自身に与へるやうになつた。けだ斯様かやうな翻訳の大量生産はさういふ風に資本家と文人とに幸福を与へるのみならず、また世界の大思想大文芸を、極めて低廉ていれんな値を以て万象に頒与はんよするのであるから、文化のためにも至大な貢献であるに違ひない。天のめぐみは二重である、とはシエイクスピアの句にあるが、この事業たるや、かくして三重の恵となつてるのであるから、に大したものではなからうか。果して天下をあげてかくのごとき挙に賛意を表してゐる、かみは廊堂の大官より下は陋巷ろうかうの文士に至るまで、みな高見をのべてその徳をたゝへて居る。いやまだその恵に与つて居るものがも一ツある、新聞紙がそれである、売薬品の広告以外、翻訳ものの広告が、どれほど新聞社を益した事であらう。これみな国家の慶事にあらずして何であらう。
 エリザベス朝にイギリスがイタリヤの文芸を取り入れた時も、それが十八世紀の初めにフランス文学から影響された時も、レツシンクであつたか、ラインの彼岸から来るものはみな謳歌されると云つて、フランス大学の模倣を慨嘆したドイツに於ても、吾が日本の今日ほど外国文学の悦ばれた時代はないであらう。咋今一円本と称して、世間から歓迎されて居るものは、大半翻訳文学である。世界文学とか、世界大思想とか、近代戯曲とか、近代……とかすべて翻訳でないのは殆んどなく、翻訳と銘を打つてないものでも、内容は翻訳であつて、正直に翻訳と看板を出したものよりも、さらに甚しい翻訳であつたりする。私はどうしてこんなに簡単に、こんなに容易に、社会を益し書店を益し、文人を益する、都合の良い事業を、人がこれまで思ひつかなつたかを怪むものである。人は或は文芸の商品化を難ずるかも知れないが、文芸の事は云はぬとして、翻訳に至つては、何もそんなにやかましく云ふ筋のものではない、もと/\商品であるのではないが、初めに云つたやうに器械で拵へるよりも容易に製造しうるのではないか、これが商品でなくて何であらう私は斯ういふ事業に依つて人々が利益を得、同時に世間に利益を与へる事をもつもつとも近代的な、また最も賢明なる事業と考へて居る。只気の弱いものは、こんなに洪水のやうに外国文学が流れ込んで来て、果たして良いものかと心配するものもある。前に云つたやうに古往今来世界の何処どこに於ても、これほど外国の文学の流れ込んだ事実はないのであるから、或はその為めに人心は食傷しはしないかと、気づかはれるのも一応はもつともである。しかし私に云はせればそれは杞憂である。買ふ人必らずしも読むのではないし、また読んだところうして出来た翻訳は容易に解りつこいないからである。解つては翻訳ではない。解らない処に翻訳の価値があるのである。実に不思議な事であるが、日本では翻訳と云ふと解らないものになつて居る。これはかつて私の説いた処であるが、西洋の諸国では翻訳といふと読み易い解り易いものになつて居る。それは成句や慣用語が説明的になるし、文体も感情的でなくなり、概して理智的説明的になるからである。然るに用語文体の組織が全然相違するためでもあるが、日本では翻訳が全く不可解になる、不可解は翻訳の主なる資格である。そんなわけであるから、それほど翻訳が沢山に出ても、それがために人の心が動かされるとか、在来の思想が乱れるといふやうな事は決してない、そんな事を心配するのは全く杞憂に過ぎない。
 従つて近時の翻訳は粗雑であるとか、乱暴であるとかいふのも筋の通らない論である、えて左様さういふ事は老人の言であるが――現筆者も老人であるが――それは全く事理をわきまへぬ言である。一体私は翻訳不可能論者である、真実の意味に於て翻訳は出来ないものと心得て居る。それゆえ新潮社の翻訳は定評があるとか、杜撰づさんなものであるとか、そんな評判はよく聞く処であるが、私は少しもそれに耳をかさない。何となればどうせ出来ない翻訳であるから、それが良くても、悪くても結局は五十歩百歩であるからである。もつとも物事の相違は五十歩百歩といふ処が大事なので、低気圧と高気圧との差は比較的僅少だし、体温は三十七度なら平温だけれども、それを三度越した四十度は大熱であるのだから、況んや五十歩百歩は大変な相違にちがひないが、それは場合に依る事で、何事も一律には行かない、零に対しては一だつて無限大であるから、不可能に対しては如何なる誤謬ごびうも誤訳も顧るに足らないのである。
 私の考へる処に依ると翻訳には二種類ある。第一は原文に拘泥せず、ドシ/\と自分勝手に訳してしまふのである。原文で左とあるのを右と訳しても良い、しかりと書いてあるのをいなと訳してもかまはない、何でもかまはず、勝手に思ふ通りにやつてしまふのである。少々は文の筋が通らなくても、話の関係が変でもそんな事には頓着しないやり方である。それは則ち気分に依つて訳すので、これを称して気分訳とか云ふさうである。その例は私があげるまでもあるまい、随分沢山にあつてすでに読者の十分に承知して居られる処であると思ふ。今一つの方式はそれとは反対の、逐字訳である、一語一句も忽かにせず、原文の通りに訳するのである、さうして出来上つたものは、通例何が書いてあるか一向に解らない、解らない筈である、訳者その人にも解つては居ないのであるから、併し翻訳としてまことに忠実なもので、これ以上は望み難いのである。例をあげると面白いのであるが、前の方式のにしてもこの方式のにしても、うつかり書いて叱られるといけないから、かけかまひのない処を云つて見るが、或る処でグロオワアムと言ふ字をはいに似た虫で夜後尾の方が光るものだと、先生が言つたら、生徒の一人が、先生それは蛍ではありませんかと言つたといふ話があるが、第二の式の翻訳はこの呼吸で行くのである。ヰイク・デイスなら週間の日、インゼ・ロング・ランなら長い走りの内にと言つた具合に行くのである。この両式は尤も大事なやり方で、今日の多量生産がこの式で行くのかどうか私は知らないが、これで行くのが尤も容易で都合の良いやり方である事を私は断言して置く。
 これは本題の翻訳製造会社とは関係のない事であるが、ついで故一言して置かうと思ふ事がある、それは日本の文学を西洋に訳して嬉れしがつて居る人の事である。私は日本の文学の卓越して居る事に異議を唱へるものではない。外国人がそれに感心して、それを自国語に翻訳するのに異議を抱くものでもない。併し日本人自からが自分の文学を他国に訳して得々たるのは甚だ可笑しいと思ふ。可笑しい計りではない、或る意味に於ては吾が恥辱でもあると思ふ。その事自体が国辱ではないかとさへ思ふ、少くとも事理をわきまへた事ではないと思ふ。西洋人がさういふ翻訳をするのを助けて、それを完成さすなら結構な事であるが、自から進んでそれをやり、却つて西洋人の助をかりてそれをおほやけにするなんていふのは、少し馬鹿気た事と思ふ。かりに一人のイギリス人があつて、それが日本語に精通して居たといふので、シエイクスピアの翻訳を企てたらどんなものであらう。一寸ちよつと考へられない馬鹿気た話である。外国の宣教師達が、昔聖書を日本語に訳す時には、或はさういふ事があつたかも知れない、それとても日本人の力がその大部分を占めて居たであらうと思ふ。さすがに国自慢のイギリス人でもシエイクスピアやミルトンを日本語に訳さうとはしなかつた。それは出来ない相談であるからである。外国語で自分のかんがへをのべたとか、創作をしたとかいふのは随分西洋にもあるが、私は寡聞にして、まだ自国のものを他国語に訳したといふ例を、外国の文学上で耳にした事がない。蓋しさういふ事があるかも知れないが、恐らくそれは稀有の例であらう。然るに翻訳会社のある日本では、それが往々行はれて居る、学生のために日本文を英語に訳する例を教へるためのものならば、それは已むを得ない事でもあるが、左様でなくて日本文学を外国に伝へるといふ意味で、それが行はれて居るには少しく驚く、が、さらにそれが意外とも例外とも考へられず、当然結構な事と考へられて居るに至つては、さらに驚かされる次第である。どうも日本はどこまでも翻訳国で、さすがに翻訳会社の出来るのも無理はないとうなづかれる。
 翻訳国と言へば日本の事物はすべて翻訳である。政治も、教育も、事業も何もかもさうである。その内には良訳もあれば誤訳もある。文芸の翻訳の気分訳もあれば逐字訳もあらう。飛行機の墜落とか、電車電灯の停電なんていふものは恐らく誤訳から来たものであらう。然らずんば拙訳の致す処であらう。私は三越に行くたびに、なるほど西洋のデパートメント・ストアを翻訳したら、うなるのだなと感心する。恐らくこれ等はうまく翻訳したものであらう。これに反して須田町すだちやうに立つて居る銅像は確かに誤訳である。而もあれは逐字訳の方の誤訳であらう。恐らくこれほどイギリスの原文を一字一句、そのまゝに訳して醜悪をあらはしたものはあるまい。須田町と言へば、これもつて私の言つた処であるが、その場処そのものが誤訳である。両国でも、この筋違でも、旧来の広場をつぶして、新らしい広場の誤訳をもツて来たものである。これ等は顕著なものであるが、今日の吾が社会に無数にあるいやな事、間違つた事の多くは、この誤訳から来て居るのであるまいか。
 日本の事が一切翻訳であるとすれば、この国が古今東西無比の文学翻訳国であるのもまた怪むに足りない。翻訳製造株式会社の出来るのも当然な事である。併し翻訳といふものゝ目的とする処は、一体何処であるのであらう。さういふやかましい事は、私には解らないが、かく自国以外の者が、どういふ事を考へて居るか、外国ではどういふものゝ見方をして居るか、どういふ風にものを感ずるか等の事を、作物によつて知り、それによつて自分の考を豊富にし、自分の考へ方、もの事の見方、感じ方を整へるのである。結局それは自分のためにするものである事は言ふまでもない、果してさうであるとすれば、その翻訳の仕方も自から定まつて来るはずである。それはこゝに私がぐづぐづ説く必要もあるまい。然るに其処そこに誤訳といふものがあればもしくは拙訳といふものがあれば、それは全くその目的を達し得ないのみならず、それが有害なものになる。さういふものは、むしろ無い方が良い。何となれば丁度須田町の銅像が醜をさらすやうに電車、電灯が、人を困らすやうに、間違つた考へ方や間違つた見方感じ方を伝へては、世を毒する事になるからである。よしそれほどでなくても悪い翻訳は、その原作に対する人の考をあやまらすものである。私一個としてもさういふ経験がある。その一例をあげて言へば、私は子供の時バンヤンの翻訳を読まされたが、恐らくその翻訳が、まだ文学的思想の幼稚の時に出来たものであつたからであらう、甚だ面白くないものであつたゝめ、今日なほあの有名な作が嫌ひである。一方には世をそこなひ、一方には原作を害ふ、この場合シエイクスピアの言を逆に、災害は二重になる。甚だ恐るべきである。読者はとがめて言ふであらう、貴様は前に翻訳といふものは容易なものだと言つたではないかと、如何いかにも左様さやう言つたが、それは売品としての翻訳で、文芸としての翻訳ではない。もつとも私は翻訳不可能論者であるから、その点から言つても翻訳の事をやかましく言ふ資格はないのであるが、併し同時に翻訳は出来ないが、解説は出来るのである、即ちパラフレイズは可能であるから、それによれば原作の考へ方見方感じ方の紹介は出来る筈である。
 なほも一つ言ひたい事がある、それは翻訳なるものは、あまりあてにならないといふ事である。あたふべくは翻訳などは見ない事にして貰ひたいのである。これも翻訳不可能論に関係があるが、贔屓目ひいきめに見ても翻訳は版画である。原作の細い筆づかひ、色彩、気分などは紹介しがたい。ヨオロツパ諸国の間にあつても左様であるから、いはんやすべての事情環境の異つた東洋の言葉を以て、或は東洋の筆を以て西洋の気分を出す事はづ不可能である。私一個としては西洋のものでも、甲の国のものを乙の国語を以つて読む事はなるべく避けて居る、よし読んだ処でそのすべてに信頼しない事にして居る、少しでも西洋の文字が解る人ならば、私は直接原文に接する事をすゝめる。原文では沢山によむ事は出来ず、或は深く味ふ事も出来ないかも知れないが、左様すればすべてが直接で所謂純料なるものが得られる。そして直接純料なものでなければ、何もいて外国式のものに接し、半可な外国通になる必要はないのである。もし翻訳に依つてヨオロツパの文学を説くものがあれば、それこそ理義をあやまつたものであるが、今日は往々さういふ人を見受ける。さういふのは板画に依つて、西洋の画を論ずるやうなものである。そんな翻訳を読むよりも下手でも日本の作物を読んだ方がどれほど益する処があるか知れない。幾時間もコツプに注いであつたビイルよりも、悪いながらも上かんの日本酒の方が良いと同じである。ただ/\翻訳を読まんとするものがあれば、私は翻訳有害論を唱へたい位である。
 翻訳株式会社の話はいやに真面目になつた、まつたく翻訳なんてものは、そんなに真面目に考へるべきでないかも知れない、これは矢張株式会社に頼んで多量生産をやつて貰つた方が自他のため、世間のためであるかもしれない。元来日本がさういふ国であるから。

底本:「日本の名随筆 別巻45 翻訳」作品社
   1994(平成6)年11月25日第1刷発行
底本の親本:「改造」改造社
   1927(昭和2)年7月号
初出:「改造」改造社
   1927(昭和2)年7月号
入力:浦山 敦子
校正:noriko saito
2009年5月3日作成
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