追羽子をつくばの山に上らむと思ひたちしは、明治二十四年の夏、富士山にのぼりし時の事なるが、荏苒たる歳月、つくばねの名に負ひて、ひい、ふう、みい、よ、いつ、六歳を數へ來て、都は春の風吹き、山色翠を添ふる今日この頃、少閑を得て、遂に程に上る。
 横山達三、澤田牛麿の二子、午前五時迄に來りて余を誘ふ筈なれば、寢過ごしてはならずと、心して寢たれど、曉を覺えずといふ春眠いぎたなく、六時にいたりて、やつと眼覺めたり。これは大變と、飛び起きて、冷飯かき込み、行裝とゝのへて、これでよいと待てば、二子生憎來たること遲し。待つ身のつらさに、一絶を呻り出す。
此去春風二百程。青鞋好欲新晴。待君未至坐敲句。籬外流鶯時一聲。
 詩成ると共に、二子至る。連日の雨は霽れたれど、空はくもりて、風寒き春の朝なり。千住、松戸を經て、我孫子まで徒歩し、そこより汽車に乘る。大利根を過ぐれば、筑波山近く孱顏を現はし、秀色掬すべし。一絶を作る。
又拭涙痕辭帝城。江湖重訂白鴎盟。天公未使吾儕死。到處青山含笑迎。
 土浦にて汽車を下る。一帶の人家、霞ヶ浦に接す。白帆斜陽を帶びて、霞にくれゆく春の夕暮いとあはれなり。笹本といふ旅館に一泊す。
 明くれば、四月六日なり。路を北條に取り、神郡村を通りこせば、筑波山直ちに面に當りて屹立す。雙峰の天に聳ゆるを馬耳に譬ふるは、已に陳腐なり。強ひて此山を形容すれば、蝦蟇の目を張つて蟠るに似たりともいふべき乎。筑波の市街は、山腹、即ち蝦蟇の口の上に在りて、層々鱗次す。當年士女が此に來りて蹈舞せし歌垣の名殘は、今も絶えずして、筑波祠前に六箇の妓樓あり。旅館はわづかに三戸に過ぎず。春の日永の晝寢にもあきたるにや、遊女二三人、紐帶のしどけなき姿して樓前に草摘むも、山なればこそ。即興一句を賦す。
のどけさや傾城草つむ山の上
 三軒の旅館、江戸屋尤も大なれども、結束屋眺望尤も好し。結束に小憩して、まづ女體山の道を取る。祠前に掛茶屋の老爺、余等を呼びとめて、拜殿より左へ男體山に上りて、女體山より下らるゝが順路なりといふ。その老實なる心ばかりは汲みたれど、戯れに、女の方が善いと笑ひすてて上る。半分ばかり上りたらむと思ふ處に、忽ち頭上に嬌聲あり。云ひし言葉はわからねど、鋭く耳に徹す。筑波の女神の影向にやと、仰ぎ見れば、美婦、岩頭に立てり。傍に掛茶屋あり。『休んで行け』といふ。休みてまた上る。今一つ掛茶屋あり、こゝには老夫と少女と二人あり。是より峯脈をつたうて女體山に至る迄、八九町の間、巨巖磊々として、一々其名あり。曰く、天の岩戸扇石、一名辨慶七戻り、高天の原、紫雲石、天の岩戸胎内潜り、國割石、神樂石、大黒石、北斗石、寶珠石、大神石など是れなり。木橋あり、天の浮橋といふ。皆馬鹿げたる名なり。其中にて、出船入船と名付けたるは、稍※(二の字点、1-2-22)氣の利きたる名づけ方也。二石相竝んで、其形巨船の如く、舳艫相反せり。其傍に高さ一丈、大いさこれに稱ひたる錨あり。出船入船より思ひつきたる洒落なるべし。國割石の上より、北に足穗、加波の連山を見下し、峯上を西に下れば、女體、寶珠の二峯、突兀として天を摩すと見る間に、白雲飛び來て、寶珠嶽を呑み、將に女體峯を襲はむとす。やがて寶珠嶽に上れば、雲は今女體を包みて、山下八州の野、手に取る如く見えしが、忽ちにして、白雲また下より涌き來りて、全く下界を封じぬ。人は雲と共に動きて、遂に女體山に上る。この峯、海を拔くこと、八百七十六メートル、男體よりも六メートル高し。峯上數武の地あり。小祠を安んず。見る/\雲は重なり來りて、咫尺辨ぜず。天風倒まに我衣を吹いて、天人我に※(「口+耳」、第3水準1-14-94)くの心地す。一句を作る。
我れ獨り空に殘りし霞かな
 女體山の上には、伊邪那美命を祭り、男體山の上には伊邪那岐命を祭る。其他、天照大神を始めとし、諸神を祭れる小祠相接し、その數、百に下らず。一々拜みゆけば、頭のあがる遑なし。世に叩頭蟲を學ばむとする人の稽古には、至極便利よき山也。
 男峯の麓に掛茶屋あり。もと五軒ありしが、其中の向月、放眼の二亭はこぼたれ、迎客、遊仙の二亭は鎖され、依雲亭のみ店を張れり。茲に夫婦餅をひさぐ。その餅は、團子を平たくつぶしたるが如きものを竹串に刺し、之に田樂を添へたり。何故に夫婦餅といふかと問へば、田樂と合せて食へばなりといふ。蓋し男體、女體に思ひ合せたる俗人の考へ也。
 こゝは女體山と男體山との間なれども、女峯には遠くして、男峯に近し。御幸原の稱あれど、峰脈の上の一小地に過ぎず。こゝより數町上りて、男體山の頂に達す。密雲脚下を封して眺望なし。同遊の横山子、これより水戸に赴かむとて、下館を指して、西に椎尾に下らむとし、澤田子と余とは、立身石を見て、南に筑波町に下らむとす。さらばとて、山頂に手をわかつ。天風、雲を送つて、夕陽影ひやゝかなり。一首の腰折を作る。
呼びかはす聲も霞に消えゆきて
  夕影寒し男筑波のやま
 下りゆく程に、余等遂に路を失ひぬ。澤田子、後ろに在りしが、忽ち脚を失して、ころ/\と轉がり來たる。あはやと思ふ間に、余の體に落ち重なり、余も共に轉ぶ。下に小牛の如き岩あり。之に當りては大變なりと、すばやく足を以て其岩を踏み、身體しばらく餘裕を得て、傍らの樹につかまりて、余等二人は止まることを得たれど、その餘勢は岩に傳はりて、ころび始めぬ。あはれや石に手なし。木につかまること能はず。見る/\、樹を裂き、枝をくだき、すさまじき音して下りゆきて、他の巖と鬪ひて、雲底に火花を散らすなど、壯觀云はむ方なし。われら始めて生きかへりたる心地して、口言ふこと能はず、體動くこと能はず、相顧みて茫然として佇立せしが、果ては谷底に落ちたるにや、岩の響全く聞えずなりぬ。われら荊棘を排し、榛莽をひらきて、漸く路を得て下る。清水の滴る處あり。これ有名なるみなの川の源なり。一首を作る。
雲の上の高根をよそにみなの川
  落ちて下りて淵となるらむ
 陰雲遂に雨をかもして、冷氣雨と共に肌に徹す。一難わづかにのがれて、又一難來たる。洵にさん/″\な目に逢ひたり。喬杉の下の險路を一呼して下り、薄暮、結束屋に達す。夜に入りて、雨益※(二の字点、1-2-22)甚しく、山風加はりて、窓を打つ音物凄し。向側の妓樓にて、絲肉の聲、盛んに起る。宿の娘に問へば、この地に二人の老いたる藝者あり、東京より來れるなりといふ。
山里の蘇小老いたり春の雨
 雨の寂しきに、用事仕舞ひたらば、話しに來ずやと言ひたるを、まことに受けて、宿の娘の、年十五六ばかりなるが、茶を入れかへて、持ち來たる。浴後、白粉淡く施したれば、別人の觀あり。同胞三人、上の姉は、家に在りて養子を迎へ、中の姉は東京に出で居れり。妾も二三月の後に、東京に行かむといふ。良縁ありたるにやと問へば、唯※(二の字点、1-2-22)かぶり振る。
こちら向け山物凄き夜の雨
 これは、『こちら向け我も寂しき秋の暮』の出來損ひ也。澤田子側より難じて曰く、その句には季が無いと。われ戯れに答へて曰く、本當に氣が有つてたまるものかと、澤田子噴飯す。この洒落、娘には分りしや否や知らねど、同じく笑ひを添へぬ。
 明くれば、風雨名殘なし。八州の野。蒼茫として、脚底に横はる。
俊鶻の翼に低し富士の山
 宿を朝鳥と共に立ちわかれて下る。顧みて筑波山を望めば、七合目以上には、『しが』かゝりて白し。玲瓏に非ず、模糊に非ず。雲とも見えず、雪とも見えず、又烟とも見えず。蓋し夜來の零露、曉寒に逢うて氷れるもの、土俗呼んで、『しが』とは云ふなり。北條、今鹿島、福岡、水街道を經て、この夜、野木崎村に一泊す。
 宿の名を藤本といふ。旅館と料理屋とを兼ねたり。浴後、酒を命ず。土浦、筑波の宿に比して、その味大いに好し。且つ旅宿も今夜が最終なれば、安心して大いに飮む。飮むで饒舌る。酌女一人にては敵しがたしとて、又一人來たる。肴盡きて更に肴を命じ、酒は七本を倒す。興未だ盡きざれど、嚢中を想へば心細し。二圓餘りし金、四十錢を二人の女に祝儀にやりたれば、餘す所は、わづかに一圓六十錢、ぐず/\して居れば、又一人來さうな氣色なれば、已むを得ず、切り上げて眠る。枕上一絶を賦す。
無限春風離別苦。征途有恨君看取。我將雙涙孤雲。灑作筑波山下雨[#「灑作筑波山下雨」はママ]
 夜明けて大いに心配せしが、勘定取つて見れば、案ずるより生むが易く、勘定は一圓二十錢にて、なほ四十錢を餘しぬ。茶代は、目をつぶつて去る。
 流山に來り、汽船に乘りて利根川を下らむと欲し、兩國橋までの船賃を問へば、一人前が二十三錢なりといふ。やれ/\都合六錢足らず。こゝは味醂の名所なれば、酒店に腰かけて、余は一合飮み、澤田子は五勺飮む、この代六錢なり。松戸に來りし時、正午に近し。澤田子二錢の芋を買うて午食に充つ。余は芋を好まず、二錢の駄菓子を買ひぬ。餘す所三十錢、かく儉約せるものは、市川より汽船に乘らむと思へばなり。
 さて市川に來りて、船賃を問へば、一人前十三錢、はしけが二錢、二人にて丁度三十錢なり。されど、出發は六七時にして、なほ四五時を餘せり。その間、駄菓子二錢の午食では、堪へ得べくもあらねば、遂に舟行を斷念して、壽司屋に入りて、飽くまでも壽司を食ひ、汽車に乘つて歸りぬ。
(明治三十一年)

底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年8月26日作成
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