千葉縣市川町眞間に引退してから、最早滿三年に成る。友人桐ヶ谷洗鱗畫伯逝いて一年以上、話相手に乏しい余は、切めて史蹟名勝に依つて心を慰めんとするが、一向に趣味の上に心のない町の人々は、史蹟など念頭においてゐない樣である。明治六年習志野の演習へ行幸遊ばされた明治大帝が、その樹下を御通行の際「美事なる松よ」とお褒めになつた市川町の名物三本松も、其一本が盤屈して街道を横斷してゐるのを、下をコンクリートにし、その樹腹をトラツクの荷物で皮をむいて了つた故、とう/\責め殺されて枯れて了つた。手をつけると祟りが恐ろしいとかで、立枯のまゝになつてゐる。
 余は三本松の時代放れした姿が氣に入つた。

トラツクにお辭儀をさせる松もあり
元日に三本松は見直され

等の川柳を詠んだが、昨今では、

繼橋は腐り三本松は枯れ

 市川競馬だけのみに熱中する町の人々を吾人は反省させたく、いつも考へてゐる。

鬪犬と競馬の中で句を作り

 繼橋は萬葉集東歌の中に下總國の歌として、
足の音せず行かん駒もが葛飾の
     眞間の繼橋やまず通はん
の歌が掲げられ、之れに依つて名高い。市川町大門通りの入江橋の北、眞間山弘法寺ぐはふじの下にある小さな石橋で、一昨年迄は朱塗りの橋桁が遺つてゐたが、それも村童のいたづらで溝の中へ捨てられ、只だ土臺の石だけの橋となつた。橋の袂の昔建てた石柱に「つぎはし」と刻され、又橋の袂に、元祿年間横死した五百石の旗本鈴木長頼が、僧某の四句の對句を刻したやうな石碑も立つてゐる。それは詞林千載萬葉不凋と云ふやうな文句である。此の鈴木長頼は幕府の開かれる最初の功臣開田二郎の子孫で、舊小田原北條の番臣の後らしい。眞間下に鈴木院を建て(後、龜が眞間の井から出たので今の龜井院に改む)眞間山弘法寺を信仰し、檜御殿を寄付し、立派な石段を寄進した。それは幕命に依つて日光三代の廟へ運搬すべき石段であつた。下野眞間田へ運搬すべきを下總の眞間に誤つたとの言ひ開きも通らず、檢視が來たるに先立ち、此の弘法寺の石段で立腹を切つた。今に泣石と云ふのがある。長頼は兎にも角にも眞間山や龜井院此邊の史蹟保存に關する恩人故に、余は龜井院の横にある鈴木長頼の墓を力めて紹介し、時々墓參をする事にしてゐる
 龜井院は二三年前新築せられ、立派に成り、舊蹟眞間の井、即ち眞間の手兒名の汲んだ井戸も木造の井戸側と成り、片葉の葦も茂つてゐるが、三年前には古い寺の臺所の裏に銕の井戸側で、龍吐水式で汲み上げる井戸であつた故、
葛飾や眞間の手兒名のアツパツパ
と詠んだこともある。

 萬葉集の山部の宿禰赤人と高橋むらじ虫麿の長歌で有名になつた眞間の手兒名は、劇に仕組まれ最著名の美人であるが、吾人萬葉頭の人間には、此手兒名靈堂といふのが、眞間山日蓮宗弘法寺の支配に屬し、普通の日蓮宗の堂形で、何だか南無妙法華經とでも題目を唱へさうで、萬葉の感じはしない。それに、手兒名の兒から案出して安産講が出來、お産の神樣に成つてゐる。二人の男に戀され、立場に困つて投身した美人の處女がお産の神樣も吾人には不可解に受取れる外はない
 萬葉の
葛飾の眞間の入江に打靡く
     玉藻刈りけん手兒名しおもほゆ
吾も見つ人にも告げむ葛飾の
     眞間の手兒名の奧津城おくつき
の赤人の歌や
葛飾の[#「葛飾の」は底本では「萬飾の」]眞間の井見れば立走り
     水汲ましけん手古名しおもほゆ
の高橋の虫麿の歌の面影の乏しい此境内を、何とかしたいものである。明治年間向島にて橘守部の子孫橘東世子といふ女流歌人が熱心な手兒名信者と見えて、靈堂入口の金子額、境内の石碑に萬葉の歌が同人の筆で刻されてゐるのが、一向大事に取扱はれてゐない。
 手兒名の投身した眞間の入江の跡の蓮池は、少しばかり殘つてまだ夏季には純白の花を着けてゐる。

 眞間山弘法寺は、元眞言宗の庵室であつたが、日蓮が庵僧と問答の結果説法に勝つて日蓮宗となつたもの、山上日蓮腰松も殘つてゐたが、數年前枯れた。江戸時代に紅葉の名所とされ、江戸から行徳へ、深川から舟路、それから一里半徒歩で市川を經て眞間山へ遠足した。古川柳に、

眞間へ來て何の事だと息子云ひ

 下谷龍泉寺町の正燈寺の紅葉は、それをかこつけに吉原へ遊んだものだが、其當てのない眞間の紅葉では伜の失望思ひやられる。

玉の盃底なきが眞間へ行き
正直の紅葉は足へまめを出し
女房に髮を結はせて眞間へ行き
昨日眞間へ行つてのとびつこ來る
眞間から見れば正燈寺遠いとこ

 又行徳の笹屋のうどんが名物であつたので、

うどんより外に思案のない紅葉
うど屋の[#「うど屋の」はママ]店にびつこや草鞋くひ

などの句もある。京成電車の有力者が此點に目ざめて、盛んに紅葉を植えて、都會人半日の清遊に適するやうに設備をなし、中年以上の人々に、詩の氣持を味はせる必要があらうと思ふ。實際大東京市を出て、二十分位で山や川の氣持を味はせるのは、此の眞間山と江戸川を措いては外にない。それを京成電車など海水もロクにない谷津遊園地に、五十萬圓も金を投じて子供を集めるのは、ちと馬鹿らしいやうにも思はれる。


 弘法寺うしろの練兵場を突拔けて里見公園に行く。古川柳に、

草臥れた跡を見て出る鴻の臺

 余が少年の頃兩國から徒歩で鴻の臺へ來り、又同じ道を引返したので此句の妙味を味ふのである。斷崖の下には江戸川の清流あり、且つ北條氏康と里見義弘の古戰場、感慨深いものがある。芭蕉門の中村史邦の『小文庫』に、
   鴻之臺眺望
切岸や卯の花下し一文字     山店
安房上總うしろに當てゝ夏木立  嵐竹
浮雲や左右に分れて青嵐     史邦
   同弔古戰場
幽靈の遊び所や花卯つ木     山店
いかづちの荒れて久しき夏野哉  史邦
黒雲の折り/\かゝる青葉哉   嵐竹
   首塚
首塚やとげに咲きたる花うばら  史邦
首塚や晝は螢の草隱れ      嵐竹
首塚や人も登らぬ夏蕨      山店
 又細井廣澤の詩に、
久自神都望碧岑。    偶然來此披幽襟
古松夾路三千樹。     危磴砌岸二十尋。
亭子窓高新面目。      冥鴻聲遠舊知音。
老僧先指芙蓉是。    眼界畑雲一段深。
 總寧寺墓地が公園の入口左方の杉並木の下に在る。里見戰爭の陣沒者大將小笠原定頼の五輪の塔があり、小さな里見群亡の墨といふのが、文政年中建てられたのを、昭和年間發見再建されたのは餘りにも貧弱すぎて、懷古の料とは成りにくい。もそつと當年を懷古する位の石碑を建てる有志者は無いのか。今春ある學校の遠足會に招かれ、此公園で拙句、

氏綱も初手は青砥で息をつき

 北條氏綱青砥に陣すと古書にある。友人俳人中野三允氏の句に、

穗薄の戰げば立ちぬ里見勢

 眞間山の下龜井院の横を四五丁行つて、突當りの岡の樹木欝蒼たる中にある。堂は四國某寺の寫しで小さな堂である。寺の礎石は堂後墓地内杉林の中に天然石を遺してゐる。
 住職吉澤永弘氏は風流の僧で、日本新聞時分から余を知つてゐて話が合ふ。快活恬淡禪僧に近い。古川柳の

山寺は祖師に頭巾を脱ぐばかり

を表裝して奧座敷の床へ掲げられてゐる。寺には寺の花瓦を藏してゐる。

國分寺庭さへ掘れば寶が出
國分寺瓦せんべい思ひ付き

などゝ戯れた事もある。庭内には夫婦梅といふ枝垂の薄仁梅の美事な老木がある。全國の國分寺で僅かに信州上田市に五重の塔が遺つてゐるさうで、下總の國分寺も何等の遺物はない。眞言宗である。
 寺から後ろの畑を五六丁で、蓴菜池がある。別に之れと言つて取り立てゝ云ふ程でもないが、蓴菜の取れるので有名になつた池である。

 菅野は市川町に接した東方の松林間の住宅地で、昔は市川の桃として有名な土地である。拙句

市川へ名殘の桃の春が來る

 今は市川は苺の名所となりつゝあるやうである。
 川柳は郷土色と生活への美の交渉したもの、功利主義經濟第一主義の現代には、次第々々に此生活間の美の詩の氣持が、全然亡びつゝあるのを嘆かずにはゐられない。
(『趣好』昭和九年九月號)

底本:「川柳久良伎全集 第五卷」川柳久良伎全集刊行會
   1937(昭和12)年1月25日初版発行
初出:「趣好」
   1934(昭和9)年9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:小林繁雄
2011年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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