一

 番茶をほうじるらしい、いゝ香気においが、真夜中とも思ふ頃ぷんとしたので、うと/\としたやうだつたさわは、はつきりと目が覚めた。
 随分ずいぶん遙々はるばるの旅だつたけれども、時計と云ふものを持たないので、何時頃か、それは分らぬ。もっと村里むらざとを遠く離れたとうげの宿で、鐘の声など聞えやうが無い。こつ/\と石を載せた、板葺屋根いたぶきやねも、松高き裏の峰も、今は、渓河たにがわの流れの音もしんとして、何も聞えず、時々さっと音を立てて、枕に響くのは山颪やまおろしである。
 蕭殺しょうさつたるの秋の風は、よい一際ひときわ鋭かつた。藍縞あいじまあわせを着て、黒の兵子帯へこおびを締めて、羽織も無い、沢のわかいがせた身体からだを、背後うしろから絞つて、長くもない額髪ひたいがみつめたく払つた。……余波なごりが、カラカラとからびたきながら、旅籠屋はたごやかまち吹込ふきこんで、おおきに、一簇ひとむら黒雲くろくもの濃く舞下まいさがつたやうにただよふ、松を焼く煙をふっと吹くと、煙はむしろの上を階子段はしごだんの下へひそんで、向うに真暗まっくら納戸なんどへ逃げて、して炉べりに居る二人ばかりの人の顔が、はじめて真赤に現れると一所いっしょに、自在にかかつた大鍋おおなべの底へ、ひら/\と炎がからんで、真白な湯気のむく/\と立つのが見えた。
 其の湯気の頼母たのもしいほど、山気さんきは寒く薄いはだとおしたのであつた。午下ひるさがりにふもとから攀上よじのぼつた時は、其の癖あせばんだくらゐだに……
 表二階おもてにかいの、狭い三じょうばかりの座敷に通されたが、案内したものの顔も、つとほのめくばかり、目口めくちも見えず、う暗い。
 色の黒い小女こおんなが、やがてうるし禿げたやうななりで、金盥かなだらいを附けたらうと思ふ、おおき十能じゅうのうに、焚落たきおとしを、ぐわん、とつたのと、片手にすすけた行燈あんどう点灯ともしたのを提げて、みし/\と段階子だんばしごあがつて来るのが、底の知れない天井の下を、穴倉あなぐらから迫上せりあがつて来るやうで、ぱつぱつと呼吸いきを吹くさまに、十能の火が真赤な脈を打つた……ひややかな風が舞込まいこむので。
 座敷へ入つて、惜気おしげなく真鍮しんちゅうの火鉢へ打撒ぶちまけると、横に肱掛窓ひじかけまどめいた低い障子が二枚、……其の紙のやぶれから一文字いちもんじに吹いた風に、又ぱっ[#「火+發」、105-14]としたのが鮮麗あざやか朱鷺色ときいろめた、あゝ、秋が深いと、火の気勢けはいしもむ。
 行燈あんどうは薄もみぢ。
 小女こおんなほ黒い。
 沢は其のまゝにじり寄つて、手をかざして俯向うつむいた。一人旅の姿は悄然しょんぼりとする。
 がさ/\、がさ/\と、近いが行燈あんどうの灯は届かぬ座敷の入口、板廊下の隅に、芭蕉ばしょうの葉を引摺ひきずるやうな音がすると、蝙蝠こうもりのぞ風情ふぜいに、人の肩がのそりと出て、
如何様いかがさまで、」
 とぼやりとした声。
「え?」と沢は振向ふりむいて、おびえたらしく聞返ききかえす、……
按摩あんまでな。」
 と大分横柄おうへい……中に居るもののひげのありなしは、よく其のかんで分ると見える。ものを云ふ顔が、反返そりかえるほど仰向あおむいて、沢の目には咽喉のどばかり。
「お療治は如何様で。」
「まあ、ござんした。」
 と旅なれぬわかものは慇懃いんぎんに云つた。
「はい、お休み。」
 と其でもこうべを下げたのを見ると、抜群なる大坊主おおぼうず
 で、行燈あんどう伸掛のしかかるかと、ぬつくりとつたが、障子を閉める、と沙汰さたが無い。
 前途ゆくて金色こんじきの日の輝く思ひの、都をさしての旅ながら、かか山家やまが初旅はつたびで、旅籠屋はたごやへあらはれる按摩の事は、古い物語で読んだばかりの沢は、つく/″\ともののあわれを感じた。

        二

 沢は薄汚うすよごれた、ただそれ一個ひとつの荷物の、小さな提革鞄さげかばんじっながら、あおなりで、さし俯向うつむいたのである。
 爾時そのとき、さつと云ひ、さつと鳴り、さら/\と響いて、小窓の外を宙を通る……つめたもすその、すら/\とに触つて……高嶺たかねをかけて星の空へ軽く飛ぶやうな音を聞いた。
 吹頻ふきしきつた秋の風が、よるは姿をあらはして、人に言葉を掛けるらしい。
 よいには其の声さへ、さびしい中にも可懐なつかしかつた。
 さて、今聞くも同じ声。
 けれども、深更しんこうに聞く秋の声は、夜中にひそ/\とかど跫音あしおとほとんひとしい。宵の人通りは、内に居るものに取つてたれかは知らず知己ちかづきである。が、けての跫音は、かたきかと思ふへだてがある。分けて恋のない――人を待つおもいの絶えた――一人旅の奥山家おくやまが、枕におとづるゝ風は我をおそはむとする殺気を含む。
 ところで……沢が此処ここに寝て居る座敷は――其の家も――宵に宿つた旅籠屋はたごやではない。
 あの、小女こおんなが来て、それから按摩のあらわれたのは、蔵屋くらやと言ふので……今宿つて居る……此方こなたは、鍵屋かぎやと云ふ……此のとうげ向合むかいあつた二軒旅籠の、峰を背後うしろにして、がけ樹立こだちかげまつたさみしい家で。ぜんのは背戸せどがずつとひらけて、向うの谷でくぎられるが、其のあいだ僅少わずかばかりでもはたけがあつた。
 峠には此の二軒のほかに、別な納戸なんどうまやも無い、これは昔からうだと云ふ。
「峠、お泊りでごいせうな。」
 ふもとへ十四五ちょうへだたつた、崖の上にある、古い、薄暗い茶店ちゃみせいこつた時、裏に鬱金木綿うこんもめんを着けたしま胴服ちゃんちゃんこを、肩衣かたぎぬのやうに着た、白髪しらがじいの、しもげた耳に輪数珠わじゅずを掛けたのが、店前みせさきかしこまつて居て聞いたので。其処そこしきものには熊の皮を拡げて、目のところを二つゑぐり取つたまゝの、して木の根のくりぬき大火鉢おおひばちが置いてあつた。
 背戸口せどぐちは、充満みちみち山霧やまぎりで、しゅうの雲をく如く、みきなかばを其の霧でおおはれた、三抱みかかえ四抱よかかえとちが、すく/\と並んで居た。
 名にし栃木峠とちのきとうげよ! ふもとから一日がかり、のぼるに従ひ、はじめは谷に其のこずえ、やがては崖に枝組違くみちがへ、次第に峠に近づくほど、左右から空を包むで、一時ひとしきりみち真暗まっくらよると成つた。……梢の風は、雨の如く下闇したやみの草のこみちを、清水が音を立てて蜘蛛手くもでに走る。
 前途ゆくてはるかに、ちら/\と燃え行く炎が、けぶりならず白いしぶきを飛ばしたのは、駕籠屋かごや打振うちふ昼中ひるなか松明たいまつであつた。
 やっ茶店ちゃや辿着たどりつくと、其の駕籠は軒下のきしたに建つて居たが、沢の腰を掛けた時、白い毛布けっとに包まつた病人らしいおとこを乗せたが、ゆらりとあがつて、すた/\行く……
 峠越とうげごえの此の山路やまみちや、以前も旧道ふるみちで、余り道中の無かつたところを、汽車が通じてからは、ほとん廃駅はいえきに成つて、いのししおおかみも又戻つたと言はれる。其の年、はげしい暴風雨あらしがあつて、鉄道が不通に成り、新道しんどうとても薬研やげんに刻んで崩れたため、旅客りょかくは皆こゝを辿たどつたのであるが、其も当時だけで、又中絶なかだえして、今はう、おくれたかりばかりが雲を越す思ひで急ぐ。……
 上端あがりばなに客を迎顔むかえがお爺様じいさまの、トやつた風采ふうさいは、建場たてばらしくなく、墓所はかしょ茶店ちゃみせおもむきがあつた。
旅籠はたごはの、大昔から、蔵屋と鍵屋と二軒ばかりでござんすがの。」
何方どちらへ泊らうね。」
「やあ、」
 と皺手しわでひざへ組んで、俯向うつむいて口をむぐ/\さして、
「鍵屋へは一人も泊るものがごいせぬ。なんや知らん怪しい事がある言うての。」

        三

 沢は蔵屋へ泊つた。
 が、焼麩やきぶ小菜こなの汁でぜんが済むと、行燈あんどう片寄かたよせて、小女こおんなが、堅い、つめたい寝床を取つてしまつたので、これからの長夜ながよを、いとゞわびしい。
 座敷は其方此方そちこち人声ひとごえして、台所にはにぎやかなものの音、炉辺ろべりにはびたわらいも時々聞える。
 さびしい一室ひとまに、ひとり革鞄かばんにらめくらをした沢は、しきり音訪おとなふ、さっ……颯と云ふ秋風あきかぜそぞ可懐なつかしさに、窓をける、とひややかな峰がひたいを圧した。向う側の其の深い樹立こだちの中に、小さく穴のふたづしたやうに、あか/\と灯影ひかげすのは、聞及ききおよんだ鍵屋であらう、二軒のほかは無いとうげ
 一郭、中がくぼんで、石碓いしうすを拡げた……右左みぎひだりは一面のきり。さしむかひに、其でも戸のいた前あたり、何処どこともなしに其の色が薄かつた。
 で、つと小窓をひらくと、其処そこそでれた秋風は、ふと向うへげて、鍵屋の屋根をさら/\と渡る。……さっ、颯と鳴る。して、白い霧はそよとも動かないで、墨色すみいろをした峰がゆすぶれた。
 よるの樹立の森々しんしんとしたのは、山颪やまおろしに、皆……散果ちりはてた柳の枝のしなふやうに見えて、鍵屋ののきを吹くのである。
 透かすと……鍵屋の其のさびしい軒下のきしたに、赤いものが並んで見えた。見る内に、霧が薄らいで、其がしずくに成るのか、赤いものはつやを帯びて、濡色ぬれいろに立つたのは、紅玉こうぎょくの如き柿の実を売るさうな。
「一つ食べよう。」
 とても寝られぬ……次手ついでに、宿の前だけも歩行あるいて見よう、――
「遠くへかつせるな、天狗様てんぐさまが居ますぜえ。」
 あり合はせた草履ぞうり穿いて出る時、亭主が声を掛けて笑つた。其の炉辺ろべりには、先刻さっき按摩あんま大入道おおにゅうどうが、やがて自在の中途ちゅうとを頭で、神妙らしく正整しゃんと坐つて。……胡坐あぐらいて駕籠舁かごかきも二人居た。
 沢は此方こなた側伝かわづたひ、鍵屋の店をなぞを見る心持ここち差覗さしのぞきながら、一度素通すどおりに、霧の中を、翌日あす行く方へ歩行あるいて見た。
 少し行くと橋があつた。
 驚いたのは、其の土橋どばしが、あぶなつかしくこわごわれに成つて居た事では無い。
 渡掛わたりかけた橋の下は、深さ千仭せんじん渓河たにがわで、たたまり畳まり、犇々ひしひし蔽累おおいかさなつた濃い霧を、深くつらぬいて、……峰裏みねうらの樹立をる月の光が、真蒼まっさおに、一条ひとすじ霧に映つて、底からさかさ銀鱗ぎんりんの竜の、一畝ひとうねうねつてひらめきのぼるが如く見えた其のすごさであつた。
 ながれの音は、ぐわうと云ふ。
 沢はのあたり、深山しんざんの秘密を感じて、其処そこからあと引返ひっかえした。
 帰りは、みきを並べたとちの木の、星を指す偉大なる円柱まるばしらに似たのを廻り廻つて、山際やまぎわに添つて、反対のかわを鍵屋の前に戻つたのである。
「此の柿を一つ……」
「まあ、お掛けなさいましな。」
 かまち納涼台すずみだいのやうにして、端近はしぢかに、小造こづくりで二十二三のおんなが、しつとりと夜露よつゆに重さうな縞縮緬しまちりめんつまを投げつゝ、軒下のきしたふ霧を軽く踏んで、すらりと、くの字に腰を掛け、戸外おもてながめて居たのを、沢は一目見て悚然ぞっとした。月のあかるい美人であつた。
 が、櫛巻くしまきの髪に柔かなつやを見せて、せなに、ごつ/\した矢張やっぱ鬱金うこんの裏のついた、古い胴服ちゃんちゃんこを着て、身に夜寒よさむしのいで居たが、其の美人の身にいたれば、宝蔵千年ほうぞうせんねんよろいを取つて投懸なげかけた風情ふぜいがある。
 声も乱れて、
「おだいは?」
「私は内のものではないの。でもうござんす、めしあがれ。」
 とさわやかな、すずしいものいひ。

        四

 沢は、駕籠かごに乗つて蔵屋に宿つた病人らしい其と言ひ、鍵屋に此の思ひがけない都人みやこびとを見て、つい聞知ききしらずに居た、此の山には温泉いでゆなどあつて、それで逗留をして居るのであらう。
 とづ思つた。
 ところが、聞いて見ると、うで無い。ただ此処ここ浮世離うきよばなれがしてさみしいのが気に入つたので、何処どこにも行かないで居るのだと云ふ。
 さみしいにも、第一の家には、旅人の来て宿るものは一にんも無い、と茶店ちゃみせで聞いた――とまりがさて無いばかりか、※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして見ても、がらんとした古家ふるいえの中に、其のおんなばかり。一寸ちょっとねずみも騒がねば、家族らしいものの影も見えぬ。
 男たちは、とうから人里ひとざとかせぎにりて少時しばらく帰らぬ。内には女房と小娘が残つて居るが、皆向うのにぎやかな蔵屋の方へ手伝ひに行く。……商売敵しょうばいがたきも何も無い。只管ひたすら人懐ひとなつかしさに、進んで、喜んで朝から出掛ける……一頃ひところ皆無かいむだつた旅客りょかくが急に立籠たてこんだ時分はもとより、今夜なども落溜おちたまつたやうに方々から吹寄ふきよせる客が十人の上もあらう。……其だと蔵屋の人数にんずばかりでは手が廻りかねる。時とすると、ぜん、家具、蒲団ふとんなどまで、此方こっちから持運もちはこぶのだ、と云ふのが、頃刻しばらくして美人たおやめの話で分つた。
「家も此方こっちが立派ですね。」
「えゝ、暴風雨あらしの時に、蔵屋は散々に壊れたんですつて……此方こちらは裏に峰があつたおかげで、もとのまゝだつて言ひますから……」
「其だに何故なぜ客が来ないんでせう。」
貴下あなた、何もお聞きなさいませんか。」
「はあ。」
 沢は実は其段そのだん心得こころえて居た、為に口籠くちごもつた。
「おばけが出ますとさ。」
 やせぎすな顔に、きよい目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつて、沢を見て微笑ほほえんで云つた。
「嘘でせう。」
「まあ、泊つて御覧なさいませんか。」
 はじめは串戯じょうだんらしかつたが、のち真個まったくいざなつた。
是非ぜひうなさいまし、お化が出ると云つて……しておんなが一人で居るのを見て、お泊んなさらないでは卑怯ひきょうだわ。人身御供ひとみごくう出会でっくわせば、きっと男が助けるときまつたものなの……又、助けられる事に成つて居るんですもの。ね、うなさい。」
 で、退引のっぴきあらせず。
「蔵屋の方は構ひません。一寸ちょいと、私が行つて断つて来て上げます。」
 と気軽に、すつと出る、留南奇とめきかおりさっと散つた、霧につきもすそかげは、絵で見るやうな友染ゆうぜんである。
 沢はざるに並んだ其の柿を鵜呑うのみにしたやうに、ポンと成つた――実は……旅店りょてんの注意で、暴風雨あらし変果かわりはてた此のさき山路やまみちを、朝がけの旅は、不案内のものに危険けんのんであるから、一同のするやうに、路案内みちあんないやとへ、と云つた。……成程なるほど、途中の覚束おぼつかなさは、今見た橋の霧の中に穴の深いのでもよく知れる……寝るまでに必ずやとはう、と思つて居た、其の事を言ひ出すひまも無かつたのである。
「お荷物はこれだけですつてね、う?……」
 と革鞄かばんそでで抱いて帰つて来たのが、打傾うちかたむいて優しく聞く。
「恐縮です、恐縮です。」
 沢は恐入おそれいらずには居られなかつた。とびはねにはことづけても、此の人の両袖に、――く、なよなよと、抱取だきとらるべき革鞄ではなかつたから。
「宿で、道案内の事を心配して居ましたよ。其はいの、貴下あなた、頼まないでお置きなさいまし。途中の分らないところ僅少わずかあいだですから、私がお見立て申すわ。逗留とうりゅうしてよく知つて居ます。」
 と入替いれかわりに、のきに立つて、中に居る沢にう言ひながら、其の安からぬ顔を見て莞爾にっこりした。
「大丈夫よ。何が出たつて、私が無事で居るんですもの。さあ、お入んなさいまし。あゝ、寒いわね。」
 と肩をほっそり……ひさしはづれに空を仰いで、山のの月とかんばせを合せた。
しもが下りるのよ、炉のところ焚火たきびをしませうね。」

        五

 美女たおやめは炉を囲んで、少く語つて多く聞いた。して、沢が其の故郷ふるさとの話をするのを、もの珍らしく喜んだのである。
 沢は、隔てなく身の上さへ話したが、しかし、十有余年じゅうゆうよねん崇拝する、都の文学者某君なにがしぎみもとへ、宿望しゅくぼうの入門がかなつて、其のために急いで上京する次第は、何故なぜか、天機てんきらすと云ふやうにも思はれるし、又余り縁遠えんどおい、そんな事は分るまいと思つて言はなかつた。
 蔵屋のかどの戸がしまつて、山が月ばかり、真蒼まっさおに成つた時、此の鍵屋の母娘おやこが帰つた。例の小女こおんなは其の娘で。
 二人が帰つてから、寝床は二階の十畳の広間へ、母親が設けてくれて、其処そこへ寝た――ちょうど真夜中過ぎである。……
 枕を削る山颪やまおろしは、激しく板戸いたどひしぐばかり、髪をおどろに、藍色あいいろめんが、おのを取つて襲ふかとものすごい。……心細さはねずみも鳴かぬ。
 其処そこへ、茶をほうじる、が明けたやうなかおりで、沢は蘇生よみがえつた気がしたのである。
 けれども、寝られぬ苦しさは、ものの可恐おそろしさにも増して堪へられない。余りの人の恋しさに、起きて、身繕みづくろひして、行燈あんどうを提げて、便たよりのないほど堂々広だだっぴろい廊下を伝つた。
 持つて下りた行燈あんどう階子段はしごだんの下に差置さしおいた。下のえんの、ずつと奥の一室ひとまから、ほのかにの影がさしたのである。
 よこしまな心があつて、ためにはばかられたのではないが、一足ひとあしづゝ、みし/\ぎち/\と響く……あらしふき添ふえんの音は、かか山家やまがに、おのれと成つて、歯をいて、人をおどすが如く思はれたので、忍んでそっ抜足ぬきあしで渡つた。
 そばへ寄るまでもなく、おおきな其の障子の破目やれめから、立ちながらうち光景ようすは、衣桁いこうに掛けた羽衣はごろもの手に取るばかりによく見える。
 ト荒果あれはてたが、書院づくりの、とこわきに、あり/\と彩色さいしきの残つた絵の袋戸ふくろどの入つた棚の上に、やあ! 壁を突通つきとおして紺青こんじょうなみあつて月の輝く如き、表紙のそろつた、背皮に黄金おうごんの文字をした洋綴ようとじ書籍ほんが、ぎしりと並んで、さんとしてあおき光を放つ。
 美人たおやめは其の横に、机を控へて、行燈あんどうかたわらに、せなを細く、もすそをすらりと、なよやかに薄い絹の掻巻かいまきを肩から羽織はおつて、両袖りょうそでを下へ忘れた、そうの手を包んだ友染ゆうぜんで、清らかなうなじから頬杖ほおづえいて、繰拡くりひろげたペイジをじっ読入よみいつたのが、態度ようす経文きょうもんじゅするとは思へぬけれども、神々こうごうしく、なまめかしく、しか婀娜あだめいて見えたのである。
「お客様ですか。」
 沢が、声を掛けようとして、思はず行詰ゆきづまつた時、向うから先んじて振向ふりむいた。
「私です。」
「お入んなさいましな、待つて居たの。きっと寝られなくつてらつしやるだらうと思つて、」
 障子の破れに、顔が艶麗あでやかに口のほころびた時に、さすがにすごかつた。が、さみしいとも、夜半よなかにとも、何とも言訳いいわけなどするには及ばぬ。
「御勉強でございますか。」
 我ながら相応そぐはない事を云つて、火桶ひおけ此方こなたへ坐つた時、違棚ちがいだなの背皮の文字が、稲妻いなずまの如く沢のひとみた、ほかには何もない、机の上なるも其の中の一冊である。
 沢は思はず、ひざまずいて両手をいた。やがて門生もんせいたらむとする師なる君の著述を続刊する、皆名作の集なのであつた。
 時に、見返つた美女たおやめ風采とりなりは、蓮葉はすはに見えてつ気高く、
うなすつたの。」
 沢は仔細を語つたのである……
 聞きつゝ、世にも嬉しげに見えて、
頼母たのもしいのねえ、貴下あなたは……えゝ、知つて居ますとも、多日ひさしく御一所ごいっしょに居たんですもの。」
「では、あの、奥様。」
 と、片手をきつゝ、夢を見るやうな顔して云ふ。
「まあ、嬉しい!」
 と派手な声の、あとが消えて、じり/\と身をめた、と思ふと、ほろりとした。
「奥様と云つて下すつたお礼に、いゝものを御馳走ごちそうしませう……めしあがれ。」
 と云ふ。はれやかに成つて、差寄さしよせる盆に折敷おりしいた白紙しらかみの上に乗つたのは、たとへば親指のさきばかり、名も知れぬ鳥の卵かと思ふもの……
とちの実のもちよ。」
 同じものを、来るみちじじい茶店ちゃみせでも売つて居た。が、其の形は宛然まるで違ふ。
貴下あなた、気味が悪いんでせう……」
 と顔を見て又微笑ほほえみつゝ、
真個ほんとうの事を言ひませうか、私は人間ではないの。」
「えゝ!」
鸚鵡おうむなの、」
「…………」
「真白な鸚鵡の鳥なの。此の御本ごほんの先生を、う其は……贔屓ひいきな夫人があつて、其のかたが私を飼つて、口移くちうつしにを飼つたんです。私は接吻キッスをする鳥でせう。してね、先生のとこへ贈りものになつて、私は行つたんです。
 先生は私に口移しが出来ないの……うすると、其の夫人を恋するやうに成るからつて。
 私は中に立つて、其の夫人と、先生とに接吻キッスをさせるために生れました。して、遙々はるばる東印度ひがしインドから渡つて来たのに……口惜くやしいわね。
 其で居て、そばに置いては、つい口をつけないでは居られないやうな気に成るからつて、私を放したんです。
 すずめつばめでないのだもの、鸚鵡が町家まちやの屋根にでも居て御覧なさい、其こそ世間騒がせだから、こゝへ来て引籠ひきこもつて、先生の小説ばかり読んで居ます。
 貴下あなた、嘘だと思ふんなら、其の証拠を見せませう。」
 と不思議な美しい其のもちを、ト唇に受けたと思ふと、沢の手は取られたのである。
 で、ぐいと引寄せられた。
うして、さ。」
 と、櫛巻くしまきの其の水々みずみずとあるのを、がつくりとひたいゆるばかり、仰いで黒目勝くろめがちすずしひとみじっと、凝視みつめた。白いほおが、滑々すべすべと寄つた時、くちばしが触れたのであらう、……沢は見る/\鼻のあたりから、あの女の乳房をひらく、鍵のやうな、鸚鵡の嘴に変つて行く美女たおやめの顔を見ながら、甘さ、も言はれぬ其の餅を含んだ、こころ消々きえぎえと成る。山颪やまおろしふっが消えた。
 とおんなの全身、ひさしる月影に、たら/\と人の姿の溶ける風情ふぜいに、輝く雪のやうな翼に成るのを見つゝ、沢は自分の胸の血潮が、同じ其の月の光に、真紅しんく透通すきとおるのを覚えたのである。

「それでは、……よく先生にお習ひなさいよ。」
 東雲しののめさわやかに、送つて来て別れる時、つと高くみちしるべの松明たいまつを挙げて、前途ゆくてを示して云つた。其の火は朝露あさつゆ晃々きらきらと、霧を払つて、満山まんざんに映つた、松明は竜田姫たつたひめが、くてにしきむる、燃ゆるが如き絵の具であらう。
 ……白い鸚鵡おうむを、今も信ずる。

底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
   1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
   1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
   1940(昭和15)年発行
初出:「三越」
   1911(明治44)年10月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
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