幼少七歳の頃なりし、ジゴマなる探偵映画当時は活動大写真を見て、動く写真と、その白いコルセットのスカートをながくひきずる令嬢がすごい顔をした大悪漢に、いまやあわやという大危険に小さな心臓を震るわし本気になって心配をし、ニック・カーターという名探偵が現われてこれを救うという大スリルに心を踊らしたのが、そもそも泰西活動大写真を見た最初であった。
 それから小学校の二、三年の頃であったでありましょう。「名金」なる連続映画を麻布の六本木にあるささやかな活動小屋でラムネと塩せんべいをかじりながら、感極まるとピイピイ口笛をふいて拍手喝采をしたものである。子供心にヒロイン、キチイに扮する、グレース・カーナドに恋のほのほを燃し夢うつつであった。それに現れる二枚目フランシス・フォード、絶対に強力な快漢ロローに扮するエデー・ポロなぞが黄金貨幣を真二つに切って、その行方をさがし、二つ合えば宝のかくし場所がわかるという大活劇がくり広げられて行く。僕はボール紙に金紙をはり、それにわからぬアルハベットをつづり二つに切って近所の悪たれ坊主連中と名金ごっこをしたのはなつかしい想い出である。グレース・カーナド出演映画は「獣魂」なぞ陸続と現れ、冒険心に満ちていた少年の僕を人生の楽しみとまでしみ込ましたのである。
 その頃、グレス・ダーモンドという眼の美しい日本人好みの女優の「赤い目」という連続映画が登場し、二巻目の終りに両眼が恐ろしいまでクローズ・アップされ、その眼球だけ赤色がルビーのように染められていたのには驚異であった。
 幸い両親が新しい物好きで、僕の映画愛好に、むしろ賛成であったのは僕の大なる幸福であったのであろう。
 次に僕を真髄まで映画ファンにしてしまったのは、パール・ホワイトである。先日もベティ・ハットンの「ポーリンの冒険」で私はなにか涙をもよおすほど自分の若き少年の頃を思い起して胸のあつくなるおもいであった。そのほほの色まで感じさせる明眸のパールが耳かくしの金髪に胸のふくらみを白いブラウスに包み、腰のあたりがキュウーと張ち切れそうな長靴姿には、僕はあの真暗な客席でほほを赤らめ面はずかしげに上気してスクリーンのパールに気もそぞろであったのです。それは「拳骨」という、シャルトン・ルイズの演ずるハンケチで顔を覆い、いつも拳骨をにぎる兇悪な悪漢とその乾分におそわれるパールの運命やいかに? と次週へのお楽しみという連続映画に引かされ毎週毎週通いつめるのは、まるで恋人とのあいびきのような甘い雰囲気であったのです。パール物は続々と上映され、ついには映画ファンである両親につれられ、当時映画劇場としては立派な赤坂溜池の葵館へと出かけ、赤坂の名妓なぞと二階の特等席でアイス・クリーム(ラムネではありませんぞ)を喰べながら徳川夢声さんの名説明で、「運命の指輪」「鉄の爪」「呪いの家」に心を踊らした想い出は、今もなお心の奥にほのぼのとよみ返って来るではありませんか。当時夢声老は二十何歳の青春の頃であったでしょう、声はすれども姿は見えずなれど周囲の赤坂の名妓連が、
「私! 夢声におかぼれしているのよ」
 と、ささやいているのを聞いても、さぞかし女にもてていた頃でありましょう。
 この時代には、連続映画黄金時代で、エラ・ホール主演「マスタキー」、チャレス・ハチソンの「ハリケン・ハッチ」、繩ぬけ名人ハーリー・ハウデニーの「人間タンク」、ロス・ローランド主演の「赤い輪」等、まったく絢爛たるものであった。
 同時に僕等少年ファンを嬉ばしたのは、アメリカの喜劇映画であった。キーストン時代といって、米国キーストン会社提供の短編コメデーは、それは素晴らしく楽しいもので、マックス・センネットのもとに、チャールス・チャップリン、チェスター・コンクリン、ファティア・バンクル、アール・セントジョン、フオード・スターリング、マック・スウン、ベン・ターピン、メーベル・ノーマンド等数えきれぬほどの喜劇スターが現れ明朗な奇想天外のギャグには抱腹絶倒したものである。まったく胸のすくような明るい喜劇で、ここに現れる美人軍をセンネット・ガールといって海水着一枚に濃艶な肉体をわずかに包みピチピチしたアメリカ美人軍には、にきび華やかなりし僕にはまるでこの世のものとは思えず、ただ夢心地、今なお女性の姿体美を画きつくすのに浮身をやつしている自分にはこのセンネット・ガールが大なる遠因をなしているのであろう。
 この美しいセンネット・ガールの中からは、マリー・プレボスト[#「マリー・プレボスト」は底本では「マリ・・ブレポスト」]や、昨年話題をなげた「サンセット大通り」のグロリア・スワソンも濃艶な姿を画面一面に振り散らしていたのである、アー、あの時のスワソンの美しさよ、あの頃は彼女も二十八の春の頃であったにちがいない。
 キーストン喜劇の前に、ハム、チビという妙な髯をはやした大男と小男のコンビの喜劇新馬鹿大将という英国の喜劇俳優もわすれがたい想い出である。
 総てこれらは二巻もの程度の短篇もので、お正月には、吉例としてニコニコ大会というこれらの喜劇プロが組まれ、その楽しみというものはまったく想像以上であった。なかにも子供心に、世の中でこんなに楽しませてくれる人があろうかと思うくらい驚異と素晴しさを感じたのは、今なお映画界に明星の如く輝く、「ライムライト」の偉大なるチャップリンであった。少年時代の僕にとっては大いなるかてであり、漫画家になる遠因をうえつけてくれたのはこの世界にたぐいなきチャルス・チャップリンであったのにちがいない。私はすごいまでのチャップリン党であったのである。キーストン時代からエッサネー会社、ミュチャル会社とチャップリンは短篇から長篇にと発展して行き、「夜通し転宅」なぞのドタバタ喜劇から「犬の生活」「担え銃」「偽牧師」「移民」「黄金時代」と涙と笑いの風刺喜劇は素晴らしいもので、サイレント時代から、トーキーへとの変動期には、絶対トーキー反対の彼も、時代の流れには勝てず「モダン・タイムズ」をへて、「街の灯」には「チチナー」を唱うことになってしまったが、やがてトーキー映画「独裁者」は素晴らしいものであった。
 チャップリンとあいまって、ダグラス・フェアバンクスの正喜劇は又絶讃すべきもので、この軽快さと妙味は独創的で、彼の映画を見たあとは、家に帰る時大川をはね飛んだり塀をのりこえたりして怪我をして母にしかられたものである。それほど少年の頃の僕たちに心の奥にいつもチラホラ彼が影をさしていたのである、三銃士のダルタニヤンなぞは、僕は同じ映画を三度も続けて見に行ったくらいの魅力であった。この頃バスター・キートンの笑わぬ喜劇が現れて僕等を又狂喜させた。キートンのペチャンのおかま帽子にキョトンとしたお人好しの姿は、大かっさいであった。「カメラマン」「将軍」なぞ思い出しても笑ってしまう。グロリア・スワソンの「サンセット大通り」にまるで見ちがえるほど年をとった姿をワンカット出演していたのは僕には淋しい思いであった。
 その外喜劇ファンの僕には、モント・プルの家庭喜劇、チャップリンのあの髯やステッキ、ダブダブのズボン、そのまま真似をした、にせチャップリン、ビリー・ウェストや田園趣味のチャーレス・レイの正喜劇、漫画映画、とくに、フラッシャーのフェリックス(猫の主人公)の「インキ壺の中なら」なぞは、めずらしいので眼を丸くした。ロイド眼鏡のハロルド・ロイドの長篇喜劇等、喜劇ファンであった僕には語りつくせぬものがある。
 この頃中学生の僕は、映画のフィルムの一齣のコレクション[#「コレクション」は底本では「コレクシンョ」]に夢中になり、お小使いはすべてプロマイドとフィルムになってしまった頃で、夢に見るまで恋いこがれた、パール・ホワイトには和英字典に首っきりで、ファン・レターを書き、三カ月ぶりで、親愛なる日本の友の小野佐世男よという大型の写真を送られた時には、まったくこおどりをして足の踏むところを知らず、たいへんな感激であった。
 アー、あの頃の純情さよ!
 中学二、三年の頃、英国のゴーモン会社であったと思うが、「プロテア」というシリーズものの美しい女賊物語り映画を見てから、プロテアに扮する女優が真っ裸にゴムのような真っ黒な肉じゅばんの黒装束で、あわやという時にはスルスルとドレスがぬげヌルヌルに光る黒肉じゅばんで難をのがれるその色香のにおうような美しい姿に魅せられ、僕はそのプロマイドを大切に胸に秘めたようなありさまであった。その素晴しい女優の名をわすれてしまった。徳川夢声さんに会ったらわすれずに聞こうと思っている。
 伊太利女優の、ピナ・メニケリの豊艶なあで姿は、一幅の泰西名画が動きだしたようで少年の心うちでもその芸術性は、うなずけるような思いであった。「火」「ふくろ」なぞの青色や紅紫の染色にそめられた宝石のような色調の美しい淡い光りは、いまだに眼にのこり、フランチェスカ・ベルチニイの立派なあごから胸へ、胸から腰部へ流れるやわらかい線は、まるで幻想の図の出来事のようでたまらぬ想い出である。
 ロシアの名女優、アラ・ナヂモバの異国的な情熱さと、東洋的な面ざしに僕は詩情さえ感じたのである。「レッド・ランタン」のファンタスティクのシーンは素晴しいものであった。
 この頃、若い少年期の青春発動を自分でもたまげるほど驚いた馬鹿にセンチメンタル時代に、連続映画にかわって、まるで春の花のように、けんらんとスクリーンをうずめ出したのは、ユニヴァーサル映画会社のブルーバード映画、バタフライ映画であった。つぼみが春の風にさすられて、少しづつ開かんとする感傷的な少年の胸には、この甘美な抒情詩のような美しい恋物語りが、まるで優しく胸をふくらましてくれたのである。
 泉天嶺氏の、いまだにのこる名説明。
 春や春、はる南方のローマンス……
 と、うたわれた、あのブルーバード映画時代なのである。
 マートル・ゴンザレス、エラ・ホール、プリシラー・デン、リリアン・ギッシュ、ムンロー・サルスベリ、ケーネス・ハーラン、ETC、ETC、まったく花を競うスター達リンゴの花の散るようなブルーバード映画、僕をたいした不良少年にもならずに救ってくれたのは、もしかするとこのブルーバード映画であったかも知れない。銀座裏の金春館、花園橋の花園館に松井翠声氏の説明を陶然と聞きながら眺めた、オレンジ色のアルハベットの字幕はいまでもなつかしい。
 ターザン映画を最初に見たのは、やはり葵館で、三十何年前のターザンは、美しく調色され、淡い光の中からかすかにわき起る、……何に――かわ知ら――ネ――ど――心――わびて昔のつたえ――は……というロレライの音楽につれ、夢声氏の名説明で、エルモ・リンカンのターザン、エニット・マーキーの娘、情緒豊かなこのターザン映画は非常に美しく、僕には詩情を感じ、むしろ今日のターザン映画より感めい深いような気がしてならないのである。
 西部劇は当時も相当な流行で、二挺拳銃をさっそうとかまえる、ウイリァム・S・ハートの勇姿、アリゾナやユーコン河を背景に、西部の荒男が娘の純情と誠実に自分の恋をあきらめ悪人をたおし、彼女の好きな男と手を握らし、夕日をあびてトボトボと愛馬を引き小さく消えて行くフェード・アウトのラスト・シーン。馬より長いエス・ハートの顔は、まったく僕等の英雄であったかもしれない。また白馬にまたがり、アリゾナの原野をかけめぐる、トモ・ミックスの壮快な姿は今も眼にのこり、サイレントで銃声は聞えねど、それより大きくせまってきたのは、どういうものであろうか。私はサイレント映画の魔術が今だにわからぬ。
 美術学校時代には、映画芸術を語り、まかりまちがえれば映画監督にならんばかりの意気ごみであり、もっぱら欧洲映画にこり、「キーン」のフラッシュ・バックに驚嘆し、「ニーベルンゲン物語」「ジーグフリート」「ファースト」等文芸作品にしたり、ウファーのスター、コンライト・ファイト、エミル・ヤンニングス等のファンであった。当時の映画で、「鉄路の白ばら」と云うまずしいレールわきの父と娘の物語りは、素晴しい感銘で二三度見た思い出がある。ドイツ映画「バリエテ」の色気あふれるリア・デ・プッティや、「メトロポリス」のブリギット・ヘルムなぞは僕の好みの女優であった。これにさかのぼり、「カリガリ博士[#「カリガリ博士」は底本では「ガリガリ博士」]」のような表現派の新しい映画や、「ひとで」なぞの前衛映画にも、なにかフィルムの構成の面白さや、「ドクトル・マブーセ」「吸血鬼」のような怪奇映画に興味をもつようになった。
「アナタハン」で京都で張り切っているジョセフ・フォン・スタンバーグの処女作、「救いをもとめる人」なぞも最早白髪に近視鏡をかける年老えるスタンバーグの近影を見て過ぎし日の感激が又新たになるのである。
 私が父につれられ亭劇に、セシル・B・デミルの[#「セシル・B・デミルの」はママ]「イントレランス」を見た時には、まったく、そのローマのセットの偉大なのには子供心に驚異を感じ、それより増しておどろいたのはその入場料がたしか五円か七円だったと思う。当時の五円は今日の三千円以上ではなかろうかしら。

 私はこの頃、天然色映画より進み、立体映画いや発香映画が発明されようと云うことであるが、なにか昔なつかしいサイレント映画がむしょうに見たくってならぬ。フィルムは大事にしておけば保存されるものである。もしもあるなら、サイレント名画をふたたび見る機会を得たいものだ。なにはともあれ少年の頃にあこがれに胸をときめかした「プロテア」の主演女優の名を夢声さんに聞かねばすまないような気がするではありませんか。

底本:「猿々合戦」要書房
   1953(昭和28)年9月15日発行
※「イントレランス」の監督はセシル・B・デミルではなくD・W・グリフィスです。
入力:鈴木厚司
校正:伊藤時也
2010年1月26日作成
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