「汝ら幼児の如くならざれば天国に入る能わず」といって、ナザレのイエスは私たちに幼児を知れとおっしゃった。なるほど子供には罪がない、あんなにならなくてはというのだと単純にそう思う人は、すでに幼児を知らないのだと思います。なぜなら幼児にも親ゆずりの罪が十分あるからです。ただ彼らはそれを知らないのです。知らなくても罪があれば、そのある罪がはたらいて、またその上に新しい罪をつくりだしてゆきます。この大切なことをまず知らないで、どうして幼児がわかりましょう。この重大な事実をかるくみて、どうして幼児にほんとうにふかい同情をもつことができましょう。本当の同情なくして、どうしてほんとうに彼らを愛することができましょう。
幼児はまたわれらのよろこびであります。それはだれでも知っています。それゆえに私たちは、彼らにひきつけられて、そうして彼らを愛します。しかし多くの人々は、彼らの何故にわれらのよろこびであるのかをふかく思ってみるのでしょうか。いまの私たちの幼児たちは、大むかしの幼児と生まれたときからすでにちがっているでしょう。年とった助産婦さえもそういいます。いまの赤ん坊はその人たちのはじめに見た多くの赤ん坊よりも、なにかにつけて進んでいることを述懐します。これは前の親ゆずりの罪とは反対な親ゆずりのよい能力です。生まれたときばかりではありません。それからの人となる発達の道程も、われわれの先祖がかつてはなはだ困難とした場合、および非常に多くの歳月をついやして成就したことを、よりわずかの困難と、よりみじかい月日のあいだにできるようになってきました。よしただ一、二代の親と子のあいだにおいて明らかにそれを経験することができないにしても、人間の一番新しい進歩の結果を、かくしてわれらの幼児の上にみることができるわけです。それが生物としてのわれわれの、ふかい本能的のよろこびであるにちがいないのです。
私どもはこのようにして、われわれの幼児をよろこびとしてながめ得るばかりでなく、他の一面において、自分たちのすでに経験し努力してきた道程を、私たちの幼児もその通りに、だんだん見ることができ、聞くことができ、這うことができ、話すことができてゆくのは、そうあることを知って待っている私たちに、またじつにうれしいことです。無上の愛らしい形態のなかに秘されている、この人類全体の過去の努力と永遠にわたる望みを、私たちは知らずしらずわれらの幼児として愛でよろこんでいるのだと思われます。
桃色の頬をした無心な幼児が愛らしい、腹を痛めた子だからかわいい、己の子だからかわいいというだけの気持ちでは、決して幼児を愛するとはいえず、わが子を知るとも愛するともいえない親だと思わなくてはなりません。
これまであった人間の能力と罪とそうして希望を受けついでいるのが、私たちのいまみているところのすべての幼児です。そうしてただそれだけでしょうか。そうではありません。そのほかにいま一つ、一人一人その幼児の生命に、それぞれにあたえられている新しい立場があります。それが本当の個性であり人格であり、彼の権利であり使命であります。われわれの影響によってしかじかであるところのわれらのおさなご、われわれの責任以外知る以外の独自の立場を持っているおさなご、じつにわれわれの幼児に対する思いは複雑でなくてはなりません。われらの罪の方面からみるときに、幼児はじつにかわいそうな存在であり、能力の方面からみるときによろこばしい存在であり、全然新しい独自の人としてみるときにじつに厳粛な存在であります。まずこの思いをふかく心に彫りつけて、われわれの幼児をみることができる人は、真に彼らを愛し得るに近い人、したがって導き得るに近い人ではないかと思われます。
はじめの赤ん坊の罪のことに帰りましょう。多くの人はなんとなく赤ん坊には罪がないという気がしているために、たくさんの赤ん坊のもって生まれている罪は、ほとんど問題にされずに月日が経ってしまいます。そうしてその結果は、全然罪の成長を可能にして、月ごとに歳ごとにそれが赤ん坊の生活の上に人柄の上に現われるようになって行きます。しかも親たちはほとんどそれに気づかずに、少年になり、青年になり、おとなになり、年寄りにならせてしまうのです。
頭脳のわるい男女、不健康な男女、酒におぼれ女におぼれて立ち帰ることを知らない人々、勝気のために臆病のためにわがままのためにいろいろの僻みのために、みずから苦しみ家人を苦しめている人々、そのために泣いている家が、どんなにあるでしょう。否この世の中がそういうおとなのために涙の谷になっているのです。こんなに深刻に人を苦しめるのがみなおとなです。そうしてそれにくらべて子供には罪がないと、みないっているのですけれど、こういうおとなから生まれてくる子供に罪がないわけはなく、現におとなと同じことに、幼児の性質にも赤ん坊の一日にも、その罪の現われは、かなりはっきり出ているのですけれど、幼いもののわがままはおとなのわがままほどにわれわれを苦しめ得ないために、その場その場で簡単にいろいろな処置をして、なんとも思わずすごしてしまっているのです。
不良少年不良少女といわれて、早くから深刻に親や社会のなやみになる子供も、このごろたくさん目についてきましたが、考えてみてくださいませ。不良赤ん坊不良幼児、聞きわけのないもの、意気地なし臆病ものは、私たちの幼児にないでしょうか。夫のどなり声、けわしい顔つき、はては手荒な乱暴を苦にしている女が、かわいい子供に、同様の叫び声、我意を通そうとするみにくい泣き顔、人前にはかくしておきたい悲しい動作を、その幼児のさまざまの生活の場面にみないでしょうか。
それを多くの人の親は、罪のない幼児だからと漫然と思ったり、本能的な生活が幼児時代の特色だと、すべてのことを人の本能の故に考えたりしているようですけれど、決して全然本能のみではありません。そこに気がつくのは大切なことです。そうして罪のある、しかし罪の自覚のないうちに、そのうすいうちに、ある罪の芽を摘みとり、ある罪を弱らせてやらなくてはならないのです。私はそれをおさなごの罪を問題にする、取り扱うといいたいと思います。もちろん私たちは、どこまでが自然の本能で、どれがどこからが罪の生のさせるわざだということをはっきり知ることができないのですけれど、自分の手で子供をそだて、周囲の子供たちをも公平な眼をもってみている人の親には、わが子の個性がなにかにつけてほのみえるような気がするころから、その性質のなかにある長所とともにいちじるしい弱点もみえはじめてくるものです。
それをまたある母親は、はたの仕向けでどうにでもなりやすい幼児のことだからと、世俗にもいう親の欲目のために、いちいちそれを他人の仕向け方のせいにしようとしたりすることが、じつによくあることですけれど、そういうことは決して子供を本当に愛する親のすることではありません。
臆病にしてもわがままにしても、持って生まれた子供の罪――すなわち根づよい欠陥かもしれないと思われることは、ごまかさずはっきりと取り上げて、それに対する処置を考えなくてはなりません。こういう罪から欠陥から子供を助け起こしてやるのには、子供自身その罪を自覚しない年齢の時において、親がちゃんと働きかけてやるのが一番です。もしその時期をうっかりすごしてしまって、小学校にゆくころにでもなってしまうと、それこそ子供がかわいそうな、いじらしいものになってしまいます。なぜなら、彼は自分の周囲に自分を比較して、自分で自分を臆病だわがままだ――その言葉は知らないでも――と感ずるようになれば、その感じがいろいろにその子供の重荷になってしまいます。そうしてある子供はそのために強情に、ある子供は憂うつに、物ごとに興味と熱がとぼしくなったり、不良的になったり、狂暴なことをしたり、その他子供によってさまざまの状態を現わしてくるのですが、それはみな要するに、なにかのことで自分に自信をうしない、重荷を負っているためなのです。
こういう自覚の全然ないごくの幼児の頃ならば、たとえば人一倍臆病だということに親が気がついたとしても、少しも子供を苦しませずに強い方に強い方にと導いてやる工夫は、比較的にたやすいものです。はたの人の仕向け、それに私たちの幼児が、どんなに同化されやすいものであるか――それゆえにまた私たちは知らずしらず自分の子供をかばいたさに、あれも人のせいこれも何のせいと悪いことはみないいたくなるのですが――動物をこわがる子供に、また人なつっこいとは反対な、なんとなく自分をまもって、人をへだてる気持ちの強い子供に、こちらが猫を抱いてみせたり、途中であった人に、親がまず親しみの心を満たし、落ちついたよい応待をしぜんにみせることができたり、そのとき一緒につれていた子供について、なにか興味をひきそうなことをあとで子供に話してやって、いつかあの子供とあそぼうといってやったりするように、親がたえず気をつけていれば、幼児というものは、こんなにも素直にこちらのすることを受け取ってくれるかと思うほど、だんだんその気になってゆくものです。
けれどもたいがいの親はそうばかりではないようです。極端に人みしりをする子供をつれていれば、知っている人が向うから来ても、面倒だとさけてしまう――じつは自分が人みしりの子供の親に恥じない資格をもっているせいでもあるでしょうが――私はそのようなことを子供の罪を問題にしない、惰弱な教育だと思うのです。教育はよい方向にむかって、人間を鍛えることだともいえるように思います。おとなが鍛えられるのと、少年少女が鍛えられるのと、おさなごが鍛えられるのとでは、その鍛え方にちがいはあるのですけれど、人間は赤ん坊のときから死ぬまで鍛えられなければ、この人生を全うすることができないものです。
以上は私たちの愛する幼児の罪について、ほんの一端ながら書きました。
その次に私どもの子供の持っているさまざまの能力のことです。罪の方面は、どこにこの子の欠点があるかというふうに探しもとめて知るべきものでなく、おのずからその日常生活に現われてくる憂うべきことを看過さず、早く心がけてその処置をしなくてはならないのですが、子供のなかにあるよい能力の方は、どこまでも探しもとめて、決してほめそやすのでなく、本気になって工夫してそのことをいろいろなところに役に立ててやらなくてはならないものです。たとえば子供が歩くようになったら、その歩き得るかぎりを利用して、よい興味のあることをさせてやらなくてはなりません。前にいったように子供の悲しむべき点を見出したときに、本気にそこに助けの手をのばそうとする人の親が少ない通りに、とくにその子供にある知恵でも同情心でも、本気に落ちついて正しくのばしてやろう、よく役に立ててやりたいというように工夫と努力をすることは、実にわれわれに欠けていると思います。そうしてかえって、この子供はおぼえがよいの、なにが上手だのと、親の自慢のたねにばかりにしてしまうことが多くあります。罪は退治されずに、長所はよい加減になってゆく教育を、私たちは多く自分の子供たちにしていることを反省しないわけにゆきません。
罪は悲しみであり、マイナスであり、能力はよろこびであり、プラスであります。しかしわれわれのおさなごにとって――もちろんすべての人間にとって――何よりも大切な最後のものは、その絶対独自の人格的立場です。罪のこと能力のことは、とにかく浅くとも私たちの問題にはなっていることですが、この最後のものは、たいがい問題になっていません。そうしてそれは何よりも、われわれのおさなごに対するわれわれの罪であり欠陥であるのだと思います。この最後のものに無関心であるゆえに、かしこい親ほど、その主観をもって子供を教え導いています。
無心の幼児のなかにも、厳然として賦与されているものに、親もまた同様のものをもって、おごそかに相対するところに、われわれの肉の愛も、人の知恵をもってする教育も清められて、本当のものにされてゆきます。
どこに子供にほんとうに忠実な親があるでしょう。ほんとうに子供のよい助け手になろうとしている誠意あるおとながあるでしょう。比較的その誠意と忠実さの多くある親はおとなは、割合に幼児の真情と真要求がよくわかり、それによって彼らを取り扱ってゆくことができるゆえに、かわいい幼児の本当の信頼を得ることができるようです。教育のよって立つ根本は、おたがいの信頼のほかにないように思います。子に甘い親の態度は、子供のほんとうの信頼とは反対に、罪の増長の助けになります。
みどりごの心 一九三一年(昭和六)