幼児ほど形の上から物を鵜呑みにするものはない。そうしてその鵜呑みにしたことを、よいこととして守ってゆくものはない。
さらに幼児ほど好奇心の強いものはない。十分かれらの好奇心に投じてゆくならば、そのまちがっていることも、必ずなおしてしまうことができる。
それゆえ幼児には、外形をもってまずよいことを鵜呑みにさせることが必要である。
また私たちが知らないうちに彼が悪いことを鵜呑みにしていることを発見したならば、その好奇心を利用して、それと反対なことをまず鵜呑みにさせなくてはならない。
しかし鵜呑みはどこまでも鵜呑みである。どんなによいことを鵜呑みにさせておいても、それが彼の一生を支配してゆく力はない。幼児時代から子供のもっているよい鵜呑みが、年とともにかれらの思いによって理解され、思想にまで信念にまで育ってゆくように助けなくてはならない。
幼児の一面はまたただの本能そのものである。すなわちその本能的欲望をもとにして、彼らを育て導いてゆくよりほかはない。
それをときどき私たちは、親の希いや都合を先にして、彼らを導こうとしていることに心づく。この場合において、閑却された幼児の欲望が本能が、ひとりでにほしいままなるものになってしまうわけである。
活きる力の強弱は、またあらゆる生命の根本である。身体も精神も霊性も活発であるかどうかは、人を診察する医者が、まずわれわれの脈をとることをなによりも先にすると同じように、いつでも幼児を見守るものの第一条件として、たえず気がついていなくてはならないことである。やや極端にいえば身体と精神と霊性と、この三つを含む活力を強くしてやりさえすれば、そのほかのことは何もいらないと思ってもよいほどである。
それだのにわれわれの実際はどうであろうか。教育のある母親ほど、子供の身体をかばいすぎてその活力を弱め、子供の心をかばいすぎて友だちを制限し、人間の霊性の偉大なものだということを忘れて、子供をただ幸福に導こう導こうとしている。考えてみるとみな信ずべきものを十分に信じないための現われだと思う。いいかえれば、人の親であり、教師であるわれわれの霊性の力が弱くなっているためだと思う。
多くの人や子供をみているうちに、身体は十分に強くても精神の力の弱い人もあり、理性も研究心も強く鋭いのに霊性の力の非常に弱い人もある。溺れかけている人を助けることは、われわれの理性では決してできることでない。助けようとして彼と自分とともに死ぬかもしれないからである。すべてよいことを本気になってするのは、溺れかけている人をみて我をわすれて一緒にとびこむような心境だと私は思っている。頭脳のよさばかりでは決してできないことである。我をわすれて溺れかけている人を助けにゆくのは、義侠心だとある人はいうかもしれない。溺れかけている人を救う種類のことだけならば、あるいは義侠心のみでもできるかもしれない。しかし、われわれの日常に起こるいろいろな場合に、奮い立つ心――それは単なる義侠心のみではできない。良心というよりも、もっと深いところにある霊性の力だと私はそれを思っている。私たちに祈りがなければ、この力がひとりでにしぼんでゆく。私たちのたましいの力はただ神より来たり、祈りによってのみ強められてゆくものであろう。私自身も常に自分の弱さを感じているゆえに、多くの子供をどうか強い人間にしたいと、なによりもさきにそう思いそう祈る。
身体は弱いけれども、精神の強い人はある。しかし霊性の強い人は少ないものである。私たちの子供らをこの三つの力の強い人にしたい。
幼児は外形を見、その外形を鵜呑みにするものだから、裏店に育っている子供と、生活様式の十分にととのっている家の子供とは、言葉でも動作でも、その鵜呑みにしているものが雪と墨ほどちがうので、一方はいかにも上等の人らしく、一方は下等に見える。幼児をみる場合にも、以上三つの活力のことを頭においてみて、はじめてその人柄がよくわかる。そうしてブルジョアの子供の劣等さは思いのほかである。もちろん粗野な子供がみんなえらいのではなく、粗野が不注意とむすびついている場合には、いかにその子の活力が旺盛にみえていても、それはただ動物的本能的なもので、価値のほとんど少ないものである。
私たちは幼児に、時間通りに分量通りに、また乳の必要な時代に乳を、その他の食物の必要になってきた時代に他の食物をあたえる。それはなんのためだろう。時間通り分量通りに乳をやるのは、それでなくてはお腹を悪くするからだと、つい思っているような私たちであるけれど、決して決してそうでないことをはっきり考えていなくてはならない。そうすることは赤ん坊を命ぜられた健康に発達に導くためである。他の食物が入用になってきたら、早速それをあたえなくてはならないのもそのためである。しかしただそれだけでよいであろうか。
いま一つなお大切なことがある。それは時間によって、またよく考えられた分量によって、かつその発達にしたがって食物の種類をかえてゆくのもふやしてゆくのも、人間は生まれたときから本能的欲望の上に生きることの営みを打ち建て、かつその欲望を、われわれの研究によって発見し得たかぎりの法則によって統制し、馴致しつつ生活をするものだということを、幼児の肉体ばかりでなく、その良知良能に毎日毎日訴えつつ育ててゆくのだということを、ふかく自覚していることが大切である。あたえられたる外物により、またあたえられたるこの肉体の経験を通して、霊智にまですすみゆくべき消息が、このようにして人間生活のあらゆる断面に現われているのは至妙である。
幼児の宗教教育、すなわちたましいの教育はもちろんむずかしいものである。そのむずかしい一番の理由は、どこにあるのだろうか。乳をやる母の心に、子供をやしなってゆく父の心に、食物は胃腸を通して体外に出てゆくものだぐらいの思いしかないこと、それ自身なのだと私は思う。
そのようにしておとなにされてしまってからの宗教教育こそ絶対にむずかしいはずのもので、生まれたときから心がけて、そのたましいを明らかなものにすることは、祈り心をあたえられている父母にはかならずできることではないかと思う。
外形を鵜呑みにして信ずる幼児、それにお行儀をおしえ、道徳をおしえ、あるいは親のさまざまの好みや主観を直通させること、それは頭の悪い軽薄な人間を、セルロイドのおもちゃのように造ってゆくやり方である。ほんとうに悲しいことである。
無心な子供の日々の営みが、霊なるものへの讃美となってゆくような生活でなくてはならない。
教育三十年 一九三二年(昭和七年)