わたし(聊斎志異の著者、蒲松齢)の姉の夫の祖父に宋公、諱を※(「壽/れっか」、第3水準1-87-65)とうといった者があった。それは村の給費生であったが、ある日病気で寝ていると、役人がつうちじょうを持ち、ひたいに白毛のある馬をいて来て、
「どうか試験にいってくださるように。」
 といった。宋公は、
「まだ試験の時期じゃない。何の試験をするのだ。」
 といって承知しなかった。役人はそれには返事をせずに、ただどうかいってくれというので、しかたなしに病をおして馬に乗ってついていった。
 そのみちはまだ一度も通ったことのない路であった。そして、ある城郭まちへいったが、そこは帝王のいる都のようであった。
 しばらくして宋公は、ある役所へいった。そこは壮麗な宮殿で、上に十人あまりの役人がいたが、何人ということは解らなかった。ただその中の関帝かんてい関羽かんうだけは知ることができた。
 のきの下に二組のつくえと腰掛を設けて、その一方の几には一人の秀才が腰をかけていた。そこで宋公もその一方の几にいって秀才と肩を並べて腰をかけた。几の上にはそれぞれ筆と紙とが置いてあった。
 と、にわかに試験の題を書いた紙がひらひらと飛んで来た。見ると「一人二人、有心無心」という八字が書いてあった。そこで二人はそれぞれ、その題によって文章を作って殿上へさしだした。宋公の書いた文章の中には「心有りて善をす、善といえども賞せず。心無くして悪を為す、悪と雖も罰せず」という句があった。殿上にいた諸神はそれを見てめあった。
 そこで宋公は殿上に呼ばれて、
河南かなんの方に城のほりの神が欠けている。その方がこの職に適任であるから、赴任ふにんするがいい。」
 という上諭じょうゆがあった。宋公はそこで自分は冥官あのよのやくにんに呼ばれているということを悟った。で、頭を地にすりつけて泣きながらいった。
寵命ちょうめいかたじけのうしたからには、どうして辞退いたしましょう。ただ私には七十になる老母があって、他に養う人がありません。どうか老母が天年を終るまで、お許しを願います。」
 上の方にいた帝王のかたちをした者がいった。
「それでは、老母の寿籍じゅせきを調べてみよ。」
 そこでひげの長い役人が帳薄を持って来て紙をめくって、
「人間世界の寿命がまだ九年あります。」
 といった。そして、ちょっと言葉のきれた時、関帝がいった。
「それでは張生ちょうせいを代理にしておいて、九年の後に更代さすがよかろう。」
 そこで宋公にいった。
「すぐ赴任さすことになっておるが、仁孝の心にめんじて、九年の時間をかそう。そのかわり、時間が来たならまたすから、そう心得よ。」
 関帝は秀才を召して二、三勉励の言葉を用いた。終って宋公と秀才は下におりたが、秀才は宋公の手を握りながら、郊外まで送って来た。秀才は自分で長山ちょうざんの張という者であるといった。秀才はその時詩を作って贈別してくれた。その詩の中に、「花有り酒有り春つねに在り。月無し無し夜おのずから明らか」の句があった。
 宋公はすぐ馬に乗って、秀才と別れて帰って来た。そして自分の村に帰ったかと思うと、豁然かつぜんとして夢がめたようになった。その時宋公は死んでから三日になっていた。母は棺の中の宋公のうめき声を聞いてたすけ出したが、半日してからやっと口がけるようになった。長山で聞いてみると張生という者があっての日に死んでいた。
 後九年して母が果してくなった。宋公は母の葬式をすまして体を洗ってへやへ入ったが、そのまま死んでしまった。宋公の妻の父の家が城内の西門の内にあったが、ある日宋公が国王の乗るような輿こしに乗り、たくさんのともれて入って来ておじぎをしていってしまった。家の者は驚き疑って、もう宋公が神になっているのを知らないから、走っていってさとの者にいて呼びもどそうとしたが、もう影も形もなかった。宋公には自分で書いた小伝があったが、惜しいことには騒乱そうらんのためになくなった。この話はその大すじである。

底本:「聊斎志異」明徳出版社
   1997(平成9)年4月30日初版発行
底本の親本:「支那文学大観 第十二巻(聊斎志異)」支那文学大観刊行会
   1926(大正15)年3月発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月12日作成
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