ある日王氏の弟が姉をみまいに来たので、周は居間で酒盛をしていた。そこへ成が遊びに来たので家の者がとりついだ。周は喜んで迎えようとしたが、礼儀の正しい成は居間へ通るのは失礼にあたるからといって入らずに帰っていった。周は席を表座敷へ移して、成を追っかけていって伴れ還り、やがて席についたところで、人が来て、
「今、別荘の下男が村役人につかまって、ひどく打たれております。」
といった。それは黄という吏部の官にいる者の牛飼が、牛を曳いて周の家の田の中を通ったのがもとで、周の家の下男といいあらそいになり、それを走っていって主人に告げたので、主人の黄吏部は周の家の下男を捉えて村役人に送った。それがために周の家の下男が打たれて責められることになったのであった。周はその故を聞いて大いに怒った。
「黄の牧猪奴、よくもそんなことをしやがった。おやじは俺のお祖父さんにつかえていたくせに。すこしよくなったと思って、人をばかにしやがる。」
周は忿がむらむらとこみあげて来て、どうしても押えることができないので、黄吏部の家へいこうとした。成はこれをおしとめていった。
「強いものがちの世の中に、黒も白もないじゃないか。それにさ、今日の官吏は、たいがい強盗で、槍や弓をひねくりまわさない者はないじゃないか。あいてにならないがいいよ。」
周はそれでも聴かずにいこうとした。成はかたく諌めてはては涙さえ見せたので、周もよすことはよしたが怒りはどうしても釈けなかった。それがためにその夜は睡らずに寝がえりばかりして朝になった。そこで周は家の者を呼んでいった。
「黄は、俺をばかにしたから仇だが、それは姑くおいて、村役人は朝廷の官吏で、権勢家の官吏じゃない。もし争う者があるなら双方を調べるべきだ。それを嗾けられた狗のように、一方ばかり責めるとは何事だ。俺は牛飼を訴えて、村役人がどういうふうに処分するかを見てやるのだ。」
家の者も主人のいうことが道にかなっているので、止めないばかりか是非いくがよかろうといってすすめた。そこで周の考えはきまった。周は訴状を持って村役人の所へいった。村役人は訴状をひき裂いて投げつけた。周はますます怒って村役人を罵倒した。村役人は慚じると共に恚って周を捕縛して監獄へ繋いだ。
周が家を出てから暫くして成は周の家へいった。成はそこで周が訴状を持って城内へいったことを知ったので、驚いて止めようと思って城内へかけつけたが、いってみると周はもうすでに獄裏の人となっていた。成は足ずりして悔んだがどうすることもできなかった。
その時に三人の海賊がつかまっていた。村役人はそれに金をやって周の仲間であるとつくりごとをいわせ、その申立てを盾にして周の着物をはぎとって惨酷に拷問した。成はその時面会に来た。二人は顔を見あわして悲しみ歎いた。二人はそこで相談したが周の無実の罪を明らかにするには天子に直訴するより他に道がなかった。周はいった。
「僕は重い罪をきせられて、こんなに監獄に繋がれ、ちょうど鳥が篭に入れられたようだし、弟はあっても年が若くて、ただ差入れをする位のことだけしかできないし。」
成はそれを聞くときっとなっていった。
「それは僕の責任だ。僕がやる。むつかしい事件で、それで急を要しない事件なら、友人の必要はない。」
そこで成は都に向って出発した。周の弟が餞別しようと思っていってみると、成はもう出発してかなり時間が経っていた。
やがて成は都に着いたが控をする手がかりがない。どうしたならいいだろうかと思っていると、天子が御猟にいかれるという噂が伝わって来た。成は木市の材木の中に隠れていて、天子の車駕の通り過ぎるのを待ちうけ直訴した。
成の直訴はおとりあげになって、車駕を犯した成自身の身もそれぞれの手続の後にさげられ、上奏を経て周の罪を再審することになったが、その間が十ヵ月あまりもかかったので、周はすでに無実の罪に服して辟につけられることになっていた。ところで天子の御批がくだったので、法院ではひどく駭いて、ふたたび罪をしらべなおすことになった。黄吏部もそれには駭いて周を殺そうとした。黄吏部は典獄に賄賂をおくって周に飲食をさせないようにした。そこで典獄は周の弟が食物を持って来ても入れることを許さなかった。それがために成が法院へいって周の無実の罪であることをいって、再審を始めてもらったときには、周は飢餓のために起つことができないようになっていた。法院の長官は怒って典獄を打ち殺させようとした。黄吏部は怖れて村役人に数千金をおくったので、それでいいかげんなことになり、村役人は法を枉げた典獄ばかりを流刑にした。そして周は放たれて還って来たが、それからはますます成と肝胆を照らした。
成は周の裁判がすんでから、世の中に対して持っていた望みが灰のようにこなごなになったので、周を伴れて隠遁しようと思って、ある日、それを周にすすめた。周は若い後妻の愛に溺れて、成のいうことを人情に迂いつまらないことだといって一笑に付した。成はそれ以上何も言わなかったが、その意はきちんときまっていた。
成はそれから還っていったが数日経っても姿を見せなかった、周は使を成の家へやった。成の家には成はいずに家の者は周の所にいることとばかり思っていたといった。そこで始めて皆が疑いだしたが、周は成の心の異っていたことを知っているので、人をやって成のいそうな寺や山を偏く物色さすと共に、時どき金や帛をその子に恤んでやった。
八、九年してから成が忽然として周の所へ来た。それは黄な巾を冠り鶴の羽で織ったを着た、巌壁の聳えたったような道士姿であった。周は大いに喜んで臂を把っていった。
「君はどこへいってた。僕はどんなに探したかわからないよ。」
成は笑っていった。
「僕は狐雲野鶴だ、どこときまった所はないが、君と別れた後も幸に頑健だったよ。」
周は酒を出して二人で飲みながら別れた後のできごとなどを話し、成に道士の服装を易えさせようとしたが、成は笑うだけでこたえなかった。周はそこでいった。
「馬鹿だなあ。君はなぜ細君や子供を敝れのように棄てたのだ。」
成は笑っていった。
「そうじゃないよ。向うから人を棄てようとしているのだ。こっちから人を棄てやしないよ。」
周は問うた。
「ではどこに棲んでる。」
成は答えた。
「労山の上清宮だよ。」
そのうちに夜になったので二人は寝台を並べて寝たが、夢に周は成が裸になって自分の胸の上に乗っかったので息ができないようになった。周はふしぎに思って、
「何をするのだ。」
といったが成はわざと返事をしなかった。と、周の眼が寤めた。そこで周は、
「おい、成君。」
と呼んだが返事がない。周は坐って手さぐりに索ってみたが、どこへいったのか沓としてわからなかった。暫くしてから周は始めて自分が成の寝台で寝ていることに気がついた。周は駭いていった。
「そんなに酔ってもいなかったのに、なぜこんなに顛倒したのだろう。」
そこで家の者を呼んだ。家の者が来て火を点けた。周の容貌は変じて成となっていた。周はもと髭が多かった。周は手をやって頷をなでてみた。そこには幾莖の髭が踈らに生えているのみであった。周は鏡を取って自分で顔を照してみた。そこには成の顔があって自分の顔はなかった。
「おや、成の顔がある。俺はぜんたいどこへいったのだろう。」
周はあきれて鏡を見ていたが、まもなくこれは成が幻術を以て自分を隠遁させようとしているためだろうと寤った。そこで気がおちついたので居間へ入ろうと思っていくと、周の弟はその貌が異っているので通さなかった。周もまた自分で自分を証明することができないので、馬に乗り下男を伴れて成を尋ねていった。
数日にして周は労山に入った。すると騎っていた馬の足が疾くなって下男は随いていくことができなかった。馬は飛ぶようにいってやがて一本の樹の下に止った。そこには黄巾服の道士がたくさん往来していた。そのうちの一道士が周に目をもって来た。そこで周は、
「成道士のいる所はどこでしようか。」
といって問うた。道土は笑っていった。
「成道士から聞いている。上清宮にいるようだよ。」
道士はそう言うなりすぐに離れていった。周はそれを見送った。その道士はすぐその先で向うから来た道士と何か二言三言交えてからいってしまった。初めの道士と言葉を交えていた道士がやっと近くに来た。それは同窓の友の一人であった。同窓の友は周を見て愕いていった。
「数年逢わなかったね。人に聞くと、君は名山に入って道を学んでるといってたが、やっぱり人間にいるのかね。」
周は同窓の友が成とまちがえていることを知ったのでそのわけを話した。同窓の友は驚いていった。
「じゃ、僕が今遇ったのだ。僕は君とばっかり思ってた。いってから間がないから、まだ遠くへはいかないだろう。」
周は不思議でたまらなかった。周はいった。
「そうかなあ。じゃ僕も遇っている。自分で自分の面のわからないはずはないがなあ。」
そこへ下男がおっついて来た。周は馬を飛ばして彼の道士のいった方へといったが影も形も見えなかった。そこは一望寥闊としたところであった。周は進退に窮してしまった。帰ろうとしても帰る家はなかった。周はとうとう意を決して成をどこまでも追っていくことにしたが、そのあたりは険岨で馬に騎っていくことができないので、馬を下男にわたして帰し、独りになって、うねりくねった山路を越えていった。
遥かに見ると一僮子の坐っている所があった。周は上清宮のある所を聞きたいので急いでその側へいって、
「これから上清宮のある所へは、何里位あるかね。僕は成道士を尋ねていく者だが。」
といって故を話した。すると僮子は、
「私は成道士の弟子でございます。」
といって、代って荷物を荷い、路案内をしてくれたが、星飯露宿、はるばるといって三日目になってやっとゆき着いた。そこは人間にあるいわゆる上清宮ではなかった。季節は十月の中頃であるのに、花が路に咲き乱れて初冬とは思われなかった。
僮子が入っていって、
「お客さまがお出でになりました。」
といった。すると遽に成が出て来て、己の形になっている周の手を執って内へ入り、酒を出して話した。
そこには綺麗な羽のめずらしい禽がいて、人に馴れていて人が傍へいっても驚かなかった。その鳴く声は笛の音のようであったが、時おり座上へ入って来て鳴いた。周はひどくふしぎに思いながらも若い細君のことをはじめ世の中のことが心に浮んで来て、いつまでもそこにいようというような意はなかった。
そこには二枚の蒲団があった。二人はそれを曳きよせて並んで坐っていたが、夜がふけていくに従って心がすっかり静まった。その時周はうとうとしたが、それと共に自分と成とが位置を易えたような気がした。周はふしぎに思って頷をなでてみた。そこには髭の多い故の自分の頷があった。周は安心した。
朝になって周は帰りたくなったので成にいった。成は固く留めて返さなかった。三日すぎてから成がいった。
「今晩はすこし寝るがいいだろう。明日は早く君を送ろう。」
周は成の言葉に従って睡ったところで、成の声がした。
「仕度ができたよ。」
そこで周は起きて旅装を整えて成について出発した。周は成のいった道をゆかず他の道をいった。二人は暗い中をすこしいったかと思うと、もう故郷の村であった。成は路ばたに坐って周に向い、
「ひとりで帰るがいい。」
といった。周は成を伴れていきたかったが、強いてもいえないので独りで家の門を叩いた。返事をする者もなければ起きて来る者もなかった。周はそこで牆を越えて入ろうと思った。と、自分の体が木の葉の飛ぶようになって一躍に牆を越えることができた。垣はまだ二つ三つあった。周はその垣も越えて自分の寝室の前へといった。寝室の中には燈の光がきらきらと輝いて、細君はまだ寝ずに何人かとくどくどと話していた。周は窓を舐めて窺いてみた。そこには細君と一人の下男とが一つの杯の酒を飲みあっていたが、その状がいかにも狎褻であるから周は火のようになって怒り、二人を執えようと思ったが、一人では勝てないと思いだしたので、そっと脱けだして成の所へ行って告げた。成は慨然としてついて来た。そして寝室の前にいくと周は石を取って入口の扉を打った。内ではひどく狼狽しだした。周はつづけざまに扉を打った。内では必死になって扉を押えて開かないようにした。そこで成が剣を抜いて斬りつけると、扉がからりと開いた。周はすかさず飛びこんでいった。下男が扉を衝いて逃げだした。扉の外にいた成が剣をもって片手を斬りおとした。周は細君を執えて拷問したところで、自分が獄にいれられた時から下男と私していたということがわかった。周はそこで成の剣を借りて細君の首を斬り、その腸を庭の樹の枝にかけて、成に従って帰山の途についた。と、思ったところで周の眼が醒めた。自分は寝台の上に臥ていたのであった。周はびっくりして、
「つじつまの合わない夢を見たのだ。驚いたよ。」
といった。すると寝台を並べて寝ていた成が笑っていった。
「君は夢を真箇にし、真箇を夢にしているのだ。」
周は愕いてそのわけを問うた。成は剣を出して周に見せた。それにはなまなまと血がついていた。周は驚き懼れて気絶しそうにしたが、やがて、それは成の法術で幻を見せたではあるまいかと疑いだした。成は周の意を知ったので、
「嘘か実か見て来たらいいだろう。」
といって、周に旅装をさして送って帰った。そのうちに故郷の入口になると、
「ゆうべ、剣に倚って待っていたのはここだよ。僕はけがれたものを見るのが厭だから、ここで君の還るのを待とう。もし午すぎになって来なかったなら、僕はいってしまうよ。」
といった。周は成に離れて家へいった。門の戸がしんとしていて空屋のようになっていた。そこで周は弟の家へ入った。弟は兄を見て涙を堕していった。
「兄さんがいなくなった後で、盗賊が入って、嫂さんを殺して、腸を刳って逃げたのですが、じつに惨酷な殺しかたでしたよ。だが、それがまだ捕らないです。」
周ははじめて夢が醒めたように思った。そこで周は弟に事情を話して、もう詮議することをやめるがいいといった。弟はびっくりして暫くは眼をみはっていた。周はそこで子供のことを聞いた。弟は老媼にいいつけて子供を抱いて来さした。周はそれを見て、
「この嬰児は、祖先の血統を伝えさすものだがら、お前がよく見てやってくれ。私はこれから世の中をすてるのだから。」
といってそのまま起って出ていった。弟は泣きながら追いかけて挽きとめようとしたが、周は笑いながら後を顧みずにいった。そして郊外に出て、そこに待っていた成と一緒になって歩きだしたが、遥かに遠くへいってからふりかえって、
「物事を耐え忍ぶことが、最も楽しいことだよ。」
といった。弟はそこでそれに応えようとしたところで、成が闊い袖をあげたが、そのまま二人の姿は見えなくなった。弟は悵然としてそこに立ちつくしていたが、しかたなしに泣きながら家へ返った。
この周の弟は世才がないので家を治めてゆくことができず、数年の間に家がたちまち貧しくなった。その時周の子がやっと成長したが教師をやとうことができないので、自分で読書を教えていた。
ある日朝早く書斎に入ってみると案の上に函書がのっかっていて、固く封緘をしてあった。そして函書には「仲氏啓」としてあった。よく見るとそれは兄の筆迹であった。そこで弟はそれを開けてみたが、ただ爪が一つ入っているのみで他には何もなかった。爪は長さが一寸ばかりのものであった。弟はそれを研の上に置いてから書斎を出、家の者に彼の函書はだれが持って来たかといって聞いたが、だれも知っている者がなかった。ますますふしぎに思って書斎に入ってみると、彼の爪を置いてあった研石がぴかぴかと光っていた。それは化して黄金となっているところであった。弟は大いに驚いたが思いついたことがあるので、その爪を傍にあった銅器と鉄器の上に置いてみると、それも一いち黄金になった。周の弟はこれがために富豪になったので、千金を成の子に贈った。それによって世間で周の家と成の家には点金術があるといいつたえた。
底本:「聊斎志異」明徳出版社
1997(平成9)年4月30日初版発行
底本の親本:「支那文学大観 第十二巻(聊斎志異)」支那文学大観刊行会
1926(大正15)年3月発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月12日作成
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