私は初めて絵を見たのは何が最初か、一寸おぼえていません。多分好んで見たのはポンチ絵だったろうと思います。窓から乞食が麦わらで室内の人の飲みものを飲む絵だとか、団十郎が尻に帆をかけて大阪へ行く? 絵などおぼえています。先是、私の家の二階の広間には大きな墨絵の龍を描いた額(三間幅位のもの)がありましたが、好きではありませんでした。私の室には何にも額はありませんでしたが、兄キの室へ行くと、そこのはいってふり向いた上の壁のところには――あれはどう云う性質のものだったろう? 何しろ石版画には相違ない。或いは、当時の市会議員の像かも知れぬ? そう云う、沢山に人のいる、それが各々小判形の中に、ベタ一面人のいる額がかかっていました。紙が黄ろくくすんでいたことと、星亨がいたこと、その顔は今もおぼえています。中に私の父もいるのでそれでヘンに好意を持っていた額です。――之等が私にとって最初の、座右の絵です。
 それから同じ室の床の間に、大字で「来者不拒、去者不追」と二行に書き下ろした草書の大幅がかかっていました。右の行の不がふと書いてあって左の行の初めの去が、この土のところの十が大変太く、大きく書いてあった。――恐らく私は此の幅を十八年間眺めたものかも知れません。今思えば年中かけっぱなしで、おかしなものだが、何しろ必ず此の幅は兄キの室の床の間にあって、あの床の間にはあれがあるものと思っていました。尤も時々何だか薄い絵だとか、歴代天皇の御像だとか、正月には七福神とか、僕の五月には鍾馗、妹の三月には雛などとかけ代ったことはある。然し一時のことで、直ぐ又ドカンとした来者不拒……に代ります。又来者不拒が一番ぴったりとした、と云うより気に入った、これが出ていると気のすむような、いつものかけじでした。
 ――この文言が長らく読めませんでしたし、読んでもらっても、わかりませんでした。否、読むものなどとも別段思いません。見ていると不の字のふが、それ一字だけいつでも「ふ」と読めて気に入るし、去の頭の大きいのが何となく面白くて仕方ない。来る者は拒まず、去る者は追わず、と。之をこう読んで、それからその意味を何となく了解したのは極く極く後のことです。
 私は、その家と十八の年に別れました。別れて浅草の家へ引越しましたが、却って、引越してから来者不拒のかけじを度々思い出しました。
 実は此の来者不拒、去者不追と云うのがその後段々と好きになって、感想などにも、時々此の句を入れた。入れたくなる場合がありましたし、第一、懐しいせいもある。来者不拒、去者不追。かなり本当のこととその情操を感じたこともあります。
 その後今では別段何とも思いません。こう云うかんばんをかけたいとは更々思いませんし、少し皮肉な見方かも知れないが、或いはあのかけじは誰か悟り切れない坊さんか、政治家のしくじりなどが気やすめに書いたものではあるまいか? などと訝かる。どっちみち人事の極く消極的な追句だと思うが、それとも何か偉い人の或る時の述懐か何かなら私の此の云いようはいけない。まあそう野狐禅ばかりでもあるまいけれど、思えば私の父など、成程、この来者去者の件では常住苦労もしたし、種々経験も多かったと思います。
 では若しもそんな風で父が此の句に感心して何処かから買って来たか? 又は誰かに書いてでももらったか? ――そんな因縁のものなら、わるいと思うが、思えば父や母のしたことには時々極く小さなことなどに、却って後々不審の種となることがある。父はもういませんが母はいますから、あのかけじのことは聞いておいて見ましょう。少くもその家にあったいわれを。

 此処に学校の教科書を想い起します。その中の火事の絵に好きなのがありましたが、第三課「富士登山」と云うのはフジトさんと云う人だと思い、何だか寂しい気がしました。直きに和紙が洋紙になったようでしたが、和紙の方がやわらかで好きでした。
 多分芳年の筆と思う一つ家の図を想起します。――之は大版二枚がけ位のタテに長い版画でしたが、下では鬼婆が乳をぶらさげて出刃をとぎ、上からは身もちの真白な女が真赤なゆもじをして、ゆわかれてさかさに吊るされています。之が近所の大平という本屋に出ていましたが、度々見て、いろんな想像をしました。只怖いせいでしたろう、買ってもらいたい気はしませんでした。時々見たくなって見に行ったものである。
 大寺少将の雪の中に立っている図を思い出します。それは錦絵の三枚続きを沢山裏表に貼り込んだ、四冊の画帖の中にあるものでしたが、主に芝居絵であった。時々、戦争絵が出て来て、しげしげと見ました。大寺少将は黒の外套を着て、その外套の胸に胡粉が一杯ついていましたが、それがブツブツ盛り上っているので好きでした。オーデラ少将と云う音にも妙に魅惑があったらしい。その他原田十吉の門破りとか、馬を連れた福島中佐など――この福島中佐には別にガラスの玉で、中に水と紙の粉と福島中佐の人形とが仕組んである玩具を持っていて、殆ど一日に一度や二度はきっとその玉を振って見る。するとバラバラと馬上の小さな中佐へ大雪がふりかかります。じっと見ている間に段々静まる。シーンとして、遠くへ行ったようの気になります。
 当時私の家はそっくり硝子戸の造りに、その硝子が一こま一こま、赤、青、黄、紫、白、と、五色の市松になっていました。二階で日なたにいると広間の畳へ不思議な色模様が染まります。その西日を受けた赤などの色は、余り気持のいいものではありませんでしたが私はよくその中の一つ色を選っては、互ちがいに飛んで歩いて、そこで遊んだことがあります。
 海や山は私は殆ど中学へ行く迄知りませんでした。芝公園へ行くと深山へ入ったようの気がしたものです。大てい家にばかりいて、絵は初めから好きでしたから殆ど小さい時分からよく描いていましたが、同時に鳴物が好きで、種々の楽器を好んで鳴らしました。手風琴、吹風琴、ハーモニカ、明笛など。或いは楽器で遊んだ時間が子供の中は一番多かったかもしれません。それに次いでは絵をかくことでした。
 極く小さい頃のことはおぼえていませんが、度々半紙に筆で八百屋ものの戦争の絵を描いたことを記憶します。きっとその茄子が鎧を着てかぼちゃを負かしている。横手に上野の戦争のような黒い柵があって、血は筆に墨をふくませておいて紙の上へぶっと吹かけたものです。全くその絵が出来上ってから血を吹きかける時には、勇壮の感がして――今でも昔の通り思い出せます。
 まだ十歳にはならなかったでしょう。十歳と云えば尋常三年ですから、尋常三年には多分軍艦や波を描いただろうと思う。一体私にあんな八百屋ものの戦争の絵を教えたのは、私の叔父だが、叔父は又何からああ云う画因を知っていたものだろう? 恐らくそんな絵草紙類があったものでしょうが見たいものです。――この叔父はなお細工ものが上手で、小さな木組をうまく扱って、そっくり二階建ての家などをこしらえていました。私はそれに真似て木をけずって軍艦をこしらえました。
 所が近くの虎屋横町に住むナンブセーカンと云う、私の兄の友人が、更によく軍艦をこしらえることを知っていて、殊にナンブセーカンは出来上りの木の船へペンキを買って来て塗った。一体此のセーカンが然しありようは大のいたずらっ子で、表てなどで「ナンブセーカン」と聞くと私達こどもは逃げたものである。然し偶々家へ遊びに来て兄キと何かしているのを見ると、幾艘もペンキ塗の軍艦をこしらえて、私の家の物干しへ矢張りペンキで「旭造船所」と書きました。私は此の読み方を兄キに聞きましたが、うれしいと思いました。
 私は先ず「美術」に就てはこのナンブセーカンと、それから前に云った叔父とに、大いに啓発されたことを感じます。――叔父にはその後今も逢いますから、よくその事を云っては昔の八百屋合戦の図を描いてくれと頼むが、只笑っていて、描いてくれない。「ナンブセーカン」氏には、さっぱりその後逢いません。
 私は千代田小学校と云う学校へ上っていましたが、級の中では絵の好きな方でした。――それともう一つ好きなものがあったのは、唱歌室のオルガンで、余り弾いて見たいので一度忍び込んで弾いたことがある。胸がどきどきしました。
 級の中では絵も相当描く方でしたが、決してうまい方ではなかった。つい名を度忘れして思い出さないが、或る同級の子に波を切る軍艦の絵を非常にうまく描くのがいた。私はそれを見ていると筆端に不思議な新鮮さを感じました。まざまざと回想します。
 その頃絵好きの同志が集まって、私の家の三階でよく絵の描きっこをしました。その中に一人新籾と云うのがいましたが、濃い鉛筆で絵を描いて上からゼラチンをかける。それを油絵だと云って、ぴかぴか光らせて見せたのである。――私はそれ以来何枚絵をかいて何度ゼラチンをかけたか分りません。只新籾の絵は濃くて立派なのに自分のはどうも薄くてうまく油絵のように行かない。殊に一度驚いたような、家の人に見付かるといけない? と思ったのは、新籾がいきなり女の裸かを描いて、それを「油絵」にしたことです。きゃっきゃっと云っていたが、多分少なからず年のせいでしょう。私より年長でした。
 その後この新籾は死んだと聞く。非常に僕を刺戟した、最初の「絵かき」である。
 何でもその頃と思う。銀座の――何処だかわからないが、兎に角工場へはいって、そこで戦争の油絵と、それから今思えばモザイク風に描いた、顔や胸などの継々になっている絵を見ました。私はその勧工場で木版の羽衣双六と云うのを買って来ましたが、正月のことで、今云ったモザイクの油絵が珍らしくてたまりませんでした。
 当時家兄は、神田の京華中学へ通っていましたが、兄の中学の友人に伊藤? 何とか云う人がいた。度々その人から肉筆の水彩絵ハガキが来て、殊に兄キ達は、仲間で『風見』と云う廻覧雑誌をやっていました。――その表紙と口絵とに或る号へ「伊藤さん」が、表紙には女の上を向いた大きな顔と、口絵に煉瓦建てのある風景を描いていました。忘れもせぬ「ワットマン」と云うごりごりした紙へ描いてあって、その絵の為に『風見』はあけにくい位でしたが、私はそれを見た時、頭がカァーッとする程亢奮しました。何度その絵をと見こう見したか知れないし「伊藤さん」が或る日来た時には、どんなにその一寸猫背のような、カラを付けないで服の襟を外している、その風貌も何も彼も、尊敬したか知れません。兄キの室へ行ってはその『風見』を幾度も見たものです。例の来者不拒のかけじのある室へ。
 と、矢張りその時分のこと、兄キが此度は何だか大きな紙へハムレットの芝居を見たと云うので、そのハムレットの場面を絵に描きました。――一体家兄は初めは私よりずっと絵がうまかったので度々絵はかいていた。私は丸で頭が上がらなかった。然し此度のハムレット程まとまった大作は、したことがありませんでした。
 私はそれを痛く感心して、殊に画面に沢山円柱があって、靴下からももまで足の形の通りぴったりと付いた服を着ている、その足の人が沢山並んでいます。之を実に気に入りました。それ迄、外国の絵では見たこともあるが、日本人で描いたのは、先ず見たことがない。それを兄キがずんずん描いているので、自分は小学校だ。中学校へ行くと、伊藤さんや兄キのようにあんな風に絵が描けるようになるのか、いいなあと思いました。兄キはその絵を然し中止したようだったが。――定めしこんな事をかいたら、兄キはいやがるだろう。僕には只忘れられぬことである。
 私は毎号出る度毎に『少年世界』と、たしか『少年』もその頃発刊されたと思う、それと、小波さんの『世界お伽噺』と、両国に片桐と云う気持のいいおかみさんの本屋があって、そこからツケで買いました。『太陽』の表紙が如何にも大人々々していて尊敬心を払ったおぼえがある。『少年世界』では江見水蔭さんの探検が好きなのに山中古洞さんの挿絵が嫌いで、拘泥したおぼえがあるが、之は前期のことか。――『世界お伽噺』では新版を本屋で買うと、先ずその挿絵を一通り見ることにして、ガリバーの絵だとか真黒学校の絵などは実に好きでした。酋長征伐は怖いと思いました。それから渡部審也氏、中村不折氏等の挿絵を尊敬しました。――雑誌『少年』に就ては、表紙のペン画が好きでしたが、其の作者の北沢楽天さんが之は又選者で、ウラメシや、毎度学校の先生の年の検印をもらっては大いに苦心して、はめ絵や判じ絵を出しました。一度も出ないのでがっかりしました。それに答案に予め賞品の希望を記せとあるので、銀時計と書きました。ああ、烏兎早々、北沢さんに心から御挨拶しましょう。
 その第二号か三号かに「板ばさみ」と云う冒険談か何かがあった。あれは幾度読んでもよくわからないので悲しくなりました。
(大正十三年十月)

底本:「日本の名随筆 別巻85 少年」作品社
   1998(平成10)年3月25日第1刷発行
底本の親本:「木村荘八全集 第七巻」講談社
   1982(昭和57)年11月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年12月12日作成
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