安大成あんだいせい重慶じゅうけいの人であった。父は孝廉こうれんの科に及第した人であったが早く没くなり、弟の二成じせいはまだ幼かった。大成はちん姓の家からおさ珊瑚さんごという女をめとったが、大成の母のしんというのは、感情のねじれた冷酷な女で、珊瑚を虐待したけれども、珊瑚はすこしもうらまなかった。そして、朝あさ早く起きては身じまいをして、母の所へ挨拶にいった。
 大成がその時病気になった。母は珊瑚がみだらであるからだといって、ある朝珊瑚を責めののしった。珊瑚は自分のへやへ入って化粧をおとして母の前へいった。それを見て母はますます怒った。珊瑚は額を地に打ちつけてあやまった。大成は親孝行であった。それを見てむちって珊瑚を打った。それで母の気がすこし晴れてその場は収まったが、母はそれからますます珊瑚を憎んで、珊瑚が心から仕えても一言も物をいわなかった。
 大成は母が珊瑚に怒っていることを知ったので、我が家に寝ずに他所で泊って、珊瑚と夫婦の交わりを絶っていることを見せたが、それでも母の気持ちはなおらなかった。何かにつけて怒り罵るのは皆珊瑚のとばっちりであった。大成は、
かないをもらうのは、舅姑りょうしんにつかえさせるためなのだ。こんなことで何が妻だ。」
 といって、とうとう珊瑚を離縁して、老姨ばあやをつけて親里へ送らしたが、村を離れようとすると珊瑚は泣いて、
「女と生れて人の妻となることができないで、どうして両親に顔があわされよう。いっそ死ぬるがましだ。」
 といって、袖の中から剪刀はさみを出して喉を突いた。老媼ばあやはびっくりして剪刀をもぎとったが、血は傷口から溢れ出て襟をうるおした。老媼はそれで珊瑚を大成の叔母にあたる王という家へれていった。王はやもめぐらしで夫はなかった。珊瑚はとうとうそこにいることになった。
 老媼が帰って来ると大成は、この事情を隠しているようにいいつけたが、母がそれをさとりはしないかと思って恐れた。で、数日して珊瑚の傷がすこしえかけたということを知ると、叔母の許へいって、門口で叔母に、
「叔母さん、あんな者を置いちゃいけない、おんだしなさい。」
 といった。叔母は、
「まァ、まァ、門口でそんなことをいってはいけない、お入りなさいよ。」
 といったが、大成は入らないで、
「おい、珊瑚出ていけ。こんな所にいてはいけない、出ろ、出ていけ。」
 といって怒鳴った。間もなく珊瑚は大成の前に出て来た。
「私にどんな罪がございましょう。」
 大成はいった。
「お母さんに仕えることができないじゃないか。」
 珊瑚は何かいいたそうにしながら何もいわないで、俯向うつむいてすすり泣きをした。そのなみだには色があってそれに白いじゅばんが染まったのであった。大成はいたましさにたえないので、いおうとしていたことばもよして引返した。
 それからまた二、三日して、母は珊瑚のことを聞き知った。怒って王家へいって汚い詞で王をめた。王も威張って負けていなかった。かえってさんざんに母の悪口をいった。そのうえ、
「嫁はもう出ているじゃないか、まだ安家のなにかになるのですか。私が自分で陳家の女を留めてある、安家の嫁を留めてあるのじゃないよ。なんで他の家のことに口を出すのです。」
 母はひどく怒ったが王のいうことが道理にかなっているので何もいえなかった。それに王の勢いが盛んであるから、だんだんしょげて来て大声に泣きながら返っていった。珊瑚は心がおちつかないので他へいこうと思った。
 その時、王のおばにあたる老婆があった。それは沈の姉であった。年は六十あまりであった。子供が亡くなって一人の小さな孫と、寡婦になった嫁との三人で暮らしていたが、せんに珊瑚をかわいがってくれたことがあるので、珊瑚はとうとう王の家を出て姨の所へいった。姨はわけを聞いて、
「妹のわからずやにもほどがある。」
 といって、そこで珊瑚を送り還そうとしたが、珊瑚は、
「それはだめですよ。」
 と、帰っていけない事情を頻りにいって、
「どうか、ここに来ていることをいわないでください。」
 と頼んだ。そこで珊瑚は姨の家にいることになったが、その容子はしゅうとめに仕える嫁のようであった。
 珊瑚には二人の兄があった。兄は珊瑚のことを聞いてあわれに思って、うちへ連れて来て他へ嫁にやろうとした。珊瑚はどうしてもきかずに、姨の傍で女の手仕事をして生計くらしをたてていた。
 大成が細君を離縁してから、母は多方ほうぼうへ嫁をもらう相談をしたが、母親がわからずやのひどい人であるということが世間の評判になったので、どこにも嫁になる者がなかった。
 三、四年して大成の弟の二成がだんだん大きくなって、とうとう先に結婚した。その二成の細君はぞうという家の女であったが、気ままで心のねじけたことは姑にわをかけていた。で、姑がもし頬をふくらまして怒ったふうを見せると、臧は大声で怒鳴った。それに二成はおくびょうで、どっちにもつかずにおずおずしていたから、母の威光はとんとなくなって、臧にさからわないばかりか、かえってその顔色を見て強いて笑顔をして機嫌をとるようになった、しかし、それでもなお臧の機嫌をとることができなかった。
 臧は母を婢のように追いつかったが、大成は何もいわずにただ母の代わりになってはたらいた。器を洗うことから掃除をすることまでも皆やった。母と大成とはいつも人のいない処へいって泣いた。
 間もなく母は気苦労がつもって病気になり、たおれてとこについたが、便溺しものものから寝がえりまで皆大成の手をかりるようになった。それがために大成も昼夜睡ることができないので、両方の目が真赤に充血してしまった。そこで弟の二成を呼んで代りにやらせようとしたが、二成が門を入って来ると臧がすぐ喚びに来て伴れていった。
 大成はそこで姨の家へかけつけて、
「見舞ってやってください。」
 といって涙を流しながら頼んだ。その頼みの言葉のおわらないうちに、珊瑚がとばりの中から出て来た。大成はひどくじて、黙って出て帰ろうとした。珊瑚は両手をひろげて出口にたちふさがった。大成は困ってその肘の下をくぐりぬけて帰って来たが、そのことは母には知らさなかった。
 間もなく姨が来た。大成の母は喜んでいてもらうことにした。それから姨の家から日として人の来ないことはなかった。そして来ればうまい物を送ってよこさないことはなかった。姨は家にいる寡婦やもめの嫁にことづけをした。
「ここではひもじいめに逢うようなこともないから、もう何も送って来ないようにってね。」
 しかし姨の家からは欠かさずに物を送って来た。姨はそれをすこしも食わずに、のこしておいて病人にやった。
 大成の母の病気はだんだんよくなった。姨の孫がその母親にいいつけられて、おいしい食物を持って病人の見舞に来た。大成の母は歎息していった。
「賢いのね、嫁は。姉さんは、前世でどんな善いことをしたのでしょう。」
 姨はいった。
「お前さんが出してしまった嫁はどうだった。」
 大成の母はいった。
「あァ、あァ、それはね、夫己氏だれかのようにひどくはないが、でも、どうしてお宅の嫁にかないましょう。」
 姨はいった。
「嫁がいた時には、お前は苦労を知らないでいられたし、お前が怒っても、嫁は怨まなかったし、嫁があるにこしたことはないじゃないか。」
 大成の母はそこで泣いて、そして珊瑚を出したことを後悔しているといって、
「珊瑚はもう他へかたづいたでしょうか。」
 と訊いた。姨はいった。
「知らないが、ね。詮議をしてみよう。待っておいで。」
 二、三日して大成の母の病気は一層良くなった。姨は家へ帰ろうとした。大成の母は泣いていった。
「姉さんがいなくなったら、私は死ぬるのですよ。」
 姨はそこで大成と相談して、二成を分家さすことにした。二成はそれを臧に知らした。臧は気を悪くして大成と姨に悪口をついた。大成は良い田地をすっかり二成にやりたいといった。臧はそこで機嫌がよくなったので、財産を分配するに用いる書類をこしらえた。
 姨はそこで始めて持っていった。翌日になって姨は車を以て大成の母を迎えにやった。大成の母は姨の家へいって、先ず、
「嫁に逢わしてくださいよ。」
 といって、ひどく甥嫁を褒めた。姨はいった。
「あの子はいくら善いといったところで、すこしも欠点がないということはないよ。それは、ただ私がゆるしているからだよ。お前さんに、もし嫁があって、家の嫁のようであっても、たぶん世話になれまいよ。」
 大成の母はいった。
「あんまりですわ、私を無神経だとおっしゃるのは。私にも目も鼻もありますよ、物の善い悪いが解らないことはありませんよ。」
 姨はいった。
「では、珊瑚のように出されたら、お前のことを何といってるだろうね。」
 大成の母はいった。
「悪くいってるでしょうよ。」
 姨はいった。
「ほんとうに自分の身を振りかえってみたら、悪くいうことはないから、なんで悪くいうものかね。」
「しかし、どんな人にも至らない所があります。珊瑚も賢人でないから、悪くいってると思うのですよ。」
 姨はいった。
「怨むはずのものを怨まないのは、その人の心が解るし、いってしまってよいものをいかないのは、かわいがっていることが解かるのだよ。あの食物を送って来てめんどうを見たのは、私の嫁でなくてお前の嫁だよ。」
 大成の母は驚いていった。
「なんですって。」
「珊瑚は長いことここにいるのだよ。あの送ってくれた食物は、皆あれが夜績よなべしごとでのこしたものだよ。」
 大成の母はそれを聞くと涙を流していった。
「私は、嫁にあわす顔がありません。」
 姨はそこで珊瑚を呼んだ。珊瑚は涙を目に一ぱいためて出て来て、べったりと身を投げ伏してしまった。大成の母はじてひどく自分で自分の身をせめた。
「私はなんというばかだろう。私はなんという心だったろう。」
 姨はそれをやっとなだめた。そこで、とうとう初めのような嫁と姑の仲になり、十日あまりして一緒に帰っていった。
 良田を二成にやってしまった大成の家では、痩せた幾畝かの田地を作っていたが、たべるに足りないので、大成は筆耕をやり、珊瑚は針仕事をして、それをたのみにしていた。
 二成の方では足りないものはなかった。しかし、兄の方では助けを求めようともしなければ、弟の方でもまた世話をしようとはしなかった。そして、臧の方ではあによめが家を出ていたことをいやしんでいたし、嫂の方でもまた臧の気の荒いことを悪んで相手にしなかった。兄弟は庭を隔てて住んでいたが、臧が時とすると凌辱することがあっても、一家の者は皆耳をふさいでいた。臧はいじめる者がないので夫と婢とにあたった。
 婢は臧の虐待にたえかねて、ある日、自分で首をつるして死んだ。婢の父親が臧をうったえた。二成は細君に代って裁判をうけて、ひどく鞭でたたかれた。そのうえ臧もかかりあいで拘えられた。大成は上下の役人に対してゆるしてもらう運動をしたが、どうしても赦されなかった。臧は指械ゆびかせをせられたので指の肉がすっかり脱けてしまった。そして、役人の賄賂のむさぼりようがひどくて、巨額の金を要求するので、二成は田を質に入れて金を貸り、いうとおりに収めて、やっと赦してもらって帰って来た。けれども債権者の催促が日ましにきびしいので、やむを得ず、すっかり良田を村のじんという老人に売ってしまった。任はその田地の半分どおりが大成の譲ったものであるところから、大成にその書付を要求した。安は出かけていって任に逢った。と、任は忽ち、
「わしは、安孝廉だ。任というのは何者だ、わしの財産を買おうとするのは。」
 といってから、大成を顧みて、
冥間あのよで、お前達夫婦の孝を感心せられて、それで、わしを帰して、逢わせてくだされたのだ。」
 といった。大成は涙を流していった。
「お父様にみたまがありますなら、どうか弟を救ってやってください。」
「あんな不孝なせがれや、わがままの嫁は、惜しくはない。それよりかお前は早く家へ帰って、早く金をこしらえて、わしの大事な財産を買いもどしてくれ。」
 大成はいった。
「母子がやっと生計をたてております。どうして、そんなたくさんの金ができましょう。」
紫薇樹さるすべりの下に金をしまっておいた。それを掘ってつかうがいい。」
 大成はも一度精しいことを訊こうとしたが、老人はもう何もいわなかった。しばらくして大成は夢の覚めたようになって、何をしていたのか茫としていて自分で自分のやっていたことが解らなかった。
 大成は帰って来てそれを母に話したが、あまり不思議であるから母もやはり深くは信じなかった。臧はこのことを聞くともう数人の者をつれていってあなぐらあばきはじめた。そこに四、五尺の深さになったあながあった。しかしそこには石ころばかりで金らしいものはなかった。臧は失望して帰っていった。大成は臧が紫薇樹の下を掘っているということを聞くと、母と珊瑚にいいきかせて視にいかせなかった。そして、後で何もなかったということを知ったので、母がそっといってのぞいて見た。やはり石ころが土の中に雑っているばかりであった。そこで母が返った。珊瑚がいでいってみると、土の中は一めんに銭さしにさした銀貨ばかりであった。珊瑚は自分で自分の目が信じられないので、大成を呼んで一緒にいってしらべると、やはり銀貨であった。しかし大成は父親の遺したものであるから自分一人で取るに忍びないので、二成を呼んでそれを同じように分け、めいめい嚢に入れて帰った。
 やがて家へ帰った二成は、臧と二人でそれをしらべようと思って、嚢の口を開けてみた。嚢の中には瓦と小石が一ぱい入っていたので大いに駭いた。臧は二成が兄のためにばかにせられたのだろうと思って、二成を兄の所へやって容子を見さした。兄はその時嚢から出した金を几の上にならべて、母とよろこびあっていた。そこで二成は兄に事実を話した。安もそれには駭いたが、心ではひどく二成をあわれに思って、その金をすっかりくれてやった。二成は喜んで、任の家へいって金を返してしまった。二成はひどく兄を徳とした。臧はいった。
「これで、ますます兄さんのうそが知れるのですよ。もし、自分で心にじることがなくて、だれが二つに分けたものをまた人にやるものですか。」
 二成はそれを聞かされると半信半疑になった。翌日になって任の家から下男をよこして、払った金はすっかり偽金にせがねであるから、つかまえて官にわたすといって来た。二成と臧は顔色を変えて驚いた。臧がいった。
「どうです。私ははじめから兄さんは利巧りこうで、ほんとに金なんかくれることはないといったじゃありませんか。どうです。これは兄さんがお前さんを殺そうとしていることじゃないの。」
 二成は懼れて任の家へいって哀みを乞うた。任は怒ってゆるさなかった。二成はそこでまた地券を任にやって、かってにってもかまわないということにして、やっともとの金をもらって帰って来た。そして断ってある二つのいたがねをよく見ると、真物の金は僅かににらの葉ぐらいかかっていて、中はすっかり銅であった。臧はそこで二成と相談して、断ったものだけ残しておいて、あとは皆兄の許へ返して容子を見さした。そして、二成に教えてこういわした。
「たびたびお金をいただいてすみません。で、二枚だけ残しておいて、お心ざしをいただきます。しかし私は残っている財産が、まだ兄さんと同じくらいあります。たくさんの田地はいりませんから、もうすててしまいました。買いもどすとも、そのままにするとも、それは兄さんしだいです。」
 大成は二成の心が解らなかったから、
「それは一たんお前にやったものだから、それはお前のものだよ、かえしてはいけない。」
 といって取らなかったが、二成がひどく決心したようにいうので、そこで受け取ってはかりにかけてみると、五両あまりすくなくなっているので、珊瑚にいいつけて鏡台を質に入れて足りないだけの金をこしらえ、それを足して任の家へいって田地を取り戻そうとした。任はその金が二成が持って来た金に似ているので、剪刀はさみで断ってしらべてみた。模様も色も完全に備ってすこしのあやまりもないものであった。そこで任は金を受け取って地券を大成に、かえした。二成は金を還した後で、きっと間違いがあるだろうと思ってみたが、もうもとの財産が買いもどされたと聞いたので、ひどく不思議に思ったのであった。臧は金を掘りだした時、兄が先ず貢物の金を隠しておいたものだろうと思って、忿いかって兄の所へいって兄を責め罵った。大成はそこで二成が金を返して来たわけを知ったのであった。珊瑚は臧を迎えて笑顔をしていった。
「財産がもどったじゃありませんか。なぜそんなに怒ります。」
 そこで大成に地券を出さして臧に渡した。と、二成はある夜父の夢を見た。父は二成を責めていった。
きさまは不孝不弟であるから、死期がもうせまっているのだ。僅かな田地も汝のものにならない。持っていてどうするつもりなのだ。」
 二成は醒めてから臧に話して、田地を兄に返そうとした。臧は、
「ほんとにあなたはばかですよ。」
 といって承知しなかった。その時二成に二人の男の子があって、長男が七歳で次男が三歳になっていたが、間もなく長男がほうそうで死んだ。臧は懼れて二成に地券を返えさした。大成は二成がいくらいっても受け取らなかった。間もなく次男がまた死んだ。臧はますます懼れて、自分で地券を持っていって嫂の所へ置いて来た。
 その時は春ももう尽きようとしているのに、二成の持っていた田地は草の生えるにまかして耕してなかった。安はしかたなしに耕して種を蒔いた。臧はその時から行いを改めて、朝夕母の機嫌を伺うのが孝子のようになり、嫂を敬うこともまた至れりであった。
 半年たらずに母が没くなった。臧は慟哭どうこくして、飲食ができないほどであったが、人に向っていった、
「お母さんの早く没くなって、私がつかえられなくなったのは、天が私に罪をあがなわないためです。」
 臧は十人も子供を生んだが皆育たなかったので、とうとう兄の子を養子にした。大成夫婦は天命をまっとうして世を終ったが、三人の子供があって、二人は進士に挙げられた。世人はそれを孝友のむくいだといった。

底本:「聊斎志異」明徳出版社
   1997(平成9)年4月30日初版発行
底本の親本:「支那文学大観 第十二巻(聊斎志異)」支那文学大観刊行会
   1926(大正15)年3月発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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