久能は千駄木の青江の家に移って卒業論文に取りかかった。同じ科の連中に較べると、かなり遅れていたので、狼狽気味に文献を調べ、此方に来ていない参考書を取り寄せたりした。大学の語学的な片よりを嫌って、その間近の喫茶店などにとぐろを巻いて文学をやる友達のいないのを歎じたり、気焔をあげたりしていたが、実際には創作など発表している先輩がいても、自分の方から頭をさげて行く気にならないで、誰か誘いかける奴はいないかなと待っているだけだった。そんな不徹底さからも当然、将来の生活に不安を覚えて、学業をまるっきりもすてきれず、久能は真面目に講義に出ている友達からノートを借りて写したり、論文のテーマを築きあげたりしていた。するとそこへ三ツ木などが現われて雑誌を始めようとすすめたので、論文と一緒では録なものも書けまい、いや事によったら論文の方はなげ出して了ってもいい、どうせいずれにしても食えないのだと観念して、久能はその同人になり、余り立派でない、創刊号を送り出したのは、その夏の始めだった。併し案の通りその反響は凡んとなく、四号で潰れて了った。久能の記憶に深く残ったのはむしろ「リラの手紙」だった。手紙そのものとしても、また一層それから起った事からしても。その手紙に一番打たれたのは久能自身よりも青江だった。その頃三ツ木が彼を訪ねて来て、階段下の衣桁に彼女の華やかな着物がぬぎすてられてあったのを、おどけた身振で手に取って香を嗅ぎ、ふんと、久能の肩を叩いて鼻を鳴らしたことがあった。青江は女学生時代から遠縁のこの家に寄宿していて、京橋あたりの会社に勤めていた。久能は最初から彼女の豊満さや、短かく切った髪の毛に較べて不均合に大きい顔や、柔らかさと、智的な輝きのないのが嫌いで、青江と口をきいたことがなく、むこうでも、いつもぶしょうに髪の毛を伸し放題にしている彼の存在を無視していて、稀に彼の部屋に来ても、むっと体臭を放って来る青江に生理的な圧迫を感じて、わざとそっぽをむいたり、字を追っていたりする久能の傍には五分といつかないで、男一人が壁に向って、しかめ面をして考え事をしている陰惨さを怕がったり、嗤ったりして出て行くのだった。実際、久能の部屋といえば、書物や切抜きが取りちらかり、足踏みもならなくなっているばかりか、花瓶はあっても横ざまにころがり、時々垢じみた万年床が敷いてあったりして、シックな青年を見馴れている青江の興味を惹くものはどこにもなかった。
 秋の初めのある夜図書館からの帰りに、久能はその時雑誌の三号目の編輯当番だったので、三ツ木の処に廻って原稿を催促すると、彼もまだ手をつけていず、久能君、不思議だねえ、と三ツ木は歎息していった、筆をとるまでは百千万の想像が阿修羅の如くあばれまわっていたのに、いざとなるとそいつらは宦官のようにおとなしくなっちまいましてね、併し久能君、落付いてやりましょう、と下宿を飛び出し、撞球屋に案内して、白珠、赤珠をごろごろ限りなく撞き出したので、久能がもて余していると、三ツ木は、僕はこうやっているとふっといい題材を思いつくんですよ、といって久能を散々に負かした。久能が下宿に帰ってくると鍵がおりていた。お主婦かみさんが起きて開けてくれ、そうそうと思い出したように、久能さん、お手紙、ああちゃんが預ってるわ、と少し皮肉らしくいったので、突嗟に久能は異常なものを感じた。今まで彼に来た手紙がそんな取扱をうけたことはなかった。すぐ階段を上らずに、まだ起きているのか、淡く灯のついている青江の部屋の障子を細目に開くと、仰向けの青江の白い寝顔が見えた。ちょっと、と呼びかけてみると、表情は動かなかったが、硬ばった頬と唇には明らかに意識が動いていて、眼が次第に開いて来、久能を上眼に盗み見ると、頸を縮めて夜具の中にかくれていった。手紙? と愛想なくせき立てると、青江は初めて眼ざめたように大きく眼を開いて、久能を睨みあげ、知らない、手紙なんか! あっちへいってよ、というので、久能は自分の過失を責められたみたいに、良心が狼狽して来た。翌朝久能が眼ざめると、無惨に開封された黄色い封筒が枕許に放り出してあった。開くと柔らかな芳香が流れ出して、達筆にかかれた青文字が微妙なデッサンに見えた。婦人から手紙を貰ったことのない久能は、陶酔的に胸が熱くなり、その中の事務的な文句が最初は魔の様に踊り出して、相手から余程の好意を寄せられたかのように誤信せずにいられなかった。久能は雑誌を飾るため新い作家として売り出していた龍野氏に原稿を依頼してあった。これは龍野氏の妹の頼子からの手紙で、兄は急に旅行に出かけたので、お約束を果すことが出来ない、宜しく伝えて呉れる様にとの事でしたという簡単な謝り状を久能は繰返し繰返し読み、頼子は恐らく自分達の仕事に関心をもっていて呉れるのだと推察し、ふと彼女も仏文学に堪能なことを思付くと、彼女に何か書いて貰おうとすぐ決心した。その夜青江を責めると、却って久能が浮き浮きしているのを逆襲され、青江の眼の色がいつもと違ってじっと自分を見据えているのに気づかず、青江のいう通りかも知れない、一二度龍野氏を訪ねた際、頼子に直接会いはしなかったが、襖越しに声を聞いたことはあり、龍野氏の前に踞んで、腕に余る猫を抱いていた写真を見て、兄の冷たい鋭どさが、ずっと奥にひそまって穏やかに輝いているのに惹かれたことがあった。実はその雑誌を今日古本屋で探し出して来て、妹の姿だけを切抜き、その手紙の中に入れて置いた処だった。久能が机の前に坐って、頼子宛の依頼状を認めていると、忍び足に階段を登って来た青江が平生にないおどおどした声で、入ってもよくってというので、急いで依頼状を隠し、うんと答えると、彼女は手に百合の花を持っていて、お友達にもらったのよ、と上気して言訳をいいながら、放り出されていた花瓶に生けて本柵の上に置くと、ああ強い、いやな匂だ、頼子の手紙のかおりの幻影が消えて了う、と不快さを明らさまに表わしながら、せっせと久能はノートを筆記した。忙しくて? と青江が寄って来ると忙しくて堪まらないんだ、こんなに溜っているとノートを広げて見せ、青江に少しの隙もみせず、追い遣って、階段の音がきえると、ホッとしてまた依頼状をかき出した。
 頼子の手紙が来てからというものは、どういう刺戟からか、久能に示した青江の変化は激しかった。隙をうかがっては彼の傍に現われて話しかけ、襟の屑を払ったり、しまいには夜具の汚れた上被を解いて洗い、毎日、新らしい花を生けた。久能は一向気づかない風だったが、ある夜帰って来るとノートが十二頁青江の手で写され、彼女は尚机にうつぶしになって一心にペンを動かしていた。久能はすぐ難かしい顔をして、ノートを取りあげてみると、拙劣な、しかし丁寧な字がならび、原語は四頁まで刻命に、それでも間違だらけで書きとられ、その次の頁から、原語だけは諦めたと見えて空白になっていた。繰り拡げている中に久能は羞かしさや、屈辱や、恐怖が湧いて来た。大垣で高利貸をしている青江の父や、玄人上りの、時々、株を張りに堂島に出かけていくという継母や、一眼で淫蕩を想像させる青江が自分の血に交ってくる予感! その押えきれない恐怖心で久能は青江を突き退け、僕のノートを汚さないで貰いたいなと震えた声音でいい、それだけでは不安を押えることも、怒りを相手に伝えることも出来ないという半ばは意識的な遣方で、いきなりばりばりと十二頁のノートを引きさいて、下へ持ってって下さいと青江の前に突き出すと、青江はかすかな冷笑で久能を見返し、なぜいけないの、というので、彼は、こんな字汚なくて読めない、と答え、久能さんの字だって綺麗な方じゃないわ、とやり返して来る青江に、僕の字はどんなに汚なくったって僕には読める、第一女の書いたノートを持って学校に行けるもんかと、突っぱなすと、青江は机の前に無表情に坐ったまま、頬に落ちて来る涙を頑くなに拭きもしないでいた。そうして向き合っていると、くやしいためなのか、圧迫されるためなのか、自然に眼頭が熱くなって、今にも弱身をみせそうになるので、自分の方から部屋を出ていき、夜の街を、暗いところ暗いところと歩みまわった。すると次第に青江が気の毒になり、自分の心の狭さが後悔され、ああ、あのまま知らぬ顔をしておれば、青江も喜ぶのだし、自分も労力を大分省けたものを、もっとずるくなって悉皆青江に写さして了えばいいものをと考え、遠くの何一つ本当の生活を知らない頼子に徒らな興味や尊敬をもちながら、近くで実際的な親切を尽して呉れる青江には何故こんなに冷淡なのだろう、青江の官能的な圧迫を一々悪意にとって彼女を苦しめるには当らないじゃあないか、自分は間違っている、青江にあやまろうと思っている中にまた、いや、僅かでも彼女を許せば、ずるずるっと彼女のとりこになって了うぞと怖ろしく感じ、とりとめなく歩きまわっていた。
 その夜から再び青江は久能に冷淡になった。勿論その蔭には強烈な意識が針のように動いていた。お互の時間がかけ違っていて機会は滅多になかったが、出会っても、知らぬ顔をし、一緒に食事する時も一枚の板のような表情だった。
 頼子から承諾の手紙が来た。同じ封筒、同じ芳香。しかし前とこれも同じ様に、取あえず、と認められてあった。この四字はいつも妙に白っちゃけていて、芳香に誘われて頼子に親しみを感じていく久能の心にひやりと冷たい氷をあてる、いわば防腐剤であった。しかし久能はその封筒を、父の遺した螺鈿の文筥に大事げにおさめた。
 久能が菊崎という同級の中で一番の真面目で通っている男の処へノートを返しに行くと驚ろいたことにはもう論文を自分でタイプしていて、久能さん、僕は昨夜――省の――局長を訪ねて来ましたよ、というので、久能は驚歎して、僕なんかまだ論文も書き始めないし、未だ就職運動どころじゃない、何しろ今小説を書いてるところですからねと答えると、菊崎は、困りますよ、そんな心掛じゃと白い歯で笑った。久能は、みていろ、俺だって、いい小説を書いて学校なんか蹴とばしてやるぞと意気込んで帰って来、二時近くまで、ペンを走らし、漸く書き終って読み返し出すと、消しや書き入れで支離滅裂になっているためか、書いた事が少しも心にふれて来ないだけでなく、何となく重苦しい気持なので、熱を計ると、いつの間にか高い熱が出ていた。いつもの扁桃腺だと高を括っていると、翌朝は愈々苦しくなり、肺炎を惹き起していて、熱が四十度を越えると、原稿、原稿とうわ言をいい初めていた。久能が意識を戻すと、青江が傍にいて胸に氷嚢を当てていた。久能はもう先頃の争そいを綺麗に忘れて、青江のするままに、薬を飲んだり、吸入したりした。一体に極端なほど病気に弱い久能はもうすっかり子供になっていて、母ちゃん、ここにいて、と病気の時は一刻も母を離さず、母の手を握っていたように、青江を離さず、青江の手をつかまえていた。そして十日程青江は会社を休んで久能の病床にいた。そして楽しげだった。そこへ雑誌が出来て来た。恢復期の奇妙に新鮮になっている久能の眼に初めて活字になった自分の名が、生きて踊っている小動物に見えた。頼子の随筆も載っていた。リラなのね、と青江はその終りの部分を突ついていった。その文章は昔から今日までのフランスの貴婦人達が愛した香料を考証したもので最後に、自分はリラの香を愛すると書かれていた。久能は青江に文筥から頼子の手紙を出させたが、感覚を失ったためなのかもうその匂は消えていた。青江が、そのお嬢さん、どんな人? と委しく聞き出すのを、久能は、幾日も看護されていた心の弱さで、青江の機嫌を取るために、頼子には全く無関心をよそおい、青江の額に手を触れ、髪を撫でるのだった。併し漠然と、こうしていたら、病床から起き出したとき、青江に冷淡さを示すのは随分困難になりそうだと不安になった。それでも母か、奴隷としての、青江のひたむきさに久能は惹きつけられ始めていた。
 久能はまた学校に通い出した。久能達の作品は悉く不評、というより何の評判も聞えなかった。旅行から二三日前に帰って研究室に遊びに来た龍野氏に偶然、出遇うと、龍野氏は約束を果さなかった言訳を簡単にいったきり、不快げに眼を細く光らしていた。それで久能は自分達の作品に対する龍野氏の不満が判ったばかりでなく、氏の留守中に久能が妹を訪門したのを気づいたらしい肉身的な不快さが読みとれ久能の背筋は冷たくなった。思い余って久能は、数日前、随筆のお礼にかこつけて、龍野氏の留守を知りながら頼子を訪ねていった。玄関に這入って行くと、頼子が弾いているらしく、ピアノの音が洩れ、女中があらわれると一緒に、それは止み、いよいよ頼子に会うことが出来るのだという期待で、動悸を算えていると、女中は、口を曲げて出て来、頼子は外出中だといった。ピアノを弾く年頃の人は彼女のほかにいない筈なのだがと、併し言い返しも出来ず、打ちひしがれたように退き、何かの翳に斜にみあげると、左側の龍野氏の書斎の群青の帷の隙間から頼子の顔が覗いているので、瞬間じっとみつめると、頼子は誇ったような表情を動かさず、見降しているので、久能は不用意な卑屈さで頭をさげていた。帰る途中、頼子という女はあくまでも遠くから働きかけて来、近づいてくると、ぴたりと入口を閉める、青江とは反対の聡明な女なのだ。そう思い出し、龍野氏と別れて、九輪を型どった青銅の噴泉の傍に呆然としていると、三ツ木がニヤニヤしながら遣って来た。お茶を啜りながら、遂々自分では書かなかった三ツ木は各同人の作品を痛罵し出したので、久能は自分の作品も一たまりもなくやられるのが判っているので、逃げ仕度をしていると、三ツ木は急に声をひそめ、久能に近寄って、久能君、非道く評判ですよ、君は誰に清書させたんですか、久能の奴こんな女文字の原稿を送ってくるなんて不届な奴だといって憤慨していた男もあったぜ、といい出したので久能は急に返事が出来ず、青江が黒い鞭になって、彼の面をずたずたにひったたくのを感じながら、赤くなって、僕が病気でいる中に、青江が、僕の許しも受けず清書したのだと弁解しても、三ツ木は愈々平たい頤を久能の眼前一ぱいに拡げて、嫉ましそうな眼をつりあげてしばたたき、もう君はあの娘を認識しているんですね、と止めを刺したようにいって笑い出した。久能は苦い虫を噛んだように黙っていると、三ツ木は久能が承認したのだと信じて、青江の肌は妙らしいものだと説明しはじめ、俺にだって、ああいう助手がいたら義理にも傑作を書くなあといった挙句、また球を撞こうと誘い出した。久能は不快さの中にも三ツ木のキューを握っている恰好の憑かれた三昧境を思い浮べて、この男が文学をやるのは一体どういう心算なのだろうと不思議にも、おかしくもなったが、こういう同人のいる雑誌では長続きは勿論、いい結果は得られないなと考え、三ツ木と表へとび出した時、菊崎に出遇ったので、久能は彼に無形なものを追っている迂濶さを嗤われているようで不快だった。併し三ツ木は文科にもああいう莫迦がいるんでやりきれないよ、文学の何たるやも知らない奴だと罵っていた。
 その夜、眠りからふと眼を開くと、久能は体が未知な衝動で慄えるのを感じた。彼は球を撞いてから、隅田川の向うに行くのだといって金を借りて別れていった三ツ木の言葉を思い出していた。それは青春の心臓の妖しい潮騒だった。久能はもう久しい事その響をきいていたが、堰を破る程にも狂い出さず、いつも対象を遠い時と所とに置いていたのに、三ツ木は無理矢理にその距離を狭ばめ、ああ僕はもう今、淵の前に立っているのだな、と初めてわかり、青江が全く新らしい眼の前に立ち、自分は危険な一線に近づいていたのかと、三ツ木にして見れば平凡極まる推測が、久能にはなまましく、魅するような悪魔の言葉に聞きとれたのだった。久能は獣になろうとしている自分を感じ、愛し切れない青江にこれ以上近づいたら、その後に開けてくるのは地獄の外にはないのだと考え、もう三ツ木の言葉がかもし出した新らしい悪戦苦闘を闘い出していた。
 ある夜、その頃は秋も大分闌けていた、病気以来遊びに来ない日のなくなった青江は久能の部屋に這入ったきり出ていこうとしなかった。彼女は親達から帰国を強要されていた。そこには彼等が良縁だと熱心になっている相手が手を伸べていた。帰りたくないわ、と傍を離れない青江に久能は少しも感情の動きを示さないように努めて、東京にいても青江に格別な幸福があろうとも期待出来ない、(そう漠然と青江を突っぱなすのは久能には変に快よかった。或はそれは既に愛着の現われであったかもしれないが)あなたの親達のすすめている結婚の背後には暗い影も見えないようだし、その男も写真でみたところだけでは僕などよりずっとしっかりしていそうだ、と冷淡に言いながら、久能は自分がひそかに青江が反対に一層彼に頼って来るのを待っているのに気づき、三ツ木の悪魔の言葉がここにもうろついているのが知れ、冷酷ね、あなたはと青江の眼に涙が光り、溢れて来たのを、むしろうずうずして内心にうれしがっていて、頬を親切げにふいてやり、肩を抱いて暗い廊下に出ると、俺はとうとう青江にこのまま遠ざかってしまうのだな、と悪魔の声をききながら、そのまま押すように青江をその部屋に送りとどけた。そして自分の部屋に帰って来て枕にうずくまっていると、突然、体が左右に揺れ出して、そうなると久能は完全な一匹の獣類になって、孤独だ! 孤独だ! と吼えはじめて階段を辷りおり、青江さん! 来て下さい、僕は淋しくて狂い出しそうです、と三時をすぎた静寂の中にうつろな声で獣のようにささやいていた。
 久能は言葉を信じている性質の男だった。本当の嘘も云えない代りに、自分の言葉を最後まで守り通す意志もなかった。併し青江は言葉を信じなかった。相手を傷つけることでもいわないではいられない久能がそのときいった言葉は、結婚しないということだった。青江はその様な言葉の繊弱さを見抜いていて、未知な怖ろしさの中にも、晴れやかさの籠った声で、あたし大垣へ帰らないわ、ここの家にもいられないけど、もう決心がついているのよ、といって、秋の終りの自然の忘涼にくらべ、久能と青江は真夏の野の草いきれのなかにいた。翌年二月に父親が青江を迎えに上京して来る前日、久能にだけ行先を教えて、彼女は姿をかくした。久能は口でははっきり結婚を拒否していたが、遂にはそうせずにはいられなくなりそうだと感じ始めていた。
 春になっていた。併し久能には桜も、新緑もなかった。青空もなかった。彼は二月程前から忌わしい病気に罹っていた。久能はいつものように、もう夕暮に間近い街の前後を窺ってから、その白色の大きな病院にこそこそと這入っていった。逃げるように廊下を小走りして階段を登りかけると、降りて来た青年と頭を見合せ、あ、と思わず叫んで、二人とも立ち竦んだ。相手の男もまざまざと困惑を露わして、とんだ処で会いましたな、と思い切り悪く苦笑しくいた。久能は菊崎のてれているのを幾分滑稽に感じて、君がね? と、場所が場所だけにお互に痛くもあり、やはりやられているのだなという、軽蔑や、同情や、安心で、ではまたと、久能は上に菊崎は下に別れた。菊崎は勉強家で通っていたし卒業間際にもうある私立大学の教授の椅子を贏得た位なので、そんな処で出会ったのは全く意外だったが、それからも久能は度々その皮膚科の待合室で彼と顔を合せた。学生時代には余り親しんでもいなかったが、菊崎は前より無口でなくなっていて、僕は人生観が変りましたね、僕はもう家族からも友人からも無類の堅人と思い込まれているので、遣切れない程不自由な思をし、表面と裏面を演じわけるのに苦労してるんです、実に不快ですね、それに実際、この病気は陰欝ですね、お袋など、お前この頃心配があるのかねときくんですよ、びっくりしますね、それに一番困ったことには近々に結婚しなくちゃならない破目に陥っているんですよ、などと話して、久能さんは一体どこに出掛けたんですかと聞きはじめた。久能はその瞬間、苦しげに頬をゆがめて、僕はちっとも遊びなどした訳でないんですよ、自分でも原因が判らなくって、弱っているんですがね、といったがその言葉には少しも力がなく、だんだん追究されると、青江に持っている血のような疑いを口に出したくなって来るのだった。それでもさすがに恥じているので曖昧な返事をしていると菊崎は、じゃ素人ですね、と久能の避けているところに触れて来て、終には久能もかくしきれず、昨年の秋の末頃、僕はある純潔な娘と恋愛に落ちたのですが、ところが今年の二月頃、僕は突然異常を感じて、この病院に通い始めたんですと告白すると菊崎は眉を寄せて、それであなたに覚えがあるんですか、ときき、久能は面を伏せていい難そうに、いや、全然、それで僕は勿論、彼女に詰問したんですが彼女は頑強に潔白を主張するのですよ。僕はありとあらゆる手段を尽して彼女に泥を吐かせようと試みたのですが効目がなく、現に彼女自身は健康だといい張るのです。それではと僕は彼女をある病院に伴れて行きました。併し彼女は顔色一つ変えないで医者の前に立ってました。すると医者は診察する前に、僕を呼んで、何故診察を受けに来たかときくので僕が正直に事情を話すと、その博士は診断を拒絶したんです。[#「拒絶したんです。」は底本では「拒絶したんです」]そういう事件に関しては医者の権限外であるといって、問題の渦中に巻き込まれたくなかったのですね、僕の精神は緊張の結果、ひどく弱っていたので、僕自身もこの問題に深入りしまいと決心したのです、悪い女には却って魅力があるような気がしましてね、彼女が医者に行く前も後も何やら晴々していて、僕に親切にしている、恐らく罪の苛責というものを感じないでいる女の魅力‥‥僕は最初その女を愛していなかったのに、今では夢中になっているのです、と話すと、菊崎は憐れみの眼で久能を見、それは変ですね、あくまでも、非常な例外としては浴場や、トアレットで感染する場合があるそうですが、全然潔癖に通したのでない以上信じられない事ですねと、無遠慮にいったので、久能は再び疑いを新らしくする機会を与えられて、今度こそ青江に白状させないでは置かないと決心し、それに又自分は何故この様に真相を知りたがっているのだろう、大人というものは誰でも自分の知ることに限りがあるのを知っている様子なのにでなければ単に青江が自分を裏切ったのだと信じ切ってしまえば万事が終るではないか、自分では青江に本当の愛を誓わないでいる癖に、青江の行為が例えどの様に汚れていようと、自分にはそれを責める権能も、関心もない筈ではないのか、と反省しながらも、裏切ったばかりでなく、裏切っていることさえひた隠しにしている青江は二重に自分を裏切っているのだと、本能的にわいて来る口惜しさや、他の男の影がちらつく不快さに久能は眼前が昏くなった。その時久能は自分が青江に負けているのをしみじみ感じた。久能が結婚しないよといっても平気でいて、現実の行為の世界でずんずん久能をひきずっていく青江には勝てない、ああ俺はどうしてこんなにうわべの、青江の告白などという言葉ばかりを捜しているのだろう。今だにひたすら青江を信じたい気持が――俺は青江から純粋に愛されていたのだという意識や、記憶を持ちたい感情が、久能の胸の奥に恋々と居坐っていた。そしてそれ等を背景に置くと、青江の、今まで厭わしかった点が、急に眼を射るように輝き、久能を魅して来、到底青江から離れることは出来ないと思わせた。
 菊崎に別れて、久能は古本屋に立寄り、大事にしていた原語の詩集類を僅かな金に代えて売り払った。職に就けないでいる久能は蔵書を医療費にあてていた。それも元より多くはないので、一番愛惜して後に残っていた詩人達の本を手離した瞬間は苦しかったが、青江のいる方へ歩いていく足はひどく軽かった。久能がアパアトの曲り迂った楷段を登っていって青江の部屋の扉を押すと鍵が降りていた。今度出ている会社は随分退けが遅いのだなと、彼は懐から鍵を取り出した。その鍵を彼は何度、河の中へ捨てようか旧い記憶を一切捨てて明るい気分に帰ろうかと決心しかけても、病んでいるのが幽鬱であればある程、青江が恋しくなって、隠しの中にしっかと蔵っていた。扉を開くと、青江がいるような香が狭い部屋に立ち罩めていた。すると久能は、自分が勉強しているところへ、青江がやって来て、眉をひそめさせたのもこれだったと思い出し、着物などに触れて見、胸が痛くなり、疑いを忘れた微笑が浮んで、苦しまない時があったから、苦しい時が来たのだ。やがてまた明るい日が来るだろうと、もう時というものだけに頭を垂れていた。暗くなっていく部屋にしょんぼりと坐っていると、ふっと故郷にいる母の痩せた顔が出て来、また、最近手にした母の手紙の中の、卒業の上は小説などと申さず、何にても真面目な職につかれ、よき妻を娶られたく、という文句を思い出すと、涙の流れ出ないのが寂しく、まさかに母は自分があのような病院に通い、こんな女の部屋にみじめな姿でいるとは想像していないだろう。母の期待の崩れていくのが眼に見え、急いで母の姿を追いやると、今度は頼子が現われ女との間に距離を置かない惨めさをよく知っている彼女から嗤われているのが感じられ、又、その後には得態の知れぬ顔の群が久能を責めて来るのに耐えていると、ふいに久能はぞっとして立ちあがり、青江の持物を調べようと思付いた。彼は先ず押入のなかに頭を突込んで黒いトランクを引き出した。古いハンドバックや、手袋や、ビイズの財布や、香料の空瓶などと一緒に出て来た一束の手紙と写真帖を、これだと丹念に調べると、写真帖は前に見た通り、青江の小さい頃からのスナップばかりであったが只一つ最後に久能の学生服姿の八ツ切が新らたに張られ、日附が認められていて、その日附は久能にもすぐに思い当った。青江はやはり俺を愛しているのだ、とそれから手紙を読み始めたが、その中にも青江に味方する手紙があったきりだった。それは青江から女の友達にあてて書かれたもので、その封を切ると、青江が久能から疑われて苦しんでいる様が説かれ、死んで了いたいと記された、青江のように文章の拙ない訴えには、奇妙な切実さがしみ出ていて久能の心を打たずにいなかった。併しこの手紙を出さなかった裡には何か青江の良心に影があるのだと復疑い久能が手紙を束ねかけるとばらばらと四、五枚の便箋が落ちたので、取りあげてみると、金線で縁どった立派なもので××ホテルのしるしがあった。久能は何の気もなく、凝ったものだなと思っただけで、そのままトランクに投げ込み、それから、帽子の函や、茶箪笥の抽出しや、雑誌の間や、下駄箱まで血眼にひっかきまわし、万一青江の不純を裏書きするようなものが出て来たらという怖ろしさに止めよう、止めようと制しながら、うつろな眼をすえ、顫える手で、夜具までも引き出して調べずにいられなかった。もう手をつけるものがなくなり、火鉢の傍に帰ってうずくまると息がふうふうと切れ、何一つ青江を責めるもののないのに却って不安になり、どうしても青江に真実をいわさずには置かない決心が久能を慄え出させていた。
 すると漸く青江が帰って来た。随分待って? きっと今夜はお出でと思ってこれでも急いで帰って来たのよ、お土産もあるわと青江がうれしげに寄って来ても、久能は振向かず、眉をひきつり、ぷっぷっと煙草のけむりを吐いていた。どうかなさって? と心配する青江の腕を肩から振り落し、むき直って冷淡に、今日はお別れに来たのだ、というと青江は、え※(疑問符感嘆符、1-8-77) どこかへお出かけになるの、と膝を進めるので、久能は、ここへ来るのをこれきりにしようと思って来た、と答えると、青江は、信用しなくなり、おどかさないでよ、と魅惑的に笑い、狭い台所に降りて夕食の仕度を始めた。久能は自分の思う壺に落ちて来ない青江を持て余しながら、どうすれば彼女の鉄の様な唇を開くことが出来るだろうと考えていた。併し向い合って箸を取り出すと決心も、疑も弛み、青江の楽しげな笑いにまき込まれそうになった。こうしていると本当の夫婦の様ね、いいや本当の夫婦なんだわ、と青江が擽るような眼差をすると、久能は他人がみたらそう思うだろうさ、併し本人達のみじめさはどうだ、敵と一緒にいるというのは此の事だ、と苦笑したが、でもうれしいわ、と青江は食器を片づけ出すのだった。その時、青江の艶やかさが痛む程久能の眼にしみて、ああ俺は完全に青江の奴隷になりかけているな、あの時分は追いかけられていたのだが、今は一心に追っているなと感じ、殊更に冷淡に構え、虚勢を張っていると、着換えに押入を開いた青江は皮肉るように久能を見くだして、あなた、何かさがしたんじゃない? というので、久能はむっとして、捜されること知ってるあなたが、見付けられて悪いもの、何残して置くものかと怒ると、青江は殺倒する様に久能にしがみついて来、未だうたぐってるの? あたしがそんなに信じられない? ね、あたし信じられるためだったらどんなことでもするわ、そんな事より早く丈夫になって明るい顔してくださらない? と真剣に頼むので、久能は、何でもするね、するね、それじゃ本当のこといってくれ! 僕はどんな事いわれたって本当のことなら我慢するから、というと、青江はないことだけはいえないわ、そりあ無理よ、と髪をかき出した。
 ある夜久能は、死にたい、青江にも死んで呉れといった。青江の眼は動かなかった。僕はこんな信じ切れない状態で生きていたくなくなっている。自分の果したい仕事も開けて来ないし、この世に信じられるものは一つもない、青江が一緒に死んでくれて、彼女だけは信じさせてくれと、久能は青江の両手を抱いていった。そう? うん、判ったわ、と青江はしまいにいった。あたしもあなたを本当に気の毒に思っていてよ、急にそんな事いい出したの判るわ、だけど、それはあなたの本心じゃないんじゃない? あなたは未だ未だ将来を考えてるわ、あたしと結婚したくないんだって、そのためだわ。久能は青江のいう通りだ。こんな事で死んで了っては余りに他愛なさすぎる、俺には逞しい慾望がない訳では決してないのだ、と思いながら、どうしても自殺する決心だときかなかった。すると青江は、きっとあたしを脅かして何かいわせたいためなんでしょ? あたしに罠をかけてるんでしょ? そんなことされちゃ、あたしは意地になるだけだわ、いいえ、あたしにうしろ昏いとこあるからじゃない、意地でなら、一緒に死んであげてよ、あたしが潔白なことあなたに見せるためなら、だけど、あたし、それじゃあなたの他人になって死ぬのね、といった。久能は尚、説いて、どうせ人間の口でいう事なんか信じられない。あなたがその意地で、他人になって死んだら僕はうれしいんだ、二人が苦しみ出して絶命する迄に、きっと僕はどうしてもあなたを信じないではいられない瞬間にぶつかると思っているんだよ、僕を本当に愛しているのだったらこんな無理きいてくれないか?
 久能はそういいながら青江から圧迫を感じた。青江が本当に久能の自殺する気になっていないのを察し切って、あわて出さずにいるらしい、彼女があわて出さずにいれば、自分の方が先にあわて出すだろうと思うと、久能はもう観念の眼を閉じて、青江に負けていてはもう切りのない悲惨だ。本当に自殺しようとあやしい決意にゆすぶられ不安になって来た。それは丁度青江のなかにとびこんでいく前の不安と同じな怖しく、蕩かすような誘惑だった。
 久能と青江は街に出てキネマを見に這入った。久能は無感覚に画面をみつめ、青江の手を握っていた。楽しいようでもあった。そして、死というものはこんなに安易な、まやかしなものなのだろうか? と考えていた。青江にも変った風はなく、ときどき花粉にまみれたように化粧した顔をふりむけて久能に笑いかけ、指に力をこめた。しかし青江の奴、いつ逃げ出すかしれない。そうしたら自分はどう感ずるだろう、ホッとするか、失望するか、考えまわし、ガスの充満した部屋を描き、無様に死んでいる二人を他人の様に想像していた。

 久能が本当に死にかかったのはその初夏だった。職を求めるために無理をして、よい経過をとらなかったので、久能はその頃、治療費に窮して、三ツ木に紹介された医学生から薬をもらっていると、その不注意で余り薬が劇しすぎたため、排尿が困難になり、文字通り部屋中七転八倒して苦しんでいると、膀胱が破裂し、危篤に陥入った。久能は勿論、死を覚悟していた。若い精神の本能的な不透明さが遂に此処まで来たのを知って、すべてを何か知らぬが、大きなものの手に委ねつくして、あわてたり、わめいたりしようとしなかった。勿論、久能にしても、これからまだまだなし遂げたい仕事もあり、老母も気がかりであったが、今になっては戦い疲れていて、自分の死を比較的冷やかに待っていた。病室には三ツ木が蒼白になって付きそっていた。彼はどういう縁故からか、ある銀行に入りこみ、算盤も出来ないのでそこでは接待掛をやり、一朝、事ある時の警衛の役目も持ち、普断は箒をかかえて掃除役をしているのであったが、久能のいる病院に駈けつけて来て、彼の黒ずんで、全く弾力のない顔をみると、大変なことになったなあ、俺があんな男を紹介しなかったら、ちぇっと叫び、おい、久能、しっかりしてくれ、絶望じゃないぞ、手術の結果がいいそうだからと少しも答えない久能に、自分が第一の責任者かのようにしきりに詫びていたが、久能はじっと濁った瞳で天井をみつめていた。すると三ツ木は、久能はこのまま死ぬのじゃないかと気懸りになり、久能、誰かに会いたくないか? お母さんを呼ぼうか? 兄さんに来てもらう? というと、久能は頭を振った。三ツ木は青江の事が舌の先にまで出て来ていながら、久能にそれだけは惨酷なようで訊けなかった。だが久能も青江を思っていた。会いたくはあった。久能達は遺書を書き、ガスを部屋に放出すると、久能に寄ってじっと眼をつむっている青江に較べて、自然にがたがたと慄え出すのをこらえて、久能は息苦しくなった声で、本当をいってくれと哀願し出すと、青江は石のように黙って、かすかに細眼を開いただけだった。久能は、青江め、俺の負けるのを待っているのだな、恐ろしい事だ、この恐ろしい青江の魅力がもう俺のものでなくなって了うのだと思い出すと、自分の敗色が明らかになり、苦しいと叫ぼうとする声が出なくなりかけてい、突然狂気になってガス栓に走り寄ろうとする足が動かなかった‥‥それ以来久能は青江に会わなかった。思い屈して一度訪ねては行ったが大垣に帰ったと聞いて帰って来た。久能は自分をあわれみ、あれほどの青江の強情さは、もう尊敬していいではないかと思って来た。こういう瀕死の場合、久能は青江を信じたまま静かに死を迎えようとしていた。
 併し久能が急に青江に会いたいといい出したのは、彼の生命が取止められたと医師から告げられた朝だった。三ツ木は興奮してとび込んで来、俺は君が死んだら、頭を剃って西国巡礼に出かける気でいたよ、と、あははははと笑うと、久能は棘棘しい表情で、しきりにいらいらしていたが、とうとう青江に電報を打って呉れといった。三ツ木は変だなと思ったが看護婦に電報を打たせにやると、久能は、青江が来たら、僕は絶望だといって呉れと、無愛想にいって顔を伏せた。三ツ木は久能の眼に涙が光っていたのを見、久能はまだ青江に含んでいるのだな、こんな疲れた、灰色の皮膚の下に嫉妬がのたうっているのか、哀れな奴だ、と彼の長く伸びた頬ひげを見ていた。
 翌朝、青江は花束を抱いて病室に現われた。看護婦に案内されて入って来たのを見ると急いで三ツ木は廊下に出た。どうなさったの? 青江の頬は濡れていて、唇が白痴のように開いていた。久能は薄目でそれをみとると、怒りが消え弱い微笑が全身に動き、いつか、母のように想って握った手で手をとられると、頼りたさにうずき、青江の持って来た花に唇を触れた。そこへ三ツ木が這入って来、青江を厳粛そうに手招ぎした。
 久能は自問していた。自分は真実を知ろうとしているのだろうか、それとも真実をこわしているのだろうか、何故、この様なからくりの中に青江をひき入れたのだろうか? 死や真実を徒らにもてあそんでいる自分は何という浅間しい人間だろう? 何も信じないでいられる世界はないのだろうか? そして久能は自分がこうするのは、真底からは青江を愛し、信じたがっているからなのだと思った。
 青江が帰って来た。涙が乾いて視線がひどく遠い処に散っていた。笑い出しそうでもあったその表情は発狂の前徴に似ているかも知れなかった。久能は、帰れ、と青江にいいたい誘惑を感じていた。長い時が流れた。とうとう久能は、僕を安心させてくれ、一言、僕に知らしてください、と青江に説くようにいい始めた。それは思いがけない程青江にとって劇しい責苦であるらしかった。彼女は電気に打たれたようにくずおれると、ベットに倒れかかった。‥‥やはりそうだったのか‥‥久能は重たい石をおろした、或は身体を叩きつけられたような衝動に全身を委していた。
 あたし自分でもすっかり忘れて了いたいと思っていたの、と青江は平静になっているように見える顔をあげていい出した。あの××ホテルの便箋憶えていらっしゃる? あんなものどうして持ちかえったのか知らなかったけど、あなたに見られてぞっとしたわ、あたし千駄木の家を出て、もとの会社にいると、さがし出されるでしょ、だからそこを止めたのよ。そして勤先捜してると、あたしを子供の時知ってた弁護士に会ったの、みちで、青江さんじゃないときかれて、あたし判らないでいると、色々話しかけて来て、あたしの家のことや何かきくの、それであたし答えてる中に、あたしが仕事をみつけてるの知ると、その人事務所を開きたいと思ってるところだといって、××ホテルへ‥‥‥‥
 これが真実をきいているというのか? 久能はめまいを感じ、青江が遠くに、そして恐ろしく魅力なく、知らない女に見え出し、花束の酔わせる匂に夢心地になっていき、これから一体何が始まって来るのだろうかと、おぼろげに心愉しくなっていくようでもあった。

底本:「行動 第二卷 第二號」紀伊国屋出版部
   1934(昭和9)年2月1日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※「まゝ」は「まま」のように繰り返しはかなに直しました。
※「欝」と「鬱」の混在は底本通りにしました。
入力:大野晋
校正:仙酔ゑびす
2009年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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