五月五日「こどもの日」の新聞に「子供からドロ棒へ」といふ文が出てゐた。
「このごろぼく達の学級会でとり上げた問題ですが、いくら討議しても先生にお願いしてもムダなので、世の中の人、特にドロ棒する人に訴へたいと思ひます、それは最近一ヶ月ぐらいの間にぼく達の学校のプールの廻りの排水ミゾの鉄フタが全部の三分の一ぐらい盗まれました、このままでは夏にはみんな盗まれてしまいます、一番楽しみな水泳もできなくなるのではないかと心配です。宿直の先生は夜もねずに巡視しているそうです、ドロ棒も二度捕えたそうですが被害はあとを絶ちません。
「こどもの日」を迎へて、お金をかけて色々なことをしていただくよりも、日本中の人達が子供の物をうばうやうなことを一切やめていただけば、それだけでもぼく達は幸福です、大人の方は小学校や小学校の物はみんな自分の子供の物であると考へて下さい。ぼく達の学校六百人の子供のお願いです。(港区竹芝小学校六年 ○○○○)
 子供らしい率直な言葉で、世の中の大人のだれが読んでも、どうかその鉄フタが盗まれないやうに、生徒さんたちの楽しみにしてゐる水泳が無事に出来ますやうにと祈らずにはゐられない。しかし、さて、ドロ棒がこの文を読むかどうかといふ段になると、鉄クヅを盗むかれらはおそらくこの文を読まないだらうと考へられる。また聞きで私が聞いたところでは、自由労働者たちが一日二百円あるひは二百五十円位の賃金で道路の掃除をしたり焼跡を片づけたりする、さういふ時にその辺に落ちてゐるクヅ鉄を拾つてこれをクヅ鉄買入れの店に持つてゆけば、一日平均三百円ぐらゐのお金に売れるといふ話である。さうすると一ヶ月の賃金と一ヶ月の彼等のホマチが同じ位かそれ以上の収入になるとすれば、彼等がいとも熱心に拾ひ集めるのも無理ではない。かういへば自由労働者たちがよその垣根の内の物まで持つてゆくやうに聞えるが、そんな事はない、彼等は潔白である。ただこの敗戦国の民衆の中にかつぱらひを常習とする専門の人たちがゐて、それは学校の庭の鉄フタに限らず、どこの家の物でも人目がない時には遠慮なく持つてゆくので、クヅ鉄屋に売る彼等の荷物は大へんな値になるといふ話も聞いてゐる。彼等もお勝手道具の鍋釜や火ばしまで浚つて行くのではなく、鉄クヅだけを目あてにしてゐる。毎日売り込まれるその鉄クヅはまた専門の金物会社か工場に売られて新しい金物製品となつて世間にうり出される。新製品が高く売れるから、会社の方ではクヅ鉄の類も高く買ふ、売る方でも高く買つてもらへるから、よその物を失敬してまでも沢山に持ちこむのであらう。そしてさういふ金物製品ばかりでなく、すべての物価がどんどん高くなるから、自然みんなの生活費も足りなくなるわけである。くり返してゐれば、これは何処まで行つてもきりがない。
 鉄クヅの泥棒だけで政治を批評するのは無理かもしれないが、政治にあづかる人たちは一片のクヅ鉄のゆくへについても多少の智識は持つてゐて欲しい。落ちたるは拾はずといふひじりの御代は遠いむかしの事で、今は国もまづしく民もまづしく政治もまづしく、宗教も教育もすべて無力である。私たちのためにはどこからも救ひが来ないやうな気がするけれど、救ひは来ると信じよう。私たち一人一人の心の持ち方からでも救ひは来ると信じよう。窮すれば通ずといふ言葉は世の中の人たちが長い経験をかさねて悟り得た常識である。ゆきづまつて、どうにも動かない時に、うごかうとする動かさうとする生命をかけての努力が動かすのである。少し動きまたすこし動き、ぐつと回転した時に行きづまりの現在は回転して過去となり、あたらしい明日が来るのである。

底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:竹内美佐子
校正:林 幸雄
2009年8月17日作成
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