降りがちな天候は、十一月に入ってもからりと晴れた日は続かなかった。ことに土曜から日曜へかけてはよく降った。この意地悪い雨のために出鼻をくじかれて、出発はもう予定より三週間も遅れてしまった。これがもし紅葉見物を兼ねての旅であったならば、目的の一半は既に失われたわけであるが、皇海すかい山に登ることが主眼であったから、秋の旅とはいえ、紅葉の方はどうでもよかったのである。ただ余り寒くなって山に雪が来ては困ると思った。
 皇海山とは一体何処どこにある山か、名を聞くのも初めてであるという人が恐らく多いであろう。それもそのはずである。この山などは今更日本アルプスでもあるまいという旋毛つむじまがりの連中が、二千米を超えた面白そうな山はないかと、蚤取眼のみとりまなこで地図の上を物色して、此処ここにも一つあったと漸く探し出されるほど、顕著でない山なのである。自分も陸地測量部の男体山なんたいさん図幅が出版されて、始めて「皇海山、二千百四十三米五」ということを知った。そしてその附近には二千米を超えた山がないのを見て、これは面白そうだと喜んだ。勿論かく喜んだのは自分一人ではなかったであろうとおもわれる。
 しかし実際展望したところでは、この山はかなり顕著なものである。その当時他の方面は知らなかったが、南から眺めると、上州方面で根利山と総称している袈裟丸山の連脈の奥に、左端のやや低い凹頭を突兀とっこつもたげているので、雪の多い季節には場所によっては、時として奥白根と間違えられることさえあった。東京市内の高い建物や近郊の高台から、この山が望まれることはいうまでもない。もっともそれが何山であるかは知るを得なかったが、五万分の一の地形図が刊行されて、皇海山に相当することが判然したのである。
 しかし古い図書には皇海山の名は記載してない。正保図には利根とね勢多せた二郡及下野しもつけとの境に「さく山」と記入してある。貞享元年九月二十九日の序ある古市剛の『前橋風土記』には、山川部の根利諸山の項に、
 座句山 栂原山也気乃曾里縁魔乃土也以山巓界、自峰巓以南都属干根利
 砺砥沢 在座句沢南山谷之中、多砺砥
 座句沢 在砺砥沢北而隔山沢水西流合片品川
安永三年八月十九日の自序ある毛呂義郷の『上野国志』には、利根郡の山川の部に、
さく山。なでこや山の南下野界にあり。下野にて定顕房山という。山の南は勢多郡に属す。
と書いてある。座句さく山の項の栂原山以下は、ヤケノソリ、エンマノトヤと読むのであろう。つまり座句山、栂原山、ヤケノソリ、エンマノトヤ等の諸山は、一連の山脈をなし、その山頂が界で、以南はすべて根利に属すというのである。皇海山から西に派出した支脈に延間峠というのが通じている。エンマノトヤはこの附近の名であろうと思う。以上の記事から推して座句山の位置はよく分る。即ち利根勢多二郡の界でしかも下野との国境上にあるのである。今こそ根利村は赤城根村の中に含まれて、利根郡に編入されているが、もとは北勢多郡の村であった。富士見十三州輿地全図には果して根利村(本図には誤って利根となっている)の東北隅利根郡に接して、下野境にサク山と記入してある。座句は即ちサクであり、その位置から推して皇海山に相当するらしく思われる。もしそうとすれば座句沢というのは、今の不動沢乃至ないし栗原川を指したもので、砺砥沢は砺沢なることうたがいれない。
『郡村誌』によると更にそれがたしかだ。同書利根郡平川村の山の部に、
笄山。勢多郡ニテ之ヲサク山ト云。下野上野両国ニ跨リ、高峻ニシテ高不詳。村ノ東南ニ聳ヘ、南辺根利村ニ属ス。峻ニシテ登路ナシ。樹木栂椴ヲ生ズ。山脈南方ニ施テハ下野国足尾山庚申山ニ連リ、東方ハ日光山ニ連ル。
とあるので、サク山の座句山と同一山なることも、またそれが皇海山に一致することも、説明を待たずしてあきらかである。
 それから笄山だが、これは『郡村誌』に読方が記入してないので、音読するのか訓読するのか判然しないが、普通にはコウガイと訓読するのが間違のない所であろうと思う。『郡村誌』の編纂されたのは、明治十二年十二月であるから、その頃利根郡ではコウガイヤマとかコウガイサンとか呼んだものであるらしい。明治廿一年の平川村の書上には、不幸にして此山の記事がない。が、追貝村の書上の水脈と題する欄に、
栗原川ハ源ヲ皇開山間ニ発シ、千屈万曲、本村ノ西南ヲ流レ、大楊村トノ地勢ヲ両断シ、終ニ片品川ニ注入ス。
また瀑布の欄に、
猪子鼻いごはな滝、所在木村字猪子鼻。高三十丈、闊七間。水源、本村正東皇開山烏帽子岳ノ中央ヨリ発シ、片品川ニ入ル。
という記事がある。猪子鼻は猪ノ鼻とも称し、地誌などにも猪ノ鼻の瀑は、上野第一の瀑布であるように記載してあるが、大町桂月氏の『関東の山水』を読むと、上州の山水の第七節に「土地の名勝をかき出せとその筋より達しのありし時、円覚は大瀑なれどその名が面白からず、猪の鼻の名の方が面白ければ、猪の鼻の名を円覚の実にかぶらせたるなり」とあるように、実はさほどの瀑でもないので、その上流にある円覚の瀑の方がはるかに大きいのである。土地の名勝をかき出せとその筋からの達しで書き出されたのが、ここに引用した『郡村誌』の記事で、この記事がもとになって多くの地理書に実際と相違した誤を伝えるようになったのである。それはとにかく滝の方は記載が不完全で、水源は判ってもそれが何川に在るのか不明である。けれども事実真の猪ノ鼻の滝は栗原川に懸っているし、猪ノ鼻と誤り伝えられた円覚の瀑は栗原川の上流不動沢に懸る瀑であるから、その水源に在る皇開山は笄山であることは疑なきことである。してみると明治廿一年頃は、笄山は皇開山とも書かれたものと見える。それが皇海山となったのは不思議でも何でもないが、スカイと呼ばれるようになったのはいつ頃からの事であるか知らないが、勿論最近の事であろうと思う。皇海が何かの原因でスカイと誤読されてそのまま通用するようになったものであろう。皇は「すめ、すめら」と読むから皇海をスカイと誤読することは有り得よう。座句は無論サクと読めるし、コウガイがクワウガイと漢字をあてられることなどは、地方には稀でない例である。
『上野国志』にはこの山を下野にて定顕房山というとある。附近には宿堂房山というのがあるから、定顕房もあり得べきはずであるが、今もかのような称呼が存しているや否やを知らない。『関東の山水』の中、野州の山水第二節庚申山の条に左の記事がある。
なお二、三里ゆけば、大岳山あり、庚申山の繁昌せし頃、そこを奥院としたる由なるが、今は、ゆくものほとんど無しとの事也。社務所には、案内する者なし、こは、他日別に導者をやといて、さぐらむと思いぬ。
 この大岳山という名は自分もかつて聞いたことがあって、庚申山に連る尾根の最高点鋸山がそれであるように教えられたのであるが、それは誤であって、大岳山は皇海山に外ならぬのであった。皇海山の絶頂三角点の位置から少し東に下ると、高さ約七尺幅五、六寸と思われる黄銅製らしき剣が建ててあって、南面の中央に庚申二柱大神と朱で大書し、其下に「奉納 当山開祖 木林惟一」と記してあり、裏には明治二十六□七月二十一日参詣□沢山若林五十五人と楽書がしてあったのみで、奉納の年月日は書いてなかった。余事ながらこの木林惟一というのはどういう人であるかと、足尾におられた関口源三君に調べてもらったところ、東京の庚申講の先達せんだつであって、この人が庚申山から皇海山に至る道を開き、そこを奥院とした。庚申山中に奥の院はあるが、これはつまり庚申山という一の山に対する奥の院の山という意味であるらしい。同時に松木沢からも盛に登ったものであるという。庚申山からの道は尾根伝いであったか、または一旦松木沢に下りてから登ったものか、松木沢からの道とともに今は全く荒廃して不明であるが、尾根の各峰に地蔵岳、薬師岳、白根山、蔵王山、熊野岳、けんノ山、鋸山等の名称が附してあるから、あるいは尾根を通ったものかも知れぬ。連脈の最高点は鋸山で、上野国境にまたがっている。そして庚申山よりは高い。其処そこから展望した所では、尾根の各峰の間はV字形の窓をなして、左右は絶壁らしいから、峰頭をたどる尾根伝いはどうも不可能らしく想われた。百米も下をからめば通れぬ事はあるまい。とに角皇海山にも一時相当に登山者があったもので、その時期は明治の初年頃から二十五年頃までであったらしい。幸か不幸かこの山は、高さに於て遥に庚申山を凌駕りょうがしているが、これに匹敵する何らの奇窟怪岩をも有しないことが、信仰の衰えとともに終に登山者をきつけぬ最大の原因となったものであろう。
 連日の雨もようやく上ったらしいので、同行の藤島君とともに十一月十六日に東武線の浅草駅を出発した。相老あいおいで足尾線に乗り換え、原向はらむこうで下車したのは午後四時近くであった。渡良瀬わたらせ川が少し増水して橋が流れ、近道は通れないとのことに本道を歩いて原に着いた。自分らは五万分の一足尾図幅に、原から根利山に向って点線の路が記入してあるので、それを辿たどって先ず国境山脈にじ登り、南進して千九百五十七米の三角点をきわめ、引き返してその北の一峰から西に沢を下り、地図の道に出て砥沢に行き、翌日何処からか皇海山に登ろうという計画であった。それで原に着くと早速路傍の人を捉えてはこの道の状況を訊ねた。結果は例のごとく不得要領に終ったが、若い人たちは有ると言うた。どうせ明日になれば分ることだから心配もしない。
 原には宿屋がないので、五、六町北のギリメキまで行って越中屋というに泊った。他にもなお越後屋、石和屋というのがある。いずれも木賃宿より少し上等という程度のものに過ぎない。
 砥沢から来たという男と同室した。その話によると国境には切明きりあけがあって、六林班から半日で皇海へ往復される。上州峠の上州側には六林班の鉄索運転工場がある。今は其処の伐採中で、八林班の方は既に植林済みとなって、人は入っていないとのことであった。思ったより楽に登れそうなので喜んだ。寝しなに雨戸の隙間からのぞくと灰色の鱗雲うろこぐもが空一面に瀰漫びまんして、生ぬるい風が吹いて来る。あまり面白くない天気だ。
 くる十七日の朝六時四十分に出発した。空は曇って少し霞んでいる。原まで戻って尾根に登る道の入口を尋ね、畑の間を通り抜けて、山の側面をやや急に二百米も登ると尾根に出た。七時十分である。いい道だ、殊に尾根に出てからは一層よく、左右は唐松の植林である。靄が次第に深くなって附近の山がぼうと遠のいて来たと思うと雨がポツポツ落ちて来た。八時十分には千二百二十六米の三角点の下に着いた。このあたりは尾根が広く平で高原状を呈し、植林の道が縦横に通じている。もうこの附近から木の葉は皆落ちていた。小屋で二十分ほど休んで八時半に出発する。しばらく登って尾根に出ると右の方にも道が通じている。何気なくそれを辿って行くと、しだいに右に迂廻うかいして少しずつではあるが、しだいに下って行く。右手の谷間には人家が現われた。小滝や銀山平であるらしい。八、九町も逆戻りするのは億劫おっくうであるから、左手の水の流れる窪を択んで、二丈近く伸びた唐松林の中も尾根の方へと登った。この登りは邪魔が多いので困難であった。登り着いた所は千四百四十九米の附近であったようである。此処からは道幅がますます広くなって九尺位もあったように思う。あるいは防火線を兼ねているのかも知れぬ。少し下ると今度は真直ぐな長い登りが続いて、五一、五二林班と記した杭のある所で、幅の広い道は終って、そこから左にかすかな小径が通じている。二、三尺もある枯すすきや小笹の中を押分け登って、千五百九十三米の三角点に達したのは十時であった。
 雨はようやくしげく霧さえ加わって全く眺望を遮断しゃだんしてしまった。十五分ばかり休んで出発。左側をからみ廻って一高所をえる、雑木が繁って笹の深い所があった。まもなく唐松の林中でふっつり道は絶えてどうしても続きが分らない。千六百八十米の圏を有する山の南側であることはたしかだ。雨が強く降り出して来た。十二時近いので昼飯をすまし、少し下り過ぎたように思ったので、下草の枯れた林の中を濡れながら登って頂上の笹原に出た。そこには広い上に笹が深いので容易に路が見当らない。二人で三十分もかかってようやくそれらしいものを探しあてる。下ってまた登り、一小隆起をえて、小高い山の右側を廻り、ちょっとした鞍部に出る。ここまではとにかく地図の点線の道とほぼ一致した処をたどって来たに相違ないと思う。地図ではここから道が尾根の北側を廻って、今までと大差ない路跡がついている。もっとも樺や笹がかなり生えているので歩行を妨げられるが、藪の中よりはずっと楽である。しかもほとんど等高線に沿うた路で、きわめて緩徐な登りであるから、歩いていてもそれと認められないほどである。はじめはこの道も地図に表わせない程度に右に廻ってから、尾根に出るものと思っていたが、行けども行けども同じような路の連続で、ただ悪いことには笹が追々にひどくなって来る。ここに至て地図の道とは全然違っていることを確めたものの、もうそのまま前進するより外に仕方がない。とかくして路は岩石の露出したかなりの水量ある沢に突当って全く絶えてしまった。あたりに木を伐ったあとがある。沢を横切って向う岸に移り、少し行くとまた小沢がある。それを過ぎてから山のひらを左斜に登ろうと試みたが、笹が深いので歩けない。それで沢を上ることに決めて、引返して小沢を登り始めた。百五十米も登ったろうと思う頃、沢が尽きて一の尾根に出た。自分らはこの時根利山の最高点をきわめることは断念して、国境の尾根へ出たならば上州峠の道に下って砥沢へ行こうと相談一決したので、この尾根を国境山脈と想定して、右の方へ下りはじめた。しかるに余り下り方が激しいので疑わしくなり、とにかくもう少し高い方へ登って見ることにして、かなり急峻な斜面を百米も登ると頂上らしい所に出た。潮のようにさしひきする霧の絶間から眺めると、左の方に尾根らしいものが続いている。これこそ国境山脈に相違あるまいと断定して、右即ち北に向って尾根上を辿り出した。何しろ二人とも磁石を持っていなかったので、さっぱり方角は分らず、今までの道筋を頭の中に描いて、それによって方向を判断するより外に方法はなかった。最早もはや暮れるに間もあるまいと思うが、時計を出して見る間も惜しく足にまかせて急いだ。尾根の上は黒木が繁っているので笹が少く、おおいに歩きよかった。ある場所では明瞭に路が認められ、またある場所では焚火の跡などもあった。峠の道もさして遠くはないはずと急ぎに急いだが、一時間以上歩いてもまだそれらしきものにぶつからない。足もとはしだいに暗くなってたどたどしくなって来た。先へ行った藤島君が明るい所へ出ましたという。自分らは突然暗い黒木立の中から明るみへほうり出されたように感じた。木をり払った跡である。日当りがよいので笹が人丈より高く延びている。のみならずその中には枯枝が縦横に交錯しているので明るくなって助かったと思ったのもつかの間、歩行は以前よりも遥に困難となった。その代りに下り一方である。ここは笹が深く燃料も豊富であるから、水はないが、携帯の食料で一夜を明すには相当の場所であった。しかし峠も近い事と信じていたので、なおも下りを続けてついに鞍部に達した。けれども峠の道はない。もしあっても暗くて探し出すのはむずかしい。午後三時頃から小歇こやみとなっていた雨がまた降り出して、風さえも加って来た。五時半頃である。前方右手の谷間に火の光が明るく雨や霧ににじんで見える。大方上州峠の途中にあるというお助小屋か、さもなくば鉄索運転の番小屋であろうと思う。遠くもないようであるが、到底そこまでは行かれない。一層のこと今夜はこのまま夜明しをしようではないかと無造作に話がまとまって、右手の落葉松からまつを植林した斜面を少し下り、下草の多そうな処へ寄り懸るように腰を据えて、藤島君は防水マントを被り、自分は木の幹や枝でばりばりに裂けた蝙蝠傘こうもりがさかざして、全く徹夜の準備が出来た。あとは夜の明けるのを待つばかりだ。その夜明けまでの長さ。
 とうとう長い夜も明けた。見ると妙な場所に陣取っていたものだ。今一間も下ると二人楽に寝られるいい平があったのに。足もとの明るくなると同時に歩き出したが、気候も温く下着も充分に着てはいたものの、十一月の雨中に一夜を立ちつくしたのであるから、体がぎこちなく手足が敏活に動かぬ。尾根は登りとなって深い笹が足にからまり、横から突風に襲われると、二人ともややもすれば吹き倒されそうで容易に足が進まない。それで風下の右手の谷へ下りて、昨夜火光の見えた方向へ辿り行くことにし、そろそろ斜面を下った。午前八時である。間もなく小さい沢に出てそれを下ると、鞍部から四十分を費して本流との合流点に達した。本流の傾斜はかなり急で、時折瀑布に近い急湍をなして、険悪の相を呈することもあったが、瀑と称すべきものはなかった。ただ砂防工事を施した場所が二ヶ所あってこれが滝をなしている。それを下るのが困難であった。ことに下の方のものは手間が取れた。幾回となく徒渉したが、水は不思議にも冷くない。後で聞くとこれは赤岩沢というのだそうで、その名のごとく赭色の崩岩が河原にごろごろしていた。二時間近く下ると左岸の山腹に道らしきものが見え、暫くして河を横断してかけひの懸るのをみた。そこから右岸のちょっとした坂を上るとたちまち眼前に人家が現れた。折よく人が来たので此処ここは何処でしょうと聞くと、砥沢だと答えたので、銀山平方面のみ下りおることと信じていた自分らは開いた口が塞らぬほどに驚いたと同時に、不用意に目的地の砥沢へ出られたのを喜んだ。
 後で考えると自分らは、地図の小径に従って千六百八十米の圏を有する峰の右側を迂廻し、鞍部に出るとその小径は不明となって、別に古い路跡が殆んど等高線に沿うて、尾根の右側をからんでいたのでそれにまぎれ込み、国境から発源している最初の沢を渡り、小沢に沿うてその北の尾根に上り、左に西南の方向を取って、地図の小径のすぐ北に在る千九百二十米の圏を有する峰(ネナ山、餅ヶ瀬の称呼)の頂上附近に達し、その時左に見えたものは即ち小径の在る尾根であったのを、袈裟丸山に続く国境尾根と誤り、右に国境尾根を南進したのを、反て北に向って進んだものと信じ、千九百五十七米の三角点(流小屋ノ頭、餅ヶ瀬の称呼)あるすぐ北の峰から真西に向って枝尾根を下りながらやはり真直ぐに進んでいると思ったのであった。上州側のこの辺は八林班であるから既に伐採が済んで、植林も終っていたのである。北風にしては温いと思ったのも道理、実は南風であったのだ。二度も殆んど直角に曲っておりながら、少しも気付かず直線に進行しているものと信じていることなどは、単に地図上で判断しては、到底了解されるものではない。
 砥沢には宿屋はないが、飯場をしている吉田留吉という人の家で泊めてくれるとのことに、そこを尋ねて一泊頼むと快く応じてくれた。座敷に通ると火鉢や炬燵こたつに火を山のように入れてもらって、濡れた物を乾しにかかった。身に着いていたもので濡れていないものは一つもなかった。風呂に入ってドテラに着換え、炬燵に寝ころんでやっと人心地がついた。二人とも著しく食慾が減退しているのに気が付く。昨夜ビスケットを少したべたまま、晩も朝も食わず、その上もう昼を過ぎている。それにもかかわらず膳に向ってはしを取ると、汁の外は喉を通らぬ。やむなく生卵を二つばかり飲んで三食に代えた。よほど体に変調を来したものと見える。これで山登りが出来るかと心配になった。藤島君は若いだけに元気がよく、一、二杯は平げたようであった。
 三時頃になって西の空が明るくなったと思うと、青空が現れて日がさして来た。ひまをみて帳場に行き、主人に皇海山のことを聞いた。よくは知らぬがこの先の不動沢から登れるそうだとのことで、伐採が入っているから路があるかも知れぬと附け足した。何にしても登れることは確かだ。それで乾し物に全力を注いだが、翌朝になっても全部乾燥しなかった。
 十九日の朝も依然として食慾がない。辛くも一椀を挙げ、また干し物に手間取って出発したのは午前八時五十分であった。家の前を少し西に行き、右に折れて砥沢を渡り、坂を登り切ると尾根の上の少し平な所に出る。東北に黒木の繁った皇海山の姿が初めて近く望まれた。延間えんま峠の方へは一条の径とともに鉄索が通じている。その方面の山はことごとく伐り払われて、今不動沢が正に伐木の最中である。下りはかなり急であった。九時五十分不動沢着。沢の両岸には半永久的の小屋が散在している。小屋の前で働いていた老人にまた皇海のことを聞いてみた。その話によると、皇海山の西の鞍部から頂上へかけて切明けがある。そして平滝からその鞍部への道と通じているから其処そこへ出て登れば楽である。まだ登っては見ぬが頂上には剣が奉納してあると聞いたと教えてくれた。地図と対照して実際の地形をると、皇海山の西方から発源する不動沢の左股をさかのぼるのが楽でもあり、かつ都合もよいように思われるので、それを登ることとして沢を渡り、道に沿うて最奥の小屋まで行き右に折れて林中を進むと左から来るかなりの沢に出た。十時半である。右下にもかなりの沢が流れている。それは右股でこれが左股に相違ないと断定して、十分ばかり休んでから沢を登り初めた。割合に歩きよい沢だ、十分も進むと河床は、縦横に裂目が入って柱状を呈している玄武岩らしき一枚岩となって、その上を水が瀉下するさまがやや奇観であった。十時五十五分、左から沢が来た。十一時二十分、また左から小さな沢が合した。振り返ると谷の空に遠く金字形の峰頭が浮んでいる。何山であるかその時は判然しなかったが、四阿山あずまやさんの頂上であることを後に知った。暫くして二丈ばかりの瀑があり、右から小沢が合している。瀑の左側をからみ、苦もなくこれを越えるとまた三丈ばかりの滝があった。それを上って一町も行くと、また左に一沢を分っている。其処から三町程度進むと流は尽きそうになって、ちょろちょろ水が岩間に湛えているに過ぎない。そこで昼飯にした。谷の眺望が少し開けて、雁坂から金峰に至る秩父山塊、浅間山、その前に矢筈山、その右に四阿山などが見えた。空が急に曇って西北の風が強く吹き出したと思うと、霰が降り間もなく雪がちらついてきた。動かずにいると手足がかじかむ程寒い。幸に雪は幾程もなくれた。
 水のない谷はいつの間にか山ひらに変っていた。下生えがないので歩きよい。黒木の林中は秩父あたりとよく似ている。しかし尾根の頂上近くには大分倒木があった。その中を潜り抜けて皇海山西方の鞍部に辿り着いたのが午後十二時四十分である。眼を上げると奥白根の雪に輝くドームが正面に聳え、左に錫と笠の二山、右に山王帽子、太郎、真名子、男体の諸山が控え、笠と三ヶ峰との間には燧岳の双尖が天を劃している。果して平滝からの道はこの鞍部へ上って、更に東方へ延びている。この道をたどって行けば皇海山の北面にそそり立つ懸崖の下に出られそうであったが、時間が惜しいので自分らは行って見なかった。
 切明けは幅九尺以上もあって、鞍部からは皇海山の西峰へ一直線に続いている。急傾斜の上に霜柱がくずれて滑るために、邪魔はないがやはり時間はかかる。わずかに三百米足らずの登りに五十五分を費し、一時三十五分皇海山の西峰に達した。西峰とはいうものの正しくは頂上西端の一隆起に過ぎないのである。黒木が繁っているので眺望はない。切明けは頂上直下で終って、それからは踏まれた路跡がある。東に向って少し下ったかと思うとまた上りとなって、二時絶頂の三角点に着いた。この間に一隆起があったように思うが、遠望には目立たぬようである。三角点の附近は木を伐り払ってあるので、四方の開豁なる眺望が得られる。南を望むと鋸山から鳶岩とんびいわを連ぬる支山脈が近く脚下に横たわり、鳶岩の右の肩には上州峠の頂上にある鉄索の小屋まで見えている。次で根利山続き袈裟丸山の連脈が四つの峰頭をもたげ、千九百五十七米の三角点の櫓まで肉眼に映ずる。その右には赤城の黒檜くろび山が鈍いが著しく目に立つ金字形に聳え、右に曳いた斜線の上に鈴ヶ岳がぽつんとさめの歯をたてる。赤城と根利山との間には、小川山から大洞山に至る秩父の主山脈が、大海のはての蒼波かと怪しまれ、黒檜の上には白峰三山、赤石、悪沢等南アルプスの大立物が遥に雪の姿を輝し、黒檜と鈴ヶ岳との間に朝与、駒、鋸の諸山が押し黙って控えている。西から西北へかけて榛名はるな、妙義、浅間、矢筈(浅間隠)四阿の諸山は鮮かであるが、四阿山から右は嵐もようの雲が立ち騒いで、近い武尊山も前武尊の外は、頂上が隠れている。ひうち岳は既に雲中に没してしまったが、三ヶ峰、笠、錫の諸峰及日光火山群や、渡良瀬川対岸の夕日ヶ岳、地蔵岳、横根山などは、雲間を洩る西日を浴びて半面が明かに見渡された。奥白根はかなり雪が白く、峰頭をかすめて雲が去来する毎に、ぎ澄した鏡のように光る雪面が曇ったり輝いたりする。庚申山の如きはいわゆる俯してそのもとどりをとるべしという形だ。庚申講の先達がこの山を開いて奥院とした訳がなるほどとうなずかれる。脚の下から北に走る国境山脈は、三俣山(千九百八十米、上州方面の称呼である。支脈東に延びて黒松岳、社山等を起し、中禅寺湖の南を限る。)でも宿堂房山でも、黒木の繁っているのはよいとしても、その間は一面の笹であるには驚いた。秩父の雲取山から金峰山に行く位の積りで、袈裟丸山から奧白根まで縦走して見ようかと思ったが、この笹ですっかり辟易へきえきしてしまった。
 二時半に三角点を辞して、少し東に下ると例の剣が建ててある。国境はそれよりも更に東寄りで、東北に向った切明の跡は密生した若木に閉され、殆んど足の踏み入れようもない。南に向うものはまばらな笹の中を下るので、甚しく邪魔されるようなことはなかった。下り切るとやや深い笹を分けて二つの隆起をえた。三時三十五分である。二つ目の隆起は、字クワノキ平の標木があった。食慾減退のたたりがそろそろ現れて来たようだ。前に高く屹立きつりつした鋸山の最高点へは登らずに済むかと思ったが、どうも登らずには通れぬらしい。この登りは恐ろしく急で手足を働かさなければならなかった。赭色の岩壁が段をなして連っている。ねじけくねった木がその間に根を張り枝を拡げて、逆茂木さかもぎにも似ているが、それがなければ到底とても登れぬ場所がある。岩壁や木の根には諸所に氷柱つららが下っていた。雨の名残りのしずくが凍ったものであろう。水がないので困っていた二人は、これで幾分渇をしのぐことを得た。最高点に登りついたのは四時十五分である。字サクナソリと書いた標木が立っている。ここは非常に眺望がよい、谷間はもう薄暗くなったが、連山は模糊もことして、紫や紫紺の肌に夕ばえの色がはえている。それよりも美しかったのは入日に照らされた雲の色であった。自分らは暗くなるのを気遣いながらも、三十分ばかり遊んでしまった。
 鋸山を西に下ってまた上ると、字トンビ岩の杭ある峰の頂に出る。この山から国境山脈はぐっと南に曲るので、西に続く支脈にまぎれ込むことを心配したが、幸に切明けの跡を探り当てて、深い笹の中を迷いもせず下ることが出来た。もう全く暗い、二人で声をかけながら歩いても、ややもすれば互にそれてしまう。六時頃峠の上の鉄索の小屋についた。それに沿うて西に下ると峠の路に出る。十町ばかり下に電燈の火光が散点している。六林班の鉄索運転所であろう。六時二十分そこにたどり着き、事務所に行って事情を話すと、主任の人が心配してくれて、泊れる小屋を探しに小使をやった。幸に今朝二人里へ行ったという小屋があって、そこへ泊ることになった。事務所の浴室へ案内されて湯に入った。その湯の豊富で綺麗なのには全く驚いた。蒸気機関があり川があるから、湯でも水でも栓をひねればすぐ浴槽にあふれるほど湛える。これだけは実に贅沢ぜいたくだと思った。
 二十日の朝はきわめて快晴で、外は霜が雪のように白い。硝子ガラス窓を透していながら左は浅間から右は谷川岳附近まで望まれる。苗場も見えた。ことに仙ノ倉が立派であった。昨日降った新雪が折からさし登る朝日の光に燃えて、薔薇色ばらいろに輝いた。午前八時半に小屋を立ち、三十分で峠に達し、雪の連山に最後の一瞥いちべつを与えて、東に向って銀山平への道を下りはじめた。鋸山方面から流れ出る沢には滝が多い。庚申川に沿うた紅葉は、さほど盛りを過ぎてもいなかった。谷川のおもむきも捨てたものではない。十二時銀山平、午後一時二十分原向。それから二時二十六分の汽車に乗り、五時相老で東武線に乗換えたが、途中故障が生じて、十時頃ようやく浅草駅に帰着した。

底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年9月17日第1刷発行
   2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「山岳 一六の三」
   1923(大正12)年5月
初出:「山岳 一六の三」
   1923(大正12)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。