立ちあがりのときは、どうなることかと思っていたが、二年半もたってみれば、どうやら一つのコースに乗ってきたようである。
 上野図書館を支部図書館とすることになって、働いている人が約五百人、二十五の各支部図書館と本館を合わせると三百七十万冊の本が管理下に入ることとなったのである。
 支部図書館のうちでも、静嘉堂と東洋文庫は世界的な東洋関係の書籍をもっているし、内閣文庫、宮内庁図書館、上野図書館は、有数の日本古書の蔵書庫である。だからこの三百七十万冊は、名実ともに日本最高の目録構造といえるのである。
 外国書は昔のように自由には買えぬが、わが館はスミソニヤン・ソサイエティーの国際交換組織を通して、一九四八年度は二十五万点を、一九四九年度は三十六万点を受け入れた。ユネスコはこれに関連して、日本の国際交換のインフォーメーション・センターとしてわが国会図書館を指定したので、内外学界、図書館の国際的交渉の斡旋をおこなうことになった。
 一方、議会の立法資料として、調査立法考査局は、これまで六百件余の奉仕をしており、刊行した調査資料は百余冊にのぼっているが、これには六十人ばかりの人々が携わっており、その中には牧野英一先生のような大学者から新進気鋭の学徒まで含まれている。今秋は法律図書館を開設し、支部の最高裁判所図書館、法務府図書館や東大と並んで一大法律図書館網の完成へ一歩を進めようとしている。
 支部図書館の組織は、アメリカの議会図書館にもまだみられない世界独特の組織であるが、これは各省と司法の各図書館を支部図書館とすることになって、共通のユニオン・カタローグをつくり、三百七十万冊の本をお互いの共通のものとする目的をもっているのである。各省の調査機構ではさかんにこれを利用し、今まで、すでに二十万の人が四十万の本を動かしており、調査件数も二万近くになっている。このユニオン・カタローグは五年計画ではじめ、いま二年目になった。
 国内の全図書館に対しては、二十五ヵ年計画でもって、ユニオン・カタローグを完成させる計画である。これができあがると、日本全体の図書館のカードが国会図書館に集まる。有力大学の図書館とも手をつなぎたい。このほうの蔵書カードはすでに約十万枚を繰り込んでいる。
 さらに納本制度で入ってくる本を整理カードに印刷して、全国の図書館、研究所、会社などに流すこともこの九月からはじめているが、これは一枚一円七十五銭くらいで売ることができるようになった。約十五万枚を発送している。
 国内の出版物の出版物目録は、月刊で出しているが、これを集めて今年末には年鑑を出す予定になっている。戦後はじめて完全な出版物目録ができるわけである。その中にはレコード、楽譜、地図もふくまれているが、将来は映画をも加えることを国立国会図書館法は命じている。雑誌記事索引も、自然科学、人文科学に別けて、毎月発刊し、二十六冊を既刊した。新聞の切抜きも、一枚の紙に一テーマをはりつける法で、すでに鉄のファイルに二十七箱、ずらりと並んで人々の利用に供しており、三宅坂の元参謀本部跡の分室の閲覧室の一つの偉観となっているのである。
 考えてみれば、もはやかかる図書館はただ本を読む所ではなくして、日本民族の巨大な精神的中央気象台のように、全組織をあげて全体の様子を、刻々と記録づけてゆくところの組織の中心のような役目をもってきたのである。
 大工場のような感じが時々するのである。その一技師にしか自分はすぎない、と思っている。タイプライターの音、電話の交錯、交渉、訓練等々目のまわるような忙がしさで、一日が終わってしまう。閑日月の中に明窓浄机で本を読む世界と遠く離れた世界である。一冊も本を読めない私の一日が、副館長の一日でもある。
 よく、洪水の中が一番水に欠乏するように、図書館が、一番私にとっては本の読めない所となってしまったのである。
 新年度の予算では、係のものは二週間、朝三時ごろまで寝ない日がつづいた。私も夜半まで皆の帰るのをただ一人待つ日が多かった。
 赤坂離宮の全館に人一人いない夜、ただ一人(宿直は二人いるが)待っていると、しみじみ自分の肩に荷なっているものの重さを思い、ここに自分の命を捨てるのだという思いが、切々として迫ってくるのであった。
 そして、どうしても切られた予算を盛りかえして、五百人の館員のよろこぶ顔を見なければと、音のしない闇に向かって、何か沸ぎるものを感ずるのであった。
 あらゆる無理解をもつらぬいて、目に見えない未来に向かって、国の政治もよくなり、全日本の図書館(図書館法によってこれから生まれる一万の村々の図書館)に、わが館のカードとともに、良書が虹のように降りそそぐときがいつの日にか来ると、私たちは信じ、それに命を賭けることに日々を費やしているのである。
 それは果たして単純な、愚直な、願いだけだろうか。私は、意識過剰な私は、決してそうは思っていない。この過剰な意識を横にぬぐって、キレイにぬぐって、敢えてこの願いにすがりついているのである。高さを測ることなく、このハードルに向かって、まっすぐに走っているのである。
*『朝日評論』一九五〇年十一月号

底本:「中井正一全集 第四巻 文化と集団の論理」
   1981(昭和56)年5月25日第1刷
初出:「朝日評論」
   1950(昭和25)年11月号
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2009年8月23日作成
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