窓の外で春の形見の鶯が頻りに啼いている。
 荻窪の家に住んでいた頃のこと、嫁いだ娘ののこした部屋を第二の書斎にしている私は、今、朝の窓の日ざしに向っている。ふと蓮月尼の「おり立ちて若葉あらへば加茂川の岸のやなぎに鶯のなく」の情景を頭の中で描きながら、三十年前に会った京の松園女史の面影を眼に浮べている。
 それは大正二年四、五月の交である。私は京都に遊んで、ひらぎ屋に泊って洛中洛外を巡覧した。御池通の松園女史を訪ねて女史に初めて逢ったのは、この時であった。私の来訪を快く迎えてくれた女史はそのころ三十を幾つも出ない、美しい女ざかりであった。女史の画中の化政時代の麗人がそこへ浮び出たかと思われるたおやかさであった。言葉ずくなに語る一言一句は私の身にも心にもしみ透るような感銘を受けた。その時私は、
初夏のお池の南清らなる冷たき水のごとき
君住む
 と詠んだように、それは清冷な京の水を想わせるおもかげとものごしをもっていた。その声は高貴な金属的のさやかに徹ったひびきであった。「歌枕をたずねてお越しになったのですか」この一言が、相対して間もなく女史の私への挨拶であった。何か私の話でも聞き出そうとして、その場のともすれば白けそうな空気を和めようとする心づかいであったらしい。私はその「歌枕」という、澄んだ刺すような言葉が、今も耳に新しく聞えるようである。その時私ははっとして、「京の一番いい今ごろの季節にしたしもうと思って来たのですが、いつか限られた日数がすぎましたので、このままこうどこへも廻らずに帰ります。近江の岡(※[#「りっしんべん+登」、248-10]里)の方へ廻る予定でしたが、この次にします。かねてからお目にかかろうと願っていた思いが遂げられて、こんな嬉しいことはないのです」と、ぎごちない挨拶を返したのであった。すると、女史は話題をかえて、「お妹さんはこのごろいかがですか。今度御一緒においでになったらよかったですのに。お妹さんのことは岡さんからお聞きして懐かしく思っています」と、幾分か話がはずんできた。私は、「お噂は岡から承って、大へんお慕いして居りますので、加減がいいとつれて参ったのですが」と語り出して、残してきた病床の妹の事が案じられた。女史は京の新茶と珍菓を出して、もてなされた。
一椀のうす茶の上に風わたり言葉すくなに
対う半日
 私はこの時いい気持になって、蓮月尼の事を話しかけた。「蓮月尼の『岡崎の里のねざめにきこゆなり北白川の山ほととぎす』が私は好きで、その起き臥した跡を尋ねたいと思いながら、今度は果しませんでした。私は尼の手づくりの花瓶を持っていますが、それには歌も絵も得意のなりわいの麗筆で書いてあります。手づくりの陶器を生業にしていたことは、『手すさびのはかなきものを持出てうるまの市に立つぞわびしき』の歌で知られますが、その人と為りをなつかしんで居ります私はその庵あとでもたずねて、過ぎし日を偲びたいと思っているのです。昔、中学生の時分に、父に伴れられて西加茂の神光院をおとずれた私は、蓮月の事など、てんで頭になかったものですから、そこに晩年を送られたという時の事を聞こうともしなかったのです。知らないということは仕方のないものです。あの「うるまの市」の歌は、尼の生活のまざまざと滲み出ているもので、ほそぼそと哀愁の籠っているのに牽きつけられます」
 女史は耳を傾けて聴いて居られた。だんだん親しみが出て来て、初めのうちに出されなかった京なまりがほぐれて出るようになり冷たいばかりの人でないことが分ってきた。
 冷たい感じを受けるのは、女史の人柄の水仙の花のような高い香気からで、それが制作の上に反映されたわけであることを知ると共に、うら若い時からのかずかずの芸術上、人生上の労苦を思わずにいられなかった。ふと傍の白い障子に刺す京の晩春の斜めの陽が、辞し去りがたい愛着を感じさせた。と、いつか女史のかたへに来て居った、女史に似た眉目の麗しい童すがたが、見知らぬ私の方をものめずらしそうに見るのであった。それは今京都画壇の中堅である松篁さんであった。
 鶯はまだ啼きやまない。
 窓越しに見ると、莟のふくらみかけた大木の丁子の枝遷りして、わが世の春の閑かさ暖かさをこの時にあつめているように。
(昭和二十五年)

底本:「青帛の仙女」同朋舎出版
   1996(平成8)年4月5日第1版第1刷発行
初出:「京都」
   1950(昭和25)年9月号
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2009年1月28日作成
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