竹を割ったような性格

 私の母は、一口にいうと男勝りな、しっかり者でしたな。私は母の二十六歳の時生まれ、四つ年上の姉が一人だけありました。私の生まれたのは、明治八年四月二十三日、私の父が死んだのが同じ年の二月。つまり母は、主人を失ってから私を生んだわけです。父は四条御幸町に店を構え、茶舗を創めたばかりのところでした。そんな時に、父が亡くなったのですから、親類、母屋の人々は「二十六歳の若さで子供二人抱えて、とても、店を張ってやってゆけるものではない。店はやめて小そうなれ」と言う。けれど気丈な母は、せっかく主人の創めた仕事だし、今店をやめて小さく暮しては、いつ大きくなれよう。何としてもこのまま店を張ってゆきたいと考え「大事おへん。店はやってゆきます」と親類の人に言い切ってしまいました。
 こう言ったからには、誰に一厘の厄介もかけることはできないと思い定め、一人の丁稚を追いまわし、女手一つで店をやっていきました。体は至って壮健で、実にまめによく働きました。私が五歳位の時でしたろう。ふと夜中の二時頃、目をさますと、ザザァザザァという音がする。「なんや?」と思うとそれは母が焙炉ほいろの茶をかえしている音でした。茶商売では、茶を飲み分けることができないとあきまへん。というのは茶とんびといって、今でいえばブローカーですな、これが茶を売りこみに来ます。「これは宇治の一品や」と言うても母は「まあ、飲んでみよう」と言って飲んでみる。よく味わって「いや、これには静岡ものが混ぜてある」と見やぶってしまいます。それで始めは「若後家だ、だましてやろう」という気で来た茶とんびも、「あそこはごまかしが利かぬ」と分って、良い茶をもってくるようになりました。母は茶を飲み分ける鋭敏な感覚をもっておりました。四条通りは人通りも多く、追々お得意もふえお店は繁昌しました。ところが、私が十九歳の時、隣家から火が出て危く全焼はまぬがれましたが、荷物は表へほうり出されて、ドロドロになる。瓦はみんなめくられてしまうという騒ぎ。火事がおさまってみると、表口は何ともないのに奥は半壊の状態で、雨もりはする、とてもここに住めないというので、半丁程はなれた知合いの家に引移り、母は商売をつづけました。その年に姉が嫁ぎましたので、母は私と丁稚との三人暮しとなりました。そこで母は四条通りは繁昌してよいが、人通りが多く夜も店を閉めるわけにはいかない、夜は店もしめて、少しはゆっくり出来るように、ひっそりした町へ住みたいと考えて、堺町四条上ったところへ移りました。
 田舎出の女中一人使って、母は店へ出られ、私は静かな二階で、落ちついて絵を描けるようになりました。

     〈四季美人図〉英皇子のお買上げ

 私は小さい時から絵が好きで帳場のかげで絵ばかり描いていましたが、母はそれを叱るどころか「それほど好きなら、どこまでもやれ」と、励ましてくれました。しかし、はたはそうはいかず、親類知人は、「女子はお針や茶の湯を習わせるものだ。上村では、女子に絵なぞ習わせてどないする気や」と母を非難したものでした。なかにも、一人ゴテの叔父がおり、とやかく申すのでしたが、私が十五歳の時、東京に開かれた内国勧業博覧会に、〈四季美人図〉を初出品しましたら、丁度、来遊されていた英国の皇子コンノート殿下のお目にとまり、お買上げということになり、一時に上村松園の名が、新聞紙上に書き立てられますと、その叔父が一番に飛んで来て、「めでたいこっちゃ。大いにやれ」と大した変りようでした。次には、パリに出す、セントルイスの展覧会には入選するというようになり、銅牌やら銀牌やら、海の向うから送ってきました。日本の国内にも、美術協会が出来る。明治四十年には文展が出来る。

     行き詰りを開く母の言葉

 明治の時代はよい時代でしたな。世の中が、活気づいて、すべてのものが興ってくるという気配でした。
 母と申せばこんなことがありました。ある年、文展の締切が近づくのに、どうしたことか構想がまとまらず、妙に粘ってきました。今思えば、明治四十二年、文展第三回の時でした。気持ちはいらいらしてくる。つい、口もきかず、朝から画室にとじこもっていると、母が来てこう言います。「何をくさっている。そうや、文展の絵が、かけんでくさっているのじゃろ。なに、今年はやめなさい」私は毎年出品してきたのに、今年だけ出さないのは残念でなかなかそんな気持になれません。すると母は「文展はまあ、皆の画を並べている店のようなものではないか。大空から、その店を眺めるつもりになってごらん。今年は私の絵がないのでさぞお店がさびしかろう。来年は、私の絵でうんと賑わしてやろうと、まあこんな風に考えてごらん。それ位の自信とうぬぼれがなくてはあかん」その母の一言で、私の粘っていた気持は、すぽっととけてしまい、それで、思い切って文展出品をやめ二ヶ月後にあったイタリアへの出品に心を定め、落ちついて構想をまとめ〈人形遣い〉を描いて入選しました。母は竹を割ったような性格で、何度か私が思いなやんだり、迷ったような時に、活路を開いてくれました。
 母はそんなたちですから、しゃっきりしすぎていたのでしょう。誰にも遠慮なくずばずばと思うことを言いました。昔、辰巳という国民新聞の記者が、よく家へ見えましたが、後に「あなたのお母さんには、よく叱られた」と言われたことがあります。

     絵心のあった血統

 私の絵の素質がどこからきたのかと言われれば、母方からと言えましょう。母も絵心のある人でした。母方の祖父も絵が好きでした。四条通りには、袋物や古本の夜店がよう出ました。母はそんなところで、古い絵の本を買うてそれを写しておりました。字はとても達筆でした。茶の壺に貼る茶名をかいた紙が、赤くなると、母は自分で書いてはりかえます。
 母の二十六、七歳のころの手になるお茶の値段表を今も記念に残していますが、亀の齢一斤六圓也、綾の友一斤五圓五十銭也などと達者なお家流の字でかいてあります。正月の松の内など、店も表戸をしめて休みますが、その頃は出入口の戸障子に、酒屋なら「酒」お茶屋なら「茶」と大文字でかいてあったものですが、母は、そんな大文字も自分で書きました。店先にさげる大提灯も提灯やのかいた「茶」の字が、しけているといって真白く張りかえさせて自分で大きく「茶」とかきました。私は、その墨をすらされたので、よう覚えています。
 私が二十八、九歳の頃、母は茶の商売をやめました。人は三十にして立つと言いますが、私も絵を描いて立ってゆけそうでしたので、母は私を絵をかく人らしい環境におこうと考えて商売をやめ、私が三十の年には、御池の車屋町に上品な家があったので、そこへ移り住みました。母は茶商売をやめる時、茶壺に残った沢山のお茶を「長年御ひいきに預りまして有難うございました」と言って、いつも玉露を買ってくれるところには玉露、煎茶のところは煎茶、お薄のところへはお薄と、全部配って挨拶しました。母は、こんなずばっとしたことを時々やります。

     生粋の京娘

 けれど一方世帯持ちは実によいのでした。こんな話をすると人は何と思われるかしれませんが、母は戴きものをすると、水引きは丁寧にほどき、長い棒にあてて、紙でくるくるとまく。のしはすぐ箱にしまう。紙は上の一枚は反古紙にするが、二枚目の紙は折目があったらこてで延ばし、同じ大きさの紙と一緒にして棒の芯にまいてとっておく。使いたいとき取り出すと、どれも真新しいものと変りないのです。万事がこういうふうで実によく頭を働かせた。手まめに何事も処理していました。無駄をしないという気持はけちな気持とは全然ちがうと思います。すべき時には、ずばっとやり、わが身辺には、心を使って無駄をしない。この心がけはいつの世にも貴いものだと思います。私も母に特に言い聞かされたというのではないのですが、見よう見まねでその通りやっております。
 母は高倉三条のちきりやという、冬はお召、夏は帷子かたびらを売る呉服屋に通勤していた支配人の貞八の娘でした。生粋の京の町娘というわけです。
 私は親は母一人と思って育ったのです。父がないのを、さびしいと思ったこともありませんでした。私にとっては母はいいもの、一番大切なものでした。
 母は決して甘やかしてはくれませんでしたが、子煩悩でした。旅なぞに出ると、両方で案じ合って、私は母が待っている、一日も早く家へ帰りたいと思い思いしたものです。
 こんなことを思い出します。夕方から縄手の三条の親類へ母が行きましたが、夜になっても帰らない、雪もチラチラしてくる。私は心配になって「迎えに行こう」と言うと、姉は、「もう帰らはるやろ、行った先は分っているのやさかい、傘も貸してくれはるやろ」と言うのですが、私はどうしても迎えに行きたくなって、一人で行きました。
 丁度、母は腰を上げて帰ろうとしていたところでしたが、私を見て「おや」と驚いたらしいのですが、「よう来た」と大へん喜んでくれ、「おう、おう、さぞ寒かったやろ」とかじかんだ私の手を母の両の掌の中にはさんで、もんでくれました。
 母は昭和九年、八十六歳で亡くなりました。が、七十九歳で脳溢血で倒れるまで、実に壮健で、外出すると、若い者の先にたってずんずん歩くという風でした。松篁の嫁を迎えるのも見、曾孫ひまご三人の遊ぶのを眺めて、幸せな晩年を送ったのでした。
(昭和二十四年)

底本:「青帛の仙女」同朋舎出版
   1996(平成8)年4月5日第1版第1刷発行
初出:「婦人朝日」
   1949(昭和24)年8月号
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、「〈」(始め山括弧、1-50)と「〉」(終わり山括弧、1-51)に代えて入力しました。
※巻末の初出一覧に「藤浪みや子記」との注記があります。
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2009年6月11日作成
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