昨年の夏だったか、京都の関係者が寄り合って友禅祭を催し、その所蔵品を持ち寄って一堂に陳列した事があった。私も見物に行ったが、流石に仙禅斎の代表作などたんと集っていて、なかなか美事な催しだった。いい図柄や色気のものがたんとあって、つい懐ろの写生帖を取り出しては、心覚えに縮図させられる気にさえなった程だった。
 だんだん見物して行くと、あちらに誰か男の人が頻りに写生している。おや、誰ぞ写生したはる、感心な人やなぁ、と思いながら近づいて見ると、それは土田さんだった。土田さんの写していたのは花筏の模様だった。私はちょっと挨拶してすぐに別れたが、いずれあの模様が舞妓の衣裳にでもなって来るのだろう、と思った事だった。
 土田さんはよく舞妓を研究していられた。最初は文展に〈三人の舞妓〉が出た。国展にも同じ題材の作が出た。腰掛けたのがあり、座ったのがあり、かがんだのがあり、同じ題材を取り扱って、一枚は一枚と研究を打ち込んで描いて行かれたので、どの作品にも生命があった。
 土田さんの作品で一番古く記憶にはっきり残っているのは、まだ文展の開かれない前、毎春京都で開かれた美術協会の展覧会に出された〈罰〉という絵だ。田舎の小学校の教室の一隅に、三人の少年が直立さされてる図で、この絵は御池の栖鳳先生のお宅の二階で描いていられた時から知っていた。少年の立ってる足許に野菊の折枝が二、三本あしらってあるが、もう殆ど仕上りに近づいた時丁度私が行き合わしてると、「さぁ今度は野菊を描かんならぬ。どこぞ咲いてる所ないかいなぁ」と言って側にいる人に訊ねて、それが二条離宮の近所に咲いてると聞かされ「そうか、ちょっと行ってとってこう」と出掛けて行く姿が、今でも目に残ってる。
〈徴税日〉もその会に出た。これも田舎の風俗で、村役場みたいな所に爺さんやお上さん達が税を納めに来てる絵で、一人の小娘が赤い鼻緒の草履を履いていた。〈春の歌〉は田舎の子供が手をつないで輪になって、唱歌をうたっている図だった。その頃土田さんの好んで描いた題材は、主として田舎の現代風俗だった。その中に珍しく〈孟宗竹〉があった。これは向日町辺に写生に通ったりしたものだったが落選したと聞いた。〈春山霞壮夫〉と題した作は古事記か何かにある神話で、珍しく時代物だった。確か私の〈人形遣い〉を出した年で、両方共銀賞だった様に覚えている。
 その頃奈良に工藤精華という八十幾歳かのお爺さんで写真を写す一風変った人があって、まだ御維新で充分に整理のついていない社寺の仏像や絵巻などをうんと撮影していた。お婆さんと二人きりで粗末な家に棲んでいてお酒が好きでいつもお酒ばかり飲んでる様な人だったが、二階に上ると写真の種板を一杯もっていた。それが皆、それこそ後には国宝になったりした様な仏像や絵巻の写真だった。そこに土田さんは通って〈散華〉の材料を手に入れたという事だった。
 土田さんは昔から写生を重んじていられた人だった。舞妓でも大原女でも充分に写生に写生を重ねられた。そして絵に仕上がったのを見ると写生の儘でなしに、皆土田さんらしいよさにされていた。そこに土田さんの芸術があるという気がする。
(昭和十一年)

底本:「青帛の仙女」同朋舎出版
   1996(平成8)年4月5日第1版第1刷発行
初出:「塔影」
   1936(昭和11)年7月号
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入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2009年5月5日作成
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