只今では帯といっておりますが、慶長時代では巻物と申しておったようでございます。絹羽二重は二つ割りにして、又支那から渡来いたしました繻珍しゅちんだの緞子どんすなどと申しますものは、三つ割りに致して用いておりました。その後鯨帯と申しますものが出来、これが変化して今日の帯となったのでございます。確かなことは申せませんが、享保年間の帯巾は五、六寸位であったと思います。そして元禄時代の振袖は一尺七、八寸からせいぜい二尺位でございましたでしょう。
 振袖は男女ともに元服以前につけたものが、だんだん若いお女中に用いられたものでございます。昔はこの振袖も至って短かく寛文時代で女の振袖の長さが一尺五寸、左右合わせて六尺となっております。ところが漸次これが風流に取り扱われて長くなりました。今日では帯が極度に発達致しましたし、きものも訪問着など出来まして真に立派な服飾時代に入りましたが、現在の帯は余りに広巾すぎて、私達は今後何とか改良されるべきものであるという事を考えさされています。勿論これは私の好みではありますが、もっと現在の帯を簡略にして巾をせばめ、結び帯つけ帯をつける工合に進んでゆくのではないかと思います。
 現になにわ帯なぞが出来ております事は、明らかにこの帯の推移を物語るものでないかと思います。
 婦人の素足の窺える事は、これを見る人々の感じで悪くも見えましょうが、私といたしましては日本のきもののもつ裳裾もすその感じが真に自由で美しいものと考えております。然しきものは袖の簡略と美観を保つために元禄袖のように風流に仕立てたいと思います。
 何しろ若い方は日本の古い服装になじまず、新しい方面ばかりを御覧になっておりますので、きものの美しさや京風髷の魅力を余りおかんじになっていないかと存じますが、私達の娘時代の頃は櫛こうがいをつけました。そして銀のピラピラかんざしを前の方に飾ったものでございますが、鼈甲べっこうの櫛笄が灯影に栄え銀簪がちらちらひかる様子は、何と申しましても綺麗なものでございました。
(昭和六年)

底本:「青帛の仙女」同朋舎出版
   1996(平成8)年4月5日第1版第1刷発行
初出:「京都日出新聞」
   1931(昭和6)年3月14日
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2009年1月29日作成
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