余輩は前号において征夷大将軍の名義について管見を披瀝し、平安朝において久しく補任の中絶しておったこの軍職が、源頼朝によって始めて再興せられたものである事情を明かにし、その以前に木曾義仲がすでに征夷大将軍に任ぜられたとの古書の記事があり、それが古来一般に歴史家によって認められているとはいえ、その実義仲の任ぜられたのは頼朝討伐のための征東大将軍であって、征夷ではなく、また内容からも征夷大将軍というべきものではなかった次第を明かにしたのであった。
 かくてさらに頼朝が征夷大将軍に任ぜらるるに至った道筋に論及し、この補任はもともと彼の多年の希望であり、朝廷においても久しい間の懸案であったが、官僚の間にもその反対者があり、特に後白河法皇がそれを御許容にならなかったので、法皇崩御後の初度の朝政において、始めてその目的を達することが出来た事情を詳述したのであった。頼朝がこれを希望したのは、奥州における俘囚の長たる御館藤原氏が、院宣を奉じて頼朝の背後を窺うのに対して、これを討伐すべき適当なる名分を得んがためで、今一つには京都なる中央政府以外において、別に鎌倉に一新政府を組織するについては、これを将軍出征中の軍政府、すなわち幕府に擬することが、最も都合がよかったという事情もあったのであろう。しかも朝廷においてこれが任命に躊躇し給うたことは、一には藤原秀衡をして常に頼朝の背後を窺わしめ、その勢力を牽制せしめ給わんとしたとの理由もあるべく、一には院宮・権門らがかの豊富なる奥州の貢金に未練を残したという事情もあったのであろう。今本章は奥州におけるこの御館藤原氏の地位を論じ、次に当時の奥羽における民族のことにまで及んで、もって前号末尾における発表の予約を果たし、頼朝の補せられたる征夷大将軍の意義に関する所論を完うせしめようと思う。

 藤原秀衡は清衡の孫で、祖父以来今の陸中の主要部分たる胆沢・和賀・江刺・稗貫・紫波・岩手の六郡を領し、さらに南に出でて磐井郡の平泉に根拠を構え、砂金その他の豊富なる国産によって豪奢を極め、直接音信を京師に通じて院宮・権門・勢家に贈賄し、その威はよく国司を圧迫して、国司もこれをいかんともすることが出来ず、隠然一敵国の観をなしたのであった。されば心あるの士はこれを憤慨し、彼らは王地を押領するものとして、これを近づけるを欲しなかった。その史料は断片ながら多少は存している。『古事談』に、
 俊明卿(宇治大納言隆国三男、大納言民部卿皇大皇后宮大夫源俊明、永久二年薨)造仏之時、箔料ニトテ清衡令砂金云々。彼卿不之、即返遣之云々。人問子細。答云、清衡令領王地。只今可謀反者、其時ハ可追討使之由可定申也。仍不云々
とある。これは俊明が特に剛直であったがために、このような逸話も存するのであるが、多くの場合にあっては彼らの富が、よくあらゆるものを麻痺せしめおわったのであったに相違ない。清衡がいかに富強を極めたりしかは、今も存する中尊寺の金色堂を見ただけでも容易に推知し得べきところである。彼はまた中尊寺以外にも多く造寺・造塔の功徳を積み、在世三十余年の間、わが延暦・園城・東大・興福等の諸大寺を始めとして、遠くシナの天台山にまで、多くの砂金を送ってしばしば千僧の供養をなしたほどであった。その園城寺に施した分は一時に砂金千両とあるから、もって他をも察することが出来よう。しかも彼が王地を押領するの事実はとうていこれを否むことが出来ず、俊明のごとき心あるの士は、いつかは追討の師を出だす機会のあるべきことを予想していたのであった。
 清衡の子基衡は、父の富と勢いとをそのままに継承して、相変らず奥羽に割拠していたのであった。彼は父の中尊寺に倣ってその近傍に毛越寺を建立した。不幸にしてこの寺はほとんど当時の何物をも後世に遺していないが、『吾妻鏡』の記するところによると、中尊寺よりもその規模遙かに宏大なりしがごとくに思われる。中尊寺は寺塔四十余宇、禅坊三百余宇とあるが、毛越寺には堂塔は同じく四十余宇で、禅坊は五百余宇の多きに達していたのである。されば『吾妻鏡』(文治五年九月二十二日条)にも、基衡は果福父に軼ぎ、奥羽両国を管領すとある。彼は九条関白家に自筆の額を請い、また参議藤原教長に請うて、堂中の色紙形を書いて貰ったとある。彼がやはり父の方針をついで、黄金の力をもっていかに公家の※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)紳に近づいていたかが察せられよう。しかも彼また法性寺関白忠通の額だけはついに貰い損った。『古事談』に、
 法性寺殿令所々額給之間、自御室額ヲ一依申請、被書献了。而陸奥基衡ガ堂ノ額ナリケリト令聞給テ、イカデサル事有トテ、御厩舎人菊方ヲ御使ニテ、被召返ケリ。基衡雖秘計、不承引。遂ニ責取テ三ニ破テ帰参云々
とある。彼の黄金の力はよく御室御所をまでも煩わして、方便を廻らして忠通の額を手に入れんとしたのであったが、それが基衡の依頼であることを知るに及んで強いてこれを取り返し、いかに秘計をめぐらすもついにこれに応じなかったというところに、忠通の剛直が窺われるとともに、基衡がやはり父清衡と同じく王地を押領する者として、心ある公家から指弾されていた趣を察することが出来よう。
 基衡がいかに横暴を極めていたかの有様は、やはりこれも『古事談』に、
 宗形宮内卿入道師綱陸奥守ニテ下向時、基衡押‐領一国、如国威。仍奏‐聞事由、申‐下宣旨、擬検‐注国中公田之処、忍郡者基衡蔵テ先々不国使。而今度任宣旨、擬検注之間、基衡件郡地頭大庄司季春ニ合心テ禦之。国司猶帯宣旨推入之間、已放矢及合戦了。守方被疵者甚多、
という逸話によって知ることが出来よう。彼は当時父祖伝領の六郡以外、遠く南の方信夫郡にまでもその勢力を伸ばして、いわゆる王地を押領する者であった。かくて彼はその勢力をもって宣旨にも背き、国使に抗して合戦に及んだのである。これ立派な反逆でなくてなんであろう。しかも彼はなお黄金の威力をもってその不始末を誤魔化さんと試みることを怠らなかった。その罪を一に地頭季春に帰し、再三妻女を国司の館につかわしてこれが命乞いをなさしめ、その請料物勝げて計うべからず、砂金のみでも一万両の多きに及んだとある。しかも師綱これを許さず、ついに季春が首を刎ねしめたのであった。かくのごときの有様であったから、忠通が題額を拒絶したのは当然の次第であるが、しかも例の黄金の力はよく九条関白や参議教長を動かして、これがために揮毫を試むるを余儀なくせしめたものと見える。
 基衡が毛越寺を営むや、丈六薬師仏ならびに十二神将の彫刻を、当時の京都の仏師雲慶(運慶とは別人、かつて『歴史地理』上運慶と書いたのは誤植なり)に依頼した。この時雲慶はこの田舎の富豪を馬鹿にして、非常なる貪り方を行ったものであった。『吾妻鏡』によると、
 此本尊造立間、基衡乞支度於仏師雲慶。雲慶注‐出上中下之三品。基衡令領‐状中品、運功物於仏師。所謂円金百両、鷲羽百尻、七間間中径水豹皮六十余枚、安達絹千疋、希婦細布二千端、糠部駿馬五十疋、白布三千端、信夫毛地摺千端也。此外副山海珍物也。三箇年終功之程、上下向夫課駄、山道海道之間、片時無絶。又称別禄生美スズシ絹積船三艘送之処、仏師抃躍之余、戯論云、雖喜悦無一レ極、猶練絹大切也云云。使者奔帰、語此由。基衡悔驚、亦積練絹於船三艘送遣訖。
とある。かくていよいよその仏像が出来上ったところが、鳥羽法皇これを御覧になって、かくのごときの立派なものは洛外に出してはならぬとお禁じになった。基衡非常にこれを憂い、七日間水漿を断って持仏堂に閉じ籠り、一心に仏に祈請を凝らしたうえ、九条関白に運動してもらってついに勅許を得たとある。これにももちろん多額の運動費を使ったことであろう。
 基衡はまた藤関白忠実の荘園を管理しておったが、忠実その年貢の増徴を命じて多年悶着を重ねておった。久安四年に忠実がそのうち高鞍・大曾禰・本良・屋代・遊佐の五荘を左大臣頼長に譲ったについて、頼長はその年貢に非常な値上を命じた。
庄名    本年貢                 増徴年貢
高鞍庄  金十両、布二百反、細布十反、馬二疋   金五十両、布千段、馬三疋
大曾禰庄 布二百反、馬二疋            布七百反、馬二疋
本良庄  金十両、馬二疋、預所分金五両、馬一疋  金五十両、布二百反、馬四疋
屋代庄  布百反、漆一斗、馬二疋         布二百反、漆二斗、馬三疋
遊佐庄  金五両、鷲羽三尻、馬一疋        金十両、鷲羽十尻、馬二疋
 一躍二倍ないし五倍に引き上げんとしたもので、近ごろ強慾な家主が借家人を馬鹿にして、無法な値上げを命ずるよりもいっそうはなはだしいものであった。基衡もとよりこれに応じない。人を代えて折衝の結果、基衡もいくらかの増徴を諾したのであったが、その内幕について面白い記事が頼長の日記、仁平三年九月十四日条に見える。
 故成佐諫曰、匈奴無道、不必受君命。是以禅閤(忠実)時、度々雖其議、不果遂。昔孝文皇帝時、南越尉他自立為帝。帝召責他兄弟、以徳懐之。他遂称臣。与匈奴和親、而背約入盗、令辺備守、不兵深入、悪百姓。漢家日減。匈奴唯以仁懐之。未威畏一レ之。若欲其事、基衡遂不之。君将威於東土、遺嘲於後昆。願君熟察焉。成隆朝臣俊通陳曰、基衡以本数年貢之時、若不之、基衡必増之。縦不定仰之数、何無増。又基衡必阿‐媚奥竈、運不増之籌。願君勿和親矣。成佐白、少不之、二子求小利顧。君若従其言、必有後悔焉。余従成隆・俊通之諫。果如其言。成佐所言雖巧、慮不二子
 成佐は基衡を匈奴といっている。いかに東奥の夷狄とはいいながら、かなり馬鹿にしたものではないか。基衡の妻は安倍宗任の女で、毛越寺の境内に観自在王院を建立した。四壁に洛陽霊地の名所を図絵し銀をもって仏壇を作り、高欄は磨金なりとある。また小阿弥陀堂を建て、障子色紙形に参議藤原教長の染筆を請うたともある。
 基衡の子秀衡は父に襲いでさらに成金振りを発揮した。彼は無量光院を建立して、院内の荘厳ことごとく宇治平等院を摸したとある。その他、東大寺大仏殿再興の時のごときも、彼は実に第一番に勧進に応じたものであった。『吾妻鏡』にも、秀衡父の譲りを得て、絶を継ぎ廃を興し、将軍の宣旨を被りて以降、官禄父祖に越え、栄耀子弟に及ぶとある。清衡・基衡・秀衡三代間約百年、造立するところの堂塔幾千万宇ということを知らずともある。当時奥州平泉の文化は、実に京都につぐほどの勢いであったに相違ない。彼が父祖の余徳によって奥羽に雄視し、一方ではますます京都に接近を図りつつ、隠然半独立国の状態をなし、やはり心ある公家をして憤慨せしめていたことは、次の事実からでも察せられる。嘉応二年五月二十七日、彼は鎮守府将軍に任ぜられた。当時右大臣であった兼実は、その日記『玉葉』にこれを記して、
 奥州夷狄秀平、任鎮守府将軍。乱世之基也。
とある。これけだし当時の太政入道浄海に賄して得たところか、あるいは後白河法皇に取り入り奉った結果か。ともかく兼実自身においては内心不服であったことに相違ない。しかも彼また夷狄のこの黄金の力に対して、これをいかんともすることが出来なかったのである。
 その後十一年、養和元年八月十五日に至って、秀衡はついに陸奥守に任ぜられた。これは清盛の薨後その子宗盛が、秀衡をして頼朝の背後を襲わしめんとの計策に出でたものであるが、朝廷にとっては非常な果断であったに相違ない。なんとなれば、鎮守府将軍のことはその前例もあったことであるが、これを陸奥守とするとのことは、名実ともに奥州を夷狄に委任してしまう訳のものであるからである。兼実はむろん内々これに反対であった。しかも彼またこれをいかんともする能わず、ついにこの議定があったのである。『玉葉』これを記して曰く、
 此事先日有議定事也。天下之恥何事如之哉。可悲々々。
と。いわゆるその先日の議定なるものは同月六日の条に、
 関東賊徒(頼朝)猶未追討。余勢強大之故也。以京都官兵、輒難攻落歟。仍以陸奥住人秀平彼国史判之由、前大将(平宗盛)所申行也。件国素大略虜掠。然者拝任何事之有哉。如何。……。
 余申云。追討之間事、偏大将軍之最也。而前大将被申計之趣不異議。然者秀平任奥州、何事之有哉。凡此事等、惣以非道理之所一レ推。事已難治。仍不後害、不傍難、為当時事、可之也。
とあって、これに対して内心、「天下の恥何事か之に如かんや」と悲しんだ右大臣兼実も、後害を顧みるにいとまなく、傍難の有無をも考えず、やむを得ず素直に同意を表したのであった。しかも宗盛が推挙の理由とするところに至っては、すでに大半虜掠されている陸奥国のことであるから、今さら惜しむには足らぬというに至っては沙汰の限りであるが、当時の事情は実際その押領虜掠を認めねばならぬのであったのだ。頼朝の勃興に対して京都でかくまでして、この富強なる秀衡を懐柔し、その後背を攻めしめようと試みたのは当然の所為であったのであろう。『源平盛衰記』にはこの年二月(あるいは閏二月)および四月の両度、頼朝追討の院宣を秀衡に下されたとあって、その四月二十八日附の全文までが載っている。これに対して秀衡は、「兵衛佐(頼朝)には草木も靡いてたやすく傾け難かりければ、由なしとて止みぬ」とあるが、しかし秀衡が頼朝のためには一大敵国であったことは疑いを容れない。頼朝が容易に鎌倉を去る能わざりし事情は主としてここにあったのである。またその二月の院宣というも事実であって、『玉葉』この年三月十二日の条に、
 秀衡進宣旨請文。其状云、廻籌策於魚麗之陣、払賊徒於鳥塞之辺云云
とある。しかもその次に、「然而専難信用者歟云々」ともあって、果して秀衡がこれに応ずべきか否かは京都において疑問であった。同月一日の条にも、
 伝聞、秀平可追‐討頼朝之由、進脚力、令前大将(宗盛)。不院奏、直示報状了。早々可攻落之由也。但秀平全不動揺。只以詞如此令申許也。云云
とある。しかもまた十七日条には、
 伝聞、秀平為頼朝、軍兵二万余騎出白河関外。因茲武蔵・相模武勇之輩、背頼朝了。仍頼朝帰‐住安房国城云云
などと都合のよい風聞を記し、四月二十一日の条には、頼朝が秀衡の女を聚るべき約束をなし、いまだそのことを遂げず、関東諸国一人として頼朝の旨に乖く者なしなどと、全く反対の風聞なども見えている。木曾義仲が北国より京都に入りて、平家西海に没落するや、多年田舎にのみ生い立って毫も都の手ぶりに慣れず、武骨一遍のみの彼義仲は、戦勝の武勇に心驕りて公家に対して傲慢なる挙動が多かったのみならず、大兵を京都に擁してその糧食の供給に苦しみ、所在掠奪をほしいままにして、はては農民の青麦を刈りて馬糧に供するに至ったので、たちまちにして上下の怨府となった。法皇は頼朝の来ってこれを伐たんことを御希望になる。義仲、法皇を法住寺殿に囲み、ついにこれに逼り奉りて征東大将軍の宣旨を得て頼朝討伐の準備をする、遠く秀衡にまで院宣を申し下して頼朝を夾撃せんとする。『吉記』寿永二年十二月十五日の条にそのことが見えているのである。
 かくのごときの有様で、もと六郡を管領して富強を極め、王地を押領するの夷狄として指斥せられた御館藤原氏は、秀衡に至っては奥州の大半を虜掠しおわるの勢いとなって、はては朝廷でもこれを認め、頼朝を討伐せしむるの必要上より後害を顧みるの暇もなく、当時の大臣をして「天下の恥何事か之に如かんや」と嘆息せしめつつも、ついに陸奥守に任ぜられて、奥州全国を名実ともにその進退のもとに委せらるるに至ったのである。これに対して頼朝が、なんらかの口実を設けて征夷の軍を起さざるを得ない立場に置かれたことは、実際やむを得ぬ行きがかりであったといわねばならぬ。

 奥州における藤原基衡・秀衡等が夷狄・匈奴として認められたことは、上文引ける公家の日記によっても明白な事実である。しからば彼らは果して俘囚すなわち熟蝦夷の種であったのであろうか。系図の伝うるところによれば、彼らは正しく田原藤太秀郷の後裔であったという。その伝うるところ区々ではあるが、試みに『続群書類従』所収、「奥州御館系図」によると、
秀郷―千常―文脩┬文行―公光―公清―秀清―康清―則清(西行)
        └兼光―正頼―経清―清衡┬基衡―秀衡―泰衡
                    └忠継┬継信
                       └忠信
とある。西行法師が秀郷の後裔であることは、『吾妻鏡』(文治二年八月十五日条)に、彼の言として、「弓馬の事は在俗の当初憖に家風を伝ふと雖、保延三年八月遁世之時、秀郷朝臣以来九代嫡家相承の兵法焼失す」とあるによって明かで、しかも同書に、「陸奥守秀衡入道は上人(西行)の一族なり」とあって見れば、当時すでに秀衡が秀郷の後裔であることが、認められていたに疑いはない。また同書(文治五年九月七日条)に、泰衡の郎従由利八郎の梶原景時を罵倒するの言を記して、「故御館(泰衡)は秀郷将軍嫡流の正統として、已上三代鎮守府将軍の号を汲む」とあって見れば、奥州においてもかく主張していたことは疑いを容れないのである。
 伝うるところによれば秀郷は左大臣藤原魚名の後裔だとある。この系図にはもちろん疑問がないでもない。彼れあるいは本来東国の土豪たる東人あずまびとであって、系図を名家に仮托したのであるかも知れない。またその後と称する御館藤原氏は、『陸奥話記』によると、源頼義が清衡の父経清を責めて「汝先祖相伝予が家僕たり。しかして年来朝威を忽諸し、旧主を蔑如す、大逆無道なり」といっており、『吾妻鏡』にも、頼朝勅許を得ずして泰衡を討伐する時の口実の一に、「泰衡は累代の御家人の遺跡を受け継げる者なり」とあるによれば、もとは源氏の家人の家柄であったものに相違ない。あるいはその家また祖先以来東国にあって、いわゆる東人の一として、直接もしくは間接に俘囚の胤を承けているのであったかも知れないが、それは今の研究からは別問題としてしばらく保留することにする。
 ともかく御館藤原氏が、系図の示すごとく秀郷の後裔であるとして、さらにその以後の血統を調べてみると、清衡の母は俘囚長安倍頼時の女で、この時すでに彼が俘囚の血を承けていることは疑いを容れないのである。ことにその母は俘囚長清原武貞の後妻となって、子の清衡は幼時よりその家に養われ、後に継父武貞についで奥六郡を管領したとあってみれば、彼が他から俘囚の家柄のものであると認定されたに無理はない。俘囚長必ずしもそれ自身俘囚の種であらねばならぬ理由はない。大伴大連室屋の子かたりが夷種の軍隊たる佐伯部の長となり、佐伯宿禰の家を起したからとてあえて不思議はないのである。しかしながら平安朝において夷俘の長と指定されたものは、その国の夷俘中の人望あるものであった。『日本後紀』弘仁三年六月二日条に、その同類のうち心性事を了し、衆の推服するところのもの一人を択びてこれが長となすとある。この意味から陸奥の俘囚長たる安倍氏、出羽山北の俘囚長たる清原氏が、またそれ自身俘囚の種であると認定さるべき理由がないでもない。ことに安倍氏のごときは、みずから先住民族たることを認めていたらしく解せられる。そはその子孫なりと自称する秋田安東氏が、みずから長髄彦の兄の後裔なることを主張し、秋田実季の文書にもそれが歴然と記されていることから解せられよう。
 そのほかにも安倍氏が夷種であったことの証拠は多く、かつて自著『読史百話』においてこれを述べ、後に『国学院雑誌』上の弁駁に対して、同誌第十九巻第十一号において述べておいた通りである。また清原氏のごときも当時夷として認められたもので、これもかつて『歴史地理』第二十巻第四号の誌上に「夷人清原武則」と題して述べておいた。しからばその安倍頼時の女を母とし、清原武貞を継父としてその跡目を相続した藤原清衡が、それ自身俘囚であると認められたに不思議はなかるべきである。後世にも和人がアイヌの入婿となって、その酋長として活躍した例もないではない。されば彼は中尊寺を建立し、その本尊仏に対して「願文」を捧ぐるや、みずからその俘囚なることを明言しているのである。
 弟子は東夷の遠酋なり。生れて聖代の征戦なきにあひ、長く明時の仁恩多きに属す。蛮陬夷落之が為に事少く、虜陣戎庭之が為に虞れず。斯の時に当りて弟子苟くも祖考の余業を資け、謬つて俘囚の上頭に居る。
 彼は実に東夷の遠酋であり、父祖の余業を承けて俘囚の上頭にいたものに相違ないのであった。よしやその系図がなんと言っておろうとも、当時においてなんと公称しておろうとも、仏に対してみずから告白したこの事実のみは争うべからざるものである。
 しからばその部下の民はどんなものであったであろうか。今かりに一歩を譲って、清衡は事実秀郷の後裔であり、秀郷は魚名の後裔であることが疑いなしとしても、それはただ男系相続をのみ認むるわが古俗に随って、その家柄がかくのごとしというのみに止まって、俘囚の血を混じ、俘囚の跡目を相続し、俘囚の首領となっていたことは疑いを容れないのである。のみならず彼の部下が明かに当時蛮陬夷落であり、虜陣戎庭であったことは、彼が仏に対する詐らざる告白によって争うことが出来ないのである。源行家が伊勢大神宮に捧げた「願文」に後三年の役のことを述べて、「祖父義家……国家の為に不忠武衡・家衡等を討じ、威を東夷に振ひ名を西洛に上げ、……皇威夷域に及び仁恩一天に普ねし」といっているのは、時代はやや違うがやはり奥羽の地をもって夷域となし、その住人を東夷と称したものである。降って東大寺の重源が平重衡によって焼かれた大仏殿の再建を企つるや、第一に大檀那として施主に仰いだのはこの夷域たる蛮陬夷落虜陣戎庭であった。当時これに長たる東夷の富豪藤原秀衡は、西行法師の一族であったので、西行はその一族の縁を辿って、はるばると勧進に赴いたのであった(『吾妻鏡』文治二年八月十六日条)。しかして秀衡まずこれに応じて奥羽の民これにならい、次第に他の諸国に及んだとある。それを「東大寺造立供養記」には、
 東は毛人の域に勧進して夷類等随分の奉加あり。是れ一の不思議なり。爰に奥州の猛者藤原秀平真人、殊に慇懃の志を抽で、専ら知識の方便を廻らすなり。真人の忠節によつて奥州の結縁を尽くし、爾より以降一天四海次第に結縁するなり。
と書いてあるのである。当時の奥羽の民は、実に夷類として認められ、その地は実に毛人の域として認められていたのであった。言うまでもなく毛人とはアイヌ族のことである。しかして秀衡は実にその父祖の業をついで、その夷類らの上頭におり、毛人の域を管領していたものである。
 文治五年藤原氏滅んで、頼朝は葛西清重をして奥州を管領せしめた。しかもこの夷地には普通の行政を施すことが出来難い事情があったものと見え、同年十月一日の国府庁の張紙には、「国中の事に於ては秀衡・泰衡の先例に任せ、其の沙汰を致すべきものなり」と示されたものであった。しかるに出羽において留守所の吏員は従来の慣例に背き、地頭の間田を検出しようとしたので、ために地頭らの愁訴となり、同月二十四日大江広元の名をもって、出羽留守所宛に左の命令が執達された。
当国※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)注之間、可所々地頭間田之由事、尤驚聞食。於出羽陸奥者依夷之地、度々新制にも除訖、偏守古風更無新儀。然者件間田等、何被停廃哉。有公田之外間田者、如年来にて不相違之旨、依鎌倉殿仰執達如件。
  十月廿四日
前因幡守
   出羽留守所
 奥羽両国に対しては鎌倉の武威をもってしても、実際特別行政の必要があったのだ。しかしてそれは「夷之地」なるがためであった。もって当時の形勢を知ることが出来よう。

 奥羽の地はかつて坂上田村麻呂征夷の偉勲により、今の岩手県の北部から青森県の東南部、すなわち爾薩体にさったいから都母つぼにまで皇威を耀かしたのであったけれども、その後、夷族再び勢力を恢復して、北部地方はいつしかその手に落ちたものと見えて、延喜の「民部式」収むるところ、陸奥国府の所管は北方気仙・胆沢・江刺の地方に限られ、和賀・稗貫・紫波・岩手・閉伊等、今の岩手県の大部分は、もはや国司所管の外に置かれたのであった。最も延喜の「神祇式」には斯波郡内の官社一社が載せられてあるが、これはおそらく古い「神名帳」のままを収録したもので(「延喜神名帳』[#「「延喜神名帳』」はママ]は他にも往時のまま改めざる証少からず)、当時の実際ではない。したがってこのことは、かえってかつては少くも紫波(斯波)の地方までも国司の治が及んでいたのが、延喜のころにはそれが夷地に落ちて、もはや「民部式」から除かれた証拠にもなるべきものである。
 かくてこの和賀以北、稗貫・紫波・岩手諸郡の地を領した俘囚長たる安倍氏が、次第に勢力を南に及ぼして『延喜式』所収の江刺・胆沢の二郡をも押領し、いわゆる六郡を管領してさらに衣川の外に出で、磐井郡にまでその押領の手を伸ばそうとするに及んで、ついにいわゆる前九年の役のやむ能わざるに至った次第であった。当時いわゆる六郡以北の地方、すなわち今の二戸・九戸の諸郡から、北、津軽の地方へかけては、いわゆる奥地として安倍氏にも属せず、むろん化外に置かれたものであったのであろう。かくてその戦役の結果は、源頼義・義家父子前後十二年の苦闘の後、ようやく出羽・仙北の俘囚長清原武則兄弟の援助によって、安倍氏を殪すを得たのであったが、武則その功によって鎮守府将軍に任ぜられ、出羽より胆沢に移って安倍氏旧領の六郡を伝領し、相変らずその地を俘囚の手に委するのやむを得なかったのであった。否、清原氏はその勢力を奥羽二州に及ぼして、安倍氏以上のものとなったのであったに相違ない。
 されば義家が陸奥守に任ぜられて、その内訌に干渉し、ついにいわゆる後三年の役を生ずるに至ったのは、これまた実際やむを得ざる次第であったといわねばならぬ。しかもその結果は前役と同様であって、五年間の戦争の末にようやく清原氏を殪すことが出来ただけであって、これがためにその地を国司支配の下に移すには至らず、相変らず俘囚なる藤原清衡が、清原武貞の養子として、旧来の六郡の地を伝領し、依然としてその管領に委せねばならなかったのである。要するに前九・後三の両役ともに、いわゆる前門の虎を防いでこれを後門の狼に譲り渡したという結果となってしまったのである。ことに清衡は康保年中その居館を江刺郡豊田館から、さらに南の方磐井郡の平泉に移し、さきに安倍氏が衣川の外に出でんとしたところを実地に行って、ますます南下の形勢を示すに至ったのである。のみならず彼は奥羽両国一万余の村に伽藍を建て、仏性燈油を寄附したといわれている。事実その勢力は、この両州を光被していたのであろう。
 ついでその子基衡に至っては、果福父に過ぎて両国を管領したとも言われ、遠く南の方信夫郡の検田についてすら、国司に対抗してこれを拒もうとしたほどであった。かくて秀衡その後を承けて奥州大半を虜掠したとあってみれば、曩祖頼義・義家の正嫡を承けて、すでに天下一統の形勢にある彼れ頼朝たるもの、いかんぞその臥榻の傍において、この夷人の鼾睡を容るすことが出来ようや。いわんや秀衡はさきに平家の推挙によりて陸奥守に任ぜられ、公然奥州をその掌中に握ることが出来たのみならず、院宣を帯して常にその背後を窺おうとするの情勢にあるにおいてをやである。平家、西海に没落した後に至っても、彼は義仲とともに頼朝を夾撃すべきの院宣をまで帯しているのである。これに向う頼朝は勢い朝敵の地位に立たなければならんのである。頼朝たるもの、あにこれを坐視することが出来よう。彼はすでに寿永元年四月において、文覚上人を高雄より請して相模の江の島に大弁才天を勧請し、三七日間の断食の荒行をまで修せしめて、秀衡調伏の祈願を籠めしめたのであった。彼が多年征夷大将軍の補任を希望したのも、実に秀衡征討の名分を正さんことを欲したがためであったことは、上文すでに述べた通りである。
 しかるに後白河法皇は、その御在世中ついにこれを許し給わなんだ。これは法皇が藤原氏をして鎌倉の勢力を牽制せしめ給わんとの御下心と、一つにはその豊富なる砂金その他の物資の貢献に望みを絶ち給わざりしこととに由るものと察せらるる由は、またすでにこれを述べた通りで、事実法皇は最後までも奥州の砂金の貢献を促し給うたのであった。文治五年三月、秀衡すでに死して子泰衡家を継ぎ、当時朝敵と見做されたる義経を隠慝扶持せるの罪によって、まさに鎌倉の討伐を受けんとする際になってまでも、法皇はなお書を鎌倉に下して、これを催促せしめ給うたのであった。この月十日附権中納言経房の「奉書」に、
 奥州貢金の事、明年の御元服料と云ひ、院中の御用と云ひ、旁所用等あり。而して泰衡空く以て懈怠す、尤も奇怪の事なり。早く催進せしめ給ふべし。且は又国司に仰せられ畢んぬ。
とある。当時朝廷では、後鳥羽天皇の御元服にも、また院中の諸雑用にも、実にこの藤原氏の貢金を当てにして居給うたのであったのだ。かかる次第であったから、法皇が最後までも頼朝に許すに、征夷大将軍の号をもってすることを憚り給うたに御無理はない。
 しかしながら頼朝がますます勢力を得るとともに、その圧迫の手は次第に奥州にも加えられた。平家滅亡の翌年、すなわち文治二年に至って、従来秀衡より朝廷へ貢進する砂金その他の物資は、爾今必ず頼朝の手を経由すべく、左の書面を秀衡に送ったのであった。
 御館は奥六郡の主、予は東海道の惣官なり。尤も魚水の思をなすべし。但行程を隔てて信を通ぜんと欲するに所なし。又貢馬・貢金の如きは、国土の貢たり。予争でか管領せざらんや。当年より早く予伝達すべし。且勅定の趣を守る所なり。云々。
 これに対して秀衡ももはやこれを拒むに由なく、四月「請文」を送って、貢馬・貢金等はまず鎌倉に沙汰し進むべく、京都に伝進すべきの由承諾したことであった。頼朝いかに東海道の惣官たりとも、国家の公道を経由して貢物を朝廷に送るに干渉すべき道理はないはずであるが、彼はなおかつて藤原基経が、万機巨細皆太政大臣に関白して、しかして後に奏下せよとの詔を受けて、天皇と臣民との間に関白という一の障屏を設け、直接上下の疏通することなきに至らしめたと同じように、天下の武家はまずことごとく鎌倉を経由して、しかして後に朝廷との関係を保たしめんとした政策の強行であったのである。彼はすでに平家滅亡の前から、武家の官位は必ずその推挙によるべきことに定めていたのであった。
 しかるに義経は元暦元年八月に、その手続きを経ずして左衛門少尉に任ぜられたがために、はなはだしく頼朝の忿怨を招き、後ついに頼朝より朝敵として追捕の宣旨を申し下さるることとまでなったのである。しかるに義経は巧みにその捜索の手から免れ、はるばる奥州に潜行して秀衡に頼ったのであった。これは頼朝にとっては実に勿怪の幸いで、彼はために秀衡討伐の良い口実を得た訳である。もし強いて推測をこの間に逞しうしたならば、なお将棊の雪隠詰と同一の筆法をもって、義経が少年のさい扶持されたる関係をたどって、ここに落ち行くべく暗に導かれたのであったのかも知れぬ。
 ともかくも義経が秀衡に頼ったことは、鎌倉に奥州討伐の良い口実を与えたもので、頼朝奏請してしばしば院庁下文を申し下し、秀衡は凶賊義経を扶持して反逆を起したものとして、これを征伐せんことを希望したが、朝廷では単に義経を搦め進ずべき旨を下知し給うのみで、奥州討伐のことはどうしてもお許しがない。そのうちに秀衡死して、子泰衡は鎌倉の威に恐れ、文治五年閏四月三十日、不意に義経の居館を襲うてこれを殺した。かくてその飛脚が五月二十二日鎌倉に到着し、これを京都に奏上したについて、六月八日到来の経房の返報に、義経誅戮のこと法皇のことに悦び聞こしめすところで、義経滅亡のうえは国中定めて静謐なるべく、もはや弓箭を袋にすべきものなることの御沙汰があったのである。これまことに当然の御意で、頼朝の強請によって朝敵となった義経だにすでに殺されたうえは、泰衡はむしろその功を賞せらるべく、討伐を受くべき所由はなかるべきはずであるが、頼朝の真意は義経誅戮よりもむしろ奥州征伐であったに相違ない。
 そこで彼は直ちに出征の準備に着手し、六月六日には北条時政の所願として、奥州征伐のことを祈らんがために伊豆北条の地に願成就院の営作を始め、また京都に向ってはしきりに追討の宣旨を奏請するに至った。これに対して法皇は、関東の欝陶黙止難しといえども、義経はすでに誅せられ、ことに今年は造大神宮の上棟、大仏寺の造営等、種々の差障りあるのゆえをもって依然としてお許しがなく、せめては本年だけ猶予せよとお求めになったのである。しかるに鎌倉にはすでに奥州征伐の兵士が続々参集して、その数はやくも一千に及び、今さらこれをいかんともすることが出来ない。このこと奏聞を経ていまだ勅許を得ないとはいえ、軍中にあっては将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずともいうことがある。いわんや泰衡は源家累代の家人の遺跡を受け継いだものであれば、綸旨を下されずといえども治罰を加うるに不思議はない。ことに群参の軍士鎌倉に数日を費しては、還って諸人の煩となる、速かに発向然るべしという理由をもって、叡旨に反してついに七月十九日、頼朝自身出征の途に上ったのであった。そこで京都においても今さらやむを得ぬことと思召されて、同じ日附をもって泰衡追討の「宣旨」を下された。その文に、
 陸奥国住人泰衡等、梟心性を稟け辺境に雄張す。或は賊徒を容隠して猥に野心を同じうし、或は詔使に対捍して朝威を忘るるが如し。結構の至り既に逆節に渉る者か。しかのみならず奥州・出羽の両国を掠籠し、公田・庄田の乃貢を輸せず、恒例の仏神事、納官封家の諸済物、其の勤め空しく忘れ、其の用欠けんと欲す。※(「(女/女)+干」、第4水準2-5-51)謀一にあらず、厳科遁れ難し。冀くは正二位源朝臣に仰せて、其の身を征伐し、永く後の濫を断たん。
とある。この「宣旨」が奥州において頼朝の陣営に到着したのは、すでに泰衡が殺されたよりも六日の後、すなわち九月九日であった。あるいは戦争の形勢泰衡に不利なるを知って後のことであったのかも知れない。さきに数回頼朝討伐の「院宣」を下し給うた後白河法皇から、また半月前まで泰衡追討を猶予すべく諭し給うた後白河法皇から、たちまちにしてこの討伐の命が発せられたことを思うと、実力を有する武家と虚位を擁する公家との当時の関係がよく推測せられて、頼朝が将軍の府において永続的軍政の例を開き、将軍陣中にあっては王命も奉ぜざるところありとの事実を演出するに至った形勢も察せられるのである。
 頼朝、奥州征伐の決心を固うし、いよいよその実行に着手するに至っても、彼はその敵の容易ならざるを慮って、ただに武備を厳にするのみならず、しきりに神仏の加護を求めた。すでに述べた文覚江の島参籠と、時政願成就院の建立のほかに、六月二十八日には鶴岡放生会を引き上げて泰衡征伐の祈祷をなし、二十九日には愛染明王の像を武蔵の慈光山に送って修法を行わしめ、七月五日には駿河の富士御領帝釈院に田地を寄附し、十八日には伊豆山専光房に仰せて祈請を凝らしめ、ために梵宇建立を命じ、また出征の途中には宇都宮に奉幣して立願するところがあり、さらに鎌倉の留守においては、八月十日、妻政子が女房数輩を帥いて鶴岡に百度詣をなすなど、いずれも奥州征伐御祈祷のためだとある。
 以上は『吾妻鏡』に見える限りであるが、また同じ八月に京都の東寺で泰衡調伏の法を修せしめたことが『東寺長者補任』に見えるのによると、他の社寺でも定めて同様のことが多かったのであろう。かくまでも彼は慎重の態度を執り、前例になく彼自身将として征途に上ったのであったが、泰衡の方ではもと闘志なく、一意恭順を旨としてさきには命のままに義経を殺し、次いで六月二十六日には弟泉三郎忠衡が、義経に同意しておったという理由でこれをも殺したほどで、とうてい百戦錬磨の鎌倉武士の敵ではなかった。八月九日、阿津賀志山の守りがまず破れ、二十一日には泰衡、平泉館に火を放って北に遁れ、はては北海道に遁れんとする途中、九月三日、部下河田次郎の変心によって肥内郡贄柵で殺されてしまった。始めて阿津賀志山に戦を交えてから、わずかに二十余日、平泉に百年の栄華を誇った御館藤原氏ここに滅び、安倍氏以来三代約百四十年間、奥羽の中央に蟠居しておった俘囚の勢力は、ここに始めてその根柢から覆されたのである。

 乱平定の後、頼朝は、葛西三郎清重を奉行に任じて奥州の御家人を進退せしめ、以下それぞれ勇士勲功の恩賞あり、翌年三月十五日にはさらに伊沢左近将監家景を奥州留守職となし、これより両人奥州総奉行と号して国務を執ることとなった。当時出羽にも留守所があったが、何人がその所務に当っていたかは明かでない。やはり秀衡・泰衡時代の例によって、いわゆる奥州総奉行が奥羽両国を管領していたのであろう。『吾妻鏡』文治五年十月の条には、国中のことは秀衡・泰衡の先例に任せて沙汰すべしといい、同正治二年八月条にも、陸奥・出羽両国諸郡郷地頭所務のことは、秀衡・泰衡の旧規を守るべきの旨、故将軍の御時に定めらるとあるのである。
 この時、葛西・伊沢ら奥州総奉行の勢力の及んだ範囲は、果してどの辺までであったであろう。『吾妻鏡』文治五年十一月八日の条によれば、窮民賑給のために農料種子を供給した範囲は、磐井・胆沢・江刺・和賀・稗貫の五郡であって、紫波・岩手等その以北には及んでおらぬ。これはその以北の地が当時兵乱の巷となること少く、土民の疾苦多からざりしという理由もあるべく、必ずしもこれによって、奉行施政の及ぶ北限を定めることは出来なかろうが、それにしても、とうていもと藤原氏管領の六郡以北に至ったとは思われず、当時幕府施政の範囲は、おそらく岩手郡をもってその北限としていたものであろうと解せられる。けだし二戸・九戸以北の地方は、『陸奥話記』にいわゆる奥地に当り、これを糠部(『吾妻鏡』文治五年九月条に糟部郡とあるは誤記なるべし)と汎称して、当時にあっても、なおほとんど化外に置かれ、俘囚長たる安倍・清原・藤原諸氏も、措いて顧みなかったものではなかろうか。
 奥州平定の当時、諸将の賞賜せられた地方は明かなものが少い。『吾妻鏡』には畠山重忠が狭少の葛岡郡(後玉造郡の一部)を与えられ、葛西清重が伊沢・磐井・牡鹿郡以下、数ヵ所を拝領したとあるほかには、千葉介最もこれを拝領すといい、重忠の傍輩皆数ヵ所広博の恩に預るとあるのみで、その地名を明記したものがない。奥羽諸旧家の家伝には、それぞれ先祖がこの戦役に随って軍功あり、某々の地を給せらるなどと書いてはあるが、中にはその人名すら『吾妻鏡』の出征諸将の中に見えぬものがあるくらいで、他になんら参照すべき史料もなく、どこまで果して信じてよいか、明かでないものがはなはだ多い。
 南部家の祖と称する南部次郎光行の名は、現に鎌倉出立御供に候する輩という中にもあって、この役に従事したことは明白であるが、この時彼が糠部五郡を賜わったといい、あるいは九戸・閉伊・鹿角・津軽・糠部の五郡を給せられたというに至っては、ただに事実に合わぬものあるのみならず、一も他に傍証すべきもののないのを憾みとする。『保暦間記』によると、安東五郎というもの東夷の堅めにとて、義時の代官として津軽に置かれたとある。また延文の『諏訪大明神絵詞』には、根本は酋長もなかりしを、武家その濫吹を鎮護せんために、安藤太というものを蝦夷管領とすともある。異本『伯耆巻』にも、「奥州津軽の住人安東又太郎季長云々、此の安東と云は義時が代に夷島の抑へとして、安藤が二男を津軽に置ける彼等が末葉なり」ともいっている。これらの安東五郎といい、安藤太といい、安藤が二男というものはいずれも同人で、安倍貞任の後と称し、実に後の秋田氏の祖先なのである。けだし奥地の夷酋が後に武家から本領の安堵を得たものであろう。しかしてその配下の人民が鎌倉時代末においてなお蝦夷として認められていたことは、『北条九代記』『保暦間記』『称名寺文書』等によって明かである。思うに藤原氏滅んで後も、いわゆる奥郡の地には鎌倉の勢力もいまだ十分に及ぶ能わず、前九・後三の役の後に北上川流域地方を引続き俘囚の豪族に委したと同じように、依然として土豪の領有を認め、その進退に任しておいたことであろう。
 かくて鎌倉時代の末葉に至り、その配下の蝦夷ら蜂起して幕府も容易にこれを鎮定する能わず、社寺に静謐を祈祷して文保二年のころいったん法験を見た(『称名寺文書』)と思ったのも束の間で、元亨・正中より嘉暦に渉ってさらにその乱相つぎ、幕府は嘉暦元年工藤右衛門尉祐貞を蝦夷追罰使として進発せしめ、翌年さらに宇都宮五郎高貞・小田尾張権守高知を追討に向わしめたが、三年十月に至ってこの高貞・高知ら和談の儀をもって帰参すとあって、ついにこれを征服することが出来なかったのであった。

底本:「喜田貞吉著作集 第九巻 蝦夷の研究」平凡社
   1980(昭和55)年5月25日初版第1刷発行
初出:「民族と歴史 第七巻第六号」
   1922(大正11)年6月
※底本の編注は省略しました。
※複数行にかかる波括弧には、罫線素片をあてました。
入力:しだひろし
校正:Juki
2013年4月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。