1

 丸山定夫君――
 本誌〔演劇・昭18〕昨年十二月号に君の書いた「答えと問い」を読んだ。その中で君は、先頃から僕が君にあてて出した手紙に就て君の考えたことを述べている。
 その真率な調子に、先ず[#「先ず」は底本では「先づ」]僕は頭を下げた。しかもそこに書かれている事は、昨日や今日、ヒョイと思い附かれた即興的な感情では無く、永い過去から現在に至るまでの良心的俳優としての君が経験して来た事実から生み出された考え方――言って見れば、君の身体に叩き込まれた所から出ている「音」である。それは殆んど運命的な径路と時日を要して君の裡に少しずつ少しずつ蓄積され形成されて来た思想の切断面である。
 僕は君のために、よろこんだ。君が、君としては珍らしくムキになって来ていることが解り、ああ丸山もいよいよボヤボヤして居れなくなって来たと思い、わが友丸山定夫の素顔を近々と見る思いがして、君に対して僕が抱いて来た永い敬愛の念を新たにしたことである。
 僕の気持はうれしいと言うよりも、むしろ、ありがたいと言うに近かった。君の意見自身の是非のことではない。君のムキな態度のことである。君にこの様なムキさが失われて居ず、そしてこの様なムキさを君が持ちつづけて行ってくれるならば、それは、やがては君自身をも、それから僕をも、それからその他の演劇人達をも、より高い、より確乎とした境地へ引き上げてくれる事が出来ると思ったのだ。
 願わくば、このムキな態度を持ちつづけてくれ。逃避したり、はずしたり、詭弁に[#「詭弁に」は底本では「詭辨に」]陥ちたり、自嘲に堕したりしないでくれ。君は君の文章の中で「一つの劇団の活動は永続させることが何よりも大事だ」と言っているが、そしてそれは確かに真理であるがしかし今の場合、それよりも尚一層大事なことは君自身のこの様なムキな態度が永続してくれることだと僕は思う。

      2

 さて、僕は近来益々「言説」の無力さ無意味さを痛感する。よしんば、その言説がどの様に正しくても、それが言説だけとして存在している限り、殆んど何の役にも立たない。場合に依って徒らに世間を騒々しくさせるだけだと言う意味で有害でさえあると思う。要は身を以て実行することにある。また、身を以て実行していれば、その余のことを、あげつらっている暇は無いのだ。
 僕は劇作家だ。戯曲を書くことに、自分の貧しい力を集中すれば足りる。言いたい事があったら自分の作品で言う。自分の作品で語れなかった事、言い足りない事を、作品以外の所で言い散らして見てもそれが何になる? それは卑怯であり未練である。と同時に、どう足掻いて見ても、言い足りることにはならない。言えば、僕と雖も見る眼を持ち考える頭を持っているのだから、世上の現象の一つ一つに就て自分なりの見解は持ち合せている。時に依ると、これはチョットした達見であると自惚れてもよさそうな意見を抱くことがある。しかし、それを言って見ても何になる? その言説を即刻実践するだけの充分なる勇気と客観的な力を持たず、かつ、その言説から依って起る現実の事柄に向って身を以て処そうとするだけの充分な決意を持たぬ者が、よしんばどの様に高邁な正論を吐いたとしても、それが何になる? お国のために、何の役に立つか? 人々のために、何の役に立つか?
 全体、われわれには理屈が多すぎるのだ。今われわれに必要なことは、一知半解の事に就て無責任な「批判」を吐き散らすことではなくて、信頼するに足る指導者を見出して、その者の号令を黙々として躬行することなのだ。もし万一、批判を敢えてしようとならば、口舌を以てせず身を以てすればよし。それこそ、真の批判であり、主張である。
 特に、曾て過去に於て重大な思想上の過誤に陥ったことの有る自分などは、既に久しくその様な過誤を清算し、卒業し現在に於ては根本的に全く健全な地盤の上に生れ変り得ていると自ら確信しても、尚、なるべく、よけいな言説を吐くべきで無い。やむを得ざるに発する以外は、沈黙すべきである。僕はそう思っている。つまり、僕は謹慎中の人間だ。他に対してと同時に自分自らに対しても謹慎中だ。
 この様な考えと、この様な考えに基いた僕の沈黙は昨日や今日はじまった事では無い。現に、君も知っているように、この五六年、僕は人に向って「言説」の口を開いたことは殆んどない。稀れに戯曲作品を発表する以外に、人さまに向って言う事など僕には無いし、又、言う資格も無い。将来とても、これは同様であろう。
 だから今此処にこの手紙を書くのも、その辺のことを僕が思い返したためでは無い。僕がこの手紙でどんな事を述べても、それは相変らず無益に近いであろう事も、又、なんら事新らしい言説にも成り得ない事も僕は知っている。それを、しかし、敢えてしようとするのは、第一に、君のムキさに対して何も答えないで済して置くのは失敬だと思ったのと、これを機会に、君の提出している問題をめぐっての僕自身の「告白」をしたい慾望を僕が感じたためである。それに君から公けの場面で話しかけられたのだから、それに対し僕も公けに答える責任が多少は有るわけで、従って幾分「やむを得ざるに発した」ものであるわけだ。
 いずれにしろ[#「いずれにしろ」は底本では「いづれにしろ」]、既に「言説」では無い。そのつもりで読んでくれ。失礼な言い方だけれど、ただ言説の範囲内だけで「論理的」に君の意見を叩きつぶして見せる事だけならば、僕にとっては言わば一挙手一投足の労で足る。しかし、その様なことをしても、君にとっても僕にとっても、なんの役にも立たぬ。僕が此処で述べたいのは、僕の――そして多分は君をも含めての――「告白」である。
 言辞が、たまたま論争的になることがあっても、僕の本意に非ず、君よ許せ。
 そこで、事の順序として――と言っても、めんどうくさいから結論から先きに言うが――
 君が「答えと問い」の中で述べている意見は、根本的に全く、まちがっている。

      3

「今の日本にこそ高い演劇が必要だ」と君は言っている。それは、よい。僕も全くそう信ずる。
 今、われわれが真に高い演劇を生み出し得るか得ないか、又は高い演劇を生み出すための鞏固な準備をととのえ得るか得ないかは、少し大げさな言い方かも知れぬが、対英米の文化戦争で勝つか負けるかの境目を作る因子の一つになる。そして是が非でも勝たなくてはならないのだ。この様な事を僕などが今更らしく言うと人々の耳には滑稽に聞こえるかも知れぬが、そのためには、われわれは自己の職能の中で、ひたむきに努力しなければならぬことは自明だ。
 君達が劇団苦楽座を結成したのも、結局は君達がそれを感じて立ちあがった姿であると僕は見た。大いに、よしと思った。さすがに丸山定夫であり、徳川夢声であり、高山徳右衛門であり、藤原鶏太であり、八田尚之であると思った。つまり君達を立ちあがらせたものは、演劇文化の「兵士」としての意識だと僕は思ったのだ。
 ところが、この「兵士」達は立ちあがるや、いきなり、各自が幾分ずつ[#「幾分ずつ」は底本では「幾分づつ」]大将になろうとしはじめた。つまり、スタア意識で動きはじめた。また、この「兵士」達は、立ちあがるや、いきなり、いくらかずつ[#「いくらかずつ」は底本では「いくらかづつ」]各自の「稼業」の暇々に、そして大多数の稼業の暇々が好運にも一致した時だけ「戦さ」をしはじめた。つまり、各人が映画その他で稼ぐ暇々に芝居をすると言う事をはじめた。また、この「兵士」達は立ちあがる時に「戦死」の覚悟の代りに、どう転んでも、絶対に戦死の心配はないと言う「安心」をいくらかずつ[#「いくらかずつ」は底本では「いくらかづつ」]抱いた。つまり、苦楽座がもし失敗すれば、いつなんどきでも稼業の映画その他に舞い戻ればよいのである。
 それを見ていて、僕の心には、次第に疑問が生れ出した。この様な兵士達にホントの戦さが出来るであろうか? つまり、今日本が必要としている高い演劇を末永くやって行けるだろうか? この様な「兵士」達は、あまり立派な兵士で無いのではなかろうか? つまり、こんな演劇人達には良い演劇運動を背負って行く事は出来ないのではなかろうか? ……その様な疑問である。
 君達にスタア意識があり、稼業があり、暇々があり、食いはぐれがないという安心があると言う事が良い事か悪い事か僕にはわからない。
 また、君達を支配しているものが、その様な個人主義(スタア意識)や道楽意識(稼業の暇々に「純粋」な仕事をすること)や利害の打算(どう転んでも食いはぐれぬと言う安心)のみであるとは僕は思わぬ。やはり君達を動かしている気持の中心は、演劇文化を豊かにする事に依って国を富ませ強くしようとする意志であると思う。また、君達の仕事は漸く始まったばかりであり、そして一つの現実的な仕事を始める際には、現在われわれの置かれている地位や条件が理想的なものでなくても、そこから出発して事を起す以外に方法は無いのであるから、現在君達の持っている地位や条件の中に含まれている矛盾をとがめ立てすることよりも、今後、君達が君達の中心的意図と善意に基いて生成して行こうとする方向を是認し激励してやる事の方が大切であることも、僕は知っている。(そして、僕がこの手紙で以てしようと志している事は、結局に於て、それである。乞う通読せよ)
 しかし、そうであればあるほど、われわれは、われわれの兄弟がその中心的意図や善意を達成して行くのに、どう考えても邪魔になると思われる矛盾、場合に依っては、その中心的意図や善意を遠からずして放棄せざるを得なくなるに至るべき素因となり得る矛盾を自らの裡に持っている事に気附いたならば、それを指摘してやるだけの無慈悲さを持たなければならないのだ。ましていわんや、君の文章を以てこれを見れば、君達はその種の矛盾を剋服しようとはしていないばかりで無しに、却ってそれらをより強く掻き抱こうとしているらしい事が察知されるに於ておやである。
「今の日本にこそ高い演劇が必要だ……そのために私たちは役立ちたい」と君は言う。これは大望だ。同時に至高の発願である。よし。たとえ、その大望その発願が達しられなくても、それは問うに足らぬ。ただそれに挺身躬行すること自体の中に、われわれ演劇人が総がかりになって精進するだけの光輝と価値が存する。だのに、君達は、それと同時に一人々々スタアであり続けようとする。稼業に暇が有る時だけ、それをやろうとする。いつなんどきでも逃げ込める場所を自分一個のために留保して置くことに依り、安心しながら、これを果そうとする。果してこれが大望と発願に値いするか? 君の大望と発願は、唯単なるキャッチフレーズか口頭禅の類ではあるまいかと僕が疑うのに無理があるだろうか?
 われわれは神に祈る時に、すべての持物を置き、個の心の一切を放棄し、手をすすぎ口をゆすいでこれをする。それは法式ではなくて、われわれが神に祈ろうとする心のひたむきなものが、これを自ら命ずるのだ。事の自然なのだ。そして、それでこそ神はわれわれの祈りを嘉したまう。また、僕は知っている。戦場に於ける一人の工兵が、ただ一本の橋梁を此方の岸から向うの岸に泳ぎ渡す時に、自己の心身の既往の持物の一切を放棄断絶して、死ぬとも生きるとも思わぬまでの境にまで自己を自己の任務に集中する。これも、この兵士を強うるものがあってするのでは無い。国に尽そうとする一片の心があって、これを自ら命ずるのであろうと思う。事の自然なのである。そして、それでこそ兵士は自分の任務を果し得る。また、神への祈りや、兵士の事を言わずとも、われわれが日常生活の中でも、たとえば、何事かを真に強烈に得たいと望んだ時には、往々にして、その事のために前後の一切を忘れることがあるし、まして、その事に関連した利害得失を没却し尽し、又、尽してこそ真に大きな利得を得る――つまり望んだものを手に入れることが出来る。これも事の自然なのである。
 そして、今「高い演劇」は君達にとっての「神」では無いのか? 高い演劇を生み出して行こうとする事は今君達にとって国に尽そうとする志ではないのか? 高い演劇を担って行きたいと思うことが今君達の真に欲していることでは無いのか?
 しかも現在君達は、スタア意識も道楽意識も生活の安全保証も捨てようとしない。そこにはどんな種類の断絶も自己放棄も無い。在るものはせいぜい「映画の仕事が暇になったから、その暇をなるべく有益なことに使おう」または「映画の仕事の報酬の中から少しずつを[#「少しずつを」は底本では「少しづつを」]割いて(良心的な仕事)をしよう」と言った程度のシミッタレな「善意」だけだ。君達が払おうとしているものは君達にとって、殆んど言うに足りない程の代償である。それ程の代償で君達が購おうとしているものは「今日本が必要としている高い演劇」なのだ。虫が良過ぎると思う。あまりに虫が良過ぎる。「あれも欲しい、これも欲しい」なのだ。結局どちらかが嘘なのだ。どちらかが遊びなのだ。引いては、どちらをも嘘で遊びにしてしまおうと君達はしていることになるのだ。
 金持の旦那が、自身の品位をきずつけない範囲で暇々に、自分の財産にも身体にも心にも危険で無い範囲内で、義太夫にお凝りになる。それは、よい。自由であろう。しかし、それは、どこまで行っても――たとえその旦那の義太夫修業がそれ自体としてはホントに真剣であり、その成績が水準以上になったとしても、これを道楽と言う。たとえそれが「善意」に基いていてもだ。道楽はどこまで行っても道楽なのだ。そして、道楽は世の中に有って悪いものでは無い。しかし、その旦那が、その旦那である自分の地位を捨てないままで、文楽の紋下を望んだとしたら、どうなるか? 本職の義太夫語りは怒る。怒っても、しかし、旦那が無理に紋下に坐って語ったとしたら、どうなるか? その旦那は、遠からずして、血へどを吐いて引きさがらなければならぬであろう。
 君達は、その旦那だ。いや、旦那よりも更に悪い。義太夫を道楽に語りはじめようとしている本職の義太夫語りだ。即ち、芝居を道楽にやりはじめようとしている本職俳優なのだ。これを見れば本職演劇人は二重に怒る。僕が君達に対して抱く怒りは、その様な怒りである。それから又、僕が君達の前途に対して抱く心配も亦、その様な心配である。つまり、僕は君達――わが兄弟達に遠からずして血へどを吐いて引きさがらせるような事をさせたく無いのだ。
 君は「道楽だと言われてもよい」と言っている。馬鹿を言うな! 君達が「今日本に必要な高い」演劇のために役立ちたいと決心して本気で立ちあがったのが真実であるならば、それが道楽だと言われてよい事があるか! 絶対によく無い! ドロボウもしないのに人から「ドロボウ」と言われてもよいのか? 謙遜と卑屈とは違う。君達は、実は、その様に謙遜らしい卑屈な言辞を以て自分達のシミッタレな根性を蔽いかくし弁解しようとしているに過ぎないのではないか?
 今の日本が必要としている高い演劇を創り出し、それに役立とうと言う志は、現在の演劇人にとっては、最高にして至純なる目的である。それは、われわれが自己の持物の一切を放棄し、更に自己の心身の全部をあげて取りかかるのに値いする目的である。しかも、そうしても尚、果して達成する事の出来るか出来ぬか判らぬ位に困難な目的である。その様に光輝ある困難な目的に向って発心し発願しながら、君達は、それに向ってなにほどの代償を払おうとしているか? 全心身は勿論、払おうとはしていない。持物の全部を賭けようともしていない。ただ、君達の持物の一部分――その本業である映画その他の仕事で得た金の中から、自分の生活費を差し引いた残りの金の、そのまた一部分と、それから君達の「暇々」と、それから、君達を動かす動力としての善意では無くて君達の装飾品としての「良心」それだけだ。たったそれだけで君達は、この最高至純の目的を手に入れようとしているのだ。それは、先ず[#「先ず」は底本では「先づ」]愚かであり、そして、まちがっている。

      4

「しかし、そうしなければ、食えない。食えなければ、良い仕事を永続的にはやれない。そして永続しない仕事は、結局、良い仕事にはならない。だから、先ず[#「先ず」は底本では「先づ」]食う心配を無くしてから、とりかかるのだ」と君は言っている。
 一応もっともらしく聞こえる。それに、前にも書いたように、君には、君自身の体に叩き込んで来た、「新劇では食えなかった経験」がある。これは今、言葉の上だけで否定されただけでは、君にとっては思い直しようの無い事であろう。かつ、僕自身も亦君の言う「新劇では食えなかった経験」をして来たし、現在でも或る意味では、それを経験しつつある者の一人だ。
 しかし、敢えて僕は否定する。僕は言う。それは嘘だと。まあ聞きたまえ。
 それは僕が、言葉の上で否定するのでは無い。事実が、目に見える在りのままの事として否定しているのだ。まあ聞け。「食えない」と言うことを「食えなくなるであろうと想定する観念」や「食えなくなるかも知れぬ不安」や「カツカツに生きて行けるだけの貧乏」と解するのは、まちがいである。それはスコラだ。本当は「食えない」と言うことは「餓死する」ことなのだ。
 そして、昔から今に至るまで、新劇――と言って悪ければ、演劇を良心的にやっていて、そのために餓死した者が一人でも居るか? 僕は知らぬ。何かをしていて、また、よしんば何をやっていても貧乏する者はいるし、又、その貧乏の果てに病死する者はいる。人間は誰に限らず一度は死ぬのだから。しかし、良心的な演劇をやっていたために、その事だけのために餓死したと言える人は一人も居ないのである。事実としてだ。君の眼を蔽うている「不安」や「恐怖」や「伝説」の色眼鏡をはずして[#「はずして」は底本では「はづして」]事実そのものを見たまえ。遠くを見る必要は無い。君自身を見たまえ。それから僕を見たまえ。過去から現在に至るまで、どんなにわれわれが演劇のために打込んでいた時でも、餓死はおろか、君も僕も、二日位飯の食えない時は有ったが、七日間飯の食えない事は無かったではないか! また、家族や友人を餓えの果てにのたれ死にさせた事は一度も無かったではないか! また、病気になっても金が無くて医者にも見て貰えないし、薬も飲めなかった事はあっても、その病気のために君も僕も倒れてしまいはしなかったではないか! 事実を見るがよい。「ひどい貧乏」のことを、そのまま食えないと言うのは言い過ぎであるし、ただの感傷である。結局は、それは嘘なんだ。そんな感傷や嘘から出発して或る事を究明しようとしたり結論を下そうとするのは、まちがいである。「でも、芝居の仕事をやって居れぬ程まで貧乏すると言う事は、結局、演劇人にとって死である。僕の言っているのは、その事だ」
 と、君は言うかも知れぬ。正にそうである。そして、君が君の新劇余力論の殆んど唯一の拠り所としている理由も、これである。これまで、君の言う「善意」に出発して演劇の世界に入り、努力しても、経済的な窮乏のためにそれが続けられなくなって演劇を捨てざるを得なくなって行った人達が随分ある。その事実を僕は認める。
「だから、自分達は生活の道を他で立て……云々」と君は言う。「だから」以後を僕は認めない。ばかりでなく、その様な話の運び方は、サギを烏と言いくるめて、自分自身の虫の良い量見を弁護しようとする態度だと思う。なぜか?
 この場合も、事実がこれを証拠立てる。君が挙げている、これまでの新劇団なり新劇人達が「自分達を守るためにはこれで以て食って行かなくてはならぬ」と思い、腹をきめ、真剣に挺身したことがあるか? 僕は無いと思う。いや、思うでなしに、事実無かった。
 たとえば、君が実例としてあげている曾ての築地小劇場にしろ、それから新築地劇団にしろ、新協劇団にしろ、その最盛期に於てさえ、劇団全体としても成員の個々人にしても、たとえば歌舞伎の人達や新派の人達や前進座の人達や新国劇の人達、更にムーランルージュ一座やエノケンやロッパに較べてさえも、挺身の度合いは低くかった。その事実を細かに具体的に述べよとあらば述べるだけの資料に僕は事欠かぬ。一言に言って、僕をも含めて、これらの新劇団の成員は殆んど全部、金持の与太息子でなければ芸術的ルンペンであった。その観念に於ても行動に於ても、そうであった。演劇のために「真剣に」そして「持続的に」努力しているとは、どうしても言えない者達が大部分であった。口に「芸術」や「美」や「良心」や「階級」や「正義」をとなえても、それに依って自己の全生活を統一することも出来ぬはおろか、たとえば、そのためにたった一日の飯が食えなくなっても忽ち悲鳴をあげてうろたえ廻るような弱虫であり、また、たとえば、そのために守らなければならぬ稽古の時間一つ守れない者達であった。なるほど一回々々の公演の演目や稽古の点では歌舞伎や新派その他よりも「良心的」らしく見えた時もあった。しかし、その良心を持ち続けて永続して生かすことにかけては殆んど無力で怠慢であった。その他、等々、挙げれば限りが無い。しかも、この者達の挙げる「口舌」の壮大さはどうであったろう。口先きだけでは殆んど宇宙大の目的を云々しながら、実際に於ては、エノケン一座やインチキレヴューの半分の挺身もしなかったのだ。それは丁度君が現在「わが日本のために必要な高き演劇」を担うために、実は君の持っている全力量の七分の一か八分の一を出して苦楽座をやろうとしているのに似ている。
 それでいて「食えない」と言う。食えないのが当然なのである。君が「食えなかった新劇団」として挙げている新築地のしていたようなやり方――エセ知識階級の持っているあらゆる高慢さとルンペンの持っているあらゆる怠慢さを以て、せいぜい一年に三回か四回の公演、しかもとぎれとぎれの手段と気分を以て行われる演劇活動を以てしては一時不完全にでも食えた方が不思議なのである。「これこれでは食えない」と言いたいのならば、一事を専念に持続的にやって見た上からにしてくれるがよい。懸命にもならないで、「食えない」などとは、片腹痛い言い草である。それはまるで不良少年がホンの時々二三日ずつ、しかも道楽的な方法で正業に従事して見て、その結果「これでは食えない」と言ってその正業そのものをくさすのに等しい。勿論、僕は、他のみを批難しているのでは無い。僕自身も一時その様な不良少年であった。君も亦そうであった。君と僕との違いは、現在、僕はその様な不良少年(青年? 又は中年?)にはなりたく無いと思っているに反して、君が尚も性こりも無く不良青年でありたいと志している点だ。即ち僕が苦楽座ならびにすべての苦楽座的出発点に決定的に反対しているのに反して君は苦楽座の出発点を極力是認し、かつ、すべての苦楽座的道楽演劇を弁護することにヤッキとなっているのだ。
 全体、現在のわが日本は、非常に良い国だよ。神がかりを言っているのでは無い。又、急に「国士」にでもなった気で言っているのでは無い。又、抽象的観念的に「高級」なことを言っているのではない。誰の目にも見える即物的なありのままの事実として僕は言っているのだ。わが日本は良い国だ。見たまえ、わが国民にして極く普通の意味で忠良な人間でさえあれば、上は「演説使い」から、下はシャツのボタン穴をかがるだけの事しか出来ぬ半職人に至るまで、餓えては居ないのである。自分の仕事を、普通の意味でまじめに行っている者ならば、一人として道に餓えて倒れ死んだと言う人は居ないのだ。
 ましていわんや、「今日本が必要としている高い演劇」――言葉を代えて言えば「国家的」「良心的」演劇をやろうとする者をやである。どうして日本がこれを餓えさせることがあるものか。又事実、餓えた者はいないのだ。
「いや、それでも餓える恐れがある」と言うならば、それを強いて事実を曲げようと意図する者か、又は殆んど故意にわが国を誣いようとする[#「誣いようとする」は底本では「誣ひようとする」]徒に近い。でなければ、「今日本が必要としている演劇」と言うのが真赤な嘘であって、実はその様なもっともらしく神聖な言葉の隠れ蓑の中で、私利と私慾を計ろうとする徒輩か、一般的・自由主義的・国際主義的「良心」――即ちいつなんどきでも「敵性」となり得るしろものを国民の間にばら撒こうとする徒輩であろう。
 僕は一時の昂奮にかられ、のぼせ上って、この様な事を放言しているのでは無い。ごらん、僕を。曾て、自分だけでは真面目なつもりでも客観的には全く量見ちがいをして一時左翼的思想に頭を突っ込みそして、その誤りに気附くやサッサと其処から抜け出して来たばかりでなく、その後と雖も物を書く筆を折りもしない無節操漢であり、しかも一年にせいぜい二三篇の戯曲を書き得るに過ぎない程に遅鈍にして病弱なる怠け者である此の僕でさえも、普通の意味でコツコツと戯曲を書いてさえ居れば、わが日本は餓えさせないで生かして置いてくれているのだ。勿論、それは先輩知友のすべてに厄介をかけながらだ。現に君からも物質的にも精神的にも助けて貰っている。しかし、その先輩知友も君も、一人残らず「日本」なのだ。いや、それこそ僕にとっての「日本」それ自体なのだ。将来とても、日本は決して僕を餓えさせはしない。その点で僕は全く楽観的だ。
 かくの如き僕にして然り。まして、君も徳川夢声も高山徳右衛門も藤原鶏太も八田尚之も、それからそれに類する殆んどすべてのわが兄弟達も、僕より有能であり有徳であり健康であり勤勉であることは間違いが無い。しかも、それらの人人が力を合せて「国のために」なる仕事(演劇)をしようと言うのに、餓える恐れが有る?
 僕には信じられない。事実として信じられない。僕がそれを信じるという事は、僕が日本を信じられなくなった時だ。そして僕は日本を信じているのだ。だから丸山定夫よ、馬鹿も休み休み言えと言うことになるのである。馬鹿と言われて腹が立つならば、丸山定夫よ、君の全心身をあげて苦楽座をやった末に、餓死して見せてくれ。

      5

 言うまでも無く僕が「どんな仕事であれ、それに全心身を打ち込んでコツコツやって居さへすれば、事実として食える」と言っているのは――その「食える」と言うのは、文字通りの意味で言っている。生活がやって行けるという意味である。富豪のように、重役のように、金利生活者のように、スタアのように、贅沢に暮らせると言う意味ではない。
 まして芸術家(ここでは俳優や劇作家のこととする)は、もともと自分の好きな事をしている専門家である。農業者や工員その他に比して、より高い収入や、より贅沢な暮し方を自分の方から要求しようと言うのは間違っている。
 君の「まず食わなければならぬ」と言う言葉が、もし贅沢に(即ち日本国民の平均生活費の三倍も四倍もの生活費を使って)暮さなければならぬと言う意味であるならば、先ず君は言葉の使い方を知らないと言わなければならぬし、更にその様な君の考え方は間違っていると言わなければならぬ。
 君達は「かつて新劇運動に参加し、それを続けて行くために窮乏の暮しに堪えていた」それが遂に「堪え切れなくなって第一線を離れ糊口の業をするように」なった。そして現在、君達の大部分――と言うよりも殆んど全部が、僕の概算に依れば平均約二百円から三百円の月収を映画その他から得ている。苦楽座の同人諸氏に至っては大体三百円から千円に至る月収を得ている。それはそれでよい。君達にはそれだけの商品価値が有るのだから、多過ぎるとは言えない。むしろ、それでも足りない位だと思う。
 ただ、君達は、いつの間にか、その様な収入に馴れた。それを手一杯に使って暮す暖かさに馴れた。その暖かい席から自分の尻を持ち上げるのが、おっくうになってしまった。しかも、その様な席から「窮乏していた新劇時代」を振返って見ると恐ろしくなる。その時代に別に餓死に近い目に会ったわけでもないのに、恐怖は君達に「食えなかった」などと言ううわごとを言わせるのだ。
 しかも、君達の芸術慾や演劇愛は、まだ死滅したわけでは無いので、君達を駆って何かやらせたがる。現在の暖かい席に落着いて居れない。そうかと言って、暖かい席を離れ切りにもなれない。いきおい、その席に坐ったままで、又は半分ばかり坐ったままで、君達の言う「良心的」な「純粋」な芝居を「いじくり」はじめた。それが苦楽座だ。そして、その様な虫の良い自己の態度を自ら弁護するために、この席を離れてしまって全心身を賭して芝居をやれば「食えないから」と放言しているのである。
 君達をその様にさせている不安や恐怖や危懼の心理は、僕にもわからぬことはない。
 しかし君達のその様な態度は、丁度ヌクヌクと安楽椅子にふんぞり返って居られる金持が、道楽に魚釣りに出かけて、「魚が一匹も釣れないでは、俺は食えなくなる」と心配しているようなものだ。また、ダンケルクから敗退したイギリス軍が、英本土まで逃げればよいものを、恐怖のあまりカナダの方まで逃げ去ってしまったあげく、カナダの安全さに馴れてしまって、「英本土に戻りたいが、戻るとドイツ軍に殺される」と心配するのに似ている。しかし、まだそれだけならよい。許すべからざるは、その様な心配を言葉に出して呼号する事に依って、現に魚を釣って生計を立てている本職の漁夫、又はこれから本職になろうとしている漁夫の子達を全く有害な不安に陥れたり、全軍の将兵に全くいわれの無い恐怖を与えて戦意を失わせてやろうとしている点だ。つまり、真剣に「高き」演劇に挺身し、又挺身しようとしている良き演劇人達を嘘偽の――少くとも真偽不明の言説を以て萎縮させようとしている事だ。しかも、それを「良心」や「純粋」や「国」の名に於てしている事だ。
 君達、虚妄にとりつかれた「新劇くずれ[#「くずれ」は底本では「くづれ」]」どもは、何かと言えば過去を振返って「生活の苦難」を言う。苦難?
 どこに、苦難と言うに値いするものが有った? 酒が飲めない、御馳走が食えない、一ヶ月三十円しか収入がない、三日食えなかったことがある……等々々。それが苦難か? 苦難と言う言葉が泣くであろう。われわれの志は、たかがそれ程の事を「苦難」と称して自ら誇り、しかもその事から尻込みし、今後とも尻込みする程に浅薄なものであるのか?
「芸」のため「道」のために、文字通り一生を粉骨し砕身して尚足らずとした先人達に、われわれは恥ずべきである。先人の事を言わずとも、現に、われらの目前に於てわれらの兄弟達である将兵諸氏が、どの様な状態の中で戦ってくれているかを想い見ればよい。食も無く水も無く、炎熱又は酷寒の道を一日に十里十五里と歩み行き、しかもその末に敵の十字砲火の中に身をさらす。苦難とはその事だ。それが苦難と言うに値いする事である。われわれ芸術にたずさわる者達が、芸術の事に専念するために味わなければならぬ少しばかりの不自由を苦難などと言うのは僣越の限りであろう。
 又、偉大なる先人や将兵諸氏の事を言う事が懼れ多いとならば、言わずともよろしい。現在の国民大衆がそれぞれの業務にセッセとたずさわりながら、どれ程の労苦をしのいでいるか、そして、どの程度の生活をしているかを見てみるがよい。
 そして、演劇人と雖も国民大衆の一人々々である。一般の国民大衆の平均生活以上の生活をしてもよい資格は無いのだ。同時に、一般の国民大衆と同程度の生活(大体六十円から百円迄位の生活)をしようとさえ思えば、どの様な演劇人でも、コツコツと演劇の仕事にはげんでさえ居れば、それがどの様に「高い」演劇であろうと、どの様に「低い」演劇であろうと、チャンと暮して行けるのだ。現に暮して行けているのだ。
 三百円も千円もの収入を得て贅沢に馴れスタア意識に毒されてしまった阿呆共が、自分で自分の「伝説」に縛られてしまい、「良い仕事のためにならば千円の月収が百円になってもよい」とは思わないで口先きだけは「良い仕事」をやると称しながら、千円の月収にかじり附いている――これを、これこそ怯懦と言う。千円の月収のある者が百円の月収のある者を見て「とてもそれでは食えない」とデマる――これを、こそこそインチキと言う。
 君は、その様な意味で怯懦であり、その様な意味でインチキであるのだ。そして君以外の苦楽座同人諸氏、それから新劇くずれ俳優の中の或る者達、それから今の世に時めいているスタア格の俳優達の殆んどすべてが、そうである。今、われわれが一丸となって戦い抜かなければならぬ未曾有の国運の中にあって、自分の坐り込んでしまった「特等席」を離れることは「良心」の名でも「高いものの」名でも「国」の名でも、いやでござると言い放っている事を意味している。殆んどそれは獅子身中の毒虫の行為だ。
 なるほど、新劇――芸術的に良心的な、その手段に於て高い演劇――の観客は、現在のところ、他の演劇の観客に較べて、非常にすくない事を僕も認める。しかし、その劇団の経営・製作・持続などがよろしきを得るならば、――と言う意味は、理想的にうまく行けばと言うのでは無くて――専門劇団として普通の平均水準まで行けばである――今わが国に専門的新劇団の三つや四つを常置存続させて行くに足る程の数の観客は存在していることを、僕は断言する。せよとあらば、その計数の概略をも示すことが出来る。
 勿論、その様な劇団には、現在映画会社その他がスタア級の俳優に払っているような高額の報酬は払えないであろう。又、それらの劇団は、その成員の一人々々に、ただ時々痙攣的に片手間的に劇団活動に参加することを許しはしないであろう。全幅的に恒常的に永続的に劇団活動をすることを命ずるであろう。
 そうすれば、それらの劇団はその成員全部に、少くとも毎月四十円から百円までの月給なり分配金なりを支給することが出来る。つまり、全員は、食える。勿論、その創立初期に於ては、又時に依って或る時期に於ては、種々の原因から赤字を出すかも知れぬ。しかし、すべての仕事には、時に依って赤字や借金は附随するものだ。赤字や借金の存在が即ち「食えない」と言うことにはならないのである。借金して食って行きながら仕事をして行くことも「食える」内なのだ。理窟ではない。事実として、そうではないか。
 いつでも、そして、いつまでも黒字ばかりでやって行ける事業や運動が世の中に在ると思うか。君の頭の中から、すべての妄想と恐迫観念のクモの巣を払い去って、事実をありのままに見るがよい。

      6

 君は更に、かつての新築地劇団その他を回想して、「食えるときめて割出した人件費を毎月捻出しなければならぬ苦しさから、やがて知らず知らずの間に針路が曲るようになった。仕事……演目の配列などに濁りが生じて来た」と言っている。
 これは僕には非常に奇怪な言葉に響く。それ自体としても奇怪であるし、特にそれを君が言うのは尚更奇怪である。奇怪で、そして、まちがっている。なぜか?
 先ず、新築地劇団その他の新劇団に、針路と名づけるのにふさわしいものが有ったか? 無かった。有るものはただ、社会と国家の実際生活から遊離し得るだけ遊離し切ったエセ知識階級の一人よがりの「芸術的良心」と「進歩的気分」とが許し得る限りの右往左往と、あれやこれやの選択と、それから、実際生活の責任と自信とからくる全く見離されたルンペンの頭が描くあれやこれやの物への無反省無計画の追随とが有るだけであった。これも言えとならば、実際の実例をあげて証拠立てることが僕に出来る。それは、なるほど「芸術方針書」などと言う紙の上には在った。また、外部に対する言葉の上だけには在った。しかし、実際に於て――つまり、その劇団の個々人と全体を実際上統制し統一するものとしての針路は無かったのである。そして、無い針路が曲り得るか?
 次に、「演目の配列などに濁りが生じて来た」と君は言っているが、僕は問いたい、新築地その他の劇団の演目の配列その他が澄んでいたことが有ったか? 演目の配列が澄んでいたと言うことは、それらの劇団の総意が命ずる所に第一義的に緊密に結び附いた演目の配列と言う事を指すのであるが、その様な時期がそれらの劇団に有ったか? 無かった。澄んでもいなかったものが、濁る筈は無いのである。
 だから、この様な言葉で以て君がホントに言いたがっている事は、そんな事では無いのだ。実は、実際に於て君が「その劇団のやりかたに不満を抱いた」ためにサボらざるを得なかった程にダラシの無かったところの新築地劇団の、実際上は存在もしなかった「針路」や「清澄」を今更になってそれが厳然として存在していたかの様に言い作ることに依って、それらの「針路」や「清澄」さの神聖さをデッチあげ、それらの神聖さを歪め、けがすものとしての「食うと言う建前」を有害なものとして、おとしめようとしているのだ。それが君の目的なのだ。これは二重三重の陥穽である。虚妄の上に虚妄を畳み上げ、その上に更に虚妄の言葉を置いて「さあ、これが真理だ。これを拝み、これに従え」と君は言っているのだ。
 なるほど、どんなにダラシの無い全体性に欠けた劇団にも、その全員又は一二の個人が、漠然とした形で、「おれ達は本来、こんな風な演目でこんな風な芝居をしたいんだ」と思う事はあり得る。そしてこの事は、普通考えられているよりも、当の劇団にとっては大事な事がらである。新築地その他の新劇団にも、それは有った。そして、結局は、その様な気分が、非常にダラシの無い現われ方と経過をとって、それらの劇団のその時その時の「やり方」や演目を決定して行った。しかし、もともと、その様な気分は緊密な鍛錬を経て来たものでは無いので、それの生んだやり方や演目が、往々にしてその劇団の経営的な必要と矛盾したり相剋したりした。言葉を換えて言えば、劇団の芸術的意図と経営的必要とが衝突した。そして或る場合には前者が勝ちを占めて後者が無視された。或る場合には後者が支配して前者が第二義とされた。そして全体を通じて見ると、後の場合の方が多かった。
 君の言葉が、この現象を指して言われているものとすれば、その言い方と、それから引き出されている結論との全き誤りと悪意とを問題外にすれば――つまり君の言葉そのものは、それだけとしては当っていることを僕は認める。そして、その限りに就ても僕は次のように言う。
 その様な、芸術的意図と経営的必要との相剋は、あらゆる劇団の場合に避け得られないばかりで無く、それは起る方がよいし、起らなければならぬ事である。なぜならば、劇団の経営という事は、君が思い、かつ言いたいと思っているように、その劇団の芸術運動の外にあるのでは無くて、その劇団の芸術運動の一部分だからだ。経営無くして芸術運動は無いのである。営利劇団に於て経営が芸術的意図や方針の外に存在しているのは、その劇団が芸術運動では無くて、営利の対象であるからだ。つまり商品だからである。芸術運動としての劇団に於ては経営は外に存在してはならぬし、また概して外に存在し得ないものである。従ってこの二つは、劇団の内部に於て相剋するのが当然であり、相剋した方が、より良いのである。相剋して運動全体を駄目にしてしまうものとしてでは無く、相剋した結果として運動全体をより高くより強力になすものとして、相剋は有った方がよいのである。それでこそ初めて、芸術的意図の中で現実から浮き上ってしまったマヤカシモノの「芸術至上主義」[#「至上主義」」は底本では「至上主義」]や、ただの装飾に過ぎない「良心」などが、経営の必要の中に正当に含まれている観客大衆の健康な嗜好や意志に依って叩き出され、矯正される。同時に、経営的必要の中に含まれている誤った事大主義や大衆追随主義などが、芸術的意図の中に正しく含まれている真の文化・芸術への高き意志に依って叩き出され矯正されるのだ。双方の偏向が互いに矯正される可能性が、そこから生れるのである。勿論、この二つの相剋は一つ一つの実際上の結果としては、時に依って妥協の形で現われる事もあるだろうし、又、征服被征服の形で現われる事もあろう。その様な妥協はしなければならないのだ。その様な征服被征服はあった方がよいのだ。なぜならば、言葉のホントの意味ではその様な妥協は決して妥協と呼ばるべきもので無く、征服被征服と呼ばるべきものでも無いからだ。その事に依って当の劇団が一つの全体として、より健全に仕事がして行ける――即ち芸術面でも経営面でも無理なく一歩々々とより高い方へ近づいて行ける事だからだ。言うまでも無く、その様な歩みは非常に遅々としか進まない。たとえば、旧築地小劇場が「土方伯爵家の財産を食いつぶす」ことに依ってなし得たような「芸術的に高く純粋な」仕事を、それ程急速にやる事は出来ない。同時に、あらゆる金儲け主義劇団がすべての良心と誠実と善意を侮辱する事に依って成しとげているような「食えて尚余りある」仕事を、それ程急速にやる事は出来ない。そして、やれないのが本当なのだ。やってはならないのだ。なぜなら、右にあげた二つの行き方は、それぞれ全く不健全であり、そのまま「亡びの道」に通ずる事がらであるからだ。
 遅々たる歩みではあっても、絶えず打ち叩いて来る経営的必要(つまり食う必要)の抵抗に向って芸術的意図の本質を守り抜いて行き、同時に、絶えず激発して来る芸術的意慾(つまり純粋な高い芝居をやりたいと言う慾望)の抵抗に向って経営的最低線を確保して行く――この二つを統一的に調和的に実践する努力を忍耐強くやって行くことのみが、真に健全なる「栄えの道」である。そして、そうであってこそ、その芸術的意図は正しく芸術的意図と言う言葉に値いするし、その経営的必要は正しく経営的必要と言う言葉に値いする。
 そして、右の様に堅実な芸術的意図も、右の様に堅実な経営的必要も、従って勿論、この二つのものの調和統一に対する忍耐強さも、新築地その他の新劇団には薬にしたくも無かったのである。有るものはただ、或る時は芸術的意図だけを文学青年的、芸術至上主義的、感傷主義的に抱きしめて他を顧みず又別の時は経営的必要だけを商人的、ユダヤ人的、サラリーマン根性的に抱きしめて他を顧みぬと言うテンヤワンヤだけであった。そして、経営的必要のために芸術的意図のホンの少しばかりが差し引かれると、「俺達の芸術運動の針路は曲ってしまった。濁ってしまった」とわめき立てるか(丁度君がしているように)又は芸術的意図のために経営的な困難が少し起きると「これでは食えんから、もう駄目だ」と泣きベソを掻く(丁度君がしているように!)と言う、殆んどヒステリー患者に類する狂躁状態だけが君達を支配したのである。この狂躁状態は君の裡に今尚続いている。そしてそれが君に、此の章の冒頭に引用したような言葉を吐かせ、虚妄の上に虚妄を築かせているのだ。僕が「この言葉はそれ自体としても奇怪に響く」と言ったのは、その事だ。
 次に「特にそれを君が言うと尚更奇怪である」と言うのを説明しよう。
 説明する必要から、百歩を譲る。で、仮りに君の言う「新築地では食えなかった。食えないものを無理に食おうとしたために新築地の針路は曲げられ、濁った。その食えないと言う事にも堪えられなかったし、針路の曲りや濁りにも我慢出来なかったので自分はその様な仕事から身を引いていた。しかし尚、演劇への愛情のやみがたいものを持っている自分達は、今の場合こうするのが最善だと思うので、食う道を別に持ちながら良い仕事をしようと思って苦楽座を結成した」と言う言葉を、そのまま文字通りに真実として肯定して見よう。……さあ丸山定夫よ、水に落ちて溺れようとしている君を救うために僕は一本の藁シベを投げ与える。すがり附きたまえ。やがて直ぐに僕はその藁シベをも君の手から取り上げて見せる。乞う、次を読め。
 そこで、苦楽座結成に至る君の論理のすべてを僕は肯定した。あとは、君自身の論理を使って行く。苦楽座は、食うための手段を他に持った者同志の劇団なのだから、差し当り苦楽座自体の仕事の収益で以て食わなくとも済む。従って、その方針や演目の配列は食う必要を顧慮しないで実施出来る。と言うよりは、それが取り柄で苦楽座は始められたのだ。すれば、苦楽座の方針や演目は君等座員達の芸術家としての芸術的意慾を第一義的に具体化したものである。
 そこで苦楽座の旗挙公演のやられ方(方針)と演目の配列を見ようではないか。
 それはスター・システムでやられた。演目は各スター達の「これは俺の出し物、これは俺の出し物」と言うので決められた。俳優が足りないのは、あれやこれやの雑色の不統一な俳優達が掻き集められた。又は、どう言う理由か僕には判らぬ理由で(なぜなら苦楽座はそれで以て食う必要は無いのだから従って「当てる」必要はないのだから)「大いにポスター・ヴァリューを考慮して」人気だけ有って演技力を殆んど持たぬレヴューガールなどまで掻き集められた。稽古日数は、ひいき目に見ても充分とは言えなかった。三つの演目の間に一貫した方針も調和も統一も無かった。その演目の一つ一つも意義や美しさに於て欠けていた。つまり良くなかった。(この事に就ては、もし君から質問が有れば、良くなかった理由を具体的に述べる事が僕は出来る。また、それだけの責任を自分の言葉に負いたいと思う)
 準備期間が足りなかったとか、脚本が他に無かったからとか言う弁解は、この場合有り得ないのだ。なぜかと言えば、君達にとって食う必要こそ芸術的方針や演目を歪めたり濁らしたりする最大の理由なのだから、その食う必要を顧慮する必要の無い苦楽座が、誰が考えても芸術的方針を歪め演目を濁らせるところの準備期間の不足や脚本の不足を我慢しながら芝居をやる必要は初めから無かったのだ。従って、苦楽座旗挙公演の、このやられ方や演目が、君達の芸術的意慾の第一義的な現われと見てよいのである。(記憶せよ、僕がこの結論にたどり附いたのは、君自身の論理に依ってである)
 これから先きは、僕自身の見る眼だ。さてそれで僕の眼には、この様な芝居のやられ方が、真直ぐな方針に基いたものとはどうしても見えないし、この様な演目の配列が澄んだものとは映らないのである。むしろそれは曲った針路――と言うよりも初めからクシャクシャに曲りくねったボロクズの様な針路、早く言えば針路とは言えない針路に依るものの様に見えるし、また、それは濁った演目――と言うよりも初めからドブドロの様に濁った演目、早く言えば澄むとか濁るとか問題にならぬところの演目の様に見える。その曲り方や濁り方は、君の「食う必要のために曲った針路を取り、濁った演目」に堕した新築地劇団の方針や演目に較べても、苦楽座旗挙公演のやられ方と演目は、より曲って居り、より濁っているとしか僕には、見えないのである。しかも、ショッパナからである。これも、もっと具体的に実証せよとあらば僕はするつもりだ。
 すると僕には、君の「食えないから……」と言う文句から始まって展開された言葉と論理の全過程が、ひっくり返り、こわれてしまったように思われる。言うまでも無く、君にも同様に思われる筈だ。
 従って、あにはからんや! 芸術方針を曲げたり、演目の配列を濁らしたりする原因は、君の言う「食えないのに、無理に食おうとする」からでは無かったのだ。少なくとも、食えないからだけではなかったのである。それごらん。君の手から最後の藁シベを僕は取り上げてあげた。君は、どうする? どう答える?
 そこで、前に別の言葉で言ったように、或る劇団の芸術方針の歪曲や演目の濁りは、他なし、その劇団の芸術的意慾の衰弱から起ると僕は思う。衰弱した芸術的意慾は、ホンの少し痛めつけられても悲鳴をあげるものである。チョットばかり「食えなくなって」さえも、それに堪え切れないのである。
 かつての新築地その他の新劇団はいろいろのやむにやめない原因から、殆んど慢性的に衰弱した状態であった。そして君達の苦楽座は、別に何の原因も無いのに――少なくとも僕等には見当の附かない原因から、初めから衰弱している。多分、もう暫くすれば、苦楽座のあげる何かの種類の悲鳴を聞けるであろうと僕は思っている。

      7

 次に君は言っている。
「一つの劇団、又は一つの演劇運動は永続する必要がある。永続とは忍耐と聡明である。忍耐と聡明は熱情と勇気より尊い。花よりも実が尊いように」
 正にその通りである。僕の言いたい事をソックリ君が言ってくれている。
 だから――と僕は次に言う――君は、他ならぬ新築地劇団の指導的なメンバーの一人であったのだから、その新築地劇団を永続するように全心身の努力を払ってくれればよかった。それを君はしなかった。少しばかりの貧乏に耐え切れずに君はそこから逃げ出してしまった。しかしこれはもう既に過ぎた事であるし、かつ新築地が永続する事が出来なかった理由は、後述するように、主として他の所に有ったのだから、此処では言わずともよろしい。
 だから、と僕は次に言う――君は苦楽座を永続させてくれるがよい。これは反語では無いぞ。僕が今この様に君を打ちたたく言葉を吐き散らしているのも、結局、せっかく始めた君達の苦楽座を永続させて欲しいと僕が望むからである。そして、今のままの性格を持ちつづけて行ったのでは苦楽座は健全な姿では決して永続する筈が無いからである。
 永続する筈の無い、又永続させてはならぬ性格を持ったものを唯単に形の上だけで永続させることは真の永続では無い。その様なものは叩きこわすことこそ真の永続である。永続性と言うことは、劇団や演劇運動にとっては非常に重要なことではあるが、しかし、何が何でも――つまりその本質がどんな風になってしまっても、ただ形の上だけで永続しさえすればよいと言うのは、まちがっている。その本質に於て永続さすべきで無いと言う事がハッキリしたら、その瞬間にそれは打切られなければならぬ。
 過去に於て、新協劇団や新築地劇団等が、癒すべからざる思想的過誤と、芸術至上主義的陥穽に陥ちたのを見て、僕は即時解散を主張した。それは聴き入れられず、反対に、僕は「裏切者」と呼ばれた(十数年以前)。僕はやむを得ず、両劇団の属していた団体から脱退して、ひそかなる自信と光栄の裡に「裏切者」の名に甘んじた。なぜならば、既にその三四年前から、新協劇団や新築地劇団などの演劇運動の基礎をなしていた思想(つまり、それ以前までは僕もその中にいたところの思想)を自身の裡に於て崩壊させてしまい、その根本的な誤りに気附いたために、自ら進んで実際上その思想を裏切っていたからである。僕に冠せられた「裏切者」の名は、少しばかり時期遅れではあったが、至当なものであったのだ。とにかく僕の即時解散の主張は無視され、新協劇団や新築地劇団は続けられた。それまではまだよかった。次第に、そして自然に、新協劇団や新築地劇団の中でも左翼的思想は崩壊して行った。そして、その時に両劇団は解散して居れば、まだ、よかった。しかし、それをしなかった。事態は自然に更に悪くなって行った。
 そして、ただ漠然とした左翼的態度や左翼的気分だけが、一つの習慣乃至後味として残り、それを中心にしてダラダラと芝居は続けられた。一面から言えばそうしている方が、極く卑近な対世間対ジャーナリズムの態度として有利であったからである。なぜと言うに、その頃まで一般の社会に、特に新劇の常習的観客をなしていた「知識階級」の中に、未だ非常に多数の同様漠然とした左翼的態度や左翼的気分が残っていて、それに迎合したり、それらを引き附けたりする事は、これらの劇団の、たゞ単に経営的劇団としての存立にとって必要であったからである。そして両劇団とも「永続」しつゞけた。つまり曾て「政治的」「イデオロギイ的」劇団であった両劇団が、既に真の意味では政治的でもイデオロギイ的でも無くなってしまってからも、その政治やイデオロギイのシャッポをかぶっているような、かぶっていないような、甚だ怪しげな姿で以て「永続」しつゞけた。ことわって置くが、僕がこれを言うのほ、僕が自らを清しとして、他の古キズをとがめているのでは無い。又、自分の「先見の明」をひけらかすために言っているのでは無い。言わねば話がわからぬから、事実を言っているまでである。もし「先見の明」を誇って、とがめているとするならば、僕は自身をも含めてとがめているのだ。なぜならば、既にその様なものになり果てた両劇団からさえも、外部の一個の劇作家として乞われゝば、そして、その時に表明された両劇団の思想的、社会的立場を、その時僕が承認した限り、僕は、上演戯曲を提出した事が両三回あるからである。
 で、とにかく、そんな風にして両劇団ともつゞいて来た。その「永続」は、形の上だけの永続であった。一言に言って、悪質の永続であった。まして、君の言う「忍耐」にも「聰明」にも当らぬ、むしろ反対に「未練」と「愚昧」に起因する永続であったのだ。僕は、その頃から今に至るまで、この自分の見解を公けの席で公言し、公けの場面に書いて来た。しかし、誰もそれに耳を傾けようとはしなかった。勿論、両劇団はそんな意見に全く耳をかさなかった。僕も遂に言うことに飽きた。両劇団はその後も、あたかも切れ切れなること牛の小便の様にではあるが、同時に、いつ打ち切られると言うことも無い点でも、牛の小便の様にタラタラと続いた。そしてそれは恰も半永久的に続くかに見えていた。そして三年前、両劇団とも当局のすすめに依って、辛うじて打ち切られたのである。
 君は「新築地劇団は過去の或る時期に犯した思想上の誤りからその命脈を断ったが、でなくても上述の錯誤(=もともと食える筈の無い劇団が、無理に食おうとして無理をしたこと)から、早晩その永続性を失う運命……解散或はそれに近い大改造を要する運命にあった」と言うが、真実は「命脈を断った」の所までゞあって、「でなくても」以下は全部嘘である。新築地は、幸いにして当局の明断に依って解散させられたからこそ、やっと、つぶれる事が出来たのだ。もし当局の明断が無ければ、新築地は、生きているか死んだのかハッキリしないような姿で、ダラダラと生き続けていたに違いないのである。切っても切っても生きつづける単細胞動物の様にダラダラと現在までも今後も形の上だけでは「永続」していたに違い無いのだ。こゝに於てか、これを解散させ打破らせた当局の明断は、世間のために幸いなことであった事は言うまでも無い。ばかりで無く新協新築地両劇団のためにも幸いであった。勿論、僕は喜んだ。
 此処までの経過を一つのたとえ話にすると、或る一家が在って、その家は既に久しい前から、実質的には没落と言ってよい程の紊乱状態にあった。ただ今までの習慣と惰性とで形の上だけで一家として存在しつづけてはいても、家族達の混乱と放埓はその後も益々紊乱状態をひどくして、それは殆ど収拾のつかぬ程の有様となっていた。しかも此の一族の全体を支配している気分は、それ自体として何等明確なものではなくても、社会にとっては一種有毒な空気を発散していた。
 親戚に一人の伯父さんがいて、これを心配した。許して置けなくなった。遂に見るに見かねて、乗り出して来て、この一家の財産整理にかかった。整理は、とにかく済んだ。一家は離散させられた。しかしそのために子供達の一人一人は、とにかく存立して行けるようになったのである。……それを聞いてそのズット以前に此の一家から勘当されて出奔していた息子の一人(即ち僕)は、よろこんで、ヤレヤレと思った。
 そこまでは、よかったのである。そこから先きがいけない。と言うのは、その伯父さんは一家を離散する際に子供達の一人々々に、今後まじめにさえやって行けば、それぞれに身を立てて行くに足るだけの資本は添えてくれた(それは何かと言えば、芸術家としての良心と技術である)。ところが、離散して一人々々になった子供達の中で、その資本を妙なところに使いはじめた者が出て来た。その或る者達はバクチや投機にこれを使い出した。(即ち曽ての新劇人達の中で、あれ以来、映画でござれ芝居でござれ、金にさえなれば、そして少しでも多い金にさえなれば、その余の事はどうでもよいと言う「お役者根性」になった者達がいる。そして運良く、思いがけない金=月給にあり附いたもので、トタンにのぼせあがってしまって、小成金になった気の者が相当居ることは、誰もが知っている)。或る者は、せっかくの資本で、女買いをはじめた(即ち、演劇(=女)に惚れた惚れたと言いながら、実はホンの時たまのインギンを通じたいだけの気持で、自身の身体にも自身の財布にも決定的な危険を及ぼさぬ範囲内で芝居をしようと言う者達――即ち君もその一人だ――が現われて来た)。等々々。
 曽ての勘当息子が、これらを見聞きしていれば、心外に思うのは当然であろう。第一、せっかく、チャンとして今後やって行くように取計らってくれた伯父さんに対して済まないのではないかと思うのだ。
 即ち僕は、それらを心外に思う。当局(引いては国家社会)に対しても、それでは済まないのではないかと考える。此の際こそわれわれは、腹のドン底から自戒し自粛して、国家と自己の関係、文化芸術と自己の関係を洗い突きつめ、鍛えて浄めて、国家の子としての誠実と、文化芸術の僕としての良心に徹することに努めた上、文化芸術の事を為すには全身全心の誠を以てこれに当るに非ずんば、過去における過誤を償い得ないばかりでなく、われわれ自身をも遂に真に救い得ないではないかと僕は思うのだ。
 しかも、演劇に対して女買いが女にするのと同じような事をしているその君が、自身のその様な中途半端な放蕩心を蔽うためにミソもクソも一緒にした「永続性」の必要と言う言葉を使っている。僕は君のために惜しまざるを得ないのだ。
 なるほど君達苦楽座の座員諸君は生活の道(しかも、かなり裕福な生活の道)を映画その他に持っていて、その余力で苦楽座をやって行くのだから、その生活の道が断たれない限り、苦楽座は「永続」するであろう。丁度、女買いが自分の生活費から女買いの費用を楽に捻出し得る限り、女買いを「永続」して行けるのと同じように。
 しかし、僕は言う、すべて本質を伴わざる「永続」は、あらゆる物事に於て、悪しき「永続」である。有害である。それは一刻も早く、それが本質を失い本質を歪めている事が明瞭に徹底的に判然とした瞬間に、打ち切られなければならぬものだ。
 君の言う「永続性」という事の正しき意味は「伝統」のことである。そして、われわれの伝統は、ただ単に形の上で一つの事が永続することであってはならぬ。要はその本質だ。その精神だ。先人の本質と精神を受けつぎ生かすものが、伝統の正統の受継者である。たとえば、万葉の正統の受継者は、訓古と模倣と形式だけを事とした中世の歌読みでは無くして、却ってたとえば源実朝であり、たとえば橘曙覧あけみであり、たとえば平賀元義であった如く。たとえば蕉風の俳諧の正統の受継者が、芭蕉の直弟子達や孫弟子達では無くして、却って、たとえば正岡子規であり、たとえば大東鬼城であった如く。
 そして、新劇に於て(更にさかのぼって言えば、その新劇こそ実は、歌舞伎を中心にして発達生成し来った日本演劇の正統の受継者であり、なければならぬのであるが、今はこれに触れず)、明治以来の諸先人達の作り上げた伝統の、今後に於ける正統の受継者は誰であろうか? 僕には未だハッキリとは言えない。しかし少くともそれは、苦楽座又はそれに類する本質や精神のものでは無いことは、言える。なぜかと言えば、それら先人達の本質と精神は、演劇を道楽として扱い、余力を以てやろうと云うのでは無かったから。彼等は彼等の全部をそれに賭けた。そして、彼等は彼等の仕事に賭けただけの、すぐれたる伝統を生み出し得た。そして、彼等の伝統を正しく受けつぎ生かすのも、われわれの中で自己の全部又は最良のものを賭けて演劇を担おうとする者である。又われわれは、われわれがそれに賭けただけの伝統を生み出し得るに過ぎないのである。
 僕がこの様に執拗に君を打ち叩き、苦楽座をやるならば全力をあげてこそやれと苦言を呈するのも、全く、俳優として現代日本の第一流者の一人であり、そしてわが深く愛する友である君に、日本新劇の正統の受継者たれと心から僕が願うからである。

      8

 君は
「教えてくれ三好君」と言う。
 さあ教えた。もし此の様な蕪雑な言葉が教えると言うことに当るならば。そして、君に僕が何事かを教えることが出来るならば、僕と言う人間が未だ他に学ばなければならぬ事が多いためである。と言うよりも、僕が僕自身に教えなければならぬ事が多過ぎるためであると言うのが、より適切であろう。と言うよりも、君は僕の兄弟であり、君は既に僕の内に住んで居り、君は僕であり僕の一部である。その君に向って僕が「それは間違っているぞ、本当のことは、こうだ」と言っただけだ、と言うのが更に適切であろう。それが「教える」と言う事になるのであったら、僕は教えた。君は学ぶがよい。
 君は又「存分に誤りを指摘し鞭打ってほしい」と言う。
 さあ、誤りを指摘し鞭打った。
 君の誤りは、結局に於て僕の誤りだ。君の怯懦も、結局に於て僕の怯懦である。大所高所から見れば君と僕とは共犯者である。君を鞭打つのは、僕が僕を鞭打つのだ。鞭の痛さに君が音をあげるよりもズット前に、同じ鞭の痛さに僕は泣いている。比喩では無く、文字通りに泣いている。これが「鞭打つ」と言う事になるのであったら、僕は鞭打つ。君は、立ち上って、歯向って来るか、鞭の方向に向って歩み出すかのいずれかをせよ。
 更に又、君は「君(三好)が自分の一本槍な誠実さから、そう感じ、そう批判してくれるのは……」と言う。まるで「あなたは神様であるから、そんな風にお考えになれるし、そんな風におやれになるでしょうが、私共は平凡な人間ですからこの様に思い、この様にしか出来ないのです」とでも言うように。
 違う! 第一に、それは事実で無い。次に、それは卑劣きわまる逃げ口上なのである。
 なにが僕が一本槍なものか。なにが僕が誠実なものか。もし僕が誠実だとするならば、君と同じ位に誠実であるに過ぎない。
 見ろ、僕はこれまで思想に於ても生活に於ても仕事に於ても、あれやこれやと、これ程に血迷い歩き恥をさらし、人を傷けると同時に自身をも傷け、昨日の事を今日裏切り、少しばかりの苦しみや悲しみにも忽ち自れを失い、未練と執着の泥で我れと我が心と顔をよごして来た。今後とても、いずれは、それの連続であろう。その一つ一つを具体的に言えとあらば言ってもよいが、殆んど僕はそれに堪え得ぬ。又、今更それを言う必要も無いであろう。ただ僅かに、その様な自分を少しずつでも[#「少しずつでも」は底本では「少しづつでも 」]マシな方へ持ち運んでくれる「行」としての――つまり、その様な自身を少しずつでも真に救ってくれる告白の場としての、従って又、もしかすると自分というものが、他の人々のためにも幾分かは役立ち得るようになるかも知れないところの鍛錬の道場としての芸術――劇作の仕事が僕の前に在る。丁度君の前にも芸術=演劇の仕事が在るように。
 しかし、此処でも尚僕は迷った。恥を語らねば話が通じぬ。その様なものとして劇作の仕事を考えながらも、やっぱり金が欲しい。ひどい貧乏は、やっぱり怖かった。それで時々は「金のために」仕事をした。そして、その金が細々ながら続く間だけ、つまり食って居れる間だけ、本来的に自分のしたいと思う「ホント」の仕事をした。そして恐ろしいのは、前の場合にも、その仕事は他ならぬやっぱり自分がするのであるから、良かれ悪しかれ自身のホントの姿が出るし、後の場合にも、その仕事はやっぱり自分がするのであるから、「金のために動いた」時の自分の姿が現われて来る。そして、この二つは殆んど両頭の蛇の様に互いに互いを喰い合いもつれ合い、互いが互いを堕落させ合って、殆んど収拾のつかぬようなメチャクチャな状態に自分を陥れた。それに僕は気が附いた。何とかしなければ堪え切れぬようになった。そして思ったことには、これは自分が「食う必要」と「芸術家としての本心」とを二つの物として別々に扱っているからだ。この二つを完全に一つのものに統一する以外に逃れる途はない。即ち「食う必要」がソックリそのまま「芸術家としての本心」であるようにしなければならぬ。別の言い方をすれば「食う必要」が命ずる事に堪え切れない程にひ弱わな部分が「芸術家としての本心」の中に有るならば、それは切り捨てなければならぬし、「芸術家としての本心」が命ずる事に堪え切れぬような部分が「食う必要」の中に在るならば、それを切り捨てて、その残りだけが生きるか、又は死ぬかしなければならぬ。そして、それは果して出来る事なのか? 出来る! 出来るばかりでなく、そうであってこそ「食う事」と「本心」とは助け合って、より高いより堅固なものを生む事が出来る。そして気が附いて見たら、これが僕の「本職の道」であったのだ。
 出来ると僕に言えるのは、それを現に僕が実行出来ているからだ。勿論、未だあまり完全な形で実行出来ているとは言いがたい。現にこの三四年位は、そのために、黒字としての収入は一銭も無くなって前借々々で辛うじて食っている。しかしとにかく食っている。だから、もう僕は、うろたえない。又、だから、現にこの三四年は、その昔僕が芸術至上主義的であった頃の様に「純粋」な仕事はしないし、出来ない。しかし辛うじて、とにかく自分の芸術家としての本心に背くような仕事はしないで済んでいる。だから、僕はもう、うろたえない。
 勿論、生活の方も劇作の仕事も、スラスラと運んでいるとは言えない。窮迫と不如意と、非才と鈍根に、独り泣くこと、しばしばだ。特に近年、生活と仕事の無理がたたって来て、数日ないしは十数日を病床に徒費しないで過す月は殆んど一ヶ月もなく、人中に出て活動することに全く耐え得ない程に衰えている健康状態なので、「つらいなあ」と思う事が無いと言い切れば嘘になる。しかし、それだけに以前に較べると確に、少しばかりは腹が据った。そして、「おれと言う男は、銃を持たされても鍬を持たされても槌を持たされても、その他どんな仕事を当てがわれても、その事に就てなんにも知らず、その力を持たず、物の役には立ちそうも無い。ただ僅かに文学芸術の中の演劇と戯曲に就てならば、ホンの少しだが知っているし、ホンの少しばかりなら役に立つようになれるかも知れぬ。だから、それをやる。それをやって行く事が許される時まで、それをやる」と考えるようになって来ている。
 その事に関連して、国家や社会のことを言うことは敢えてしまい。それは第一に自分の任で無い。第二に、国士的発言者の論と説は今天下に充満していて、自分などの蛇足を必要としないからである。ただ、自分のみでひそかに信ずる所ならば、僅かながら持っているし、しかも、こうして自分の状態は未だ「飢ゆる」と言うことからは遠い。これを思えば「つらい」などと言う感想は、どこかへ吹き飛んで行き、楽しくなる。誇張では無い。僕はボロをさげ少し食い、片隅で、自分の好む仕事をやらせて貰い、うまく行けばその仕事で以て少しばかりお役に立つことが出来るかも知れない自分の運命に満足し、よろこびを感ずる。このままの此の運命にである。
 従って又同時に、ズット昔、僕が始終こぼしていた様な愚痴――「食えさえすれば、良い仕事が出来るがなあ」を言わなくなり、言う必要がなくなり、言うまいと思っている。そんな事を言うのは、自分一人を清しとして世間を汚れたりとし、その自分がその世間をうらむ言葉だ。ところが、実は問題は世間ではなくて自分だ。自分が只今から決心して「本職」になればよいのだ。各自が一人々々そうすればその内には全体が「本職」の世界になる。「世間が世間が」と言っていて、自分からはじめる事を怠っていれば、いつまで経っても、どうにもならぬ。それに気附いた。だからヤットの事で僕は、そうした。今後もこれでやって行く気である。
 つまり、僕は以前の様に「純粋」でもなくなったし、以前の様に「醜悪」でもなくなってしまった。乞われれば、どこへでも、どんな劇団へでも戯曲を提出しようと思う。応分の金さえ呉れれば。ただ「醜悪」な金儲け主義の劇団では僕のもののような戯曲は商売にならぬから上演出来ないまでであろうし(そんな事は僕は知らん!)また、「純粋」な芸術的劇団に於ては、僕が要求するような金は呉れないであろうと思う。(金を呉れなければ、僕は書かないまでだ)。いずれにしろ、僕が劇作生活をやって行くに足るだけの金さえ呉れる劇団ならば、上はどの様に芸術的な劇団のためにも、下はどの様に低級な猿芝居のためにも、僕は嬉々として戯曲を執筆しようと思う。現に君達の苦楽座にも、金さえ呉れれば書く。但し、僕はいつでも書きたい物を書くだけだ。
 そんなわけで、此の三四年、滑稽なことは、そして当然なことには、僕は「恐ろしく金の事にかけては、きたない劇作家」になった。大概の演劇人が、そう言っているよ。そして、それでよいのだ。事実そうなのだから。
 僕の眼から見れば「人生、意気に感じて」上演料無しで自作を上演させたりする劇作家は、それ自体として醜悪にして怯懦なる存在であると共に、わが国の劇作家の道を毒する毒虫として映る。なぜならば、彼が或る一つの劇団に無料で自作を上演させるためには、他方に於て、金の取れる場合と金の取れる相手からは、どの様に不正当な手段ででも、どの様な不正当な額でも金を取ることを不可欠とする。ならびに彼が或る劇団にたまたま無料で自作を上演させたと言う事は一つの前例となり、その座の前例はその種の前例だけが寄り集って、劇作家全体の生活をおびやかし、引いては、これから劇作を以て身を立てようと志す者達の路を実際的にふさいでしまう事になるからである。そして、そのためにこそ僕は、その様な劇作家の「人生意気に感ず」式の、吹けば飛ぶような軽薄な感傷(それ自体としては概して善意に基くものである事を僕が知っていても)を心から憎む。この点に関しては笑わば笑え、罵らば罵れ、僕は今後いよいよ益々「金にきたなく」なろうと決心している者だ。それは僕の「本職の道」が自然に僕に命じることだからだ。
 君達俳優が「良心的な仕事なら、無料でも持ち出しでもやろう」とする態度を僕が、この様に執拗に憎むのも、同じ理由からである。

      9

 もう、わかったか? まだ、わからぬか? 丸山定夫よ。
 悪い事は言わぬ。一日も早く苦楽座をよしてしまいたまえ。なぜならば、苦楽座はその出発点に於て既に根本的に誤っているのだから、将来健全な姿で永続して行くことは決して出来ないからだ。しかし、せっかく始めたものだから、なんとかして続けてやって行きたいとならば、それはそれでよいから、苦楽座の今後のやり方の根本を改造したまえ。つまり苦楽座の性格を作り変えたまえ。
 どんな風に変えればよいのか? 僕も批難のしっぱなしで悪いと思うから、それを次に簡単に言う。
 一言に言うならば、僕が劇作家としているのと同じ事を君は俳優としてやりたまえ。これを今少し詳しく言えば、先ず第一に、君は「国家が心要としている高い演劇」などと言う言葉の上だけでの大言壮語を一切やめたまえ。次に君は一ヶ月百円で暮せるように君の生活を整理したまえ。一時にそれが出来ないならば、なるべく早くそれに近い生活を採りたまえ。次に君は、映画会社との契約を即刻打ち切りたまえ。それが不可能ならば、なるべく早く打ち切るようにしたまえ。次に君は、専ら「金を目あて」の芝居をやりたまえ。金にならぬ芝居は一切よしたまえ。但し、その「金を目あて」の芝居は、君の国家に対する誠実や芸術に対する良心などと別々なもので無いようにしたまえ。従って、これを別の言い方をすれば、君は専ら国家に対する誠実と芸術に対する良心に基いた芝居をやりたまえ。それ以外の芝居は一切よしたまえ。但し、それが君に普通の生活をするに足る程の金を与える場合にのみやりたまえ。
 次に、苦楽座の他の座員達にもそれを実行させたまえ。その実行の出来ない者は追い出してしまいたまえ。次に、君は苦楽座の全員に次のように宣言して賛成を求めたまえ。「苦楽座は一個の有機的な全体である。一人々々の成員は全部、この全体に仕える一個の兵士である。各人は厳格な一個ずつの資格を持つ。それ以上でもそれ以下でも無い資格を持つ。全体の意見は、徹底的に絶対である。スタアやスタア的意見の存在は許されない。そして、その全体の意志の執行者として一人又は数人を、われわれ全体で撰び据える。据えられた執行者の命令は徹底的に守られなければならぬ」
 これに賛成しない者、これを実行しない者は、追い出してしまいたまえ。
 さあ、これだけだ。君等に、これがやれるだろうか? やれると思う。また、到底やれまいとも思う。やれると思うと言うのはこれだけの事は格別むずかしい事でも何でもなく、普通の良識を持った健全な人には誰にでもやれる事だからだ。また、到底やれまいと思うと言うのは、君達既成俳優の神経は既にいろいろな理由から少しずつ不必要な不安や余分のスタア意識などに蝕ばまれている場合が有って、そのため、普通の事が率直に受取れない者が居るからだ。そして、これがやれれば苦楽座は「辛うじて健全」に永続して行けるだろうし、これがやれなければ苦楽座は「華々しく」ポシャッてしまうか、又は「華々しく不健全」な姿で永続して行くだろう。
 ところで、現在の苦楽座々員諸氏は大部分、その他の事はどうでもよいから、先ず華々しい事の好きな人達が多いように僕は睨んでいる。だから多分、僕のすすめるようには、しないのだろうと思っている。
 それ以外の理由から言っても、差し当りの実際上では、君の主張は勝ち僕の主張は負けるであろう事を僕は知っている。なぜならば、君の主張に聴従すれば、一方に於て映画その他で多額の収入を得て贅沢に安楽に暮しながら、その余力で以て「純粋な」芝居を好き勝手にやれるのだから、新劇くずれ[#「くずれ」は底本では「くづれ」]その他の俳優などがドシドシ集って来る。僕の主張に聴従すれば、普通の程度には暮せても今迄の様には贅沢に暮せないばかりで無しに、年がら年中「妥協した」芝居をしなくてはならぬから、新劇くずれ[#「くずれ」は底本では「くづれ」]その他の俳優などの大部分は鼻汁も引っかけないであろう。それほどに、新劇くずれ[#「くずれ」は底本では「くづれ」]その他の俳優などの大部分は自立的な自発的な芸術意慾を衰弱させてしまい、「良心」と「胃袋」を分裂させてしまっていると僕は見ている。その実例がいくつも有るが、此処には書かぬ。
 よろしい、君がどうしてもそうしたければ、そうして、勝ちたまえ。そして華かにポシャルか又は、華かに不健全に永続したまえ。残念ながら最後に君は地獄に落ちるであろう。僕はどうかして、ホントに、どうかして、君にそうさせたく無いけれど、これほど言っても聞いて呉れないのならば、仕方が無いと思う。

      10

 さて長々と書いた。僕も自ら呆れた。一週間ばかり、考えに考えてこればかり書いていたので、くたびれもした。君は尚更、僕の執拗さに呆れたろうと思う。とにかく、この問題につき、僕の言いたい事のあらましだけは、不完全ながら言い了えた。
 僕は、演劇と君の裡の良きもののために、これを書いた。これが君を少しも動かし得ず、無駄に終っても、僕は諦らめる。
 しかし丸山定夫よ。本当に、僕がこれだけ嘘もかくしも無い自分をぶちまけて、これ程までクドクド言ってもこれらの言葉は本当にホンの少しも君を動かし得ないのであろうか?
 僕には信じられない。君にこの手紙が一度読んで判らなければ、済まないが二度読んでくれ。三度読んでくれ。それでも、判らない所が有ったら、やって来て質問してくれ。僕の思っていることを、少くとも、君に判らせることは、君が思っているよりも非常に非常に大切なことだと僕は思うのだ。
 今迄も今後も君が僕の親友であると言う事は暫く言わずともよい。君は、今、日本の演劇文化の持っている最大の良心と最高の技術者の一人だ。殆んど掛けがえの無い俳優だ。君の肩の上には、日本の新しい演劇文化の何分の一かが載っているのだ。そして、その日本は今、どんな位置に立っているのだ? その日本が今、なにごとを遂行しようとしているのだ。
 これ以上を言うと冷汗が出るから言わぬ。君が今、力強く立ち上り、堅実に出発し、健全に歩んで行って呉れることは、ソックリそのまま日本の新らしい演劇文化の勝利の一要素であり、日本の新らしい演劇文化の勝利は、ソックリそのまま日本それ自体の勝利の一素困になるのだ。
 僕の言い方が大げさ過ぎるならば、笑うがよい。そうで無くても、まるで僕は自分が良心と誠実の卸し問屋のような言い方で、こうして喋り散らして来たことを、きまりの悪いことに思っている。笑うがよい。しかし僕の心にも無い事は言わなかった。きまりの悪さを押し切って言わなければ言えないものだから、言ったまでだ。
 世の演劇人の大概は、口癖のように、演劇の仕事では「良心」と「食うこと」は両立しないものの様に語る。それは嘘だ。自己の良心の浅薄を蔽い、非良心的な仕事をするための口実とするための嘘である。「食うこと」の困難にも堪え切れぬような良心は良心の名に値いしない。良心を押し立てることに役立たぬ食うことは、食うに値いしないのだ。
 真の良心――即ち国家と演劇芸術の本質に対する忠誠――そのための良き事と悪しき事を弁別するばかりで無く、その良き事のために強く執拗に永続的に挺身しようと言う意志をも含めた忠誠――と「食うこと」は、絶対に両立する! させなければならん! 両立と言うよりは、これが一本になる事だ! 一本にしなければならぬ!
 今こそ、われわれは、それの可能を絶対に信じなけれはならない。それを確信することのみが、それを確信し得るように自己を錬成する事のみが、われわれの演劇――われわれの文化――わが国――の最後の勝利をわれわれに確信させる。なぜならば、国内に於ける良心の真の勝利は、国外に於ける、即ち英米の悪に対する我が国の真の良心の勝利のための第一の基礎だからである。
(以上)

底本:「三好十郎の仕事 第二巻」學藝書林
   1968(昭和43)年8月10日第1刷発行
初出:「演劇」
   1943(昭和18)年4月号
※〔 〕内は、底本編集委員による加筆です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:伊藤時也
校正:及川 雅・伊藤時也
2009年6月6日作成
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