僻陬へきすうの地に先住民族がながく取り遺されるという事は、今さら事新しく言うまでもないところで、現に台湾東部の山地には、近くその実際を見るのである。これを我が古史に徴するに、西南薩隅の地に夷人と呼ばれた隼人が奈良朝頃までもなお残存し、東北奥羽の地方には平安朝に至ってなお蝦夷が猖獗を極めたところのもの、いずれもかつては広く分布していたこれらの先住民族が、中央に近いところから漸次同化融合して日本民族の伍班に加わり、所謂皇化の及ばざる僻陬の地において、未だその機を捉ええざる同族がなお旧態を保存していたに過ぎないものであった。そしてその隼人の方は遠からず同化の実を挙げて、延暦の頃にはすでにその本国たる薩隅両国にも他と同様の田制を実施しうるに至り、いつしか異民族としての存在を失ってしまったが、蝦夷の方はなお後までも久しく残存して、鎌倉時代の初めにおいても、奥羽両国はえびすの国なりとの理由の下に、田制上の特別の除外例が認められた程であった。かくて江戸時代に至ってまでも北陬海岸地方には、なお蝦夷と呼ばれ、アイノと差別された部落が各地に取り遺され、その津軽領内において藩庁より最後の差別撤廃を命ぜられたのは、実に近く文化三年の事であった。そして北海道においては、彼らの同族が現にアイヌの名の下に、今や同化融合の実を挙げつつある途中にいるのである。
 かくの如きは交通不便の古代において、中央文化の進展が遅々として僻陬の地にまで普及せず、しかも一方先住民族の勢力微々として振わず、ために国家社会の問題を惹起することなきに至っては、為政者ももはやこれに対して考慮を払うこと少く、したがって歴史に何らの記録を遺すことなしに、黙々の間に彼らは永くその旧態を持続せしめられたのであった。かくて一方には新文化を有する民衆の移住によって、そこに新しい村落が建設さるるに至っても、なおそれに隣って永く一方には先住民の村落が、久しく保存さるるというが如き場合も少からぬ状態にあったのである。そしてそれはひとり奥羽の北陬においてのみならず、かつては内地各所に類似の現象が認められ、ためにしばしば些細ながらも両者の間に種々の交渉の生じた場合も少からぬ事であったに相違ない。今その一例として、ここに「ケット」と「マット」なる語について考察を試みてみたい。

 新潟県中魚沼郡の山間に、土俗ケット或いはケットウと呼ばれる部落がある。またそれに対して別にマットと呼ばれる村民があって、ケットの者はそのマットの者を目してマットムジナと称し、人を騙すものとして恐れていたというのである。今去る九月に長野県下水内しもみのち郡桑名川へ行った時の聞書をまずここに断片的に紹介してみる。
 越後の中魚沼郡と信濃の下高井郡とにわたって、信濃川の支流なる中津川の上流、苗場山の西方渓谷地方を秋山谷という。交通不便な極めての山間で、里人との交渉も少く、したがって近い頃まで甚だしく未開の状態に置かれ、越後あたりでは、秋山の者と云えば直ちに山の者の代表的名辞となり、今では土地の者も秋山者と言われる事を甚だしく忌み嫌う風があるという。それで里人同士の間で相手をからかい罵り合う場合などにも、「何だ秋山のもんじゃないか」などという。その場合相手のものは、「今は秋山だって開けたからなあ」など応酬するの例だという。所謂ケットはその秋山谷の代表的なもので、彼らは自ら平家の落人オチウドと称し、他と交通縁組を忌み、近い頃まで普通教育も実施されず、他村人が訪問しても確かな紹介が無ければ面会もせず、時としては戸を閉して隠れてしまう程だったという。無論言葉も風俗も里人とはすこぶる相違し、今は水電工事も出来、小学校の分教場も置かれて、その言う如く余程開けて来たには相違ないが、かつては粟、稗、玉蜀黍とうもろこしの類を常食とし、とちの実を貯えるという風で、熊、猿、零羊かもしかを獲って里へ売りに出て、米を買って帰るくらいが里との交通のおもなものであったという。夜寝るにも蒲団がなく、炉ばたで焚火に暖を取る。大病人に米養生までさせたが、それでも死んだのは寿命とあきらめねばならぬとか、瀕死の病人の枕元で、竹の筒に米を入れてそれを振ってその音を聞かせたとかいう、どこにでもよくある挿話は、ここについても語られているのである。その他ケットの人が里に出て、下駄を見て不思議がったとか、立舂たてうすを見てそれを知らなかったとか、世間によく語らるる山の馬鹿聟さんに関するお伽噺の様なことが、ここにも少からず語られているのである。そんなかけ離れた武陵桃源境であるが為に、ここばかりはかつて天然痘もはいった事がない。近ごろ種痘を強行しようと思うても、どうしても応じないので、ことさらに痘痕面アバタヅラの医師を選んで、体験談からやっと納得させたという事実もあるそうな。
 なおケットの人の風采について、かつて親しくこの地を踏査した医師の某君は、身体長大、色白く、眼は青味を帯び、毛多く、頬骨が秀でていると語った。承和元年の太政官符に、飛騨の人は言語容貌すでに他国人に異なりと言われた程度のものが、ここにおいても認められるものらしい。
 ケットに対するマットについても種々の事が語られている。マットの人は他人を騙すというのである。それはひとりケットの人が言うばかりでなく、他の里人でもそれを口にして、自分にこの事を話してくれた某君は、今年六十近い方と見受けたが、その幼少の時にマットの人が来ると、化かされぬ様に眉に唾を付けたものであったという。
 以上単なる最近の数人からの聞書で、自分は親しく実地を調査したものでないが為に、或いは聞き違いもあろうし、中には訛伝も交っておろうし、ことにそれは多くは過去の事に属し、今日では所謂「秋山だって開けたからなあ」の状態にあって、これを確かめる事の不可能なものが多かろうが、よしやそれが訛伝であるにしても、近所の里人から近い頃までかく伝えられていた住民の山間に存した事は、異民族同化融合の史実の上に、また日本民族成立史の上に、甚だ興味多き事実であると謂わねばならぬ。今はただ最近に聞いたところを忠実に保存して、さらに他日の調査攻究を期待したい。なお参考の為に、故吉田博士の地名辞書から、秋山谷に関する諸書の記事を左に抄録しておく。

 信濃地理云、秋山は信越上三州の間に介在す。民俗純朴、言語異なり。杭を樹て其上端を連繋し、茅を以て之を覆ひて家となす。富人にあらざれば床を設けず。明治八年より僅に米作を為し、栗及び蕨に和して之を食す。其他の食料は稗粉及山獣の肉等なり。
 秋山は箕作村(信濃下高井郡)より山に入ること九里。平家の落人勝秀と云ふもの、上州草津より此に分け入りて匿れ住み、子孫一村を成せりとか。又信州より分入りければ、地勢は越後の分域ながら、今に信州の管内なりとも云ふ。(雪譜並に信濃奇勝等)

「ケット」今は「穴藤」または「結東」などと書く。陸地測量部五万分一図を案ずるに、中津川の上流秋成村の中に、村役場所在地より上る事一里余にして字穴藤ケットウがあり、さらに上る事一里余にして字結東ケットウがある。発音は同一でも、部落によって文字を異にしているのである。けだしもと普通名詞として、この山奥の住民を一般的に呼んだものが、やがて部落名となり、部落を異にするが為に、その文字をも異にするに至ったものであろう。
「ケット」の語義について、自分にこの事を話してくれた某君は、かつて自分が何かに書いたものからヒントを得て、ケビトすなわち毛人の義であろうと解すると説明した。
 言うまでもなく毛人とは蝦夷の事で、東方において殆ど唯一の毛髪鬚髯の濃厚な人種であることからこの名を得たのであった。その存在は早く支那人に知られて、山海経に毛民国の名があり、唐人は正に「毛人」の二字を以てこれを表わし、日本紀以下我が国でも往々この文字を採用し、その勇猛純樸であることから、奈良朝前後の人名に、甚だ多くこれが呼ばれているのである。およそ東亜の諸人種諸民族中において、かくの如き毛深いものは他に殆どこれを見ない。漢人、満人、蒙古人、朝鮮人、乃至台湾、馬来マレーの人々に至るまで、僅かに鼻下と下顎とに少量の鬚を有するを常とするにかかわらず、今の北海道のアイヌには甚だそれが多い。歴史上の蝦夷また同様で、為に毛人と呼ばれ、我が日本民族中にもまたこれに類したものが多い。これは石器時代以来そのまま各地に遺存したもの、または歴史時代に奥羽地方から、俘囚の名を以て盛んに内地諸国に移された蝦夷の血が、日本民族中に行き渡って存在しているが為であると解せられる。そしてこの秋山地方において、特にケットすなわち毛人と呼ばれて差別的の眼を以て見られた山間住民の保存された事は、里の民衆が早く日本民族に同化融合した後に至っても、なお交通不便なこの仙境に、先住民族の旧態が久しく保持された為であろう。
 山人やまびとの伝説は各地に伝えられている。それについてはかつて柳田國男君の精細な研究が発表せられた事があり、自分もかつて鬼筋に関連して民族と歴史の誌上で説明した事があった。彼らは里人と生活環境を異にして、風俗習慣その他に相違するところが多かったが為に、往々筋の違ったものとしても認められ、果ては天狗或いは鬼の伝説と習合せられ、甚だしきに至っては猿に類する一種化生のものとしてまで誤解せらるるに至った場合もある。そしてそれが里人に交わり、普通の日本民族と差別なきものとなった後までも、時に自ら鬼の子孫たる事を認め、或いは他より鬼筋と呼ばれ、或いは狐持、護法胤ごぼうだねなどと称せられて、一種の通力を有するものの如く誤解せらるる場合もあるのである。勿論それはすべてに通有のものではなく、中には単に筋の違ったものというだけで、特別のこれにからまった伝説を有しないものも多いが、かつて山間に取り遺された先住民存在の伝説は甚だ多い。播磨風土記には、多可郡の山間に異俗の部落二箇所を挙げてある。吉野山間の国樔人は言うまでもなく、前記言語容貌他国人に異なりと言われた飛騨人の如きもかつてはまたこの類であった。近くこれを同じ越後について見るに、魚沼郡に接して古志郡の名がある。古志はすなわちこしで、古えの越人こしびとの名の保存せられたもの。越人は近くまで千島アイヌがクシと呼ばれたと同じく、アイヌ族に対する一つの名称であった。その伝説は少からず我が神話中に織り込まれ、歴史時代になっても越蝦夷こしのえびすの名がしばしば物に見えている。けだし古志郡の名は、これらの越人が次第に日本民族に同化融合した後までも、なお久しくここに取り遺されて存在した為の名であろう。これは九州において雑類と呼ばれた肥人くまびとが、最後まで取り遺されたと思わるる球磨川の上流地方に、かつては熊県くまのあがたと呼ばれ、今に球磨郡の名の存するのと同一状態の下に解すべきである。
 その越の国には、また異俗に関して種々の事が考えさせられる。西頸城郡新井町には美守ひだのもりがあり、その北方には今美守ひだもり村というのが出来ている。これらの「美守」の文字は明らかに「夷守」の誤りで、和名抄に夷守ひなもり郷というのがそれである。それが果して今の新井町の美守ひだのもりに当るか、或いは北なる美守ひだもり村に当るかは明らかでないが、そのヒナがヒダとなった事には疑いない。そしてその新井町の西には山地にかかって斐太ひだ村があり、ここに大字飛太ひだがあって、竪穴や古墳が多く遺され、先年その古墳の一つから、奥羽地方縄紋式石器時代遺蹟から多く発見せられる内反うちそり石刀に系統ありやに思わるる内反刀とともに、これも明らかに縄紋式石器時代遺蹟から往々発見せらるるところの特殊畸形の曲玉が発見された。けだしこのヒダの名は、言語容貌他国人に異なりと言われた昔の飛騨人と同じく、先住民の山地に遺ったものであって、その名義はすなわちヒナ(夷)であり、所謂夷守はこれに対して設置された守備兵の屯田部落であったのであろう。そしてそのヒダ人も、いつしか日本民族化して日本風の竪穴に住み、日本風の墳墓を作る様になって後までも、中には祖先の内反刀を摸し、祖先の愛玩した玉を伝えたものがいたのであろう。
 さらにこれより西方、西頸城郡市振の山中に上路あげろという部落がある。古くここには山姥に関する伝説が語られ、謡曲山姥の中にも織り込まれて有名な所であるが、里人は今でもその住民を以て、例によって眼の色が違うの、言葉が違うのなどと云っている。人国記陸奥国の条に、「此の国はもと故に、色白うして眼青みあり」などともあって、昔から眼の色は人の注意するところであったらしく、今も南部津軽辺で、何村はアイヌの子孫だから茶眼であるとか、唐金眼であるとかいう事をよく聞かされる。しかし実はそう言う人の眼もまた茶眼であり、唐金眼である場合が少くないのである。或いは昔はそんな区別の認められる場合が多かったかは知れぬが、今日ではすべてのものが入れ交って、殆どその区別の無いのが常である。
 斐太と云い、上路と云い、その地名なり、俚伝なりに、先住民の匂いがそこに残されているのではあるが、しかしそれはただに斐太と上路とに限られたものではなく、西越後から信濃、越中、飛騨へかけて、所謂日本アルプスを中に取った一帯の山地には、今も台湾の東部山地に先住民が旧態を存している様に、かつては異族のものが少からず遺されていたのであろう。そしてその一方に所謂飛騨人の存在が認められ、他方には上路の山姥や、信州戸隠山の鬼の伝説も起ったのであろう。しかもこれはひとりこの地方のみならず、他の山間地方にもかつては同一現象が認められたものであったに相違ない。そしてその一つとして所謂ケットの名は、それが毛人を意味する事において最も多く興味を惹かされるのである。
 奥州北部の海岸に、蝦夷と言われ、アイヌと呼ばれた部落が、江戸時代までも多く取り遺されていた事は前に述べた通りである。けだし彼らはその地が海岸に隔絶して、他と交通が少かったのと、一つは豊富なる漁利によって、他の脅威を受くる事なく安穏に生活することが出来たとの為に、永く固有の状態を継続する事を得たのであった。しかしこれに対して山間に蝦夷の※(「薛/子」、第3水準1-47-55)いげつのある事を伝えておらぬ。案ずるに津軽においては、戦国頃から、おそらく慶長頃にわたっても、なお平野地方にアイヌとして認められたものが残存し、所謂蝦夷荒えぞあれなるものの事実が伝えられ、今の青森や浪岡附近にまで、狄掛えぞがかりなる吏員が設置されていたのであった。寛文七年津軽信政年十五歳で江戸の藩邸から始めて領国へ入部した時に、途中まで出迎えた家中の諸士の容体甚だ質朴で、蝦夷に近く、太守大いに驚き、嘆息して和歌を詠じたと、津軽人自身によって書き伝えらるるまでに、この地方は余程後までも蝦夷臭味の濃厚な所であった。しかるに今日平野地方においては勿論、山地に入っても明らかに蝦夷の遺※(「薛/子」、第3水準1-47-55)として知らるるものはない。けだし里に住んだものはつとに農民となって日本民族に融合し、山地の住民も蝦夷としては早く忘れられて、ただ海岸に居たもののみが、蝦夷の子孫として喧伝されたものであろう。しかし山地に全然蝦夷が遺らなかったものではない。真澄遊覧記美香弊乃誉路臂みかべのよろひによるに、山間の狩猟者たるマタギには山辞やまことばという一種特別の言語があって、その中には「蝦夷詞もいと多し」と書いてある。真澄は松前にも渡って、相当アイヌ語をも知っておったであろうから、その言うところ信ずべき価値がある。また秀酒企之温湯すすきのいでゆには、マタギが行き会った婦人に戯れた状を記して、「○○をホロにして云々」の語を載せ、「保呂は大なるをいふ」と説明してあるが、これはまさにアイヌ語大を意味するポロであるに相違ない。マタギの事はいずれ改めて他日詳説の機あらんことを期するが、彼らがもと山間に遺留した蝦夷の流れであることには疑いなく、ただその由来が忘れられたのみなのであろう。そしてここに越後の山間において、かつて奥羽のマタギと同じ生活をなしたケットの存在することは、彼是相対照して最も興味を覚えるものである。
 因に云う、古えエビスの残存した地方に、エビスまたはエビ何と称する地名が各地に多い。河内にまでエビ谷というのがあって、これは文字にもまさしく毛人谷と書いている。けだし移植の俘囚の籠った所であろう。奥羽地方にはことにそれが多いが、越後においては西蒲原郡弥彦村に※(「魚+扮のつくり」、第3水準1-94-36)えびあな、中蒲原郡大形村海老えびガ獺、南浦原郡中の島村海老島、中頸城郡八千浦村夷浜、同夷浜新田、南魚沼郡浦佐村鰕島、南旭村鰕島新田、岩船郡金屋村海老江などいうのがあり、ケット、マットのある中魚沼郡から西に続いた東頸城郡の山間にも、単に海老または鰕池などの名が見えている。かつて毛人の残存を伝えたものであろう。

 ケットに対するマットは、謂うまでもなく「真人」の義であろう。今も現に同郡に真人まっと村がある。
 マットのマは、人間、事(誠)、心、ッ白、菰、菅などのマで、その文字の如く真実の義を有するものである。したがってここにマットとは、ケットの異俗視せられたのに対して、普通民すなわち本当の日本人なることを標榜した名称であろう。
 古え八姓の首に真人というのがあった。天皇の御子から分れ出でた家に与えられたもので、新撰姓氏録には特にこれを巻首に置き、その序に、「真人は是れ皇別の上氏なり、京畿を並集して以て一巻となし、皇別の首に附す」と述べて、他の皇別諸氏との間に区別の存在を認めているのである。案ずるに、ヒトとは日本語もと天孫民族を意味し、さらに先住民族及び帰化民族の、これに同化融合して成り立った日本民族をも意味するものとなったのである。そして一般に人類を呼ぶ場合には、かつてそれとは別の語があったらしく思われる。試みにまずこれを近隣の他民族の語に徴するに、アイヌ語人類をクルと云う。コロボックウングル、トイチセグル、メナシクル、シュムクル、チュプカグル、コタンコルクルなどのクルこれである。琉球にも古く似た語があった。混効験集に、「おほころ、男の事か、こしあて大ころと云へば夫の事なり」とあるコロはすなわちこれである。朝鮮にも古く「骨」の字をあててコルとみ、族の意義に用いた。王骨はすなわち王族である。満洲語でも同様で、イランコルなどの語がある。蒙古でも日本人を東方日出処の人の義で、ナルングルというそうな。すなわちクルと云い、コル、コロなどと云うものは、いずれも同一語で、所謂ウラルアルタイ語族通有の語であったらしく、アイヌにもそれが輸入されたものであろう。そして日本語においてもかつてそれに類似した語があったものの様である。我らは人類を数うるにヒトヒト、フタヒトなどとは言わずして、ヒトリ、フタリと云う。一つの人、二つの人の義である。また人称を呼ぶ語に、ワ(我)、ナ(汝)、カ(彼)にレを附して、ワレ、ナレ、カレと云う。ワなる人、ナなる人、カなる人の義である。或いは殿に侍する人、これをトネリ(舎人)と云い、村主と書いてスグリと云う。スグリは畢竟スキすなわち村の人の義であろう。すなわちこのリ及びレは、もと右のクル、コル、コロなどと同語の省略されたもので、日本語またかつて同様であった事が知られるのである。かの神武天皇の御製と伝えらるる歌に、「えみしひとりももひと」とあるものも、夷人の勇猛なるその一人に対して、我ら天孫民族の百を以てするの義で、異族たるエミシに対して、天孫民族にヒトの語が用いられているのである。しかるにそのヒトの語がだんだん拡張せられて、先住民なり帰化人なりの、天孫民族に同化融合されて成立した、一般日本民族に対して用いられる事になり、はてはこれに当つるに一般人類を意味する漢字の「人」字が用いられて、遂にはクル、またはコルコロ類似の古語は死語となったが為に、多くの人の中においても、特に皇族より分れ出でたる人こそ真のヒトであるという事から、ここにマヒトの称号が起ったものであろう。
 右は八姓の首たる真人の語の由来の説明であるが、それと同じ様に、そのヒトなる語がさらに拡張されて、エミシもまたヒトであり、特に毛が多いが為にケビトと呼ばれる様になっては、これに対して日本民族こそ真の人であるという意味を以て、先住民たる毛人に接触する日本民族が、マヒトと呼ばれる様になったものであろうと思われる。しからばすなわちここにマットとは、ケットに対する一般普通民の義であらねばならぬ。しかもそれが或る特殊の地方民にのみ限って用いらるる事は所謂ケットに接触し、ケットから恐れられて、マット狢などと呼ばれた為に、その人たちにのみ保存されたと解せられる。

 マットむじなと云う語は、ケット部落に近き今も越後、信濃の山間地方において行われ、その語を以てよく真人村の人をからかうそうである。ことに子供らがマット狢と云ってこれを恐れ、眉に唾を付ける風があったなどは最も面白い事実であった。そしてその語の説明に、マットは人を騙すが故だとは、所謂真人村の住民にとっては迷惑千万の次第であるが、ケットに接する人々の間にはかつては、そんな事実があったのであろう。欧洲人が未開人に対し、火薬といつわってねぎの種を高価に交換したという話もある。利源を求めて山奥に入り込む程のものが、純樸なる山人を欺いて私利をほしいままにしたという事は、ありうべきところである。去る七月北海道に遊んで、五十年来アイヌ教化に没頭しておらるる英国人バチェラー氏らとともに、長官の午餐に招かれた際の氏の話に、近ごろアイヌがよく人を欺く、これに対して注意を与えると、アイヌは、これはシャモ(和人)の真似をしているのですと答えますと言われた。北海道に入り込んで、アイヌ相手に利益を漁る程のものは、実際純樸なる彼らを欺いて、無価値なものを高価に売り付け、或いは酒を飲ませ酔いに乗じて彼らの宝物を貰って来るなど云う事をしばしば耳にするのである。その後旭川新聞記者近江正一君の書いた「伝説の旭川」を読んでみると、その中に「アイヌの謔は和人の罪」と云う一節があって、

今日でこそアイヌは和人以上の狡猾さを見せて居るが、当時(明治初年)は純朴で、神に近い位であつたといふ。古老の話に依ると、ラムネ瓶の中にあるガラス玉を宝玉と偽つて、焼酎の二三本も飲ませて強く酔はせ、熊の皮や鹿の皮と其ラムネの玉を交換した悪辣なシヤモも少くなかつたさうだ。アイヌも漸次それを知つて、「シヤモはヅルイ奴」と承知し、遂には反つて和人が欺かれる様になつた。彼等を狡猾にしたのは和人の罪であると云つてもよろしい。

とある。所謂マット狢は、明治の北海道にも少からず入り込んだのである。和人必ずしも詐偽漢ではない。しかし夷地に入り込んで利益を求めようとする程のものにはこれが多い。寒心すべき事だ。マット狢の語を聞いて、感慨ことに深からざるをえぬ。
 案ずるに我が天孫民族の国家の発展は、「豊葦原の瑞穂国を安国と平けくろしめせ」との天津神のざしを受けたものだとの、確乎たる信念のもとに行われた。したがって先住民族を虐待し、暴力を以てその国を奪うという様な事はなく、常に徳を以て導き、恩を以て誘い、懐柔手段を以てこれを同化融合せしめんとするにあった。それは歴代の対夷政策の実際を見れば明らかである。またこれを古伝説に徴するも、天孫降臨以来代々国津神の女を妃と択び給うたとある。国津神はすなわち先住民で、その相互の関係は、天津神は父たり、夫たり、国津神は母たり、妻たるの間柄であった。かくてここに我が日本民族は成立したのである。しかしながら、長い年代の間には時に平和手段に破綻を生じ、為に先住民の暴動を惹起して、国家の威力を以てこれを鎮定せねばならぬ場合も少くはなかった。所謂征夷の軍これである。これが為に短見なる史家をして、時としては我が国また掠奪的国家の一つであるかの如く思わしめる事がないではないが、征夷の事の如きは畢竟一時の変態であって、我が対夷政策の本体ではない。しかもこの変態事項を必要とするような破綻の発生は、往々にして所謂マット狢の如き小事から胚胎する。かの宝亀年間における上治郡の大領伊治公呰麻呂これはりのきみあぜまろの反の如き、その乱遂に延暦の末にまで及び、ようやく坂上田村麻呂の征討によって、これを鎮定するをえた程の大事件であったが、しかもその直接の原因は、呰麻呂の出身がもと夷俘であったが為に、心なき牡鹿おしか郡の大領道島大楯みちしまのおおたてが、常にこれを遇するに夷俘を以てした事を恨んだが為であった。勿論そこに大爆破を見るまでには、他にも幾多のマット狢の類が跳梁した事を見遁してはならぬ。
「ケット」と「マット」、その語は甚だ簡単で、その語るところまた一つの興味ある民間説話というに過ぎないが、しかもその含蓄するところすこぶる大なるものがある。我が日本民族の発展史を攻究するもの、深く思いを致すところがなければならぬ。(昭六、十、九)

底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「歴史地理 第五八巻第五号」
   1931(昭和6)年11月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年6月30日作成
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