自分は昨年一月の本誌神祇祭祀号において少彦名命の研究を発表した中に、説たまたま谷蟆たにくぐの事から、引いてクグツ(傀儡)の名義にまで一寸及んだ事であった。それには、古事記に少彦名命の事を知っておるものが久延毘古くえびこであり、その事を大国主神に申し上げたものが多邇具久たにぐくであったという、その谷蟆とは傀儡子くぐつの事ではなかろうかというのであった。すなわちクグツは蟆人くくびとの義ではなかろうかというのである(五巻一号二二頁―二三頁)。それには延喜式内久久都比売くくつひめ神社、倭姫世記の久求都彦くくつひこの名を引合いに出したのであったが、当時はそれが研究の目的でなかったから、説いて詳細に及ばなかったのみならず、考えの到らなかったところもあり、また後から思いえたところもあり、ことにその問題を引き起すに至った所謂谷蟆なるものについても、深く考慮を廻らすに至らなかったのであったから、今その説の不備を補い、いささかその名義の由って来るところを論述してみたいと思う。そもそも浮浪民の問題は、我が古代の社会状態を知る上において、既に本誌上において手をつけている俗法師や土師部とともに、(既に本誌三巻五号において述べた如く)我が古代特殊民構成の三大要素ともいうべきものである。これらの三大要素は、本来その起原を異にするもののみではなく、またその起原を異にしたものがあったとしても、多くは一度一つの大きな水溜りに流れ合って、それにいろいろの落伍者が流れ込んで、互いに錯綜してさらに種々の流れに分れ出でて、後世見る様な雑多の様子を異にした特殊民をなしたのである。そしてその浮浪民の最も著しい現われは、すなわち中古に所謂傀儡子すなわちクグツであった。今このくぐつ名義考は、自分が本誌において引き続き俗法師や土師部の研究を発表するとともに、残れる一大要素たる浮浪民の研究を、相並べて発表せんとする手始めをなすべきものである。

 傀儡子をクグツということの名義について説をなせるもの、喜多村信節の画証録(天保十年)に、

久々都の名義を考ふるに、日本紀に木祖きのそや久久能智とある久々は茎にて、草木の幹をいふ。は男を尊む称なり。と通音なり。又大殿寮祝詞に、久久遅命(是木霊也)とあるなど思ふに、木もて作れる人形を舞はし動かす時は、神あるが如くなる故、さは名づけしにや。又海の物など入るる器物にくぐつといへる、万葉などに見ゆ。袖中抄に「裹」字をよみて、莎草くゞを編みて袋にしたるをいふ也、万葉集抄には、細き縄を持物入るゝものにして、田舎の者の持つなりといへり。これらは物異なれば名義もおなじからぬにや。
 草をもて作れる物故、さる名のあ※[#小書き片仮名ン、116-17]なるにや。

 とあるを管見に入るの初めとする。これより先文化二年の谷川士清の倭訓栞にも、くぐつについて種々の記事はあるが、その名義には及んでいない。ただ袖中抄を引いて莎草くぐを編みて袋にしたるをくぐつというとのみあって、その語と傀儡子との関係には及んでいないのである。古く鎌倉時代、おそらく弘安頃の著と考えらるる塵袋にも、「傀儡トカキテククツトヨム二字心如何」との見出しで説明があるが、それも文字の解釈のみで、またクグツの語には及んでいないのである。
 先年柳田國男君は、川村杳樹の名を以てその巫女考を郷土研究の誌上に連載せられ、その第十一「おさを持てる女」(一巻十一号大正三年一月)の題下に、

古来の通説に従へばクグツは一種細い縄を以て編んだ袋の事で、傀儡の漢字とは直接の連絡はない。
古くは万葉集巻三の、
 潮干シほひの、みつの海女あまめのくゞつ持ち、玉藻刈るらんいざ行きて見む。
といふ歌から、近くは明治三十五年に出版せられた若越方言集に、クヾツとはかますなり。物を入るる物なりとあるまで、多くの書物にそれが一種の袋であることを証拠立てゝ居る。多分は山沢湿地に自生する莎草くゞといふ植物で其袋を製したのであらう。クグで作つた袋をクヾツと云ふとは一寸分らぬが、事によるともとは其草をも、クヾツ又はクヾチなどと謂つたのを、後に製品と区別する為にクヾにしたのかも知れぬ。……傀儡子と呼ばれた昔の漂泊部曲が、又クヾツを以て呼ばるるに至つたのは、多分は特殊の袋を携帯して居た為で、袋を持つたのは日用品を之に入れて、引越に便利な為であらう。……

 と述べられて、袖中抄以来の袋のクグツと傀儡子のクグツとの間に、或る連絡を求めておられるのである。
 喜多村氏の説は傀儡子を以て本来人形舞わしであるとして、それから説明を求めているので、折角ながらこの説は今日では従い難い。柳田君の御説はそれから見れば大いに進んだもので、本誌七巻三号の倉光君の報告せられた「かまとクグ」(五九頁)によると、今でも山陰地方では、山子・木挽こびき・石屋等に限って、かます様の藁縄製の袋を携帯しているが、旧皮屋部落の青年が、それをかまで作ったものを持っておったとあるのも思い合される。蒲または藁製の袋と莎草くぐの袋とはその製作材料は違っているが、叺様に作る点においては同一であって、かつて莎草の供給の潤沢であった時には、もっぱらそれで作ったものであろう。その材料としては、蒲または藁よりも、莎草の方が確かに体裁もよく、また丈夫なものであるから、古くそれが用いられたに疑いはない。
 なお漂泊民と莎草との関係を彷彿せしめるものに、自分は今物語の浄人きよめの話を提供したい。今物語は藤原信実の著だとあって、鎌倉時代のものであるが、それにはこうある。

或蔵人の五位、月隈なかりける夜革堂かうどうへ参りけるに、いと美しげなる女房の、一人参りあひたりける。見捨て難く覚えけるまゝに、言ひ寄りて語らひければ、大方左様の道には協ひ難き身にてなんど、やう/\に言ひしろひけるを、なほ堪へ難く覚えて、帰りけるにつきて行きければ、一条河原になりにけり。女房見かへりて、
 玉みくり(浮)きにしもなど(なれど)(根)をとめて、ひきあげ所無き身なるらん
と独りごちて、浄人きよめが家のありけるに入りにけり。男れしもいと憐に、不思議と覚えけり。

 浄人きよめとは本来掃除夫の称で、一条河原に小屋住居した所謂河原者すなわち小屋者である。彼らは河原の如き空閑の地に佗住居して、市中の汚物掃除などを行い、それによって衣食の資を得るもので、文安の※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄にはこの河原者をエッタ(穢多)とある。やはり傀儡子すなわち漂泊民の徒だ。大江匡房の傀儡子記によると、男子は狩猟をなすかたわら各種の遊芸に従事していた趣きに見えているが、鎌倉時代にはその遊芸に従事する方は猿楽・田楽・呪師・放下等の類に変って、傀儡の名ではあまり呼ばれなくなったと見え、塵袋に、「傀儡と書いてククツと読む」云々の条に、

昔はさま/\の遊び術どもをして、人に愛せられけり。今の世に其の義なし。女は遊君を事とし男は殺生を業とす

 とある。浄人がエッタと呼ばれたのも、彼らが殺生を業として、屠者すなわち餌取えどりの類と見做された為である。そしてその女が遊君を事とするというのは、右の河原者なる浄人の女房が美しく着飾って、一人あるきし、蔵人の五位の目を引くに至ったのによっても察せられる。すなわちこの浄人は、これ所謂儡すなわちくぐつであったのだ。そしてその女が、五位の官人に袖を引かれて、「大方左様の道には協ひ難き身」だと云ったのは、おそらく身分の懸隔に遠慮したのであろうが、その歌に、「玉みくり」と詠み込んだのは、すなわち莎草くぐを以て己が身分を示したものと解せられるのである。実はこの歌の意味は自分によくはわからない。試みにしいて解するならば、「我が身はもと浮きにし身分のものなれど、玉みくり根をとめて、引き上げることの出来ぬものだ」との心であろう。ミクリは和名抄に三稜草とあって、クグすなわち莎草とは別に並べて出してあるが、本草和名には莎草の条に一名三稜草とあって、両者そう区別のないものである。そしてこの浄人の女が己が身分をあらわすに、わざわざ玉みくりとしも云ったのは、けだしくぐつの名を隠語に示したものではなかろうかと思われるのである。
 ともかくも漂泊民たる傀儡子と持物の莎草くぐ製の袋とは離れ難いもので、その関係は自分が本誌六巻五号に、乞食を「おこも」ということの由来を論じて、薦蓆こもむしろを携帯した僧を薦僧と言い、山陰道筋の鉢屋をとまとも、かまとも云ったのは、薦を携帯しているが故に薦僧であり、またその薦を苫として小屋がけの屋根をくが故に苫と云い、或いはその材料が蒲であるところからかまと呼ばれたと考えたのと軌を一にするものである。莎草も蒲もその用途は似たもので、現に山陰道筋の旧皮屋の青年が、蒲で作った叺様の袋を持ち、山子や木挽石屋に限って、藁縄で作った同形のものを持っているというのによっても傍証せられるのである。すなわちクグツの名がその持物たる莎草くぐ製の袋から来たという説は、確かに拠あるものと云ってよい。
 しからばこの説はもはや他の異説を容るるの余地なきまでに動かし難いものであろうか。

 今一つ安藤正次君によって、歴史地理三十三巻三号(大正八年三月)に発表せられた新説がある。それは傀儡の二字の朝鮮音から導かれたのであろうというのである。崔世珍の訓蒙字会によると、傀儡の朝鮮語は Koang-tai で、その ng を日本語に移すと、gu になる例であるから、Koang が Kugu となり、ついにクグツになったのであろうと言われるのである。それには我が傀儡子によく似たものを高麗で「広大」と云ったが、その朝鮮音はやはり Koang-tai で、傀儡の音と殆ど同じであるとの事をも援引せられているのである。安藤君は傀儡子は本来支那より朝鮮を経て日本へ来たものであると考えられて、高麗の広大の徒なる揚水尺の一派の、歌舞伎芸を業とし、傀儡の戯を伝えたものが、我が国に流浪し来って、これとともに傀儡すなわち広大の名称をも輸入し来ったものではあるまいかと言われているのである。かくて氏は、我が袋の一種をクグツというのも、揚水尺が柳器を編んで販売するのを業とすることから考えると、朝鮮から来たこれらの徒の製作したものであるから、その製作者の名を取ってこれをクグツと呼び、後にはその様に作られたものを一般的にクグツと呼ぶに至ったのではあるまいか。莎草をクグというのも、かえってクグツから出たのであろうと言っておられるのである。
 なお安藤君は、顔氏家訓などに傀儡子を俗に「郭禿」とあるから、その支那音の転訛からだとの仮定説も立ちうるが、それは取らないと言っておられる。
 安藤君のこの説はまことに面白い着眼で、ことにその広大との比較は最も力あるものと思われるのである。もし我が傀儡子の起原が支那にあり、或いはそうまででなくとも、朝鮮の広大と同じ流れのものだということが果して信じえらるるならば、これはまことに動かぬ鉄案だと思われるのである。しかしながら傀儡子の起原が果してそう外に求められねばならぬものであろうか。

 クグツの名がその持物たるクグ製の袋クグツから導かれたろうという柳田君の御説、傀儡または広大の朝鮮音から移ったのであろうという安藤君の御説、共に捨て難い感があって、自分は実際上その去就に苦しむ次第である。しかしながら、まず安藤君の御説を承認するには、彼らがもと内地発生のものではなくして、朝鮮から移って来たということをも同時に承認する必要がある様だ。この問題が幸いに証明せられさえすれば、もはや何らの疑いも遺らぬ訳であるが、実は西洋にもジプシーの群がある様に、この種のものは何処にでも発生しうるものであるから、類似の状態の下にいる社会の落伍者が、彼此ひし類似の経路を取って、類似の境遇に流れ込むという事は、何処にもあってしかるべきものと思われる。したがって自分は大体において、日本民族が朝鮮民族と同一系統に属すと認むる見地の下に、日本のクグツすなわち傀儡子も、朝鮮の揚水尺すなわち才人・禾尺かしゃく等の源をなすものも、やはり同一系統に属するものとは認めているけれども、それが為に必ずしも我が傀儡子の祖先が朝鮮から渡来した流民だと考える必要はないと信ずる。また我がクグツの名の起原は、支那の傀儡の語が朝鮮に入って、もしくは支那の傀儡子そのものが朝鮮に入って、ここに所謂広大となったのよりも、或いは古いものとも考えているのである。そしてこの意味からして、その名が持ち物のクグ製の袋から来たということを決定するには、かの薦僧或いはかま・苫等の特殊民の名の起原が、持物或いは住居の模様から起ったと決定する様に、そう手軽には運び兼ねるの感なき能わぬのである。
 しからば何に由ってその名の起原を古しというか。既に少彦名命の研究にも一寸述べておいた様に、我が国津神の中に久久都彦・久久都媛という二神の名の見ゆることによってである。倭姫命世記によるに、倭姫命天照大神を奉じてその鎮まりまさん地を求め、和比野わびのより幸行いでます時に久求都彦くくつひこに行きあい給い、汝の国の名は何と申すかとお問いになったところが、久求小野くくのおのと申すと答えたとある。この書は十分信用し難いものではあるが、平安朝を下る様なそんな新しいものではない。したがってそこに延喜式内久久都比売神社のあることと考え合せて、古く伊勢に久求都彦という土人の神の伝説のあった事は推測せらるるのである。久久都比売神社いつに久具神社と云い、大水上神の児久々都比古命・久々都比売命を祀ると延暦儀式帳にある。倭姫世記にも久求小野くくのおの久求社くくのやしろを定め賜うたとある場所で、今の度会郡内城田村上久具にその社はあるのである。その地は宮川の上流に瀕した山間の平地で、久求小野という名もふさわしく、大水上神の子の住地としても適当な場所である。大水上神の名儀式帳以外他に伝うるところあるを知らぬ。けだし里から離れて川上に住み、自然農民とは生活状態を異にして、クグツの祖神と仰がれたものではなかろうか。久求都彦・久求都媛の住地が久求小野であってみれば、なお阿蘇の土神を阿蘇都彦・阿蘇都媛と云い、伊勢の土神に伊勢津彦があった様に、久求という地の彦・媛ということに解せられるが、しかもその久求小野の名が莎草くぐの繁茂した小野の義にも解せられ、ことにそれが大水上神の御子神だとあってみれば、もともと川上住居の土着神であった伝えは否定し難いであろう。儀式帳には大神宮摂社の中に大水上神の御子神を祭ったものが式内七社式外九社もあり、また別に大水上御祖神というのも出ている。その族類この地方において余程繁延しておったものと思われる。そしてその御子神の中に久久都彦・久久都媛の二柱のますことは、一畝の田を耕さず一枝の葉を取らなかった我がクグツ族との間に、何らかの因縁を求めえられぬものであろうか。
 古事記にはまた伊奘諾・伊奘冊二尊の御子に、山の神・野の神などと並んで、木の神久久能智神くくのちのかみというのがある。日本紀の一書には、やはり山の神・野の神・土の神などと並んで、かみたち句句廼馳くくのちと号すともある。しかるに延喜式の祝詞のりとには、屋船久久遅命(是木霊也)とあって、ククチの神とも云っていたものらしい。飛騨のたくみとして木材の扱いに慣れた山間の飛騨人は、弘仁の頃までなお「言語容貌既に他国に異なり」と言われておった。木の霊なるこのククチの名が、弓馬に便にして狩猟を事とした我がクグツの名との間に、また何らかの関係ありげに思われるが、これはまだ確かな説を得ておらぬ。したがって今はしばらくその名の類似をのみ述べて、他日の研究に保留しておきたい。

 我が古語に遍満行き渡らぬ所なきことを表わして、「天雲の向ふす極み、タニグクのさ渡る極み」、或いは「タニグクのさ渡る極み、潮沫しほはねの留る限り」、或いは「タニククのさ渡る極み、かへら(櫂歟)の通ふ極み」、或いは「山彦の答へん極み、タニグクのさ渡る極み」などいう成句がある。これは「天の壁立つ極み、国の退き立つ限り」とか「青雲のたなびく極み、白雲の向伏す限り」とか、「船艫ふなのへの至り留る極み、馬の爪の至り留る限り」などあるのと同じく、「どこまでも」の義に用いたものであった。しかるにそのタニグクまたはタニククを、時に或いは「谷蟆」または「谷潜」などと書いたが為に、一般にこれは蟾蜍ひきがえるの事であると解している。自分もさきに少彦名命の研究を書いた時には、その解釈の下に説をなしてみたのであったが、さらによく思うに、蟾蜍を以て遍満行き渡らぬ所なきものの比喩に用うることは、いかがであろうかと思われてならなくなった。なるほど古代には蟾蜍が多かったのかもしれぬ。しかしそれが果して古く解する如く、水をくぐりていかなる谷にも住むという意味(年山打聞等)の名であるならば、谷には到る処にこれを見るという形容には或いは当るかもしれざれども、これを潮沫の留る限りとか、天雲の向伏す極みとか、山彦の答えん極みとか、かえらの通う限りとかいう様な、普遍的の語と相対比すべきものとは思われぬ。
 また事実蟾蜍は谷にのみ住むものではなく、むしろ樹木の茂生して落葉の重なり腐った湿潤の地や、人家の床下などの暗いところに多く住んでいるので、したがってその名に特に「谷」の語を冠した意味も解し難いと言わねばならぬ。祝詞考には、「蝦蟆が一歩の一寸にも足らぬものを、ものゝ狭き極みのたとへとす」と説明してあるけれども、他の比喩の例に徴してこの説明は従い難い。或いはその名が古事記伝の説の如く、ククと鳴く声によって得たとしてみても、この挙動のいかにも緩慢なる、ことに冬の間は全く土中にのみ籠ってその姿をあらわす事なく、快晴なる昼間には多くは隠れて、陰雨の際或いは夜間にのみ出てあるく様な陰性の動物を以て、かかる場合の比喩形容に使用すべしとはいかにしても不適当と謂わねばならぬのである。けだし語部かたりべがこれを語り伝うる際においては、他にもその例を見る如く、殆どその原意を忘れて、ただ古来語り来ったままにこれを後に伝えたのであったかもしれぬが、本来の意義は決して蟾蜍の事であったとは思われぬのである。
 また同じ語部のかたごとの中に、久延毘古くえびこが少彦名命の事を知っているとの事を、述べたという多邇具久たにぐくも、従来谷蟆すなわち蟾蜍と解せられているが、それも蟾蜍と解してはいかにも落ちつかぬ感がないでもない。久延毘古は山田の曾富騰そほとだとあって、それを案山子かがしの事だと解しているが、仮りにこの解を正しとして、童話的に動物や非情の物品が物言う筋の語り言として見ても、案山子かがしの友は雨蛙などならばこそあれ、そこへ蟾蜍を引き出す事も不自然と謂わねばならぬ。ここに久延毘古とはクエすなわち蝦夷カイ族の男子の称で、山田の曾富騰とは山田の番人であろうとの事は、既に論じておいた。(少彦名命の研究五巻一号一六頁以下)それをソホトというは赭人そほびとで、なお色黒き民族を、クロンボすなわち黒人くろびとと云うと同じ振合いのものであろう。彼らは一方に山田を守って猪鹿の害を防いだが故に案山子かがしをソホトと云い、一方に田に水を注ぐの事に役した故に、水車をソホズと云う事にもなったので、本来の曾富騰は案山子でも、水車でもなかったに相違ない。そしてそのソホトはもと実にクエ彦の党類であったのであろう、との事も既に論じておいた(同上二一頁以下)。古事記に、曾富騰なる久延毘古は足は行かねどもことごとく天が下の事を知るとあるのは、そのソホトが案山子の事だと解せられた後の註解で、本来はソホトすなわち久延毘古は、足よく各地に及んで、ことごとく天が下の事を知っておったのに相違ない。ここにおいて遍満行き渡らざる所なきタニグクとの関係が見出されるのである。
 久延毘古のみがその素生を知っておったという少彦名命は一にクシの神とあって、クシすなわち蝦夷カイの神にますことも既に論じた(同上七頁以下)。しからばすなわちソホトも、久延毘古も、またクシの神なる少彦名命も、皆同一の党類であったと申さねばならぬ。そしてそのことごとく天が下の事を知れる久延毘古を大国主神に紹介したタニグクが、また天が下に遍満して行き渡らざる所なき比喩に用いらるるものであってみれば、これまた自ずから、本来同一状態の下にいる漂泊性人民の仲間であったらしく推測せられるのである。
 高野に谷の者なる一群の住民があった。もと山内の雑務に役する一種の賤民で、なお京都で河原者・坂の者など言われた輩と同じく、社会の落伍者が、谿谷の間に小屋懸けして住んでいたことから得た名であろう。しかし谷の者の称はひとり高野にのみではない。江戸にもかつてエタを谷の者と呼んだ事が森三谿君の報告に見えている(四巻四号二六頁)。土佐その他にもこの名称は少くないらしい。しかし河原者や坂の者がいつまでも賀茂川の河原や清水坂にのみ住んでいなかった様に、谷の者もいつまでも谷にのみ住んでいたものではない。幸いにその地に定住して職業を得たものは格別、本来は彼らは浮浪漂泊性のものであって、足跡所謂天下にあまねく、見聞の範囲の極めて狭かった当時の一般民衆の間にあっては、彼らはことごとく天が下の事を知るの物識りであったのに相違ない。なお言わば、京都の市街が出来て後にこそ、また附近の平地が大抵官衙かんがや富豪その他一般民衆によって占領せられて後にこそ、その地において生活の道を求むべく流れて来た浮浪民の徒は、賀茂河原や清水坂の如き空き地に小屋がけして、所謂河原者にも坂の者にもなったのであろうが、その以前の様子を考えてみたならば、大御田族おおみたからとなって農耕の業に従事し、住所を平地に求めて公民権を獲得した民衆以外の浮浪民は、なお伊勢の宮川の上流に住んでいたという久久都彦・久久都媛の如く、普通は水がかりのよい、また農民の捨てて顧みない山間の谷あいにその住居の地を求めて、多くは谷の者であったのであろう。そして自分は、天下に遍満して行き渡らざる所なしと解せられ、またことごとく天が下の事を知れる久延毘古を大国主神に紹介したと言われたタニグクを以て、この意味における谷の者に擬定せんとするのである。すなわち彼らは谷グクであり、ククツであったと言わんとするのである。
 傀儡子という漢字をあてられた我が本来のクグツは、平安朝大江匡房の頃には、一定の居なく水草を逐うて移徙いしし、男は狩猟を主として傍ら各種の遊芸に従事し、女は美粧して婬をひさぐを業としていたらしい。しかるに鎌倉時代塵袋の頃になっては、その遊芸の方は分業となって自ずから流れを異にし、クグツの女は遊君の如く、男は殺生を事とすとある。これらの時代になっては、彼らの仲間には既に各種の落伍者が流れ合って、もはや民族上一般民衆とそう区別のないものとなっていたであろうが、本来のクグツは或いは久延毘古などと同じく、取り残された蝦夷族の遺蘗いげつ[#「遺蘗いげつ」はママ]であったのかもしれぬ。或いは公民となるの機会をはずした、弥生式民族の落伍者であったのかもしれぬ。いずれにしてもその名称は、浮浪漂泊の生活をなしている人々に対して負わせたものであったに相違ない。そしてそれが谷の者であり、谷クグと呼ばれたものであってしかるべく思われる。

 以上論じたところを約言すると、我が国におけるクグツの名は、倭姫世記に見えた久求都彦くくつひこ、延喜式内社に見える久久都比売くくつひめ、或いは古語に遍満至らざる所なき比喩に引かるるタニグクなどと関係のあるもので、もともと浮浪漂泊性の部族に名づけた名称であろうということになるのである。しかしそれではククの語が何を意味するかが明らかでない。古く祝詞のりとに「谷蟆」の二字を以てタニグクに当ててあるが為に、タニグクはすなわち蝦蟆の古語であろうとは古来一般の解するところである。ことに九州の或る地方には蟾蜍ひきがえるをドンク或いはドックウ・トンクワウなどというので、これただちにタニグクの古語の遺れるものだと合点して、蟾蜍すなわちタニグクだと極めてしまうのである。しかしながら、もし果してタニグクがかの挙動緩慢なる、ことに陰性にして不愉快極まる蟾蜍であるならば、それを以て遍満至らざる所なき、めでたきためしの比喩としては、甚だしく不適当であること、既に述べた通りである。また「蟆」の一字をタニククとませた例もなければ、「蟆」は畢竟ククの音に当てた仮名であって、それ自身タニグクではなく、上に「谷」字をつけて始めてタニグクとなるべきものと考えられるのである。或いは本居翁の言われた様に、蝦蟆がその鳴き声からククの名を得ていたかもしれぬが、古えの文筆者がタニグクの名を記述するに当って、必ずしもこれを蝦蟆の種類のものだと考えていなかった事は、万葉集や高橋氏文には常にこれを多邇具久などと仮名書きにし、祝詞の筆者も或いは「谷潜」の文字を用いているのによっても察せられよう。さらにこれを平安朝以来の一切の古い辞書類について調べてみても、蝦蟆の類にタニグクまたはククの名あることを知らぬ。
 ことに蟾蜍には、和名抄・本草和名・新撰字鏡・伊呂波字類抄以下、すべて比支(或いは比支加閇留)と訓してあるのである。しからばいずれにしても、タニグクが蟾蜍であるということは、証拠甚だ不十分であると謂わねばならぬ。しかし古い辞書にククと呼ばれる蝦蟆の種類が見えぬからと云って、かつてその称呼がなかったとは断定し難い。言語には往々死生のあるもので、古い語が全く廃れて忘れられるということは、その例甚だ多いものなることをも考えなければならぬ。さればよしや古語のタニグクが蝦蟆の類でないとしても、既に祝詞の執筆者がタニグクに谷潜とも谷蟆とも用いてあることを考えてみれば、「潜」にクク(リ)の訓があると同じ様に、「蟆」にもククの古名があって、それをククの仮名に用いたのであったと考えても必ずしも不稽の説ではないのかもしれぬ。
 ここにおいてか自分は考える。社会の落伍者たる浮浪漂泊性の部族がクグツの名を得たのは、彼らが谷間に粗末な小屋を作ってその中に住し、そこが都合が悪しくなれば随時他の適当な地に移る。所謂水草を逐うて移住するもので、あたかも蝦蟆すなわちククが水辺に棲んで出没自在なるが如きものだ、ククの様なものだとの事から、蟆人くくひとすなわちククトの名を得たのではあるまいか。或いは彼らが好んで谷間に住むから、それでタニククの名を得たのであるかもしれぬ。既に谷ククまたはククトの名が出来たならば、ククツはすなわちそのククトの一転訛であるに過ぎない。或いは吉野川の上流に住んだ先住民の※(「薛/子」、第3水準1-47-55)いげつたる国栖人が、好んで蝦蟆を喰って上味としたという様に、彼らが蝦蟆を常食としていたので、それで蟆人くくひとの名を得たのであったかもしれぬ。国栖また実に一種の谷の者であったのだ。或いはクグツの名の起原は別にあって、それを谷グクと云い、蟆また一方にククと呼ばれていたから、それで「蟆」字を仮りて谷グクの名を表わしたのであるかもしれぬ、いずれにしても彼らは、一種の谷の者であったに相違ない。そして邦人の最初に接した谷の者は、実に本邦原始住民たる蝦夷カイの族であった。カイの名は今も千島アイヌの称として存し、一方にはクシの神(少彦名命)或いはコシ(越人)の名によって伝わるクシ或いはコシ、または今も樺太アイヌの称として、また同時に久延毘古の名によって伝わるクエと根原を一にする語で、カイはすなわち今のアイヌ族と同じ系統に属するものである。そしてそのカイの語を漢字を以て音訳するに当って、文字もあろうに「蝦夷」すなわちカエルの夷を以てしたことは、彼らが蟆人すなわちククトとして呼ばれていた為であったかもしれぬ。自分はさきに少彦名命の研究において、蝦夷の文字と蟆人との関係を以て、日本紀に隼人はやとを狗人と云った事に比較しておいたが(五巻一号二三頁)、今にして思うに、穿鑿やや足らなかった感がないでもない。隼人を狗人と呼んだのは、隼人の国が魏志に所謂狗奴くな国に当るとの推定からであると自分は考えている(この事は近ごろ流行の邪馬台国の研究に関連して、いずれ本誌上で詳説したい積りである)。そしてその狗奴クナはすなわちクマで、もと「狗」の字に意義はなかったのである。しかるにそのクマを魏志に狗奴国と音訳したので、確かに魏志を参照した筈の日本紀の編者は、本来クマ人の同類である筈の隼人が、吠ゆる犬に代りて宮墻を守るという事から、これを狗人と書いたと考えるのである。しからば両者その関係は相似てはいるけれども、一つは狗奴の名から狗人の称を得、一つは蟆人くくひとの名から蝦夷の文字を当てられたというので、関係が正反対であった。これはさきの記述に一部訂正を加うべきところである。大体かの少彦名命研究の頃には、谷蟆を以て蟾蜍と解し、蟾蜍が到る処に行き渡る事より、遍満の比喩に引いたのだという旧説に囚われていたが為に、大体において蟆人の解釈には誤謬はないとしても、多少説明に行き届かぬところがあったのだ。それは本編の記事を以て訂補した事に御承知願いたい。
 因に云う、谷蟆或いは傀儡子くぐつの語原はククであったらしい。仮名書きには久久都・久求都、或いは多邇久々とある。それを久爾具久タニグクともあるのは、下についた音の頭を濁る例によったので、クグツというのもやはり音の転訛であると考えられる。

 最後に、[#「最後に、」は底本では「最後に,」]莎草くぐの名とクグツの名との関係を考えてみたい。既に袋の一種に古くからクグツというものがあり、莎草くぐで袋を作り、しかもクグツなる浮浪民がその袋を持っておったとあってみれば、この三者の名の類似の間には、相通じたる何らかの関係のあることを否定する訳には行かぬ。この点において柳田君の御説は、どこまでも尊重せねばならぬものである。しかしながら、莎草くぐの名がもとで袋のクグツが起り、袋のクグツから浮浪民にクグツの称が起ったのか、或いは浮浪民をクグツと呼んだのが本でクグツ袋の名が起り、クグツ袋からその材料に用いられる草にクグの名が出来たのか、或いは莎草くぐとクグツ袋とは名の間に全然無関係で、偶然その袋の材料の或る物にクグの名があったのかは問題である。
 クグは和名抄に莎草の文字を当ててある。そして別に三稜草を出して、それにはミクリと訓じてある。しかるに伊呂波字類抄には、ミクリに莎草・三稜草・※(「くさかんむり/仍」、第3水準1-90-70)草の三者をあて、別に莎草をククと訓じてあるのである。これは本草和名にも莎草一名三稜草とあって、両者もとその別なく、或いは細かく言えば多少の相違があるとしても、双方殆ど区別するところなく用いられていたものらしい。しかるにそれに両名の伝わっているのは、もとミクリが共通の名であって、それをクグツ袋に作るのでクグの名を得たのであるかもしれぬ。しかもそれが共通に用いられていたので、今鏡に見ゆる一条河原のキヨメの女が、自己のクグツなる身分をあらわさんが為に、玉みくり根をとめて、引きあぐる所なき身だと云ったものと解せられるのである。果してしからば莎草をクグというのはすなわち末であって、クグツの持物なる袋の材料という意味から得た名と解せられるのである。

 以上論じ来ったところを約言すれば、傀儡子たる浮浪民をクグツと呼んだことの根原は、結局確かなことはわからないというに帰着する。しかしながらその名称の由来の古いことは、川上の谷間の平野に住んでおった筈の土着神に久求都彦・久求都媛の名があり、その住居の平野を久求の小野と呼んでいたことからも察せられる。そして一方には谷グクの名があって、遍満行き渡らざることなきの比喩に用いられていることは、クグツが一定の居所を有せず、天下到る処を家として、かの交通の開けざる、土着人見聞の範囲の極めて狭かった時代において、広く各地に往来し、案山子かがしだと言われた久延彦くえびこすなわちアイヌの男子が、足は行かねどもことごとく天が下の事を知ると言われた事にも思い合されるのである。実際クグツは当時にあって、最も博識なるものであったに相違ない。(クエ彦また実に一つのクグツで、農民に雇われて山田を守り、猪鹿の害を防いだので、ついに山田のソホドとも呼ばれ、はては案山子の様に解せられるに至ったから、足は行かねどもという語部の語も出たのであるが、しかもなおことごとく天が下の事を知るとの語のあるのは、彼が一つの浮浪民であった為で、その事を谷クグが知っておったというのは、やはりクグツの縁を語ったものである。この事は本誌神祇祭祀号〔五巻一号二一頁以下〕に詳説しておいた。)その名義については、クグ草とクグツ袋と浮浪民たるクグツとの間に関係があるらしく、谷クグというのも畢竟彼らが農民と別社会をなすに至っては、所謂谷の者として多く谷間に住んでいたが為であって、谷グクすなわちクグツであると解するのである。
 そのクグすなわち莎草との関係については、莎草くぐで編んだが故に袋にクグツという名が出来たとは、既に柳田君も疑われた如くちと受取りにくい点がある。これはむしろ傀儡子たるクグツの名が本で、その持物たる木偶に中世クグツの名が出来、またそれを手に持つことから一にテクグツとも呼ばれ、はてはクグツすなわち人形を舞わすが故に、本来のクグツなる傀儡子をクグツマワシとまで云うに至ったが様に、傀儡子のクグツの持物たる袋にクグツの名が付き、そのクグツを作る材料なるが為にミクリなる莎草にクグの名が出来たと見るのが妥当であろう。そしてその傀儡子たる浮浪民をクグツと呼ぶに至った根原は、もと蝦蟆がその鳴声からククと呼ばれ、一方浮浪民が多く人目を避けて夜間などに徘徊すること、またその好んで谷間に棲息することなどから、これをククすなわち蝦蟆に比して、蟆人くくひとすなわちクグトと呼びそれがクグツともなまり、谷クグとも呼ばれるに至ったものであろう。浮浪民たる傀儡子の一種に、アルキ横行(或いは単に横行)、アルキ神子、アルキ白拍子などの名称が中古に存し(大乗院寺社雑事記、本誌四巻一号六頁)、その土着したものに後世まで行筋あるきすじなる名称が遺っているというのも、彼らがもといかに天下を横行したかを示すに足るべきもので、谷グクの遍満到らざる所なき比喩に用いられたことと思い合すべきものではなかろうか。
 なお傀儡子そのものの性質、変遷、末路等に至っては、編を改めて記述するの機あるべきことをねがう。

底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「民族と歴史 第八巻第四〜五号」
   1922(大正11)年10〜11月
入力:川山隆
校正:しだひろし
2010年9月10日作成
2011年1月18日修正
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