人間
お秋(26
その弟(16
沢子(22
秦(中年の仲仕)
阪井(片腕の仲仕)
初子(24
町田(25
杉山(36
女将
客達
仲仕達

或る港の酒場

(一) 沢子の室


六畳。それに続いて向かつて左の隅に三畳。おそい午後。まだ電燈がつかない。三畳の方は殆んど真暗である。六畳に沢子が寝てゐる。三畳の暗がりにお秋の弟が机に坐つて封筒張りをしてゐる。――紙の音がバサバサ聞える。間――
沢子 (身じろぎをして、三畳の方へ襖越しに)恵ちやん。
弟 ――(答無し。紙の音)
沢子 恵ちやん。――恵ちやん。まだお仕事は済まないの?(弱々しく)そんなに、あんまり詰めてすると、また、眼が痛み出してよ。――ねえ。少し休んだらどう?
弟 ――(答無し。紙の音)
沢子 ――まだ姉さんは帰つて来ないの?
弟 ――(答無し。紙の音)
沢子 (返事をされない事には慣れてゐるらしく)――また秋ちやん、鑑札を取上げるとか何とか言つて、おどかされてゐるんだわ。――ほんとに、秋ちやんはいつも苦労の絶間がないわねえ。――苦労を一人でしよつてゐるんだわ。――ほんとに、――。
弟 ――(答無し。紙の音)

沢子 ねえ、恵ちやん。あんたは、いゝ姉さんを持つて仕合せだわねえ。私なんぞ、あるにはあるけど――(間)ねえ、もうお師匠さんとこへ出かける時間ぢやないの?
弟 ――(答無し)
沢子 早く切り上げて行かないと、また姉さんに叱られてよ。よ、恵ちやん。私はね――(続けようとするが奥の梯子段を昇つて来る足音に、言葉を切る)
奥から女将の声
声 沢ちやん。
沢子 ――
声 何を話してゐるの? ……大分元気さうだねえ。どう、身体の工合は?
沢子 えゝ……。
声 いつまでも、グズグズぢや私の方も困るんだがねえ。どうとかもう……。
沢子 えゝ、それは、よく解つてゐます。ゐますけど――腰がまだ痛んで――。
声 いえさ、無理をしろとは言やあしないさ。しかしねえ、お前が休んでから、もう一週間だからねえ。それに、なんだよ。こゝんとこ桟橋ぢやあんなに船が立てこんでゐて、あの連中今日明日にも下船するとかしないとか騒いでゐるんだろう。あんな、ストライキだなんて言つても、何にもなりやしない事はわかつてゐるさ。せんの時だつてさうだつたものね。しかし私達にして見りや、こんな時に稼いどかなけりや、冥利が悪いと言ふもんだよ。それで――。
沢子 本当でせうか、下船すると言ふのは?
声 本当にも嘘にも浜ぢやまるで火事場の騒ぎだよ。おまけに、浜仲仕の組合でも一緒にストライキをおつぱじめるんだとさ。何が何だか馬鹿げたお話だけど、なんしろさうなると九百人からの仲仕が暇になるんだから、さうなるとお前、私の店だつて――。
沢子 ごめんなさい、おかみさん。それは、出ろと言はれれば明日からでも――。
声 何を言つてゐるんだよ、私や無理にとは言つてゐないんですよ。だけどさ、いくら何だつて私んとこだつて、それぞれの都合があるんだから――。
沢子 えゝ。わかつてゐますわ。
声 だから、なりたけ早いとこ快くなつてくれなくつちや――。
沢子 えゝ。おかみさん、なんなら、ぢや、私、今晩からだつて、私、貰ひますから。
声 いえさ、私や何も催促してゐるんぢや無いんだよ。初子はあんな事になるし、秋ちやん一人ぢや手がたりないから、つい、言ふんだよ。――だからさ、別に急ぎやしないやね、とにかく早く快くなつておくれよ。(降りて行く足音)
沢子 えゝ、――えゝ。
短い間
弟 畜生! 畜生が!(低い呪ふ様な声)
沢子 恵ちやん。
弟 畜生が! とにかくだつて! 急ぎやしないと言やあがるんだ。無理はさせないと言やがるんだ。――畜生が! 無理をさせようとしてゐるんだ。せき立てゝゐるんぢや無いか。
沢子 何を言つてゐるのよ?
弟 沢ちやん、お前、明日の晩になれば病気がよくなるのかい?
沢子 だつて、おかみさんが、あんなに言ふんだもの。
弟 彼奴は畜生だ、だにだ。
沢子 そんな事、大きな声で言つてはいけないわ、恵ちやんだつて、まあ厄介になつてゐるんだから、もしも――。
弟 (泣く様に)さうだ、厄介になつてゐる。
沢子 ――それに、どうせ、私の身体は、いつまで休んでゐたつて、スツカリよくなる身体ぢや無いしね、私やつくづく――ほんとに――(声を立てないで泣く)
短い間
弟 沢ちやん、お前、泣いてゐるの?
沢子 いゝえ、――泣いちやゐないのよ。泣いちやゐないのよ。
弟 ――工場であんな事にならなきや、よかつたんだ。俺の眼がこんなにならなきやよかつたんだ。そしたら俺が。
沢子 ほんとにねえ。
弟 そしたら俺が、皆をどうにでもしてやつてたんだ。姉さんだつて、こんな――。
沢子 しかし、恵ちやんの眼が開いてるたつて、仕様が無かつたのよ。――つまりが金なんだから、金には勝てないもの。
弟 ――どうにも仕様がない? ――さうは思はないんだ。俺、さうは思はないんだ。――そりや金は無いけど、眼が見えてゐたら、俺、殺してやるんだ。――あの畜生だとか皆の処へ来る水兵だとか職工だとか、書生だとか、船の奴等なんぞ、みんな、打殺してやれたんだ。――俺あ、何もかも知つてゐる。
沢子 ――
弟 姉さんは俺を一人前のあんまにしてやるために、夜になるとお師匠さんとこへ行かせるんだけど、だけど、それだけのためぢやないんだ。(間)姉さんは自分達が何をしてゐるかを、俺に聞かせたく無いんだよ。俺に知らせたく無いんだ。――しかし俺はみんな知つてゐる。――知らないでいゝ事まで知つてゐるんだ。――俺が人の肩につかまつてあんまをしてゐる時に、姉さんや沢ちやん達が何をさせられてゐるか、俺は知つてゐるんだ。すると、俺は人の肩なんぞもんでゐられない。――肩の骨をへし折るほど強くもんでやるんだよ。――その内にへし折つてやるんだ。
沢子 そんな事してはいけないわ。秋ちやんが心配してよ。秋ちやんに心配させまいと思つたらそんな事しないで、早くおとなしく勉強しなきや駄目よ。――それに恵ちやんが、どんなにくやしがつたつて、おいそれとは、どうにもならない事だもの。
弟 さうだ、どうにもならない――だから俺は。(眼を押へる)
沢子 それよりも、早く立派なあんまさんになることよ。そしたら姉さんだつてこんな所にゐないでもよくなるわねえ。
弟 世間の奴は、みんな畜生だ。俺と姉さんを置いてきぼりにしたおやぢおふくろが第一畜生だよ。畜生!畜生!
沢子 そんな、それは恵ちやんにはまだ解らないわ。どんな訳があつたかも知れない。――私にだつて国には子がゐる。――もう三つになつてゐるわ。それに母親がこんななんだから。(寂しく笑ふ)
弟 何と言ふ名だよ?
沢子 忘れてしまつたわ。――いゝえ、忘れてしまはうとしてゐるの。だから、言はないで頂戴もう――。
弟 逢ひたいかい?
沢子 (寂しく笑つて)無いわ。いゝえ、逢ひたく無いわ。――逢はない方がいいわ。
弟 その子も、俺の様に封筒張りをしてゐるね?
沢子 さあね、しかしまだそんな事出来ないから――。
弟 いゝや、きつと封筒を張つてるよ。
短い間
沢子 しかし恵ちやんは、秋ちやんの様にいゝ姉さんを持つて、まだ、どんなに仕合せだか解らない。
弟 ――姉さんは夜おそくなつて一人で泣いてゐる事があるよ。隠してゐるんだけど、俺にやわかるんだ。――姉さんに今の様な事をさせないためなら、俺ら死んだつてママはないんだ。あゝ、何でも無いよ。
足音をさせないで職工服の秦が六畳の方へ入つて来る。包と辨当箱を下げてゐる。
姉さんは、俺らのために、こんな事をしてゐるんだ。俺にや、いくら一生懸命になつても一日に十銭より封筒は張れないんだ。――畜生! 世間の奴等! 畜生! 肩を、へし折つてやるんだ。畜生!(荒く立上つて、三畳の左隅の障子を開けて出て行く)
秦 どうしたと言ふんだい?
沢子 あなた、又来てくれたの。
秦 どうしたんだい?
沢子 恵ちやんよ。秋ちやんの弟の。
秦 それはわかつてゐるんだけど、何をあんなに怒つてゐるんだね?
沢子 眼が見えないし、あの子も可哀さうなのよ。
秦 ――しかし別に今に始まつた事ぢや無いんだし――。お秋さん居ないの?
沢子 えゝ、昨日の臨検騒ぎで警察へ行つたつきり、まだ帰つて来ないわ。――なにね、先刻さつきおかみさんが来て、私に嫌みを言つたもんだから、それから恵ちやんが――。
秦 嫌みてえと、また――。
沢子 えゝ、早く出てくれなくちや困ると言ふのよ。
秦 その身体でか?
沢子 私、もうどうなつたつていゝから明日からでも貰ふつもりでゐるわ。
秦 そんなお前、無茶な――。
沢子 かまはないわ。――もう私なんぞ、こんなにひゞの入つた身上しんしやうだし。
秦 そいつあ、やけと言ふもんだ。
沢子 やけだつて何だつていゝぢや無いの。――それに寝てゐれば、食べるものだつてロクロク持つて来てくれないんだもの。――もう四日前から秋ちやんがおごつて呉れるものだけだわ、食べるものは。
秦 さうか――。

――あゝ、こないだ話してゐたの、持つて来たよ。
沢子 なあに?
秦 (包を出して)これさ、薬だよ。薬屋でさう言つたら、向ふの奴、ニヤニヤ笑つてゐやがつた。(寂しく)ははは。十日分も買つて来りやよかつたんだが、手が廻らなくて、これは三日分だ。無くなつたら又此の次にするよ。(弱々しく)しかし、食ふものも食はないぢや、薬だつて効くめえ――。
沢子 (泣き出してゐる)
秦 だけど、まあ、その内にや何とかなるよ。何を泣くんだね。困るなあ。泣く事は何も無いぢやねえか、え? おい(短い間)
沢子 (自分の気持とは反対の語調で)新さん、私、そんなもの要らないよ。
秦 え?
沢子 そんな薬なんぞ要らないよ。
秦 どうしてだよ。まあ? 急に又何を言ふんだ? お前の身体を心配すりやこそ――。
沢子 (強いて)ほつといておくれ、お前さん、そんな金がよくまああるね。――(泣声)お前さんにや、妻や子は可愛く無いの? 妻子の事は考へないの? なんだつて、なんだつて又私みたいなこんな――。私や知つてゐるよ。あんな気立のいゝおかみさんや子供をかつゑさしといて私に、私に薬を買つて来る金が、よくあつたねえ。要らないよ、私や。
秦 そ、そんな事を言つたつて――。
沢子 私やこんないけない女だよ。こんな、腐つた様な女のどこがよくつて、お前さん、妻子をうつちやつといてやつて来るの? たかが平職工の取る金位で、さ――。
秦 (気色ばんで)なに、なんだつて!(しかし再び気弱くしよげる
沢子 さうぢや無いか。そんな、そんな余分の金が在つたら、おかみさんに、ちつたあお米の苦労位させなきやいゝぢや無いか。私が妬いてこんな事言ふんぢや無い事は、お前さんも知つてゐるね。――私や、お前の気が知れないよ。帰つておくれ、家へ帰つておくれ。帰つておくれつてば!(声を出して泣く)
永い間
秦 ――(独言の様に沈んだ調子で)そりや、知つてゐるよ。俺が一番よく知つてゐる。――内の奴あ、可哀さうな奴だ。子供だつて可哀さうだ。そりや知つてゐら。――お前と俺とは去年、此処でヒヨイと知り合ひになつたばかりの仲だ。――奴等あ俺のかゝあや子供だ。それは知つてゐるよ。しかし、仕方が無えんだ。俺の気が弱いせいだから、仕方が無えんだ。――

沢子 新さん。(やさしい)
秦 ――?
沢子 お前さん、お前さんは――。
秦 何だよ?
沢子 私が、もし、一緒に死んで呉れと言つたら。
秦 え?
沢子 いえ、もし、死んで呉れと言つたら、どうするの?
秦 どうする?
沢子 どうするの?(間)
秦 ――一緒に死ぬよ。――死なあ。
沢子 おかみさんや子供は?
秦 可哀さうだ。可哀さうだけど。
沢子 (気を変へて)お前さんは、馬鹿だねえ、冗談だよ。
秦 (相手の調子に釣られて弱く、薄笑ひと共に)馬鹿よりも、いくぢ無しの方だろう。
間――二人ともヂツとしてゐる。
六畳だけに電燈がパツとつく。
あゝ、電燈が来やがつた。(あたりを見廻はす)
沢子 もう帰らなきや、本当に悪くは無いの。
秦 あゝ、そろそろ帰るよ。(沢子に蒲団を着せてやる)お秋さんは馬鹿におそいねえ。
沢子 もう直きだろ。
秦 この薬は飲んでくれ。
沢子 せつかくだから貰ふわ。しかし今度から、そんな事するのは止してよ。――なあに、私、別に大した事は無いんだから。(女将に向つて何か言ひながらあがつて来るお秋の声)
声 ――えゝ、ようござんすわ、おかみさん、私からよくさう言ひますから。――沢ちやん今帰つてよ、どうなの、身体の工合は?
沢子 お帰んなさい。――ありがと、大分いゝわ。それで――。
お秋 (障子を開ける、勝気らしい、それで非常にやさしい表情をしてゐる)あれ、秦さん来てゐるのね。
秦 (辯解する様に)いや、ほんのチヨイと先刻、病気だつて言ふから、どうしてゐるんだらうと思つてね。どれ、ボツボツ帰るかな――。
お秋 ま、いゝわ、そんなに私を怖がらなくたつて、何も取つて食はうたあ言やしないから。
秦 なに、お秋さんからなら取つて食はれたつて、関やあしないけど、どうも――。
お秋 あんな事を言つてるよ。私の居ない時をねらつてチヨクチヨク此処へ来てゐる癖に。ね、沢ちやん。
沢子 (微笑)どうだか。――それで秋ちやん、どうだつたの、××の方は?
お秋 なあに、何でも無いのさ。初めつから別にどうしようと思つてした事ぢや無いんだもの。あの××なんぞ、私の背中を撫ぜたりしてね、俺が今度行つても、あげて呉れるかなんて言ふのよ。――人を馬鹿にしてるわ。
沢子 ――済まないわねえ、いつも秋ちやんにばかり苦労をさせて。
お秋 何を言つてゐるのよ。それがあんたの癖よ。これ位の事、私や苦労とも何とも思つてやしないわ。あたり前の事だわ。
沢子 済みません――。
お秋 ま、何を言ふんだねえ。――(三畳の方を顧みて)恵一はもう出かけたか知ら。
秦 さつき、何か怒つて出て行つた。
お秋 怒つて?
沢子 なに、私と少し話をしてゐたばかりよ。
お秋 (心配を押し包んで)あの子はとても怒りんぼだからね。眼が見えないもんだから、ひがみもあるのよ。
秦 眼は両方ともまるで見えないの?
お秋 えゝ。――見えないと言つても、眼はあんなに開いてゐるから、はたから見ると盲だとは思はれない位よ。しかし時に依ると、物の形だけ極くボンヤリと見える時もあると言つてゐるんだけど、どうだか。
沢子 そんな事を言つて秋ちやんに安心させたがつてゐるのよ。――姉さんのためなら、どんな事でも、何でもする、と言つてたわ。
お秋 (寂しさを押しかくし笑つて)そんな事を言つたつて、盲の子供に何が出来るもんか。
秦 先に工場へ行つてたつてねえ?
お秋 えゝ、その頃はよかつたんだけど、生れつき弱い奴だし、それに、何ですか、工場であんまり細い仕事をさせられて眼を悪くしちやつてね。――しかしま、もう後二年もすれば相当のあんまさんになるつて言ふんだから。
沢子 さうなつたら、いゝわね。秋ちやんもさうなれば。
お秋 どうだか。あぶないもんだわ。
沢子 秋ちやんも、それから恵ちやんも、仕合せだわねえ。――私なんざ――。
お秋 また? 又、そんなに泣き出すの。泣虫――。私達姉弟にくらべて、お前さんがどう不仕合せだつて言ふの? もう後、たつた一年で何もかも気楽になるんぢや無いの。そりや、そりや、そりやかうして、こんな所にゐるのは、地獄にゐる様なものさ。だけど、そんな泣言を言へば、それがどうなると言ふの? 地獄は地獄さ。それがどうしたつて言ふの? 泣虫!
秦 さうだ、さうだ、そんな今更言つて見たつて――
お秋 それより早く、身体を治してさ、ピンとしてりや、そんな――。
秦 さうだよ。人間、苦しいことを言へば、きりは無えんだから。俺なんぞも、これで、お前――。
お秋 そんな事言つても、(咎めると言ふよりはなだめる様に)新さん、ノコノコ沢ちやんに通つて来るんだからね。小さいのは、達者?
秦 こいつあいけねえ? 藪蛇だ。もう帰る、帰るよ。あやまつた。
三人弱々しく笑ふ。
お秋 (しんみり)おかみさんもだけど、小さいのには、よくしてやらなきや駄目よ。親に捨てられたが最後、子供はどうなるか知れないんだから。私達姉弟がいゝ見せしめだわ。
沢子 ――私も早く帰つて呉れと、先刻から言つてゐるんだけど――。
秦、しよげている。
お秋 私にやわからないわ。新さん、私、変な事を言ふ様だけど、あんた、家を持つてゐる身体で、どうしてそんなにこんな所にばつかりやつて来るの?
秦 そんな、俺だつて、さう始終やつて来るんぢや無えよ。
お秋 だつてさ、さうぢや無いの? あんたが妻子つまこがありながら、沢ちやんの所へ来るのも、度々言ふけどそんな気持も、私だつて解つちやゐるのよ。そりや人間には、自分がかうと思つても、さうならない事もあるもんだわ。――だけど、つまりが、それは間違ひだわ。
秦 そりや俺だつて――。
お秋 知つてゐるなら、どうしてさうしないの? しかし、私はさう思ふわ、物事はやつて見なきやならないのよ。やつてみなきや、出来るか出来ないか、わからないのよ。
秦 わかつた。わかつたよ。
沢子 この人はいくぢ無しよ。
秦 いくぢ無しだ。さう言はれりや――。考へて見りや家の奴等が可哀さうだ。さう思つてはゐるんだけど――。今度の騒ぎだつてさうだ。俺にはどうしなけりやならんかは、よくわかるんだ。それで何も出来ない。黙つて見てゐることしか出来ない。――俺と言ふ男はさうした人間なんだ。
お秋 …………。
秦 さうだから仕方が無えんだよ。
お秋 さうした人間だつて、あゝした人間になれない事は無いわ。その時が来れば。
秦 (ボンヤリと)さうさ、――時が来れば。(間)俺には今度の阪井さんの気持だつてよくわかるんだ。阪井さんの言ふことは本当だ。船の連中だつて仲仕の方だつて同じだ。連中がせつかくあゝやつてストライキを始めたのを、それを仲仕の方ぢや応援もしてやらねえで、あべこべに撲るなんて間違つてらあ。
沢子 随分けが人が出たつてね。
秦 あゝ、そん中の三四人はウツカリすると死ぬかも知れねえ。――みんなが阪井さんの言ふ事を聞かねえんだ。あの剛腹な、ウインチに片腕もぎ取られても笑つてゐた阪井さんが、泣いてゐたのを俺は見た。秦君、俺ももう手を引くよつて言つた。
お秋 手を引くつて、なんだつて又――。
秦 もう、あいそが尽きたんだろ。尽きもするわね。
短い間
お秋 本当にもう帰つたらどう?
沢子 お願ひだから、帰つて、私、苦しくなるから。
秦 あ、帰るよ。――(立上る)大事にして呉れ。(出て行く)
間――お秋は今秦の言つたことをヂーッと考へこんでゐる。
お秋 (気を変へて)沢ちやん、あんた、泣いてるんぢや無い?
沢子 ――いゝえ。
お秋 (薬包を見て)これ何?
沢子 新さんが持つて来て呉れたのよ。
お秋 薬なのね。――私にもようく解るわ。本当に、あんたも新さんも――。(語調を変へて)馬鹿だよ。
沢子 秋ちやん、私や、私や、もう――。
お秋 ほら、ほら、もう始まつた。わたしや聞かないわよ。おのろけなら、もう沢山。
沢子 ――秋ちやん、――あんたはあたしには、本当の姉さんの様に思へる。秋ちやんが居なかつたら私、もうとつくに死んでしまつてゐるわ。
お秋 (わざと嘲る様に)何を馬鹿々々しい! 私は、そんな、愁歎場は大嫌ひだわよ。いゝ加減そんなメソメソした事は聞き飽きてよ。初ちやんの時にも散々さんざつぱら見せつけられてゐる上にさ――。
沢子 初ちやんだつて、そりや、秋ちやんをお母さんの様に頼りにしてゐたわ。
お秋 まあま、お母さんだなんて、可哀さうに私をいくつだと思つてゐるの。
沢子 だつて、そうだわ。秋ちやんがあんなに骨を折つてあげたからこそ、町田さんと一緒になれたし、それに。
お秋 もう沢山。――しかし初ちやんと言へばどうしてゐるんだろう。
沢子 あれから一度も手紙も来ないの?
お秋 それは、私が手紙のやりとりなんかしないと言つといたからね。あゝやつて、やつとこんな泥水の中から逃げ出せたんだもの、もうそんな泥水の事なんぞ、こつから先だつて思い出しちやいけないんだわ。
沢子 うまく行つてるかしらん。――杉山さんとはスツカリ手は切れたの?
お秋 そりや、もう、とつくに切れてるわ。――さうさ、うまくやつてるのよ、きつと。町田さんはあんなんだし、初ちやんは断髪だし、モダンボーイにモダンガールとやらで、よろしくやつてゐるのよ。
沢子 うらやましいわねえ。
お秋 うらやましいわ。
沢子 それと言ふのも――。
お秋 黙れ! ははは、これは阪井さんの真似よ。(右手を突出して)そんなこつ言ふのは黙れ!
二人笑ふ。
沢子 阪井さんと言へば、今秦さんが、騒ぎから手を引くと言つてゐたと言つたけど、阪井さんが居なければ、組合の方では困ると言ふぢや無いの。本当かしら?
お秋 何が?
沢子 手を引くと言ふこと。
お秋 私にやよく解らないわ。
沢子 近頃阪井さん来ないの、秋ちやんとこ。
お秋 時々来るにや来るけど、あのだんまり屋が、――たまに何か言ふと、黙れ!(右手を突出す)
二人笑ふ。
階下したから呼ぶ女将の声。
声 秋ちやん! 秋ちやん! 何してゐるの? 秋ちやん!
沢子 おかみさんが呼んでゐるわ。
お秋 お客が来たんだわ。なに、少し放つときやいゝんだ。
声 秋ちやん! 何を又グズグズしてゐるの、少し下にも来てお呉れよ。私一人ぢや手が足りなくて困つてゐるんだから。
お秋 (障子から顔だけ奥へ突出して)はい、はい、今行きます。
声 はいはいぢや無いよ。御病人の看病は後にしておくれよ。この忙しいのに!
お秋 わかつてるわ。私、直ぐに仕度をしますから。
声 病気々々つて、何が病気だか本当に知れやしないよ。まるでお嬢様みたいに思つてゐるんだからね。(二階まではハツキリ聞へないが、まだグズグズ言ふ)
沢子 秋ちやん、私、今晩から起きるわ。その方がいゝわ。一人か二人のお客だつたら――。
お秋 何を馬鹿を言つてるの! そんな事言ふと私が承知しないわよ!(階下へ)おかみさん、沢ちやんはまだ駄目よ。私が沢ちやんの分まで引受けます。(沢子に)なあに平気よ。それ位のこと、この私に出来ないと思つて? ところで、さ、戦闘準備だ。あんたの鏡台貸してね。さ、忙しいぞ。
沢子 えゝ、いゝとも。――済まないねわねえ。
お秋 チツ、又言つてるよ。(安つぽい赤の長繻絆を見せ半ば肌脱ぎになつて、鏡台に向つて化粧しながら)――私なんざ、お上手でゐらつしやるからね、沢ちやん見たいにへまはしないのよ――一体あんたは、お客に少し親切過ぎるのよ。――だから病気なんかになるんだわ。――白粉が濃過ぎたかな。どう?
沢子 いゝえ、それ位で丁度いゝわ。――あんたの肌はいつも綺麗だわねえ。どうしてさうなんだらう。私なんざ若いくせに――。
お秋 そりや、クヨクヨ物を考へないからよ。
沢子 私、時々、あんたに抱かれて寝たいわ。――あんたの肌を見てゐると、私、小さい時に別れたお母さんを思ひ出すんだもの。
お秋 私が男なら、沢ちやん、惚れて?
沢子 えゝ、惚れるわ。死んでもいゝわ。
声 (階下から女将)秋ちやん! 秋ちやん!
お秋 今、行きます。(帯をしめ直す)――沢ちやん、あんた、あの、秦さんと何か約束でもしたんぢや無い?
沢子 いいえ、どうして?
お秋 なに、それなら、それでいゝんだけど。――さあこれでよしと。今晩はね、私、少し勇ましくやるからね、あんた、聞かない振りをしてゐて頂戴。(出て行く)
階下の酒場で、数人の人が酒を飲んで騒いでゐる物音。
遠くで、汽船の汽笛の響。
沢子は頭を枕に伏せてヂツとしてゐる。
同じ二階の何処かで二三人の人の足音。廊下のギチギチ鳴る音。
男の酔つた声と、お秋の声。
声 惚れて通へばつて言ふぢや無えか―な、な―横須賀くんだりから来たんだぜ――。
声 だからさ、うれしいと言つてゐるんぢや無いの――。
声 痛え! 畜生、その手だ。――その手でたぐり寄せられる奴だ。――ひとつ、ヌクヌクと、てめえを抱きてえばつかりに、だ。――どつちだい?
声 こつちよ。――それ、そんなに薄情なんだからね。――そんな事言つてゐても、お前さん、直ぐ眠つてしまふ奴さ。
シーンとする。
六畳の障子が奥から開いて、頬に傷跡のある杉山の顔だけがヌツと出る。何かを捜す様に室の中をヂロヂロ見廻した後、引込む。
階下の騒ぎ。
汽笛の音。
再び奥から覗く杉山の顔。ズツと室へ入つて来る。
杉山 おい。
沢子 え? あ、杉山さん。
杉山 沢ちやんだつたか。――おい、何処にゐるんだい。なには?
沢子 何が?
杉山 早く言つてくれよ。知らない振りをしたつて駄目だぜ、何処に隠してあるんだい。
沢子 何を言つてゐるんだか、私にや解らないわ。
杉山 白つばくれるなよ。俺は知つてゐるんだぜ、何もかも。
沢子 だつて、あんた、何の事だか――。
杉山 まだそんな事を言ふのか、俺は――。
足音がして、少し乱れた着物をして、手に何か持ちながら、お秋が入つて来る。
お秋 あゝあ、やつと寝ちまやがつた。――沢ちやん、あんた、これ食べない(手に持つたものを置かうとして、杉山を見る)おや!
杉山 お秋さん、久し振りだなあ。相変らず全盛だね。
お秋 ま、杉山さん。(間)ほんとに久し振りねえ。どうしたの? あれ以来、スツカリお見限りね。現金なもんだわ。
杉山 さうでも無いさ。
お秋 そして今夜は? どうして又?
杉山 わかつてゐるぢや無いか。
お秋 しかし、沢ちやんは駄目だし、私だけよ。こんなお婆さん。
杉山 そんな事ぢや無えさ。
お秋 だつてお前さん――。
杉山 何を言つてやがるんだ。――白つばくれるのもいゝ加減にしなよ。
お秋 おやおや、何の事なの一体?
杉山 その手を食ふか! 初子を出しなよ。初子を返してくれ。(ドツカリ坐る)返してくれるまで俺は此処で待つてゐるよ。
お秋 え、初ちやん? 変だねえ。初ちやんはあの時、チヤンとあんな話になつて町田さんとこに居るんぢや無いの? お前さんだつて今更――。
杉山 へ、何を言つてやがるんだ。――初子は町田さんとこにや昨日から居ないんだ。此処にゐるんだ。此処に来てゐるんだ。それを知らねえと思つてゐるのか。
お秋 へえ? どうしてまた、そんな?
杉山 どうしてもかうしても無いよ。文句を言はずに出してくれよ。
お秋 町田さんと喧嘩でもしたの?
杉山 そんな事、俺は知らんよ。
お秋 だつて、変ぢやないか。
杉山 変でも、何でも、彼奴、昨日町田んとこを飛出したなあ本当なんだ。
お秋 しかし初ちやんは此の家にや来てゐないわよ。私達、そんな話も聞かないんだもの、ねえ沢ちやん。
杉山 (信じない)何を言つてやがるんだ。
お秋 しかし、ねえ杉山さん。よしんば、初ちやんが此処に来てゐたつて、あんたとはスツパリになつてゐるんだし、何もそんなに言ふ事は無いぢやないの?
杉山 彼奴は俺んとこへ来たがつてゐるんだ。綺麗に出してくれりや、だから、文句は無いんだ。
お秋 そんな無茶を言つたつて、――杉山さん、お前さん、あれからも初ちやんや町田さんとこへチヨイチヨイ行つたんだね?――そして又金でも出さしてゐたんぢや無いの? さうぢや無いの?
杉山 ――そんな事、俺が知るもんかね。
短い間。
お秋 ――そんなことだらうと思つてゐたわ。――しかし本当に此処には来てゐないのよ。あれ以来一度だつて来やしないわ。おかみさんに訊ねたつて、コツクさんに聞いたつていゝわよ。
杉山 みんなグルになつてゐやがるんだ。そんな手に乗るかい!
お秋 そんな、人が本当に言ふ事をいつまでもうたぐるんだつたら、どうするの?
杉山 どうするつて? さうさ、此処で待つてゐるんだ。一日でも二日でも一ヶ月でも此処に坐つて待つよ。俺は彼奴を取返さねえぢや置かないんだ。
お秋 お前さんも変な人だわねえ。思ひ切りの悪い。――お前さん、お前さんだつて浜では相当鳴らした――。
杉山 大きなお世話だ。だからどうしたつて言ふんだ? ――だから俺や、変に隠し立てをすりや、何でもやるぜ。初子だつて町田だつて、変に立廻りや唯ぢや置かねえんだ。人を馬鹿にしやがつて!
間。
お秋 ――ぢや、此処に待つてゐるがいゝわ。私は嘘を言つてゐるんぢや無いんだから。
杉山 嘘をつきや、お前だつて、俺は――。
お秋 さう。――大変だわねえ。――沢ちやん、これ食べない、おいしいのよ。
沢子 えゝ、ありがと。
お秋 お食べよ。
声 (階下から男の酔つた)秋ちやん! おーい、秋ちやん、何をしてゐるんだ? 秋ちやん!
お秋 杉山さん、本当にあんた待つてるの?
杉山 あゝ、お邪魔をさして貰ふよ。
お秋 ぢや勝手になさいな。別に邪魔にもならないわ。(出て、階下へ去る)
間。
杉山、沢子をヂロヂロ見てゐる。
汽笛の音。
杉山 ――沢ちやん、お前どつか悪いのか?
沢子 えゝ――。
杉山 お客は取らずか?
沢子 えゝ――。
間。
杉山 綺麗だなあ、お前は。
沢子 ――そつちに居て下さい。
杉山 寂しいだらう?
沢子 ――何をするの? 何をするの?
杉山 ま、さう言ふなよ。何も別に、おめえ――。いゝぢやないか。――さう言ふなよ。
沢子 何をするの? 私、おかみさんを呼んでよ。秋ちやんを呼んでよ。秋ちやん――。
杉山 さう言ふなよ。俺、何もしやあしないぢや無いか別に何も――。(煙草を出して火をつける)
階下の騒ぎ。
――幕――
(二) 階下の酒場


少し淋しい位に広い。所々に置いてある安物の椅子テーブル。右奥に階段の昇り口。四五人のお客とお秋――今迄食ひ酔つてワイワイ騒いでゐたのがヒヨイと静かになつた所。正面の入口の所の外―舞台奥―からヒシヒシと詰めかけて入らうとする十人ばかりの仲仕達。

客一 何だ、何だ?
客二 どうしたつてんだい?
お秋 どうしたの、まあおはいんなさいよ。どうしたんですよ。
仲仕二 出せよ。おいお秋、出せよ、そんな白ばくれなくたつて!
仲仕四 早く出せよ、出して呉れよ。
仲仕五 電報だ。電報が来たんだ。本部から来たんだ。早く出してくれ。阪井さんが居なきや、どうにもならないんだ。
仲仕六 秋べえ、早く呼んで来てくれ。
お秋 どうしたのさ? 何を出すの?
仲仕一 阪井だよ。阪井を出してくれ。
お秋 阪井さん? 阪井さんがどうかしたの?
仲仕二 今、阪井がゐなければ、どうにも無らないんだ。あの男でなければ誰にもどうにも出来ない事が起きたんだ。
お秋 阪井さんは合宿の方にゐるんぢや無いの?
仲仕一 ぢや此処には来てゐないのかい?
お秋 来てゐないのかつて、阪井さんは一昨日おととい来たつきり此処へは来やしないのよ。あんた達にわからないものが、私にわかる筈は無いぢやないの。
仲仕五六 うそつけえ! 色女!
お秋 ま、何を言つてゐるのよ、本当よ。阪井さんは此処にや来てはゐないわ。うそだと思つたら二階に行つて捜したつていゝわ。
仲仕一 さうか、そいつは困つたなあ。何処に行つちまつたんだらう。なあにね、今朝だ、みんな浜のあれで気が立つてゐるんだらう。阪井が止せと言つても聞かないで、船の連中と喧嘩をしちまつたんだ。そのほかにも阪井の言ふ事に耳をくれなかつたものだから、阪井が合宿を出て行つちまつたんだ。なんでも朝鮮の方へ行くんだとか言つたさうだけど。
お秋 え、朝鮮へ!
仲仕一 しかし、船はみんな動かねえんだし、まだ立つちまう訳は無えんだけれど――とにかくこいつあ困つたなあ。
仲仕二 困つたつてお前、彼奴が居なけりや、おさまりが附かねえんだ。ほかを捜さうぢや無えか。早くしねえと大変なことになつちまわあ。
仲仕一 さうだ。ぢや行くか。――でねお秋さん、後でもし阪井が此処へやつて来たら、さう言つてくんねえか。俺達が捜してゐたつてね。組合の方へ直ぐ来てくれつて、やま三の親父も待つてゐるつてね。さう言つてくれ、頼むぜ。
お秋 えゝ、言つとくわ。言つとくにや言つとくけど、まあ一杯休んで行つたら。
仲仕一 さうしちや居られないんだ。ぢや頼んだよ。
仲仕達立去る。
客一 どうしたんだい。一体?
客二 なあに、浜の方の騒ぎさ、それ、方々の船の連中が、いよいよストライキであらかた下船しちまつたらう。あれさ。
客一 だつてお前、そりや船の連中だらう。今のは仲仕組合のもんだぜ。どうしたんだね。話がわからねえぢやないか。
客三 それはね、船が動かなくなりや仲仕の仕事が無くなる、船でストライキなんかやつて貰つちや五百人からの仲仕は飯の食ひ上げだつてんでね、切りくづしで夢中になつてゐるんですよ。それが嵩じて仲仕が海員協会へなぐり込みをやつたんだ。
お秋 けが人が随分出たつてねえ。
客三 さうだよ、協会にゐる山海丸さんかいまるに乗つてゐる男を私は一人知つてゐるがね、そいつも側杖を食つて(頭の横を押へて)こゝんとこをやられてね。なにしろ表から見たが、玄関のとこのはめ板が真赤になつてゐらあ。
客二 そいつあしかし解らねえ話ぢやないか、仲仕だつて労働者ぢや無いか。船の連中がせつかくこゝまでこぎつけたものを、なにも。
客一 それよ、――だけど一番大事なのは誰にしても自分の鼻の下だからな、無理も無えて。
客三 いや、そりや組合の中にだつて、ちつたあ骨の固い者はゐますよ。現に、仲仕の方もストライキに入つて一所にやらなきやいかんと言ひ張つた連中もゐたさうですよ。片腕の、それ、何と言つた、今の連中が言つた、なあお秋んべ、さうだ阪井なんて男は、さう言つたんださうだけど、なにしろ、仲仕の方は昔からのしきたりで親方がゐたり何かして、うまく行かないんださうだ。――それもさうかい。
客一 だが、これが、どうも世の中が段々おだやかで無くなつて来たなあ。
客二 止さう、そんな話。酒がうまく無えや、秋ちやん、もう一杯。
お秋 まだ?
客二 まだ? じよ、じよ冗談を。まだやつと三杯だ。何を言つてるんでえ……。
身体のガツシリした、左腕の無い阪井が冷たい沈んだ顔をして、黙つて入つて来る。
お秋 あ、阪井さん、今、あの――。
客達が阪井を見る――阪井黙つて左側の椅子にかける――間。
お秋 どうしたの?
阪井 ……(黙つてお秋を見る)
お秋 たつた今さつき、合宿の人達が大勢で見えて、あんたを捜してゐたわよ。――さう言つてくれつて、あんたが帰らなきや困るつて、山三の親方なども来てゐるつて。
阪井 さうかね――。
お秋 どうしたの? 身体の加減でもいけないの?
阪井 いや。
客一 おい、お秋ちやん、勘定だ。
お秋 はい。ありがたう。(客一の方へ行く)もうお帰り?
客一 又来るよ。今夜はこれからまだ山の手の方に用事があるんだ。
お秋 さう、いゝわね、いゝ人んとこ?
客一 冗談言ふなよ、それどころかい。あばよ。(出て行く)
お秋 左様なら、又どうぞ。(間)
阪井 おい、酒をくれ。
お秋 酒? あんた、酒を飲むの? 飲んでもいゝの? (左肩を押て)こゝ痛みやしないの?
阪井 大丈夫だよ。なあに。
お秋 さうー(酒を棚から下ろし、注ぐ)
客二 お秋ちやん、もう何時だい?(言ひながら阪井の方をうかゞふ様に注意してゐる)
お秋 さうね、(奥へ向いて)おかみさん、今何時です、おかみさん(返事無し)おや、居ないのかしら、――(奥へ入る)
客二 (阪井に)阪井さんと言ふんでしたね。
阪井 ……(相手を見てゐる)
客二 どんな風なんです浜の方は。
阪井 ……(黙つて酒を飲む)
客二 あんた、朝鮮へ行くと言ふのは本当ですかね? いつ行くんですか?
阪井 (相手を見て苦笑をする)
お秋 (出て来ながら)お湯かな、お湯へ行つたんだわ。あの今九時少し廻つたばかり。
客二 九時過ぎだつて? そいつあいけねえ、此処へ置いとくぜ。
お秋 あら、あんた、二階へ上つて行くんぢや無かつたの。
客二 さうしちや居られないんだ。又今度だよ。どうも世間がかうザワザワしてゐたんぢや、これでユツクリ遊んでも居られないや。ぢや。(出て行く)
お秋 変だわねえ――。
阪井 今のは何と言ふ人だい?
お秋 さあ、二三度来たばかりの人で、名前は知らないわ。
阪井 さうか……。
客の中の一人はテーブルに寄つたまゝ酔つて居ぎたなく眠つてゐる。その他の客は、以下劇の進行中に目立たない動作をして出て行く。
お秋 阪井さん。
阪井 ――(顔を上げる)
お秋 あんた朝鮮へ行くんだつて。
阪井 ――あゝ。
お秋 (手に持つてゐた何かをガタンと床に取落す。それを拾ひ上げて)さう――。どうして朝鮮なぞへ行くの。
阪井 どうして?
お秋 朝鮮に知つた人でもあるの?
阪井 そんなもなあ居ない――。
前に出た仲仕の中の一と二と三が急いでドヤドヤ入つて来る。
仲仕一 あ、居た、居た、居た! おい阪井君大概いゝ加減にしてくれ。捜したつて無かつたぜ。
仲仕二 のんきだなあ、俺達がこんなに心配してゐるのに御本尊はこんな所で酒をくらつてゐる。早く合宿へ戻つてくれよ、よ。
阪井 どうしたんだい?
仲仕一 阪井君、そりや、君の気持は俺達にもよく解るんだ。君が手を引くと言つた時にや、だから、俺達としては何とも言へなかつたんだ。しかし、君事情が今の様になりや。
仲仕三 船はもう大概空家同然だ。協会の方からもよろしく頼むと言つて来てゐるんだ。今俺達がフンバラなきや、何もかもオヂヤンだ。船の連中はまだ解雇はされてゐないけど、船主せんしゆ側の方でいつなんどき解雇してもいゝ様に、船員をかり集めてゐる。そのかり集め方を俺達の組合へ頼んで来てゐやがる。船が動かなきや荷役の方でも困るだらうから、よろしくお願ひしますと言やがるんだ。糞くらえ!
仲仕一 だからよ、今俺達がガンバラなきや、船の連中のストライキを俺達が破ることになるんだ。
阪井 ――俺は初めからさう言つた。
仲仕一 それがさ、あん時迄は俺達にはよく解らなかつた。然し君に煮湯を呑ましたなあ俺達ぢや無かつた。
阪井 それは知つてゐるよ。そんな事は、どうでもいゝさ。
仲仕二 ぢや来てくれるね。早く来てくれ。俺達十人ばかりで、組合の方にやつと三百人ばかりの連中をかき集めたんだ。今ワイワイ言つてゐる。何か喋つてくれ、奴等にどしやう骨を入れてやるのはお前で無きや出来ねえんだ。
阪井 そんな事を言ふな。今俺にはそんな元気は無い。今奴等の顔を見たつて俺には何も言へやあしない。
仲仕二 そ、そ、そ、そんなお前、そんないこぢにならなくたつて。
阪井 いこぢになつてゐるんぢや無いよ。俺は去年、この片手がウインチに、あんな事で喰ひ取られた時から、自分一人のいこぢな根性なんか捨ててゐる。――そんなこつちや無いんだ。
仲仕一 しつかりしてくれ、しつかりしてくれ、君が、君がそんな風だつたら、俺達はどうなるんだ。それを考へてくれ! 君は、君つて男は、自分一人の阪井ぢや無えんだ。俺達の阪井だ。
阪井 ――今になつて君等はそういふんだ。――俺の気持がこんなに押しつぶれつちまつてから。――ぢや言はう、この前の時も俺達は負けた。あん時、俺はたつた一人の妹を取られた。妹は俺をうらんで死んだ。勘辨してくれと俺が何度言つても、黙つて石の様に何も言はないで、俺を睨んだまゝ死んだ。あん時の顔が、あん時の妹の顔が――二三日前から、組合の連中の顔から俺を覗くんだ。俺をヂツと見るんだ――俺はさう思つた。これでおしまひだ。俺は奴等に何も言ふ資格が無い。誰かがその内に奴等の眼をさましてくれる。しかしそれはおれぢや無い。俺は途中からどつかへ落つこちる人間だ。沢山の俺みたいな人間が落つこちて、その後に来る奴が本当に皆の役に立つんだ。それは俺ぢや無い――。
仲仕一 だからよ、たゞさう言つてくれりやいゝんだ。俺の妹は俺をうらんで、俺を睨みながら死んだ。皆な自分の身内の者をそんな目に合はさない様にしつかりしろつて、さう言つてくれ。一時おくれりや一時の負けだ。まる二や山東さんとう丸菱まるびしぢやもう買収を始めてゐるんだぜ。奴等只でさへ腰がフラフラしてゐるんだ。
仲仕二 ぢれつてえな。おい、阪井君、君は。
一人の仲仕が戸を突き飛ばす様にして入つて来る。
仲仕 おい大変だ、早く来てくれ、本部に手が廻つてもう帰らうとしてゐる連中が随分ゐる! 今、ワイワイ騒いでゐる。早く来てくれ、手が足りねえんだ。
仲仕一 よし、ぢや丸菱の親爺に口を利かせるな、行かう、おい、阪井君来てくれ、君が来てくれなけりや――
阪井 俺なんかを頼りにしないで、やつてくれ。
仲仕二 ま、ま、まだ言つてゐる! そんなお前、そんなお前――。
仲仕一 とにかく、阪井、誰が何と言つたつて君が来て喋つてくれないぢや、皆は何ともならないんだ。考へ直してくれ。俺達は先へ行くから、放つとけねえんだから、頼むぜ、頼んだぜ。
仲仕達急いで出て行く。間。
阪井 (それまでヂツト隅の椅子から自分を見詰めてゐたお秋に)――もう一杯。
お秋黙つて立つて酒を注ぐ。短い間。
お秋 阪井さん、あんた本当に行かないの?
阪井 ――何が?
お秋 ――私や、今迄そんなあんただとは思つてゐなかつた。(短い間)
阪井 俺だつて。――ま、そんな事はもう言つてくれるな。――何だか馬鹿に気が滅入つていけねえんだ。こんな男だらうよ。
お秋 弟なんぞは、あんたのことを、いつも何て言つてゐるか。――だのに、あんたは、皆をおいてきぼりにして、朝鮮へ行くと言つてゐる――。
阪井 俺はこんな片はだ。そして一人ぼつちだ。
お秋 一人ぼつち? ――さう一人ぼつち。(下を向いて)私はこんな淫売だから――。
阪井 なに? 何だつて? それがどうしたんだい。俺は自分の言つたことは忘れやしないよ。俺がシヤンとして働ける様になれば、お前を女房にすると言つた。今でもさう思つてゐる。
お秋 まつぴら。
阪井 なに?
お秋 まつぴらだわ。私はいつまでも淫売で結構。
阪井 さうか――まあ、いゝ。
表――即ち舞台奥を何か罵り騒ぎながら走り過ぎて行く多勢の人の足音、その音に、唯一人残つて眠つてゐた客が目をさましてキヨロキヨロするが、再び眠り込む。
お秋 おや、どうしたんだらう?(戸を開けようとする)――(同時に、二階から階段に音を立てゝ杉山が降りて来て、階段の昇り口に立つたまゝ)
杉山 おい、お秋さん。
お秋 (戸に手をかけたまゝ)え?
杉山 いゝ加減にもう出してくれてもいゝぢやねえか。
お秋 くどいわねえ、居ないと言つたら居ないのよ。
杉山 そんな事を言つたつて、彼奴が町田んとこに居なくなりや、来るとこは、此処より外に無いぢやねえか。よ、そんな意地の悪いことを言はないで、チヨイとでいゝから逢はしてくれよ。
お秋 あんたもくどいのね。居ないものは何と言つたつて居る筈が無いわ。――よしんば、居るにしたつて、あんたがそんなに初ちやんの尻を追廻すことなんぞありはしないぢや無いの。
杉山 わからねえ奴だなあ。俺が彼奴を捜すなあ捜す訳があつての事だ。よし、そんな事を言やあ、初子が俺の前に姿を現はすまで、二階でお邪魔をするぜ。
お秋 えゝ、えゝ、さうしてりやいゝわ。
杉山 後で引退ひきさがつてくれつちつたつて俺は知らんよ。いいな。
お秋 (返事をせず)(杉山再び二階に上る)
阪井 どうしたんだよ。今のは?
お秋 なあに、例のお初ちやんさ、あの人を追廻してゐる人なの。
阪井 だつてお前、お初ちやんは、あん時チヤンと話がきまつて、何とか言つた、あの――。
お秋 町田さんところで、一緒に暮してゐたんだわ。それを今の人が未だにしよつちう、うるさくするもんだから、町田さんの家を昨日飛び出したつて言ふのよ。
阪井 へえ。(間)
お秋 阪井さん、あんた組合の方へは行かないの?
阪井 行かない。行つたつて今の俺にや。――今夜此処へ泊めて貰ひたいと思つてゐるんだ。合宿へは行きたくねえから。
お秋 えゝ、それはいゝけど。
阪井 なに、ホンの寝るだけだ。商売の邪魔はしない。恵ちやんの部屋だつていゝ。
お秋 いゝのよ、そんなこと、居たいだけ居ていゝわ。
阪井 恵ちやんはまだ帰らないのか?
お秋 えゝ、まだ。
阪井 ほんとにお前も大変だなあ。
お秋 (いろんな意味の怒りを一緒にして顔を引きしめて)なんなの?
阪井 え? 何んだよ? どうしたんだよ?(短い間――お秋はその間に元の様になる)
阪井二階へ行かうとして立上る。
お秋は阪井を見る。
お秋 あんたの死んだ妹さんは、あんたをうらんで死んだ。睨んで死んだわね。
阪井 ――?
暫く見合つたまゝ立つてゐたが、阪井の方から階段口の方へ歩き出す。
――幕――
(三) 同じ場所


夜更。
客は去つてしまつてガランとしてゐる。四十に近い女将は何かブツブツ言ひながら、店と奥との間を出たり入つたりして後仕舞あとじまひをしている。右奥に見えてゐる階段に音がして四十四五の小役人風の男が降りて来る。それに続いて、疲れたお秋が降りて来る。少し酔つてゐる。

女将 あら、もうお帰りですか?
男 (少してれて)あゝもう大部おそいだらうね?
女将 (柱の時計を見上げ)十一時五十分キツカリですよ。
男 そいつは、ボヤボヤしてゐると、赤電車を捉へそくなつちまふ。ぢや、左様なら。(外へ出て行く)
女将 (お秋に)――あの?
お秋 えゝ、二階にいたゞいてあるわ。
女将 さう。では左様なら、又どうぞ――。あれ、どんな人なんだね?
お秋 さあ。どつかの役人か何かしてゐるんでしよ。私きらひ。しつつこくつて――。
女将 さうさねえ、年寄はみんなさうだよ。は、は、は。
間。
お秋 旦那は今夜は見えませんの?
女将 おやおや、年寄と言つたら直ぐそれだからねえ、秋ちやんには、かなはないよ。――しかしあの人が見て、くれなきや、此の内は立つて行かないんだからね。仕方が無いさ。――来てゐるのは宵の内から来てゐるんだよ。
お秋 あんな事を言つて。――ぢや、おかみさん、奥へ行つたらいゝわ。後じまひは私がしますから。
女将 さうかい、ぢや頼むわ。お前が本当にシヤンとしてゐてくれるから、どれだけ助かるか知れないよ。初子はあんなことになるし、沢子は臥つてゐるし、私やもうね――。お前のねんが明ける時にや、相当のことはするからね、私だつていつもイライラしてゐるから、恵ちやんにだつて、つい口ぎたない事を言つたりするけど、そりや――。
お秋 えゝ、えゝ。――私は、つとめる分をつとめるだけですわ。
女将 恵ちやんはまだ帰らないのかい?
お秋 えゝ。
女将 丁度いゝわね、では。お前に後じまひをして貰へば。――杉山さん、もう帰つたの?
お秋 まだ沢ちやんの部屋にゐます。
女将 どうしたんだね?
お秋 又、金でも貰ひに来たんでしよ。放つときやいゝわ。どうでも帰らないと言つたら、私が何とかしますから。
女将 ぢや頼むよ。あんないけない奴だし、――それに始終匕首あひくちを持つてゐると言ふんぢや無いの。なんしろ昨日の今日だからね。又、しよびかれたりしたんぢや始まらないからね。いゝね?
お秋 えゝ。
女将 ぢや、戸締りはいつもの様にね。頼んだよ。(奥へ立去る)
お秋奥へ消える女将を見送り、床の上にベツと唾を吐く。
外への出口へ行き、道を覗き、誰も来ないのを見て、扉一枚だけを残して入口を締る。窓を閉す。
チヨツと立止つてから、売場へ行き、棚から酒瓶とコツプを取つて、注ぎ、飲む。
たもとの中に煙草を捜す。無いので、舌打をして、ストーヴの下の辺を捜して、客の吸差しの煙草を拾ひ火をつけて、ふかす。眠そうな遠い汽笛の音。お秋、椅子に掛け、テーブルに肘を突く。間。外でコトコト音がする。秋の弟が杖を突いて来る。
お秋 あゝ、恵ちやん、今夜おそかつたね。
弟 姉さん、此処にゐたのかい、姉さん――(お秋に寄つて肩にさわる)此処にゐたのかい。(安心した様に微笑)
お秋 寒かつただらう?
弟 なあに、寒かあ無いよ。――今夜もまた締出しを食ふかと思つた。
お秋 お前、おなかは? いゝの?
弟 あゝ、空きやしない。お師匠さんとこで、おさつをよばれた。うまかつた。姉さんにも持つて来ようかと思つたんだが、そんな事出来ないもんだから。
お秋 私やいらないわ。どうだつたの今夜は?
弟 十人以上もんだ。お師匠さんが褒めてくれた。
お秋 そりやよかつたねえ。
弟 うまくなつたぜ。姉さん、うまくなつたぜ。肩はこつてゐないの? もんでやらうか? え? もんでやらうか?
お秋 いゝよ、私。こつちやゐないから。(涙をふく)
弟 この分でミツシリやつたら、あと、半年もやつたら、試験が受けられるんだとさ。もつとそれには、解剖をやらなきやならないんだと。――しかし俺、解剖だつてもう少しは知つてゐるんだぜ。ね、姉さん(肩を押えて)此処んとこの、この骨は、何と言ふんだか知つてゐるかい? 知らない、知らないだらう? これは肩胛骨つて言ふんだ、それから――
お秋 痛いよ、恵ちやん、そんなに掴むと痛いよ。
弟 あゝ、痛い位だらう。(笑ふ)初めは、こんなに力が入らなかつたんだ。――来年になれば、俺が働くよ。
お秋 さうなれば、姉さん、どんなに嬉しいか知れないよ。
弟 さうなれば――姉さんの事、手の先だつて外の奴に触らせやしないんだ。――今夜はもう店はしまふの?
お秋 あゝ、だから、恵ちやんも早く二階へ行つておやすみ。
弟 だつて、まだ誰かゐるんだらう。お客がゐるんだらう!
お秋 誰も居やあしないよ。
弟 嘘言つてら。(見物席を指して)ゐるんだらう。その辺にまだ誰かゐるんだらう。
お秋 (見物席を見て微笑)誰もゐやしないよ。
弟 さうかい。俺にはまだ居る様な気がするんだけど。――俺にはしよつちうそんな気がするんだよ。誰も彼もが、姉さんを掴まへさうな気がするんだ。姉さんにさわりさうな気がするんだ。姉さんを、さらつて行きさうな気がするんだ。――(見物席を指して)その辺に沢山、そんな男がゐる様な気がするんだ。
お秋 (再び見物席を見て微笑)何を言つてゐるんだよ。
弟 姉さんは、いろんな匂ひがするよ。恐ろしく沢山な匂ひがするよ。――いろんな匂ひがするよ。
お秋 馬鹿だねえ。そんな事言つてゐないで、早く寝たらいゝ。
弟 しかし、来年になつたら――畜生どもに――。さうなつたら姉さんは、あの人と一緒になる。
お秋 (二階をチラリと見て)なにがさ?
弟 白ばつくれたつて俺は知つてる。阪井さんはメツタにやつて来ない。しかし、姉さんは待つてゐるんだ。知つてゐるよ。――さうなつたら俺は、阪井さんを兄さんと言ふよ。兄さんと言ふよ。
お秋 (目の見えぬ弟を淋しさうにヂツと見て)阪井さんなら二階に来てるよ。
弟 なんだつて? 阪井さんが! どこにゐるの?
この頃、便所に立つたらしい阪井が右手階段のあたりの便所口から、階段へ行かうとして出る。何と思つたかそこに立つたまゝお秋の方をヂツと見て立つてゐる。この幕の終るまでそこに立つてヂツと見てゐる。
お秋 お前の部屋にゐるかも知れないよ。
弟 しかし今頃どうして来たんだ。組合の方がいそがしいんぢや無いのか。俺、今夜あの前を通つたぜ、大変な騒ぎだ。ワーツワーツつて、なんか喧嘩でもやつてゐるらしかつた。俺あすこに立ちどまつて、やれやれ、しつかりやつて、金を持つて、いろんな匂ひのする奴等をたゝきつぶしてやれと思つた。俺も目さへ開いてゐたら。――どうしたんだよ、阪井さん?
お秋 どうしたんだか、私や知らない。
弟 変ぢや無いか。――どうも変だな。――姉さん、浜の方は凄いぜ。見えはしないけど、今に浜はひつくり返るよ。
お秋 ――そんな事はもういゝから早く二階へおいで。もうお休み。
弟 寝るよ。あゝ寝るよ。姉さんは?
お秋 私や戸締りをしなきやならないから――。阪井さんがお前の所に寝るなら、少し蒲団を分けておやり。
弟 いゝとも、だけど変だなあ。あゝ寝るよ。姉さんも早くおやすみ。(階段の方へゴトゴト行く)姉さん、姉さんはあの人に惚れてゐるよ。そして、さうで無いふりをしてゐるんだ。俺知つてゐるんだ。(二階へ消える)
お秋煙草を吸ふ。――吸ひ止めてヂツとなり、テーブルに顔を伏せ、急にガツクリして声を出さずに泣く。永い間。隅に立つた阪井がお秋を見詰めてゐる。時計が十二時を打つ。入口の扉が開いて、神経質らしい洋服の町田が少しキヨトキヨトしながら入つて来る。
お秋 おや、あんた町田さんぢやなくつて!
町田 あ、お秋さん、今晩は――(四辺を見廻す)あの、つい来よう来ようと思つてゐながら――。
お秋 ――。
町田 あの時のお礼もロクロク言はずにゐたし、来なくちやいけないと思つちやゐたんだが、ね――。
お秋 それなら、もういゝのよ。お礼なんて、そんな、私は自分のしたいことをしただけなんだから、それに、あんた達、こんな所へ来ない方がいゝのよ。
町田 いや、さう言はれると――。どうも、いろいろ忙しいし、それで――。
短い間。
お秋 ――ぢや本当だつたのね?
町田 なにが?
お秋 いゝえ、――もうね、(二階を目で差して)日暮頃から、杉山が来てゐるのよ。
町田 えゝ、それぢや、それぢや――。
お秋 私は多分、又小使銭取りの嘘だらうと思つてゐたわ。どうしたの全体?
町田 本当なんだ。昨日夜だ、僕が働きに行つた留守に居なくなつたんだ。僕は、また、戸崎とざきの方にゐる親戚へでも行つたかと思つて。――そんな事が前に二三度あつたのでね。――そいで今日昼頃まで待つてゐたんだけど帰つて来ないんで、――きまりが悪かつたけど戸崎へ出かけて行つたところが、来てゐないと言ふんだらう。(間)――来てゐるんだらう?
お秋 それが、ゐないのよ。
町田 えゝ、ゐない? 来てゐない? そりや、大変だ。もしかすると、こいつあ、もしかすると――。
お秋 一体全体どうしたのよ?
町田 どうしたと言つて、お秋さん、僕はどうしていゝか解らないんだ。
お秋 もつとあんた、落着かなきや駄目よ。男のくせに何をワクワクするんです。――一体、初ちやん、どうしたつて言ふの?
町田 それが、初子は可哀さうなんだ。彼奴は考へて考へ詰めたあげくの事に相違無いんだ。
お秋 喧嘩でもしたの?
町田 馬鹿な、そんな事ぢや無いんだよ。――事が違ふんだ。――彼奴まだ此処に来てゐないとすると――秋ちやん、どうしたらいゝだらう。お願ひだから考へてくれないか。僕には何もかもわからなくなつた。どうも――。
お秋 だからさ、何がどうしたんだか、言つて見なきや解らないぢや無いの。
町田 あの杉山だよ、杉山がこんな事になさしてしまつたんだよ。杉山が金をゆすつたり、恐迫したりするもんだから、初子は僕んとこに居れなくなつたんだ。
お秋 だつて町田さん、そんな筈は無いぢや無いの? あの時、杉山さんは手切れまで取つてゐるんぢやないの?
町田 そんなもの何にもなりやしなかつたんだよ。――そりや一ヶ月ばかりは、僕等んとこへは寄りつかなかつたさ。――しかしそれからは三日にあげずやつて来るんだ。――居すわつて動かないんだ。――何と言つても、そのたんびに金をやれば、その時だけは帰るが、次の日になると又来るんだ――。
お秋 だつて、あんたんとこ、杉山さん、知らなかつた筈ぢやないの?
町田 あの男には、そんな事捜す位、何でも無いんだ。――僕達だつて、最初の家からもうこれで四度も越してゐるんだけど、それでも駄目だつた。――蛇の様な男だ。――初子は、そのたんびに、どうせ私は杉山から逃れられない運命だからつて、泣くんだ。――お秋さん、これを見て呉れ。(紙片かみきれを出す)
お秋 ――。(黙つてそれを読む)
町田 僕はどうしたらいゝんだらう? ねえ。――僕は出来るかぎりの事はした。――初子と一緒に居れば学資は出せないと親父が言ふので、夜になると新聞社の発送係りに出た。二人で貧乏した。僕はあれを教育しようとまでした。――ね、お秋さん、僕の心がまだ足りなかつたんだらうか?
お秋 ――えゝ、足りなかつたのよ。
町田 え、さう思ふのかい? どうしてなんだ、どうしてなんだい?
お秋 ――さうだと思ふわ。――初ちやんは、私と同じ者だつたのよ。まあ、さうね、淫売だつたのよ。それをあんたが外へ連れ出したんだわ。
町田 それは知つてゐる、しかし、僕はかまはないんだ。僕は僕の妻にしようと思つたんだ。
お秋 そしてね、淫売を普通の女になす事は、普通の女を淫売になすことよりも、むづかしいのよ。――さうだわ、あんたの心が足りなかつたんだわ。――ご覧なさい、何と書いてあるの、(読む)私はやつぱり浜の極道な女です。そんな女です。杉山はそれを知つてゐます。あなたは私のことを忘れて、お父さんの内へ帰つて下さい。――私には、初ちやんの気持がよくわかるわ。
町田 ぢや教へてくれ。僕はこれからどうしたらいゝんだ? 僕は自分がどんな事になつたつて、初子と別れては、――とても居れないんだ。
お秋 教へるつて、私にそんな事出来やしないわ。
町田 そんなこと言はないで、どうか頼むから、ね、お秋さん――。
お秋 あなたは、初ちやんを救つてやらうと思つてゐるわね。
町田 初めはさう思つてゐた。さう思つてゐると思つてゐた。――しかし今はさうぢや無いんだ。たゞ一緒に暮してゐたいんだ。それだけだ。(間)
お秋 ぢや、あんたも、どうしてもつと極道にならないの。初ちやんは自分のことを極道な女だつて書いてゐるのよ。さう思つてゐるのよ。――だつたら、あんたもどうして同じ様に極道な男になつてやらないの?
町田 え? どうも、秋ちやんの言ふ事は――。なるよ、そりや、なれと言はれりや、何にでもなる。だけど極道になると言ふと、僕、どうしたらいゝんだ?
お秋 いゝえ、そりや、どうするかうすると言ふ事ぢや無いわ。気持よ、気持のことよ。――一度地獄ん中におつこちた者は、神様の手ぢや上へ昇れないわ。地獄へ落ちた者同志で助け合つて、這ひ上る外に途は無いんだわ。――あんた、もつと、極道な気持にならなきや駄目だわ。もつと、もつと、悪徒あくとな、どぎつい気持にならなきや。
町田 ――。
お秋 わからないの? 私にはハツキリ言へないんだもの。――、ねえ、町田さん、かりに、あんたも初ちやんと同じ様な淫売だと考へてごらんなさい。そして初ちやんが好きで、どうしても一緒になりたいのよ。だのに邪魔者がゐて、どうしても、それが出来ないのよ。杉山がゐて邪魔するのよ。そしたら、あんた、どうするの? どんな事をするの?
町田 ――。
お秋 いつまでも杉山を恐がつて、ビクビクして隠れてばかり居るの?
町田 わかつた、お秋さん、わかつたよ。ボンヤリわかつた様な気がするよ。
お秋 さう。ぢや、それでいゝわ。しつかりするのよ。ぢやね、私、杉山さんを此処に呼んで来るから、話をするがいゝわ。真正面から、正直に、何も隠さないで話をするのよ。わかつて? どんな事があつても、初ちやんを取戻すつもりで、真正面から切つてやるのよ。
町田 あゝ、大丈夫だ。――だけど、それよりも、僕は初子の事が心配なんだ。あれは、もしかすると、――。
お秋 大丈夫。私が受合ふわ。人間は、そんなに簡単に死んだり出来るもんぢや無いわ。大丈夫だわよ。
二階へ去る。町田、神経的にその辺を歩き廻る。
間。
足音がして杉山とお秋が降りて来る。杉山と町田は顔を合せるが、無言。――杉山は落着いて煙草をふかしてゐる。――町田は立つたまゝ、手をブルブル顫はしてゐる。
間。
町田 ――杉山さん。
杉山 ――。
町田 ――僕は今更――。
間。
僕は今更、あなたに――。
杉山 なんだね?
間。
町田 ――初子がゐなくなつたんだ。
杉山 知つてるよ。
町田 それで、お願ひがあるんだ。
杉山 ――?
間。お秋は立つて二人を見ている。
町田 ――僕は初子に、惚れている。
杉山 (黙つてニヤリとする)
町田 だから、――お願ひがあるんだ。
杉山 変な事を言ふなよ。
町田 僕が惚れてゐることは、あんただつて知つてゐますね。
杉山 俺だつて、惚れてゐるよ。
永い間。
町田 しかし、あなたは、初子で無くても済むんだ。――初子は苦しがつてゐるんですよ。死ぬかもわからない――。
杉山 どうしたんだよ、それが?
町田 杉山さん、僕は一生恩に着る。恩に着るから、お願ひだ、私に初子をスツカリ下さい。お顔ひします。
間。
杉山 いやだと、俺が言つたら――。
お秋 杉山さん、お前さん――。
杉山 黙つてゐてくれ。俺はそんな男なんだ。
町田 ――無理にも僕に下さい。お願ひです。今更思ひ切らうとしても、出来ないんだから――。僕は、そのためなら、もう、命を投出してゐるんです。死んでもいゝんです。それに免じて――。
杉山 死んでもいゝ?
町田 えゝ、かまひません。
杉山 馬鹿言つてら。
町田 冗談ぢやありません。お願ひです。
杉山 本当だな? 死んでもいゝんだな?
町田 だから、初子の事を思ひ切つて下さい。
杉山 ぢや、外へ出たまい。一緒に外に出よう。外に出て話をつけようぢやないか。
町田 外へ? どうするんです?
杉山 外へ出て、二人で話を附けようと言ふんだよ。
町田、助けを乞ふ様に、お秋を見る。
お秋、黙つて表情を変へぬ。
杉山 出ようぢや無いか。
町田 えゝ、そりや、行きますけど――。
再びお秋を見るが、お秋は黙つてゐる。
杉山 行けないのか?
町田 行きますよ。
杉山、扉を押して外に去る。町田も続いて消える。少し足がヨロヨロしてゐる。お秋、二人の去つた扉をヂツと見詰めてゐる、――間。
声 (二階の口から弟の)姉さん、姉さん、姉さん! 姉さん! 阪井さんは居ないぜ。
お秋 ――。
声 姉さん、何をしてゐるんだよ? まだ寝ないの? どこにゐるんだい、阪井さんは?
お秋 ――。
足音、弟が降りて来る。
弟 何をしてゐるの? 姉さん? 何処にゐるんだい?
お秋 恵ちやん、まだ寝ないのかい?
弟 姉さんこそ、何をしてゐるんだよ? 阪井さんは二階にはゐないぜ、此処に居るんだらう?
お秋 いゝえ、此処には居ないよ、どつか便所にでもゐるんだろ?(阪井動かない)
弟 はは、隠してら。はづかしいもんだから隠してら。
お秋 何を言つてるんだよ、子供のくせに。早く行つておやすみ。
弟 姉さんは?
お秋 (立上つて、扉を閉める)私も寝るよ。さあ、――沢ちやんは?
弟 沢ちやんは、何だか又下腹が痛いつて苦しがつてゐるよ。阪井さんは?
お秋 いけないねえ。ぢや、行つて見よう。阪井さんは二階の納戸なんどか便所だろ。心配しないでいゝよ。
弟の手を取つてやつて、一緒に階段を昇りながら、
それ、用心しないと、踏みはづすわよ。又、転げ落ちるわ、こないだの様に。いゝかい。
弟 大丈夫だつたら。――姉さんの手は今夜ひどく冷たいねえ。
二人階上に消える。阪井動かず。電燈だけ明るい。
間。
扉の外(舞台奥)に三四の足音。
声 おい開けてくれ! 開けてくれ! おかみさん、お秋ちやん! 開けてくれ! 阪井君を出してくれ。阪井君を迎へに来たんだ! 開けてくれ!(ドアを叩く音)
他の声 阪井、君が来てくれなきや、どうにもならねえんだ。君が来てくれなきや、俺達はおしまひだ。開けてくれ!(叩く音)おかみさん、秋んべ、おい、おい、おい!
阪井は動かないで立つてゐる。
女将 (奥で眠そうな声)はーい、どなた、どなた、もう寝ましたから、明日にして――。
声 何を言つてやがるんだ。そんな段ぢや無えや。早く開けてくれ。(扉を叩く音)
――幕――
(四) お秋の室


六畳。(一)の沢子の室と同じ感じ。ただ(一)ではその左に三畳の間が続いてゐたのが、今度は右方にある。
朝。左手の窓から陽が差しこんでゐる。襖で立切つた三畳は矢張やはり薄暗い。そこに坐つて封筒を張つている弟の姿がボンヤリと見える。紙の音の断続。その側にヂツト正面を向いて坐つている阪井の姿。六畳の方にはお秋と初子が抱き合つて立つてゐる。初子は顔をお秋の肩に埋めて、すがり付く様にしてゐる。初子はたつた今、外から入つて来たらしい様子。少し取散した着物、断髪。短い間。

初子 ――秋ちやん。――秋ちやん。――あたし、帰つて来たわ。――あたしは、やつぱり、此処の人間だつたのよ。――此処の人間だつたのよ。――帰つて来たわ。
お秋 ――随分、心配してゐたのよ。馬鹿な真似でもしやあしないかと思つて、心配してゐたのよ。
初子 しようとまでしたんだけど、出来なかつたわ――戸崎のうちまで行つたんだけど、内の前まで行つたんだけど、どうしても入れない。――そいで、大川へ出たの。――大川の縁で、それから桟橋の方でも一晩中ウロウロしてゐたの。――身を投げようと思つて、水のわきまで行つた――。それでも出来なかつたわ。――そして、帰つて来たわ。
お秋 ま、ま、いゝわ。いゝから、お坐り。
初子 えゝ、ありがと。えゝ、ありがと。
お秋 もう泣いちやいやだわよ。いゝの。
初子 泣かないわ。
お秋 さあ坐らない、ね。
二人坐る。
短い間。
一体どうしたつて言ふの?――私、ゆふべ、町田さんと杉山さんが見えたんでそりやビツクリしたのよ。だつて、まるで思ひもかけなかつたんだもの?
初子 え、二人が来てゐるの?
お秋 いゝえ、今、此処に居る訳ぢや無いわ。ゆうべ来て、二人とも初ちやんを戻して呉れつて言ふのよ。
初子 杉山さんは、匕首なんか持つてゐなかつた?
お秋 匕首? どうしたのさ? ぢや、そんな――。
初子 えゝ、それで、私達を以前から、おどしつけてゐたのよ。
お秋 さう、そんなに――。だけど、そんな事、何でもありやしないわ。子供だましだわ。
初子 えゝ、そりや、私だつて、今更、まさか小供ぢやあるまいし、そんな物、こわくも何ともありやしないんだけど――。それから、それ位のことで町田さんの家を出て来たんぢやないんだけど――。
お秋 どうしたのさ? あんな、――あんなにまで無理をして一緒になつた、あんた達がさ、――どうしてまた? ――。大体、町田さんから聞いたには聞いたんだけど――。
初子 あの人は可哀さうよ。実家とは私のためにあんな事になるし――。それに、あんな身体で夜まで働きに行くんだもの。――あたし、それを思ふと――。
お秋 ――だつて、そりや、好きな女と一緒に暮すために、町田さんが自分ですることだもの、あたりまへだわ。あたりまへとは言へないまでも、とにかく、それはそれでいゝぢやないの。――それつぱつちのために、初ちやんが、なにも――。
初子 えゝ、それは、そんな訳から私、出て来たんぢや無いわ。――あの人が可哀さうに思へたからつて、それだけぢや無いわ。それだけなら、私、飛び出したりしやしないわ。かへつて傍にゐるわ。――さうぢや無いわ。それよりも、杉山が、それこそ、しよつちう内へ来るの。どんなに引越しても、直ぐに捜し出してやつて来るの。まるで蛇よ。
お秋 えゝ、聞いた。
初子 そのたんびに、町田が苦労するの。私だつて、どんな嫌な目に逢つたか知れやしない。――しかし、それだけなら、いゝのよ。あれから、六ヶ月余りも、それを辛抱したんだけどそれだけなら、私、一生でも辛抱出来たんだわ。――しかし、私、考へたのよ。――私はもともと、さう、秋ちやんと同じ様な、沢ちやんと同じ様な女だわ。そんな女なんだわ。身を持ちくづした、仕様のない女だわ。――杉山が、私に、町田さんと一緒になつてからまでも、私に附きまとふのは、それは、勿論、杉山が仕方の無いわるで、金を取るためなのは解りきつてゐるんだけど、しかしねえ――。
お秋 ――。
初子 しかし。――私考へたわ。もしかすると、私だつて、同じ様な、杉山と同じ位な、いけない女ぢや無いだらうか。だからこそ、杉山が私にどこまでも、附きまとつて来るんぢや無いだらうか。――それに、杉山だつて、二言目には金々と言つてゐるんだけど、心の底では少しは私のことを本当に思つてゐるんぢや無いだらうか。―――さう思つたのよ。――さう思ふと、私には、自分の正体がハツキリ解つた様な気がしたの。私はやつぱり、いくら一生懸命になつて、いゝ人間にならうとしても、駄目だ。町田さんといつまでも一緒にいられる様に立派な女にならうと思つても駄目。――やつぱり、此処に、元の巣に戻つて来る女なんだわ。それが一番自分の性に合つてゐるのよ。さう思つたら私、悲しくつて悲しくつて――。(間)そこへ四五日前から杉山が宿とまり込みでゆするのよ。あゝ言へば、かう言ふし、どんな事をしても出て行かないの。私、何もかもわからなくなつたんだわ。――杉山も町田さんも居なくなつたチヨツとの間に出て来たわ。――ねえ、秋ちやん、私、これからどうしたらいゝの?
お秋 ――。
初子 言つて頂戴。私、秋ちやんの言ふ通りにするわ。どんな事でも秋ちやんの言ふ通りになるわ。言つて頂戴――。大川に身を投げなかつたのも、命が惜しくなつたためぢや無いのよ。秋ちやんや沢ちやんに一目逢ひたかつたんだわ。
お秋 初ちやん。――私にもわからないわ。
初子 そんな事言はないで、言つて頂戴。私、秋ちやんの言ふ通りにするから。言つて頂戴。
お秋 又、泣くの?
初子 泣いちやゐないわ。ね、頼むから。
お秋 私にばかり、そんな事言はないで、初ちやん、お前さん、お前さんは、どうしようと思つてゐるの?
初子 それが解らないから、お頼みしてゐるのよ。ねえ、私、どうすればいゝの?
お秋 (振切る様に、少し邪慳じやけんに)そんな、そんな、私が神様ぢやあるまいし、私にだつてわかりやしないのよ。
間。
弟 (三畳に坐つたまゝ)姉さん!――姉さん!
お秋 恵ちやん、お前は黙つておいで!
弟 ――だから俺は言つたんだ。奴等はみんなを玩具にしやがるんだ。玩具にしやがるんだ。玩具にしたあげくに、おつぽり出しやがるんだ。みんなを、どうにでも出来るもんだと思ひ込んでゐやがるんだ。畜生が! 畜生が!
お秋 黙つておいでと言つたら!
弟 だつてさうぢや無いか! 此方こつちが命がけになつてゐるのに、向ふはどうして命がけにならないんだ。畜生! 俺の眼が開いてゐたら、俺の眼が開いてゐたら! 阪井さん! 阪井さん! 阪井さん!
阪井は何とも返事をしない。
お秋 お黙りと言つたら黙らないの? 小供はこんな事考へなくていゝんだよ。
短い間。
初子 ――(突伏してゐる)秋ちやん、――私はみじめだわねえ。――私達はみじめだわねえ。ほんとに――。秋ちやん、それからね、私、もう唯の身体ぢや無いのよ。
お秋 え?
初子 来年の四月――四月には――。だけど、それが――。
お秋 ――?
初子 それが、秋ちやん、――私にもわからないのよ。――あさましいわ。
お秋 ――?
初子 本当に、あさましい――。
お秋 何がさ? どうしてなの?
初子 私、恥かしい。――だつて私にはどうする事も出来ないんだもの。仕方が無かつたんだもの。――杉山がおどかして、無理に、たうとう――。
間。
弟 (顔と手を見物席の方へ突き出してわめく)畜生め! そいつだけぢや無いんだぞ! お前達の子だ! そこにゐる一人々々のお前達の子だ! お前達の責任だ! 見ろ、お前達は、みんなして、こんな所に、こんな隅つこに、親父のわからない子供を生みつけるんだ。そして知らん顔をして見てゐるんだ。知らん顔をして見てゐるんだ。――あさましいのは此方ぢや無いんだ。あさましいのはお前達だ。お前達が恥知らずで畜生だから、こんなことになるんだ! 阪井さん! 阪井さん! どうかしてくれ! なぜ黙つてゐるの、阪井さん、どうかしてくれ! ち、ち畜生めが!(阪井は[#「(阪井は」は底本では「阪井は」]矢張動かないで坐つてゐる)
お秋 恵ちやん、お前子供のくせに何を言つてゐるの! お黙り。
弟 ――だつて、さうぢや無いか。杉山つて奴は畜生だけど、彼奴一人ぢや無いんだ。杉山の様な奴は、杉山のほかに沢山ゐるんだ。どれだけでも居るんだ。
お秋 黙つておいでつたら!(初子に)――それは町田さんのだわよ。
初子 えゝ、さうは思つてゐるんだけど――。
お秋 さう思つてゐなきやいけないわ。さうなんだもの――それで初ちやん、私の言ふ通りにするの?
初子 えゝ、――どんな事でも。
お秋 ――こゝに戻つて来ることでも?
初子 戻つてくるわ。もう私――。
お秋 そのまゝでも?
初子 えゝ。
お秋 子供が生れたら――さうなれば、いよ/\、誰の子かわからないのよ。
初子 ――しかたが無いわ。
お秋 生れたら、女の子だつたら、又、私達と同じ様な此処の女になるのよ。
初子 あきらめるわ。――仕方が無いんだもの。
お秋 きつと出来るのね?
初子 えゝ。――(泣く)
間。
弟 畜生! いつまで続くんだ! いつまで続くんだ! いつになつたら、おしまひになるんだ! 何のためにこんなに、おしまひにならないんだ!
お秋 あ!(耳を澄ます。階下で男の声で何か怒鳴る音)
お秋、立つて、出て行く――階段の足音。
間。
弟 (尚も坐つたまゝ)初ちやん! 初ちやん!
初子 ――(突伏してゐる)
弟 初ちやん、帰つて来たねえ。
初子 (頭を上げて)えゝ。――恵ちやん、眼はいゝの?
弟 初ちやん、お前、どうしてあの男を、杉山と言ふ男を、刺し殺してやらなかつたんだ。どうして刺し殺してやらなかつたんだ? どうして、黙つて――。
初子 恵ちやん、怒らないで頂戴。私がいけない女なのよ。いくぢの無い女なんだわ。
弟 だつて、悪いなあ、初ちやんぢや無いんだ。奴等が間違つてゐるんだ。――俺にもハツキリとはわからないんだけど、だけど、悪いなあ奴等なんだ。奴等が悪いんだ。おぼえてゐるがいゝんだ。明日になつたら、あさつてになつたら、その次の日になつたら、又その次の日になつたら、その時にや、――どうするかおぼえてゐるがいゝんだ。
初子 沢ちやんはどうしてゐるの?
弟 まだ寝てゐる。まだ寝てゐる。くたびれてゐるんだよ。
初子 病気だつてね?
弟 病気だ。――あたりまへだ。病気になるなあ、あたりまへだ。こゝに居れば――。(足音――お秋が入つて来る)
お秋 初ちやん。
初子 誰か来たの?
お秋 杉山が来てゐるわ。
初子 一人で?
お秋 さうだわ。
初子 そして、どうだつて言ふの?
お秋 お前さん、私の言ふ通りにするのね?
初子 えゝ、それは。
お秋 するわねえ?
初子 するわ。何でもするわ。
お秋再び降りて行く。沢子入つて来る。
初子 あゝ、沢ちやん!
沢子 初ちやん!
初子 あんた、病気だつて言ふぢや無いの。そんな、起きてもかまはないの?
沢子 なあに、いゝのよ。――私、先刻から、あんたが来てゐることは知つてゐたんだけど。――何でも聞いて知つてゐるわ。――あんたもいろ/\苦しいわねえ。
初子 生れついてゐるんだわねえ。どうせ、どうなつてもみじめな人間だわ。(間)秦さんまだ通つて来るの?
沢子 えゝ。――。
間。足音――お秋と杉山が上つて来る。
杉山 (言ひながら入つて来る)嘘をつきねえ。嘘だ。そんな馬鹿なことがあつてたまるか。そんな馬鹿な――(坐つてゐる初子をヂツと見る)
お秋 嘘だか本当だか、初ちやんに聞いて見ればいゝわ。
杉山 本当かい、おい?
初子 本当よ。
お秋 ね、見るがいゝ。そして、それはお前さんの子だわよ。
杉山 なにい?
お秋 それに違ひ無いのよ。それに違ひ無いと初ちやんが言つてゐるのよ。
杉山 何を言つてやがるんだ。町田がゐるぢや無いか。――そんな、おい、俺を甘く見て貰ふまいぜ。
お秋 お前さんは、そんなやくざだよ。自分のことを悪徒だと思つて、悪徒づらしたつて、私にやわかつてゐるんだよ。たゞ何でも無いやくざだよ。――人をおどしつけたり、嫌味を並べたりする外に何も出来ないんだ。――お前さんは以前から、資本家がどうのかうのつてえらさうな事を言つてゐるんだけど、それがどうしたの? さう言つてゐるお前さんが、全体何をしたの? 何をしてゐるの? お前さんは、やくざなんだよ。
杉山 何を言つてゐるんだ。俺はしようとさへ思へば何でも出来るんだ。たゞ、しないでゐるだけだ。――俺がやくざなら、手前達は、ど淫売だ。
間。
お秋 それがどうしたの? さうだよ。それでいゝぢやないか。――それがどうしたつて言ふの、これを見るがいゝ。(着物を脱いで裸にならうとする)
沢子 まあ、秋ちやん!
初子 秋ちやん!
お秋 見たきや見せてやるわ。私は淫売だよ。しかし、それをして自分で食つてゐるのよ。自分の身体で食つてゐるのよ。さうしなきや食へないからだわ。――それがどうしたつて言ふの?
弟 (三畳に坐つたまゝ)畜生が! 畜生が! ち、ち、ち、畜生が!
杉山、どうしたのか、急にうなだれる。
お秋 何でも出来るんだつて、何が出来るの? 何がお前さんに出来るの?
杉山 (虚勢で)おゝ、何でも出来らあな。
お秋 ぢや、初ちやんのお腹の子は俺のだと言つてごらん。言つてごらん。
杉山 べらぼうめ、(力無く)そんな、そんな、ペテンにかゝつてたまるか。笑はせやがらあ。
お秋 ぢや、お前さんには、初ちやんを追かけ廻したりする資格は無いのよ。――それから町田さんをゆすつたりする資格は無いのよ。――そして、杉山さん、お前町田さんをどうしたの?
杉山 どうもしやしねえよ。
お秋 ――(間)杉山さん、(非常に真率に)お前さん、こんな事をしてゐて、本当に、恥かしくはないの? 何でも出来ると言つてゐる口の下から、初ちやんなどを追廻してゐるのを恥かしいとは思はないの?
杉山 ――何を言つてやがるんだ。
お秋 さうぢや無いの? お前さんには、する仕事と言つてはそれだけしきや無いの? ――ねえ、私達はこんな女なのよ。人が嫌つて後指を差す様な女なのよ。誰もまともには相手にして呉れない女なのよ。
杉山 それがどうしたつて言ふんだよ。
お秋 どうもしないんだけど、話をしてゐるんだわ。――そんな女なのよ。私だつて初ちやんだつて沢ちやんだつて、――それから外にも、まだどれだけでも沢山ゐるわ。そしてね、杉山さん、それは、私達がこんな女であるのは、私達が好きこのんでなつたんだと、お前さん思つてゐるの?――私達はこんなにならないで、外のどんな立派な人間にだつてなれてゐたのを、たゞ、私達が、自分でなりたがつたから、こんなになつたのだと思つてゐるの?(間)お前さんが、自分のする事もロク/\しないで、追廻して、いぢめてゐるのは、そんな女なのよ。そんな女だわ。――見たかつたら見せてあげるわ。きずだらけで、みじめで、弱い、自分の命を少しづつ切りきざんで、やつとの事で生きてゐる女だわ。――世間では私共のことを何とでも言ふがいゝのよ。――私は世間から、いろ/\世話をやかれて助けて貰ひたいとは思つてゐないわ。そんなこと言つてゐるんぢや無いのよ。私達がゐなくなれば、誰かが又私達になるんだもの。――私達はたゞくじを引いただけよ。そして仕方が無いと思つてゐるのよ。――しかし杉山さん。私達はお前さんのかたきなの? お前さんは私達のてきなの?
杉山 ――誰が敵だと言つたい?
お秋 ――初ちやんは、やつと、少しばかり、ほんの少しばかり、仕合せにならうと思つたのよ。――そして一生懸命になつてゐるのを、お前さんは、どんな目に合せたのよ? ――初ちやんは身を投げて死なうとまでしたんだわ。
間。
杉山 ――俺は初子が好きなんだ。
お秋 好きなら好きの様に、ぢや、どうしてしないの? 好きなくせに、どうして憎んでゐる様にやつて行くの? ――私にはわかるのよ。お前さんはやくざだよ。やくざは、どんな事にでも嘘を言ふんだわ。自分にだつて嘘を言ふんだわ。私は正直に言つてゐるのよ。――(間)
杉山 (力無く、しかし言葉だけは強く)へ、説教か。
お秋 私の言つてゐることが説教なの? 説教だと思ふの?――杉山さん、説教をして私達に聞かして呉れるのは、本当は、お前さんでなきやならぬ筈ぢやないの? (永い間)沢ちやん、あんたまだ寝てゐなきやいけないんぢやない?
沢子 えゝ。
お秋 また、そんな、駄目よ。
沢子 寝るわ。(立上つて去る)(間)
杉山 俺、もう、帰らあ。
お秋 え? それで、さ、どうするの?
杉山 どうするつて何だい?
お秋 初ちやんをどうするの?
杉山 (虚勢で)べ、べらぼうめ、そんな自分の子でも無えものをおつつけられてたまるか。
お秋 ぢや、初ちやんを追かけ廻したり、これからしないの?
杉山 そんな事、俺が知るもんか。――だけどもねえ、お秋さん、俺だつて男だぜ。どんな事だつて、する時になりやするぜ。――見てゐねえ。俺がどんな事をするか、永い眼で見てゐねえ。
お秋 見てゐるわ。――その時になつたら、その時になつたら――。
杉山 その時になつたら?
お秋 私達は、あんたの事を、やくざでは無かつたと思ふわ。(短い間)
杉山 ぢや初子、さやうならだ。(去る。――足音。――階段の中途から階下へ転げ落ちる響)
お秋 (立つて奥の廊下に出て)どうしたの? どうしたの杉山さん? どこもけがはしなかつたの? 大丈夫なの?(答無し)
お秋室に戻る。間。
お秋 初ちやん、もうこれでいゝのよ。
初子 だつて私、こはいわ。
お秋 何がさ!
初子 だつて、何をするか解らないと言つてゐたんぢや無いの。
お秋 それは大丈夫。あれは町田さんや初ちやんの事ぢやないのよ。大丈夫だわ。(間)あの人だつて本当は悪い人間ぢや無いんだわ。(間)ね、初ちやん、あんたは、町田さんを本当に思つてゐるのよ。さうなのよ。(間)
弟 姉さん! 姉さん! 下に誰か来てゐるぜ。え、姉さん! 俺にや聞えるんだ、誰か来てゐるぜ。
お秋 多分おかみさんでも起きたんだらう。
弟 さうぢや無いんだ。おかみさんとは違ふよ。
お秋 ――。
阪井がスツと立上る。しばらくヂツと立つてゐる。又坐る。短い間。青い顔をした町田が顔を出す。
町田 お秋さん、ゐるの? お秋さ――(初子を見て)あ初子、此処にゐたのか!
初子 ――。
町田 捜してゐたよ。どんなに捜して居たか知れないよ。どうしたんだ? どうしてまた――。
お秋 町田さん、あんた今、杉山と逢はなかつた?
町田 あゝ、そこで逢つた。何だか下を向いて歩いてゐて、僕に気が付かなかつたらしい。――ゆふべね、あれから、僕、ひどい目に逢つたよ。――彼奴又短刀まで出した。金を出せと言ふんだ。出せと言つたつて此方にもありやしない。仕方が無いから、友達の所を駆けずり廻つてやつと―。それよりも、此処で彼奴どんな事を言つたの? 又、乱暴したんだらう? ――もつと早く来りやよかつた。やつと三十円ばかり拵へて、持つて来たんだ。
お秋 もういゝのよ。
町田 いゝつて、どうしたんだよ。初子、どうしたんだよ?
お秋 それよりも、町田さん、初ちやん、子供が出来たのよ?
町田 え、なに、何だつて?
お秋 子供が生れるんだわ。
町田 そりや、本当かい? 本当かい、初子?
初子 えゝ。
お秋 そしてねえ、町田さん、それが、あんたの子供だかどうだか、わからないのよ。
町田 そんな事があるもんか。――僕の子だよ。
お秋 誰の子だが解らないよ。
町田 馬鹿な! 何を言つてゐるんだよ。僕の子だよ。無論僕の子だよ。――さうか。
お秋 ぢやあんたの子だわ。
町田 何を言つてるんだねえ。――さうか。よかつた、変なことにならなくつてよかつた。あゝ本当によかつた。お秋さん、ありがたう、ありがたうございました。ホントに何と言つていゝか――。
初子 秋ちやん、ほんとにありがたう。
お秋 ――赤ん坊は町田さんの子供だわ。子供なんてものは、私、さう思ふわ。俺の子だと考へる人の子だわ。自分の子だと思ふ人のものだわ。
町田 何だよ?
お秋 いゝえ、何でも無いわ。
初子 もし赤ん坊が生れて大きくなつたら、さう聞かしてやるわ。秋ちやんのことを――。
お秋 そんな事、ごめんよ。私。――初ちやん、これからも、ねえ、――私、何と言つたらいゝだらう。チヨイと言ひ方がわからないんだけど、――地びたばつかり見ちやいけないのよ。いつも地獄の方ばかり見てはいけないわ。――世の中には面白い事はいくらもあるものよ。――杉山さんなぞを怖がる気持が此方にあるから、おどかされもするんだわ。
初子 わかつたわ、秋ちやん、わかつたわ。
お秋 ではもうお帰り、早く帰つて頂戴。――そして、初ちやん、これから、どんな事があつても、町田さんを離れるんぢやないのよ。此処へ戻つて来ちやいけないのよ。私を思ひ出してはいけないのよ。――ね、こんな所に来ちやいけないのよ。杉山はもう大丈夫だわ。
弟 畜生! こんな所に来ちやいけないんだ。誰も来ちやいけないんだ。これから、誰一人だつて来ちやいけないんだ。
町田 どうしたんだい?
お秋 なあに、あれは何でも無いわ。――さあ、早く家へ帰つて頂戴。
初子 だつて秋ちやん――。
お秋 まだこの上に何を言ふ事があるの? 早くお帰りよ。早く、さ。
町田 ぢや、お秋さん、僕あ、何と言つていゝかわからないんだけど――。
初子 ぢあ、秋ちやん、あんた身体に気をつけてね、私これで帰るわ――。(二人お辞儀して立上る)ぢや――。
お秋 もう、来ちやいけないわよ。
二人去る。お秋ボンヤリと坐つてゐる。間。
阪井 (三畳に坐つたまゝ)おい、秋ちやん――。
お秋 なに? どうしたの?
阪井 お前は先刻疵だらけだと言つたね。
お秋 え? え、さうよ。見せてあげたつていゝわ。疵だらけだわ。(微笑して)疵だらけになつて、やつて来たんだわ。生きて来たんだわ。なあに、これからだつて――。
阪井 ――(低く唸る)
お秋 どうしたの? 工合でも悪いの? ――どうしたのさ?(立たうとする)
阪井 よし! 行つてやる! 行く!(立上る)なあに、なあに、なあに!
お秋 どうして? どうしたの? どこへ行くの? まさか――。
阪井 俺を笑つてくれ。お前は俺を笑つてくれ。俺みたいな人間はお前から笑はれなきやいけないんだ。俺は本部の連中の所へ行くんだ。
お秋 ま、行くの? 行つてくれるの?
阪井 俺にはお前と言ふ女が今やつとわかつた。行くよ。なあに、たとへ俺が死んだつて、死んだつて、俺達は勝つて見せる。
お秋 (立つて三畳の方へ出て)さう、勝つて、帰つて来て頂戴。どこまでも、どんなことがあつても、――私達は待つてゐる。
阪井 待つてゐてくれ! 喋つて喋つて喋りまくつて、切りくづしなんか叩き伏せてやるんだ。待つてゐろ、勝つたら連れに来るから待つてゐろ。畜生! (走る様にして出て行く)
弟 (腕を振り廻して)あゝ、あゝ、あゝ! 行つた行つた、かつて! 阪井さん勝て!
お秋ヂツとして涙ぐんでゐる。遠くの方から非常に多勢の人間の騒いでゐる声が聞えて来る。間、窓の下の空地から男の声が呼ぶ。お秋窓の方へ立つ、空地を見下して、
お秋 おや、秦さん、どうしたの? 本部から来たんだつて? 阪井さん? 阪井さんは、たつた今行つたのよ。えゝ、本部へ――。
秦の声 ――(他の部分はハツキリ聞き取れない)――なに、俺、阪井さんを迎ひに来たんだ。――今みんなが――へ行く所なんだ。スツカリ騒ぎがひどくなつて――の奴等がやつて来た――から押して行くんだ。デモだ。なに、俺も今月から本部に詰めてゐた。もうボヤボヤして居られなくなつた。頼むよ、沢ちやんとこへも暫くこられねえ、頼むよ――。
お秋 それがいゝわ。大丈夫。しつかりやつて頂戴。
人々の騒音が次第に近づく。
秦の声 来た、来た、来た、来た! 見えるか秋ちやん、阪井さんが皆の中で何か言つてゐる。さよならだ。
お秋 さう、此処からは見えないけど――。
人々の騒音が次第に近くなり、暫くして町角をでも曲つたらしく、ワツワツと言ひながら今度は段々遠くなる――お秋と弟はヂツとそれを聞いてゐる。間。
弟 やつてるね、やつてるね姉さん! 俺も行きたいなあ!
お秋 (微笑して)何を言つてゐるんだよ。盲のくせに。――(フイと気を変へて)さあ、もうそろそろお湯でも使つとかなきや、間に合はないぞ。
弟 姉さん!
お秋 あいよ。
弟 姉さんは、もうお化粧をするのかい?
お秋 だつて、もうおつつけ、お昼だよ。
弟 今日は止せよ、今日は止しておくれよ。
お秋 だつて、お客が来るんだからね。
弟 ――姉さんは、いつでもお化粧をするんだね。――お客だ! 貴様達だ!(薄暗い中で、見物席に向つて、紙を切るためのナイフを手に持つて突出してゐるのがギラギラ見える)貴様達だ!
声 (階下から女将の)秋ちやん! 秋ちやん! 何をしてゐるんだよ! 秋ちやん! サツサとして呉れなきや困るぢやないの! お客さんが見えてゐるのよ、秋ちやん!
お秋 はあい! 恵ちやん、又、馬鹿を言つてゐるわね。
弟 畜生が! 畜生が! 外道奴!
お秋 そんな――(微笑)そんな物騒なことを言ふあんまさんなんて、あるもんぢやないわ。――そんなあんまに誰も肩なんかもましてくれやしないわよ。
短い間。
弟 ――姉さん、俺が一にんまえになつたら、そしたら、姉さんは黙つてりやいゝんだ。俺が稼ぐ。それに、あの人もやつて来てくれる。――くそ! それ、やつつけろ! 阪井さんは、こはい様な人だけど、本当はやさしい人だ。――その時にやあの人の事を俺は兄さんと言ふんだ。
お秋 (微笑)――又言つてゐるよ。馬鹿だねえ。
声 (階下から女将)秋ちやん! お客さんだよ。秋ちやんてばさ。
お秋 はーい。さあ忙しいぞ。
弟 さうなつたら、あん畜生! さうなつたら、俺、姉さんの肩をもんでやるよ。ね、姉さん。
お秋 あゝ――さうなつたら――もんで貰ふわ。(身じまひをする)
弟 さうなつたら、――さうなつたら。
お秋、手廻りのものを片附けながら、静かに微笑してゐる。
お秋 そんな事をグズグズ言つてゐないで、仕事をおしよ。(階下へ)はーい、ただ今。
やがて三畳の紙の音。間。
――幕――(一九二八・六)

底本:「三好十郎の仕事 第一巻」學藝書林
   1968(昭和43)年7月1日第1刷発行
底本の親本:「炭塵」中央公論社
   1931(昭和6年)
初出:「戦旗」
   1928(昭和3年)8〜11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※アキ、句点の有無、字下げ、ダッシュの長さ、仮名・漢字表記のばらつき、新字と旧字の混在は、底本どおりにしました。
入力:伊藤時也
校正:及川 雅・伊藤時也
2009年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。