(開幕前に、上手から下手奥へ列車が通過する轟然たる響が近づき、遠ざかつて行く。開幕後も音は残る。
町はづれの丘。上手が斜めに切通しになつてゐて、私設鉄道の線路の一部。線路に添つて街道。その間に木柵。――炭坑地特有の、何から何まで黒い〔風景〕。晴れた夕陽の空。遠い山脈。秋。
切通しを見おろす丘の上に此方を向いて腰をおろし、遠くに視線をやつているお香代。胸の辺で何かしてゐる。
……間。
近づいて来るトロツコの音と元気一杯の男声二人の唄声。
(木挽歌)
『やーれ土方稼業と、コラ空飛ぶ鳥は、どこのいづくで果てるやら、チートコパートコ』
線路に現れて来るトロツコを押してゐる二人の工夫。トロツコにはトンネル工事の材料が積んである)

辰造 おゝ、此の辺でチヨイと一服して行かうぜ。
金助 だつて現場ぢや、みんな待つてゐるよ。
辰造 いいつて事よ、どうせ今日も又残業だ。たまには骨休めもさしてやらなきや、たまるもんか。俺達が行くのが遅くなりや、そいだけ休んで居れるんだ。ハハハ、気を利かすなあ、かう言ふ所だ。
金助 しかし監督が又怒鳴るぜ。
辰造 怒鳴らしときやいいぢや無えか。あの野郎、こちとら臨時工夫をまるで人間扱ひにしねえんだからな、ナメた畜生だよ。
金助 だけんど、あの浸水のひどさぢや、責任持つて現場に出てりや、イライラもするよ。あいだけの人間が夜の九時迄働いて、一日にやつとコンクリー流し込みが一尺と進まねえんだからな。
辰造 そんな事俺達が知るか。会社で無理にもあすこにトンネル通さうと言ふんだから、会社の責任だい。(先刻から煙草をくはへて、何度もマツチをすつてゐる)チツ! マツチまでが附きくさらねえ!
金助 (自分のマツチを出して)おいよ、此処にあるぜ(するが附かぬ)こいつも駄目だ。
辰造 一日ビシヨ濡れになつてゐて、そいで煙草も吸へなきや、世話あ無えや。こん畜生! (マツチ箱を丘の方へビユツと投げる。それが香代の肩に当る)
金助 (マツチを見送つた眼で香代に気がつく)あ、お香代さん!
香代 ……? (夢を見てゐるやうな眼附)
辰造 香代ちやんぢや無えか? どうしたんだ、こんな所で?
香代 ……どうしたの?
金助 お前こそどうしたんだ?
辰造 さては、逢引と来たな。色男を待つてゐるんだらう?
香代 (やつと我れに返り、周囲を見廻す。それから二人を見てニツコリし、初めて元気な眼の色)まだ仕事なの?
辰造 御覧の通りでございますよ、へん。それをだ、そんな所で色男を待ちの、よろしくやらうと言ふのは、俺達に当てつけて見せようと言ふんだな。少し殺生だらうぜ!
金助 ホントカ、おい?
香代 さう、まあその辺だわね。
辰造 なぐるぜ、畜生!(三人笑ふ)おゝ、香代ちやん、お前マツチ無えか?
香代 マツチ? さうね……(袂を捜して)はい、投げるよ。
辰造 ありがてえ! おつとしよ(マツチを受けて)香代ちやん様々だ、やつとありつけらあ。(二人はかぶり附くやうにして一本の火で煙草を吸ひつける)
香代 まだ浸水はひどいのね?
金助 段々ひどくなる一方だ。おかげで、臍から下あ、いつも水びたしだ、肝心な物がふやけやがつてなあ。アハハ。(三人笑ふ)
香代 アハハ。いいぢや無いの。
金助 えつ! なんだつて! いいんだつて?
香代 いやらしい金さんだねえ。さうぢや無いつてば! そんだけ骨が折れゝば、日当だつていい訳だろと言つてるんだ。
辰造 冗談言つちやいけねえ! これで一日働らいて一両七貫だぜ。お香代さんの前だが一両七貫とは、一円七十銭の事ですよ。今、米がいくらしますかつてんだ。お前んとこの蔦屋で一番安いうどんだつて大盛一つ十銭だぞう! 少し気を附けて口を利いて貰ひてえね。
香代 うどんの値段は、私等のせゐぢや無いわよ、ウフフ。
金助 だつて、なんとなくかう、ふやけて来るんだぜ! それでいいのかい、男児としてだな?
女の声 (町の方から)香代ちやあん! ……香代ちやあん! どこに居るの、香代ちやあん(丘へのぼつて来るより子。香代の朋輩の飲屋の女。着物の裾をまくり上げ、真紅な蹴出しを見せながら)……やつぱり此処だつたよ。おかみさん呼んでるわよ。
香代 なにさ?
辰造 いよう、来た来た! わあ、こいつはたまらねえ!
より あら辰造さんに金ちやんだね。
金助 金ちやんだねか。手軽くおつしやいますねえ。へいさうですよ。私は、いつなんどき首になるかもわからない万年臨時工の金ちやんですよ。あなたのお好きな志水の兄きで無くつてお気の毒様みてえだ。それ、ポーツと来た。どれどれ。(逆さに覗く)
より あれつ! (裾を掴んでマゴマゴしたあげく、ペツタリ坐り込む)
香代 馬鹿だねえ、早くお行きよ!
辰造 なあ、より公! うどんの値段は私達のせゐぢや無いと香代ちやんが言ふがな――。
より 行つとくれよう! 私、立てやしないぢやないか。
辰造 ぢや、お前達を抱いて寝る値段も、お前達のせゐぢや無えのか? それ、聞かう?
香代 馬鹿、お行きつたら!
金助 そこん所を聞かねえぢや、一寸だつて動かねえ!
香代 よし、そんぢや、こら! (と持つてゐた茶碗の中味を二人に向つてぶつかける)
金助 わつ! な、な、なんだ! (顔を手で拭く)
辰造 ウエ! 変に甘えもんだぜ、全体なんだい、こりや?
香代 行かないと、もつと投げるぞ!
(辰造と金助は元気に、トロツコを押し去る)
金助 しよんべんぢや無えだらうなあ。ペツ!
辰造 おぼえてろ! 今夜行つたら、どうするか!
より (叫ぶ)ホントに今夜遊びにおいでよ、なあ!
(急に静かになる。短い間)
香代 ……(男達に見せてゐた顔とは全く別な寂しい表情)用つて何?
より あんた、お乳をぶつかけたのね、もつたい無い。
香代 フン。……張つて仕様が無いんだもの。店にゐりやさうでも無いけど、此処へ来て、山の方を見てると、張つて来るんだ。
より だから来なきやいいつて言ふのに。
香代 さうさ。……だのに、夕方になると、足が此方へ向いてしまふ。
より ……もうだいぶ大きくなつたらうねえ。私あ、子を持つた事は無いけど、どんなんだらうねえ、あんたの気持。(遠くを指して)あの辺ね、新村つて言ふ所?
香代 いえ、もつと右のさ、そら、あの黒く見える尾根がズーツと裾を引いて、その先がポツンと切れてゐるだらう? あの向ひつ側が新村さ。貧乏な村でね、その家ぢや、三吉の事、本当の子の様に可愛がつて呉れるけどさ、なんしろ家の中に豚が飼つてあるんだから。臭いのなんのつて!
より アハハ。豚をねえ! そいぢや臭いわ。
香代 三吉も、今頃は豚と同じ匂ひになつてるだろ。
より まさかあ! ハハハ。ちやんちやんと、あんたから金が届けてあるんだもの、先方でも大事に育ててゐるさ。赤ん坊は良い匂ひがするもんねえ。私あ国でいつか姉さんの子を抱かされた時にね、あのムーンとする匂ひがたまらなく良くなつちやつて――。(フイと見ると、香代が胸を両手で抱いて身をもむやうにしてゐる)――あら、どうしたの?
香代 ……(唸る様な泣声)
より なんだい、急にまた、お香代ちやん……泣いちや駄目だよ。
香代 いいよ! (相手の手を邪慳に振り払ふ)どうなるもんか。
より だけど、その亡くなつた三ちやんのお父つあんの家ぢや、あんたを、どうして構ひつけてくれないのかね。町の紙屋で立派にやつてゐるつてえぢやないか?
香代 ……あんな不人情な奴等の世話になる位なら、三吉は私が殺してやるよ。その方が慈悲だ。あの人の病気がひどくなつた時も、知らしてくれやしない。……それでいいかも知れないさ、私あ、こんな炭坑町の飲屋の女だ。
より だけどさ、そいでも――。
香代 うるさいねえ! あんた帰つて頂戴よ。
より そりや帰るけどさ、私あ、あんたを呼びにやられたんだから――。
香代 又会社の近藤が来てんだろ? 話は聞かないでも解つてる。
より んでも、お神さんも間に立つて困つてゐるやうだよ。蔦屋の店を開く金は大方近藤さんが出してくれたつてえからねえ。
香代 それとこれとは話が別ぢや無いか。私はお神さんから前借して来てゐる人間だよ。お神さんと近藤がどんな関係になつてゐるんだか、私の知つた事かね!
より そりやさうさ。全体、あんたを金で縛つて妾にしようなぞと、いくら近藤さんが会社の課長さんかなんか知らないけど、きたないよ。だけどもあの人を怒らしちまふと、蔦屋はおろか、此の土地に私達居れなくなつてしまふんだよ。
香代 ほかの土地へ行くさ!
より だつて、さうなりや、あんただつて坊やの所からもつとズツと離れてしまふ事になるんだよ。
香代 ……ぢや、ひと思ひに、死んじまふか。
より え! ……(ギヨツとして見詰める)……あんた、まさか……?
香代 ハハハ。死ぬ死ぬと言ふ奴に死んだためしが無いとさ。アハハ。
より あゝびつくりした、あんた大変な眼付きをするんだもの。
香代 ちよつと、おどかしてやつたのさ。よりちやんがあんまり臆病だから。
より 早く帰らうよ。もう日が暮れる。さうで無くつても、此処の切通しではこれまで何人飛込みがあつたか知れないんだからねえ。(崖のふちまで行つて怖々下を覗きながら)キツト此辺から列車目がけて飛ぶんだよ。気味の悪い!
香代 よりちやん、あんたの後ろに誰か立つてゐるよ。
より え? なに?
香代 そら、そこだ。
より ヒーツ! (真青になつて下手へ駆け出してゐる)やだツ!
香代 アハハハ。直ぐ私も戻るからね。
より (立上つて)意地わる! いいよ、私は先に帰るから。あゝ胸がドキドキする。(行きかけて又振返つて)……本当に香代ちやん、変な気を起しちや駄目だよ。
香代 なによ言つてるのさ、馬鹿だねえ。
より 少しあんたも男に惚れて見たりするといいんだがなあ。いくら、もう、男にはコリゴリだと言つてもさ、女はやつぱり女だもの。世間の男が、大概餓鬼道ばかりだとしても、みんながみんな三ちやんのお父さんみたいな者ばかりでは無いわよ。あんた、あんまり情がきついから世間も狭くするのよ、僕が忠告しとく。
香代 おつしやいましたね、あんたこそ少し男に惚れ過ぎやしない? あんまり情が深いから身が持てないつてね、一目惚れのより子さん。
より はゞかりさま。ビー、だ! (小走りに消えて行きながら)直ぐ来てよ。
(夕闇が降りはじめる。香代は茶碗の中へ乳首を押しながらヂツと動かない。上手に男一人の寂しい歌声(前に出たのと同じ節の木挽歌)が起り、次第に近づき、薄暗くなつた線路の所を、鶴はしを担いだ工夫の姿が一人通り過ぎて奥へ。
『山で切る木は、数々あれど、
  思ひ切る木は、更に無い。チートコ、パートコ』
泣いてゐる香代。……間。……かなり離れた引込線ででもあらう。汽笛が二つばかり響、しばらく間を置いてエキゾーストの音。……柵の傍に立つてゐる細い電柱の上の外燈と、もう一本の列車のための信号燈がポカリとともる。光は少し斜めに丘の上までを照す。……照し出された香代は既に泣いてゐない。眼をカツと見開いて、遠くの列車の響を聞いてゐる。又汽笛が二つ三つ。
 スツと立つた香代、先程より子がしたのと同じ様にスタスタ崖の縁へ歩いて行つて、線路の方を見おろす)
香代 ……三吉。(ポツンと言つて、スツとしやがんでしまふ。眼は線路に釘付けになつたまゝ。伝わつて来る鈍い列車の響)
(先程工夫が歌ひながらやつて来たのと同じ方向からフラフラと出て来る男。古背広に半ズボンに巻ゲートル、地下足袋姿に、乏しい荷物を振分けにして肩にした見すぼらしい渡り人夫の留吉。――三十二三歳だらうが、ひどく老けて見える。疲労と空腹のために顔色蒼白の上に病気。無論、崖の上から香代に見られてゐる事には気が附かない。……柵の所まで歩いて来て、よろけさうになるが、両足を踏みしめるやうにして立直つて歩かうとした拍子に枕木に足を取られ、唸り声を出して前のめりに線路に倒れる)
香代 あ! ……(思はず立止まつてゐる。留吉は顔を上げない)
(遠くの列車の響。
香代小走りに降りて行き、麓で手に持つた茶碗を地面へ置いて留吉の傍へ)
香代 あんた! ……どうしたの? (相手は低く唸つてゐるだけ)……こんな所で……危い……(四辺を見廻したが、思ひ決して留吉の片手とバンドを掴んで懸命にズルズル引つぱつて丘の麓へ)……あゝ重いつたら。……しつかりなさいよ! ……弱つたねえ。
(一人では駄目だと思つて、誰か迎ひに行かうとする)
留吉 ……水! 水! 水を、水をくれ!
香代 水だつて? 困つたねえ、ちよつ、ちよつと待つて、取つて来るから――。(置いてあつた茶碗を取る)
留吉 水を! 水をくれ!
香代 ……(相手の様子を見ては走り出して行きもならず、留吉の顔と茶碗の中を見較べてゐたが、それを留吉の口の所に持つて行つて、中味を空けてしまふ)……仕方が無い。(少し、むせる留吉)……あんた、どうしたの?
留吉 (寝たまま稍々元気になり)……腹も……空いてるが、……病気だ。……病気です。脚気――。
香代 病気なの? さう。私あまたどうしたのかと思つてさ。
留吉 ……あんたあ、誰だ?
香代 私あ、お香代といふのよ。……(先程からの自分だけの気持と、今自分のした事を思ひ合せて苦笑してゐる。線路の信号燈の青が赤に変る)
留吉 ……お香代さん、か……どうも、すまねえ。……俺あ留吉と言ふもんです。
香代 フン、……礼にや及びませんよ。フフ、変なもんねえ、ハハ。……(気を変へて)留吉……あんた、此の土地の人ぢや無いのね?
留吉 少し、今日は歩き過ぎた。……(まだ息が苦しさうである)……渡りもんです。……仕事を捜して歩いてる……なんか、此処に、仕事は無えだらうか? ……あゝ苦しい。
香代 そんなに喋つちや、まだいけないんでせう。……さあね仕事と言われたつて、私なんぞにや――。
留吉 この、胸んとこが、苦しくつて、仕様が無えんですよ。
香代 着物を少しゆるくしたら。どれ……(留吉の着てゐるものをゆるめてやりはじめる)……少しは楽になつたでせう? 胸も少しはだけたらどう? これなに? どうにか側へやれないの?
留吉 (出しぬけにギヤーツと言う様な叫声を上げて、手足をもがいて跳ね起きる)な、な、何をするんだ!
香代 (びつくりして)あつ! なんですよつ!
留吉 (胸の所を押へてヂリヂリ後しざりに線路の方へ)こ、こ、これを、俺のこれを、……何をしやがるんだつ! ……これに手を触れたら、こ、こ、殺すぞ! 畜生、うぬあ、……ち、畜生! (肩で息をしながら、ギラギラ光る眼が香代を睨んで立つ。殆んど常識では考へられない程の突変ママした見幕である)
香代 (あつけに取られて)……なにさあ! どうしたんですよ?
留吉 どうしたと? 人を、人を、親切ごかしに、たらし込もうとしやあがつても、その手に乗るかつ! ばいため! 人の金を――!
香代 ……金? それ、金なの?
留吉 (うつかり自分から金の事を言つたのに自分で周章てゝ、自分の口も香代の口も一緒にして塞いでしまひたい衝動で、両手を突出して宙に振る)えゝい! 言ふなつ! 金ぢや無いつてば! 言ふなつ! 金ぢや無いつ! もう何も言ふなつ!
香代 お前さん、それ、何の真似なの?
(近づいて来る列車の響)
留吉 何の真似だらうと、大きなお世話だつ! 人に水を飲ませたりして、親切さうにしやあがつて――(ゼイゼイ肩で息をしつゝ線路の上に立ちはだかつてゐるが、弱つた身体が昂奮のために今にも倒れさうだ)
香代 ……(あまりの言ひがかりに、怒る前に苦笑)水だつて? フン、さう、水か。フフ。……まあ、どうでもいいぢや無いの?
留吉 うぬあ、ぬすつとか!
香代 え? ……(呆れて相手を見詰める)
(間。――二人は、丘の麓と線路の上と離れたまゝ、見合つてゐる。ゴーツと近づいて来る列車の響。汽笛)
香代 危い! 汽車が来たよ! (三四歩進む)
留吉 (線路の上を香代から反対の方向へ逃げようとするが、足元がもつれて、ヨロヨロする)来るなつ! 来るなつ! ついて来ると、しめ殺すぞつ!
香代 (パツと線路の方へ飛出して行き、前に廻つて留吉の肩口をドンと突き)馬鹿! 危いんだよ! (留吉の胸倉を両手で鷲掴みにして、力一杯身体ごと線路の外、柵の方へ引きずつて来て、そのまま胸倉を離さぬ)
留吉 な、な、なにを貴様――! (自分の両手はふところをシツカリおさへてゐるので香代にされるまゝ)
(間。――間近かに迫つて来る列車の響の中で二人が両手を突張つたまゝ取組んで無言で相対し、互ひに光る眼で見詰め合つてゐる。

急に幕。

とたんに、グワーツ! と通過する列車の轟音)


(約半年後の春の宵。蔦屋の店内。奥中央にノレンの下つた入口。土間を広く取つてあつて、下手の部分は細長い食卓が三つばかりと作りつけの腰掛け。上手の一部が二重になつて畳が敷いてある。土間は二重の前を廻り込んで、上手に開いている出入口(奥の室及び裏口へ通ず)へ。下手の長食卓の所で辰造(前出)と、志水(着流しの卅五六才の工夫)が、より子を相手に飲んでゐる。三味線を弾いて唄ふより子に合せて志水も唄つて[#「唄つて」は底本では「唄って」]ゐる)

辰造 もう歌は止せよ。ムシヤクシヤすらあ。
志水 ……だつて公会堂の寄合ひは九時からだ。手筈は決つてゐる。今頃からいきり立つ事あ無えさ。
辰造 だつて島田が死んでから、もう半月にもなるんだぜ。会社であんな浸水のひでえトンネルを掘らせたためにボタを喰つて死んだとありや、立派な殉職ぢや無えか。それを、いくら臨時工夫だからつて、未だ手当を出ししぶるなんて、人間の法に有るかい? 第一、後に残されたおふくろや子供はどうして食つて行けるんだ?
より 島田さんとこのお婆さんなら今朝も此処へ来たよ。(志水に)あんたは寄らなかつたかつて。
志水 へえ、なんだつて?
より 会社との事で頼みたい事があるつて。
辰造 それ見ろ、いよいよどうにもやつて行けなくなつて来たんだよ。購売の方ぢや物価が高くなつたの一点張りでグイグイ品物の値段は上げるしなあ。日当は一厘だつて上りやしないんだ。たゞでさへ四苦八苦してゐるのに、これで稼ぎ人にポツクリ参られて見ろ、ほんとに! 他人事ぢや無いぜ。
志水 だからかうして何とかして貰はうと思つて一所懸命にやつてゐるんぢやないか。
辰造 何とか「して貰ふ」か。一体に気が長過ぎるよ。
志水 又馬鹿を言ふ。考へて見ろ、この問題に就いちや、こないだからあれだけ俺達が口をすつぱくして説きつけても、百人余りも居る臨時工の中のやつと三十人位が「うん」と言つてくれただけだよ。今夜だつて、口先だけぢや皆来るとは言つてゐたが、俺あまあ四十人も来れば上出来だと思つてゐるんだ。なんと言つても渡り者が多いから、まとまりにくいんだ。
辰造 渡り人足なんぞ打つちやつといて、俺達だけでぶつ始めりやいいんだ。
志水 無茶言やあがる。そんな風に行きや苦労しねえよ。御時世が違わあ。
辰造 御時世? ぢや、こんな御時世を俺達が拵へたのか? え、おい? 俺達あな、うぬが命を張つて、一両あまりの日当でその日暮しをして居れれば、嬉し涙をこぼしている人間だぜ。それが、どこがどうしたれば、御時世なんだ! どこの何様が、こんな御時世を拵へたんだ? 笑はすない!
志水 そんな利いた風な口を利くんだつたら、会社の人事課の窓口に行つて喋つて見ろ、トタンにお払ひ箱だ。
辰造 おう、よからう、誰が聞いても間違ひの無え事を言つてお払ひ箱になりや、此の辰造は本望だ。此処ばかりにてんとさんは照らねえ。
志水 さうなれば、こんだお前も、渡り人足になるんだぜ? それでいいのか?
辰造 あ、さうか! こいつあ、いけねえ。(志水とより子がふき出す)アハハ、渡り人足はまつぴらだ。見ろ、ほれ、あの留だ。不人情と言つたつて仲間つぱづれと言つたつて、あんな人で無しは居るもんぢや無え。此度の話だつて、ほかの連中は腹ん中あとにかく、口先だけでも反対する者あ一人も居ないんだ。だのにあの留吉と来たら、此方の話に返事一つしやがらねえんだ。「俺あチヨツト訳があるから」……かうだ。訳が聞いて呆れるよ! 金が溜めたいだけぢやねえか。ボロツ屑め! 香代ちんも香代ちんだ、いくら好きだと言つたつて、あんな渡りもんのボロツ屑に惚れなくたつていいぢや無えか。しかも片想ひと来てるから念が入つてやがらあ。此の町にや他に男は居ねえのかホントに! どう言ふんだい全体、え、より公?
より 去年の秋、香代ちやんが赤ん坊の事やなんかで変な気になつてゐたとこを、線路の所で留さんに助けて貰つたのがキツカケでせう。
志水 留公が此処にたどり着いた時の事だらう? そいつあ、あべこべだ。留公の方ぢや香代ちやんに助けられたと言つてたぜ。
より さう? 変ねえ。でも香代ちやんは[#「香代ちやんは」は底本では「香代ちゃんは」]さう言つたわよ。
辰造 そんな事どうでもいいよ。留の奴あ、どうしても、もう二千円近くの金は溜めてゐると俺あ睨んでゐるんだ。
より (眼を丸くして)二千円? 嘘う! いくらなんだつて、留さんが此処へ来たのが去年の秋で、今、四月だから、まだやつと、半年そこそこよ。いくら稼いだつて――。それに、そんなに金の有る人が、此の家へ来ても酒一滴飲まず、食べる物だつて一番安い物を、大概うどんよ、それも一日に二回しきや食べない事があるのに、まさかあ!
辰造 それなんだ! 食ふものも食はないで稼ぐ奴だ。それを利息を取つて人に貸す。近頃ぢや、仲間の連中に五十銭一円と日歩の金を貸し附けてゐるんだぜ。今日五十銭借りると明日十銭附けて六十銭返すんだ。なんて事あ無え、日歩二割ぢや無えか! みんな、うらみにうらんでゐるぜ。しかし、やつぱり苦しいもんだから借りちまうんだ。
志水 さう言へば、留吉あ、まだ、あがつて来ねえのかなあ。
より 今夜は残業だつて言つてたわよ。
志水 あゝ、さうだ、ありや金助と一緒だつた。
辰造 あいつは去年の秋此の町へ来た時に、いい加減金あ持つてゐたと俺あ睨んでゐるよ。渡り人足の我利々々な奴と来た日にや、煮ても焼いても食へねえ。ぺつ! 畜生、酒えまずくなつたい! 新らしいのを附けてくれ、より公。
志水 もういいよ、今夜あ、それで止せよ。
(蔦屋の女主人のお磯――三十七八才――が奥から出て来る)
辰造 いいよ、大事な晩だ、絶対に酔はねえ、もう一本だけだ。(より子、立つて行く)飲みでもしなきやたまるかい、ねえお神さん、さうだらう?
磯 いらつしやい。(笑つて)さうですよ。世間がかうセチがらく、せつぱ詰つて来るとね。
辰造 香代ちやんなあ、お神さん、ありや留の奴に惚れてるつてえのは、正直の所、本当かね?
磯 さあね。ウフフ、どうして?
辰造 どうつて訳あ無えけどね、せつかく香代ちやん程のいい女が、選りに選つて、あんなケダモノ野郎にさ――。しかも留の奴あ、知らん顔してゐるさうぢや無いか。
より やける? もしかすると、あんた香代ちやんにホの字ぢや無いの?
辰造 なによつ! 此奴!(立上つてゐる)お前と違うぞ、なによ言つてやがる。一目惚れのより公たあ誰の事だい? 知つてるぞ、夜になると、お前、此の志水の事を寝言に言ふさうぢや無えか!
志水 何を言つてゐやがる。
より (赤くなつて辰造の手を逃げまはつて、調理場の蔭へ)アハハ。ハハ。馬鹿。(歌ふ)こんな気持でゐる私――。
辰造 歌あ止せと言つてゐるんだ。出来合ひの歌あ唄つて口説かうと言ふんだから、太え了見だよ。アハハ。(お磯も笑つて見てゐる)おゝ口説くと言やあ、お神さん、油断をしちやいけないよ、会社の近藤が香代ちやんを物にしようとして、しきりと口説いてゐるさうぢやないか?
磯 (笑つて)お客だもの、口説きもしませうさ。
辰造 近藤の奴、もう半年以来の御執心で、金はいくらでも出すと言つてるさうぢやないか。悪く落着いてボヤボヤしてゐると、お神さん、折角のお大尽を香代ちやんに寝取られてしまふぞ。(より子が、それを言ふなとシキリと目くばせしてゐるが辰造には通じない)
磯 おや、おや、寝取られるんですつて?
辰造 だつて、近藤は此の家の後援者だろ? 何とか言つたつけなあ、さうだパトロンだろ、あんたの?
磯 オホホホ。まあね、近藤さんからは、金は借りてゐますよ。(平気を装つてはゐるが少し顔色が変つてゐる)
辰造 さう白つぱくれるなよ。(志水が着物の裾を引つぱるので)なんだよ? なあに、まだ早えよ。お神さん、今頃は大きに、香代ちやんと近藤とがどつかで逢つてゐるかもわからねえぜ。
磯 (より子に)さう言やあ、香代ちやん少し遅いねえ?
より (相手の顔色を窺ひながら)納屋の方の帳面を一わたり済まして来ると言つてましたから……。
磯 さう。(少し無理をして笑つて)惚れぬ女郎が惚れたと言へば、客は来もせで来ると言ふつて文句が有るぢやありませんか。アハハ。商売ですよ。(香代が外から戻つて来る)
香代 たゞ今。おや、志水さんに辰さん、やつてるのね。今夜は寄合ひがあるんぢやない?
磯 馬鹿に遅いぢやないか。
香代 掛けを取りに行つた私を掴まへて、からかつちや遊ぶ気でゐるんですからねえ。スゲ無くすれば、金はよこしてくれないし――。
磯 今頃迄納屋を廻つてゐたの?
香代 (相手の語調が少し変なのでフイと顔を見て)……え?
磯 いえね、どつか、他へも廻つてゐたのかと思つてさ。
香代 なんですの?
磯 ま、いいよ。(畳敷の上にあがつて)勘定は?
香代 (帳面と金を出して、磯の前に並べながら)当節ぢや、月半の勘定日だつてえのに、スラリと出してくれる人は無いんですよ。他所より景気の良い筈の炭坑がこれだ、ひどい事になつたもんね。なんだかだと物は高くなるのに賃金は元のまゝだし、ふところに金が停つてゐる間が無いのね。
志水 耳の痛い事を言やあがる。
磯 (帳面と照し合はせながら銭勘定をしつゝ)香代ちやん、お前……もう二つにもなつた子供まで有るつて事忘れちや駄目だよ。
香代 ……留さんの事なんですか? しかし、何でも無いんですよ。
磯 ……そんな、人を好きになつちやいけないなんて、そんな野暮を言つてんぢや無いけどね。何だかだでお前さんの身体にかゝつてゐる金もふえる一方だしさ。
香代 ――そりや、あれだけの物が溜つてゐるのに他所へ鞍替へもさせないでかうして此処に置いて下さるのは、私、ありがたいと思つてゐるんです。しかし、急に、それを――。
磯 いえ、今返してくれと言つてんぢや無いけどね……。此の倉三さん三円八十銭は?
香代 内金二円で、後は月末にしてくれつて言ふんです。……えゝ、ですから、かうして掛取りなんかも私、やらして貰つて――。
磯 そりや、辛いだらうさ。お前にばかりこんな事させて、私も済まないと思つてゐますよ。……会社の近藤さんの話にしたつてね、私あ何も兎やかく――。
香代 え? ……(はじめてお磯がからんで来る訳がわかつて、相手の顔をマトモに見る)……それを、お神さん――。
志水 より公、俺にうどんを一つくれよ。
香代 ……あの、これ――(と帯の間から紙幣束を出して、磯の膝の前のバラ銭の中に置く)
磯 なにさ? ふーん、これぢや勘定が合はないよ。誰れの払ひ?
香代 いえ、そりやお神さんの手にあげて置きます。
磯 だからさ、こんな沢山のお金を、どうして――?
香代 近藤さんが無理やりに私に握らしたんですよ。
磯 (顔を上げて香代を見て)……さう?…しかし、そりや結構ぢやないか。
香代 そんな風にお神さんから、言はれるのはいやですよ、私あ。私が近藤さんから金を貰ふ筋合ひは無いぢやありませんか。
磯 そりや、私の知つた事ぢや無いやね。(勘定の分だけの銭を財布に入れて)どれ、私あチヨツト……(土間に降りる)お店を頼んだよ。(客に)ごゆつくり。
より お神さん、どちらへ? (それに返事もしないで、お磯プイと表へ)
辰造 わかつてらあ、近藤の社宅へ行くんだい。(額に指で角を作つて)これだあ!
香代 (ボンヤリ畳の上の紙幣を見てゐたが、仕方無く取つて帯の間に無造作に突込んで)ああ、いやだいやだ。(土間に降りる)よりちやん、私にも一本附けてくんない?
より あいよ。しかし、いいの、あんた、香代ちやん?
香代 いいんだよ。
より いえさ、それよりも近藤さんの事だよ。
香代 へん。金はいくらでも出してやらうと言ふんだよ。お神さんだけで沢山ぢや無いの。あんな綺麗な人を放つといて、私見たいな女の尻を追ひまはすんだからね。(酒をガブ呑みする)タデ食ふ虫と言ふけど、少し物好きが過ぎるよ。
辰造 なら、お前が留公に惚れるのは物好きの骨頂だらう。
香代 なんですつて! 私がいつ留さんに惚れた?
志水 あれ、ぢや惚れちやゐないのか?
香代 惚れてゐるかも知れませんさ。それが、どうしたの? 男に惚れようと惚れまいと、人に相談した上でするんぢやあるまいし!
辰造 でもなんだぜ、当の相手には一寸相談するのが普通だぜ。さうで無い奴を片想ひと言ふ。留公にや相談しないのか?
香代 片想ひ結構! 誰がそんな事相談するものかい!(磯の声色で)香代ちやん、お前、もう二つにもなつた子供まで有るつて事忘れちや駄目だよ。七百円からの借金が有るつて事忘れちや駄目だよ。へん、どうせ持ちくづした身体だ。誰が糞、おかあしくつて、私あなたに惚れましたなんて言へるか!
より 香代ちやん、酔つたね。
香代 悪いの? フフ。……しかし、とどのどん詰りは、結局私あ近藤の妾にならなきやならんかも知れんねえ。かう八方ふさがりになつてしまつちや、もうおしまひだ。
より (例の人の良さで、思はず香代の肩を抱いて)しつかりおしよ、ねえ香代ちやん!
香代 (より子の肩に頤を乗せて)だけどねえ、どうしても私、諦らめ切れないんだよ! どう言ふんだろ? あんな、人間の義理も人情もどつかへ置き忘れて来てしまつた男、動物の様に金さへ溜まればいいつて奴、畜生つと思ふけど、駄目なのよ! 魔が差した! 自分で自分がどうにもならない!
(頬に涙が流れてゐる)
(志水と辰造も、香代の変な真剣さに打たれて、今迄の様な軽口も出て来なくなつてゐる)
辰造 ソロソロ公会堂へ行かうか。
志水 うん。(その間により子が調理場から水を汲んで来て、香代に飲ませる)
辰造 もう大概集まる頃だぜ。行かう。
志水 うむ。……しかし金助が戻る頃だ。もう少し待つててやらう。……それに、俺あ留公にも、もう一度すゝめて見るつもりだ。
辰造 駄目だ。彼奴は駄目だ。無駄だつて!
香代 ……(少ししつかりとなつて)どう言ふの? 死んだ島田さんの手当の問題でしよ?
志水 うん。そいつがキツカケで、こないだから皆で相談してゐるがね、今となつちやそれだけでは無くなつてね、色々と臨時工の待遇を良くしてくれと会社に頼んで見ようと言ふ事になつてゐるんだ。
香代 また、えらい騒ぎになるんぢや無いの?
志水 そんな事あ無えさ。なんしろ、さうして貰はねえと安心して働けないから、会社へ事情をよく言つて頼んで見ようと言ふんだよ。おだやかな話だよ。言はゞまあ惨めな相談だ。先行きはどうなるか解らねえがね。ハハ。
香代 そいで、うまく行きさう?
志水 それが甚だ以て心細いんだ。自分達の事を相談するのに、人数が半分も集つて来ねえ様な有様だもの。しかし、まあやるよ。なんしろ此の儘でゐると、暮しが立たねえで、今にヒボシになつちまふもの。でね、留公にも仲間に入らねえかとすゝめてゐるんだ。
香代 ……駄目でせう、あの人は……。
辰造 へん、そいでゐて、どこの炭坑会社だつて、此の景気で儲かつてゐるんだからなあ。内の会社なんかの株でも今期は一割以上の配当だつて言ふんだ。据ゑつぱなしの儘なのは俺達の日当だけだ。それに三年働いても四年勤続しても臨時工つて言ふ手は無えだらう。そりや、臨時工ばつかりにしときや、首を切るにもアツサリ切れるし、退職手当もチヨツピリで済むし、待遇からすべて、会社にや都合が良いだらうさ。(何かポンポン言ひながら金助(前出)が入つて来る。それを追つて留吉。――二人とも今まで仕事をしてゐたと見えて、汚れて、濡れそぼつた姿。特に留吉の下半身からは未だポタポタ水が垂れてゐる)
金助 なにを言つてやがる! 誰も返さねえとは言つてやしねえぢや無えか! 今日の所は都合が悪いから月末の勘定日まで待つてくれと頼んでゐるのが解らねえのか。全体お前、俺に三円の金を貸すのに、中の五十銭だけは天引きで利息は取つてゐるんぢやないか。そんな因業な事を言ふない!
留吉 だがお前、それを承知で借りたんだよ。俺の方から頼んで借りて貰つた訳ぢや無いんだ。
金助 そこをもう半月待つてくれと言つてゐるんぢや無えか。
留吉 だつて、今日返すつてお前約束したぜ。
志水 どうした? やつとあがりか?
金助 あゝ。監督の野郎、なかなかウンと言はねえんだ、今夜あ又一倍浸水がひどくてなあ。それに此奴あ、俺の傍に附きつきりでまるで念仏みてえに金の催促だ。大概腐らあ。いくら残業手当が欲しいからつて、留の奴の組で稼ぐなあ、もう御免だい!
香代 それ脱いだらどう? 乾かしてあげる。
金助 ありがたう。おう気味が悪いや。より公、直ぐに一本附けてくれ。ブルル、思ひつ切り熱くして呉れよ。
留吉 金助、返してくれよ。
辰造 (留吉を無視して金助に)早く腹を拵へて出かけよう。そろそろ寄り合ひが始まるぜ。
金助 うん。今夜こそあ、俺あ黙つちや居ねえぞ! 俺達の言ふ事に反対する奴が有つたら撲り飛ばしてやら!
留吉 金助、金を返してくれ。
より 留さん、あんたも、そのパツチ脱いだらどう、冷たいだろ? (と香代の顔を見る。香代は初めから留吉の方ばかり見てゐるが、彼女の性質では留吉に気持が有れば有るだけ寄つても行けないし、言葉もかけられず、奥歯を喰ひしばつて、金助の巻ゲートルの始末をしてゐる)……一本附けようか?
留吉 いや、俺あいいよ。後でうどんを食ふから。
志水 留さん、こないだから言つてた話なあ、今夜これから寄合つて相談するんだが、お前も出てくんねえか?
留吉 う?(あいまいに)うん……。
金助 (酒を飲む)そいつは、言ふだけ無駄だあ。
留吉 金返して呉れなきや、ホントに困るよ。
辰造 畜生! (いきなり目の前の燗徳利を留吉目がけて投げつける。燗徳利は留吉の肩をかすめ飛んで二重のハメ板に当つて大きな音を立てて割れる。さすがに皆ドツキリして総立ちになり留吉を見る)ケダモノめ!
志水 おい、辰!
辰造 とめるな! しつこいも程が有らあ! 来い、野郎! (留吉の方へ寄つて行く)
留吉 (眼こそキラキラしてゐるが、態度はおとなしい)……無茶あするなよ。(酒を手の平で拭いてゐる)
辰造 (留吉の襟首を掴んでこづき廻す)さあ、かゝつて来ねえのか、おい! 野郎! こら!
留吉 (抵抗しない)……なにをするんだ?
辰造 この! 畜生! 野郎! (いきなり相手の頬を殴りとばし、続いて腰を蹴とばして、倒れる相手の肩の辺を蹴る)これでもかつ! (と、さすがに今度は留吉の方でもかゝつて来るだらうと、飛び下つて応戦の身構へをする)(短い間。――留吉は痛さうに土間に坐る)
留吉 ……(やつと顔を持ち上げて)……金さへ返して呉れりや、いいんだ。(皆、呆れるよりも、その執念深さにむしろギヨツとしてゐる)
辰造 ……よし! ぢや払つてやるから、取れ! (懐中からガマ口を出して)こいつあ、島田んとこのおふくろにやるんで、今日勘定場で帽子を廻して集めた金だが、いいや、三円だな? 丁度それ位、あらあ、受取れ! (バラ銭を土間に投げる)
金助 しかし、辰兄い、そいぢや俺が困る、島田のおふくろにも、皆にも済まねえ。
辰造 なに、又集めりやいい。事情を話せば皆出してくれらあ。そして此の分はお前が月末になつて払へばいいんだ。(土間を這ひ廻るやうにして銭を集めてゐる留吉)チエツ! 人間の皮をかぶつたケダモノと言ふなあ、うぬの事だ! へん、ざまあ見ろ!
香代 ……畜生! (と口の中で言つて、プイと奥への入口から消える)
留吉 (拾ひ集めたものを勘定し終つて)三円二十銭だ。二十銭だけ多い、こりや返す。
辰造 なぐられ賃だ。取つて置け!
留吉 余分に貰ふ訳あ無え、返すよ。
辰造 ぢや其処で坐つたまゝ、お辞儀をして見ろ。そしたら利息としてそいだけやらあ。(留吉チヨツと辰造の顔を見て、次にお辞儀をしてから金を懐中にしまふ)アツハハハ! 見ろ! アツハハハ、ハハ!
留吉 (立つて行き、腰掛けに掛けて)……おい、うどんを一つ呉れ。(より子が調理場へ入つて行く)
金助 おい、そろそろ行かうか。
辰造 うん、行かう。志水、行かうぜ。
(そこへ表から、十二三歳の少年の手を引いた老婆が、あわてゝ入つて来る。二人共恐ろしく汚い、みすぼらしい装をしてゐる。キヨロキヨロと店内を見廻す)
金助 おゝ、島田のおふくろぢや無えか。まだ公会堂へは行かねえのかい。
婆 いえ、私あ、もう御免をこうむらうと思つてゐるんだよ。ねえ志水さん、もうあんた方いろいろに会社に掛合つて下さるのは止しにして下せえよ。それを言はうと思つて私あ昼間つから、あんたを捜してゐたんだよ。
志水 なんだつて? 止すとは?
婆 いえさ、あんたらが、死んだ伜の事で手当をドツサリ取つてくれようと色々と骨折つて下さるのは有りがたいけどさ、私達のことをダシにして、又段々とイザコザが大きくなつて来ると――。
辰造 なんだつて? ダシにしてだと?
婆 早い話が、明日の百円よりや今日の一円だもの。下げて貰ふ金が此の先伸びれば、私等あ、どうして食つて行けるんですよ? かうして子供と婆あで、稼ぐと言つたつて何をやるんだね? 会社では、あゝして、二百円なら今日にも渡して下さらうと言つてゐるんだから、これ以上事を荒立てないで、早く二百円貰つて――。
金助 おい、おつ母あ、俺達あ何も事を荒立てようとはしてゐやしないんだよ。第一、たつた一人の稼ぎ人が会社の仕事で殺されたと言ふのに、その伜の命が二百円でいいのかい?
婆 冗談言つちやいけないよ! 伜の命が二百円でいいと誰が言つたい? 千円積んでも万円積んでも私あいやだよ。何を言つてやがるんだ。しかし、背に腹は代へられやしないやね。だからさ! 今、あの栄町の角の駄菓子屋の店が百五十円でソツクリ売りに出てゐるんだよ。早く買はねえと他所へ売れてしまふ。此の子を育てるのに私あ駄菓子屋でもしてと思つて、……だからさ! ねえ、志水さん!
辰造 千円取れゝば、駄菓子屋でも何でもやれるよ。
婆 取れりやいいさ、取れりやいいけど、下手をすると元も子も無くしてしまふ。十年ばかり前の争議の時だつて、似たやうな事が有つたんだよ。
志水 そんな事あ無えよ! 絶対、そんな事は無え!
婆 だつてさ――。
志水 おい、おつ母あ、俺の言ふ事が信用出来ねえのか? 俺が今迄お前にチヨツピリだつて嘘を吐いた事があるか?
婆 そりやね、お前さんの言ふ事あ信用するよ。お前さんは正直な人だ。しかし、大勢になりや、お前みたいな人ばかりは居ないよ。
志水 とにかく、俺にまかせて、公会堂へは行つてくれ。まちがつたら、俺が腹を切つて見せる。それでいいだろ?
婆 そりやね、そりや、まあ、行きますよ。しかし、ホントに早くしてお呉れよ。駄菓子屋の事はどうでもいいとして、恥を話さなきや解らない、私んとこぢやもう、米が無いんだよう!
志水 米が無い?
婆 私あ、こんな年寄でいくらも食べやしないけど、此の食ひ盛りの子が、二日も三日も水の様なおかゆ腹でシヨビタレてゐるのを、私が黙つて見てゐられると思ふのかい? (声を上げて泣く。金助も貰ひ泣きをしてゐる。しかし少年は歯を喰ひしばつてゐて泣かない)
辰造 さうか! ……それ程困つてるなら、なぜ一言俺でも誰でも仲間の者にさう言つてくれないんだ?
婆 でもさ、みんなもやつぱり困つてゐるんだもの、さうさう言へたもんぢや無いよ。
より (少年に)坊、おなか、空いてる?
少年 うん。
より うどんでもあげようか?
少年 金が無えんだよ。
より お金はいいのよ。
少年 ぢや、いいよ。
より どうしてさ?
少年 ……食ひたく無えや。(言ひながら、眼は、隅でうどんを食つてゐる留吉の方を睨んでゐる)
婆 そいで、言ひにくいけど、誰か二三円私に貸して呉れんかね? 直ぐに返すけど。一円でもいいよ。(顔を見合せてゐる志水と辰造と金助。三人とも金は無いらしい)……五十銭でもいいよ。
志水 ……今無えんだ。直ぐ後で、俺、なんとかするから――。
辰造 おい留公、おつ母あに少し貸してやれよ。二円でも三円でもいい。貸してくれ。
留吉 (うどんを食ふのを止めて)……? うん。……いつ返してくれるんだよ?
金助 金が取れたら直ぐ返すよ。
留吉 ……そいで、利息は、いくらだ?
辰造 ……畜生! ケダモノ奴! もう止せ、こんな奴に頼むのは止せ! 後で皆でなんとかすらあ。さ、行かう、おつ母あ。此のケダモノ野郎、ペツ! (と留吉の顔へ向つてツバを吐きかける)
(店の前――舞台奥――を何か話しながらゾロゾロ通つて行く七八人の男達。中の二人が、ノレンから顔だけ出して)
男一 おい、行かうぜ!
男二 もう大分集つたらしいよ!
辰造 よし! さ、行かう! (老婆を助けて外へ。続いて金助も出て行く。少年はそのまゝ立つて、暫く留吉の方をうらめしさうな眼で睨んでゐたが、やがて外へ)
(留吉は又うどんを食ひはじめる。黙つてそれを見てゐる志水。――香代が奥から出て来て、二重に腰をかける)
志水 ……留、……お前、そんなに金が欲しいのか?
留吉 ……? ……うん、欲しい。
志水 それ程までにして金が溜めたいかと言つてるんだ。
留吉 ……ほかに溜めようは無えもの。……できなきや泥棒するより無え。……俺あ泥棒はしたく無え。
志水 どうするんだい、その金を?
留吉 ……。(うどんを食ふ)
志水 まあ、そりや、どうでもいい。どうしてもお前、俺達の仲間に入るのは、いやなのか? 皆の所に一緒に来るわけには行かねえのか? 同じ所で同じ様に働らいてゐりや他人の事あ自分の事だぜ。
留吉 俺あ金を溜めて、国へ帰らなきやならねえんだ。……だからかうして食ふ物も食はずに、毎晩おそくまで、人のいやがる仕事はみんな引受けてビシヨ濡れになつて稼いでるんだよ。……もう少しで国へ帰れるんだ。
志水 さうか。……(まだ何か言ひたさうにするが、止して、スタスタ外へ出て行く)
香代 ……よりちやん、一杯。冷やでいいわ。
より しかし、いいの、そんなに飲んで?
香代 いいつたら!
より さう? だけどねえ……(コツプに酒を注いで持つて来る)あいよ。
香代 (飲む。カーツとなりさうなのを努めて抑へた静かな調子)留さん、お前さん、もう少しで国へ帰れるんだつて?
留吉 ……さうだよ。信州を出てから五年間、かうして稼いで来たんだからな。俺あ嬉しくつてならねえんだよ。
香代 もう少しと言ふのは、いくらなの?
留吉 あと、百円足らずだ。二月ありや稼げる。そしたら俺あ――。
香代 二千円で、妹さんの身請けをして――。
留吉 いや、それよりも田地を買戻す方が先きだ。お雪の借金はあん時で四百円だつたから、もうよつぽど減つてゐるか、或ひはもう肩が抜けて堅気になつてゐるかも知れねえ。
香代 さう? そんなもんかねえ、フン。よりちやん、もう一つ。
より 冗談言つちやいけないよ、留さん! やつぱし、なんだらう、妹さんの行つた先も、やつぱし、こんな風な飲屋かなんかだろ?
留吉 小さい料理屋だよ。何か、おかしなうちだ。
より (香代に酒を持つて行つてやりながら)んぢや駄目だよ。一度前借をしてこんな世界に飛込んだが最後、二年や三年で抜けられやしないんだから。私達を御覧よ、借金はグイグイふえる一方だから。
留吉 そいつは、お前達がチヤンと、しまつてやらねえからだ。
より 田地を買戻すなんか後廻しにして、その妹さんの方を先きにおしよ。
留吉 とにかく一刻も早く国へ帰りてえよ。俺が帰りや一切合切、片附くんだ。
香代 その、あとの百円、私があげようか?
留吉 ……なんだつて? 百円?
香代 百円あげるから、お前さん、そこに坐つて、私の足の裏を舐める?
留吉 ……?
香代 百円だよ。舐めるの?
より 香代ちやん! お前――。
香代 アツハハハ、ハハハ!
留吉 なんだよ? どうしたんだ?
香代 『人間の皮をかぶつた』か。うまく、かぶつたもんねえ! アツハハハ、ハハハ! あゝ、おかしい!
より 又酔つた。仕様が無いねえ!
香代 百円やらうと言つてんだよ、いらないの?
留吉 そりや――。
より (香代の気持が迫つて来るので、泣けて来る)香代ちやん! ……(香代はゲラゲラ笑ふし、より子は泣くので、留吉は面喰つて二人を見較べてゐる――)……留さん! あんた香代ちやんの事、わからないのかねえ?
留吉 だからさ、俺あ、もし貸してくれるんなら――。
香代 貸すんぢやない、やるんだ! (帯の間から紙幣束を出して、留吉の前の食卓の上に放る)早く国へ帰るがいいよ! (怒つた様な調子)
より あんた! 香代ちやん! それを、なにすると、近藤さんとの事、いよいよ、のつぴきならなくなるんだよ! お前、そいで、どうするのさ! ねえ、香代ちやん!
香代 どうせ、もう、仕方が無いさ。それんばかり返して見たつて、どうせもう、こいだけ金で縛られてりや、なるやうになるんだ。ぶん相応だよ!
留吉 お前、酔つてゐるんだ。
香代 酔つてゐたつて、これんばかしの酒に間違やあしない。おとなしく、それ持つて、トツトと国へ帰るがいい! 私の前でチラクラして目ざはりだよ!
留吉 だけど、これは、いつか言つてゐた新村に預けてある子供の方へ渡してやる金ぢや無えのか?
香代 三吉は、新村の先方へ、もう呉れてやつてしまつたんだよ。畜生! 私みたいな、こんな、しようの無い母親が附いてゐたつて、子供に、それが何の足しになるんだ! 私あ、かう見えても、蔦屋の、お香代さんだよ! なんだつ!
留吉 さうか。……ぢや借りるぜ。ありがてえ! その代り信州へ帰つたら、直ぐに都合して送り返すよ。さうだな、利息は五分にしといてくれ。もつと出したいが――。
香代 こん畜生! (コツプを投げる。それの割れる音)利息だつて? な、な、何を生意気な! やるんだと言つたら!
より (はらはらして介抱する)お香代ちやん! そんなお前、無茶をして! 留さん、お前さんもホントに、留さん! お前さん、此処に来てから、あんなに香代ちやんに――仕事も世話になるし、あんなひどい脚気も香代ちやんに治して貰ふし、脚気を治して――(と焦るが、うまく言へない)
香代 なにをオタオタ言つてんだよ。人間の皮か! アハハハ、馬鹿野郎! 馬鹿野郎! (その狂態を留吉驚ろいて見てゐる)どうする、いつ帰る? 早く帰れよ、さあ帰れ! 帰れ! 帰つて、もう二度と再び来るなつ!
留吉 ……ぢや、ま――(立つて、うどんの銭を置き)直ぐ送り返すからね。いろいろどうも――。直ぐ立つよ。これで、助かつた。ありがたう。ホントに礼を言ふぜ、お香代さん。
香代 早く行けつ! なんだい! (食卓の上の物を留吉の方へ投げ附ける)早く帰れ! (それにヘキエキして留吉、コソコソと表へ立去る。香代尚も物を取つて投げる)
より まあさ、香代ちやん! そんな、お前、そんなに――
香代 こん畜生! 畜生! 畜生! (幕)


(信州の山村の、利助夫婦の家。昼前。春――此の(3)と次の(4)の山村の春景色は色鮮かに美しく、(1)(2)(5)の風景と著しい対照をなす。
下手、土間の隅で、妻のお雪が低く子守唄を歌ひつゝ乳飲児を負つて昼飯の仕度をしてゐる。上手半分が板の間になつてゐるが、その前寄りの炉の傍に此方を向いて坐つた利助が、眼を光らせて考へ込んでゐる)
利助 ……(一人ごと)畜生め!
雪 え? ……あんだよ? (オドオドした調子)
利助 あんだ?
雪 ……(利助を見るが、自分に話しかけられたのでは無いので又、コトコト炊事を続ける)
利助 ……轟は、いつ頃来た?
雪 さうだな、伝七さんが来た直ぐ後だつたから、十時頃だよ。
利助 なんと言つてゐた?
雪 まだ兄さん寝てるからと言つたら、後で又来るから――
利助 そりや伝七だらう? あんなドン百姓に俺あ用事は無えぜ。轟だ。
雪 轟さんは、なんにも言はねえだよ。
利助 ……さうか。フン、野郎、気を持たせてゐやあがるんだ。
(間)
雪 ……ねえ、あんた。……もういい加減に製板の事、諦らめておくれよ。
利助 ……又、言ふか!
雪 でも、どうせかないつこ無えもの。
利助 鮎川利助、あんの為めに十年もの間、山をやつて来たと思ふんだ!
雪 んでもさ、かうしていくら踏ん張つてゐても行く先きの見込みは附かねえしさ。それに坊やだつて、あんた。――兄さんに頼んで田畑をするなり――。
利助 馬鹿! 貴様、そんな事考へるんなら、一人で勝手にしろ! 今日限り離縁だ! 俺あ百姓は嫌ひだ、今更タンボ這ひずり廻る位なら、首いくくつて死んじまわあ!
雪 ……それが嫌なら、東京さ行つて二人で稼ぐなりさ――
利助 ぢや貴様一人で行け! 俺あ、骨がシヤリになつても此処でやるんだ。倉川や轟をもう一度見返してやらねえぢや俺あ死にきれねえんだ――
雪 ……だども、さ――。
利助 アゴタ叩くのは止せつ! ムシヤクシヤすらあ。……おゝ、酒を買つて来い。
雪 そんな、朝から飲むの、よしておくれ。身体に悪いから。それに、兄さんも来てんだから。
利助 へん! 兄さんだつて? 彼奴あ、五年前お前をあんな所に叩き売つた奴だぞ!
雪 叩き売つたんぢや無えてば。兄さんにもう一旗あげさせようと思つて、そいで、私の方から望んで――。
利助 同じ事ぢやねえか! 俺があん時一山当てた金でお前を身請けしてゐなかつたら、今頃はお前の身体あ、梅毒かなんかで腐つてゐたんだぞ、此の馬鹿野郎! 今頃ノコノコ帰つて来やあがつて、済まねえが聞いて呆れらあ!
雪 (奥を気にして)あんた、聞こえるから――。
利助 聞こえたつていいぢや無えか、本当の事言つてんだ! グズグズ言はずに、早く酒買つて来い。
雪 だどもさ、山徳ぢや、借りが溜つて、もう掛けではよこさねえのに……。
利助 現金持つて行きや文句無えぢやねえか。
雪 さう、あんた、言うたとて、無いのに……。質屋さ持つて行く物だつて、もう。
利助 甲斐性の無えアマだ、何とか都合して来う! 早く行け! 行かねえかつ!
(炉にくすぶつてゐた木の根つこを、鷲掴みにして立つて行く)
雪 だどもさ……(木を投げられた場合に背中の児に当らぬやうに肩口へ手を廻してかばひながら、徳利を捜す)そんな、あんた……行くよ。
(襖が開いて、留吉が出て来る。寝起きの晴れ晴れとした表情)
留吉 やあ、お早――(その場の様子の変なのに気が附いて、チヨツト妹夫婦を見較べてゐる。利助炉の傍へ戻つて来てムツツリ坐る)……お早う。(戸外を覗いて)いけねえ、もうお早うでも無えか。ハハハハ。あんしろ、此処に戻つて来て以来、永い間のくたびれが出たと見えて、いくら寝ても寝足りねえ。まるで身体が溶け込んで行くやうに眠いんだ。(妹が出してくれるタオルと塩を受取つて、土間へ降りる)おい……(表のカケヒの方へ出て行き、顔を水で一二度パシヤパシヤやる)
利助 ……早く買つて来い!
雪 へえ。……
留吉 国の景色は綺麗だなあ! (言ひながら顔を拭き拭き入つて来る)久しぶりに見ると、又一倍綺麗だ、まるで夢でも見てるやうだよ。ハハハハ。(妹の下げた徳利に眼を付けて)酒を買ひに行くのか?
雪 うん。……(少しウロウロする)
留吉 (その様子を見、次に利助の方に眼をやつてから、ガマ口を出して、金を妹に握らせる。背中の児を覗いて)よく眠つてゐらあ。早く行つて来いよ。
利助 ……あんたなぞから酒代を恵んで貰ふ事あ無い。お雪そんな金使ふと承知しねえぞ!
留吉 いや、俺も飲みたいから、さう言はずにさ。実あ、あれだけ好きだつた酒を、五年の間プツツリと断つてゐてねえ……(お雪に早く行けと眼顔で知らせる。コソコソ出て行くお雪)味も忘れたが、此処へ戻つて来るとやつぱり思ひ出すよ。アハハ。(炉の方へ来て)……利助さん、まだシミジミ礼も言つて無い。どうも色々とありがたう。面目無いが、妹が君の世話になつてかうして仕合せに子供まで出来て暮してゐようたあ、戻つて来るまで、まるつきり知らなかつた。まだ、あの料理屋に居るとばかり思つてゐた。済まない。俺あどんなに嬉しいかわからないんだ。
利助 いやあ……。
留吉 お雪が拵へて呉れた金でね、大阪へ出てバタバタやつて見た。今から考へて見ると、あんなに荒い町で三百そこいらの金を持つて何が仕出来せるものか、二月たゝない間に一文無しにすつてしまつてね、……一時は死んじまはうと思つて、鉄道線路を枕にして寝た事も何度かあつた。……しかし国の事を考へると、どうしても死ねないんだ。それからは、もう無我夢中さ。中国から四国、九州と渡り歩いて、彼方に三月、此方に半年と、少しでも余計に金になる事なら、人の嫌がる仕事ばかりやつて来た。汚ない事もしたよ。まるで、まあ餓鬼だ。……他人にも随分憎まれた。……然し、うぬが身体一つが元手の人間、少しまとまつた金を拵へようとすれば、さうするより他に法は無え。世間と言ふものは、さうした物なんだ。……然しまあ、かうして戻つて来れば、これからは万事うまく行くよ。来る早々津村先生に頼んで田地の買戻しは直ぐに片附くことになつてゐるから、さうなれば、俺と君達夫婦と三人でタンボをやつて行きあ、まあなんとか――。
利助 しかし、俺あ百姓は嫌ひだから……。
留吉 ……。そう言つたもんぢや無ないよ。人間の食べるもんを作るんだからなあ。第一、青天井の下で働くなあ気持がいいよ。君だつて俺だつてお互ひに十八九の時分は、あんなに喜こんでタンボ仕事をしてゐたぢや無いか。俺達あ、やつぱり百姓の子だよ。
利助 あの頃と今は違ふ。あの頃は農業一方で食へたのが、今あ食へなくなつて来てゐる。田地の五町も十町も持つてそいつを小作に出してやつてゐる家はとにかく、現に、三段や、五段の田地持ちで、タンボ専門で食つてゐる家なんぞ、此の村にや一軒も無くなつてゐるからな。有れば、そいつは借金で持つてゐる家だ。
留吉 だつて、金は残せないにしても、自分で食ふものを自分で作つて行く分にや、これ程強い稼業は無い筈だよ。さうだらう?
利助 あんたあ、なんか、夢を見てるんだ。
留吉 夢? ……(ムカツと来るが、わざと笑ひにまぎらす)ハハハ、いや、夢と言やあ、五年の間、俺が夢を見りや、たつた一つしきや無かつた。親父の残してくれた例の、今、斉藤へ行つてゐる二段田さ、あれ一面に菜種の花の花ざかりの景色さ。そいつを春先きの陽がカーツと照して明るい事と言つたら――菜種の匂ひまで嗅いだ様な気がしたもんだ。ハハハ、夢まで百姓らしい夢を見る。ハハ!
利助 ……だが、俺あ、まつぴらだな。
(気まづい間)
留吉 (あくまで下手したてに、話題を変へる)なにかね、なんか製材所とかの事で、今ゴタゴタしてゐる――?
利助 いやあ――此処ぢや製板と言つてるけどね。……なあに、別に……。(お前なんぞに話したつて仕方が無いと言つたムツとした調子である。取り附く島が無い。)……何をしてゐやがるんだ、遅いなあ。
留吉 ……お雪の事あ、今後とも、一つよろしく頼むぜ、なあ。なあ、利助さん。
利助 チエ! (舌打ちをして土間を降りる)
(表からセカセカと入つて来る轟伍策)
利助 おゝ、轟さん、遅いぢやないか!
轟 だつて先刻も一度来たんだぜ。
利助 今頃になつて、変に気を持たせるのは止して下せえよ。
轟 おかしな事は言ひつこ無しにしようよ。倉川の方が、もうこれ以上待つのはいやだと急に言ひ出したんで、私あ君の頼みもありさ、大急ぎでやつて来たら、君あどつかへ行つて居ない、大概ヂリヂリしたんだよ。
利助 え? もう待てねえつて? そいつは約束が違ふぢやないか!
轟 違つても仕方が無い、さう言つてるんだから。倉川にあいだけの資本を握つて居られたんぢや、いくらいきり立つたつて先ず喧嘩にやならないからな。長い物には巻かれろつて言ふ所だらう。
利助 へん、轟さん、一昨年あんたが私を叩きつぶしにかかつた時も、同じセリフをあんた言つたぜ。
轟 その時々の風の具合さ。一昨年は私だつてこれでいつぱしの長い物だつたが、今見たやうな手詰りになつて来るてえと、今度は、大きい金を抱いた倉川が長い物さ。もうヤケクソだ。倉川の手に製板から出した手形や借用証があれだけ実〔寄カ〕つてしまつたんぢや、いくら何でも、私には落とせない。君、ひとつ考へてくれ。それに君だつて製板の共同経営者なんだからな。
利助 共同経営者と言ふのは書類の上だけの話ぢやねえか! 一昨年以来、鐚一文の配当も俺あ受けた事あ無えんだ。おまけに、あれ以来まるで、俺あ製板の職工と同じ事をやつて、唯奉公みてえに働らいて来てるんだ。それと言ふのが、あゝして製板が俺達の手で経営されて居れば、大して儲かりはしないまでも、あれでも何やかやでは五十人近くの此の土地の人間が製板所で飯が喰つてゐられる事を思へばこそだ! それが、倉川なんぞの町の金貸しの手に渡れば、製板の職工から人夫すべて町から連れて来ると言ふぢやないか。糞、今更そんなベラボーな! 倉川ぢやチヤンと此の間今月の末まで待つと約束したぢや無えか! 男と男が言葉をつがへたんだぜ!
轟 そんな事を俺に言つたつて始まらねえ! なんしろ俺だつて首が廻らないで苦しいんだ。こんな事なら、あれだけの田地売り飛ばして、製板所なんかやらなきやよかつたと後悔してゐるんだよ。農村の自力更生策だなんて、生意気な甘つちよろい考へなんぞ起したのは、一生の不覚だつたよ。(留吉を見て、無理に笑ふ)ハハハ、ハハ、やあ留吉さん、だつたね? 戻つて来たつて噂聞いたが、君も随分変つたなあ!
留吉 へえ。どうも暫く、その後――。
轟 どうもね、以前はこれで地主様で威張つてゐたが、製板工業なぞに手を出して、田地も何も皆すつちまつてね。ハハハ、みじめなもんさ。君あ旅で大分溜め込んで来たんだとか誰か言つてゐたが、どうかね、少し出資でもして援助してくれんのかね?
留吉 冗談言つてはいけませんよ。
轟 冗談ぢや無い! 投資してくれりや一年の間にや五倍にして返すがな。え? どうだ、留さん!
利助 ……(先刻から土間に突立つてしきりと考へ込んでゐたが)轟さん、あんた、倉川のオヤヂと何かたくらんだね?
轟 なんだつて? たくらんだ? 私が?
利助 でなきや急に彼奴がそんな事を言ふ筈が無え! あんた、蔭にまわつて彼奴を焚き付けたのとは違ふかね?
轟 何を! 俺が、そ、そ、そんな! 失敬な事を言ふなつ! 言ふ事に事を欠いて、――よし、ぢや直ぐ倉川の宿屋へ行つて、ぢかにぶつかつて見ようぢやないか?
利助 ……よし、ぢや行つて見よう! (先に立つてドシドシ表へ出て行く)
轟 (利助の後について一旦表に出てから、小走りに引返して来て)留さん! 先刻の話、ホントに一度真面目に考へて見といてくれないかね?
留吉 ……いやあ、私なぞ――。
轟 とにかく近い内にユツクリ話すから――(表へ消える)
(短い問)
(二人の去つたのとは別の方角から酒徳利を下げて戻つて来るお雪)
雪 ……ただ今。
留吉 あゝ。
雪 ……鮎川は?
留吉 今、轟さんが来てな、一緒に倉川とか言ふ人に会ふんだと出て行つたばかりだ。
雪 ……。兄さん、お腹減つたべ? 直ぐに膳の仕度すつから、待つててよ。(土間の隅で仕度する)
留吉 うむ。……製板所のゴタゴタと言ふかなあ、どう言ふんだ? 倉川と言ふ人が買ひ占めにかゝつてゐるのか?
雪 さうなの。いえね、あの製板は初め内の鮎川が山で当てた金で始めたもんでね……私を引かして呉れた時分だよ……もつともそん頃は未だ極く小さい工場だつたけどね。それに段々鮎川が失敗して、やりくりが附かなくなつた所へ、轟さんが乗り出して来て共同でやることになつたけど、工場の実際の事をやるのは鮎川が主で、轟さんはまあ金を出して株を買つただけ見たやうなものでね。それが今度又倉川と云ふ人の手に渡りさうになつてゐるんだつて。
留吉 そんな誰がやつてもうまく行かねえ工場なんぞを、どうするんだらうな?
雪 いえ、地道にやつて行けば、あれでいい加減儲けも有ると言ふけどね。
留吉 だつて現に利助さん失敗したと言ふ――。
雪 あの人はなんしろ気の多い人だから、それやつてゐながら、又別に山に手を出したりするもんだからさ。
留吉 さう言へば、昔から利助は山気の多い男だつた。「ごろつき山師」と村の人は言つてゐたつけ。ハハ、いや俺あそれ程には思つてゐなかつたがな。とにかく、あんまり良くは思つてゐなかつた。それが、かうして戻つて来て見たら、お前の亭主だもの、俺あビツクリしたぜ。
雪 ……だつて仕様無えもの。(下を向いて兄の前に膳を据ゑる)
留吉 なにかね、製板所ぢや土地の人が五十人も働らいてゐるつて?
雪 ……中で働らいてゐるのは二十人位だけどね、なんやかやで五十人位ゐるかな。貧乏人ばかりでね、工場が人手に渡るとその人達も追出されるさうで、直ぐ翌日から食つて行けなくならあ。
留吉 ……しかし、利助さんと言ふ男も、何だか妙な人だなあ。
雪 ……ネヂクレ根性だしね。……(燗の附いた酒を運んで来て、兄に酌をする)はい。
留吉 おゝ。……(飲んで)しかし、お前にやホントに済まなかつたなあ。苦労させた。……どうか、かんにんしてくれ。……だが俺も、あれから死にもの狂ひで働いたよ。これ見てくれ、手なんかかうしてタコだらけだ。ハハハ。
雪 (兄の掌を押して)まあねえ! (涙)……つらかつただらうねえ!
留吉 久しぶりに飲むと酒がノドにキリキリしみらあ。……しかし、もう大丈夫だよ、安心してくれ。もうお前にも苦労はさせねえ。俺とお前とは、たつた二人つきりの兄妹だからなあ。……一つ飲め。
雪 私あ、これにまだ乳やつてるんで、飲んだらいかんの。
留吉 ……お前、もう利助さんの方へ籍は入れて貰つたのか。
雪 いや未だだよ、あゝして忙しいもんだから。それに兄さんが今迄何処にゐるかわからねえもの、そんな事勝手に出来やしない……。
留吉 さうか。……かうなつたら、直ぐさうして貰へ。坊やの事もあるしな。俺から頼んでやる。……どうだ、あれからお前、仕合せか?
雪 え? あんだよ?
留吉 利助さんは可愛がつてくれるのか? え?
雪 ……。(下を向いたまま、アイマイに首を横に振る)
留吉 ……ぢや、仕合せでは無えのか?
雪 ……。(今度もアイマイに首を横に振る。彼女にはイエスともノーとも答えられない。もつと複雑な、もつと深い感情が、彼女を支配してゐるのだが、それを言葉にして言ふ力は彼女は持つてゐないのである)
留吉 どつちなんだよ?
雪 ……。(急にワーツと声を上げて泣き出し板の間に突伏す)
(間――ヂツと妹の姿を見おろしてゐる留吉。勿論留吉は妹の気持はよく解らない)
(小自作農の伝七が入つて来る)
伝七 やあ今日は。いいあんべえだね。留さ、今飯かね? 先刻も私一度来たが、まだ眠つてゐると言ふから――。
雪 おいでなせ。(泣顔を見せないやうにして)兄さん、ぢやあチヨイト此の子を寝せて来るからね、飯あこれに入つてゐるから……(コソコソと奥へ立つて行く)
留吉 うん。……(妹の方へ気を取られてゐる)
伝七 久しぶりに戻つて来ると大変だらうね? ハハハ。ところで早速だがなあ、昨日も話したやうに、此の際ひとつ、三百円でいいから、融通して貰ふわけには行かねえかなあ? あんしろ、はあ、税金と肥料代だけでも、六百円からの借金でね。
留吉 ……俺にや、そんな金無えから。
伝七 三分五厘だけ利息を差し上げて、半期毎に証文書き替へることにしようで無えか。それなら、別に悪い事あ無えと思ふが、どうかね? 抵当には、上の段の桑畑ソツクリ入れて置いてさ。あれは、君も知つてるやうに、どう捨て値で叩いても五百両をくだる畑ぢや無えぜ。ひとつ、頼むよ。……(留吉は飯を自分でよそつて食いながら妹の事に気を取られてゐて返事をしない)君だつて、津村先生に頼んで田地の買戻しにかゝつてゐる位だ。それに、俺の所と君の家では、今でこそ何だが、元は遠縁に当る間柄なんだからなあ。ねえ、留さん!
留吉 ……元はどうか知らねえが、俺んちが分散する時あ、あんたあ知らん顔で見てゐなすつたよ。
伝七 そ、そ、そりや、お前、あゝ言う際に、俺みてえにロクに力の無え人間が飛出して行つても、なんになるだよ。そんな、そんな事を誤解して貰つちや、困るよ!
(中年の小学教員の津村が表から入つて来る)
留吉 津村先生、どうでした?
津村 いやねえ、今も行つて来たんだがね、どうも先方でも足元を見て、いろいろの事を言ふでねえ。
伝七 (キヨロキヨロと留吉と津村を見較べてゐたが)あんた今日は学校休みですかい?
津村 今日は日曜だかんね。ハハハ。一週一度の骨休めさ。ハハハ。
伝七 さうかね。ハハハハ、骨休めて、田地のシユーセン歩きかね。ハハハ。
(津村がムツとして伝七を睨んでゐる)
留吉 しかし、もともと買つて貰ふ時に、今後いつでも買戻しが利くやうに諒解は附いてゐるですがねえ?
津村 そいつが、当てにならねえでねえ。(眼は伝七の方をみてゐる)
伝七 そりやさうだらう。五六年前とは大分此の村も変つたからなあ。ハハ。こんなに村がヒヘイしちまつて、誰も彼もがやつて行けなくなつて来ると、他人の事考へて仁義な事やつては居れねえからな。斉藤さんに限らねえ。
津村 伝七さん、なんで私の顔ばかり見るかね?
伝七 ハハ、いや、ねえ先生、いつか役人や技師が来て農村でも工業を大いにやらなきやならんと学校で何度も演説してさ、学校の先生達も馬鹿に力コブを入れてゐなさつたが、あんな事も嘘の皮だね。ヘツヘヘヘ、そんな事で一々踊らされて、無けなしの金で罐詰めの道具買つたり、製板の株買つたり、ハムを作るのに資本をかけたりして益々借金ふやす百姓こそ、いい面の皮だ。ハハハハ。学校あたりでも、修身など教へねえで、コスツからく立ちまはつて、人のカスリを取る法でも教へて呉れた方が助かるですがねえ?
津村 あにを言ふんだ、君あ!
伝七 あんだ? (二人、睨み合つて立つ――間。留吉は二人の口論に少しゲツソリして、黙つてしまひ、茶づけ飯の最後の一碗をかき込んでゐる)
(利助が、酔つて戻つて来る。倉川との交渉はうまく行かなかつたらしい)
利助 ……畜生! 倉川が何だ。轟がなんだ。人を馬鹿にしやあがつて――。おゝ、津村先生に伝七さんか? こんな所で何をしてゐるんだ? あがつたらいいぢやねえか。
伝七 どうだい、製板の方のゴタゴタは、うまく片附いたのか?
利助 なんだと? それがどうしたんだ! 利いた風な口を叩くのは止しな。君達ドン百姓にわかる事かい! (お雪が奥から出て来る)
津村 倉川の方へスツカリ抵当流れになつて渡つてしまひかけてゐるさうぢやないか? さうなると折角あすこ迄やつて来た君達はどうするんだよ?
利助 それがどうしたんだ? 俺あね、他人のフンドシで角力を取つたりなんぞのケチツ臭え真似はしないんだぞ。なんだい、どいつも此奴も、他人の金に目を附けてウロウロウロと歩きやがつて!
津村 何を云ふんだ、君あ? 私が、いつ――。
利助 俺の云ふ事が気に喰はねえのか、おい! 気に喰はなきや、どうするんだ! (と、津村の肩を掴む)
雪 あんた! あにを――(と土間に飛降りて夫の腕を引き離す)先生、かんにんして下せ、酔つてゐるだから! あんた!
津村 ぢや(留吉に)明日でも又ユツクリ話すから――。
伝七 ぢやま、こんだ、な、留さん――(二人早々に出て行く)
利助 何をしやがるんだ! 離せ、畜生! 離せと言つたら離せ! あんな奴等あ、一ぺん思ひ知らせて置かねえと癖にならあ!
雪 まあさ! あのね、酒もチヤント買つて有るから、落着いて、それでも飲んで、いつとき寝るだよ!
利助 酒? (ヂロリと留吉を見て)へん! なんだ、人の買つてくれた酒なんか飲むか! 鮎川利助を見そこなうなツ! (と、お雪を殴る)
留吉 (立つて行つて、止める)利助さん、まあ――。
利助 (肱で留吉の手をはねのけて)俺の女房を俺が叱るんだ! 他人の世話になるかい。此の野郎! (お雪を殴る)
雪 あつツ、ツ! お前さん! ツ!
利助 へつ、利いた風な事を言やあがつて、こん畜生! こら! (とお雪をピシヤピシヤ殴る。こみ上げて来る怒りを、辛うじて抑へてゐる留吉)


(二三日後の晴れた午後。花が咲き、草萠え、小鳥の囀つてゐる村の旧い墓地の丘。丘は、上手に向つて傾斜し平地になりかけた所で、急にけづり取られてゐて小さな崖を形造つてゐる。その底を、上手袖から廻り込んで掘られた幅一間半の水路。製板所の動力を取るために新らしく作られた掘割である。上手奥に製板所の屋根の一部が見おろされる。時々キユーン、キユーンと器械鋸で材木を挽いてゐる響。留吉が、ひどく陰欝に考へ込んだ姿で出て来る。迫ひすがる様にして、津村。勤務の帰りと見えて、紺サージの背広姿)
津村 それに、近頃ぢや宅地はとにかく、耕作の出来る田地や山林と来たら、まるつきり少くなつてゐるからなあ。農業をしても合ひはしないのに、どう言ふもんかなあ、人がそいだけ多くなつたせゐかねえ、とにかく売りに出る田地は少くなつた。
留吉 ……。三千七百円で無きや、どうしてもいやだと言ふのかね?
津村 四千円一文切れてもいやだと言ふのを、私がお百度を踏んでやつと三百円だけ引かしたんだ。
留吉 ……でも、親父が死ぬ年に、あの田を斉藤に引き取つて貰つた時は、二千円少し切れてゐましたよ。
津村 それが、その当時と今とでは金の値が違つて来てると言ふんだよ。
留吉 ぢや、その話は一時見合せて下さい。……少し考へたこともあるんだ。……三千七百円なんて金も俺にや無い。
津村 しかし、いや、なに此の私がもう一息押せば三千五百迄にはして見せる自信はあるさ。あすこの息子が町の中学に入学する時にや、これで私あ随分見てやつて尽してあるんだからな。なあに。たゞ私は、君の腹を聞いてゐるだけなんだ。
留吉 ホントに、もう百姓をやつても合はないんですかねえ?
津村 みんな、よく、さう言つてゐるねえ。
留吉 どう言ふんだらうなあ? ……なんか、自分がこれまでの五年、思ひに思ひ続けて来た事が、急に嘘の様な気がするんだ。こんな事言つたつて先生にや解らねえだらうけど、それだけの為めに俺あ言ふに言へない苦しみを舐めて来たんですよ。田地の事と妹の事だけしきや俺の頭にや無かつたんだ。妹はああして、利助なんて妙な野郎とあんな風になつてゐるし、田地は田地で――。
津村 利助は、ありや又特別だよ。ありやよくよくたちの悪いゴロツキだ。君も知つてゐる、以前から山師で評判の良くなかつた男だが、近頃益々輪をかけて――。
留吉 いや、人の評判なんか、どうでもいいですがね、あれで苦労をしてゐるお雪が可哀さうでねえ……。(話の間に二人は墓地の中に入つてゐる。留吉は心覚えの両親の墓石を眼で捜してゐたが)あゝ、これだ。(なつかしさうに撫でる。器械鋸の音が響いて来る)お! (奥を見おろし、それから掘割を見て、アツケに取られてゐる)……なんだ?
津村 あゝ君は戻つて来てから此処は初めてなんだな? これさ、例の轟君と利助やなんかがやつてゐる工場は。
留吉 いくら何でも、こいつは酷い。
津村 さうだよ。とにかく村の墓地なんだからつて、村中でいくらか反対も有つたけどね、そんな事より、此の工場の為めに村の人間が何十人か恩沢を蒙つてゐるんだからてんで――。
留吉 その工場も旨く行かねえつて言ふぢやありませんか。
津村 なあに、利助なんぞが村の人を使つて小態こていにやつて居た頃は、これでやつて行けたのさ。もともと山あ近いし、地理の関係から言つても、割と有利な仕事だからねえ。それが轟君の手に渡り、それが又今度倉川の手に渡るとか渡らぬとか言ふ事になつて来ると、そいだけ金がかゝれば結果として又そいだけの利益をあげなければならん道理で、やつぱりヤマカン事業になつて来るんだなあ。しかし、いづれ、轟や利助がいくら頑張つたつて、倉川の物になつてしまふんだらうねえ。大きな金が、近辺の小さな金を全部呑み込んでしまふんだな。すべて似たやうなもんだ、農業だつて同じだよ。
留吉 すると、貧乏人や小百姓はどうしてやつて行けるんだ。
津村 そんな事、私は知らんよ。アツハハハ。
留吉 まさか、貴様達は早く死んじまへと言ふんぢやあるめえ!
津村 なんともわからん。ハハ、西洋にそんな哲学が有る。中世紀と言つて、人民は、何一つ言へなかつた時分の事だがね。その哲学では、一日でも一刻でも早く死んでしまふ事が人間の最大の幸福だと言ふんださうだ。気持あ解るやうな気がするがなあ。(墓石をピシヤピシヤ叩いて)かうして石になつてしまへば、苦も楽も無いからなあ。ハハハ。
(留吉は、津村の駄弁をウワの空で聞きながら、唇を噛みしめて掘割の流れを見詰めてゐる)
(伝七がアタフタと出て来る)
伝七 ……やあ、あゝんだ、どけえ行つたかと思つたら、墓詣りに来てゐたのか。えらく捜したよう……(白い眼で津村を見やり)なあ留さ、どうだらうなあ、頼んだ事よ? 三百円出来なかつたら二百円でもいい、抵当は矢張り上の段の桑畑だ。かうなつたら先の事なんぞ考へては居れねえ。どうにも、はあ、打つちやつとくと此の月末にや差押へが来るだから――。
留吉 ……俺に頼んでも仕方無えよ。
伝七 そんな事言はなくともいいで無えかい。君んとこの死んだ親父と、俺んとこのおふくろは、イトコまでは行かねえが、とんかく縁につながつてゐる間柄なら――。
留吉 ……縁につながつてゐても、此の親父の墓ひとつ見て貰はねえからね。
伝七 え、そりや、君、何もそりやお互ひに忙しいから、つい、いつでも来れると思ふから――。
留吉 いや、死んじまつた者が、どうなるもんか。カンヂンな事あ、生きてゐる者の方だ。
伝七 だからさ、だから、二百円で、結構だからよ――。ぢや、えゝい! 利息を、昨日は三分五厘と言つてゐたが、思ひ切つた! 五分迄出さうぢや無えか! 背に腹は代へられねえ、五分の利息と言へば村の貸借にはチヨツと無い率だよ?
津村 ハハハ。ぢや他からでも融通は出来る訳ぢや無えのかい?
伝七 津村先生、あんたあチヨツと黙つてゐて、呉れねえかね! 俺あ真剣なんだぞ。村で持つてゐる学校で、当てがひ扶持貰つて勤めながら、その暇々にシユーセンの口利きをしちや口銭稼ぎに夢中になつてゐる人間なんぞに俺等の辛え気持がわかるかい!
津村 あんだと! 私が、いつ口銭稼ぎに夢中になつた?
伝七 現にやつてゐるで無えか!
(奥の製板工場の方から、水路に添つて轟が昇つて来る)
轟 ……大きな声を出して、なんだ? (留吉に)やあ、いい天気だねえ。ハハハ、墓詣りかね?
留吉 ……ひでえ事になりましたね?
轟 これかね? いやあ、仕様無えさ、私など初め反対もして見たけれど、先頭に立つてゐる利助が、あの調子で猪みてえな男だからねえ。
留吉 ……。此処にや、俺の親父やおふくろを初め、先祖の骨がみんな埋まつてゐるんだ。
轟 (弁解して)墓なんぞ場所ふさげだと言ふんだ。死んだ人間が生きてる人間の邪魔をする手は無えと言ふ訳さ。アハハハ。いや、これに限らず、彼奴が、かうと思ひ立つたら、それが最後だ。おかげで今度の製板のイザコザぢや、私あ倉川と利助との間にはさまつて、弱つちまつてなあ。実あ、もう私あ、損をしても構はんから手を引きたいんだが、それもならんしねえ。このままで行きや利助と倉川にいぢめ殺されてしまふ!
留吉 全体、どうしたと言ふんですかね?
轟 細かい入り組みを話せばキリが無いが、要するに現ナマさ。今現ナマが千円もあれば、倉川だつて半年や一年待つてくれねえ事あ無え。倉川にしたつて、面倒な経営に乗り出すよりや、ふところ手で、下ろした資本の利廻りを見てゐた方が得だからねえ。何事に依らず肝心の物が無えと事がもめる。……どうだ留さん、君ひとつ、スパツと金を出して、製板へ乗り出して見ちやあ?
留吉 ……俺なんぞ、駄目だ。
轟 駄目なものか! なんなら出資だけしてくれゝば、共同経営の名儀にして、経営の方は私が一切やらうぢやないか!
津村 ……留吉君! で、斉藤さんの方の話だがなあ――。
伝七 (押しかぶせて)留さ! ひとつ頼むよ! なあ、昔のよしみに免じてさ! 利息はもう少し上げてもいいだ、えゝと、ぢや五分五厘ぢやどうだ? くそつ、思ひ切つちまへ! え、どうだ?
留吉 ……(急にすべてが耐へきれなくなり)いやだ。……俺あ、いやだよ。
轟 とにかくまあ、工場を一度見てくれよ! なあ! 今、器械全部は運転してゐないけどね、とにかく、見てくれ! (工場への傾斜を留吉を連れて降りて行きかけながら)もともと、これは有利な事業なんだからねえ、倉川も其処に目を附けてゐるのさ! (そこへ、酔つた利助が血相を変へて走り出して来る。手に封筒を掴み、懐中に何か呑んでゐる。走つて掘割の所まで行き、四人の後姿を認める)
利助 やい待て! 轟! おい! (と傍の人達を突きのけて轟の胸倉を掴んで掘割の傍まで引きずつて来る)
轟 な、な、なんだ? 何を無茶な――。
利助 貴様、俺を売つたな? 倉川に俺を売つたな、貴様?
轟 なに、売つた?
利助 惚けようたつて駄目だぞ! これを見ろ、これを! 畜生! (ピシリと相手の頬を打つ)
轟 乱暴するなあ止せ! 全体どうしたと言ふんだ。
利助 だから、これを見ろと言つてゐるんだ! (轟が片手で頬を抑へて、利助から封筒を受取つて開いて見てゐる)畜生! それも、倉川が自分の手でやるんなら、まだ男らしくつて話あ、解るんだ! 弁護士なんかに頼みやがつて、銀行名儀で営業停止の内容証明なんぞで送り附けるたあ、なんだつ!
轟 なるほど、さうだが……しかし、私ん所にや来てない――だらうと思ふんだ。
利助 だから、だから、お前、此の俺を倉川に売つたんだ!
轟 いや、そりや私んとこにも来てゐるだらう。今朝家を出たつきり未だ帰つて見ねえんだから――。
利助 嘘をつけ! 貴様あ倉川と腹を合せて俺を引つかけやがつたんだ! 俺あな、俺あな、もともとウヌ一人の鼻の下を心配してかうして頑張つてゐるんぢや無えんだぞ! 無けなしの金をはたいて、たとへ一株でも二株でも製板の株を買つてよ、それで以てズーツと製板で働いて来た村の連中はどうなるんだ! 五十人からの人間が、そいでどうなるんだ! 製板が倉川の手に渡りや、それがみんな、以前の様に百姓をやつて行かうにもタンボは無し、持つてる株はフイになる、金は無し、食へねえとなりや、よその土地へ流れて行つてウロウロしなきやならねえんだ! なるほど此の俺あ、ゴロツキ山師だ。昔つからのならずもんだ。しかし、お互ひ、人間の道あ、チツトばかり知つてゐるんだぞ!
轟 だつて、こんな事になつて来てゐるのに他人の事ばかりは言つて居れねえよ。
利助 それだつ! 言つたな? そいで売りやがつたな、畜生! ようし、どうするか見ろ! 野郎! (いきり立つて懐中からドキドキ光るなたを掴み出す)
轟 あつ!
津村 利助君、あぶないつ! これ!
利助 俺の邪魔すると、どいつも此奴も叩き割つてやるぞ! 出ろつ! (驚ろいてウロウロしてゐた伝七、何かに思ひ付いて急に駈け出して去る)
轟 助けてくれ!
留吉 おい利助、止しな! 利助!
利助 なんだ利助だ? へん、俺あな、お前なんぞから呼び捨てにされる義理あ無えんだ! ひつこんでろい!
留吉 まあいいから! な! な! 妹が可哀さうなことになる。な、頼む!
利助 可哀さうたあ、誰の事だ? お雪か、へん! お雪なら、俺のカカアだ、お前の妹なんかぢや無え! 可哀さうだつて? なによ言やがる、その可哀さうな奴を、売り飛ばしたなあ、どこのどいつだ?
津村 それを言ふな? そんな君、無茶な、留吉君だつて、何も好んで――。
利助 へん、利いた風な頤を叩くのは止しにしろ!
留吉 ま、いいよ。君あ酔つてるんだから――。
利助 なにを? 酔つてゐると? 大きなお世話だ!(言葉の一つ一つに留吉の肩や額や頬を突きこくる)俺あな、お前から頂戴した酒くらつて酔つてゐるんぢや無えんだ!
留吉 ……(突きまくられてグラグラしながら後ろへさがつて行く。我慢してゐて、全く抵抗しない)
轟 まあさ! 利助君、まあさう君――。
利助 酒位自分の金で買わあ! 金が無くなりや、お雪を叩き売つてやらあ! もともと彼奴あ、貴様に叩き売られた女だ。それを俺が買つてやつたんだ。俺の勝手にしてやるんだい!
留吉 ……利助、それを本気で言ふのか?
利助 本気ならどうした? 本気だとも。いざとなりや人間、自分の手足だつて叩き売るんだ。俺の女を俺が売るのに何がどうした? お雪に聞いて見ろ、お前なんぞに売られるよりや、俺に売られるのが本望だとよ! 糞でもくらへ!
留吉 ……(無言で利助へ近づいて行き、いきなり相手の首筋と腰を掴んで、投げ飛ばす。不意に人が変つたやうに猛然と怒つてゐる)
利助 な! チ、チ! 野郎、やりやがつたな! (これも起き直つて、留吉へ組み付いて行く)畜生! 野郎! ……この! 畜生!
(上になり下になりして二人の猛然な取組合ひ、殴り合ひ。……津村と轟が止めようとして周囲をウロウロするが、喧嘩が激し過ぎて傍から手を出す隙がない)
(喧嘩はしばらく続いた末、利助の方が次第に弱つて来る)
留吉 ……(組敷いた利助を尚も二つ三つ殴つて置いて、その両足を持つて掘割の方へ引きずつて行く)……畜生! 貴様みたいな奴は、俺が殺してやるから、さう思へ! この! さ! (と掘割の水中へ叩き込む。わめきながら這ひ上つて来る利助を、又叩き込む。三度四度五度……)これでもかつ!
津村 留吉君! 留吉君! まあさ、そんな! 危いつ!
(走つて出て来るお雪。幼児に乳をやつてゐた所を飛出して来たと見えて、ハダシに、幼児を抱いたまゝ。その後から伝七)
雪 兄さんつ! (駆け寄つて行きさうにするが幼児に気附いて、墓地の草の上にそれをソツとねかせて置いてから、留吉の方へ走つて、いきなり兄の手に武者ぶりつく)兄さん、あにをするだよつ!
留吉 寄るな! もう我慢ならねえんだ。
雪 いいから放して! 兄さん!
留吉 俺あいい! 俺あ、どうでもいいんだ! お雪、此奴あお前の事を屁とも思つちや居ねえんだ! 今日と言ふ今日は、此の野郎、どうするか! こらつ! (妹を振りもぎつて、更に利助を掘割の中へ叩き倒す)こん畜生!
雪 違ふ! 違ふ! 違ふよつ! 兄さん、そりや、違ふ!
留吉 お前は引込んで居れ! これでもか!
雪 違ふと言つたら! 兄さん! 違ふつ!
留吉 違ふ? 何がだ? 何が違ふんだ?
雪 兄さんにや解らねえんだ! 私等の事あ、兄さんにや解らねえんだ! 此の人が死んだら、私も生きちや居ねえだよ! 好きなんだよ! 此の人だつて、しんから私のこと好きなんだよ!
留吉 ……嘘だ! ぢや、なんで、あんなにいぢめるんだ!
雪 いぢめるんぢや無え! 仕事がうまく行かねえので、当り所が無えで、私に当るだけだつ!
留吉 へつ、何を言つてゐやがる! お前は退いてろつ! (もう既にヘロヘロになつてゐる利助を更にぶんまはしはじめる)野郎、来いつ!
雪 解らねえんだ、兄さんにや! 兄さんの馬鹿! 兄さんの馬鹿! (叫んで、留吉に向つて掴みかゝつて行く。それは既に兄を押止めると言ふ程度を通り越して、利助の為めに真剣に兄と闘ふのである。もう叫声をあげてゐる余裕も無く、無言で兄の顔を引掻く。自身も、留吉から殴られてコメカミの辺から血をにじみ出させてゐる)
留吉 そいぢや貴様――(とヒヨイと妹の凄い位の真剣さに気附いて、振上げた手をそのまゝに、黙つてしまひ、妹の顔をマヂマヂと見詰める)……。な、……なんだ。
(永い間。――少し離れて睨み合つてゐる兄妹。お雪の眼は敵意に満ちたものである。地上にへたばつてゐる利助は勿論、轟も津村も伝七も、先程から釘附けになつた様に二人を見守つたまゝ口が出せないでゐる)
(墓地の方から静かにきこえはじめる非常に非常に良い声。お雪の幼児が泣き出したのである。それは、此の緊張した空気の中に、しみ渡つて行くように響いて来る……)
(フイとそれに気が附いたお雪、スタスタと幼児の方へ行き、草上に坐つて抱き上げ、頬ずりをしてやつてから、黙つて、白い胸をスツとはだけて、幼児に乳房をふくませる)
雪 ……(涙の流れ出した顔。兄の方を見て)兄さんの馬鹿。……永いこと、田地のことや、お金のことばつかりに夢中になつてゐたんで、兄さんにや、人の気持がわからなくなつてしまつただ。……おゝ、よしよし。
留吉 ……でも、さきおとゝひは、あんなにお前泣いた。……それを――。
雪 (時々しやくり上げながら)……利助は兄さんよりや、私にや大事だ。……私等女の気持、兄さんにや解らねえ。……わかるもんかよ。……利助の心持だつてわかりやしねえ。仕事はうまく行かねえ、金は無し、世間からあいぢめ付けられる――気が焼けてヂレヂレするもんだで、つい私に当るだよ。悪いなあ、利助ぢや無い。利助の気持知つてゐるなあ、私だけだ。……兄さんにや解らねえ。……(幼児に乳を飲ませながら、静かに言ひ続ける。頬に涙。それを呆然として見守つてゐる留吉である)
利助 (掘割の傍にペツタリ坐つたまま)お雪!
(留吉は先程から黙つてお雪を見詰めたまゝ、お雪と利助の言葉を聞いてゐる間に、次第に妙な気持になつて来る。何か、この場の事件と非常に良く似た事が、過去にあつた様な気がして来るのである。それが、もう少しで思ひ出せさうでゐて、思ひ出せない。こめかみを抑へてブルン、ブルンと頭を振つてゐる。果ては両掌で顔を蔽ふ。
 暫く止んでゐた器械鋸の音が、奥の工場の方から、この時キユーン、キユーンと響いて来る。留吉頭をピタリと止める。……あの時の貨物列車の響と、此の鋸の音の相似)
利助 ……(フラフラと立つて、お雪のゐる丘の方へ行きながら)お雪――。
留吉 ……(顔からヒヨイと両掌を離して見ると、お雪の方へ歩いて行く利助の姿が、あの時、お香代に助けられた自分自身の姿ではないか。電撃を受けでもしたやうにブルブルツと震へて、五六歩丘の方へ利助の後を追つて叫び声を上げる)ああ!
利助 お雪、済まねえ! 今迄、俺が悪かつた。
留吉 ……済まねえ、お雪! 俺が今迄悪かつた! お香代! 俺が悪かつた、お香代、お香代!
(立つて居れなくて地面に坐つてしまひ、号泣する)
(先程から三人の騒ぎにドギモを抜かれてハラハラしながら見守つてゐた轟と津村と伝七が、留吉の此の様子で、気でも狂つたのかと、石の様になつてゐる。ばかりでなく、お雪も利助も留吉の様子にギヨツとする)
雪 ……(立つて来つゝ)どうしただよ、兄さん――? どうしたの、しつかりしてよ! (兄の肩に手をかける)
留吉 ……(顔をあげて、妹を見る。はじめ少しキヨロキヨロして、次に妹の顔を穴のあく程マヂマヂと、何か非常に不思議な物を発見した様に見詰めてゐる)
雪 どうしただよ、兄さん? お香代さんと言ふのは誰?
留吉 う? ……うん。
津村 (やつと元気を取戻して)留吉君、そいでだな、斉藤の方の話は――。
利助 (お雪のコメカミのキズから血のにじんでゐるのを見付けて)あゝ、お雪、いけねえ!
雪 あんだよ? (コメカミにさはる)
利助 痛くは無えのか? どれどれ!
雪 あゝにチヨツとすりむいた。
留吉 (その妹夫婦のする事を見守つてゐたが)……利助、……俺あ悪かつた。
利助 ……? あに、いいよ兄さん。俺あ酔うと、かうだ。始終ムシヤクシヤしてゐるもんだから、酒がこじれるんだ。俺が悪い。もう此奴を殴るなあ、止めだ。
留吉 なに、殴る位、かまわん。しかし、なあ、離縁だけはしてくれるな。俺が頼む。どうか可愛がつてやつてくれ。
利助 心配かけて、済まねえ! (男泣きに泣く)兄さん、実を言やあ、俺あ、お雪が居てくれなからうもんなら、もうとうに負けちやつて、首でも縊つてゐる男だ。
留吉 ……『うまく人間の皮をかぶつた』と言つてたな、……ケダモノか。……そうかも知れねえ。人の心持もなんにも解らなかつた。
雪 兄さん、お香代さんと言ふのは、どうした人?
留吉 なあに……。俺あな、お雪、百姓するなあ、もうやめた。お前達夫婦は、どんな事があつても別々にならねえで頑張つてやれ。先刻なあ、此の児が其処の親父やおふくろの墓の上で泣いてゐるのを見たら安心――と言ふか、なんか、そいでいいやうな気がした。墓なんかどうでもいいよ。人間、お互ひに苦しからうと、みじめだらうと、かうと思つた土地で松杉を生やす事だ。(懐中から二重にも三重にも巻立てた胴巻を出して)これお前にやる。
雪 ……あんだよ?
留吉 やるから、利助に使つて貰へ。二千円ばかりある。
雪 んでも、兄さん田地買戻すんぢや無えの?
留吉 こんな風になつちまつた所で、今更タンボやつて見たつて、なんになるものか。
雪 でもさ、そんなに苦労して溜めたものを――。
留吉 いいよ。いつそ俺あ嬉しいんだ。(利助に)だがなあ、製板所の事あ、カンシヤクを起さねえで、しつかりやつてくれ。村の人達が安心して働いて行けるやうにな。
利助 済まねえ! 必ず、やるとも! ぢや此の中から千円だけ貸して貰ふ。ありがてえ! 俺あ――。
轟 利助君よ、よかつた! おめでたう!
津村 留吉君、斉藤さんの方は、どうするかねえ?
留吉 五年間の夢だ。馬鹿々々しい。ハハハハ、夢を見てゐたんだ。せつかくだが、もう止した。どんなに綺麗でも、夢は夢だ。ハハハ。
(製板所の方から、器械鋸の音が響いて来る。
 ――幕。
鋸の音は残る。やがて、その音にダブつて列車の響。それが永い事続いてゐて、フト止んで――)


晴れた日の午前十一時頃。例の通り黒々と煤け返つた店内ながら、掃除をした後と見えて万事が整頓されてゐる。
畳敷の上り端にポツンと置いてある柳製のカバンの真白さ。傍に赤いフロシキ包みが一つ。ズツと離れて長食卓の一番前寄りに掛けて頬杖を突いて此方を見てゐるお香代。これから他行よそゆきするらしく髪も結ひ、割にキチンとした装である。酒を飲んだと見えて空のコツプが肱の前にある。
遠く炭坑町らしい物音。

磯の声 (奥の部屋から)お香代ちやん! 棒縞のメリンスの単衣は、もうカバンに詰めたつけねえ? (タンスを動かしてゐる音)……いくら捜しても此処にや入つてゐないよ。もう詰めたの、ねえお香代ちやん! ……(言ひながら奥から出て来る。手に二三の帯や衣類を抱へてゐる。店内を見るがお香代が動かないので眼に入らず)あら、どつか行つたんだね……いいや、私が入れといてあげる。……(独言しながらカバンを開ける)
香代 ……(忘れた頃になつて)え? なんですの?
磯 なんだ、居るぢやないの。いえね、メリンスで棒縞のが有つたろ?
香代 あれは島田さんとこのお婆さんにやつてしまひましたよ、ズーツとせん。
磯 まあ、もつたい無い事するねえ! あれでも置いときや未だ結構一夏位着れるのにさ。ま、いいや。……あの、そいからね、これは私の使ひ古しでなんだけれど、締めておくれ。地味であんたにや少し可哀さうだが、物はこれでも博多なんだから。
香代 ありがたう。……そんな事、なさらなくてもいいんです。
磯 いえね、お前が今度の住替へで色々と無理をしてゐる心持あ、私にも解るつもりだよ。別に大したお世話をしてあげた訳でも無いのに、私の事を考へてくれるお前の志しを思へば、何とかもう少し恰好を附けてあげなきや済まないんだけど――。
香代 ……そんな事、ありませんよ。
磯 女世帯を張つてかうしてゐると、人の知らない苦労があるもんでね……近藤さんとの事にしたつて、私が好きこのんでの話ぢや無いものね。女なんて、一人でおつぽり出されりや、弱いもんさ。どうかね、私がお前の事を、そねんだり、……なんかしてこんな目に会はせるとだけは思つておくれで無いよ。
香代 とんでも無い、お宅からの前借は未だソツクリ残つてゐますし……それに近藤さんに金を借りたりしたんですから、私が悪いんですよ。自分で望んで他所へ行くんですから、おかみさんが気の毒がつて下さる事はありません。
磯 さう思つてくれりや、私はありがたいよ。そいで残金の百七十円は、先方へ行つて鑑札が下りれば、お前にぢかに渡してくれる話になつてんだからね。……これからお前も大変だ。港町と言やあまた此処いらとは一倍人気も荒いだらうし、お客も性の知れない人が多い。身体だけは大事にしておくれよ。(泣いてゐる)
香代 ……(これは泣くなどと言ふ気持はとうに通り過ぎてしまつてゐる)おかみさんもお大事に。
磯 そいで三吉ちやんの方は、どうして来たの?
香代 昨日いたゞいた金をソツクリ置いて来ましたから、半年一年うつちやつといても育てて呉れるでせう。先方でも割に可愛がつてくれますしね。私の身の上にもしもの事が有つたら、うちの子にしてもよいと言つてゐるんです。ハハ。
(表からより子が、買つたばかりの安物の小さいバスケツトを下げて戻つて来る)
より たゞ今。栄町迄行つて、やつと有つた。眼が飛出るぢやないの、これで二円五十銭ですつてさ!
磯 しかし、こりやなかなか良い品ぢやないか。
より 二円にまけろと、いくら掛合つても、まけやしない。
磯 お前、香代ちやんに餞別に買つてやらうと言ふのにねぎつたのかい?
より だつて、いまいましいぢやありませんか。
磯 アハハハ、相当だよ、お前も。どれ私や残りの品を、まとめてやらうかね……(笑ひながら立つて行く)
より 香代ちやん、はい。これ、私のホンのおこゝろざし。……あら、どうしたの?
香代 ありがたうよ、よりちやん。……済まないけど酒を一杯おくれ。
より 泣いたりして、今更――。
香代 お酒!
より 酒はいいけどさ……(大きいコツプに酒を注いで持つて行つてやつて)おかみさん、又なんか言つて?
香代 うゝん……(酒を一気に呑む)私に済まないつて。
より 今頃になつて? それ位なら、あんたが近藤さんから借りた分を立替へてやつて、それをあんたの前借の中に繰入れて呉れゝば何でも無く済む事ぢや無いの? 本当は、近藤さんがあんたにあんまり御執心なもんで、あんたが此処にゐれば又なんだかんだで、いつなんどき、あんたに取つて代られるかも知れないと思つて、おかみさん安心して居られないからさ。
香代 おかみさんは、あれで、気の良い親切な人だよ。あんな人に煮湯を呑ましたり、私にや出来ない。
より 気は良い人だよ。だけどさ、あんた、自分の事考へて見れば――。
香代 いいんだよ! もう一杯おくれ。なあに、どう転んだつて私はもう同じ事だもの、諦らめてしまつたのよ。まあなるべく他人様の邪魔にならぬやうに……。アハハハハ(自棄に笑ふ。酒をあふる)もう一つ、大きいので!
より そんなに呑んでいいの?
香代 いいぢやないか、ケチケチするない。もうお別れぢやないか! 今度いつ又逢へるか解りやしないのよ。(酔つてゐる)
より ぢや、まあ……(注いでやる)しかし向ふへ行つたら、あんまり深酒しちや駄目だよ。
香代 ふん、さう言ふ事を言つたつて、もう手遅れだよ。アハハ、私のする事あ、何に限らず、いつも手遅れだ。ハハ。よりちやん、あんた、私見たいになつちや駄目だよ。人に惚れたら、早く惚れたと言つておしまひよ、手遅れにならぬ内に自分をブチまけておしまひよ、いいかい、こじらしちやいけない。お別れに忠告しとかあ。
より 留吉さんは、どうしてゐるんだらうねえ。
香代 あんな奴の事を言つてんぢや無いつてば! あんな、人で無しめ……私あ志水さんの事を言つてんだよ。よりちやん、お前惚れてんだ。すなほに、惚れてるやうにして惚れなきや駄目だよ。人間、すなほが一番強いんだよ。私みたいにこじらしちや駄目! こじらしちや駄目! ウーツ、もう一杯。
より (香代の気持がヒシヒシと解つて、涙声で)もういいよ、香代ちやん。
香代 注げよ! 注がないかつ! アハハ。よろしい、それでいい。その代り、お別れに私が歌を唄つてあげる。ヤーレと(唄ふ。木挽歌)坑夫女房にや、なるなよ妹、ガスがドンと来りや、後家ぐらし、やれチートコパートコ。
(すゝり泣くより子。……表から志水が仕事着のまゝ新しいシヤベルを五六丁荒縄でしばつたのを担いで入つて来る)
志水 う、えらい景気だなあ。馬鹿にいい声で唄つてゐると思つたら、香代ちやんか。うまい筈だ。
香代 そら来たよ、よりちやん! ウワーイ!
より (真赤になつて)いやつ! 志水さん、あんた現場ぢやなかつたの、今日は?
志水 本社の用度課へこれを取りによこされたんだ。これから又現場へ戻るんだが、うどんでも一杯食つて行かうと思つてなあ。
香代 志水さん、あんた、よりちやん好きだろ? え、好きだろ? 返事しろよ、好きだろ?
志水 なんだよ? 驚ろいたなあ。
香代 好きなら、早く、おかみさんにして一緒になつておしまひよ! よりちやんの方なら、もう、とうにあんたに首つたけ。いやもう背が立たない。この辺まで! ブクブクブク助けてくれつ!
より 馬鹿! (てれて調理場へ行く)
志水 (笑ひながら四辺を見廻して、カバンやバスケツトを見つけて)どうしたんだい、誰かどつかへ行くのか!
より ……(調理場から)香代ちやんが、遠くへ行くのよ。一時半の汽車で。当分お別れよ。
香代 お香代さんの、お住み替へだい! アハハハ。倍になつた借金を、此の首つ玉へ、おもしに附けて、西の海へドブーン!
志水 さうか。……そいつは、なごり惜しいなあ。身体に気を附けて――。
より (出来たうどんを志水の所へ持つて来ながら)はい。(しみじみとした間。……遠くで列車の音、汽笛)
志水 ……(うどんに箸を附ける)あゝ、うどんを食ふと留公の事を思ひ出すなあ。留公、今頃どうしてゐるかなあ。(ハツとしたより子が、それを言ふなと、しきりに志水に眼顔で知らせる)国へ帰つて百姓やつてゐるかなあ、止しやいいに――。(より子がたまりかねて志水の裾を引つぱつて、香代の方へ注意を向ける)うん?
(二人がその方を見ると、不意に顔色を変へた香代が、今迄ハシヤいでゐたのを突然に止めて、顔をそむけたまゝ土間の真中に突立つて石の様になつてゐる。……間)
香代 ……。ふつ! 畜生。……志水さん、あんた達あ、腑抜けかね? ……死んだ島田さんの事やなんか、会社へかけ合ふと言つてゐたのは、どうなつたんだよ? (と、何のキツカケも無く、出しぬけに真青な顔になつて、全く別の事を言ひ出す。酔ひがこじれて、蒼白く気味の悪いやうなからみ方である)え?
志水 なんだ、急に?
香代 へん、お前達はそれでも男か? それでも人間か? 島田さんとこの婆さんはな、もう食へないし、会社からの金は払下げて貰へないし、ニツチもサツチも行かなくなつて、泣くにも泣けないで真青になつてゐるんだぞ!
志水 ……急に又、そんな――。
香代 言ふぞ! 言ふとも! それが、さうしてベンベンとして他人が良い様にして呉れるのを待つてゐるばかりが、死んだ友達、死んだ仲間のために為てやる事なのか? へん! それでゐて、詰らない、馬鹿々々しい話になりや、人の事にまで頭を突込んでなんだかだと、ぬかすんだ!
志水 香代ちやん、俺あ留公の事を、からかつて話してゐるんぢや無えぜ。ほかの連中は知らねえ、俺あ――。
香代 あんな奴の事なんぞ、誰が言つたい? 私あ、お前さん達仲間の意気地無さの事を言つてゐるんだ! お前達あ人間の屑だ!
より 香代ちやん――!
志水 アハハハ。いいよ、言はして置けよ。今のところ何と言はれても仕方が無え。(真率に)しかし、なあ香代ちやん、俺達あ、止しやしねえぜ。はたから見てゐると、何もしないでボヤボヤしてゐるやうに見えるかも知れねえけど、実は、そ言つたもんぢや無いさ。
香代 へん、ぢや何故、早く――ぶつぱなしてやらない?
志水 せつかちな事を言つたつて始まらねえよ。明日や明後日おしまひになる仕事をしてゐるんぢや無い。島田のバイ償金だけを倍か三倍かにして取つちまやあ、あとはどうでもいいと言ふ話なら別だが、事はそれだけぢや無え。
香代 そんな事を言つてゐる内に、島田のお婆さんは子供を抱いて明日にでも身投げでもするかも判らないよ、へつ!
志水 ぢやお前は、俺達仲間で、人数は少えけど十人ばかりの家で順繰りに、バイ償金がさがる迄、島田んとこの遺族に毎日炊出しをしてやるやうに決つた事は、知らねえんだな?
香代 へーん? ……そいで、あと、どうするんだよ?
磯 ……香代ちやん、これでお前の物、すつかりだけど――(と言ひながら奥から、手に二三の下着類を持つて出て来る)おやいらつしやい。早いのね?
志水 本社へ来たついでに、ベツピンの顔を拝んで行かうと思つてね。
香代 ねえ、そいで、あと、どうすんだよ? (と変に真剣にしつこい)
志水 まあいいよ。お前、酔つてるよ。
香代 酔つてる? 酔つたがどうした? 言へねえもんだから、人の事を酔つてるなんぞとぬかしやがつて! おい! お前達みてえな、ロクで無しの人夫がな――畜生! 馬鹿にするない! (怒つて志水にかゝつて行く)
(そこへ表からヌツと入つて来る留吉。先に此処を出て行つたのと殆んど同じ装。出合ひがしらにお香代の狂態なので、入口の所で立止つて黙つて見てゐる)
より 香代ちやん、いけないよ! (とめる)
磯 どうしたんだよ?
より なに、少し飲み過ぎてんですよ。香代ちやん、あんた、今日住替へに出立するんだよ、しつかりして呉れないと困るよ。
香代 なによ言つてゐやがる! (より子の止めるのをきかず、あばれ廻る。その辺に出てゐる物を投げ飛ばしたり蹴つたりして狂態を尽す)へん、住替へがどうしたんだつ! 来い、野郎! ち、畜生! 野郎! ひとで無し! 情知らず! 馬鹿! (あばれ廻る)
より (留吉を発見して)あ、留さん!
志水 留公! 戻つて来たのか?
香代 なんだつて? 又、私の事をひやかすのかつ! 畜生いい加減にしろい! (酔つてチラチラする眼で、その辺を泳ぎ廻つたあげく、留吉の立つてゐる姿を発見する)……なんだい? (顔を突出すやうにして、留吉を見てゐる)
留吉 ……住替へをする事になつたんだつて?
より さうよ。香代ちやんもう直ぐ出立する所なのよ。
(香代はポカーンと無言で留吉を見詰めて立つてゐるばかり)
志水 国の方は、どうしたんだ?
留吉 ……うん、百姓したつて、詰らねえ。此処の方がいいや。此処で住むつもりで戻つて来た。済まねえが、又一緒に働かしてくれよ。
志水 そいつはいい! さうか、そりやいい!
留吉 おかみさん、お香代は、いくらで住替へる事になつてんです?
磯 なにか――?
留吉 金高を聞いてゐるんだ。いくらで住替へる事になつてゐるんです?
香代 (出しぬけに神経的に笑ひ出す)へつ! ハハハ、何をまた! それを聞いて何にするんだ? ヘツ! お前なんかの出る幕ぢや無いよ! 寝呆けたのか! 私の身の代金がいくらだらうとそれがお前さんにどうしたつて言ふんだい! 馬鹿にしちやいけないよ、ハハハ、何を――。
留吉 (ベラベラと気が狂つたやうに喋りながら顔を突出して来る香代の顔を、黙つて張り飛ばす。続けて三つばかり。ヨロヨロとなる香代)……馬鹿! (キヨトンとしてしまふ香代。呆然と立つてゐる)
(間――遠くを列車の響)
磯 ど、どうしたんだよ?
留吉 いくらだと聞いてゐるんですよ。
磯 そりや、先方から受取つた金は、まだ三百ばかりだけど、さうさね、内のと近藤さんからの借金など全部合せて丁度七百円――。
留吉 此処に五百円あるんだ。(出して上り端に置く)これで、お願ひだが、住替へ一件の証文は巻いていただけねえだらうか? あとの二百円は、俺あ、キツト此処で稼いで、毎月いくらかづゝでも入れて、なすから――。
磯 ……えゝ、そりやねえ、なんですけど――なんしろあんまり藪から棒で――。
志水 それぢや、留公、君あお香代ちやんと――?
留吉 お香代の子供を引取つて、三人で家を持たうと思ふ。此の町に住着かうと考へてゐるんだ。
より まあ! まあ! 香代ちやん、香代ちやん! (感動して香代にかじり付く。しかし香代は呆然として留吉を見守つてゐるばかり)
志水 さうか! ……だけど、君も変つたなあ?
留吉 ホントにきまりが悪い。いろいろ眼に余る事も有つたらうが、以前の事あ、かんべんしてくれ。あいでも、俺あ嘘や冗談でしてゐた事ぢやない。夢を見てゐたんだ。……物事のけじめも、人の心持もわからなかつた。なさけ無い話さ。……しかし、これから俺、此処で地道に働いて行かうと思つてるから、よろしく一つ頼む。
磯 まあ、ねえ!
志水 頼むも頼まねえも、君あ何も言はずに国へ行つたんで会社の方へもあのまゝになつてゐるんだから、今日からだつて行けるさ。
留吉 さうかい、ありがてえ。んで、いつか言つてた話なあ、例の島田君の一件がキツカケで皆でゴタゴタもんでゐた事さ、あれは――?
志水 まだ行き悩んでゐるよ。会社でも幾分折れては来て呉れてゐるが、なんしろ、事が単にバイ償金だけの問題では無くなつて、臨時工全体の待遇のことで一つ一つ細かい個条の交渉に、入つて来てゐるからね。先き行き風向き如何で、うまく行けばうまく行くし、又、全部がドンデン返しにひつくり返されるかもわからないんだ。いづれにしたつて俺達の方でシツカリしてゐるかどうかで、成り行きも決る。
留吉 それに、俺も、君達の仲間入りをさせてくれないか?
志水 え! ホントかい?
留吉 いや俺あ、なんにも解らねえ人間だし、なんにも別に出来やしない。ホンの仲間の端つこに入れてくれよ。そいだけでいいんだ。
志水 いいとも! 皆に異存の有らう筈が無い! しかし変つたなあ!
留吉 変つた変つたと、さう言ふなよ。いや、俺も、もうボヤボヤはして居れねえ。此処に住着いて、女房子供を抱へて暮すとなりや……。
磯 よかつたねえ! よかつたねえ、香代ちやん!
(不意に堰を切つたやうにワーツと泣き出す香代。……その尾に附いて、より子も泣き出す……間)
留吉 なあんだい? ……よろしく頼むよ、志水さん。
志水 いいさ。仲良くやらう。
留吉 あゝ俺あ馬鹿に腹が空いちまつたがなあ。今朝つから何も喰はずだから。なんか拵へてくれよ。
より あいよ。(涙を横なぐりに拭きながら)なんにしよう? 御飯? 鮭のうまいのがあるよ。
留吉 さうだなあ、俺あ、やつぱりうどんがいい。うどんにしてくれ。
(やがて、志水とより子が、急におかしくなつて笑ひ出す。磯も笑ふ。好意に満ちた明るい笑声である。留吉も釣込まれて笑ふ)
より あいよ。
香代 よりちやん、私にやらしておくれ。
より いいよ、あんたは其処においでよ。
香代 いえ、私がやる……(と、より子より先に調理場へ行かうとするが、大酔とシヨツクの後なので腰の辺が変になつて、一二歩オコツイて、土間に膝を突いてしまふ。しかし、ムキになつてより子を押しのけるやうにする)私がやると言つたら! (その涙でベトベトの顔が少し真剣でありすぎる)
磯 なんだよ、まあ!
留吉 大げさな、たかが、うどんを煮るのに、なんだ?
志水 アツハハハ、アツハハハハ! アツハハハハ、ハハハ。
(磯もより子も留吉も釣込まれて笑ふ。香代だけが、ムキな顔付で、しかし、すなほに調理場の方へ)
(笑声。……離れた所を、貨物列車が、ゴーツゴーツと底深い響を立てて通つて行く)
(幕)
(一九三七年、三月中旬)

底本:「三好十郎の仕事 第一巻」學藝書林
   1968(昭和43)年7月1日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1937(昭和12年)6月号
※見出し前後の行アキ、字下げ、アキの不統一は、底本通りにしました。
※「〔〕」内は、底本編集部による注記です。「…カ」は、不確かな推測によるものをあらわしています。
入力:伊藤時也
校正:及川 雅・伊藤時也
2010年4月3日作成
2010年11月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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