ホンの此の間まで、その一廓はチヤンと生きてゐた。
 あれでも、全部では十軒位の店は在つたのであらう。ハツキリ記憶に在るだけでも、先づカバン屋、洋品店、文房具も売つている雑貨店、靴屋、昼間は薄暗い店先だが夜になると不意に「サツク及スキンいろいろ」と書いたネオンが灯る衛生器具屋、小さい炭屋、そこだけが此の一廓中で二階になつてゐる撞球場、その階下の小さい酒場が大通りの角店になつてゐる。その横に小さな煙草店、それからその又横の中華料理店、そして、煙草屋と中華料理店との間が幅三尺位の露地になつてゐて、通りすがると気取つたセロの音がするのでヒヨイと覗くと、これがまるで箱根土産の寄木細工の箱の様に薄つぺらで小さな「純喫茶」と言ふやつ。しかも名前が、たしか「ル・モンド」と書いてあつた。僕は吹き出しさうになり、しかし、又、その大袈裟な所がトタンに気に入つて、飛び込みかけてヒヨイと見ると、隅の方にトグロを巻いている男の顔がチラツと見えた。顔見知りだが名は知らない。タカリ専門の三文演芸新聞を編輯している男で、此奴が酔ふと、必ず「左翼も駄目になつたなあ君、俺が江東で金属をやつていた時分は――」と来て、それから打つちやつて置くと筋もなにも通らないオダをあげて相手を離すことでは無いのだ。しまひにベロベロになると「全世界の青年××のために乾杯しよう」と来る。ことわると「ぢや反革命だな貴様は!」と眼を三角にして詰め寄つて来るから、始末に悪い。
 僕は恐れをなして、踵を返すと、どう言ふものか、いきなり中華料理店に飛び込んでしまつた。大方、あわを食つたせゐだらう。しかし、その狭苦しい不景気な中華料理店の、ドロドロに汚れた腰掛に尻をトンとおろして何と言ふ事も無く溜息をついたら、急に腹が空いたやうな心持になつたから妙だ。シユーマイを一皿注文した。そしたら今度は小便がしたくなつた。
 青い仏頂面の、それでゐて無闇にブカブカ太つた女給に便所を貸してくれと言ふと、彼女はニコリともしないで「便所は内には有りません。共同のが外にありますから、あすこでして下さい。」
 指す方を見ると、ノレンをくゞつた店の横、つまり露路の中のコンクリー壁の外に水道の共同栓みたいな物が立つていて、その下がヂヨウゴ形のコンクリーの叩きになつてゐて、真中に小さな穴が開けてある。囲ひの板一枚有るわけでは無い。つまり、此の町の真中に、完全な野天の共同便所が有つた訳である。しかたが無いから、ヂヤーヂヤーやつてゐたら、薄暗い露路の奥からスタスタ出て来た男が、人の足元を見てから膝から腰、腹から顔と言つた順序で、つまり人の身体を逆さまに舐め上げる式の視線の使ひ方、つまりあれで以て僕を見ながら近づいて来て、
「いよう!」と言つてニヤリと笑つたには弱かつた。
 先方では知らないだらうが、僕は知つてゐる。これはぎう太郎だ。金貸もやつてゐる。その時も金貸の方の用の帰りでもあるだらう。小さい黒カバンをわきにはさんで、立停りもしないで露路を出て行つてしまつた。
 眼のやり場に困つて、前のコンクリーの壁を見ると、これは又何と言ふ丹念さで描き上げたものか、つまり大概の共同便所の壁に描いてある例の絵が、深刻な出来栄へである。絵の直ぐ上、つまり僕の鼻の先は中華料理店のコツク場の窓になつてゐて、そこでコツクがシユウマイをまるめてゐる。鼻声で流行歌を唄つてゐるが、なんとも汚ならしい垢だらけの青年だ。僕の鼻にはシユーマイの匂ひがして来る。勿論足の下の共同便所からは小便の匂ひも立ち昇つて来る。ヘドが出さうになつて来た。
 小便は終つたけれども、どうにも店に戻る気にはなれない。注文しつぱなしで、金も払はないで行つてしまふのは、青んぶくれの女給に気の毒だし、それに下手をしてふんづかまりでもしたら叩きのめされるかもわからないとは思つたが、だからと言つてあのシユーマイを食つたら俺は死ぬかも知れないぞと、臆病者にありがちの大袈裟な恐怖にとらへられてしまへば、もう絶体絶命である。まゝよ、女給さんには、又今度あやまらうと覚悟をきめるや、殆んど一目散に露路を走り出して逃げ出したが、暫く行つてチラツと振返つたら、誰も追ひかけて来る気配も無いのは、笑止であつた。
 その後もあの近くを通る毎に、あの女給に十銭銀貨を渡しに寄らうと思はぬ時は無かつたのである。どうもバツが悪くて、それを果さないで居る間に、もう渡さうにも渡すすべが無くなつてしまつた。その店や、ル・モンドだけに限らない、その一廓にかたまつて営業してゐた商店の殆んど全部が急に店を畳んで立退いてしまつた。
 記憶は、まだ、いくらでも有る。
 たとへば、あの小さな煙草店にいつも坐つていた少女の顔に在つた、おびただしいソバカス。靴屋には十二三の小僧がゐてこれが始終水ばなを垂らしている。両手の指は霜焼けでふくれ上り、それを靴の修繕をする際に金槌で以つて時々あやまつて叩きつぶすのではあるまいか。血がにじんで、くづれてゐるのである。又極く最近、洋品屋にカラー・ボタンを買ひに入つた事がある。するとふだんは如何にも気の好ささうに店先の二畳ばかりの畳敷に背をまるめて坐つて、薄眼を開いた眼で往来の陽差しをウツラウツラと見ながら店番をしてゐた四十恰好のおかみさんが、その日はどんな加減からかひどくプリプリしてゐて、一言の愛想も無く僕の出した代金を引つたくる様にして受取りながら、奥の間にシヨンボリ坐つている亭主――僕も見知つてゐる――の背中に向つて、噛み付くやうな句調で言ふのである。
「だつて、あんた、さうぢやありませんか! こいだけの店を張つてさ、そいで、やつとおとくいさんも出来たと言ふのは、なかなかの苦労ぢや無かつたんですよ! 食ふや食はずで、こうして四年近くと言ふもの、なんの為めに働いて来たんですよ! それを、三百や四百の権利金でもつて、たつた今立退いて呉れだなんて! 立退料ともで、たかだか五百円ですつて? へん! いくら先方は金が有つて、食堂だかデパートだか、なんだか知らないけれどもさ、そんな、そんな乱暴な話つて有るもんか! 此処を立退いたら私達親子六人、なんで食べて行くんです! 四百や五百、アツと言ふ間になくなりますよ、ほんとに! 先方は金持だかなんだか知らないけど、そんな話あ、極道だよ! 極道が此の世で通ると思つて居るのか! ほんとに、馬鹿にしやがつて!」
 唯ならぬおかみさんの見幕に驚いて僕は直ぐに店を出たから、なんの事やらそれ以上わかりやうはなかつたが、すると此の辺を誰かが買収にでもかかつているのかと思つたものだが、あれから十日と経たないのに、現に此の洋品屋もなくなつてしまつて、跡は戸をおろして釘附けにでもすることか、殆んど開けつぱなしのまま、人気が無くなつている。思ふにお神さんのいはゆる「極道」が通つてしまつたのであらう。
 十軒ばかりの店がスツカリ空家になつてしまつている。営業をしているのかどうかは知れないが、とにかく元のままで店を開けているのは、角の酒場と、その二階の旭亭撞球場の二軒だけだ。
 あつけに取られると言ふのは此の事だ。盛り場の裏通りの、木造建の此の一廓が、急にヒツソリとしてしまつたのは、寂しいと言ふよりも、いつそ異様な位に感じられる。
 それも昼の間や宵の口は、附近が人々や騒音でゴツタ返しているから、まだよいが、夜更けになると、シンとするし、まるで廃墟のやうに、やりきれない光景になつてしまふ。
 ところが今夜は、その二階の旭亭がひどく賑やかだ。


場内一杯に音楽、――アコーデオンに依る急テンポのダンス曲。それに拍子を合せてタタ、タタツ、タツと床を叩くタツプの響。やがて男声テノールの唄。

開幕。
ガランとさびれ果てたビリヤード室。周囲には汚れた椅子、長椅子、ゲーム台、キユー台等。正面奥に三つの窓、既にカーテンもさがつて居ないので、そこからは深夜の盛り場のネオンが低く覗いてゐる。下手横に階下へのドア。室内上手の部分は一段高くなつて畳敷になり、その奥はカーテンで仕切られて見えず、右の隅は押入れ、カーテンと押入れの間は狭い通路(裏梯子へ)、二台の球台中一台だけが正常な位置(下手寄り)に据ゑてあり、他の一台は壊れて使へないか奥上手に片寄せられてゐる。その跡の広い場所で、いづれも水着一枚きりの裸体を汗みどろにして三人の若いダンサーが、タツプダンスを踊り抜いてゐる。中の一人、時々ハイツ、ハイツと掛声を掛けてゐるのは、此の旭亭の娘(千代――通称ミル)。若い洋服の男(田所修)が奥の球台に腰をかけ、窓の外(舞台奥)をチラ/\見下ろしながらアコーデオンを弾き唄つてゐる。三人のダンサーと同じ劇団のテノール歌手である。畳敷の所に横坐りに坐つて、酒のコツプを時々口へ持つて行きながら、右の四人をニヤ/\しながら見やつてゐる三十四五の小麦色の肌をした女は、此処の主人の妾(お辻)。――タツプダンスと音楽は続く。
アコーデオンとダンスの拍子がヒヨイと狂う。

ミル 駄目! そこん所、もう一度!
修 失敬、四小節戻るぜ。(弾き直しながら唄ふ)
ミル (踊る)さう! キツクをもつと強くよ! ハイツ! (三人そろつて踊る)もつと、テンポをあげて!
修 うん……(又、まちがへる)
ミル なにをぼんやりしてんのよ! あんた、今夜どうかしてるのね、修さん!
修 失敬々々! もう間違へないよ。あのう……
ミル 間抜けつ!
お辻 お稽古となると、まるで気違ひだねえ。ハハ……
ダンサー一 ミルさんは小屋でだつて、さうよ。
ダンサー二 振付けの先生の手に噛み付いた事あつてよ。
ダンサー一 先生さう言つてた。正宗は怖い、まるで人が変つてしまうつて。
お辻 なに、親ゆづりだ。お父つあんにそつくりなんですよ。
ミル よけいな事言はなくていい。(修に)どうしたのさ、え、あんた?(詰め寄る)あたし達を、おちやらかす積りなの?
修 ち、違う! そんな、君――
ミル あんたも商売人ぢやないの? 商売をしてんだろ? 遊び事をしてるんぢやないわね? 芸人なら芸の事になりや、シラ真剣の筈だ。
お辻 修さん、どうか腹を立てないでね。(ミルの方へ)ミルさん、いくら仲がいいたつて、少しは言葉を慎しむものよ。大体お前さん達が頼んで来て貰つてるんじやないか。それに、修さんだつて、小屋がハネてから来てるんだから、くたびれてんだよ、もう何時だと思つてゐるの?
ミル 口出しをしないでゐて頂戴、お辻さん、あんたにや、わからん。
お辻 さうかねえ、ふん、さうでせうよ、どうせ私あ、ゲーム取りあがりの、なんにも解らない女さ、さうさ、お妾ですよ。
ミル それがどうしたの?
お辻 お妾だからお妾だと言つてるんですよ、でもこうしてびた一文貰へないお妾さんも、まあ珍しいだらうね。大体私が好きこのんでこんな風になつたと思つているの? へん三多摩自由党の生残りだか何だか知らないが、ミルさん、あんたのお父さんなんて言ふ人はね――
ダンサー一 今夜はもう、これ位で止さう。
ダンサー二 疲れちやつた。
ミル さう? 帰りたきや帰つたらいい。私は、稽古がスツカリ済む迄は、どんな事があつても止さないよ。
修 俺が悪かつた。ぢや、今んとこ始めつから行くよ。(弾き出す)
ミル よし、ワン・ツー・スリー!
三人再び踊りはじめるが、又忽ち修が手を間違へ、ハツとして球台を降りて、ミルの方を見る。ミルは修を睨んで立つ、――やにはにキユー台からキユーを掴み取り、振りかぶつて、修の方へ迫つて行く。びつくりしてダンサー二人がそれを押し止める。
ダンサー一 何をするんだよ、ミルちやん。
ダンサー二 ばかなこと、およしつたら。
ダンサー二人が、ミルの手からキユーをもぎ取る。ミルはキラキラ光る眼で修を睨む。
修 ……こらへて呉れよ! (奥の下方、窓の外を指差して)前の往来を先刻から、変なのがウロウロしてるもんだから、つい気になつちやつて――
お辻 へえ、なんなの? (立つてスリツパを穿き、窓の方へ行く)
ダンサー二 (キユーをキユー台に戻しながら)向うの角にも二人立つてゐる。あゝ此方を見てるね。
ダンサー一もミルも窓へ行く。
修 よく見えないけれど、十人以上はたしかにゐるよ。
お辻 なに、その辺のルンペンさ。残飯貰ひに夜歩きをしてゐるんだ。
修 だつて、それなら、此の家のまはりだけをウロウロする筈はありませんよ。
ダンサー一 気味が悪いわ、私、早く帰らう。ね、タカちやん!
球台の上に脱ぎ捨ててあつたワンピースをドンドン着る。ダンサー二も急いで仕度する。
ミル いけないよ。未だ済まないぢやないの!
ダンサー二 だつてもういや。マゴマゴしてゐると、なにされるか判りやしない。
ミル なにさ! ルンペンなどにビク/\してゐて、ここいらに住めると思つて? 馬鹿々々しい。
ダンサー一 そりやア、ミルちやんは帰らなくともいいから強い事が言へるけど……
ミル ぢや、泊めたげる。やる所まではチヤンとやつちま〈お〉うよ。
ダンサー二 唯のルンペンならいいけどね。
ミル ぢや、なにさ? (又窓を覗く)あたしが追つ払つて来てやる。
修 よせよ、危い。それに先方がなんにしろ、往来を歩いてゐるのを、ハタからどつか〈へ〉行つちまへとも言へやしないぢやないか。
ダンサー一 そりやアさうだわ! ぢや、あたし、帰ろウツと!
ダンサー二 でもいやだなあ、二人きりで出て行くの。
ミル それごらん、弱虫! イーだ。
ダンサー二 そんな意地の悪い事言はないで。ぢや、田所さん、一緒に帰つてよ、ね。どうせあんたも帰るんでせう。
修 あゝ。
ミル だめだよ、修さんにはまだ弾かせるんだから。
ダンサー一 フーンだ。あとで二人きりで、気分を出さうつて、言ふんだらう? みんな知つてゐますやうだ。
ミル 引つ掻くぞ。(でも耳の附根を赤くして、てれて笑つてゐる)
ダンサー一 よきぢやねえ!
ミル 早く帰つちまへ。
ダンサー二 でも困つたなあ、ぢや修さん、ホンのそこ迄でいいからお願ひ。
ミル チエツ、仕方がない、僕が駅んとこ迄、行つたげる。(すばやくワンピースをかぶつて着る)修さんをやると、なんだかだと言つて又連れてつてしまふから。
ダンサー一 ミルが焼きます。(と言つといて逃げ出す)
ミル 此の、馬鹿ヤロヤイ! (片手で洋服を引つぱり下げながら小犬の様に相手に飛び附く)
ダンサー一 さ、行かうつと。さいなら。(ドアを開けて消へる)
ミルとダンサー二も一緒に肩を組み、ふざけながら外へ出て行く。ドアが開くと、階下のバアで鳴つてゐるレコードの音楽と歌が、急にハツキリと聞こえて来る。
修 (窓から往来の方を見おろしてゐる) ……あ、来た!
お辻 なんですつて?(窓へ寄る)
修 今、向うの軒下から一人スーツと出て来たのがゐるんですよ。
お辻 ルンペンよ。あんたも神経質ね。フフ、色事の一つもしようつて言ふ良い若い者が。(横眼で田所をジロジロ見てゐる)
修 此の家の事で、何か始まるんぢやありませんかねえ?
お辻 なあに、この近廻り、空店が、十何軒も出来てるでせう。そこへもぐり込んで寝てやらうと思つて、人気の無くなるのを待つてゐるのよ。
修 もう間も無く此処は取壊しになるさうですね?
お辻 うん、跡に直ぐ、松本てえ人が大きな食堂を建てるんですつてさ。なんでも鉄筋コンクリートの三階建だつて。お金の有るのに逢つちや、かなうもんかね。
修 そりやさうだけど、でも随分無茶だなア。
お辻 だつて、みんな権利金や立退料が一度にドカツとはいつたら、結局、その方が得なんですよ、こんな目抜きの場所を、腐れかかつた小売店がふさげてゐると言ふ法はないよ。どうせみんなデパートに押されて、儲かつて行つてる家なんぞ一軒だつて有りやしないんだもの。
修 でも永年苦しんで店を張つて売り込んで来た信用と言ふものも有るだらうし、とにかくそれで食つて行つてたんだから……
お辻 (かぶせて)喧嘩面になる方が損さ、内の旦那なぞがそれですよ。はじめに、この建物中、全部で十三軒、これこれの事を先方でしなければ立退くまいと申合せをした際に、どうか代表者になつて掛合ひをやつて下さいと一言言はれたので、好い気持になつちやつて、わざ/\寝ちまつたりして頑張つてゐるんだからね。かんじんの頼んだ方ぢや、とうの昔に金を掴んで立退いちまつたのに! いい恥さらしだ!
修 だけど僕には此処の小父さんの気持は解るなあ。
お辻 なあに、意地になつてるんですよ。なんとか言やあ、むかしあばれてゐた時分の気になつてさ。まるきり、三多摩自由党の幽霊と言ふとこさ。
修 僕にはさうは思へないなあ、早い話が、これだけにやつてゐた店を叩き出されて、あと直ぐ、どうして食べて行けるんです? ミルちやんだつて、まだいくらも取つちやいないし――
お辻 そんな事まで私が知るもんですか……。(話しの間にジリ/\修の方に寄つて居たのが、フイと畳敷きの方へ三四歩行き、カーテンをジツと見る)……おやすみだ、フン、(低い声)……ねえ、修さん。
修 な、なんです?(相手の調子が急に違うので、びつくりしてゐる)
お辻 あんた、ミルの事、ホントに好きなの?
修 え? な、なんですか?
お辻 (肉の豊かな腰をユラユラさせる歩きつきで、修の傍へ)……いえさ、私だつて、かうしていれば、まあ、ミルの母分よ、でせう?……。気になるからさ。
修 そりや、なんです。す、好きです、非常に、僕は……
お辻 フフフ、非常に、か。さう? 非常に?
修 よ、弱つたなあ。
お辻 さう、母分は少し可哀想だつたわね。姉分。これでもまだ若いのよ、いくつ位に見えて、私?
修 ……(困つて壁の方へペツタリとくつついて)僕には女の人の歳はどうも……
お辻 (身体を修にこすりつける)言つたわね、えゝ、どうせ私はお婆さんですよツ。……ミルは、やつと十九、手も足もまだコリコリ固くて……フン。まだ綺麗なんでせう、あんた達?
修 え?
お辻 綺麗な附合いでせうつて、言つてるのよ。
修 そ、そんな、勿論です。僕、その内チヤンと此の方の小父さんにお願ひして、さう思つて――
お辻 あゝ酔つた。(片手を上げ、二の腕の辺まで覗かせて髪を掻く)おゝかゆい、私はね、修さん。
修は殆んど怯えてしまつてゐる。カーテンの蔭でクスクス笑ひ出す声、お辻稍々ギヨツとして、カーテンの方を見るが、別にドギマギもしないで修の前から歩き出す。
お辻 ……あんた、まだ起きてゐたの?
声 うむ。……うん。
お辻、畳敷の方にあがつて行き、カーテンを引開ける。寝床の上に横になつた主人の正宗彦六が、女を見上げてニコニコ笑つてゐる。五十六七の男、枕元に手廻りの道具等。
お辻 眼が覚めたんなら、さう言やあ、いいじやありませんか。
彦六 ハハゝゝゝ。……いや、私に遠慮はいらんよ。ハハ……
お辻、修へヂロリと眼をやり、テレかくしに頭髪の根を櫛でゴシゴシ掻いてゐる。
彦六 (修に)やあ、おいで。
修 はあ、今晩は。……いかがですか?
彦六 ありがたう。どうも朝から晩まで、かうしてゐるんだ。あんたも毎晩御苦労様だ。お千代の奴が無理ばかりお願ひして。
修 いえ、ミルさんは熱心だから、此方も張合ひがありますよ、それに僕の稽古にもなりますからね。小屋でやればいいんですけど、ハネると規則で一人残らず追出されちやうんで……。
彦六 いや、営業してゐると言つたつて、一日せい/″\五六人の客があるきりだ。却つて賑やかでいい。しつかり仕込んで下さい。
お辻 そりやさうと、どうするの? こうして今まで腰を据ゑてゐるのは、もう、うちと階下の鉄造さんとこの酒場の二軒だけですよ。それも鉄造さんちぢや、うちさへ立退けば今夜にも一緒に引払ふと言つてんぢやないの、全体この先どうするつもり?
彦六 それを私に聞いたつて、わかりやしないよ、自分の内だから、かうして居る迄さ。
お辻 (ヂレて)チエツ、いやんなつちまふ。それに借金も借金だしさ。あたしや――
そこへ左のドアから、四十七、八の血色の良い井伏鉄造があわててキヨロキヨロしながら入つて来る。
鉄造 ……お辻さん、あの、チヨツト――
お辻 どうしたの?
鉄造 松田さんの委任状を持つた仕事師がやつて来てね、この家の向うの角から取壊しにかかるから、さう思つて呉れと云つてるんだ。
お辻 へえ? こんな夜中に?
鉄造 昼間だと近所が迷惑するからと云ふんだよ、ねえ旦那、どうしたらいいんですかね? え?
彦六 ……さあ。……困つたねえ。
鉄造 困つたぢやすみませんよ、先方ぢや、ああして解つた話をしてゐるんだから、アツサリ私等と一緒に立退いて下すつてもいいぢやありませんか! それをかうしてギリギリのどたん場まできておいて今さら……(オロ/\声である)
彦六 さうさなあ……だが、あんたは何もこつちにこだはらずに立退きあいいぢあないかね。
鉄造 そ、そ、それだ。直ぐに、それだ。今更になつて、そ、そんな薄情な事を――あすの朝早くでも、御一緒に早々引払ふやうに、ひとつ、考へて見て下さいよ。お願ひですよ。大体、先方から頼まれてお百度を踏んでやつて来てゐる白木と云ふ男の正体を、旦那知らないから平気でゐらつしやるけど、白木軍八郎と云へば新聞も持つてゐれば多勢の子分も持つてゐるし、かうした事にかけちや鳴らした事件屋なんですよ。あの男の手にかかつたら、万事おしまひですぜ。ごらんなさい、あれだけ居坐らうと申合せをして居た此の建物中の小店十一軒と云ふもの、白木が乗り出して来たら、ひとたまりも無く立退いてしまつたぢやありませんか。
彦六 話はおとなしさうな人だがな。
鉄造 そいつが曲者なんでさ、腹の中はどうしてどうして、山の手一帯の土地家屋のブローカー仲間では「蝮蛇まむし」で通る男ですよ。
彦六 鉄さん、ひどくおどしに掛けますねえ、ハハハ、さては白木さんから頼まれたね。
鉄造 (怒つたやうな口調で)じよ、冗談云つちやいけませんよ。な、なんで、あんた、これだけこちらさんに忠義を尽してゐる私をつかまへて――
彦六 いやあ、これは冗談ですよ。ハハ、どつちせ、まあかうして自分でごろ/\して居るぶんには、まあ誰にとがめられる事も無からう。追ひ出されりやノタレ死をしなきやならんからねえ、人様の畑の物を盗み食ひをしてゐる雀とは違ふから、案山子にびつくりして逃げ出すことも無からう。
鉄造 なんですつて、案山子ですつて? ぢあ、旦那は私のやつてゐる事を――
彦六 たとへ話だ、気にしちやいけません。とにかく、だから、あんたの方は、私にはかまはず引払つて下さいと云つてゐるんだ。事実、かうした病気で動きたくも動けはしないし、なさけ無い話さ。
鉄造 そ、そ、そんな意固地な、ねえ正宗さん、私あ、あなたの為めを思つて――
階下の酒場の女給のアサが急いで入つて来る。廿四、五の野生的な女。
アサ (戸口に立ちはだかつたまま眼はお辻の顔を射抜くやうに睨み詰め〈据ゑ〉て)……請負師のひとが、旦那何処へ行つたと、やかましく云つてゐますよ。
鉄造 あー――弱つた。ね、お辻さん!……(アサに)そいで、店は?
アサ さつきから二人のお客さんは、まだ居ります。ここでドシ/\踊るもんだから、天井からホコリが落ちるつて、酔つた方の人が怒つてゐたわよ……とにかく早く来て下さいな。(階段の方へ消える)
鉄造 (お辻に)お辻さん、ちよつと、顔を……
お辻、スタスタ降りて行く。それを追つて鉄造も急いで出て行く。落着かないで窓を見たり彦六を見たりしてゐる修。彦六は階下から響いて来る音楽に聴き入つてでも居るやうに、寝床の上で黙つてゐる――。
修 ……あの、僕――。
彦六 ……修さん、あんた……お千代の事、ほんとに好いてくれてゐるんかね?
修 (ヘドモドどもつてゐたが)な、なんです、僕、もう少し唄へるやうになつて、収入がもう少し、多くなつたら、けつ、結婚を許して戴きたいと――。
彦六 ……私が云ふとなんだが、あの子は竹を割つた様な気性の娘です。
修 そ、そうです! (アコーデオンのキイを掻き廻す)
彦六 アハハ……。(はじめて修を見て)それに引きかへてあれの兄貴と来たら、もう仕様のないゴロンボーだ。彦一と云ひましたがね、何処かで、もう死んじまつたかも知れん。大体、親父の私が少し口小言でも言ふと、それが気に喰はないと云つて、黙つてとびかかつて来ようと云ふ代物だ。
修 はあ。
彦六 ……しかし、なんですよ、此処のお辻にや用心しなきやいけませんよ。あれは、いけない、まるで、まあ女郎蜘蛛のやうな奴です。仮りにも自分の女房みたいにしてゐた女を、こんな言ひざまは無いけど、これ迄チヤンと手切れを渡して、何度追払つたか知れないんだ。金が無くなつて男に捨てられると必ず舞ひ戻つて来る。この前なども、つい其処のガレーヂの運転手と一緒にね、此の内の有金をさらつて逃げて行つた。やれ/\と思つてゐると、物の二月もしたら寝巻き同然の姿でシヤーシヤーとして帰つて来ましたよ。ハハハゝゝゝ。最初ゲーム取りで来たのを、一時の迷ひとは言ひながら、ついそんな事にしてしまつたのが私一生の不覚です。ハハハ。
階段に靴音がして、ミルが駈け上つて来る。戸外で支那ソバ屋のラツパの音。
ミル なんだい、なんでもありやしないぢやないか! 裏通を行くと怖いから、おもて通りを行くんだなんて、大廻りをさせてさ、世話が焼けるつちや、ありやしない。(言ひながら又洋服を脱ぎにかかる)
修 駅迄行つたの?
ミル うん。あら、お父さん、起きちやつた。
彦六 うむ、どうも寝飽きたよ。
ミル ……なにを笑つてんの? 私の顔になにかくつ附いてる? んぢや、何をそんな、やたらにニタニタしてんのさ、お父さん? ……あら、どこい行くの?
父親は立上つてカーテンと押入れの間の通路へ歩いて行く。
彦六 久しぶりに、急に一杯飲みたくなつた。肴を買つて来るんだよ。うまい所へチヤンソバが通る。たまにや少し外へ出ないと毒だ。ハハハ……。
ミル ぢや私が買つて来たげるよ、何もお父つあんが行かなくたつて。第一、なんで不意に酒なんか飲むの?
彦六 まあさう言ふな、身祝ひだ。
ミル 身祝ひ? へへーん、こうして内ぢや追立てを食つているのに? 先刻は私わざと黙つていたけど、表をウロウロしてんの、やつぱし白木の子分らしいわよ、いつなんどき飛び込んで来るかわかりやしないつて言ふのに。
彦六 さうか、まあいいよ……ハハハ。お前には解らなくともいいのだよ、ねえ修さん。
修 ……ありがたうございます。
ミル へーん? (二人を身較べている)なんだい?……(彦六はニコニコしながら裏梯子の方へ)私が行つたげると言つたら。
彦六 お前はお稽古をしろ。(消える)
ミル ……(ふくれてゐる。やがて修の顔を見て)なんなの、一体?
修 君のお父さんは良い人だなあ。
ミル 自分達だけで、変に心得てばかり居て……生意気だわよ!
修 ハハハ、君は怒つている時が一番綺麗だよ。
ミル なにを言ふか! 急に気が強くなつちまつたにや、オドロイタ。少しどうかしたんぢやない、此処が?
修 矢でも鉄砲でも持つて来い!
ミル 松沢村が近いから用心なさいね。フン、本当になんなのよ、さつきのありがたうございますつて言ふのは?
修 僕が君のお父さんに御礼を言つたのさ。
ミル 知らない! 勝手にするがいいや。さあ、稽古だ。えつと、お辻さん、どこ?
修 僕には事情はよく解んないけど、全体どうする気なんだらうね、君のお父さんは?
ミル 私いちんち家に居ないからよくは知らないけど、いろんなのが次から次と、引つきりなしに押しかけて来ちや、なだめたりすかしたり脅迫したりしてゐるらしいわよ。此の十日ばかり町会の方の弁護士まで来やがつて、その言ひ草が良い、町内の平和を乱す恐れがあるから、いい加減に譲歩して貰ひたいだつて。大食堂を建てるんだかなんだか知らないけど、金さへあれば、何でも横車が通るかと思つて、ほんとに町内の平和が聞いて呆れるわよ!
修 いづれ、地主や今度の経営主から町会の方へも渡りが附いているんだらう?
ミル さうかもわかんない。それに、くやしいぢや無いの、階下のバーのおやぢまでがさ、あれはお父さんのズツと前からの知り合ひだとかで、店を出す時なんか金を拵へてやつたり随分面倒を見てやつた奴よ。
修 くやしいな、金が欲しいなあ!
ミル こんな時、兄さんがゐてくれたらなあ。
修 でも乱暴な人だつて言ふぢやないか、お父さん今話してたけど、会ひたくないつて言つてたぜ。
ミル 嘘、口ぎたなく言つたつて、本当は兄さんの事を恋しがつて会ひたがつているのよ。そんな人よ、お父さんて人は。兄さんが四年前に仲間の顔役を喧嘩で斬つちやつてね、土地に居られなくなつた後、しばらくと言ふもの、夜になると「彦一、彦一」つて、寝言を言ふのよ。
修 今どこに居るんだ?
ミル わかるもんか……
修 ……そりやさうと、あのお辻さん少し変だと僕は思ふがなあ。僕さつきねえ――。
ミル え? 変?……(少しギヨツとして、相手を見詰める)
そこへドアからお辻が、だるさうに歩み入つて来る。
お辻 ……いよう、御両人!
ミル 帰つたの? 白木の奴!
お辻 白木ぢや無いのよ、此の屋台を取壊しに来た仕事師だつてさ……あゝあ。……お父さんは? 便所はばかり
ミル うゝん、ソバを買つてくるつて出てつた。
お辻 ふうん、外へ? さう……
四辺をキヨロキヨロ見廻してゐたが、なにか一人でうなづき乍らドアの方へ走り出し階段へ消える。
ミル どうしたんだろ? おかしな奴。
修 ……僕はね、もつと勉強するよ。秋迄にはキツとソロを唄へるやうになるんだ。そしたら給金だつて八十円ぐらゐにはなる。それだけ有りや倹約すれば二人でやつて行けると思ふんだ。ねえミル! ミル!(抱く)
ミルは鼻を鳴らすが、しかし拒みはしない。間……不意に、開いたままになつてゐたドアから、ハンテン着や、ボロボロのコールテン服や、少しはましな洋服を着たりした、ルンペンとも暴力団とも附かない五人の男達がザザツと入つて来る。修とミルが抱き合つて立つた姿に足を停めるが、忽ち畳敷の方へあがり、押入を開けたり、乏しい家具に手を掛ける。ミルと修は立ちすくんでゐたが、やがてミルが五人の方へ行く。
ミル なにをするんだ!
五人は歯牙にかけず、一人はニヤリとしてカーテンをベリベリと引きちぎる。ミル飛びあがつて行き人夫につかみかゝる。そこへ彦六が裏梯子の方から押入の横へ現はれる。右手に一合瓶、左手にシユーマイの皿を持ち、立停つて皆をウツソリと見廻してゐたが、やがてしづかに寝床へ行き坐る。人々の眼が、彼の上に集る。……やがて彦六は手を出し、懐中から取出したチヨコに酒を注いで飲み、シユーマイを、ボソボソ食ひはじめる。一言も口を開かない。周囲は石の様になつてゐる。……鉄造の顔がドアから覗く。続いてお辻。
鉄造 あゝ、いけねえ! 居るぢやねえか。(恐ろしくヘドモドして)全体これは――。お前たちあどうしようと言ふんだい? いづれ、白木さんの方のなのだらうが――
彦六 ふん……
お辻 (キヨトキヨト彼方此方を見てゐたが、急に大きな声で)何だい、人の家に踏み込んで来やがつて! おい! サツサと出て行つて貰はうぢやないか! ばかにしてやがる! (その見幕はたゞ事でない。五人の闖入者はびつくり呆れた顔、口を開けてお辻を見てゐる。少しも解せない様子)放り出すなら放り出して見ろつてんだ! チヤントかうして主人が居るんだよ! ふざけやがつて!
五人はゾロゾロ階段の方へ去る。終始無言だが、出がけに中の一人が「なあんでえ、話しが違うぢやねえか」と言ふ声がきこえる。
ミル 畜生め。(やがてお辻の方を向いて)お辻さん、先刻あわてて何処へ行つたの?
お辻 なにさ、旦那が一人でソバを買ひに行つたてえから、心配になつてね、ちよつとそこまで……なんだい。
鉄造 だが事態がこんなになつて来てゐるんだ。此方でも考へなくちや。ねえ正宗さん。
彦六 動けないんで弱つた。出て行くと言つたつて行く先もありませんしね。
修 ……僕、これで失敬します。
ミル さうね、おかげでお稽古がフイだ。其処まで一緒に行つたげる。
修 いいよ、いいんだよ。
ミル だつて、あんた怖いんだろ? 怖がつてる癖に。
彦六 ハハ。送つて行つてあげるさ。修さん、ひとつ。(杯を差す)
修 えゝ……(困つて人々の顔を見まはす)
ミル よしなさいよ、飲めやしない。
彦六 まあいいよ、一つだけ、私が差すんだよ。ねえ、いいな?
修 はあ……(中腰になつて杯を取る)
彦六 (注ぐ)それぢや、こぼれる、ハハ……
修の杯が顫へてゐる。
修 (飲んで)ありがたう……した。
ミル さ行かう。
鉄造 しかし戻りはミルさん一人だから、物騒だよ。私も附いてつてあげよう。
ミル いいわよ、一人で沢山。
鉄造 まあまあさう言はずにさ、とにかく一緒に行くよ。何か間違ひでもあると困るからな。
お辻 あんた御親切だね。……フン。
彦六 ぢあ附いて行つて貰ふさ。(ミル、修、鉄造出て行く。彦六がシユーマイをつゝきお辻を見てゐる)
彦六 ……ひとつ、行かう。(杯を差す)
お辻 私は、どうも鉄造が、怪しいと思つてゐるんですよ。(杯を取る)
彦六 なんだ。
お辻 いえ、今の人足共がやつて来たのがさ。
彦六 (酒を注ぎながら)私あまた、お前かと思つたよ。
お辻 え? なんですつて?……ぢやなんですか、白木やなんかと、私が腹を合せてなにしてると?……
彦六 さうぢやなかつたのか、ハハハハハ。
お辻 いい加減にして下さい、冗談ぢやありませんよ。ほんとにあんたもぼけましたよ。……(飲んで返杯して注ぎながら)然し、とにかく、かうなれば、もう此の辺が潮時ぢやありませんか。
彦六 出すものの耳を揃へりや、いつでも退くさ。
お辻 へえ、まだそれを思ひ切らないんですか?
彦六 思ひ切るも切らぬもない、はじめから此方あおとなしい話をしてゐる。此の辺の店なら、たとへ屋台位の店にしたつて、二千や三千の権利金なら、通り相場だよ。この店を五千円と言ふのは、よくよく此方で泣いた値だよ。
お辻 だつて、よそぢや、大概千円以下で手を打つたつて言ひますよ。
彦六 彼奴あいつ等は、はじめはみんな結束して一軒あたり五千以下ではテコでも動かないと言つてゐた。それが要求してゐた額の十が一にも足りない金でもいよいよ現ナマの面を見るとコソコソコソとしつぽを巻いて居なくなつちまふ。全く風上にも置けない連中だよ。
お辻 だつてみんな内証が苦しいから、仕方無しですよ。
彦六 そりやさうさ。だから尚の事だ。私がかうして居残つてゐるのも、自分だけの事を考へるからぢやない。立退いた連中に、もう少しづつでも取つてやらうと思ふからだ。
お辻 この上まだ取らうつて言ふんですか? 呆れたね! そんな法外な事を言つて見たつて、どうせ此方の負けだ。
彦六 ぢや、思ひ切り負けて見ようか。
お辻 フン、あれだ。三多摩自由党の生残りですか? おはこだ。自由党だか不自由党だか……あなたが自由党騒動で三四人もの人を叩き斬つても、二年や二年半でことが済んだ御時世とはわけが違つてきてますからね。
彦六 そんな事を誰も言つてやしないよ。
お辻 私達は、そいで、どうなるんです?
彦六 だからかまはんから私だけ置いて、どこかへ行つてくれと言つてるぢやないか。
お辻 ミルさんは、ぢや?
彦六 ……お千代は嫁にやる。
お辻 へーえ?
彦六 ……ハハ。田所さんは、おとなしいが、まつとうな男らしいぢやないか。あんなのがミルにや良い。ケガがなくてな。(階下で誰かがわめき唄ふ声)なんだい、あれは?
お辻 鉄造んとこで、客が酔つぱらつてゐるんですよ。
彦六 さうか、ハハハ、どうだもう一つ、あゝもう無いか。(酒瓶を振つてゐる)


近く閉店の予定で、さびれ切つてゐる。右奥にスタンド、その横から奥の居間に行ける。左側にしきりの壁、一番手前がスヰングドア、それを出た軒下にビリヤード旭亭の柱看板、その奥に階上への階段(下手寄り)。深夜の往来(下手奥)の、見通しの利かない暗い中に人影が時々ウロウロする。店内には客が二人。一人は洋服の三十四五の男でベロベロになつて唄つてゐる。もう一人は奥の壁の方を向いてテーブルに頬杖を突いて飲んでゐる。汚い背広に半ズボンに黒い巻ゲートルに靴の、チヨツトした土工と言つた後姿。店内の家具の全部に、小さい紙札がベタベタ張つてある。レコードが鳴つてゐる。――女給アサが酔つた客の正面、入口の柱にもたれ、ドア越しに往来の方を覗いてゐる。

客一 (レコードに合はせてデタラメを唄ふ)あらよいよいよいと――おい君あ、なんで外ばかり見るんだ? さては色男が来たな? どれどれ、どうなんだ。(覗く)……あゝなんでえ、ルンペンだよ。さうか、君の色男はルンペンなのか?
アサ 大きな声をするのは止してよ、もう時間過ぎなんだから。
客一 まぶは引け過ぎつて言ふ奴か? ヘツヘヘヘ、こてえられねえなあ。若干、催すねえ。酒だ、畜生。
アサ 本当にもうお帰りになつたらどう、見つかると、又うるさいんだからさ。
客一 さう邪魔に、しなくともいいでせう? ねえ、君、ねえ、さうでせう、おテクちやん。(変にいやらしく、からんで行く)
アサ うるさいわね。(はなれる)
客一 オーツ、ウヰスキーだ!
アサ黙つてスタンドの方へ行く。ミルが往来の方から戻つて来る。追ひすがつて来る鉄造。
ミル ……いいの、わかつてゐるわよ。
二人は外の階段の前に立停る。
鉄造 ところがさ、大体あのお辻さんと言ふ人は、あなたの考へているやうな、そんなばかな……
ミル だつて、小父さんがそんな事を気にしなくともいいぢやないの。(と言ひすてゝ階段を昇らうとする)
鉄造 (ひきとめて)おゝ、おゝ、ミルちやん、まだ大事な話が残つてるんだ。後生だから、ちよつと顔をかしてくれないか。コーヒーでもおごるから。
ミル この真夜中に、コーヒーでもないわよ。
鉄造 まあ、さう言はずにさ、是非聞いといて貰はなけりやならぬつて事があるんだよ、全くのはなし。
ミル さう、何だか知らないけど、早くしてよ、上で心配してるといけないから。
二人は中に入り、空いたテーブルに腰をおろす。鉄造はコーヒーを言ひつける。
鉄造 くどいやうだがね、私は、あんたの為めや旦那の事を考へるから言つてゐるんだ。大体正宗さんと言ふ人は、度胸が良いのか、悪いのか知らないけれど、恐ろしい人ですよ。松田さんや白木さんを向うにまはして、一戦を交へようと言ふんだからね。私なぞこれでどれ程側杖を食つてひどい目に会つてゐるか知れやしません。
ミル さう? なら、私んちなど打つちやつといて、小父さんだけ越しちやつたらいいわ。
鉄造 そ、そ、そんな、あんた、今更になつてさう言ふ手はありますまいよ!
アサ (ウヰスキーの杯を客一のテーブルの上に置いて)はい、これつきりよ。
客一 (酒のツラを見て)ブラボー。アハハハ。
鉄造 それにねえ、お辻てえ女は、なにをするか知れたもんぢやありませんよ。あんたあ気が附いてゐないかも知れないけど、田所君の事ですよ。あの女は、これはと眼を付けたが最後、どんな男でもモノにしてしまふんだからね。
ミル それが、どうしたの?
鉄造 だから、気を附けなくちやいけませんよ。
ミル へーん、お辻さんの方で惚れてんのか?
鉄造 まあ、そんなものかね。
ミル だつて、あの女はあんたといい仲なんぢやないの?
鉄造 じよ、じよ、冗談を言つちやいけない! 私は、あんたの為を思つて――
ミル 修さんは、あたしに惚れてんのよ、おあいにくさま。
鉄造 ……だけどさ、相手はお辻だ。田所君が気が弱くつてウブだと来てますぜ。
ミル そうよ、だから私、好きなんだわ。
鉄造 (手の平で額の汗を拭く)いや、手離しだねえ。だからさ、蛇に見込まれた蛙でいつなんどき……でせう? だからさ、私あ……
ミル フン、修さんが私よりもお辻さんのことを好きならばお辻さんも取ればいいぢやないの。私、心配なんかチツともしやしないのよ。一体、話がある話があるで黙つて聞いてゐりや、ろくでもないことばつかり……あたしやもう行くよ。馬鹿々々しい。
鉄造を後に残してトントン階段を昇つて行く。鉄造あわてて外へ出るが、間に合わない。女給アサも鉄造につゞいて出て来て彼の背後に立つ。
鉄造 (身をめぐらす)おゝ……なんだよ?
アサ ……(鉄造の顔を見詰めてゐた後)お辻が田所さんと出来てしまふと、あんたが困るんでせう、だから、あんな事言つてミルさんを、けしかけるんだ。へん、どつちがあやしいか判つたもんぢやない、あんな糞婆あの尻の匂ひをかいで廻つて――
鉄造 なにを言ふんだ、お前――
アサ (相手の胸倉を掴む)私をどうしてくれるんだ! おめえさは、おらを一杯ひつかけた積りだべさ! この……
鉄造 おい、なんだい、まあ、こんな所で、なにを又――
アサ ぢや内に入つてたんと話すよ! (と相手を引つぱつてドアを押して店にはいる)はじめあんた、おらに何んと言つた? ねえ! こんど出来る食堂の酒類の事は一手に引受けてやる様にチヤンと約束が出来てゐるから、さうなつたらあたしを正式の女房にしてやつて、そいから女給の取締りにしてやつて!
鉄造 (キヨロキヨロ店内を見廻し、あわててゐる)なにを言ふんだ! こら! おい!
アサ お辻の奴とグルになつて、あんたらが何をたくらんでゐるか位、おらちやんと知つてゐるんだよ! あんたあバーの方の株と手数料が欲しいんだろよ。お辻はお辻で、うまく二階の旦那を立退かせりや、白木から五百円出る約束になつてんだ。その位のこと知らなくつてさ。なんてまあ、腹ん中の小ぎたねえ!
鉄造 困るよ、おい! 話をすれば解るから、ま、此方へ来い! 話をすれば……(客達をはゞかつて、アサの背をかかえて、スタンドの傍から奥へ連れて行く)
客一 (あつけに取られてゐたが、我れに返つて)ヘヘヘヘ。話したつて解るもんかよ。話したつて解るもんか、馬鹿め! ねえ君! さうだらう? 俺は金はないさ。いや、もつとるかも知れんぞ。(ポケツトを探り、バツトの箱をとり出す)こりやなんだ? バツトの空箱か……ゴールデンバツト/\/\/\(とでたらめのバツト節を歌ふ。その歌に混つて、奥から喧嘩の物音とアサのわめき声がして来る。客一それに気附き歌を止める)ほう、やつとる……(キヨロ/\四辺を見廻してゐたが、やがて飲み残りのウヰスキーをカプツと音を立てて飲みほし、ゴールデンバツト/\と云ひながら裏に逃げ出す)
客二はニヤ/\してそれを見送つてゐる。ところが忽ち、表でワツと人の声。往来の方から此の店めがけて小走りにやつて来た洋服で小さいカバンを下げた四十六七の紳士(白木軍八郎)が出合頭に客一にぶつつかられて、はね返りさうになつて挙げた声だ。客一は、しかし倒れさうになつてもウンともスンとも言はず逃げ去つて行く。白木は驚いて、その後姿をチヨツと見送るが、なにさま、これもあわててゐると見えて、階段の方を見てそちらへ行きさうにするが、思ひ返してバアのドアを押して飛び込む。
白木 井伏さん! 鉄造さん! (客二を見て)やあ、ええと井伏さん! 居ないのかね、鉄造さん! (奥から鉄造が出て来る。チヨツと見ぬ間にシヤツは乱れ、顔はみみずばれだらけになり、手の平でにじみ出す血を拭いてゐる)全体、君、どうしたんだ! え?
鉄造 白木さんですか。へえ、どうもねえ、ヘヘヘ。
白木 困るね、勝手に人夫を二階にあげたりなんかして……君やお辻さんは、私の言ひ付けるだけの事をやつて呉れりやいいんだ。(頭で天井を示して)相手が相手だぜ、また曲られたら、この上どうなると思つてゐるんだ。
鉄造 ……へえ。
白木 へえじや無いよ君! たつた今も電話で知らせがあつたんで、びつくりしたんだが、一了見で変なおチヨツカイを出して貰つちや困る。人夫はこつちの命令で踏込むことになつて居るんだぜ。それを、君達が動かすと言ふ法は無いよ! 藪蛇になつたらどうするんだ?
鉄造 どうも済みません。いえ、此方で放り出してしまへばあなたの方の手間が省けると思つたもんですからねえ。それに先程はお辻さんが降りて来て、今奴が居ないからと言ふんで、そいで、つい!
白木 その抜けがけの巧名がいけないんだ。実は今夜はいよ/\何んとか解決しないと私も間に立つてゐて、松山さんの方に合はす顔が無いんで、最後の掛け合いに来る気でゐた。それに応じなければいよいよの手段に訴へるつもりで手続きは取つて来てある。そいで、出かけようとしてゐる所へあの電話だ。
鉄造 すみません。
白木 とにかく上へ行かう、今夜はもう否やは言はせない。
二人出て行きかける。丁度そこへ、じだらくな恰好で階段を降りて来たお辻が、髪の地を指で掻き〈掻き〉ドアを押す。
お辻 あゝ白木さん。
白木 やあ、困つた事をして呉れるねえ。君達が頼まれもしないおチヨツカイを出したばかりに、彦六め、又ぞろ尻を据へてぢ〈れ〉て来出したら、あの約束もママ角だが取消しだよ。
お辻 (あわてて)だつて鉄造さんが、あなたの話だつて、さう言つて――
鉄造 おい/\、邪慳な事は言ひつこなしにしようぜ、もとはと言へばお前が――
白木 まあ/\いいからとにかく行かう。居るんだらう?
お辻 ゐますよ。どこまでネバる気だか、さすがの私も驚いちまつた。あんまりクサクサするんで、ブランデーでも貰ほうと思つてね、鉄造さん、一本頂戴。
鉄造スタンドの棚から酒ビンを取つて来る。お辻、客二の後姿を認め、ビンを受取りながら、鉄造に、不用心を眼顔で知らせる。その間に白木は外に出て、往来の奥の方へ手で合図をすると、コールテン服の男がスーツと出て来てペコ/\する。白木低声に、二階を指差して何か命令している。
白木 ……いいな?
鉄造 おいアサ! お店を頼んだぜ。
 お辻は外に出て階段の方へ、白木も階段の方へ、コールテン服は往来へ消える。奥の間からアサが取り乱した姿でふてくされてユツクリ出る。
客二 ……おい、もう一つ。
アサ酒を注いでやる。
 ――間――
客二 ……どうしたんだい? (アサが足を拡げて立つたままシク/\泣き出す)どうしたんだ?
アサ 畜生! 色魔! 私を、私の事をほつたらかして……お辻もお辻の奴だ! 球突きのおやぢからチツトもかまつて貰へねえもんだで、かつえやがつて! (泣く。泣きながらしかし、店の内が変な事に気が附いて涙のこぼれてゐる顔をキヨロつかせる)……ウエーン、逃げやがつた/\、畜生、飲み逃げだあ。(外にとび出すが、やがて、あきらめて戻つてくる)
客二 (こみ上げて来る笑ひを制しながら)喧嘩なんかしてゐるからだよ……ときに二階の球突きはどうしたんだい? (相手が返事をしないので)立退きを食つてるのか?
アサ ……(うなづいて)二階の旦那あ可哀想に骨までしやぶられてしまうんだ。一番恐ろしいのは白木ですよ、いつもピストル持つてるつて云ふからね。
客二 ……今行つた?
アサ えゝ、(客二は黙つて飲みはじめる)事件屋なんですがね、此の建物の持主の松田と言ふ人に頼まれて、十軒あまりの店屋を片つぱしから追立てちやつてね、そりやみんな泣いてゐましたよ。向う角の炭屋のお神さんは、白木からあんまりむごい追立てを食つたために、気が変になつちやつたし……あいつのためにどれだけの人が泣かされてるか判りませんよ。ところが白木の奴、そんなむごい真似をしておきながら、うまいこと裏をくぐつてゐるんだからね。何にも判らない私達だつて、癪にも障るだらうぢや無えかね! さうだらう、お客さん?
客二 さうさなあ……もう一杯呉れよ。アハハ、金は有るよ。
アサ (酒を注いで)さうですとも! おらが若し神様だつたら、あんな奴等はみんな叩き殺してドブん中へ投込んでやる!
客二 此処のオヤヂも叩き殺すのか?
アサ へ、旦那を? 旦那は、さうさ……さうだなあ、あれは、旦那は今迷ひ込んでんだからね……根はさう悪い人ぢや無えですよ。
客二 ハハハハ。
往来の方から四十位と三十四五の二人の男が出て来て眼くばせを交して、店のドアへ寄つて来る。若い方はダブルの背広、年上の方は和服の着流し、――そこへ、不意にコールテン服の男がスツと近寄つて来る。
男三 ……おい、お前さん方あ――?
二人連〈れ〉はサツと身を引いて開き、双方しばらく無言で相対する。
男一 ……(押し殺した声で)お控へなさい……お前さんは?
男三 私あ、此の裏の柴田です。
男一 私あ、麹町の久賀山です。これは弟でございます。
男三 お名前はかね/″\承つて居ります。でなんですかい、御用のすじは?
男一 外でもござんせんが、聞き及びますりや、そこの鉄造さんの処ぢや近頃結構なお話しがおありなさるやうだが、こちらもまんざら知らねえ仲でもなし、何か御挨拶の一つ位あつてもよからうと思ひまして、参つたわけでございます。事が、白木さんに御挨拶をしなきやならない筋合ひではございません。
男三 ぢや、お通んなさい。(言つてスツと闇に消える)
以上の事は素早く、殆んど瞬間に行はれる。男一と二はドアを押して店に入る。
アサ もう駄目ですよ、時間過ぎですから。(さう言ふアサを男二が黙つて押しのける)もう駄目ですつたら。
男一 おやぢさんに麹町の久賀山がお目にかかりたいと言つてくんな。
アサ ……今、今居ませんよ。
男一 居ない筈はねえ。
アサ なんの御用ですか。
男一 此の家屋の事に就いて御相談したいことがあつて来たつて、さう言つてくれ。
男二 おい、ねえちやん、早えとこ頼むぜ、いい子だから。(アサの腰に手をやる)
アサ なんだい! フン、糞面白くも無い。ゐないと言つたら――
と云ひかけてゐる中に、男二、出しぬけにステツキをふり廻す。
客二 ……おい、どうしたんだよ? なんだいあんた方あ?
男二 おめえこそ、なんだ?
客二 物騒な物を持つてゐますねえ?
男二 なによつ!
客二 まあ/\さう怒るなつてえことよ。
客二を先程からヂツと見てゐた男が、あつと低い声を出し、男二の背広のスソを引張る。
男二 なんだよ? ……(男一が耳打ち)……え? ひこ? 彦か? そいつあいけねえ。(客二をちらツと見る。青くなつてゐる)
男一 どうも、お見それしちやつて……(ペコペコする。男二もペコペコする。二人コソコソと出て行つてしまふ)
客二 ……なあんだい? ハハどうした、やられたのかい?
アサは面喰つて言葉も出ず、眼をパシパシさせてゐる。
客二 用心しなきや、いけないよ、夜中になると、いろんなのが出るよ……。(杯をなめる。そこへ「おぢさん、花買つて頂戴」と言つて入つて来た小娘)そら出た。(アサ飛上る)ハハいらないよ。
娘 みんなで十銭にしとくから、買つてよ。おら、もう眠いから、まけちまう。(なるほど眼がくつつきそうだ)
客二 眠いのか? ……フン、ぢや買つてやらう。ほい。
娘 (金を受取り)ありがたう……(花を渡してフラ/\した足つきで出て行く)
客二 ハハ。(花をポケツトにねぢこんで)今、幾時だい?
アサ ……もう、二時過ぎかと――
客二 眠い筈だ……だが俺は、三時を廻つたかと思つてゐた。
不意に階上で人の喚き立てる声(主として白木と鉄造とミル)。続いてドタバタドシンと言ふ騒ぎ。客二天井を仰ぐ。
客二 いけねえ、酒ん中にホコリが落ちて来やがつた。
二階の騒音の中でミルの声「こん畜生!」、白木の声「あぶないつ! こら!」、お辻の声「ミル! 白木さん! どつちも危いぢやないか!」と言ふのだけがハツキリ聞える。続いて、バシン! といふ様な鋭い響。ギヨツとして天井を見上げるアサ。客二もギクリとして天井を睨んだまま。
――幕――
一騒動あつた直後らしく、殺気立つた顔で総立ちになつて睨み合つてゐる五人――彦六とミルは畳敷の上に。白木と鉄造とお辻は床の方に。ミルは今迄振り廻してゐたらしい刀を抜身のまま右手に振りかぶつて、肩で息をしながら、床の三人の方を睨んでゐる。その左手は彦六に掴まれてゐる。白木は球台を楯に取つて、右手に黒い物を握りしめてゐる。鉄造は長椅子の所でちぢみ上つてゐる。

   ――間――
お辻 ……人が来ると、うるさい!
ミル 畜生!(豹の子の様な唸声を出す)
白木 あゝ誰かあがつて来たぞ!(階段の方と室内をパツパツと見て、掌中の物を球台の下に差し込む)正宗さん、頼む! サツを割込まさうなんてえ、卑怯な真似はあんたも考へちやゐまいね。
言はれて彦六はせせら笑ひをしながらチヨツト考へてゐたが、直ぐにそのままミルの身体を抱くやうにして、裂けたまま下つてゐるカーテンの奥へ押し込んでしまひ、自分は寝床にゴロリと横になつて毛布を被る。白木は鉄造にめくばせし、キユーを二本取り、鉄造に一本持たせる。階段に足音。お辻、球のサツクを持つて来て、球台の上に球をばらまく。白木がいきなり球を突く。押殺した短い間。
お辻 ……三つ。……五つ。
ドアを押して客二がスイと入つて来る。
お辻 ……おや、いらつしやい……七つ。
客二 (室内を見廻す)なんだい、今のは?
お辻 今のつて? 九つ。九つ当り。
ゲーム盤をカチヤリと鳴らす。白木、横目で客二を見る。
客二 いや、今の音は?
白木 ……あゝ(階下で見た客であることに気が附いて)私がさつきキユーを倒したから、大方それだらう。
客二 (鉄造を見る)ひどく顫へますね?
お辻 お突きんなりますか?
客二、返事をしないでニヤツとする。
お辻 (笑顔を見て、不意に相手を認め、思はず立上る)あ! 彦一!
白木 え?(お辻と客二を見較べてゐる)
鉄造 彦一さんだ!(呆然と見詰める)
向うを向いて寝てゐた彦六が、ウツ! と言つて此方を向き、客二を見るや起きあがる。無言で見合つてゐる父と息子。
間。
鉄造 ……変つた。……今の今迄気が附かなかつた。
ミル、カーテンの蔭から抜身を持つて飛び出して来る。上り端に立つたまま兄を見詰める。怒つた様にムツとした顔。刀が手から落ちる。
ミル あゝ、兄さん!
彦一 ……大きくなつたなあ、お千代……(ミルの左手に目を付けて)ああ、いけねえ、斬つたな。
ミル なに、かすつただけだ。
彦一 どれどれ。(腰から手拭ひを出して裂く)つまらない物をいぢくるから、怪我をするんだ。(ミルの指をしばつてやる)
鉄造が白木に、しきりと耳打ちをしてゐる。
彦一 痛いか?
ミル 痛くなんかない。
突立つて繃帯をして貰つてゐたのが急に、オイオイ泣き出す。
彦一 ……なんだ、出し抜けに?
ミル なぜもつと早く、帰つて来ない。兄さんの馬鹿!
彦一 どうしたつて言ふんだよ?
ミル (シヤクリ上げながら)うゝん。お父さんの事を寄つてたかつていぢめやがつて、パチンコまで打ちやがるんだ。誰が糞、怖いもんか、来い、畜生!
お辻 ……だつてさ、いきなり刃物を振りまはすんであぶなくつて仕様がないぢやないか。
白木 ……おどかしですよ。どうせ、初の一発は空らになつてるんだから。ハハ。うつちやつて置けば怪我人が出ますからね。
彦六 とにかく、今夜はもうおそいから、これで帰つて貰ひませう。
白木 いやあ、今夜こそハツキリ形を付けて貰はん事にや……とにかく、話だけは洗ひざらひしてしまつたんだから……
彦六 私の方も言ふだけは言つてしまひましたよ。
白木 そこを御相談してゐるんだ。少し此方にも同情して下さいよ。
彦六 同情なら此方こそしていただきたいもんだ。なんせかうした病人だ。叩き出されてどこへ行く先があるんです?
白木 あれだ。弱るなあ。あなただつて元が自由党で主義のために荒つぽいこともしたり、他人の罪までかぶつて暗いところに行つたほどの人ならこの位の理窟は解つてくれてもよかりさうなもんだ。こつちも金づくでやつてゐるんでもあるまいし。
彦六 ぢやあんたは、唯でこんな事を引うけてゐなさるのかね? それに今迄追立てられた十軒余りの店の、血の出るような立退料から、三割四割とピンをはねたのは、どこのどなたでした? ハハハ、ともかく、もう一度ツラでも洗つて出直して来たらどうだい?
白木 なんだと!
彦一 ……全体どうすれば、いいといふんです?
白木 ……早いとこ立退いてくれさえすりや、いいんだ。
お辻 (彦六に)いい加減にして下さいよ。あなたあ心がらだから本望か知れませんが、私や……
彦六 おい、お辻、私をうまく立退かせたら、五百円だけ貰へる約束になつてゐるのは誰だつけな? ……大分もうろくはしたが、これでまだ眼は見えるよ。
お辻 ……(青くなつてゐるが、やがて猛然と逆襲して来る)ぢあそれが悪かつたの? それと言ふのも、あなたが自分一人の我を張つて、私やミルちやんの事を……
ミル 私の事は言はないで頂戴。
お辻 第一、私が金を貰つたつて、そいだけの物が此の内に入つて来るんなら、何もツノメ立つ事は無いぢやないか。
彦六 ハハ、鉄造さんとの約束を忘れちや、苦情が出るぜ。今度此処に出来る食堂で鉄さんは酒場の方をやるし、お前は女給の監督になるやうに、チヤンと話が出来てゐるさうぢやないか。
鉄造 そ、そんな、旦那、そりやあなた――
彦一 階下の女給さんも監督にして貰ふ約束だつて言つてたぜ。監督が一度に二人出来るわけか。
白木 さう言ふ事よりも、ねえ正宗さん、あんたは、松田の方では金がうなつてゐるとでも思つてるから、癇も立つんだ。ところがどうして/\遊んでゐる金なんて今時あるわけのものぢや無い。地代の値上げもあり、あれやこれやで積つてみると、みすみす一日にど偉い金が消えて行くんだ。松田のオヤヂさん、日に二度も三度も私の方にやつて来ては、泣いてゐる始末ですぜ。
彦六 そつちは泣きや済むかも知れないが、此方は直ぐに命にかかはる事だからね。
白木 ですからさ、チヤンとそれだけの事はしてあるんだ。ねえ!
彦六 私やそれでもいい。だが、叩き出された十一軒の家がそれでは済むまいよ。よしんば、みんながそれで泣寝入りになるとしても、正宗彦六が通さないんだ!
白木 ふざけるなつ! 綺麗な面をして今迄の分を倍にして五千円払へだと? へん! 誰のフトコロに入る金だか解るかい。
彦六 金がそつちの物なら家は此方の物だ。
白木 家賃だつてロクに入れて無い癖に!
彦六 貴公、いつから此の家の差配までするやうになつたんだい?
白木 こ、こ、この……(掴み掛らうとする)
彦一 おい/\、乙なまねをするなよ。
彦六 こつちは御覧のやうなテイタラクだ。叩つ殺されてもヘドが出る位のもんだらう。
白木 ぢや今迄にそちらに渡した分の金はどうなるんだ?
彦六 どうにもなりはしないよ。そちらでは渡したから受取つたまでのことさ。
白木 仕方が無い。そつちがさういふ気なら、こつちも考へはある。
彦一 だからどうだつてことよ。
白木 (彦一に)昔はなんだか知らねえが、お前さんが、与太もん仲間で売つてゐた頃とは、新宿も大分様子が違つてゐるからね。あとで、ホエ面をかかない様にするがいいぜ。(トツトと出て行く)
間――青くなつた鉄造口をモガモガさせて立つて居たが、薄気味悪くなり、白木の後を追つて去る。
お辻 ……(彦一に)あんな事を白木さんに言つて貰つちや困るぢやありませんか!
彦一 悪かつたかねえ?
お辻 不意に帰つて来て、事情もなんにも知らない癖して、何だよ、ほんとに……
ミル 兄さん、もう何処へも行つちやいけないよ。
彦一 いや、俺あチヨツト寄つて見ただけだ。さういふわけにやいかねえ。
お辻、小走りに階下へ去る。あと親子三人、互ひに見合つてゐる。――間――
彦一 父つあん……随分久しぶりだなあ。
彦六 (噛みつくように)どつからうせやがつた?
彦一 ひでえ事になつたもんだ。ハハ、どつか悪いのか?
彦六 貴様、又この辺をウロ/\してゐやがると、向ふずねを叩き折つてやるぞ。(足を踏みしめて立つて来る)
彦一 だが、よくこれまで頑張つたねえ。
彦六 利いた風な頤をたたくかつ! 貴様、この家の事件をどこかで聞きこんで、一口割込まうと思つて来やがつたんだらう。
彦一 何を云ふんだ! 俺あ、宵の中に府中から出て来たんだが、何だかバツが悪くて階下でマゴマゴ待つてゐる間に、はじめて話を聞いたんだ。
彦六 何を出鱈目言ひやがる、出来そくないめ!
ミル ……兄さん、なぜもつと早く帰つて来なかつたの?
彦一 あんな、薄ぎたない阿女ママに、おふくろ面をされてゐる家に帰つて来られるか。
彦六 なにを! 不良狩りに引つかかりさうになつて、ずらかつたくせしやがつて!
彦一 それもあつたさ。……だが、もともと俺がグレはじめたのは、お父つあんの女狂ひのせゐだぜ。
彦六 それがどうした? 私あ、助平だよ。
彦一 おつ母さん施療院で死んぢまつた時のことだ。「お父つあんは、ソツとしてお置きよ、あの人はツムジを曲げ出すと、自分で自分の了見が解らなくなつてしまふ。本当は、お父つあんは、私の事を心から思つてくれてゐるんだけど、ただたちであんな事になるんだ」つて、さういつたよ。そんな時のおつ母さんの顔が俺の眼から離れなかつたんだ。
彦六 へん、なにを世迷言ぬかしやがるんだ。
彦一 可愛いい女房が病気になつてさ、金が無くなつて施療院でノタレ死をした。それがしやくに障つたからつて、バクチ打つ、女狂ひを始めるなんて、筋が違い過ぎてるぢやないか。
彦六 ぢや、オヤヂの女が気に喰はねえからつていふんで八つ当りにほかの奴を斬つてさ、土地を売つたのは筋が違つてゐないのか。(息子も父も思はずニヤニヤ笑ひ出す)ときに、お前、今なにをしてゐるんだ。
彦一 なに、土方みたいな事だよ。
彦六 府中でか?
彦一 府中は家だけで、あつちこつちの現場を歩き廻つてゐるよ。方々行くが、大体三多摩一帯だ。
彦六 ほう、あの辺なら私も二十歳前後によくあばれて廻つたところだ。三多摩の自由党は威勢のいい奴が揃つてゐたからなあ。さうか。(自由党時代の事を思ひ出して身内が熱して来るらしい)当時、貧乏党、共和党と云ふのが有つてな、共和党万歳など書いたムシロ旗を立てて、あの辺の寺を押し廻つちや、藩閥政府ぶつ倒せの演説をして歩いたもんだ。その刀もそんときの名残りだよ。
彦一 昔からあの辺には、そんな気風があつたんだね。
彦六 昔からと云ふと、今でもあるのか?
彦一 うん、そりや自由党たあわけが違ふが、元気な仲間がゐるよ。
彦六 仲間と云ふのはなんだつ!
彦一 仲間だよ。貧乏だけど、みんな生きの良い連中だ。人は土方々々と馬鹿にするが、義理堅えし、善い事は善い、悪い事は悪いで、一旦仲間同士でかうと決つたら、グツともする事ぢやない。
彦六 ぢやなにか、ムシロ旗か?
彦一 さうだなあ、まあ、そんなもんかなあ。
彦六 さうか三多摩にや今でもそんなのがゐるのか。……しかしあの辺は、近頃、朝鮮の人間が多いさうぢやないか?
彦一 多いよ、だが大体が同じやうに働らいてゐりや、鮮人も内地人もあつたもんぢや無え、現に、大阪の玉造辺でゴロ/\してゐた俺をしよぴくやうにして此方へ連れて来て二年近く、附きに附いて俺の性根を叩き直してくれた男が鮮人だ。こいつは偉い男だよ。
彦六 へえ、そんな事があつたのか?
彦一 二人で東海道を歩いて上つて来る途中、ロクに飯が食えねえもんだから、俺がへたばる――
ミル まあ、東海道を歩いて?
彦一 すると其奴が俺をおぶつて呉れるんだ。まるで仏さま見てえな男だ。俺あ彼奴の背中で何度泣いたか知れない。そん時のおかげで俺あ地道に働ける人間になつたんだよ。
彦六 ふーん、……さうか……
彦一 どうだ、とつつあん、ここを引きはらつて、おれ達のとこへ一緒に来ちや。こいだけトコトン迄やり通しや、もういいぢやないか、第一無駄だ。
彦六 なに? 無駄だ? おれのしてゐる事が何で無駄だ?
彦一 だつて、外の連中は父つあんだけほつぽり出して行つちまつたぢやないか? かうしてゐたところで斬り死にするようなもんだ。
彦六 お前なにか、私に説教する気か?
彦一 おれ達の仲間なら、一人をうつちやつといて逃げ出したりはしないと言つてる迄だよ。第一働いて暮すにしたつて、同じやうに働く人間の仲間で暮すんでなきあ、泣くも笑ふも面白い事があるもんか。父つあんの自由党だつてその辺は同じ事だつたらうぢやないか。
彦六 なにをいやがる。
彦一 さうぢやないか。父つあんが、つむじ曲りになつたのも自由党以来の父つあんの了見を誰も解つてやらうとしなかつたからだ。俺が昔ゴロになつちまつたのも、俺の心持を知つてくれるのがわきにゐなかつたからだ。一人ぼつちになりや、人間曲るより他に法はねえよ、俺だつて父つあんの子だい。……そりや俺達あいつも不自由だらけだがこんなところで、ろくでもねえ連中を相手にしてゐるよりや、まだいくらかましだ。楽ぢやねえか、ホントの暮しがあるよ。生きるも死ぬのも一緒だ。仲間の骨は仲間が拾うんだぜ。
彦六 仲間の骨は仲間が拾ふか、……フン、そいで此の家はどうするんだ?
彦一 うつちやつとけばいいよ。
ミル へーん、私はどうすんの? 私、劇場のダンサーしてんのよ。ウンと勉強して、今に日本一の女優さんになるつもりなんだから絶対に劇場はよさないわよ。
彦一 電車で通へばいいよ。日本一にでも世界一にでもなるさ。だが、千代も大きくなつたもんだな、もう立派なモダンガールぢやないか。
彦六 さうさ、もうチヤンとお婿さんの見当まで付いてゐるよ、なあ、お千代?
ミル うゝん、いやツ! いーだ。
彦一 さうか、そいつはいい。
彦六 ときに、お前まだ一人か?
彦一 五日前に赤んぼが生れちまつた。
彦六 赤んぼ? 誰の赤んぼだ?
彦一 俺んだよ。
ミル へーん、ぢや、おかみさん貰つたの、兄さん?
彦一 一年前から世帯を持つてゐるんだよ、男の子だ。
彦六 へえ、私に孫が出来たわけか、こいつは笑はせる。なんて名前だ。
彦一 名前はまだ無えんだよ。なんだか変てこで仕様が無いんだ。
ミル そんなの無いわよ、あたりまへぢやないの、馬鹿ね。
彦一 それが変てこなんだから、仕方がないよ。
ミル ぢや、兄さんの子ぢやないの?
彦一 たしかに俺の子だけど、変てこなんだ。そいで、父つあんの顔を見たら、納りが付きさうな気がしたんで、実は帰つて来たんだがね……
彦六 で、どうだい? フフ。
彦一 ……父つあんの気持が、俺にも解る様な気がする。
ミル ぢやこれで私も立派な叔母さんになつたわけね。どうだい!
彦六 で、相手の女はどこのもんだ?
彦一 うん、仲間の妹でな、少しぼんやりしてるけど、気性はいい女だぜ。今メリヤス工場に通つて働いてゐる。
彦六 なぜその赤ん坊をつれて来て見せねえんだ。
彦一 駄目だよ、まだフニヤ/\して手に負えねえ。
彦六 ふーむ、孫か……笑わせやがる。馬鹿野郎。(流れ出して来る涙を横なぐりに拭く)
彦一 なあ、父つあん、思ひきつて、一家ひき移らうぢやないか。家もあるし、気の合つた仲間もゐらあ。
彦六 (考へ込み乍ら)だが、私が行つて、ボンヤリふところ手で毎日遊んでゐるのもな、今更。
彦一 だつて、父つあん、病気だらう?
彦六 病気で寝てるんぢや無い! 寝てゐたから病気みたいになつてしまつたんだ。
ミル あれあれ! あんな事言つてゐる。
彦一 アハハハ。ぢや問題無いよ。捜しや帳付けでもなんでも、仕事はあるさ。……ぢやいいね?
彦六 うん。
彦一 ……ぢや、お千代、話を付けるから、先刻の連中を呼んで来い。
ミル うん。(走り出して行く)
間――黙つてゐる父子。右奥の少し離れた所でガーン、ベリベリと大きな物音。音の度にシヤンデリヤが顫へる。この物音は最後まで断続する。
彦一 ……なんでも、向うの端から取壊しにかかるつて、先刻階下でさう言つてたな。
彦六 ふん。……彦一……ぢやあ、お前の赤んぼは、私が名前を付けてやるかなあ。
彦一 うん、一つ頼むよ、父つあん。
ミル戻つて来る。開かれたドアから、階下でお辻とアサが猛烈に口論してゐる声。
ミル 白木も鉄造も下にはゐない。
彦一 あれは、なんだ?
ミル アサさんとお辻とが喧嘩してゐるのよ。二人とも鉄造さんのおかみさんになるんだつていつてね、スタンドの所で掴み合つてらあ。
彦一 ハハ、さうか……さうだつたな、父つあん、お辻さんも連れて行くんだらう?
彦六 うつちやつて置け。どうせ金を掴めば向ふで逃げ出そうとしてゐた女だ。
彦一 遠慮をするなよ、父つあん。まだ入用だらうが?
ミル アハハ、私に気兼ねしなくたつていいわよ。
彦六 もう、いらんよ、コリ/″\だ。
彦一 いらんのか?
ミル いらんのか? お父つあん?
彦六 こいつめ!
ミル (逃げる)いらんのか? ウワーイ!
親子三人顔を見合つて笑ひ出す。
彦一 ……だが、先方から取ると言つた五千円とかは?
彦六 かうなれば、もういいんだ。
彦一 だつて、そりや……
彦六 なあに、二千五百円だけは、かうしてトウの昔に受取つてある。
彦一 なあんだ、さうか。
彦六 それ位取つてあるさ、この私を見損ふなよ、アハハハ。この中から立退いた連中に送つて分けてやらう。一軒当り百円として十一軒で千百円。これでもみんないくらか助かるだらう。実は、もうあと百円づつも取つてやらうと思つてゐたが、どうやら潮時らしいな。……だが俺は白木なんぞに負けたんぢや無いぞ。あんな小僧に負けてたまるかい! まあ強いて負けたと言へば、彦一、お前に俺は負けたんかな。
彦一 アハハ。そいで仕度は?
彦六 仕度もヘチマもありはしないよ。チヤンと大事な物だけ肌身につけてある。
彦一 この球台や道具類は?
彦六 放つとけ。どうせ家賃のカタに押へられてゐた物ばかりだ。
彦一 歩けるかい、父つあん?
彦六 なあに……さうだな、お辻に金を少し置いてつてやるか。(ミルが持つて来たブランデイのビンを見て)どうだい、一杯行こう。(コツプを取る)
彦一 よからう。まあお父つあん。(注ぐ)
彦六 (グツと一口に飲んで眼の前を睨んでゐたが突然と大声で詩吟を発する)さ、飲め!(彦一にコツプを渡して注ぎ大笑)アハハハ。アハハハ……。
ミル ブラボーツ!
彦一 (これも一気に飲んで)ハハハ。……乾杯もすんだ。さあ、行かう!
そこへ、髪をくづしたお辻がのぼせ上つた顔で乱入して来る。
お辻 ……畜生、殺してやる。群馬県あたりからつん昇つて来たベエベエあまのくせにしやあがつて……(三人の姿は眼にも入らない。畳敷に駈け上つて、道中差しを拾ひ上げると)ひとの男を寝取つたとは、ふざけやがつて!
彦六 ……どうしたんだ、お辻?
お辻 あゝ……(ポカンと見てゐる間にギヨツとする)な、なんですか? どう……?
彦六 いい加減にしろよ。
彦一 さあ、父つあん、夜が明けちやつたぜ。
ミル (兄のポケツトから花束を取る)どうしたの、これ?
彦一 さつき、階下で売り付けられたんだ。お前にやるよ。
ミル さう。あゝ綺麗だ!
左手には靴とフロシキ包みを下げ、右手に花束を高く差し上げる。
お辻 (坐つてゐる)……どうしてくれるんだよ? 皆で寄つてたかつて私に恥ぢを掻かさうつて言ふんだな? よし、なら、死んでやる! 死んでやるとも!(刀をひねくり廻す)
彦六 ……死んで見ろ。昔の縁だ、見届けてやる。死んで見ろ。……おい、どうした?
お辻瞬間キヨトンとするが、不意に刀を放り出して畳に突伏してヒーヒー声を出して泣く。彦一が刀を拾ひ鞘に納めて持つ。
彦六 どうだ、死ぬより金の方がいいだらう。三百円ある筈だ。まあ、達者で暮せよ。
お辻、金を受取り、夢中で勘定し始める。ミルを先頭に、父子三人、扉口の方へ歩いて行く。ミルは「糞でも喰へつ! こんな家!」。彦六は立止つて、お辻や、部屋の中を見廻してゐたが、大声にカラカラ笑ふ。
あたりはもう朝である。
――幕――

底本:「三好十郎の仕事 第一巻」學藝書林
   1968(昭和43)年7月1日第1刷発行
初出:「新演劇」
   1936(昭和11)年12月号
※字下げ、アキの不統一は、底本通りにしました。
※「〈〉」内は、底本編集部による注記です。(底本では、「〈〉」はきっこう括弧です。)
入力:伊藤時也
校正:及川 雅・伊藤時也
2010年4月12日作成
2011年4月2日修正
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