私はよく夢をみる。楽しい夢よりも、苦しい――胸ぐるしい夢の方がずつと多い。さめたあとで、ほとんど全経過をたどり直せるほど、はつきり覚えてゐる夢もある。さめた直後は、思ひ出す手がかりすら見失はれて、それなり忘れてゐたのが、かなり後になつて何のきつかけもなしに、ぱつと記憶に照らし出される夢もある。後者には概して楽しい夢が多いやうだ。
 同じ主題がしばしば繰り返されるのは、苦しい夢の場合に多い。その主題の立ち返りは、ほとんど一定の周期をなしてゐるやうにさへ思はれる。なかでも一ばん頻繁にあらはれるのは、胸ぐるしい夢で、その堪へられぬほどの圧迫感、むしろ窒息感をかもしだす情景は、私の場合は何よりもまづ、船室の棚床のなかに仰向けに横たはつてゐるうちに、上の棚がだんだん降りてきて、つひに一寸の隙間もなく圧しかかつてしまふのである。私はもう死ぬと思ふ。それなら一刻も早く死なしてもらひたいと思ふ。だが、もう呼吸する空気は尽きてゐるのに、私は死ねない。その苦悶の絶頂で、私はやつと目をさます。この船室の棚床には、勿論いろんなヴァリエーションがある。トランク詰めにされたり、突然お棺の中で気がついたりする。しかし一ばん多く出てくるのは棚床なので、私はこれが原初の形態であることを、久しい前から承認してゐる。
 棚床に寝た経験は、思ひだせば幾らもある。汽車の寝台もさうだし、青函連絡船や関釜連絡船もさうである。だがさういふものに私が寝たのは、かなり成長してからのことで、その時すでに私の内部感覚には、事前に体験された形で圧迫感や恐怖感が横たはつてゐた。それは現在なほ尾を引いてゐて、この年になつても私は、なるべくならば汽車は寝台に乗りたくないのである。そこで、「棚床」の胸苦しい第一体験は、かなり幼少の頃にあつたものと見なければならないが、私は先日ふと、同じ性質の或る悪夢から覚めたあとで、十歳のころの最初の船旅の経験を、びつくりするほどまざまざと思ひだした。私は、ああ、あれだ、と思つた。きれいさつぱり忘れてゐた夢が、ぱつと照らし出されるあの瞬間に似てゐた。それに伴なつて、夢の細部が驚くべき明確さをもつて生き生きとよみがへつてくるやうに、私には少年時代の或る時期のうすれ果てた記憶が、悦びよりはむしろ一種の恐怖をもつて、ありありと立ち返つて来た。いかに忘れ果ててゐようとも、原罪はあつたのである。

 それがまた薄れ消えて行かないうちに、私は急いで書きとめておかうと思ふ。もちろん記憶の闇にむかつて焚かれた瞬間的な照明は、不完全きはまるものに違ひなく、明暗の対比がどぎつすぎたり、露出が必要以上に強調されたりする惧れは多分にあるだらう、それはもう致し方もないことなのだ。……
 その最初の船旅は、前にも言つた通り私の十歳のとき、内地から台湾へ向つての海路である。季節ははつきりしないが、夏の終りか初秋ではなかつたかと思ふ。つまり颱風たいふう期に遭遇したわけである。父は暫く休職官吏として退屈な月日を送つたのち、母の伯父にあたる宮中の有力者の力添へで台湾総督府に椅子を得た矢先であつたから、出発の日どりなども加減する余裕はなかつたのだらう。神戸から乗船したやうな気もするが、あるひは馬関(つまり下関)だつたかも知れぬ。先祖の墓所が山口にあつて、父は明治の人として、外地への赴任の途次かならずや展墓てんぼを忘れなかつただらうからである。船は信濃丸といつた。たぶん日露戦役で名高いあの信号船と同じ船だつたらう。紺碧の空に白い船体をうかべ、おだやかな海波を切つてゐるその絵葉書を、私は長いこと愛蔵してゐたが、いつのまにか失くしてしまつた。だが、この船旅についての実際の記憶となると、のちに私の潜在意識の底ふかく根をおろすことになつた密閉感覚ともいふべきものを他にすると、全然ないといつていい。最初の一日ぐらゐは、ひよつとすると晴れて平穏な海路だつたかも知れない。デッキチェアに腰かけた父が、傍に立つてゐる小さな私にライスカレーを一さじ二さじ食べさせながら、その都度わたしが顔をしかめるのを興がつて笑つてゐる声を、私は妙にありあり覚えてゐるやうな気がするからだ。あるひはこれは、馬関までの汽車の中だつたかも知れない。とにかくこの父子像のあひだに、心配さうに差しのぞいてゐる母のおだやかな微笑があつたことだけは確かである。
 しかしそのあとは、幾日の船旅だつたか知らないが、徹底的に颱風にもてあそばれどほしだつた。三千五百噸の巨体は木の葉のごとく……などと、小学生の作文じみたことも言ひたくなるが、実際はそんなことではなかつた。横ゆれもかなりだつたが、更に怖ろしいのは縦ゆれで、船室の棚床に小さくちぢこまつて寝たつきりの私には、少なくとも二三丈はある上下運動として感覚された。それが終日終夜、いつ果てるともなく続いたのである。くぐーと吸ひこまれるやうな下降感覚の不気味さ。それにもまして、同じだけまた揺り上げられるときの、息づまらんばかりの圧迫感。……のちに私の見る夢の呪はれた主題になつたものは、たしかにこの後者なのである。
 母は何ひとつ喉をとほらず、しかも嘔吐しつづけた。その嘔吐は私にも感染した。同じ船室に祖母もゐたはずだが、これは全然わたしの記憶から欠落してゐる。父だけが至極元気だつた。開けはなしたままの船室のドアの向うに、食堂らしい広間が見え、テーブルも椅子も残らず片隅に寄せかけてロープで固定したあとの空間を、父がむしろ楽しげな足どりで巧みに平均をとりながら、飲水をとりなどに去つてゆく後姿を、私ははつきり覚えてゐる。父は頗る楽天家であつた。
 航海の最後の日になつて、やつと海は静かになつた。そして船はその日の夕方ちかく、基隆キールンにはいつた。

 少年の第一印象にのこる基隆キールンは、肌寒い秋雨の港である。ぬれそぼつた上屋うわやが黒ぐろ不気味に立ち並んでゐる岸壁の石だたみを、父は出迎への役人たちに傘をさしかけられなどしながら、手荷物を両手に、何やら高声で談笑しながら、元気な大股で歩いて行つた。少年はすぐその後からついて行く。父は足を踏み替へるたびに、靴の底革を一々はつきり見せてゆく。それは濡れて黒ずんでゐた。少年はふと、自分もそんな歩き方なのだらうかと思ふ。彼は和服に、新しい黒の編上あみあげ靴をはいてゐる。
 その頃の父は、煙草をやめてからめきめき肥つた額のひろい顔に、恰好のいいナポレオン三世風の髭を生やしてゐた。しかしそれは主として、後年になつて写真から植ゑつけられた印象で、現実の父の顔の上にその口髭を見た覚えは、どうもないやうである。はにかみ屋の少年は、父の顔を正視したことが殆どなかつたのかも知れない。優しい眼をしてゐる人だつたさうだが、少年には怖ろしい眼であつた。
 その代り少年の記憶には、父の後姿の方が、わりあひ明瞭にのこつてゐる。この基隆埠頭における靴底もさうだし、船中の場合にしてもさうである。これは後にもしばしば繰り返されることなのだが、あるひは何かの予兆だつたかも知れない。……
 父の赴任地は台北である。基隆から汽車で十時間ほど揺られたやうな気がしてゐる。
 この台湾の首都は、まづ旅館のかなり宏い立派な一室として印象されてゐる。新らしい畳をしきつめた、明るい部屋で、トランクや鞄の類が方々に積まれて、その部屋を自然いくつかの部分に分けてゐた。違ひ棚を背にした暗い部分には、祖母がじつと坐つて、時どき煙管をふかしてゐる。母は出入口に近い部分にゐて、手廻りの物を片づけたりなどしてゐる。広い縁側につづいた一ばん広く明るい区画には、浴衣がけに寛ろいだ父が、白扇を使ひながら、磊落らいらくな大声で来客と談笑してゐる。その客はがつしりした体に白麻の背広をきて、四角い血色のいい顔に、黒い髪の毛を気味のわるいほど美しく分けてゐる。初めはかしこまつて坐つたが、やがて白い上衣を傍にぬぎすて、あぐらをかき、小さな扇を器用に使ひながら、すこぶる愉快さうに弁じ立てはじめた。少年には難かしくて分らぬ話である。彼は退屈になつて、ときどき鷹揚に相槌をうつてゐる父の額や、よく動く客のべつとりした唇を、交る交る眺めてゐる。縁側の外は、すだれごしに、カッと午前の陽の照りつける日本風の庭だつた。
 その客が帰つて行くと、父は独りごとのやうに、「驚くなあ、いやどうも大したものだ」と言つた。
「何が?」と母が目顔で応じる。
「あれが本島人とは、知らん限り気がつくまい。むづかしい事をよく喋りよる。」
「何をする人です?」
「△△日報の社長だといふことだ」父は大型の名刺を畳から拾ひあげて、「いやどうも。台湾もえらいところだ」と、太鼓腹をゆすつて笑つた。すこぶる今の客が気に入つたと見える。小さな眼が、きらりと光つたやうだつた。
 午後からも、またその翌日も、旅館の一室は客が入れかはり立ちかはりした。そのなかに、化粧品を売りに来た商人があつた。これは内地人である。少年がよく汗疹をかくので、天瓜粉でも買ふため母が呼び寄せたのかも知れない。商人はしきりにぺこぺこしながら、畳一畳ほど化粧品の小函や小壜で一ぱいにした。母は当惑顔だつた。結局ふたつ三つ余計なものを買はされたらしい。
 商人が帰つたあとで、祖母が大トランクのかげから顔を出して、「あんまり贅沢風は吹かさんが宜しい」といつた意味のことを、ねちねちと長州弁で言ひだした。
粉白おしろい粉だとて、わざわざ舶来はくらい品を買ひなさらんと……」
 母は初めは顔を伏せて、すべすべした青い小函を、何か惜しさうに指で撫でながら黙つてゐたが、祖母がなほもくどくど言ひ募るのをみて、キッと眼をあげた。
「よく分りました。わたくしもそんな物は要りません。今すぐみんな返してしまひます」。青い小函を握りしめた指が、わなわなと顫へてゐた。
 母は平生は無口な、おとなしい人だつたが、かういふ時にはふだん抑へに抑へた東京女の勝気さが、閃光のやうに迸つた。母は徳川の御典医の家に末娘として生まれて、幼い頃は、吉原の裏手の田んぼの中にある宏大な邸に住んでゐたさうである。押込強盗が三四人づれで、ほとんど毎晩のやうに(これは誇張だらうが――)はいつて来て、姉妹たちの寝てゐる十畳間の蚊帳の釣手を、ばさりばさりと斬つて落す。その白刃の不気味な閃めきや、賊たちの覆面姿の怖ろしさなどを、母はよく少年に物語つて聞かせたものである。一つには、頗る臆病で腺病質せんびょうしつな少年を、なんとかして鍛へ直さうといふ下心があつたのかも知れない。
 書院の前で、黙々と手紙か何か書いてゐた父が、そのとき穏やかな口調で二言三言いつたので、祖母はそれなりトランクのかげに引つ込んだ。
 父は非常な母親孝行で、そのため祖母の前では妻の利害を無視する傾きがあつたけれど、行動が乱に走ることは決してなかつた。殊に晩年がさうだつた。まだ東京で浪人してゐた時分、健康のため禁煙を決心させられた頃の父は、隠してある煙草を出せといつて、しつこく母にねだることがあつた。母は押問答の末、しぶしぶ敷島しきしまの包を出す。その出し方が悪いといつて、父がいきなり母の胸もとへその包やマッチを投げつけたことがある。畳の上に散らばつた敷島を、じつと顎を引いてうなだれた母が、ゆつくり拾ひ集めてゐる姿を、少年は次の間から一再ならず見かけたものであつた。その顎の不自然な引きしめ方から、少年には母の怒りや口惜し涙が、手でさはるやうに分るやうな気がした。
 問題になつた粉白粉のきれいな青函は、翌る日も翌々日も、封を切らずに違ひ棚の上に載せられたままであつた。少年の眼にはそれが、母の意地つ張りの結晶のやうに映じた。……
 とはいへ、母はじつに忍耐づよく、この旧弊で口やかましい姑にかしづいた。祖母は間もなく死ぬことになるのだが、臨終に母の手を握つて、永年の母の介抱を謝したといふことだ。もちろん臨終にはよくある図だが、あの頑固な祖母は、そんなことは言はないでも死んで行けた人のやうな気が、少年はするのである。少年にたいする祖母の盲目的な偏愛は、祖母と母との衝突のほとんど唯一の原因だつたが、そのたびに少年は母のきびしい躾けを内心怨みながらも、その一ぱう母のためにかなり強い義憤を覚えずにゐられぬ程度には、つむじまがりの早熟な少年であつた。要するに神経質なのである。
 その旅館には一週間ほどゐて、少年の一家は或る小さな借家に移つた。
 それは△△門街の或る横町にある、暗い古びた日本家屋だつた。しかし家のなかのことよりも、差当つて少年の注意をひきつけたのは、家の外の生活――とりわけ学校の生活である。東京の山の手の或る小学校で、ほんの限られた二三の友達としか交はらず、あとは家といふ小さな殻のなか――いやいつそ、更に小つぽけな内省癖といふ貝殻の中にとぢこもつて生きて来た少年にとつて、見も知らぬ外地の学校の、見も知らぬ級友たちの只中へ放りだされることは、少年にとつて紛れもない最初の社会生活の開始を意味した。
 少年は怖れ、緊張した。が、案に相違して、この転校は大した気まづさもなく行はれたやうだ。そのころ日本帝国の植民地では、小学校の先生までが海軍士官のやうな紺の制服に、やはり海軍士官のやうな洒落れた短剣を吊つてゐた。少年には大そう物珍らしく感じられたけれど、べつに畏怖も嫌悪も覚えなかつた。担任の教師は中年のやさしい男であつた。学友たちも、最初は一種の物見高さを、この内地からやつて来た顔の蒼白い生徒に示したやうだつたけれど、そのため別に歯を剥くでも、敬遠するでもなかつた。クラスの中には要するに人の好い鈍感さが支配してゐたのだ。いはば南洋ぼけである。少年は早くもそれを見てとつて、心の鎧をゆるめた。少年は三年生であつた。
 ただ一つ非常に困つて、いつまでも馴染むことができなかつたのは、旗とり合戦のたぐひの、源平両陣に分れてやる遊戯が殊のほか盛んだつたことである。これは少なくも東京でかよつてゐた小学校では、ほとんどお目にかかつたことのない種目であつた。体操の時間がくる度に、先生は「おおい、みんな、何がやりたいか?」と聞く。すると大多数の生徒が「旗とり」と答へる。紅白の鉢巻が、すばやく生徒たちの額に巻かれる。運動場の両側にわかれて、それぞれ一列横隊に整列して向ひ合ふ。やがて号笛とともに、「天に代りて不義を討つ」とか、あるひは「遼陽城頭、夜はふけて」とかいふ軍歌を高唱しながら、次第に近づいてゆき、第二の号笛が鳴ると忽ち喚声をあげて突撃し乱闘する。それぞれの大将の捧げてゐる軍旗を奪ひ合ふこともあるし、互ひに敵兵の鉢巻の取りつくらをすることもある。第二の号笛が鳴つてしまへば、あとはぐるぐる遠心運動をしながら時をつぶすことが出来るのだが、辛いのは向ひ合つてやる軍歌行進である。これが少年には堪らなく照れくさく、彼は泣面をしてただ口を動かすだけだつた。軍歌の意味はわからず、初めて耳にする曲でもあつたが、それを嬉々として得意げに高唱して進むとき、学友たちは一人のこらず、幸福きはまる異人種に見えた。少年は自分の孤独をはげしく嫌悪した。

 常夏の島などといふけれど、台湾にだつて季節はある。いや少なくも日本民族の行くところ、季節的な行事はどこへでもついて廻る。よしんば北極へお国替へを命ぜられたにしても、彼らはやはり揃ひの浴衣で樽神輿をかつぐだらう。
 やがて秋が深くなると、少年の一家は揃つて松茸狩りに出かけた。場所は淡水河の河口に近い、北投といふ温泉場である。父の役所の下役らしい顎鬚を生やした男が、案内兼世話役について来た。
 温泉場そのものの記憶は、全くないと言つていい。微かな嫌悪感らしいものが残つてゐるだけである。おそらく日本流に俗化した、白ちやけた湯治場だつたのだらう。これまた日本人の行くところ、必ずついて廻る現象である。松茸狩りの記憶もすこぶる稀薄きはくだ。山道など、少年の趣味ではないのである。ただ印象に焼きついてゐるのは、陰惨なまでに暗い次のやうな情景だけだ。――
 夕闇か、それとももう日が暮れてゐたのか、とにかく、恐ろしく暗い松の木だらけの坂道である。赤黒い提灯か何かの光をたよりに、によきによき突き出てゐる松の根つこを避けながら、同勢四五人でその道を上り下りしてゆく。少年もその中にゐて心細い。
「お危うございますよ、お気をつけなすつて」と、誰やらが言ふ。
「いやもうぢきです。ついこの上のところに、宿の者に仕度をさせてあります」と言つたのは、例の顎鬚の男である。
「どうです、痛みますか? どれ、一つ見せてみたまへ」と、父がその男にいふ。
「いや何、大したことはありません。どうぞ御心配なく。なあに、これしきの傷……」片腕を父に支へられながら、びつこを引き引き歩いてゐたその男は、立ちどまつて、片脚を提灯の光に近づけて見せる。足首のところに厚ぼつたく繃帯が巻いてあつて、泥にまみれたのか、それとも血がにじみ出したのか、べつとり赤黒く染まつてゐる。
「うん、こりやあ酷い。早く宿へ帰つて消毒せんことには、破傷風はしょうふうにでもなられたら大ごとですからな」と父。
 男は、へつらふやうな高笑ひをした。父もそれに合せて笑つた。
 それから多分、岡の上で松茸狩の宴でも催されたらしい。あたりはもう真暗で、焚火が赤くちよろちよろしてゐる。松茸の焼ける匂ひと音。松風の音。消えたり浮んだりする顔、顔、顔。そのなかには、何か不満さうに調子を合はせてゐる母の白い顔もある。顎鬚が酔つぱらつて、詩吟か何かやりだす。父も小声でそれに和する。父は酒を飲まなかつた。少年は一人かなしく、松茸のじゆうじゆう焼けるのを見てゐる。……
 その日の朝だつたか、それとも翌る日の午前だつたか、高い丘陵の上を歩き廻つた時の印象は、すこぶる鮮明に残つてゐる。空は眩しいほど晴れわたつて、銃声が時たま、浮んでゐる白い雲のあたりに反響する。平たい丘のそこここに、赤い小旗がひらひらしてゐる。いきなり傍の塹濠ざんごうの中から、真黒に日焼けして眼ばかりぎよろつかせてゐる兵士が二三人、ぱつと躍り出して、銃を低く伏せたまま、まつしぐらに走り去つた。帽子のうしろに垂らした茶色の日覆が、苦しげにはためきながら、みるみる小さくなつてゆく。暫く行くと、黄色い小旗を持つて折敷けの姿勢をしてゐた兵士が、黙つて立ちあがつて、手真似で近づいてはいけないと合図した。引き返すと間もなく、こんどは若い将校が一人、佩剣をがちやつかせながら矢庭に現はれて、抜刀を振りながら、
「危険だから近寄らんで下さい。あの赤旗の中で実弾射撃をしてゐますから」と叫んだ。――「流弾のおそれがあります。」
 急に一行はシーンとなつた。父と顎鬚と少年とである。あたりの空気が、一時に凍つてしまつたやうな感じだつた。
「ほう、それは失敬しました」と、父は鳥打帽をぬいで、将校に挨拶した。それから三人はちよつとした窪地に降りて、反対側の丘の上に出た。
 その上はまた、おびただしい塹濠によつて縦横に切り裂かれて、しかもその大部分が背の高い雑草で埋まつてゐた。父は少年の手を引いた。それが却つて少年を不安にした。少年は、早く帰らうと父にせがみはじめた。
「なあに、何も怖がることはない。ここは安全だよ」と、父は少年の蒼ざめた顔を、面白さうに見ながら言つた。
「坊ちやんは臆病だなあ、いけませんよ、そんなことぢや」と、顎鬚がからかつた。そして調子を変へて、「このあたりは、あの台湾征伐のときの激戦地だつたさうです。だからこの古い方の塹濠は、演習のため掘つたものではなくて、恐らく、実戦に使はれたものらしいですな。随分と戦死者も出た模様で、現にかなりあとになるまで、掘り残した屍体が、時どき発掘されることさへあつたさうです。」
 そんな怪しげな話をすると、顎鬚はひよいと身軽に、草ぼうぼうの塹濠の一つへ飛びこんで、暫く何かごそごそやつてゐたが、やがてぼろぼろ土崩れのする濠のふちを、顔を真赤にしてぢのぼつてくると、握り拳を差しだして、
「さ、坊ちやん、いいものを上げませう。……鉄砲の玉ですよ。」
 少年は手を引つこめて後ずさつた。顎鬚が手を開くと、鉛筆にかぶせるキャップのやうな恰好をした褪黄色の金属が、ちよこんと載つてゐる。少年は自分の手のひらに、火傷のやうな痛みを覚えた。いかにもその銃弾が、熱してゐるやうに思へたからである。少年は、たうとう手を出さなかつた。顎鬚は、
「臆病だなあ、坊ちやんは」とまた繰り返して、小銃弾を自分のポケットに収めると、向うをむいて父に何やら説明しはじめた。
 少年はおそるおそる、足もとに口をあいてゐる古い塹濠の一角を覗きこんだ。ぎつしり生ひ繁つた雑草のかげから、今にも腐れはてた戦死者の屍が見えて来さうであつた。あるひはぶよぶよにふくれた脚のきれ端が。または例の茶色の日覆をつけた帽子のかげに青黒い死人の顔が、……さんさんと降りそそぐ光の矢のもとで、少年の魂は冬の小草のやうにかぼそく顫へてゐた。
 十年ほど後、少年は、ランボオの『谷に眠つてゐる男』といふ詩を知つた。……若い兵隊が一人、口をあけ帽子もなしで、うなじを田芥子たがらしの繁みにひたし、眠つてゐる。雲のもと、草叢に寝そべり、蒼い顔をしてゐる彼の緑の床に、光は雨と降りそそぐ。……両足をグラヂオラスの葉かげにつつ込み、眠つてゐる。病気の子供のやうに頬笑みながら、うたた寝してゐる。自然よ、暖々ぬくぬくと揺すつてやれ、さむ気がしてゐるのだ! ……花々の匂ひも、彼の鼻孔をびくつかせない。日向で寝こけてゐる、片手を胸に、ひつそりと。見れば右の脇腹に、赤々と穴が二つ。……
 この詩を読んだとき青年は、この非情な詩の響きに驚くよりも先に、これは往年の少年自身の忘れてゐた歌声ではあるまいかと、むしろそれに愕然としたほどである。
 やがて三人は丘陵のふちに出た。はるか眼の下には淡水河が、強烈な陽炎に蒸されて淡く煙りながら、ゆるやかなS字をなしてうねつてゐた。北投の温泉町は、こぼれた歯磨粉にすぎなかつた。

 少年の家は、前にも言つたとほり、暗い狭くるしい日本家屋だつた。暗い家の記憶は、もう一つ少年にはあつた。それは彼の生まれた家で、場所は牛込神楽坂の上にある毘沙門天の角を入つて程なく、右側に黒塗りの崩れかけた長屋門があり、その中にせせこましく建ちならんだ小さな貸家の一つであつた。この家は幼い彼の印象には、重くよどみこんだ闇の巣としてしか残つてゐない。その闇のなかに、まるで幽霊のやうに透きとほつて、若い母の細つそりした白い顔が、うかんだり消えたりする。おそらくその背中には、幼い彼が背負はれてゐたのだらう。
 この袋町の家の、ただ闇ひと色の記憶にくらべれば、台北の家はいくら暗いといつても、まだまだずつと明暗の変化がある。玄関の右手に、北向きの六畳間があつて、竹格子のはまつたその窓のところに、少年の机が置いてあつた。これが少年の小やかな王領であつた。そこで彼が何をしてゐたか、その記憶はふしぎなほど薄れてしまつてゐる。勉強のきらひだつた少年は、母のわざときつくした眼におびえて、しぶしぶ半時間ほど、大きな声で読本をよんだかも知れない。それが済むと、猿蟹合戦といつた類ひの小さな絵本の毒々しい色刷に、幼い空想をおぼらしてゐたかも知れない。それともただぼんやり引つくり返つて、天井板を眺めながら、頭のどこかに微かな頭痛を感じてゐただけのことかも知れない。
 母の居間でもあるこの六畳間につづいて、南に面した八畳の座敷があり、その縁さきの軒に、よく龍眼肉やバナナの束が、まるで風鈴のやうに吊してあつた。その龍眼肉の食べすぎから、少年が疫痢えきりのやうな症状をおこし、一週間ほど生死の境をさまよつたのは、恐らくこの家に移つて間もなくのことだつたらしい。
 父は、この八畳間の障子ぎはに小さな机を置いて、その前に端坐たんざし、役所から持つて帰つた書類を調べたり、墨をすつたりしてゐた。これもその後姿だけが、少年の印象に残つてゐる。
 祖母の部屋は、縁側から右へ鈎の手に庭へつき出した離れであつた。祖母はもうその頃は寝ついたきりだつたらしく、少年は時たまその部屋へ呼ばれて行くのを、ひどく億劫に思つたことを覚えてゐる。
 縁側の左手には、湯殿ゆどのや台所があつて、そこは南方の特産物である巨大な蜘蛛や、おびただしい家守やもりなどの出没する場所――いやむしろ、定住地の観があつた。いちど少年は、台所の壁にはりついてゐた蜘蛛に驚いて、あやふく卒倒しかけたことがある。八木の脚をぶざまに拡げた大きさは、たしかに一尺五六寸はあつたらう。
 その湯殿や台所と正反対の西側は、おそろしく暗い板廊下になつてゐた。暗いのは、窓がまるでないからである。その廊下のどこかに恐らく二畳ぐらゐの仕切りでもあつたのだらう、そこに、少年にとつてもう一つの巨大な女郎蜘蛛である――女中が寝起きしてゐた。これは不気味なくらゐ不潔な女であつた。この不潔だといふ意味は、絶えずすえたやうな髪油の臭気を発散してゐたり、どす赤いネルの腰のものをべらべらさせてゐたり、飯櫃めしびつの中に赤ちやけた髪の毛を一二本かならず忍びこませておいたり、ひまさへあれば、人さし指で奥歯をせせくつたり、まあそんな類ひのことだけを指すのではなくて、道徳的にも病理学的にも不潔だつたといふ意味である。彼女は夜になるとよく、何かの用事にかこつけて、大柄な浴衣を抜き衣紋えもんにし、白粉を平べつたい顔に塗り立てて外出した。少年は無論、その目的を訝しむほどの世間知の持ち合せはなかつたが、一種の本態によつて、嗅ぎ当てるべきものだけは嗅ぎ当ててゐたのである。その上になほ、母は彼女の盗癖にも手を焼いてゐた。はじめ細ごました物の紛失するうちはよかつたが、やがて母の愛用してゐる裁物鋏が見えなくなるに及んで、母の探索の手はつひに彼女の行李こうりにまで伸びた。急に用事を言ひつけて表へ出し、行李の中を点検したのである。はたして鋏は発見された。なほほかに思ひがけない不快ないし不潔な発見物が沢山あつた。勿論そんなことは、母が少年に話してきかせたわけではない。また少年がその場に立会つたわけでもない。主として母が父に訴へる言葉から、少年は推察したのである。
 そのうちに少年は、この女中にたいして大失敗を演じた。小学校の子供がどこでも大抵、面白半分に口にする公然たる或る隠語がある。少年はある時ふと気まぐれに、その言葉の上に彼女の名を冠し、述語に或る物量形容詞を用ひて、四・四・五の音律から成る囃し文句を作りあげ、湯殿で洗濯をしてゐた彼女の前で二三べん歌つてみせたのである。すると驚くべきことが起つた。彼女は矢庭に立ちあがると、シャボンの泡だらけの手で少年の襟首をとらへ、畳の上をぐいぐい引きずりながら、青くなつてもがく少年を母の面前へ拉して行つた。そして、これこれの文句を坊ちやんが今おつしやつたと、口惜し泣きに泣きだした。母は無言だつた。しばらくすると、静かな声で、
「わたしがあやまります。赦してやつて下さい」と言つて、片手を畳についた。残る片手には縫物の端を持つてゐたのである。
「奥さんにあやまられたつて、わたしの口惜しさが消えるものですか」女中は烈しい語勢で言ひ放つと、両膝をドスンといはせて座を立つた。
 少年は恥ぢた。この女中は間もなく家から姿を消した。

 学校には、これといつて敵もなければ、親しい友達もできなかつた。その代り少年は、だんだん近所の男の子たちと遊ぶやうになつた。もつとも、家に連れて来て遊んだ覚えはない。戸外で遊んだのである。
 ただ一つの例外は、河合といふ男の子の場合だつた。これは六年生で、つい玄関の前の二階家に住んでゐた。ある日、その二階で二人きりで遊んでゐると、河合はいきなり或る種の行為を少年に強ひた。少年は驚いた。そして気弱な彼にも似ず、きつぱり拒絶して二階を降りた。少年が驚いたのは、何もそれが最初の経験だつたからではない。少年はそれより一年あまりも前、まだ東京にゐた頃、家主の息子である背の高い中学生から、同じ経験を味はされてゐた。少年が驚いたのは、またしてもここに、同じ嗜好しこうの持主がゐたといふ事実の方である。だとすると、これは大して風変りでもない、まともな人間の営みの一つなのかも知れない――といふ疑問も、当然そのとき少年の脳裏にはきざしたはずである。だが少年の記憶には、そんな疑問はもとより、好奇心の発現すら、跡をとどめてゐない。要するに、まだ性のめざめは来てゐなかつたと見える。
 近所の男の子たちにまじつてする戸外遊戯は、まづ世間なみの、大して乱暴でもなければ大して大人しくもないものであつた。なかでも蜂の子を捕りに出かけることは、すこぶる冒険心の満足をともなつて、彼らの最も好むところであつた。河合とは別に絶交したわけではなく、彼は相変らずこの小さな一隊の餓鬼大将としての声望をつないでゐた。ただしその声望は、彼の愚鈍なほどのお人好しや気前のよさに、俟つところが多かつたことは言ふまでもない。子供は本能的に打算に長じてゐる。その打算のするどさを、やうやく本能が磨滅まめつして、その不足を理性の力でおぎなふことに懸命な大人の打算にくらべてみれば、その質の上の差は一見して明瞭といはなければならない。事実河合は、ねだられれば何ひとつ惜しまず、年少の友だちに分ち与へた。蜂の子捕りの時にしても、一切の調味料から、蜂の子をあぶるのに要る鉄板やマッチの類に至るまで、残らず易々と用意できるのは、河合のほかには誰ひとりなかつたのである。とりわけ、彼の闘争欲の旺盛さは言語に絶してゐた。彼は手下たちに偵察させて置いた蜂の巣を襲撃する役目を、ほとんど一手に引受けてゐた。その代り、一ばん頻繁にいが栗あたまを蜂に刺される光栄に浴したのも、ほかならぬこの河合であつた。更にその代り、ふとつた白うじのやうな蜂の子が、こんがり茶色にあぶりあがつた潮どきを見すまして、素早く鉄板から手の平へ受けて、じゆうじゆうと醤油をかけて、真先にしかも最も多量にその美味を満喫するのも、やはりこの河合であつた。さういふ場合、河合はまさに颯爽たる一箇の英雄であつた。
 ただし学校の方は、すこぶる出来なかつた。落第などといふことの絶えてない台北の内地人小学校のなかで、彼はみごとその記録の保持者だつたのである。六年生だといふのに引算といふものが全然できず、いつも涎を口角に蓄へてゐた。少年が彼から或る種の行為をいどまれたとき、真先きに思ひうかべたことは、一年まへ同一の行為を最初に自分に強ひた男が、中学生とはいへ、やはりこれに類した劣等生だつた事実である。もし少年が、きりりと引き緊つた秀才から同じやうなことを要求されたのだつたとしたら、その性的運命には恐らく重大な変化が生じたに相違ない。
 ある日の午後、その年も押しつまつたころだつたらしいが、少年は河合など三四人と一緒に、自宅の庭で遊んでゐた。狭い庭のことだから、間もなく彼らは遊びにあきて、塀の外で何かの工事をやつてゐる台湾人の電工たちを相手に、片言の台湾語をあやつりながら、たわいない嘲罵ちょうばの交換をはじめた。無論そのやりとりの中には、国際的通有性の濃い性器に関する漫罵まんばの言葉も多分に含まれてゐたことだらうが、やがて双方が次第に興奮して来て、応酬の内容が次第に一そう深く民族的矜持きょうじにふれる主題にまで発展して行つたらしいことは、まだ台湾語をほとんど解するに至らない少年の耳にも、はつきり推測がついた。こちら側の音頭とりは、いふまでもなく河合だつた。彼はさうした悪罵あくばの応酬にかけて、じつに明敏な頭脳の持主だつたのである。
 塀はあり来りの板塀だから、下の方に一寸ほどの隙間がある。ついに言葉の交換では間に合はなくなつた敵味方は、土くれだの、蛙の死骸だの、石ころだの、みみずだの、電線の切れつぱしだの、妙な恰好に組み合はせた自分の手の指だの、およそありとあらゆる汚物を、その板塀の下の隙間から互ひに突き出しはじめた。双方とも顔は見えない。次にどういふ準備行動をとつてゐるのか、わづかに相手方の押し殺した笑ひ声で想像するほかに途はない。しばらく向う側の行動がとまつた。何やら小声で、ひそひそ囁く気配がする。忍び笑ひもきこえる。ぶつぶつ怒るやうな声もする。……
 やがて、すつと何やらが、塀の下からこちらへ差しこまれた。赤くて細い、なんだか綺麗な光を放つものである。と思つた瞬間、少年は早くもその物体をぐいと握つてゐた。
 しびれるやうな、名状すべからざる痛みが閃いた。少年は咄嗟に、あ、感電だ、と直覚した。恐らく悲鳴をあげたことだらう。塀の向う側で、わあつと歓声があがると、ばらばらと逃げ走る足音がした。そこで少年の知覚は、しばらくとだえた。
 気がついてみると、少年は自分の部屋の寝床にねかされて、もう電灯がともつてゐた。ずきんずきんする右手の疼痛とうつうから、一切の情景が記憶によみがへつて来た。痛む手が、まるで大きな石でもくくり附けられたやうに重い。そつと左の手でさはつてみると、すつかり繃帯されてゐることが分つた。
 よほど経つてから、母はそつと入つて来た。そのまま何も言はずに、少年の額に軽く片手を置くと、また音を立てずに出ていつた。少年はふたたび眠りに落ちた。
 あとで分つたことだが、台湾人の電工たちが少年につかませたものは、灼熱するまでにあぶり上げた銅線の切れはしにすぎなかつた。それを握つた少年の手のひらには、三筋ほど紫色のみみず腫れが出来て、水腫が破れて皮膚が癒着ゆちゃくするまでには十日ほどかかつた。
 そのあひだ家で寝たり起きたりしてゐた少年の気持には、ふしぎなほどに怒りや怨恨の影がなかつた。むしろその反対に、自責や悔恨や、一種の罪障感ざいしょうかんともいふべきものに対する畏怖の念が、こころの全面を占めてゐた。少年はこの突発的な火傷事件が、おそろしく正確な天罰のやうに思はれた。少年は、当日あの塀をへだてて行なはれた半ば以上は意味不明の猛烈な悪口の交換や、河合の家の二階での出来事や、それに先だつ同じ性質の事件のことや、あの女中の一件やを、次々に思ひうかべ、反芻しながら、ああこれが天罰なのだと、身もだえした。そして言ひやうのない自己嫌悪に、襲はれつづけてすごした。

 そのあひだ母は、少年の交友について、いろいろ思ひめぐらしてゐたに相違なかつた。そして年が暮れ、正月が来た。
 正月になると、街路といはず横町といはず、台北の町はたちまち凄まじい爆音のるつぼと化してしまつた。本島人の好物の一つである爆竹ばくちくが、昼夜の別なく門なみに打ち揚げられるのである。ただでさへ臆病な上に、つい先頃の痛い目にまで遭はされた少年が、この爆竹の街へは一歩も外出する気になれなかつたことは言ふまでもあるまい。彼は近所の子供たちまでも避けて、冬休みのあひだぢゆう、頭痛がするといつて寝床のなかで暮らしたり、そつと起き出したかと思ふと、縁側で日向ぼつこをしたりして暮らした。母はさうした少年の生態をじつと黙つて観察してゐた。母にしてみれば、この欺しやおだてのなかなか利かぬ少年の心の動きやうは、この世の誰にもまして分つてゐるはずであつた。
 二学期の成績は、転校早々にもかかはらず、首席だといふことを少年は知つてゐた。どうもあんまり開きがありすぎて点のつけやうに困る――と、担任教師が母に向つて言つたといふことまで、いつのまにかちやんと小耳にはさんでゐた。そして、如何に母や父の前で平気を装ふかといふことよりも、むしろあんまり平気な顔をしてゐて、却つて自分の思ひあがりやうを見破られはしまいかと、その方のことを内心警戒してゐる有様だつた。とりわけ、開きが多すぎて……といふ教師の言葉は、甘く心をくすぐる暇もなく、真正面から少年の自尊心を傷つけて、彼をして当てどのない敵愾心てきがいしんのやり場に困じさせた。
 さういつた少年の心のすがたを、母性といふ自惚れ鏡の剥げ間からちよいちよい覗き見しないでもなかつた母は、少年に新らしい友達を当てがつてみようと思ひ立つた。東京にゐた頃、少年のために友達になるやうに仕向けもし、また少年自身の気に入りもした二三の学友は、いづれも大なり小なり気立てのやさしい、ともすれば柔弱な、美しい目鼻だちをした少年ばかりであつた。中でも吉野といふ未亡人の一人息子などは、母親そつくりの肌理きりのこまかい瓜実うりざね顔をして、少女のやうなぱつちりした眼をおどおどと伏眼にし、何かものを言ふときは女性の語尾を使つて、肩でしなを作りさへしたものだつた。黒い半ズボンに、当時はまだ珍らしかつた黒革のランドセルを背負つて登校するその子の姿は、西洋の家庭小説の挿絵で見る小公子そのままであつた。
 母はそんな記憶とも経験ともつかぬ残像の中を、しきりに掻きまはしては、それに似た少年の姿を現在この台北の交際仲間の子弟のあひだに求めようとしたらしいが、これはもともと無理な註文だつた。母はたづねあぐねた末に、曲りなりにもどうにか条件にかなふらしく思はれる男の子を探ね当てた。それは瀬川といふ材木問屋の息子で、少年と同じ学校の五年生であつた。母は瀬川の母親とは、婦人会のつきあひか何かで識り合つたらしかつた。材木問屋といふことは、母は一応二の足を踏んだに相違ないが、生まれが同じ東京だといふことから来る親近感は、うるさい植民地の官吏婦人どうしの交際がそろそろ癇にさはりだしてゐた母にとつて、ほとんど圧倒的な誘惑でもあつただらう。のみならず瀬川の息子は、東京の頃の少年の親しい学友たちに共通する美貌と柔弱さと気立ての優しさとを、ある程度まで一身に兼ねそなへてゐた。ついでに蒲柳の質をまで兼備してゐたのであるが、それもまづ一種の気品と見れば見られる資質であつた。その上に瀬川の家の家風ともいふべきものは、暫くのつきあひののち少年にさへ見抜くことができたやうに、東京の山の手の家庭の鼻もちならぬ模倣の気味が濃厚だつたのであるが、これも母の心境としては、目がくらんで見えないか、それとも我慢して目をつぶつたか、そのいづれかであるに違ひなかつた。
 母の献身的な努力が効を奏して、少年は瀬川と友達になつた。少年は学校の帰りなどに、ちよいちよい瀬川の家に遊びにゆくやうになつた。材木問屋といふことだが、瀬川の家には不思議なほど、商人の家のしるしは片影すらなかつた。少年の家のある△△門街の大通りを、真直ぐ北へ行くと、途中に学校へまがる道があるが、それをなほ真直ぐ北へ同じ位の道のりを歩くと、間もなくおそろしく背の高い竹材置場が見えてくる。瀬川の家は、その竹材置場の横を左へ切れた水田地帯の突端にあるので、最初のうちは材木問屋といふ商売柄その竹材までが瀬川の家のものかと思つたほどだつた。
 少年が二度目に瀬川の家へ遊びに行つたとき、その母親といふのが顔を出した。どういふつもりだか茶色のレンズの金ぶち眼鏡をかけた、小柄な厚化粧の婦人であつた。藤色の着物に、黒い羽織をひつかけてゐる。分厚な膝をきちんと揃へて端坐たんざしたまま、切口上でものの十分ほど少年と応対したのち、ではごゆるりと、と引つこんで行つた。
 入れちがひに、瀬川の姉といふのが、茶菓子の盆をもつてはいつて来た。安子といふ名前で、やはり同じ学校の弟よりも一級上の六年生である。すらりと丈の伸びた少女で、もし並んでみたら、弟より一寸は高からうと思はれた。瀬川は痩形の、色の浅黒い無口な子だつたが、この姉は、色の抜け出るやうに白い、大きな眼のくりくりよく動く、にぎやかな丸顔をした少女であつた。
 安子は水彩画が得意だつた。さう聞けば少年も、時たま雨天体操場の板壁にずらりと掛け並べられる絵の成績品の優秀作のなかに、一きは際だつた水彩画を幾枚か見た記憶はあるし、その下に、これはあとで描き足した想像であるかも知れないが、六女竹組、瀬川安子と記してあつたやうな気もするのである。いづれにせよそんなわけで、少年は瀬川の家へ遊びにゆく度数が重なるにつれて、瀬川と一緒に、その姉安子の水彩画の弟子入りをしたやうな形になつてしまつた。
 もちろん、いくら大柄だといつても、安子はまだまだ子供である。そんな絵とか水彩とかいふむづかしいことよりも、絵合せだのトランプだのの方が、結構おもしろい年齢であつた。金ぶち眼鏡の[#「眼鏡の」は底本では「眼境の」]母親は、その後たえて姿を見せなかつたが、それをいい幸ひに、瀬川の姉弟と少年の三人は、ときによると時刻の移るのを忘れて、一段高くなつた瀬川の家の離れの十畳間で、子供らしい様々な遊びに吾を忘れることが多かつた。
 そんな或る日のこと、ふと気がついてみると、床の間の置時計はすでに六時を廻つてゐた。少年は、あわてて席を立つた。姉弟は竹材置場の角のところまで、少年を見送つて来てくれたが、あとは△△門街を南へまつすぐに下りる、幅二十間ほどもある人気のない大道があるばかりであつた。正月もとうに過ぎた今日、けたたましい爆竹の音も聞えなかつた。少年はとぼとぼと、その広い大街を南へ歩いて行つた。
 その時の光景は、なぜだか知らないが、少年の記憶に終生ぬぐひ去ることのできない不思議な印象をとどめてゐる。季節はたしか二月であつた。日はいつのまにか沈んで、あたりは蒼茫そうぼうとして暮れようとしてゐた。その中を、少年はほとんど小走りにならんばかりに心せはしく歩いた。しかし足は、いそげばいそぐほど、ますますもつれて、のろくなるやうに思はれた。……
 落日の光を受けて、謎めいた色合を刻々に築いたり崩したりしてゐた行手の雲も、たうとう薄鼠の空のなかに消えてしまつた。さうして完全にあたりは日暮の景色になつた。その頃になつて少年は、やつとわが家へ曲る横町の角までたどりついた。
 そこには母が、にはかに面やつれしたやうな気色で、白い顔を薄暗に沈ませて立つてゐた。少年はその母のうしろに隠れるやうにして家に入つた。
 その頃すでに、祖母は老衰のため、よほどの重態に陥つてゐたらしい。家の中にたちこめた憂色ともいふべきものを、少年は無言のうちに嗅ぎつけてゐた。何かしら怖るべきもの、いやもつと正直に云へば「忌はしいもの」の近まりが、神経のはしばしにまで感じられた。そんな予感にたいする少年の反撥は、本能的といふよりも生理的だつた。彼は隠居部屋へ招かれることがなくなり、そのうへ、庭や縁側で遊ぶことも禁じられた。それを幸ひ、少年は学校や戸外ですごす時間を、できるだけ延長した。
 河合を餓鬼大将とする近所の子供たちとの附き合ひは、あの火傷事件このかたぱつたり絶えた形になり、瀬川の家の奥座敷における静かな遊戯が一応それに取つて代つたのではあつたが、実をいふと少年の興味の中心は、もはやそこにもなかつた。万花鏡カレイドスコオプの色彩が、うす紫いろの主調からいきなり鶸萌葱ひわもえぎのそれへ一転したかのやうに、少年の学校生活は、新たな照明のもとに忽然として未知の領域を、少年の眼界にうかびあがらせた。それは、瀬川安子の登場を契機として出現した。色彩と音響との眩暈げんうん感にみちた不思議な一世界であつた。それまでは、好人物の一人の教師によつて統べられた小さな教室と、それを雑然とみたしてゐる愚鈍な同年輩の男の子たちと、退屈な学課と、ほそぼそとした虚栄心の満足と、それにもう一つ、身の毛のよだつほどの劣等感と孤独感とを彼に強ひるあの旗とり遊戯とおよそそれだけから成り立つてゐた少年の学校生活に、思ひもかけない別の一面、つまり女生徒たちの世界が、異様なざわめきとともに侵入して来たのである。
 一時間の終りから次の時間の始まりまで、眠たさうな鐘の音とのあひだに挟まれた十五分ほどの休み時間は、それまで少年にとつて傍観と逃避の無意味な空白にすぎなかつた。ましてや一週に三回ほどある、課業が午後につづくやうな日は、長い昼休みが少年にとつて、苦痛といふよりむしろ拷問であつた。さういふ時の少年の逃避所は、運動場の片隅にある小つぽけな砂場であつた。そこで彼は、ひとりで砂を盛つたり崩したりして時を殺すのである。
 それが今、眼がひらいてみれば、何といふ広い未知の世界がそこにはあつたことだらう! それまでは灰色の沙漠にひとしかつた運動場は、いまや少年にとつて音と色との饗宴きょうえんの場と化した。彼はみづから進んで同級生の仲間にまぎれこんで、運動場を駈けまはるやうになつた。但し駈けまはるとは云つても、必ずしも級友たちの遊戯の忠実な仲間だつたといふ意味ではない。彼の意識は痛いほど緊張して、瀬川安子を中心とする一団の女生徒たちのあとを追つてゐた。彼女たちは休み時間には、白い大きなゴム毬をついて遊ぶのが常だつた。それがいつもきまつて、運動場のやや西寄りの、つまり彼女たちの教室に近い一角だつたのである。少年たち五年生の教室はほとんどその反対側にあつて、やはり自分の教室の前にかたまつて遊ぶ習性があつた。しかし幸ひなことに、遊びが高潮してくると、女生も男生もだんだんその輪から撥ね出してくる。渦紋の伸び縮みが次第に活溌になつて、つひに男生たちはその運動圏をやぶつて、大海を周游する魚群のやうに、不規則な大きな曲線をゑがきながら、運動場のなかを自在に駈け廻りはじめる。少年はその瞬間を見澄まして、自分もいち早く周游運動にもぐりこむのであつた。
 いつも紫がかつた着物をきて、明るい臙脂えんじ色の袴をはいた瀬川安子の大柄な姿は、遠くなつたり近くなつたりしながら、絶えず少年の視野の一隅にあつた。仲間に気どられることを恐れて、少年は決してまともに彼女を見ようとしなかつたからである。時たま彼らの周回曲線が、猛烈な勢ひで、彼女たちの円陣の外周をこすつて過ぎることもある。さういふ時、少年はわざと顔をそむけて、その代り自分の猛烈な速度によつて彼女の認識をもぎとらうとするかのやうに、息をはずませながら駈け抜けるのであつた。ぎらぎら放射する何ものかが、少年の片側に煎りつけた。彼は幼いころ芝浦かどこかで見せられた曲馬の、燃えさかる炎の輪をくぐり抜ける騎手の一人を、自分のうちに感じるのだつた。遠い忘れられた記憶は、そんな思ひがけない一刹那にふと閃めいて、また闇へ没してゆく。……少年は知らず知らず馬上に揺られる人のやうな腰つきになりながら、心の片隅でそんなことを漠然と考へた。それもすぐ忘れた。
 ある時、やはりそのやうな疾走に移らうとする瞬間、少年の五六尺ほど前方へ、はずみのついた大きな白いゴム毯が、勢ひよく撥ね出して来たことがあつた。少年は素早く、われながら自分の狡猾さに驚いたほどの自然さで、針路を転じて、その毬を追つた。五六歩で、毬はうまく手に入つた。少年は振りかへると、網膜のどこかに早くも彼女の姿がちらつくのを感じ、狼狽した。顔が熱くなつた。わざとそのちらつく姿から外らして投げた。毬はみつともなく、女生の円陣のよほど手前に落ちて、迷つたやうに地上をころがつた。その瞬間、円陣がとつぜん音もなくパッと綻ろびて(と少年は思つた)――大きな牡丹のやうな色彩を少年の眼の前へ吐きだした。それが瀬川安子だつた。彼女は臙脂色の袴のひだを大仰に揺りこぼすと、片膝たてて跪いて、しつかりとその毬を両手に受けとめた。そして、やや上気した例の団扇形の白い顔を仰向けると、上眼づかひに少年をちらと睨んだ。彼女のよくするあの怨ずるやうな眼づかひである。それがその瞬間、いひやうのない紫色の晶光を帯びて、少年の顔を射たのである。冷笑と非難の笑ひだつた。それは素早く、豊かな二重瞼のもとに伏せられて、さも満足さうな含み笑ひに融けてしまつたが、少年はそれを見とどけるか見とどけないかのうちに、さつと反転して別の男生たちの人波にまぎれこんだ。その逃走感覚は、少年にとつて一種妖しげな快感を含んでゐた。彼は水飲み場へ駈けつけると、大げさな息ぎれの様子を装ひながら、次の授業開始の鐘が鳴るまでその場をはなれなかつた。
 日曜日になると、少年はよく瀬川姉弟に連れられて郊外へ写生に行つた。瀬川の家は城内とはいつても、大稲※[#「土へん+酲のつくり」、U+57D5、324-17]から遠くなかつたので、彼らの写生場所には淡水河の沿岸が選ばれることが多かつた。時によると、渡舟で新店渓をわたつて、河の中洲まで遠出することもあつた。それは中洲といふよりも、少年たちにとつては大きな島だつた。一面の砂丘のうねりの所どころに、丈の高いあしの繁みがあつて、そのかげで雲雀ひばりが、何か含み声でしきりに啼いてゐた。少年は自分では描くことも忘れて、瀬川姉弟の膝にひろげられた写生帖を、寝そべりながら眺めてゐる方が多かつた。姉娘は、大きくつばの張りだした紅い麦藁帽子をかぶつてゐた。春とはいつても、照りつける日ざしは内地の夏ぐらゐのことはある。その日ざしが、麦藁帽子の編目をとほして、彼女の顔のうへに細かいさざなみを立ててゐた。それが、ひどく生真面目な表情をして水彩の筆をはこんでゐる彼女の顔を一そう神秘めかして、なにか近寄りがたい印象を与へるのだつた。
 写生の場所を変へるとき、あるひは帰るとき、彼らはこつそり砂糖黍さとうきびを折つて、その竹のやうに堅い茎をかじりながら、のどの渇きをいやした。そんな時いちばん役に立つのは、瀬川安子の大型なジャック・ナイフで、彼女はそれを青いリボンで袴の紐にむすびつけてゐた。それは少年たちにとつて、さながら女王の権標のやうに不思議な権威あるものに見えた。彼女はそのナイフで、砂糖黍の茎を、しやぶりいい長さに切つて、少年たちに分けてくれた。そして真先に自分が、きれいな歯並びを見せながら横ぐはへに噛みしだきはじめるのであつた。
 時をり彼女は、丈の高い葭のしげみや砂糖黍の畑にひよいと隠れて、はげしい水音を立てはじめることがあつた。少年はその音でハッと気づいて、何かしらぎごちなく顔を青空へ向けながら、済むまでじつと道ばたで待つてゐた。すると彼には、遠い幼いころの記憶がありありと蘇つてくるのだつた。場所はどこだか知らない。ある広い庭の植込みのかげである。彼にはその頃、隣家の三つ四つ年上の令嬢が、唯一の遊び友達だつた。やはり大きな眼をした、色の白い大柄な子供だつた。その子によつて、彼はしばしばそのやうな場面を目撃した。いや、目撃したといふよりは注視した。たうとう疑問に堪へられなくなつて、なんにもない所から水が出る、と母に言ひつけた。あまりの不思議さに、ひよつとすると何かお化けみたいな子なのではあるまいかと、幼い彼は不安だつたのである。母はさもをかしさうに笑つた。祖母も声をあはせて笑つた。そして少年のこの観察を、やがて彼のゐる前で令嬢の母親にまで披露した。太つたその母親も、ころころと特徴のある声で笑つた。……
 少年の観察に、その後どれほどの進歩があつたか、その点は疑はしい、しかし、あしのしげみにひよいと隠れた紅い麦藁帽子と、間もなく聞えてくるはげしい水音とは、すでに少年には奇蹟として印象されなかつたことだけは事実である。微風がわたつて、葭や黍がさやさやと鳴つてゐた。それは風音といふよりは、一そう触感に近い或る存在であつた。それに囲まれて烈しく、やや長くつづく水音は、今では少年の心に、さながら「女王の営み」とでもいつた犯しがたい神聖感をもつてひびいた。青空へ顔をそむけて佇んでゐる少年の心には、女王の秘密を守護する騎士のやうな誇りさへ、なかつたとは言ひ切れない。
 河合など男の子たちの悪戯によつては目覚まされなかつた少年の性は、瀬川安子の出現によつて、やうやく自然の目覚めを迎へようとしてゐたのだ。

 進級期がきた。少年は当然のやうな顔で級の総代にえらばれ、校庭のはづれにずらりと並んだ棟割長屋の一つである受持教師の家へ行つて、進級式での作法や進退を教へられた。教師は茶つぽい和服を着て出てきて、少年を狭い玄関の土間に立たせて練習をさせた。
「それから三歩すすんで礼をして」と、教師が言つた。
 三歩すすむと、あがりかまちに中腰になつてゐる教師との間は、もう何寸もなかつた。礼をすると、少年の頭はいやでも、教師の着物の膝がしらにつかへた。少年は教師の体臭をかいだ。煙草のやにと、もう一つ、何かいひやうのないじめじめした臭ひがした。少年はそれを絶えず石鹸の香りをぷんぷんさせてゐる、おしやれな父親のにほひに思ひくらべた。そして、きつとこの先生は不仕合せなのだ、と思つた。同情と一しよに、不快さがこみあげてきた。相手にたいする不快さではない。同情といふ心理にたいする先天的な不快さであつた。
 とつつきの(と云つても、その先はもう縁側なのだが)六畳ほどの部屋では、先生の奥さんが、夕食の膳をととのへてゐた。そこからは、やはり湿つぽい、焼魚の臭ひがした。少年は次第に胸がむかついてきた。あれやこれやの不快感を、進級式の作法の練習といふ緊張と厳粛げんしゅくの表情の下にかくすことは、さほど難かしいことではなかつた。少年はそれに成功し、教師も満足して、やがて少年を解放した。
 少年が帰らうとすると、小柄な奥さんがちよこちよこ出て来て、着物の裾を少しはだけながら、しやがんで、
「御苦労さま。はい、これは御褒美」といつて、小さな紙包みをくれた。少年は厭な気がして、蒼白い顔を赤らめた。
 校門を出て、人家のまだまばらな辺りで、少年はそつと、その半紙の包みをあけてみた。何かカサカサした、豆ねぢのやうなお菓子だつた。少年は包みを元通りにすると、道ばたの溝にわたした板の下へ、かくすやうに棄てた。
 修業式の五日ほど前に、祖母が息をひきとつた。持病はなかつたから、つまり老衰死である。その死顔も、また死そのものとの接触感も、ともに少年の意識にのぼらなかつた。父がおいおい手ばなしで、まるで子供のやうに泣きながら家の中をうろうろしてゐるのを、少年は何か不思議な観物を見るやうに眺めた。お別れに、割箸の先へつけたガーゼで[#「ガーゼで」は底本では「カーゼで」]祖母の口を拭かされた時にも、土色に窄まつて開いてゐる老女のしなびきつた唇は、みにくいと感じただけに過ぎない。もう一つ、そんな醜いものを半公開の儀式にまで仕立てる大人たちの愚かさに、へんな軽蔑の情をおぼえただけにすぎない。少年はむしろ祖母に同情した。彼女の死への同情ではなかつたけれど。
 そんな少年にとつて、もし何か死の実感に似たものがあつたとすれば、それは祖母の死ぬ日の朝から(臨終は夕方だつた)、近所の大きな黒犬が庭へまぎれこんで来て、前脚を縁側にかけながら、しきりに遠吠えをしたことである。いくら追はれても水をぶつかけられても、犬は出て行かなかつた。ますます牙を剥きだして吠えさかつた。少年は、いよいよ祖母が息を引きとつたあとで、あの犬が見てゐた何か人間の目には見えぬものが、つまり死なのだと思つた。
 葬列も葬式も、あらゆる大人たちのする儀礼の例にもれず、長たらしく退屈な、無意味な行事の連続にすぎなかつた。少年は南国の春の砂ぼこりの中に、小さな紋附羽織を着せられて、みじめな曝し物にされてゐる自分だけを意識してゐた。腹だたしく、口惜しかつた。
 少年は、あの吠えさかる犬が目に見てゐたものが死なのだと、漠然と感じてはゐたけれど、これには勿論、想像のへだてとでも言ふべき一皮かぶつた気持があつた。少年が祖母の死を、はつきり現実として受けとつたのは、いよいよ修業式が済んで、小さな免状と大きな優等証書の二枚を筒巻きにして、ぼんやり家に帰つて来たあとである。父は役所だつた。家には母だけがゐて、その筒巻きを手にすると、ちよつと拡げてみて、「さう」と、にこりともせず、呟くやうに言つた。そして、また巻いて、父の机の上に置いた。
 少年は勿論、ほめられようと思つて帰つて来たわけではない。第いち少年自身にしてからが、その日のことをさつぱり嬉しいとも誇らしいとも思つてはゐない。勝気で、無口で、そのくせ胸の奥に何か少年には窺ひ知ることのできない情愛や智恵を、じつと包みこんでゐるやうな母の性格も、少年には分りすぎるぐらゐ分つてゐる。さういふ母を、少年はたしかに心のどこかで愛してはゐるのだが、その一方やはりその母に、一種の嫌悪と反撥を、たえず感じずにはゐられなかつた。自分自身の影に、無限に愛情を感じる人もあれば、無限の嫌悪をいだく人もある。その中間の人は極めて珍らしい。少年は明らかに後者の型だつた。少年は母のなかに、自分の影を嗅ぎつけてゐたのである。……そんな母から少年は「さう」といふ呟きのあとに「よかつたね」といふ言葉が添はることを、最初から予期してゐたわけではない。しかしその日だけは、何か無性に、それに類する慰めの一言が欲しかつた。少年は疲れてゐたのかも知れない。死や葬式や修業式が、たてつづけに続いたのである。少年は甘えたかつた。ほんの少し。ただ、ほんの少し。……
 少年は自分の勉強机の前へ行つて、ゆつくり袴の紐をときながら、ふと祖母のゐない空虚さを、焼けつくやうに頭の一隅に感じた。祖母ならば、「よかつたのう」と言つてくれるばかりか、痩せ細つたカサカサの手で、頭を撫でたり、何かその辺をごそごそいはせて、褒美を出してくれ、撫でられたり、褒美をもらつて嬉しさうな顔をつくろふのは、少年にとつて迷惑なことだつたが、それをしてくれる人は、五日ほど前から、突然ゐなくなつたのだ。あの隠居部屋には、たしかに誰もゐないのだ。……この不在の感覚が、痛いほど少年をしめつけた。
 さうした少年の心の動きは、祖母への追慕などといふものとは、およそ縁のない、裏はらなものに違ひなかつた。そこには一種の罪障感ざいしょうかんと自責の念が、黒々とよどんでゐた。祖母は、……あんなにも自分が甘えぬき同時にまた避けぬいた祖母は、自分から何の感謝のしるしも受けとらずに、黙つて死んで行つたのだ。この取り返しのつかないものが、つまり「死」といふものなのだ。
 少年は、この空虚感と、自分への怒りとに、どうにも堪へられなくなつて、縁側に寝そべつたまま、ふと口に出してみた。
「お母さん……お祖母さんは?」
「え?」
 座敷の暗いところで、何か片づけ物をしてゐた母は、怪訝さうに少年を見た。そして、哀れむやうにじつと見つめた眼を、またよそへそらした。
 少年はその瞬間、しまつた、と思つた。ちらりと目にうつつた母の眼のうるみのなかに、少年は明らかな誤解の影をとらへたのである。
「ううん、さうぢやないの……」と、少年は打ち消さうとして、言葉につまつた。
「何が?」
 母は小声で聞き返して、また哀れむやうに少年を見た。

 まもなく少年は、喉を腫らして高い熱を出した。腺病質せんびょうしつな少年の常として、何かといへば扁桃腺が、唾を呑みこむにも差支へるほど、腫れあがるのである。
「ちやうど新学期の初めだ。思ひきつて切つてしまふか」と父が、からかふやうに肩を揺すりながら言つた。
「ええ……」母も、そばで相槌を打ちながら、ちよつと笑つて少年の顔を見た。
 そんな会話を、少年はそれまでもう何べんも耳にしてゐた。その都度、どうしても厭だと強情を張りつづけてきた。父も、虚弱な神経質な少年に手術は無理と考へたらしく、「もう少し大きくなるまで」と、一年のばしに延ばして来たのである。
 その翌日、父は熱のある少年を俥に乗せて、病院へ連れて行つた。少年は、高熱と空虚感とでぐつたりして、今度はあまり強情を張らなかつた。自分を痛めつけてみること、――それに、微かな好奇心と希望のやうなものが、なかつたとは言ひ切れない。
 台北医院――(台湾人が病院といふ字を嫌ふので、中央病院にまでこんな名がついてゐる)は、広い並木道をへだてて総督府と相対してゐる宏壮な病院だつた。その宏壮さや内部の設備の立派さが、少年の不安をだいぶ静めるとともに、虚栄心を甘くくすぐつた。もし連れて行かれた先が、ふつうの町医者などだつたら、恐らく少年は地団太ふんで駄々をこねて、父の計画をみごと水泡に帰させたことだらう。
 待合室で待つてゐるあひだ、父は、
「どうだ、立派な病院だらう」と、自慢さうに言ひ、ここの設備は東京一の病院にも負けないくらゐ整つてゐる、それに扁桃腺の手術も近頃ではよほど進んでゐるし、今日の先生はその方の専門の人だから、あつといふ間に取れてしまふ、痛くもないし血も出ないのだ……などと、例の一人で面白がつてゐるやうな調子で、大きな声で話してきかせた。少年はその、痛さとか血とかいふ言葉を、上の空で耳の端に聞きながら、甘いおびえ心地とでもいつた感覚に身をひたしてゐた。頭痛がずきんずきんしてゐた。
 手術室は、病院の本館からかなり離れて、奥庭めいた場所にあつたやうな気がする。いちど庭へおりて、煉瓦敷きの渡り廊下をわたり、それから同じ煉瓦を敷いた柱廊へあがる。柱廊が尽きて、また庭におりる。それから次の柱廊へあがる。どの柱廊も、柱と柱とのあひだはサラセン風のアーチになつてゐて、亞字欄あじらんが片側につらなつてゐる。そして、変に青つぽく陰つてゐる。庭の面が、うつさうたる熱帯植物の叢だちで、そのさかんな触手は、亞字欄を越えて、なみのやうに蔽ひかぶさつてゐたからである。少年は父に手を引かれて歩きながら、熱つぽい耳鳴りの底で、だんだん自分を、海の奥の国へ連れられてゆく王子のやうに幻覚しだしてゐた。
(何年か経つて、やや長じた少年が、はじめてアルハンブラ物語を読んだり、アラビアン・ナイトの挿絵本を手にしたりした時、彼の想像が著るしく、その柱廊の印象によつて補はれ強められたことは疑ひがない。したがつて右に記した記憶も、それらの物語の発散する妖気によつて、逆に少なからぬ干渉を受けてゐないものでもない。現に、その柱廊の床は単なる赤煉瓦ではなしに、陶製のモザイクだつたやうな気さへするほどである。真と偽の境目は、もはや容易に見分けることはできない。)
 やがて少年は、おそろしく天井の高い、やはり青つぽい光にみちた広間の中央に乗せられてゐる自分に気がついた。床ははるか下へ遠のいてゐた。眼の斜め下には、リノリウム張りの脚の高い台があつて、ピンセット、ランセット、メス、注射器、※(「金+皎のつくり」、第3水準1-93-13)鉗鋏、それに普通の形をした鋏など――少年の眼にはほとんど無数としか思はれないさまざまの手術道具が、むつちりと柔らかさうな看護婦の指さきで、ガーゼのくるみが次々に解かれて、隙間もなく並べられてゆく。少年は、ぼんやりそれを眺めてゐる。ひと事のやうに思ひこまうと、努力してゐる。事実、少年には、もはや、恐怖感はなかつた。それに代つて、一そう切実な危懼きくと不安とがあつた。危懼は、若い医者がひよつとして何か失策をしはしないかといふことである。少年は父の言葉からして、美しい白い口髭をたくはへた、丸顔の老医者を想像してゐたのだ。不安は、自分自身の運命への不信である。彼は自分の体質やからだの構造に、なにか普通の医書には出てこない特殊なものがあつて、それがこの手術を、とんでもない難関へ乗りあげさせはしないかと、本気でそれを心配したのだ。どつちかといふと、あとの不安の方が強かつた。それは羞恥感を伴なつてゐた。
 長い準備の期間が終つて(ほんとは短かかつたのかも知れないが――)少年の頭は、柔らかいしかも力強い両手で、しつかり枕へおさせ着けられた。さつきの肥つた看護婦の手だらう。両手もがつしりと抑へつけられた。
「なあに大丈夫。すぐ済む、すぐ済む」と、父の声が陽気に耳もとでした。
 少年は眼をつぶつた。開いてゐても涙で一ぱいで、何も見えないのである。口をあけさせられた。脱脂綿がさしこまれる。医者がぐいと膝がしらを、手術椅子の台へ突いた。何か冷やりとするもので、舌がおさへられた。何か薬を塗つてゐる。ちよつとそこで手間どつて――少年の胸には、またしてもあの危懼と不安が、頭をもたげる。「やつぱりさうだつたのだ。……」――やがて例の腫物に、ぐいと金属の輪がはまつた。少年は、「ああ、あれだ」と思ふ。さつき見た※(「金+皎のつくり」、第3水準1-93-13)鉗鋏の形が、まざまざと思ひ浮べられたのである。それは内側に刃のついた輪が二つ重なり合つてゐる。その輪に通しておいて、上の輪だけすべらせるのだ。うまく滑つてくれるかしらと思ふ。そこへ鋭い痛みが来た。やつたのだ。少年は大声で喚いたはずだが、次の瞬間には舌の根のところに、何か生温いころころしたものが、ぶらさがつてゐるのを意識した。ぶらさがつたまま、筋がまだ切れずにゐるのだ。医者が口早に何か叫んだ。動揺の気配を、少年は顔の皮膚ではつきり感じた。無性に腹だたしかつた。手ばやく、また何かが挿しこまれ、するどい痛みが二つ続いた。ぷつりと切れた。鋏でやつたな、と思ふ。
 少年は上体を起され、口を嗽がせられた。吐きだすごとに、受け皿の血膿のやうな液体は、だんだん薄くなつて行つた。喉が変にいがらつぽかつたけれど、かすかな鈍痛が残つてゐるだけだつた。
「偉かつた、偉かつた」と父は言つた。
「うん」――少年は拗ねたやうに眼をそらした。
 医者が父と挨拶をかはして出て行くと、入れ違ひに若い看護婦が、
「ほら坊ちやん、こんなに大きいの」と言ひながら、両手で膿盆を少年の眼の前へさしつけた。膿盆の中には、まさしく桃の核ほどの真紅なかたまりが、ちよこんと一つ載つてゐた。白いかすかな筋が、網目になつて浮いてゐる。こくんとうなづいて、じつとそれを眺めた。美しいと思つた。妙に惜しいやうな気がした。と同時に、誇らしい気持もした。惜しいと思つたのは、度々のいやな発熱の因になつたとはいへ、とにかく自分の肉体の一部が切りとられたからである。誇らしいと思つたのは、なぜだか自分でも分らなかつた。苦難に堪へとほしたヒロイズムの満足、――それでなかつたことだけは、とにかく確かである。
 時どきうがひをしながら、しばらく手術椅子の上で安静にしてゐた。
 少年の眼の前には、廊下の亞子欄あじらんごしに、椰子や蘇鉄や龍舌蘭りゅうぜつらんや、そのほか少年が名も知らない熱帯性の植物群が、毒々しい緑の深淵をひらいてゐた。それをじつと見つめながら、少年は故しらぬ野蛮な快感が、身うちに涌きあがつてくるのを感じた。勝利の快感のやうでもある。復讐の快感のやうでもある。罪から浄められた快感のやうでもある。過去をずばりと断ち切つた快感のやうでもある。それもまた、つい今しがた真紅な扁桃のかたまりを、捧げられた膿盆のなかに見たときに感じた、あの誇らしさの快感の延長のやうでもある。風はなく、その毒々しい緑の深淵は、しんと静まり返つて、巨大な龍のやうな口をカッとあけてゐた。
(五六年たつてから少年は、『サロメ』といふ芝居を、本でも読み、また若い女優Y・Mの演ずる夜の野外劇で見もした。そして、銀盆に盛られた長い髪を垂れたヨカナアンの首を前にして、舞ひ狂ふサロメの姿を見たとき、記憶の底からひとりでに浮びあがつて来たのは、例の膿盆にのつかつた真紅の扁桃腺であつた。この思ひがけない聯想は、彼にとつて実に意外だつたが、同時にまた、当時の少年が漠然と感じながら、終に解くことのできないままで忘れてゐたあの不思議な誇らしい快感の因について、ある暗示が与へられたやうな気がした。といふのは、あのとき膿盆をささげて示した若い看護婦の顔だちだか容姿だか、あるひはむつちりした手の感触だかの何処かに、かすかに瀬川安子に通ふ或る感じのあつたことが、彼には一瞬間ひらめくやうに思ひだされたからである。たしかにあの時、少年はその看護婦に、ある好意を感じてゐたのだ。しかしそれは、瀬川安子への聯想だと意識されるひまもない咄嗟のうちに、糸は切れ、快感だけが中ぶらりに残つたものと見える。その永久に切れてしまつたかと思はれる聯想の糸が、数年をへだてて、どこからか微妙な鎔接作用がはたらいて、つなぎ合はさつたのである。)

 新しい学年が始まつて間もなく、少年一家はそれまでのじめじめと暗い家を出て、大稲※[#「土へん+酲のつくり」、U+57D5、335-15]のまだ水田だらけの中に建てられた新しい官舎らしい家に移つた。ぴつたりと隣合せに、同じ形の家が二軒たつてゐるうちの一つで、庭もかなり広く、何よりも間取りがひろびろして明るいのが嬉しかつた。
 庭をへだてて、一段高く大家の屋敷があり、そこに同じ小学校のこんど五年生になつた男の子がゐた。母の依頼で、初めの二三日はその子が、登校の道を共にしてくれた。こんどの家は今までの家とは学校をはさんで反対の方角にあつて、距離も少し遠くなつてゐた。それに、街路を通つて行くと、だいぶ遠廻りになる。大家の子は、道のいい時はここを通ると便利だといつて、水田のなかの小さな道を教へてくれた。それだと学校までの道のりは、あまり今までとは変らなかつた。
 その子は、妙にむつつりした気むづかし屋だつたし、級も違ふので、あまり親しみは出なかつた。しぜん少年は、往復とも一人で歩くやうになつた。春の名残りの大雨が降つた翌る日のことである。少年は校門を出ると、ふと近道をする気になつた。当番でおそくなつたせゐもあつた。やがて水田へかかると、はじめのうちは大した泥濘でいねいでもなかつたが、中途からだんだんぬかりだして、しまひには水がかむつて道の見えぬところさへ出てきた。少年は後悔した。が今から引返すのでは、ますます暮がせまつてくる。少年は意を決して、袴をたくしあげ、はだしになつて、じやぶじやぶ歩きだした。心細かつた。やつと道が高くなりだして、少年は水の難をのがれた。かがみこんで下駄をはかうとした。そして、ふと水田へ目をやつたとき、彼はそこに異様なものを見いだした。最初は、電柱でも倒れてゐるのかと思つたほどである。それほど大きな蛇だつた。それが鉛色の皮膚をにぶく光らせながら、胴体を心もちくねらせて、静かに横たはつてゐた。少年は腰のへんがジーンとしびれて、そのまま動けなくなつた。
 大蛇は、頭を水中に没してゐた。尾の方は、すぐ眼の下の草むらにかくれてゐる。胴の中ほどに、およそ一尺ばかり、まるで繃帯でも巻いたやうに、白つぽく色の変つてゐるところがある。そこが少し裂けてゐて、青黒い膿のやうなものが出てゐる。それが一層、不気味さを増してゐた。
 少年は動けなかつた。大蛇も動かなかつた。蛇がちよつとでも動いたら、少年は夢中で駈けだしただらう。向うが動かないから、少年も釘づけになつてゐる。だんだん、どうも死んでゐるやうな確信が増して来た。少年は決心して、眼を蛇の方へ向けたまま、後ずさりに家の方へ進みはじめた。五六歩すると、ずぶりと片足を、反対側の水田の中へ踏みこんだ。方角が狂つたのである。少年が足を抜かうとして振り向くと、そこにもやはり、やや細目らしかつたが、同じものが同じ恰好で横たはつてゐた。少年はギャッと叫んで、あとは無我夢中で家に帰つた。
 母は、下駄を両方ともなくして、半死半生のていで帰つて来た少年を見ておどろいた。その夜、少年は熱を出した。その夢のなかに、あれは夫婦の大蛇だつたんだ――そんな想念だか主題だかが、入れかはり立ちかはり現はれた。
 が、しかし、こんなのは異例なことで、新しい家の生活は少年にとつて、ずつと今までより健康でもあれば、明るいものであつた。一つには、やうやく雨季が去つて、暑気がぐんと加はるとともに、快い晴天がつづきだしたせゐもある。台湾の雨季は、とりわけ北部では、秋から冬一ぱいであつた。それにもう一つは、この方が主な原因かも知れないが、扁桃腺をとつたおかげで、熱を出したり、うなされたりすることが、目に見えて減つたことだ。大蛇にうなされたのは例外である。
 新しい家には、気味のわるい大蜘蛛も家守やもりもゐなかつた。その代り、近くに水田や竹藪が多いせゐで、じつに蚊が多かつた。たしか引越したその日、母は風呂場の板戸をあけてみて、声を立てて驚いた。母のそばから覗きこんだ少年も、びつくりして目をみはつた。三畳敷ほどのその風呂場の空間には、わーんといふ太い唸りが、一本になつて立ち昇つてゐる。蚊いぶしが用意され、美代といふ女中がそれを持つて土間へ下りようとしたが、ぎつしり詰つた蚊の密度は、小柄な彼女ですら、果して押し分けて入れるものかどうか、まづそれが危ぶまれるほどだつた。美代は勇敢に押してはいつた。もう一度、さらにもう一度。そしてあがつて来た彼女の顔や脛には、はやくも幾ヶ所づつ刺された痕があつた。
 美代は赤く透いたきれいな皮膚をした、敏捷びんしょうな小柄な娘だつた。きびきびとよく働いた。不思議に少年は彼女の名をおぼえてゐるが、それは彼女を通じて、次のやうな情景に接したためかも知れない。
 ある日、少年が外から帰つてくると、台所の土間に、魚をかつぐたらいが置いてあつて、美代と台湾人の若い魚屋とが、それを中にしやがんでゐた。土間といつても、差掛の下だから明るい。少年は近づいていつて、魚屋のわきにしゃがみ[#「しゃがみ」はママ]、やはり盥の中をのぞきこんだ。魚はまだ生きて、泳いだり跳ねたりしてゐる。美代がその一尾をさして、これは幾ら、と聞く。魚屋はこれこれ宜しいと、訛りのある日本語で答へる。ニイ(汝)高い高い、と美代がまぜつ返す。幾ら宜しいか、と魚屋がにやにやして聞く。例によつて例のごとき、掛け値と値ぎり倒しの悠暢ゆうちょうな対話である。そのうちに少年はふと、魚屋が何か答へては、そのたびに顔をわざとらしく伏せて、上眼づかひに盥の中を覗きこむのに気がついた。その視線を反射的にたどつて、少年は奇妙なものを発見した。浅い盥の向うに、美代の前面がぴんと張りひろげられ、そこに小鳥が一羽、点々と白いまだらのある黒い羽なみを立ててゐるのだつた。じつと汗ばむやうな、並々ならぬ一種の精気がただよつて見える。少年は、ごくりと唾をのんだ。魚屋がまた覗きこむ。気弱さうなその横顔に、ふと狡い薄笑ひがうかんで消える。美代は気づかない。少年はまた彼の真似をしかけて、いきなり血の気が頭にのぼるのを感じた。ゐたたまれなくなつて、家へ駈けこんだ。
 印象はかなり強烈であつた。それはしばらく少年からはなれなかつた。すでに少年は、窃視せっし本能の目ざめがあつたことは疑ひない。それはもはや、あの幼ないころ田舎の都市で、隣家の令嬢の何もないところから水の出るのに驚いた経験とは、本質的にちがふ別の経験であつた。しかし、だからといつて、少年の受けた一種ショックに似た印象が、その窃視本能の満足にだけ根ざすものと取るのは、だいぶ片手落のやうである。事実、少年の印象のなかには、明かに不愉快な、嫌悪と云つてもいいほどの影があつて、それを自分ではつきり意識してゐた。あのえたいの知れぬ白い斑ら、それに何かしら、異常なものを感じる程度には、当時の彼にも予備知識が冥々のうちに養はれてゐたに相違はないが、不快は必ずしもそれだけのために唆られたわけではない。もつと深く根を張つた嫌悪感だつた。
 それを少年は、ひそかに反芻した。例の癖である。反芻してゐるうちに、あの台湾人の若い魚屋の横顔にうかんだ薄笑ひが、ますますはつきり思ひだされて来た。それは確かに卑しい笑ひにちがひなかつた。窃視者に特有の、熱心な、同時にだらけた表情にも相違なかつた。だが、それだけではない。あの笑顔のなかには、何かしら敬虔なものの閃きがあつた。いはば、ひたむきな崇拝から発するあれである。と同時にまた、胸のむかつくやうな、あくどい冷笑があつた。なかでも少年を一ばん苦しめたものは、この最後の冷笑であつた。彼はその冷笑を、自分自身の上にも感じて、それがやり切れなかつたのである。
 少年は去年の暮まぢか、板塀ごしに焼け銅線をつかまされた時のことを、まざまざと思ひ合はせた。あのとき感じた奇妙な罪障感ざいしょうかんを、あらためて心に呼びおこした。それがあの時、怒りや怨恨の代りに、少年の心を占めてゐたのだ。なぜだらう、少年はそれを疑つた。その謎が、いま全然ちがつた形でかさねて解決を少年の心に迫るやうに見えた。
 それを、被征服者が征服者の隙に乗じてひそかに漏らす冷笑――いはば復讐の冷笑と思ひ当るまでには、少年にはまだまだ時が必要だつた。

 しかし、それも間もなく忘れた。当座のうちは、美代の存在を間ぢかに意識するたびに、何かしら恐怖に似たものを感じたけれど、それもだんだん薄れて行つた。なんといつても少年はまだまだ子供だつたのである。美代は何も知らずに、あひ変らず快活に働いてゐた。
 夏が近づいてきた。台湾人の百姓が、二人がかりで、若いバナナを戸板に山盛り積んで、のつそり門からはいつてくるやうになつた。父が在宅の時など、退屈まぎれに自分で出て行つて十銭五銭と負けさせると、彼らはしまひに面倒くさがつて、これをそつくり二円で買つてくれなどと言ひだす。それが真顔なので、そばではらはらして聞いてゐた少年までが、面白がつて笑ひだす。少年は、父親のふるまひが、どうも残酷のやうに見えて心配なのである。その父が、「やあ」と閉口したのが痛快なのである。
 おなじ理由から少年は、父が散歩に行かんかと誘つても、なかなかうんとは言はなかつた。どうせまた夜店の台湾人相手に値切つたり高声で笑つたりするに、きまつてゐるからだ。しまひに父は、おどけて、「どうぞ散歩に行つてくれんか」といふ表現を使ふやうになつた。母はそばから、可笑しさうに二人を眺めてゐる。少年がやつと承知すると、父はとても嬉しさうだつた。太いステッキを振り振り、小声で詩吟をやりながら歩いて行く。少年はああ来なければよかつたと思ふ。父のすることなすこと、一々少年には恥しいのである。父の袖のかげに身をちぢめるやうにして、とぼとぼついて行く。とても心細い。
 父が夜店で、冗談半分さんざん値ぎつたあげく買つて帰るのは、胡蝶蘭の鉢植である。ほつそりした茎を斜めに差しだして、その上にひらひらした小さな白い花を、一つかみ着けてゐる。紫色の点々のはいつたのが普通だが、父は純白一本槍だつた。やつと気に入つたのが見つかると、父は軽々とその鉢を片手の掌にのせて、やつと歩きだしながら、また詩吟をはじめる。少年は太いステッキを持たされて、またとぼとぼついてゆく。
 帰り途はどこか本屋に寄つて、絵本だの軍歌集だのを買つてくれる。絵草紙のやうな大型のもあつたが、その中では、支那の戦争の絵が妙に記憶にのこつてゐる。弁髪をなびかせた丸々した顔の兵隊が、足くびを紐でむすんだだぶだぶのズボンをはいて、青龍刀や鉄砲をふりかざして突進してゐる背景には、紅蓮の炎を吹く支那風の街なみ。武漢戦争や南京の革命があつた頃だから、そんな絵がはやつてゐたのだらう。
 やはりそんな散歩のとき、父は途中から俥をやとつて、台湾人街の何とかいふ神廟へ少年を連れて行つた。祭礼を当てこんで、胡蝶蘭の大市が開かれてゐたのである。その晩、父は珍らしく二鉢買つて、小さい方を少年に、「持てるか」と聞いて渡した。急にあたりがどよめき立つて、甲高い楽の音が湧きおこつた。銅鑼どらの連打にはじまつて、胡弓、笛、※(「金へん+拔のつくり」、第3水準1-93-6)にょうはつなどの、騒々しい合奏になる。それを先頭に、行列が繰りこんで来た。雲つくやうな謝将軍が、ゆたりゆたり揺れながら来る。戸板のやうなものに、料理や果物をぎつしり載せたのが、そのあとに続く、やがて、何か三角形をした不気味なものを大きな盆に載せた男たちが、小走りでつづく。
「あれなに?」と、少年は父にきいた。
「豚の頭さ」と父はさも面白さうに答へた。
 赤黒い闇のなかから、猛烈な香煙に包まれながら、豚の鼻面はあとからあとから現はれては消える。それが今にも、ひくひく動きだしさうに思はれ、少年は父の兵児帯を必死に引つぱつた。
 胡蝶蘭の鉢はだんだんふえて、庭の縁側はもとより、玄関の棚の上にまで、ぎつしり並ぶやうになつた。父は朝夕ひとりでその世話をして、客が来ると、しきりと自慢をした。それを少年が、かげではらはらしながら聞いてゐたことは言ふまでもない。
 よく来る客の一人に、泥鰌鬚どじょうひげを生やした紋附袴の人があつた。父の絵の先生である。父は書画もぼつぼつ買ひ集めて、「また偽物にせものをつかまされたよ」などと、よく母を相手に笑つてゐた。それが嵩じて、たうとう自分でも絵を習ひはじめたものと見える。いつ見ても、蘭ばかり描いてゐた。
 泥鰌ひげは、とてもそそつかしやで不作法で、おまけに長つ尻だつたから、来るたびに母は、かげで厭な顔をした。少年も大嫌ひだつた。あるとき彼は、少年と同い年ぐらゐの男の子を連れて来た。息子で、これも絵の修業をしてゐる。その子の腕前を、泥鰌ひげは自慢しに来たのである。少年も座敷へ呼ばれてその子の席画の見物をさせられた。なるほど器用であつた。父親が題を出すにつれて、胡瓜、なす、牡丹、竹に雀、しまひには山水までが、展べられた唐紙の上に、さらさらと描きわけられてゆく。父は舌をまいた。母もそばから相槌を打つた。少年はだんだん怒りが胸へこみあげて来た。その子の絵が下手だと思ふのではない。ただ無性に気に食はないものが、一座の空気のなかにも、その子の筆の動きのなかにも、感じられたのである。たうとう少年は、
「なんだ、そんな絵。絵なんか、ぼくだつて書けるや」と言ひ放つと、隣の間から自分の水彩画を二三枚もつて来て、毛氈もうせんのはしへ並べはじめた。台湾の小学校でこそ、十点とか九点とか評点がついて、壁に張り出されたりもするけれど、少年は自分がもともと絵の下手なことは、百も承知だつたのである。「ほほう」と、泥鰌ひげがゐざり出て来て、一枚一枚手にとつて眺めた。「なかなか上手だ。坊ちやんも。」
 少年は、嘘つけと思つた。坊つちやんも――の「も」の字もぐつと胸にこたへた。もう自棄つぱちになつて、
「まだどつさりあるさ。みんな見せてあげようか」と言つて、また隣の間へ駈けこまうとした。
 突然はげしい声で、父親が少年を呼びとめた。少年は振り返ると、その眼の前で、画用紙の一枚が、ばりばりと引き裂かれた。
「すぐお調子に乗る。……軽薄な奴だ!」
 父の米噛こめかみには、太い青筋が浮いてゐた。泥鰌ひげは、事の成行きに仰天したらしく、いそいでゐざり戻る拍子に、母が大切にしてゐた九谷の茶碗を引つくり返した。それはあつけなく、真二つに割れた。彼はますます狼狽して、粗相を平あやまりに母に詫びながら、早々に息子をせき立てて帰つて行つた。
 その時まで少年は、座敷の襖ぎはに意怙地に坐つて見てゐた。それから玄関わきの小部屋へ行つて、声を張りあげて口惜し泣きに泣いた。自分はただ、あの芸人根性が厭なのだ。それが父に分つてもらへないのが口惜しいのだ……と、しきりに自分に言ひ聞かせながら。
 父はそれきり何も言はなかつた。
 父に叱られた記憶はこれ一度きりしかないが、やはりその頃少年は母からひどく叱られたことがあつた。それは近所に住む或る若い奥さんに関したことだつた。
 瀬川安子は、新学期とともに女学校へ進んだので、もはや少年は、校庭に彼女の姿を見いだすことがなくなつてゐた。のみならず、少年の家の転居で、お互ひの家の距離は、今までの二倍近くになつてしまつた。もともと瀬川の弟の方には、あまり関心をもたなかつた少年は、だんだん瀬川の家とは疎遠になり、ほとんど遊びに行かなくなつてゐた。母も、強ひて交際をつづけさせようとはしなかつた。もちろんその後にも、安子とは二三度は顔を合はせる機会があつた。母に連れられて栄町通りへ買物に行つたり、何かの集まりで鉄道ホテルへ行つたりした時などである。しかし、女学生になつた瀬川安子の表情や声には、へんによそよそしいものが見てとられた。彼女はもはや賑やかな笑ひ声をたてず、笑ふときには袖ぐちで口をおさへすらした。物を言ひながら、肩をくねらせさへした。それがわざとらしく、滑稽だつた。きつと母親の仕込みだらうし、殊には人前のせゐもあるだらう、と少年は推測した。またあの紅い麦藁帽子をかぶつて、新店渓の中洲へ写生に行つたら、やつぱり元通りの彼女なのに違ひあるまい、とも思つた。だがその機会は、つひに来なかつた。
 その代りに――といふのも可笑しいが、少年は、妙にその奥さんに気を惹かれだしてゐた。少年の家の横手に、ちよつとした空地があつて、その一部には畠がつくられ、またごく一部は花壇になつてゐた。その空地の向うに、どこかの会社の社宅が行儀よく並んでゐて、そのとつつきの家の奥さんなのである。年は二十五六だらうか。ひよつとすると、もう二つ三つ下か、二つ三つ上かも知れない。かなり背の高いはうで、おまけに痩せてゐるから、とてもすらりとして見える。瓜ざね顔といふのか、透きとほるやうに白い細面で、それにとても細い鼻がついてゐる。あんまり鼻が細いせゐか、その人はいつも鼻をつまらせてゐるやうな感じがする。朝早く少年が、風呂場で顔を洗つてゐると、爽やかな空気の中で、その人は浴衣のすそを高々とからげて、さらしの二布の下から少し尖つて見える両の膝がしらをのぞかせながら、門のあたりを掃いてゐる姿がかならず見える。清潔な感じだつた。掃いてしまふとその人は、空地へ出て来て、しやがんだり立つたりしながら、花壇の手入れをはじめる。裾をからげた清潔な姿が、花や葉のかげに見えがくれする。社宅の庭が狭いので、奥さんは門の外に、その花壇を造つてゐるのである。
 少年はいつのまにか、休みの日の朝など、その奥さんの近くへ、何気ない顔をして寄つて行くやうになつた。奥さんの花壇のそばに、小さな苗床をこしらへて、そこへ家の庭から苗を持つて行つて植ゑたり、種子を播いたりするのである。奥さんが大輪の白い朝顔が好きだとわかると、父から分けてもらつた同じ花の鉢植を、わざわざ持つて行つて土に移したりもする。ことに夏休みになつてからは、苗床へ行つて土をいぢくるのが、毎朝の日課みたいになつた。少年は、母から何か言はれはしまいかと、内心びくびくしてゐたけれど、母は見て見ぬふりをしてゐた。庭へ出て土いぢりさへしたことのない少年が、自分で苗木などを造りはじめたのを、内々よろこんでゐたのかも知れない。
 その奥さんは、無口な人だつた。いや、それよりも、孤独の好きな人だつたかも知れない。少年の存在はなかなか認めてもらへなかつた。が、やがて、奥さんはちよいちよい少年の苗床を覗いてみるやうになつた。それも大概は、通りがかりにちよつと歩をとめて見る程度なのだが、そのたびに少年は、耳たぶが、ひとりでに熱くなるのを感じるのだつた。しかしたうとう、少年の願ひの叶へられる朝が来た。
「坊ちやんも花がお好きねえ」と、奥さんは初めて少年に話しかけた。ちよつと鼻のつまつたやうな声だが、りんとした東京弁だつた。奥さんはいつのまにか、しやがんでゐる少年の真後ろに立つてゐたのである。
「この苗を分けてあげませうね。そのへんに植ゑてお置きなさい。秋になると、きれいな花が咲きますよ」
 さう言つて、何の苗だか、細い葉の密生した草を一つかみ手渡した。少年は、なんだか奥さんをだましたやうな気がして、紅くなつた顔をあげずに、すぐ土を掘りにかかつた。暫くすると奥さんは、また自分の花壇から見廻りに来て、今度は少年の横にしやがんで、苗を植ゑてゐる少年の手つきを眺めはじめた。
「それぢや、きつすぎるわ。……ちよつと貸してごらんなさい。ほら、これくらゐにね……」
 そして奥さんは少年の手を持ちそへて、土のおさへ方を教へた。ひやりと冷たい指の長い手だつた。少年は指の短かい自分の手がひどく怨めしかつた。そのため奥さんが、愛想をつかしはしまいかと思つたのである。少年は息をつめて、奥さんの手の甲をじつと見てゐた。うす青い筋が、なん本も透けて見えた。
 そんな風にして、少年は奥さんの花壇へも自由に入れる身分になつた。少年は、裾をからげた奥さんの細ながい脚に、まつはりつくやうに動きまはつた。少年は自分を、幸福な小犬のやうに感じた。奥さんの細つそりした脛にも、青い静脈がうつすらと透けてゐた。そして奥さんは、いつも爽やかなシャボンの匂ひがしてゐた。シャボンと言へば、少年の父も、しよつちゆうシャボンの香りをさせてゐた。東京にゐた頃は、神田の天下堂といふ洋物産で、飴色に透いて見える何とかいふ丸形の西洋シャボンを買つてゐたが、それと同じものを、台北に来てから絶やさなかつた。父のシャボンは、マシマロのやうな甘い匂ひがする。奥さんのは、それとは違ふ。どことなく甘酸つぱい、すがすがしい匂ひである。奥さんは白粉をつけない。髪の香油のにほいもしない。顔が近づいても、脚が近づいても、いつも同じシャボンの匂ひがするだけだ。少年は子供ごころに、奥さんは清潔の化身のやうに思つた。
 そのうち二度ほど、奥さんの家へ誘はれて行つたことがある。花壇の手入れが済んでからである。一度目は、縁側に腰かけて、絵葉書のアルバムを見せてもらつた。随分いろんな絵葉書があつた。西洋の街や公園を撮つたものが一ばん多かつた。盛りあがつた胸をむき出しにした、西洋の女優らしい人のもあつた。けばけばしい色の長いスカートを、両手で扇形にひろげて踊つてゐる女のもあつた。そのうちにひよつこり一枚、不思議な写真が出てきた。でぶでぶ肥つた西洋人の女がひとり、はだかで、頭巾のやうな恰好をした白い帽子をかぶつて、浴槽の方へ歩いてくるところである。少年は意外だつた。自分の眼を疑つた。そして好奇心よりも先に、妙な腹だたしさが、こみ上げてきた。彼は奥さんが汚されたやうな気がし、それが怨めしかつたのである。奥さんは次の茶の間で何かしてゐて、なんにも気づかなかつた。
 二度目に行つた時は、座敷へあがつて、重たい大きな本を二三冊みせてもらつた。みんな西洋の本で、写真が一ぱい出てゐた。なかの一冊は、軍艦の写真ばかりだつた。少年はそれが気に入つて、おしまひまで見てから、また繰り返し眺めた。少年はそのうち父にねだつて、それと同じ本を買つてもらはうと思つた。この日も奥さんは、次の茶の間で何か縫物をしてゐたが、やがて少年が帰りかけると、
「ちよつと待つてらつしやいね」と言つて、台所へ立って[#「立って」はママ]行き、何かごそごそやつてゐたが、間もなく半紙にくるんだものを持つて小走りに出てきて、それを少年にくれた。お菓子にちがひなかつたが、ずしりと重かつた。
 今度は少年は、いつぞやのやうに溝板のかげに棄てなどしなかつた。大事に、つぶさぬやうに手のひらの上に載せて、いそいで家に帰つてきた。勝手口からあがらうとすると、母が出てきた。
「なんです、それは?」と、母がきいた。
「木村さんの小母さんがくれたの」と、少年は答へた。
 すると母は、引つたくるやうに半紙包みを取りあげて、中をあけて見た。葛饅頭くずまんじゅうだつた。母は血相かへて(と少年の眼にはうつつた)、いきなりその葛饅頭を、流しの下の土間へ、紙ごと投げこんでしまつた。むざんにぐちやりと潰れるのを、少年の眼は見た。怨めしさうに見あげた少年の視線は、母のきびしい眼ざしとぶつかつた。母の怒りのうちにも、何かためらつてゐる様子だつたが、やがてちよつと涙ぐんで、ささやくやうに、「あの奥さんは肺病ですよ。……もう遊びに行つてはいけません」と言つた。
 母は少年の一挙一動を、風呂場の窓から見てゐたのである。
 少年は、この肺病といふ母の言葉で、何かほつとしたものを感じた。ある重大な心の秘密を見破られたかと思つたのに、案外相手の注意が単純な、外面的なところにとどまつてゐることを発見した時に、人が感じるあの安心である。瀬川安子の場合、少年の心のうごきは、要するにいささか騎士道めいた、幼ない貴種崇拝心の萌芽にすぎなかつた。ところがこの奥さんの場合に、いくらそこにすがすがしいシャボンの匂ひがただよつてゐようと、その痩せた白いからだつきが清潔の化身のやうに見えたにしても、少年の心のうごきは遥かに思慕の性質に近いものでもあり、さらに言へば、一そう直接に肉情を反映したものでもあつた。そのことに少年自身、もちろん言葉のない直覚としてではあるが、良心のどこかの隅で気づいてゐたのだ。それが母に見破られずに済んだことに、少年は一様の羞恥と、おびただしい安堵感とを味はつたのである。そんなふうにして、少年の朝の歴史は、あつけなく幕ぎれになつた。少年はだんだん、自分の苗床へ行かなくなつた。行つても、奥さんの花壇へ近寄ることに不思議な抵抗をおぼえはじめた。時たま、奥さんの身近に寄つた時でも、例のシャボンの甘酸つぱい匂ひまでが、何か今までとは違つた、さびしい一種病的なものに感じられた。かうして少年の内心の変化が、奥さんの方へも敏感に反応したものと見え、もはや家へ遊びにいらつしやいと言ひださなかつた。間もなく少年は、ぱつたり土いぢりをやめてしまつた。もともと好きではなかつたのである。

 その一方、少年の夏休みは、みるみる狂暴な性質を帯びて行つた。学校のあるうちは、近所の子供たちから孤立して、うちに閉ぢこもつてゐる少年だつたが、休みになると、こつちから出かけて行つたのか、それとも誰かに誘はれたのか、いつの間にか少年は、十人ほどの男の子の集団の仲間になつてゐた。
 彼らの遊びは乱暴だつた。彼らが一ばん好きなのは、砂丘へ行つて、水雷ごつこや石合戦をすることだつた。少年の家の前を横ぎつて、淡水河に出る広い道路があり、それを西に暫く行くと、水田を越えて、赭土しゃど色ににごつた小判形の大きな沼があつた。その沼の向うに、平らな砂丘が、まつ青な空を背景に盛りあがつてゐた。そこが彼らの遊び場だつたのだ。はだしになつて、わーつと喚声をあげて登つて行く。熱した砂が、足のうらに焼けつくやうだ。ぴよんぴよん跳ねながら駈けあがる。野蛮な快感が、むくむく身うちに湧いてくる。頂上に着いた時には、誰の顔も赤黒く興奮して、眼玉がぎよろぎよろしてゐる。そして、たちまち二手にわかれて、まづ水雷ごつこになる。敵味方の目じるしは、うしろと前と、帽子の庇の向きである。みんな兵隊がするやうな、手拭やハンカチを帽子のうしろに垂らしてゐる。「撃沈!」といふ声が、早くもどこかでする。撃沈された子は、勝負がつくまで、じつと仰向けに砂の上に寝てゐなければならない。これは辛かつた。ぎらぎらした空が、眼に痛い。それで眼をつぶる。額がじりじり焦げてくる。それで帽子を顔にかぶる。汗くさい暗がりのなかでたらたら汗が頬をつたはる。まだ撃沈されない水雷艇があると見えて、遠くで喚声が聞えてゐる。万歳の三唱が待ちどほしい。それが、どつちかの勝つた合図で、それが聞えると起きてもいいのである。ところが万歳の声は、なかなか聞えて来ないのだ。だんだん目まひがしさうな気がしてくる。そつと半身を起して、あたりの様子をうかがふ。一面にぎらつく白い光で、なんにも見えない。のどが、ひりつくやうに渇く。
 そんな目に遭ふのが辛いので、少年は「開戦」の号令がかかるが早いか、敵の方へは向はずに、まつしぐらに砂丘の斜面を、沼をめがけて駈けおりることにしてゐる。どうせ撃沈されるにしても、なるべく後にならうとするのである。喚声がみるみる頭の上の方へ遠のいて、赭土しゃど色の水が、のしあがるやうに迫つてくる。さうなるともう、加速度で足がとまらない。今にもう、どぶんとあの沼にはまりこむほかはないと思ふ。だが、沼のふちの草原まで来ると、足がからまつて、もんどり打つてすつ転がる。起きあがつて見あげると、砂丘の腹が一瞬、まつ黒に眼界をふさいで見える。その上には人影はなく、青空だけがぎらついてゐる。しんとして悲しい。
 そのうちに石合戦になる。砂丘の裏手に、彼らが砂利場と呼んでゐる場所がある。何か土木工事の跡と見えて、砂利が幾山も盛りあげてあるのだ。赤く錆びたトロッコのレールが撥ねあがつたり外れたりしながら、うねうねとそこまで伸びて来てゐる。そこから砂利を運びあげて、砂丘の上で石合戦をするのである。これは退却した組の負けだから、戦闘は激烈をきはめる。石はスッスッと耳をかすめるが、不思議なことに、滅多に顔には当らない。よしんば当つても、大して痛くはない。少年はぢきに慣れて、平気になつた。却つて着物の袖だの裾だのに、ばくりと当つた石の方が、余計にショックも感じるし、敵愾心てきがいしんをそそられもする。少年は夢中で石を投げ返しながら、ふつと自分の狂暴性におどろくこともある。
 ある日、彼らの石合戦の最中に、とつぜん横手の方から、猛烈な勢ひで石が飛んで来はじめた。初めのうちは気がつかなかつたが、やがてみんなが変だと思ひだして、そつちを振り向いて見た頃には、砂利場へ下りる坂の上に、真黒に焼けた半裸体をてらてらさせた台湾人の子供が、十二三人もずらりと並んで、朱い唇できいきい叫びながら、歯をむき出して、盛んにこつちめがけて石を投げてゐるのだつた。
 少年たちは、たちまち敵味方いつしよになつて、応戦をはじめた。ところがこつちは、もう石が幾らも残つてゐないのに、向うは砂利場を背後にひかへてゐるので、いくらでも補給がつく。小さな子供が二三人、しきりに石を運びあげてゐる。敵はなかつた。たうとう少年たちは、沼に面した斜面の上まで、ぎりぎりに追ひつめられた。
 そのとき、大原といふ餓鬼大将株の子が、いきなり前へ躍りだして、「突貫!」と叫んだ。みんなは、敵のなげてよこす石を、拾つては投げ拾つては投げしながら、猛然と逆襲に転じた。向うはじりじりと退つて行つたが、やがて口々に何やら黄色い叫びをあげると、砂利場の斜面を、ころがるやうに逃げだした。少年たちは、喚声をあげて追撃にうつつた。水田や木立ちや草むらのあひだを、夢中で追ひかけてゐるうちに、逃げ足の早い向うは、こんもりした孟宗竹の繁みの中へ、ばらばらと駈けこんで、そのまま見えなくなつた。やがて少年たちが、息せき切つてそこまで来た時には、姿もなければ、声一つ聞えなかつた。
 少年たちは、大原を先頭に一列縦隊を作つて、孟宗竹のあひだの狭い道へ押しこんで行つた。中は思ひのほか暗かつた、うねうねして行くうちに、やがて台湾人の百姓の土小屋が見えてきた。
「おおい、あすこに隠れたんだぞ」と、大原が勢ひづいて叫んだ。
 すると突然、物かげからぱつと躍り出して、少年たちの前に仁王立ちになつたのは、鼠色の腰巻一つの、台湾人の百姓婆さんだつた。赤茶けた髪を蓬々とふりみだして、銅色をした太いバナナのやうな乳房をぶらんぶらんさせながら、婆さんは棍棒こんぼうをはすに構へて、甲高い声で何やらわめいた。
 少年たちは気を呑まれて、はつと立ちすくんだ。すると婆さんは、いきなり棍棒を投げつけると、先頭に立つてゐた大原の襟髪につかみかかつた。大原はへたへたと、地面に膝をついてしまつた。そのあとを見とどける暇もなしに、少年たちはわれがちに、孟宗竹の間を、もと来た方角へ逃げだした。水田のなかを、よほど遠くまで逃げのびてから、うしろを振り返つてみると、ちやうど大原が両手で頭を抑へながら、竹藪のなかから転がるやうに出て来たところだつた。水田が青く光つてゐた。
 これは少年が初めて目にした、母性の阿修羅あしゅら像だつた。その畏怖は永く少年の胸から消えなかつた。

 やがて八月も末になると、とつぜん凄まじい颱風たいふうが襲来した。家は新築なので、別に被害はなかつたが、その翌る日の朝から、大水が出はじめた。淡水河の堤防が決潰したのである。
 あらしが去つて、忘れたやうに晴れ上つた朝だつた。浸水は刻々に水位をまして、午ごろには床の上二尺ちかくになつた。箪笥を割つて、それを台に畳をわたした離れ小島が、座敷の中に三つほど出来た。そのあひだの掘割ほりわりに、机や小箱などが、ぷかりぷかり浮いてゐるのが物珍らしかつた。美代は身軽に尻はしよりをして、室内の濁流のなかを、きやつきやつ笑ひながら駈けまはつた。母は蒼ざめた顔をして、畳の小島の上で、しきりに七輪を煽いでゐた。
 夕方になると、水は床上三尺ちかくになつた。その頃になつて父は、例によつて陽気な笑ひ声を立てながら帰つて来た。総督府から舟で送られて来たのださうである。暢気な父は、まさか家の方がこれほどの浸水だとは知らずに、河下の方へ出かけて、台湾人の百姓たちの世話を焼いてゐたのだ。土小屋は忽ち崩れ流れて、彼らの運命はみじめらしかつた。少年はふと、あの孟宗竹の中の百姓小屋を思ひうかべた。あのバナナのやうな乳房をした婆さんは、今頃どうしてゐるだらうか。
 晩の食事は、一本の蝋燭のにぶい光の下で、美代も入れてみんなでオジヤを食べた。畳の小屋の上から、室内へ放尿する感じは、少年にとつて何とも不思議なものであつた。やがて夜おそくなつてから、青白い月の光が、部屋のなか一ぱいに射しこんだ。少年は母に抱かれながら、ふつと目ざめて、それを見た。少年は、まるで家全体が、月光の中にただよつてゐるやうな気がした。
 あくる日になると、水は一寸また一寸と、ゆつくり引きはじめた。父が向うの畳の小島の上にあぐらをかいて、何か本を読みながら、それをこちらの島に母と一しよにゐる少年に、時どき教へてくれたのである。その頃になつて、台湾人の百姓が板舟をあやつつて、庭さきからのつそり乗り入れて来などした。野菜や果物などを売りに来たのである。母が何か買はうとして、さも高いといつたふうに眉の根を寄せると、父は磊落らいらくな笑ひ声を立てて、「まあいい、まあいい」と、母に言つた。いつもの値ぎり道楽は影をひそめてゐた。
 夕方ちかく、また庭先へ、何かじやぶじやぶ音を立てて入つてくるものがあつた。また物売りかと思つて少年が振り向いて見ると、それは一頭の巨きな水牛であつた。黒光りのする立派な角を二本、ぐいとこちらへ向けて、水牛は何か尋ねるやうに室内をさしのぞいた。あとから、もう少し小さいのがはいつて来て、これはしきりに、隣家の垣根ごしに向うを眺めてゐた。
 母が悲鳴をあげた。赤いたすきをした美代が、どこからか長い竹竿を持つて来て、それを水牛の眼の前で振りはじめた。縁側をさしのぞいてゐた巨きい方の水牛は、ちよつと訝かしげに目をしばたたかせたが、そのまま何も言はずに、のそりと向きを変へると、またじやぶじやぶと水を分けて庭の外へ出ていつた。小さい方の水牛も、やがて、気づいてそのあとを追つた。……
 洪水がやつと収まつて二三日すると、少年は近所の子供たちと一緒に、淡水河の堤防へ行つてみた。河は見違へるほど幅がふえて、濁水がまだ渦まき流れてゐた。その濁流を時たま、川蛇が白い歯型をきざんで渡つては消えた。
 その洪水騒ぎが済んで間もなく、父は南の方へ出張の旅に出た。そして半月ほど留守にした。やがて帰つて来た父を、少年は母に連れられて、台北ステーションまで出迎へに行つた。プラットフォームで待つてゐると、父はちやうど目の前にとまつたがら明きの車室から顔を出して、山高帽をしきりに振つてゐた。やがて降りて来た父は、母にも少年にも言葉をかけずに、ただうなづいただけで、出迎への役人らしい二三人の人と肩をならべて、何か大きな声で話しながら元気に歩きだした。例によつて、ひよいひよいと靴のかかとを見せて行く歩き方である。少年は母に手を引かれて、そのあとからついて行きながら、その父の靴の裏が、乾いた赭土しゃど色をしてゐるのに気づいた。妙にあざやかな印象だつた。
 しかし、少年が父の靴の裏を眺めたのは、これが最後になつた。

 この頃から急に、父についての少年の記憶は薄れてゆく。いや、父についてばかりではない。その家についても、少年自身のことについても、記憶はまるで急に日が陰りでもしたやうに、妙にうすぼんやりとしてしまふのである。
 そのなかで一番はつきりしてゐるのは、松旭斎天勝の大一座が巡業に来て、その興行の第一夜を少年が父に連れられて観に行つたことである。なんといふ劇場だつたか覚えがない。とにかく少年は、ずつと大きくなつてからも、二度とあれほど大きな劇場に入つたことはないし、また、あれほど妖しい感動にみちた観物に接したこともない。ざわめく大海のやうな観覧席の上に、二階から舞台へ、ななめに太い綱がわたされ、紅い花傘を手にした美しい男が、時どき何か歯ぎれのいい掛声をかけながら、するり、またするりと、その綱の上をわたつて舞台に降りたつた時、少年は言ひ知れぬ嫉妬を覚えるのだつた。やがて、ちよび髭を生やした燕尾服の紳士が出て来て、何か口上を述べてから、寝台の上に横になる。照明が青く変つて、やがて天井から、巨きな不気味に光るまさかりが降りて来る。それにつれて寝台もだんだん中有に浮いて、つひに紳士のからだは真二つに断ち切られる。……また光景が変つて、天勝その人が、一面に星の光がきらきらしてゐる長いスカートをはいて出てくる。豊満な肩から胸へかけては真白な裸体である。婉然えんぜんと一笑また二笑、何やら甘い、幅のある早口で、口上を述べたてる。すると舞台裏から、二人の黒衣の人物が現はれて、白い太い縄で、彼女のからだを脚から腰、腹から胸もとへと、両腕もろとも、がんじがらめに縛り上げる。彼女はそれが済むと、またもや婉然と笑つて、観客席へ向つて何やら、澄みとほつたきれいな声で呼びかける。やがてその声に応じて、少年のはげしい嫉妬にもかかはらず、観客席から二人の男が立ちあがつて、両の袖から舞台へあがる。女王をがんじがらめに縛りあげた縄の封印を、たしかめる為である。それから彼女は、縦横に細かく鉄格子のはまつた大きな檻へ、正面の鉄扉をひらいて入れられる。その鉄扉に、物々しい錠がおろされ、またもやその封印を、二人の男がしらべる。彼らはまた、檻の周囲をまはつて、鉄格子を揺すつてみたり引つぱつてみたりして、その堅牢さをたしかめる。二人がうなづく。舞台が突然まつ暗になつて、その闇のなかから、ワン、ツ、スリーと、絹を裂くやうな掛け声がきこえる。ぱつと照明がつく。天勝は、はるか檻から離れた舞台の中央に、前どほりの星の光が一面にきらめく長いスカートをはいて、悠然と笑みこぼれながら立つてゐる。その身にはもはや、あの白い縄の一きれも残つてはゐない。……
 最後に、天勝を中心に、左右にあの燕尾服と綱わたりとが並んで、めいめい一箱のトランプの封を切つて、一階から二階へと万べんなく、カードを飛ばせはじめた。カードは凄まじい唸りを立てて、彼らの掌をはなれて二階へ飛んで行く。一階の中央に落ちる。舞台のすぐ下へもひらひらと舞ひ落ちる。少年は思はず立ちあがつた。父の腰をゆすぶつた。しかしたうとう、カードは彼らの近くへは降つて来なかつた。
『天然の美』のジンタに送られて、少年は悄然しょうぜんとして父に手を引かれて、劇場のそとへ出た。陶酔のあとに、なにか肌ざむい秋の雨が降りしきつてゐた。
 家に帰つてから父は、少年に一枚の絵葉書をくれた。天勝の全身を撮つた極彩色の写真で、服装や姿態は疑ひもなく、あの檻を抜けだして舞台の中央に、豊満な笑顔を見せて立つた瞬間のものであつた。星を一面にちりばめた長いスカートは水色に彩られ、誇らしげに伸べた片手の、肉づきのいい脇の下には、菱形をした桃色の当て布が、さも誘ふやうにあたつてゐた。
 少年の念頭を、瀬川安子のおもかげがかすめた。たしかに、絵葉書で見るかぎり、ある種の相似がないことはなかつた。しかしこの聯想も、そのおのおのの面影も、はげしい時の波に押し流されて、少年は二度とふたたび相見ることがなかつた。

 父は間もなく発病して、台北医院の内科病棟の一室に、身を横たへることになつた。内科病棟は薄ぎたなかつた。少年はいちど、母に連れられて見舞に行つて、病室の薄ぎたなさと、いつのまにかげつそり頬のこけた父の髯づらに言ひやうのない嫌悪を覚えたことがある。病名は台湾赤痢といつて、腸の壁にぶつぶつ穴のあく病気だつた。父は台南へ出張してゐるうちに、つい日頃の食ひしんぼうが出て、冷やつこを食べたのが運の尽きだつたらしい。もつとも、こんな病名とか病因とかは、ずつとあとになつて少年は母の口から聞いたのである。
 やがて母と少年とは、冬の海を基隆キールンから下関へ、おなじ信濃丸に乗つて航海した。一年半まへの往路では[#「往路では」は底本では「住路では」]四人だつたのが、帰り路では二人だつた。父は病気の経過が思はしくないので、内地の医者にかかるため、一足さきに帰国して、とりあへず別府の温泉で静養してゐたのである。とつぜん絶望的な電報が来て、母をおどろかせた。母は少年には何も言はずに、黙つて家財道具の一切を整理して、少年を連れて船に乗つたのである。
 海は往路に引きかへて、しごく穏かだつた。母はそのあひだ、三晩つづけて同じ夢を見た。父が帷子かたびらに黒い絽の羽織を着て、向うむきに坐つて何か書類の整理をしてゐるところである。この夢はよく当つた。母と少年が別府に着いて三日目に、父はうそ寒い病院の二階の一室で、骨と皮になつて死んだのである。

底本:「雪の宿り 神西清小説セレクション」港の人
   2008(平成20)年10月5日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集 第4巻」文治堂書店
   1969(昭和44)年3月11日
初出:「文學界」
   1951(昭和26)年11、12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2012年1月31日作成
2012年3月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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