我々の生活や作物が「不自然」であってはならないことは、今さらここに繰り返すまでもない。我々は絶対に「自然」に即かなくてはならぬ。しかしそれで「自然」についての問題がすべて解決されたとは言えない。むしろ、問題はそれから先にある。
 一体どれが我々の生活のドン底の真実なのか。どれをつかんだ時に我々は「自然」に即したと豪語する事ができるのか。
 自然主義は殻の固くなった理想を打ち砕くことに成功した。しかし代わりに与えられたものは、きわめて常識的な平俗な、家常茶飯の「真実」に過ぎなかった(たとえば、人間の神を求める心とか人道的な良心とかいうものはあとからつけた白粉に過ぎない。人間を赤裸々にすればそこには食欲、性欲、貪欲、名誉欲などがあるきりだ、と言うごとき)。こういうことはいかなる意味でも新発見ではない。昔から数知れぬ人々が腹のなかで心得ていた。それを心得ていないのは千人に一人か百人に一人の理想家や敬虔家だけであった。現在でももちろん同様である。ただ多くの人は露骨にそれを発表するのを好まない(それだけ理想家、敬虔家の情熱が根深い習俗として社会を支配しているのである)。――そこを自然主義は露骨でもって刺激した。そうしてこの主義がいかにも重大な意義を持っているらしい感じを世人に与えた。実際それは、偽善家の面皮を正直という小刀で剥いでやった、という意味で、重大な意義を持つに違いない。あるいはまた幻影に囚われた理想家を現実に引きもどした、という意味で。――しかしそれは決して以前よりも深い真実を捕えてくれたわけでなかった。それのもたらした新事実をあげれば、まず自然科学の進歩、社会主義の勃興、一般人民の物質的享楽への権利の主張、徹底的な虚無主義の出現――芸術上においては様式の単純化、日常生活の外形的な細部の描写の成功などであるが、そこに著しい進歩があったとは言っても、何もより深いものは実現されていない。
 ここに恐らく自然主義の薄弱な反動に過ぎない理由があるのである。十九世紀後半が生んだ偉大なものは、たとえ自然主義のいい影響をうけていたにしても、決して自然主義的な本質を持ってはいなかった。そこには常に自然主義以上のものがあった。この事実は世界の精神潮流から非常に遅れていた最近のわが国の文化についても、厳密に検察せられなくてはならない。――
 そこで生活の「真実」、人間の「自然」の問題である。我々はこの「真実」、「自然」を描くと自称する多くの作家を持っている。しかし彼らもまた常識的な粗雑な眼をもって見た「自然」以上に何ものも知らないではないか。彼らはただ「多くの場合」「多くの出来事」「多くの人間」を知っている。あるいは外景、室内、容貌、表情などに関する詳細な注意や記憶を持っている。これらも確かに一種の才能である。誰でもが彼らのような観察と記憶とを持つことはできない。けれども多くを詳らかに見ることは直ちに「自然」を深く見ることにはならない。彼らの眼が鋭さを増さない限り、彼らの経験がいかに積み重ねられようとも、質は依然として変わらないのである。ここに私は「書き方」の上でますます精練と簡潔と円熟とを加えて来た四五の作家を眼中に置いて考えてみよう。彼らは皆人生を底まで見きわめたようにふるまっている。彼らはさまざまな社会現象を詳らかに巧妙に描写する腕を持っている。しかし彼らが社会の裏に住む無恥な女を描き、性慾の衝動に動く浮薄な男を描き、あるいは山国海辺、あるいは大都会小都会の風物情緒を描く時には、それがあらゆる階級の男女や東西南北の諸地方を材料とするにかかわらず、またそれぞれの境遇や土地をおのおのその特性によって描いているにかかわらず、結局その作品の核をなすものは千篇一律に同じ観察だという感じを与えるのである。彼らの眼は外形の特性をのみ見て、内部の特性を見得ない。彼らは活きた人生と自然からいつも同じ「自然」を見いだす。かくのごときことは生の豊富な活動を見得るものには全然あるわけがない。――しかも彼らはこの「自然」に満足して、それを解し得たことを誇っている。その「自然」がいかに浅薄であるかについてはほとんど省慮することなしに。
 彼らは概念的であることを非常にきらう。そうして彼ら自身の感じ方がすでに概念的であることには気づかない。

 私はここで「自然」の語義を限定しておく必要を感ずる。ここに用いる「自然」は「人生」と対立せしめた意味の、あるいは「精神」「文化」などに対立せしめた意味の、哲学的用語ではない。むしろ「生」と同義にさえ解せられる所の(ロダンが好んで用うる所の)、人生自然全体を包括した、我々の「対象の世界」の名である(我々の省察の対象となる限り我々自身をも含んでいる)。それは我々の感覚に訴えるすべての要素を含むとともに、またその奥に活躍している「生」そのものをも含んでいる。
 たとえば私がカサカサした枯れ芝生の上に仰臥して光明遍照の蒼空を見上げる。その蒼い、極度に新鮮な光と色との内に無限と永遠が現われている。そうしてあたかもその永遠の内から湧きいでたように、あたかも光がそれを生んだように、私の頭の上には咲きほころびた梅の花が点々と輝いている。ほんとうに「笑っている」という言葉がふさわしいように……これが自然である。色と光と形、そうして私の心を充たす豊かな「いのち」。――またたとえば一人の青年が二人の老人を前に置いて、眼を光らせ、口のあたりの筋肉を痙攣させながら怒号する。老人はおどおどしている。青年は自分の声のききめを測量しながら、怒りの表情の抑揚のつけ方をちょっと思案してみる。――これも自然である。声、表情、そうしてある目的のために老人の人格を圧迫している青年の意志、感情、打算。我々は外形に現われたものを感覚し、知覚するとともに、この外形を象徴として現われて来る内部の生命を感得する。我々が自然を認識するのはこの両様の意味を含んでいる。すなわち外形はそれと全然似よりのない、性質の違ったものを我々に認識させるのである。

 ところでこの外形と全然異なった内部生命を認識することは、いかにして可能であるか。たとえば我々はある人の顔の筋肉が動くのを見て、その人の喜怒哀楽やまたそれ以上に複雑なさまざまの心持ち・思想などを感知する。我々の眼に映じたその微かな筋肉の動きと我々の感じたその内生とは、実際全く似よりのないものである。この二つは何ゆえに直接に結びつくのか。
 これは恐らく我々の「生」に相通ずるものがあるからである。我々はそれ以上に原因を知らない。ただ事実として直接にこの「生」の融合交通のあることを経験する。――しかし我々は、この際我々の感ずるものが厳密に我々自身の感じであることを忘れてはならない。もとより我々は、それを自分の感情として経験するのではなく、あくまでも対手の感情として、自意識を離れて感ずるのである。その焦点にはただ対手の感情のみがあって、自分はない。むしろ自己が、その焦点において、対手の内に没入しているのである。けれどもいかに自分を離れた気持ちになっていても、「自分」が「対手」になることはできない。対手の感情を感じながら、実はやはり自分自身の感情を感じているに過ぎない。いわば自己を客観化して感じているのであって、対手はただ、その自己客観化を触発するにとどまるのである。――すなわち我々はある外形を見た時に、その外形の意味として我々自身の感情を感じている。そうしてそれをその対象の認識と呼んでいる。
 そこで問題は、その対象の生命にピタリと相応ずるような生命を自己の内に経験し得るかどうかに帰着して来る。
 感受性が鋭く、内生が豊富で、象徴を解する強い直覚力を豊かに獲得しているものはさまざまな対象の生命の動きを自己の内に深く感じ得るだろう。彼らは外に現われたさまざまな現象を見るのみならず、その内部の生命に力強く没入し行く。彼らの感ずるのは、ある外形に現われなければならなかった内部の力の必然性である。内部の活動の複雑をきわめた屈折濃淡である。――このことを高い程度に(たとえばロダンほどの程度に)、実現し得るのは、なかなか容易ではない。しかし我々はそれを目ざして進まなくてはならない。この程度を高めることは、とりもなおさず「自然」を捕える程度が深くなることである。我々はこの程度を高め得た時にのみ、「自然を見ること」を誇り得るだろう。

 ところで内部に突き入ろうとする衝動を感じない人たちは(たとえば前に言った作家連のごとき)、きわめて常識的な、普通一般の見方をもって人間の内部を片付けてしまう。そうしてただ外部のさまざまな変化や状態にのみ注意を集中する。彼らの「自然に即け」という意味は、右の常識的な見方の埒外に出るなということに過ぎないのである。
 で、彼らの強みは、一般の常識が認容するところをふりかざすにある。たとえば「こういう人が実際あるのだ、」「こういう事を現に自分も感じている、多くの人も感じている、」「それがある理想から見て好ましくないことであろうとも、とにかく人間の自然なのだ、私はその自然を捕えた、」云々。
 しかし自分の経験をほんとうに理解しようとする人が知っているように、経験の真相をつかむということはきわめてむずかしい深い問題である。それはただ意識の表面に現われるものをたどって行っただけではわからない。ことに「性慾の強い力」とか「生への執着」とかいう概念をあたかも生活の本質であるかのごとくに考え、すべての現象をそれへ引きつけて理解しようとするような場合には、恐らく生活がきわめて狭い貧弱なものになってしまうだろう。それでもその人には、「生活が実際そうである」ように、「それが人間の自然である」ように、思われるに相違ない。そうしてそこに生活の小化醜化が行なわれる。生活の豊富な真相は、空想として、あるいはこしらえものとして、彼らの前に価値を失ってしまう。彼らはこの小さい生活に満足して、生活の真相を実感しようとは努めない。
 従って彼らの眼には、常識以上に深く自然に食い入ったものと、実感なくただ空想によって造り上げられたものとの区別がつかない。そこには嘘と真実との両極端が現われているのに、彼らはそれを嗅ぎわける力を持たない。そうして自分たちよりもはるかに深く自然をつかんでいるものに対して、自然に即けと忠告するのである。
 すべてこれらのことは彼らの内生の浅薄貧弱から生まれている。彼らの「自己」が浅薄である以上それを「客観化」した彼らの経験が浅薄であるのは当然だからである。彼らの根本的な欠点を救うものは、ただ自己の深化のほかにあり得ない。それによって彼らはその「眼」を鋭くし、その経験の「質」を変化することができるだろう。そうして初めてほんとうに自然に面することもできるだろう。

 自然をただ醜悪に観察して喜んでいた作家たちが、近ごろ何となく認識論的な、あるいは倫理学的な思想を、その作品中に混ずるに至ったことは、新しい時代が彼らに及ぼした影響としてかなり我々の興味をひく。しかし彼らは、彼ら自身の思索が彼らの最も忌みきらう概念的なものであることに気づかない。従って彼らの観察と思想とは、まるで木に竹をついだように、彼らの作品中に混在している。このようなことは彼らの内生の幼稚をほかにして解釈のしようがない。彼らは「自己」を改革する代わりに、二三の新しいことを自己にくっつけようとする。生まれ変わる代わりに、竹べらで自分の顔の造作を造り変えようとする。あまりにたわいがない。
 彼らはまず、自分たちのとは違った自然の見方をほんとうに心底から理解してみなくてはいけない。私は彼らが性慾を重んじるからいけないというのではない。彼らが娼婦を描くからいけないというのではない。ただそういうものに対してもっと深い見方のあることを理解しろというのである。我々の生活は穢ないものをもきれいなものをも包容している。迷いもすればまた火のように強烈に燃え上がることもある。耽溺の欲望とともに努力の欲望もある。この内面の豊富な光景を深く理解した人の見方が、彼らの見方よりもいかに多くの高い価値を持っているか、それを血によって感じてもらいたいのである。彼らは多くの心境を理解し得ないがゆえに、排斥する(我々は彼らの心境を理解しつくした上で、浅薄として排斥する)。しかし理解すればとても頭があがらなくなるようなものを、不理解のゆえに排斥するのは、彼ら自身にとってもむしろ悲惨ではないか。私は思いついたままにドストイェフスキイの例を引こう。この作家が人間の「自然」を最も深く見きわめた人の一人であることは、恐らく彼らの認容しない所であろう。彼らはただドストイェフスキイに変態心理の作家を見るにとどまるだろう。彼が著しく「神」のことに執着する所などはほとんど無意味に感ぜられるに相違ない。しかし実際はこの作家ほど深く確実に人間のあらゆる性情をつかんでいる者は、たぐいまれなのである。私はここに彼のつかんだ無数の真実を数え上げることはできない。ただ一つ、(特にそれが人間の自然でないと考えられているらしく思われるから)、彼の洞察した「神を求むる心」あるいは「信じようとする意志」について少しく観察してみよう。
「ある者」を信じようとする意志は、人間の自然として、少なくとも性愛と同じ程度の根強さをもって我々の内にわだかまっている。それは恐らく自己の人格を圧倒する力に対して畏服しないではいられない衝動にもとづくものであろう。同時にまたそれは我々の内のかくのごとき力を求める心に(それがなくては空虚を感じる我々の弱い心に)、もとづくものであろう。神はこの力の象徴であった。神が滅ぼされた時には悪魔が代わって象徴となった。象徴をきらうものは自己の奥底に「世界の根本実在」としてこの力を認めた。そうして全然この力を(いかなる形においても)認める事のできない者は、同じく自己を圧倒する力として虚無を信じた。――ドストイェフスキイの見破ったのは、この、人格の上に働く力の、深秘な活動である。同時にこの力を感じないではいられない人間の微妙な心理である。彼はこの感受性に強いロシア人の性情を、きわめて明確につかんだ。彼の「魅かれたる者」を読む人は、ロシア人の心があたかも獲物をねらう鷲のごとくこの力をねらっているように感じるだろう。そうしてロシアにならば百のラスプウチンが現われても不思議はないと思うだろう。かくのごとく信じようとする傾向の強い人民の内に、全然信ずべきものを見失った者が出るとすれば、それがいかに猛烈な虚無の信者となるかは、ロシア虚無党の記録を読む者が知っているごとく、きわめて理解しやすいことである。これもまた「魅かれたる者」の内に鮮やかに描かれている(さらにまたかくのごとき人民の内から、神を信ずる者、悪魔を信ずる者、自己を信ずる者が出るとすれば、それがいかに驚異すべき聖者となり、陰険な悪党となり、超人の夢想者となるかは、特に「カラマゾフ兄弟」の内に鮮やかに描かれている)。我々は「魅かれたる者」を読んで、信じようとする心の暴威が決して性愛のそれに劣らないことを、ほんとうに合点し得るのである。ニコライ・スタフロオギンが自ら企てずして得た奇妙な天真の力は、あたかも「無」の内に「すべて」を見る禅の悟りのように、たくまず努めず自ら意識することもなくして、しかも彼に触れるすべての人に異様な圧力を与える。まるで人々の間に「狂気」をふりまいて歩くように見える。幾人かの女が殺されそうにその心を捕えられている。ロシアの神を信じようとする一人の青年は彼の内にその神の使徒を見る。狡猾と虚偽とを享楽するらしい一人の虚無主義者は、自らを彼の奴隷のごとくに感じている。彼を殺そうとした者は死の前に平然たる彼の態度によって、心の底から覆えされた心持ちになる。これらすべては何によって起こるか。人格の上に働きかける力と、その力を感じる微妙な心理のほかにはなんにもない。そうしてそこに信じようとする心の秘密がある。
 ――私はドストイェフスキイのつかんだ右のような真実に対して、神を求める心が人間の自然でないと考えているような人々の眼の開くことを心から希望する。この真実はロシアにばかりあるのではない。我々の眼前に万をもって数うべき人々がそれでもって狂喜し狂奔し狂苦している。さらにまた新しい「神の子」が五指を屈するほどに出現している。それは少なくとも現実である。そうして眼を開いて見るものには、人間の自然である。
 これはドストイェフスキイの真実の内のただ一つに過ぎない。他の多くの真実についても私は同じように警告を付けたいと思う。それほどに自然を説く人々の眼は自然に対してふさがっているのである。

底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
   2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「新小説」
   1917(大正6)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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