しかしこれは先生の歌が無技巧だなどということではない。あれほど一字一句の使い方、置き方に気を配った歌、あれほど浮いたところのない、中味のびっしりとつまった歌、またあれほど濃かいニュアンスを出した歌が、技巧に熟達せずに作れるものではない。しかし先生の歌は、その巧みさを少しも感じさせないほど巧みな域に達していると思う。今度の歌集で先生は、
もののさびものの渋味はおのづからいたりつく時はじめて知らゆ
と歌っていられるが、そういう先生の境地が先生の歌を味わうものの心にもしみじみと伝わってくるように感ぜられる。それはまことに達人の域である。何事にもあせりが目立ち、どぎつい表現があふれている今の世の中で、こういう達人の歌に接し得ることは、不幸に充ちたわれわれの生活の中で、まことにありがたい幸福だと言ってよい。歌集『涌井』は動乱のさなかに作られた歌の集である。戦争の最後の年、空襲がようやく激甚となってくるころに、先生は、病を押して災禍を信州に避けられた。その後東京の町は激しく破壊され、先生が大震災後住みついていられたお宅も、愛蔵された書籍や書画や骨董とともに焼けてしまった。それのみか、戦いの終わろうとする間ぎわになって、やはり空襲のために、学徒で召集されていた愛孫を失われた。そのあとには占領下の変転のはなはだしい時期がつづく。その一年あまりの間、都会育ちの先生が、立ち居も不自由なほどの神経痛になやみながら、生まれて初めての山村の生活の日々を、「ちょうど目がさめると起きるような気持ちで」送られた。その記録がここにある。それはいわば最近二十年の間の日本の動乱期がその絶頂に達した時期の記録なのであるが、しかしその静かな、淡々とした歌境は、少しも乱れていない。これこそ達人の境であるという印象は、この歌集において一層深まるのを覚えた。
ここには戦争の災禍に押しつめられた、苦しい、いたましい生活がある。が、その生活には、山村の四季のさまざまな物の姿がしみ通っている。時おりの心のゆらぎを示すものも花や鳥の姿である。それを読んで行くと、いかにも静かではあるが、しかし心の奥底から動かされるような気持ちがする。特に敬服に堪えないのは、先生のいかにも柔軟な、新鮮な感受性である。都会育ちの先生が、よくもこれほど細かに、濃淡の幽かな変化までも見のがさずに、山や野や田園の風物を捉えられたものだと思う。わたくしは農村に生まれて、この歌集に歌われているような風物のなかで育ったものであるが、幼いころに心に烙きついたまま忘れるともなしに忘れ去っていたさまざまの情景を、先生の歌によって数限りなく思い出した。たとえば、
蓮華草この辺にもとさがし来て犀川岸の下田に降りつ
げんげん田もとめて行けば幾筋も引く水ありて流に映る
おほどかに日のてりかげるげんげん田花をつむにもあらず女児ら
さきだつは姉か蓮華の田に降りてか行きかく行く十歳下三人
という一連の歌などは、ほとんど強い酒のように、わたくしを蓮華草の花の匂いや感触や、ふくふくと生い茂った葉の肌ざわりなどの中へ連れ戻して行った。流れに映るげんげの姿に目を留められたのも驚くべきことであるが、しかし蓮華草の田のなかにいる子供たちの幸福な気持ちを捉えられたのは、一層驚くべきことに思われる。そういう類のことがいくつでも出てくるのである。蓮華草の田がすき返され、塀の外田に蛙が鳴き、米倉の屋根に雀が巣くう、というような情景もそうであるが、やがて郭公の来鳴くころに、げんげん田もとめて行けば幾筋も引く水ありて流に映る
おほどかに日のてりかげるげんげん田花をつむにもあらず女児ら
さきだつは姉か蓮華の田に降りてか行きかく行く十歳下三人
弟と笹の葉とりに山に行き粽つくりし土産物ばなし
ここへ来る一里あまりの田のへりを近路といへばまた帰り行く
などと歌われている。農村の生活が実にしみじみと心に浮かんでくる。田植えの歌のなかにも、ここへ来る一里あまりの田のへりを近路といへばまた帰り行く
苗代ののこりくづして苗束をつくり急げり日の暮れぬとに
などというのがある。田植えのころの活気立った農村の気持ちのみならず、稲の苗、田の水や泥、などの感触をまでまざまざと思い起こさせる。こういう仕方でやがて夏になり、野萩の咲くころとなり、秋に入り、雪を迎え、新年になる。遅い山国の春にも紅梅が咲き、雪が解け、やがて猫やなぎがほほけ、つくしがのび、再び蓮華草の田がすきかえされ、初雷の聞こえるころになる。その間の数多い歌が、実に豊かに山村の風物を描き出している。しかもその歌がそれぞれに玉のように美しい。実に得難い歌集である。
老年の先生を信州の山の中に追いやった戦禍のことを思うと、まことに心ふさがる思いがするが、しかしそれが機縁になってこの歌集が生まれたことを思えば、悪いことばかりではなかったという気もする。
田舎住なま薪焚きてむせべども躑躅山吹花咲くさかり
(昭和二十三年十一月)