私がここに観察しようとするのは、「偶像破壊」の運動が破壊の目的物とした、「固定観念」の尊崇についてではない。文字通りに「偶像」を跪拝きはいする心理についてである。しかしそれも、庶物崇拝フェティシズムの高い階段としての偶像崇拝全般にわたってではない。ただ、優れた芸術的作品を宗教的礼拝の対象とする狭い範囲にのみ限られている。
 特に私は今、千数百年以前の我々の祖先の心境を心中に描きつつ、この問題を考察するのである。

 まず私は、人間の心のあらゆる領域、すなわち科学、芸術、宗教、道徳その他医療や生活方法の便宜などへの関心等によって代表せられる人間の生のあらゆる活動が、なお明らかな分化を経験せずして緊密に結合融和せる一つの文化を思い浮かべる。そこでは理論は象徴と離れることができない。本質への追求は感覚的な美と独立して存在することができない。体得した真理は直ちに肉体の上に強い力と権威とをもって臨むごときものでなくてはならぬ。すべてが融然として一つである。
 千数百年以前にわが国へ襲来した仏教の文化はまさにかくのごときものであった。それはただ一つの新しい宗教であるというだけではなく、我々の祖先のあらゆる心を動かし得る多方面な(恐らくはインドとシナの文化の総計とも言い得べき)、内容の豊かな大きい力であった。もしそれが、ローマを襲ったキリスト教のように、単にただ純然たる宗教であったならば、あれほど激烈にわが国の文化全体を動かし得たかどうかは疑わしい。我らの祖先は当時なお、一つの偉大な宗教をただ宗教として、あるいは一つの偉大な思想をただ思想として、受け容れるほどには熟していなかった(シナの思想と学者とが渡来して以来二百年の間に、我々の祖先はただ文字を使うことを覚えただけであった。しかも意義ある記録を残し得るほどにはそれを活用することができなかった)。仏教の背後にその芸術的要素やシナの文化やその他種々のものがはたらいていたからこそ、我々の祖先はあのように大きく動き始めたのである。そうしてついに大きい時代を現出する事ができたのである。
 このことはやがて我々の祖先の一つの素質を説明することになるだろう。特に眼につくのは彼らが宗教から芸術的な歓喜を求めたことである。さらに進んで、信仰を感覚的な歓喜と結びつけたことである。前者は奈良時代の生んだ偉大な芸術によって証明せられている。後者は、その時代の僧侶がいかに人間の肉体の上にも勢力を持っていたかを明示している二三の著しい社会的現象によって、いや応なしに証明せられている。この特徴は、多少形を変えてはいるが、後来日本に発生したあらゆる宗教に必ず現われている。たとえば、日蓮宗や念仏宗におけるディオニゾス的な(肉体的運動、一種の舞踏に伴なう所の)、宗教的歓喜のごとき、その著しい例である。しかし後に現われたものがかなり強く実践的であるに反して、上代のものは特に明瞭に芸術的であった。この密接な芸術と宗教との結合が、偶像崇拝に対してきわめて正当な根拠を与え得るのである。

 私は、昔ながらの山野と矮屋わいおくとを見慣れた我々の祖先が、かつて夢みたこともない壮大な伽藍の前に立った時の、甚深な驚異の情を想像する。
 伽藍はただ単に大きいというだけではない。久遠の焔のように蒼空を指さす高塔がある。それは人の心を高きに燃え上がらせながら、しかも永遠なる静寂と安定とに根をおろさせるのである。相重なった屋根の線はゆったりと緩く流れて、大地の力と蒼空の憧憬との間に、軽快奔放にしてしかも荘重高雅な力の諧調を示している。丹と白との清らかな対照は重々しい屋根の色の下で、その「力の諧調」にからみつく。その間にはなお斗拱ときようや勾欄の細やかな力の錯綜と調和とが、交響の大きい波のうねりの間の濃淡の多いささやかなメロディーのように、人の心のすみずみまでも響きわたるのである。さらにまた真理の宝蔵のように大地を圧する殿堂がある。それは人の心を甚深なる実在の奥秘に引き寄せながら、しかも恐怖を追い払う強大な力を印象する。そこには線の太い力の執拗な格闘がある。しかしすべての争闘は結局雄大な調和の内に融け込んでいる。それは相戦う力が完全な権衡に達した時の崇高な静寂である。尽くることなき力を人の心に暗示する深い沈黙である。そうして、この簡素な太い力の間を縫う細やかな曲線と色との豊富微妙な伴奏は、荘厳に圧せられた人の心に優しいしめやかな手を触れる。――
 もとより我々の祖先は、右のごとき感じかたをしたわけではあるまい。しかし彼らはとにかくその漠然たる無意識の内に、右のごとき建築の美を感じないではいられなかったであろう。そうして身震いの出るような烈しい感動の内に、ただただその素朴な頭を下げたことであろう。しかもこの際彼らの意識に上る唯一のものは、三宝を尊奉するという漠然たる敬虔の念であったに相違ない。彼らの知っているのは、ただ新しく彼らに襲来した「仏教」がかくのごとき信仰を彼らにもたらした、ということだけだからである。かくて彼らはその感動の烈しさのゆえに、初めて偉大なる生活に対する眼を開かれ、初めて真に尊崇すべきものに出逢ったような心持ちを味わったことであろう。
 ――私はさらに進んで、堂前に歩み寄った彼らの姿を想像する。
 彼らの眼前に開いた大きい薄暗い空間は、これまでかつて彼らの経験しないものであった。そこには彼らが山野にさまよい蒼空をながめる時よりも、もっと大きい「大きさ」があった。彼らの眼には、天をささえるような重々しい太い柱が見える。それが荘厳な堂内の気分をますます荘重神秘的ならしめている。
 しかし、彼らがそれを感ずるのは、一転の瞬間である。彼らの眼は直ちに正面の「偶像」に吸い寄せられる。そうしてその瞬間にまた、極度に緊張した彼らの全心を奪うような烈しい身震いが、走りまた走る。彼らはおのずから頭を垂れ、おのずから合掌して、帰依したる者の空しい、しかし歓喜に充ちた心持ちで、その「偶像」を礼拝する。
 それは確かに彼らにとって「偶像」であった。彼らの知る所は、ただそれが、無限の力と最高の権威とを有する仏の姿だという事である。超人間的な神秘な力をもって人間を救い人間に慈悲を垂れる菩薩の姿だということである。そうして彼らは、自分を圧倒する激しい感激によって、その知識の偽りでないことを自分自身に実証した。彼らは自己の前にある物が右のごとき神秘な力の現われであることを信ずるほかはない。またそれを礼拝しないではいられない。
 しかし真に彼らの感激を誘ったものはその偉大な美であった。もとより彼らは、当時の偶像の遺物を我々が芸術品として鑑賞するがごとく、ただ美的鑑賞の対象として偶像に対したのではないが、しかし無意識の内にも常に偶像の美的魅力から逃れる事はできなかったであろう。百済王が始めて釈迦銅像を献じた時、それを見た我々の祖先の著明なる一人は、その「いまだかつて見ざる端厳なる相貌」に歓喜した。そうしてそれが仏教襲来の機縁であった。その後仏教の興隆とともにますます芸術的精練を加えた「偶像」が、いかにわれらの祖先の心に美的魅力を投げ掛けたかは想像するに難くない。ほとんど芸術を持たなかった野蛮人が、たちまちにしていのちにあふれた芸術品の持ち主となったのだから。
 試みに見よ。その円い滑らかな肩の美しさ。清楚なしかもふくよかなその胸の神々しさ。清らかな、のびのびした円い腕。肢体を包んで静かに垂直に垂れた衣。そうして柔らかな、無限の慈悲を湛えているようなその顔。――そこにはいのちの美しさが、波の立たない底知れぬ深淵のように、静かに凝止している。それは表に現われた優しさの底に隠れる無限の力強さである。人間のあらゆる尊さ美しさは、間髪をいれず人間の肉体によって現わされ、直ちに逆に、人間の肉体を人間以上の神々しい清らかさにまで高めている。それは自然に即してしかも自然の奥秘を掘り出したものである。肉体のはかなさは(たとえば、「この身泡のごとし、久しく立つを得ず、この身幻のごとし、顛倒より起こる、この身夢のごとし、虚妄の見より生ず、この身影のごとし、業縁より現わる、」というがごとき人身の無常は)、本来清浄なる人間の「心性」によって打ち克たれ、そこに永遠なるいのちの、「仏」の、象徴を実現しているのである。――
 人間が幼稚であり素朴であったゆえにこの美を受容することが困難であったと考えてはいけない。素朴な心は解釈において単純であり、省察において粗雑である。しかしその本能的な直覚においては内生の雑駁な統一の力の弱い文明人よりはるかに鋭いのである。恐らく美に対するその全存在的な感激において、当時の我々の祖先はその後のどの時代の子孫よりも優っていただろう。彼らを新しい運動に引き入れたのは、確かに芸術的魅力であったに相違ない。そうしてこの感激が彼らの生活全体を更新しないではやまない力となったに相違ない。これは私の推測である。しかしこの推測なくしては私は古代の芸術をも文化をも解することができない。

 もとより私は当時の人々のすべてがこうであったというのではない。私はただ代表的な場合について考察しているのである。しかしすでに当時の有力な人々がかくのごとき感動をうけた以上はそれが時代の風潮となるには、何の困難もない。暗示にかかりやすい、盲目的な民衆は直ちに彼らのあとについて来る。

 私は偶像礼拝者の歓喜をさらに高調に達せしめる要素として、読経および儀式の内に含まれている音楽的および劇的影響をあげなければならぬ。
 我々の祖先は今、適度の暗さを持った荘厳な殿堂の前に、神聖な偶像の美に打たれて頭を垂れている。やがて数十人の老若の僧侶が夢の中に歩く人のごとく静かに現われて、偶像の前に合掌礼拝しあるいはひざまずきあるいは佇立する。柔らかな衣の線の動き。華やかな衣の色の対照。群集の規律ある動作によって起こる劇的効果。堂内の空気はますます緊張を加えて行く。一瞬間深い沈黙と静止が起こる。突如として鋭い金属の響きが堂内を貫ぬき通るように響く。美しい高い女高音に近い声が、その響きにからみついて緩やかな独唱を始める。やがてそれを追いかけるように低い大きい合唱が始まる。屈折の少ない、しかし濃淡の細やかなそのメロディーは、最初の独唱によってまた身震いを感じないでいられなかった我々の祖先の心を、大きい融け合った響きの海の内に流し込む。苦しいほどの緊張は快い静かな歓喜に返って行き、心臓の鼓動はまたゆるやかに低い調子を取り返す。
 けれどもこの穏やかさは、視覚に集中した心が聴覚の方へ中心を移す一つの中間状態に過ぎない。僧侶たちが、仏を礼讃する心持ちにあふれながら読誦するありがたいお経は、再び徐々に、しかし底力強く、彼らの血を湧き立たせないではおかないのである。彼らの心には、絶大微妙な仏力に対する帰依の念が、おいおい高まって来る。そうしてそれは音楽が与える有頂天な心持ちとぴったり相応じている。時々あの高い声の独唱が繰り返されるのも、そのたびごとにいくらか合唱が急調になって行くのも、皆彼らの歓喜をあおるとともに、彼らの信仰を刺激し強めないではいない。音楽の力はただ仏の力として彼らに受け取られるのである。
 音楽に陶酔した彼らは、時々うっとりとした眼をあげて、あの神々しい偶像をながめる。彼らはもう自分自身のことなどを意識しない。彼らの心は偶像の内に融け入り、ただ無限の感謝と祝福との内に、強烈な光燿と全心の軽快とを経験するのである。――実際、興奮した彼らの心は、彫刻に対しても音楽に対しても、きわめて敏感になっている。その内のいのちの強さと濃淡とは、たとえ明確にではなくとも、きわめて強烈に感ぜられたに相違ない。ことに右の場合のごとく、すべての芸術的効果と宗教的感化とが、ただ一点に、すなわち偶像の礼拝に集中している際には、その有頂天がいかに深く強いか、ほとんど我々の想像以上であったらしい。かくして我々の祖先は、偶像崇拝において一種の美的宗教的な大歓喜を味わっていたのである。

 さらにこのことは、「生きがいのある」、より高い生活を求めて「道場」にはいった多くの僧侶において、一層著しかったに相違ない。
 当時の寺院は恐らくすべての点から見て文化の宝蔵であった。そこにはただ修道と鍛練との精進生活があったばかりではない。むしろあらゆる学問、美術、教養などがその主要な内容となっていた。あたかも大学と劇場と美術学校と美術館と音楽学校と音楽堂と図書館と修道院とを打って一丸としたような、あらゆる種類の精神的滋養を蔵した所であった。そこで彼らは象徴詩にして哲理の書なる仏典の講義を聞いた。その神話的な、象徴化の多い表現に親しむとともに、それを具体化した仏像仏画にも接した。私は彼らの心臓の鼓動を聞くように思う。――彼らが朝夕その偶像の前に合掌する時、あるいは偶像の前を回りながら讃頌の詩経を誦する時、彼らの感激は一般の参詣者よりもさらに一層深かったに相違ない。
 私はこの種の僧侶のうち、特に天分の豊かであった少数のものが、単に「受くる者」「味わう者」である事に満足せずして、進んで「与うる者」「作る者」となったことを、少しの不自然もなく想像し得ると思う。
 芸術鑑賞と宗教的帰依とが一つであった。それと同様にある少数者に取っては、芸術製作と宗教的救済とが一つにならなくてはならなかった。実際この特に象徴的な仏教においては、彼らが感じ得たある宗教的心境は、彼らの内に現われた時にすでに象徴的な形を取っているのである。彼らがそれを人に伝え人を救おうとする時には、彼らは必然にその象徴を実現しなくてはならないのである。
 その方法は芸術のほかにない。かくて僧侶は芸術家にならなくてはならぬ。またたとえ、本来の芸術家であるにしても、その製作欲が熟するためには、必ず僧侶になるかあるいは熱烈な信者であらねばならなかった。ここに偶像礼拝と密接に相関する芸術製作の特異な例があるのである。芸術鑑賞がその根源を製作者の内生に発するごとく、偶像礼拝もまたその根源を偶像製作者の内生に発する。我々は祖先の内のこの製作者を、もっともっと尊敬しなければならない。
 芸術家が独立していなかったというごときは、この際何ら問題にはならない。それを特に何事かの欠如に帰して考えようとするのは、偶像礼拝の心理をあまりにも軽視するからである。かの時代においては宗教家は何らかの程度において必ず芸術家でなければならなかった。それは当時の宗教の内奥から出た必然であった。そうしてそこに偶像礼拝の最後の契機があった。ある人は僧侶が製作する理由を、儀規に通ずるゆえと伝道の方便のゆえとに帰して説明したが、その種の理由は人をして芸術家たらしめるに何の効もあるまい。芸術家は、ただ知識と功利的目的とによってのみ製作欲を起こし得るほど、いい加減なものではないのである。
 私は偶像崇拝の正当な根拠を説いた。この視点から見て、千年以前の我々の祖先の文化がいかに心理的な深さを獲得するかは、きわめて興味ある問題である。その成功を伴なった華やかな方面においても、また腐敗を伴なった暗黒な方面においても。――
 これは確かに一つの視点である。それによって私は今、祖先の生活を見つめている。

底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
   2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「新潮」
   1917(大正6)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
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