自分にとっては、強く内から湧いて来る自己否定の要求は、自己肯定の傾向がくまなく自分を支配していた後に現われて来た。そうしてそれは自分を自己肯定の本道に導いてくれそうに思われる。
 自我の尊重、個人の解放、――これらの思想はただ思想として自分の内にはいって来たのではなかった。小供の時から自分の内に芽生えていた反抗の傾向――すべての権威に対する反抗の気風はこれらの思想によって強い支柱を得、その結果として自尊の本能が他の多くの本能を支配するようになった。外から与えられたように感ぜられる命令、――この事をしろとかあの事をしてはならぬとかいう命令はすべて力のないものに見え、ただ自分の意欲することのみが貴いと思った。自分の内から出てやる自己否定という如きものも、実は内に喰い入っている外来の権威への屈服であると思っていた。それとともに自分の傾向や自分と偉大なる者との間の距離などは全然見えなくなってしまった。自分にだってそれは出来る、ただそれを実現していないだけだ、――すべての事に対してそういう気持ちがあった。
 無批評に自分の尊貴を許すということは、自分の内にわだかまっている多くの性質の間の関係をことごとく変化せしめた。これまでは調和がとれていた故に現われなかった性質が調和の破れるとともに偏狭に現われて来た。自分の内には、自分の運命に対する強い信頼が小供の時から絶えずはたらいていたけれども、またその側には常に自分の矮小わいしょうと無力とを恥じる念があって、この両者の相交錯する脈搏の内にのみ自分の成長が行われていたのであるが、この時からその脈搏は止まってしまった。自己の価値はもはや問題にならなくて、どんなものでも、またどんなにそれが偏狭であっても、とにかく自己として現われてくる者は皆一様に絶対の価値を担っていると信じていた。
 そうして自分はどうなったか。自分は独我主義の思想を体現したのである。外容はとにかく、すべての人および物に対して自分の心持ちは頑固に自尊の圏内を出でなかった。人および物に対する同情と理解との欠乏は、自分の心の全面に嘲笑憤怒とをみなぎらしめた。人に頼ることを恥じるとともに、人に活らき掛けることをも好まなかった。孤立が誇りであった。友情は愛ではなくてただ退屈しのぎの交際であった。関係はただ自分の興味を刺戟し得る範囲に留まっていた。愛の眼を以て見れば弱点に気づいてもそれを刺そうという気は起らないが、嘲りの眼を以て見れば弱点をピンで刺し留めるのが唯一の興味である。それ故人に対する時自分の心の面には常に弱所を突こうとする欲望があった。またすべての愛は自愛に帰納せられた。人を愛する心持ちがどんなに強く自分の内に起って来ようとも、それを自愛まで持って行かなければ満足が出来なかった。
 この時自分の解していた「自己肯定」より見れば自分のこの傾向は至極徹底的であった。すべての人が自分を捨ててもいい。人が自分を捨てる前に自分は既にその人を捨てているのである。自分は孤立の淋しさを恐れない。それを恐れるのは自分の独立と自由とが完全でない証拠に過ぎないから。自分が人を欲する時には人を征服して自分に隷属せしめる。自分の愛は、常に、自分を完成する要素としての人間に向う。自分は淋しさや頼りなさを追い払うために友情を求めたりなんぞはしない。友人の群を心持ちの上の後援として人と争ったりなんぞはしない。自分はただ独りだ。ただ独りでいいのだ。
 しかしながらこれは自分の全部であったろうか。自分は自分の内の愛を殺戮さつりくするために、忍びやかに苦痛を感じてはいなかったろうか。自分は自分の嘲笑や皮肉が人を傷つけ人を怒らせた時、常に「それは自分の欲した所ではなかった」という案外な感に打たれはしなかったか、自分の嘲笑や皮肉をそう深い意味に取られては困ると思いはしなかったか。そうして、そういう冷やかな態度を取らなければ満足の出来ない自分をひそかに悲しみはしなかったか。
 自分の内には、永い間、押えつけているものと押えつけられている者との間の争闘があった。苦痛が絶えず心を噛んでいた。この苦痛は主我の思想によって転機に逢会ほうかいするまで常に心を刺していたのであるが、転機とともに一時姿を隠した。自分はそれによって大いなる統一を得たつもりであった。しかしやがてまた苦痛は始まった。そうしてそれが追々強まって行くとともに、ちょうど夜明けのように、また新らしい転機が迫って来た。
 最初の光は、自己の価値が問題になったことである。偉大なる人が何故に偉大であるかという事も追々に解って来た。いかに自分が矮小であるかということもそれに従って明らかになって来た。それによって自分の運命に対する信頼の念はいささかも減じないが、本当の自分というものがこれまで考えていた自分のようなものでないことは確かになった。これまでの自分は真実の自己の殻であり表面である。真実の自己は全然顧みられていなかった。真実の自己を深く強く伸びさせるためには、これまでの孤立しようとする自己を捨てなければならない。この意味で自己否定という事が自分には切実な問題になって来た。真実に自己肯定をやるためには、まず自己否定がなければならぬ。
 即ち自己にとっては自己の肯定と否定とはアルタナチヴではない。ただ肯定と否定との場合に「自己」の意味が違うだけである。絶対に「自己」を絶滅させようという要求は自分にはまだ縁がない。ショーペンハウエルの意志否定はかなり根元的の否定であるが、しかし彼の解脱――意志なき認識や涅槃ねはんなどにおいては、なお真実に自己を活かすことが出来ると思う。
 真実の自己は、意識的に分析する事の出来ないものである。それは様々な本能から成り立っているが、しかし確然とその本能の数をいうことは出来ぬ。これらの多様なる本能が統一せられた所に個性がある。従って個性もまた明確に認識せられ得るはずのものではない。
 個性は、たとえていえば人相のようなものである。一、二の特徴を捕えることは出来るが、微妙な線や表情になると到底詳しく説明することは出来ない。しかも詳しく見れば見るほど他とは異なっている。最も特徴のない平凡な顔でも決して他と同一ではない。われわれは知力の傾向に従って、特異な点を常に看過しようとするけれども、実際はすべてが全然特異なのである。
 またわれわれは漠然と「顔」ということをいうが実際にわれわれが経験するのは個々別々な、特殊な人相であって一般的な「顔」ではない。人相のない顔を思い浮かべる事は出来ない。けれどもいかに特殊な人相の顔でもそれは「顔」である。「顔」の一部ではなくて全部である。そうして「顔」であるという点においてはすべてが同一である。またわれわれに対して意味価値を持つのは必ず人相であるが、しかしそれは顔として意味価値を担うのである。――ちょうどこれと同じようなことが個性と人間とについてもいわれ得る。個性なくして人間はない。しかしいかに特異な個性も全体ガンツェスとしての人間である。意味価値のあるのは常に個性であるが、人間としてでなければそれは意義がない。
 個性を完成することはわれわれの生活の内にひそむ目的である。個性が完成せらるる度の強ければ強いほどそれは特殊の色彩を強めるのであるけれども、同時にまた人性の進化に参与する所も深くなる。特殊の極限はやがて普通となるのである。
 個性の完成、自己の実現はいたずらにに執する所に行われるものではない。偉人の自己は強く人性的の色を帯びている。我の殻を堅くする所には真の征服も創造も行われない。大いなる愛は我を斥ける。そうしてすべて偉大なるものは大いなる愛から生まれる。偉人は凹んでいるように見える時に完全な征服を行っている。彼は愛を以て勝つのである。真に人格を以て克つのである。我を以て争う時にはどんなに弱いものでも刃向はむかって来る。嘲笑や皮肉によっては何者も征服せられない。偉人は卑しい者の内にも人間を見る。手におえないようなあばずれ者にも真に人間らしい本音を吐かせる。
 しかし我をなくすることによって個性の色はいささかも薄くならない。かえって強烈に深刻に現われて行く。
 ――こういう事を考えるようになってから自分はどういう風に変化したか。自分の内にあって自分を軽蔑する者がますます強くなって来たばかりである。
 しかし我を斥けようとする要求は、今自分の内に最も切実に活らいている。このために自分の心持ちは――自分に対する自分の心持ちは著しく変わって来た。
 たとえ自分の内に、この要求のなお生温なまぬるくまた深刻でないことを罵る声が絶えないにしても、自分は前よりは一歩深く生活にはいって行ったように感ずる。かつて自分が我を斥けようと努力した時代に比べれば、他動が自動に変わったという意味で全く違った心持ちである。
 けれども自分はなお依然として我によって動いている。二、三の特殊の場合のほかは、人に対してまず我が出る。これは主我の傾向が根本的のものであり、我を否定しようとする要求があとより附け加えられたものであるからだとは思わない。自分にはまだすべての人の内の「人間」を愛するだけの力がない。人から我を以て迫られた時に、自分もまた我を以て迎えなければ腹の虫が承知しないほど自分にはまだ愛が足りない。自分の愛は二、三の特殊の場合をようやく支えるに足りるほどである。
 それ故に自分は醜くまた弱い自分を絶えず眼の前に見ている。自分の我を以て常に人の弱所を突こうとしている卑しい自分を絶えず見まもっている。後悔が鋭く胸を刺すこともまれではない。自分の醜さに堪えられぬほどの恥ずかしさを感ずることも稀ではない。悔いなきことを誇りとしたのは、もう過ぎ去った事である。やがてまた悔ゆることなき生活に入りたいという要求はあるが、それにはまず我を滅して大いなる愛の力に動く所の自分になっていなくてはならぬ。真に自分の個性の建立に努むる途上においてならば、いかなる事が起ろうとも自分は悔いない。
 自分は自分の力に許されている以上のことを望んでいる。しかし自分は自分以外のものになろうとしているのではない。また自分を改良し訂正しようとしているのでもない。今の自分の能力に不満であるとともに、伸びようとしている自分の力をいかにもして生い育てようというのである。そのためには、我を破壊することが何よりもまず必要なのである。特に自分のようなものにとっては実際にそれが必要なのである。
 自分は我を斥けようとする時に自己を危険ならしめるのではないかという気がする。ことに相手がを通そうとする時自分の我を引っ込めるのは、屈服ではないだろうかとよく思う。自分が我を斥けたために相手が勝ち誇ったような顔をすれば、自分はいつも屈辱を感ずる。自分が可哀そうになる。けれどもここで恥じ悲しみ苦しむものは、また自分の我である。を通して見た所で自分がどうにもならないとともに、我を通さなくとも個性には何の影響もない。自分が我を以て打ち勝とうとしまた打ち克ったつもりでいた事は、皆嘘であった。表面では自分が勝ったようになっていても、相手の我はむしろ自分を憎悪し嫌厭していた。明らかに自分の方が強く優れている場合でも決して尊敬はされていなかった。特に相手が、嘘をつくことの平気な、こびを以て男に対しようとするような女である場合に、その事実は明らかであった。これに反して自分が最も我の少ない虚心な態度で交わっている人には、本当の自分が最も明らかに活らき掛けていた。
 自分はすべての人と妥協した平和な状態を望んでいるのではない。個性は最高の権威を持ち、争闘は人性の根本に横たわっている。しかし人々が皆我を滅して、しみじみした涙を流し、お互いに「人間」として心と心とを触れ合わせるというような状態になると、個性はその特殊を厳密に保持しながら相互に融け合い、争闘は我の偏狭を脱して人性進化のために愛の光の内に行われる。偉大なる者への屈従は歓喜を以て迎えられ、弱小を征服することは大いなる愛の力を以てせられる。ここに偉大なる者の偉大なるゆえんは最も明らかにせられる。そうして弱小なる者の生活が人性の上に持っている意義もまた明瞭になる。
 自分はなお日々に悔いを遺している。また日々に自分の力の極限を経験している。しかしかくの如き状態に自分が住んでいるという事についてはいささかも悔いない。自分の力の極限を経験することは、やがてその極限を乗り超える事の前提である。我を滅し得ず、愛の力の足りないという悔いは、我を滅して大いなる愛の力に動くことの準備である。
 自己否定は今の自分にとっては要求である。しかしこの要求が達せられた時には、自分は既に自分の頂上に昇っている。
 この要求は自分の個性の建立、自己の完成の道途の上に、正しい方向を与えてくれる。

底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
   2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「反響」
   1914(大正3)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
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