私が漱石と直接に接触したのは、漱石晩年の満三個年の間だけである。しかしそのおかげで私は今でも生きた漱石を身近に感じることができる。漱石はその遺した全著作よりも大きい人物であった。その人物にいくらかでも触れ得たことを私は今でも幸福に感じている。
 初めて早稲田南町の漱石山房を訪れたのは、大正二年の十一月ごろ、天気のよい木曜日の午後であったと思う。牛込うしごめ柳町の電車停留場から、矢来下やらいしたの方へ通じる広い通りを三、四町行くと、左側に、自動車がはいれるかどうかと思われるくらいの狭い横町があって、先は少しだらだら坂になっていた。その坂を一町ほどのぼりつめた右側が漱石山房であった。門をはいると右手に庭の植え込みが見え、突き当たりが玄関であったが、玄関からは右へも左へも廊下が通じていて、左の廊下は茶の間の前へ出、右の廊下は書斎と客間の前へ出るようになっていた。ところで、この書斎と客間の部分は、和洋折衷と言ってもよほど風変わりの建て方で、私はほかに似寄った例を知らない。まず廊下であるが、板の張り方は日本風でありながら、外側にペンキ塗りの勾欄こうらんがついていて、すぐ庭へ下りることができないようになっていた。そうしてこういう廊下に南と東と北とを取り巻かれた書斎と客間は、廊下に向かって西洋風の扉や窓がついており、あとは壁に囲まれていた。だからガラス戸が引き込めてあると、廊下は露台のような感じになっていた。しかしそのガラス戸は、全然日本風の引き戸で、勾欄の外側へちょうど雨戸のように繰り出すことになっていたから、冬はこの廊下がサン・ルームのようになったであろう。漱石の作品にある『硝子戸の中』はそういう仕掛けのものであった。そこで廊下から西洋風の戸口を通って書斎へはいると、そこは板の間で、もとは西洋風の家具が置いてあったのかもしれぬが、漱石は椅子とか卓子とか書き物机とかのような西洋家具を置かず、中央よりやや西寄りのところに絨毯じゅうたんを敷いて、そこに小さい紫檀したんの机を据え、すわって仕事をしていたらしい。室の周囲には書棚が並んでおり、室の中にもいろいろなものが積み重ねてあって、紫檀の机から向こうへははいる余地がないほどであった。客間はこの書斎の西側に続いているので、仕切りは引き戸になっていたと思うが、それは大抵あけ放してあって、一間のように続いていた。客間の方は畳敷で、書斎の板の間との間には一寸ぐらいの段がついていたはずである。この客間にも、壁のところには書棚が置いてあった。
 私が女中に案内されて客間に通った時には、漱石はもうちゃんとそこにすわっていた。書斎と反対の側の中央に入り口があって、その前が主人の座であった。私はそれと向き合った席に書斎をうしろにしてすわった。ほかには客はなかった。
 この最初の訪問のときに漱石とどういう話をしたかはほとんど覚えていないが、しかし書斎へはいって最初に目についた漱石の姿だけは、はっきり心に残っている。漱石は座ぶとんの上にきちんとすわっていた。和服を着てすわっている漱石の姿を見たのはこれが最初である。客がはいって行ってもあまり体を動かさなかった。その体つきはきりっと締まって見えた。三年前の大患以後、病気つづきで、この年にも『行人』の執筆を一時中絶したほどであったが、一向病人らしくなく、むしろ精悍せいかんな体つきに見えた。どこにもすきのない感じであった。漱石の旧友が訪ねて行って、同じようにして迎えられたとき、「いやに威張っているじゃないか」と言ったという話を、その後聞いたことがあるが、人によるとこの態度を気取りと受け取ったかもしれない。しかし私はどこにもポーズのあとを感じなかった。因襲的な礼儀をぬきにして、いきなり漱石に会えたような気持ちがした。たぶんこの時の印象が強かったせいであろう。漱石の姿を思い浮かべるときには、いつもこのきちんとすわった姿が出てくる。実際またこの後にも、大抵はすわった漱石に接していた。だから一年近くたってから、歩いている漱石を見ていかにもよぼよぼしているように感じられて、ひどく驚いたことがある。確かザルコリの音楽会が帝国ホテルで催されたときで、玄関をはいって行くと、十歩ほど先をコツコツと歩いて行く漱石のうしろ姿が見えたのであった。それを見て私はすぐに漱石の大患を思い出した。それは決して精悍な体つきではなかった。
 初めて漱石と対坐しても、私はそう窮屈には感じなかったように思う。応対は非常に柔らかで、気おきなく話せるように仕向けられた。秋の日は暮れが早いので、やがて辞し去ろうとすると、「まあ飯を食ってゆっくりしていたまえ、その内いつもの連中がやってくるだろう」と言ってひきとめられた。膳が出ると、夫人が漱石と私との間にすわって給仕をしてくれられた。夫人は当時三十六歳で、私の母親よりは十歳年下であったが、その時には何となく母親に似ているように感じた。体や顔の太り具合が似ていたのかもしれない。かすかにほほえみを浮かべながら、無口で、静かに控えておられた。当時はまだ『道草』も書かれておらず、いわんや夫人の『漱石の思い出』などは想像もできなかったころであるから、漱石と夫人との間のいざこざなどは、全然念頭になかった。『吾輩は猫である』のなかに描かれている苦沙弥くしゃみ先生夫妻の間柄は、決して陰惨な印象を与えはしない。作者はむしろ苦沙弥夫人をいつくしみながら描いている。だから私は漱石夫妻の仲が悪いなどということを思ってもみなかったのである。実際またこの日の夫人は貞淑な夫人に見えた。
 食事をしながら、漱石は志賀直哉君のうわさをした。確かそのころ、漱石は志賀君に『朝日新聞』へ続きものを書くことを頼んだのであったが、志賀君は、気が進まなかったのだったか、あるいは取りかかってみて思うように行かなかったのだったか、とにかくそれをことわるために漱石を訪ねた。それが二、三日前の出来事であった。その時のことを漱石は話したのである。その話のなかに、「志賀君もなかなか神経質だね」という言葉のあったことを、私はぼんやり覚えている。
 食事がすんでしばらくすると、ぼつぼつ若い連中が集まり始めた。木曜日の晩の集まりは、そのころにはもう六、七年も続いて来ているので、初めとはよほど顔ぶれが違って来ていたであろうが、その晩集まったのは、古顔では森田草平、鈴木三重吉、小宮豊隆、野上豊一郎、松根東洋城など、若い方では赤木桁平あかぎこうへい内田百間うちだひゃっけん、林原耕三、松浦嘉一などの諸君であったように思う。客間はたぶん十畳であったろうが、書斎の側だけには並び切れず、窓のある左右の壁の方へも折れまがって、半円形に漱石を取り巻いてすわった。客が大勢になっても漱石の態度は少しも変わらなかった。若い連中に好きなようにしゃべらせておいて、時々受け答えをするくらいのものであった。特によくしゃべったのは赤木桁平で、当時の政界の内幕話などを甲高かんだかい調子で弁じ立てた。どこから仕入れて来たのか、私たちの知らないことが多かった。が、ほかの人たちが話題にするのは、当時の文芸の作品とか美術とか学問上の著作とかの評判であった。漱石はそういう作品の理解や批判の力においても非常にすぐれていたと思う。若い連中にはどうしても時勢に流され、流行に感染する傾向があったが、漱石は決してそれに迎合しようとはせず、また流行するものに対して常に反感を持つというわけでもなく、自分の体験に即して、よいものはよいもの、よくないものはよくないものとはっきり自分の意見を言った。森田、鈴木、小宮など古顔の連中は、ともすれば先生は頭が古いとか、時勢おくれだとか言って食ってかかったが、漱石は別に勢い込んで反駁はんばくするでもなく、言いたいままに言わせておくという態度であった。だからこの集まりはむしろ若い連中が気炎をあげる会のようになっていたのである。しかし後になっておいおいにわかって来たことであるが、漱石にたてをついていた先輩の連中でも、皆それぞれに漱石に甘える気持ちを持っていた。それを漱石は心得ており、気炎をあげる連中は自分で気づかずにいたのだと思う。
 この木曜会の気分は私には非常に快く感じられた。それでこの後には時々、たぶん月に一度か二度ぐらいは出席するようになった。

 漱石を核とするこの若い連中の集まりは、フランスでいうサロンのようなものになっていた。木曜日の晩には、そこへ行きさえすれば、楽しい知的饗宴にあずかることができたのである。が、そこにはなおサロン以上のものがあったかもしれない。人々は漱石に対する敬愛によって集まっているのではあるが、しかしこの敬愛の共同はやがて友愛的な結合を媒介することになる。人々は他の場合にはそこまで達し得なかったような親しみを、漱石のおかげで互いに感じ合うようになる。従ってこの集まりは友情の交響楽のようなふうにもなっていたのである。漱石とおのれとの直接の人格的交渉を欲した人は、この集まりでは不満足であったかもしれない。寺田寅彦などは、別の日に一人だけで漱石に逢っていたようである。少なくとも私が顔を出すようになってから、木曜会で寅彦に逢ったことはなかった。また漱石の古い友人たちも、木曜日にはあまり顔を見せなかった。私の記憶に残っているのは、ただ一つ、畔柳芥舟くろやなぎかいしゅうが何かの用談に来ていたくらいのものである。
 大正三年ごろの木曜会は、初期とはだいぶ様子が違って来ていたのであろうと思うが、私にはっきりと目についたのは、集まる連中のなかの断層であった。古顔の連中は一高や大学で漱石に教わった人たちであるが、その中で大学の卒業年度の最もあとなのは安倍能成君であって、そのあとはずっと途絶えていた。安倍君と同じ組には魚住影雄、小山鞆絵、宮本和吉、伊藤吉之助、宇井伯寿、高橋穣、市河三喜、亀井高孝などの諸君がいたが、安倍君のほかには漱石に近づいた人はなく、そのあと、私の前後の三、四年の間の知友たちの間にも、一人もなかった。木曜会で初めて近づきになった赤木桁平、内田百間、林原耕三、松浦嘉一などの諸君は、皆まだ大学生であった。また古顔の連中は、鈴木三重吉のほかは皆一高出であったが、若い大学生では赤木、内田両君が六高、松浦君が八高出であった。だから私はちょうどこの断層のまん中にいたことになる。芥川龍之介の連中が木曜会をにぎわすようになったのは、さらに二年の後、大正五年のことである。
 古い連中と新しい連中との間には、年齢から言っても六、七年、あるいは十年に近い間隙があったし、また漱石との交わりの歴史も違っていた。古い連中は相当露骨に反抗的態度を見せたが、新しい連中にはそういうことはできなかったし、またしようとする気持ちもなかった。しかし大正三年のころには、そういう断層のために何か不愉快な感情が起こるということは、全然なかったように思う。これは私が鈍感であったせいかもしれぬが、とにかく私自身は、古い連中が圧制的だと感じたこともなかったし、また漱石に楯を突く態度をけしからぬと思ったこともない。初めのうちは、弟子たちが漱石に対して無遠慮であることから、非常に自由な雰囲気を感じたし、やがてそのうちに、前に言ったような弟子たちの甘えに気づいて、それを諧謔の調子で軽くいなしている漱石の態度に感服したのである。楯を突いていた連中でも、たまに漱石からまじめなことを一言言われると、ひどく骨身に徹して感じたようであった。断層のために幾分弟子たちの間に感情のこだわりができたのは、芥川の連中が加わるようになってからではないかと思う。そのころ私は鵠沼くげぬまに住んでいた関係で、あまりたびたび木曜会には顔を出さなかったし、またたまに訪れて行った時にはその連中が来ていないというわけで、漱石生前には一度も同座しなかった。従ってそういうことに気づいたのは漱石の死後である。

 木曜会で接した漱石は、良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であった。癇癪を起こしたり、気ちがいじみたことをするようなところは、全然見えなかった。諧謔で相手の言い草をひっくり返すというような機鋒はなかなか鋭かったが、しかし相手の痛いところへ突き込んで行くというような、辛辣しんらつなところは少しもなかった。むしろ相手の心持ちをいたわり、痛いところを避けるような心づかいを、行き届いてする人であった。だから私たちは非常に暖かい感じを受けた。しかし漱石は、そういう心持ちや心づかいを言葉に現わしてくどくどと述べ合うというようなことは、非常にきらいであったように思われる。手紙ではそういうこともどしどし書くし、また人からもそういう手紙を盛んに受け取ったであろうが、面と向かって話し合うときには、できるだけ淡泊に、感情をあらわに現わさずに、互いに相手の心持ちを察し合って黙々のうちに理解し合うことを望んでいたように見えた。これはあるいは漱石に限らず私たちの前の世代の人々に通有な傾向であったかもしれない。私の父親などもそういうふうであった。私は父親から愛情を現わす言葉などを一度も聞いたことはない。言葉だけを証拠とすれば、父親には愛がなかったということになるが、そうでないことを私はよく理解していた。しかりつける言葉の中にだって愛は感じられるのである。しかしそういう態度は、親子の愛情などを何のこだわりもなしにあけすけに露出させる態度と、はっきり違っている。昔の日本の風習には、感情の表現にブレーキをかけるという特徴があったと思う。その点で漱石は前の世代の人であった。それだけに漱石は、言葉に現わさずとも心が通じ合うということ、すなわち昔の人のいう「気働きばたらき」を求めていたと思う。
 そういう漱石が、毎週自分のところに集まってくる十人ぐらいの若い連中――それは毎週少しずつ顔ぶれが変わるのであるから、全体としては数十人あったであろうが――そういう連中の敬愛にこたえ、それぞれに暖かい感じを与えていたということは、並み並みならぬ精力の消費であったはずである。もちろん漱石は客を好むたちであって、いやいやそうしていたのではないであろうが、しかしそれは客との応対によって精力を使い減らすということを防ぎ得るものではない。客が十人も来れば台所の方では相当に手がかかる。しかし客と応対する主人の精神的な働きもそれに劣るものではない。木曜会に時々顔を出したころの私は、そんなことをまるで考えてもみなかったが、後に漱石の家庭の事情をいろいろと知るに及んで、その点に思い及ばざるを得なかったのである。日本で珍しいサロンを十年以上開き続けていたということは、決して犠牲なしに行なわれ得たことではなかった。漱石は多くの若い連中に対してほとんど父親のような役目をつとめ尽くしたが、その代わり自分の子供たちからはほとんど父親としては迎えられなかった。これは家庭の悲劇である。漱石のサロンにはこの悲劇の裏打ちがあったのである。
 このことにはっきりと気づいたのは、漱石の死後十年のころに、ベルリンで夏目純一君に逢ったときである。純一君は漱石が朝日新聞に入社したころ生まれた子で、漱石の没したときにはまだ満十歳にはなっていなかった。木曜会で集まっている席へ、パジャマに着かえた愛らしい姿で、お休みなさいを言いに来たこともある。私は直接なじみになっていたわけではなく、漱石の没後にも、一時家を出ていたころに、九日会の日に玄関先で見かけたぐらいのものであった。だからベルリンの日本人クラブで、二十歳の青年になっている純一君から声をかけられたときには、初めは誰かわからなかった。名乗られて顔をながめると、一高の廊下で時々見かけたころの漱石のおもざしが、非常にはっきりと出ているように思えた。それから時々往来するようになり、さそわれていっしょにテニスをやりに行ったりなどしたが、似ているのは面ざしだけでなく、性格や気質の上にもかなり濃厚に父親似が感ぜられた。当時ベルリンで逢う日本人のうちでは、一番傑出した人物であったかもしれない。しかしまだ若い上に、釣り合いのとれないチグハグなところがあった。それは当人も気づいていて、「おれは日本語の丁寧な言葉ってものを一つも知らないんだよ。だから日本から来たヘル・ドクトルの連中に初めて逢って口をきくと、みんな変な顔をするんだ」と言っていたことがある。この純一君と話しているうちに、漱石の話がたびたび出たが、純一君は漱石を癇癪持ちの気ちがいじみた男としてしか記憶していなかった。いくら私が、そうではない、漱石は良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であったと説明しても、純一君は承知しなかった。子供のころ、まるで理由なしになぐられたり、どなられたりした話を、いくつでも持ち出して、反駁するばかりであった。そこにはむしろ父親に対する憎悪さえも感じられた。それで私ははっと気づいたのである。十歳にならない子供に、創作家たる父親の癇癪の起こるわけがわかるはずはない。創作家でなくとも父親は、しばしば子供に折檻せつかんを加える。子供のしつけの上で折檻は必要だと考えている人さえある。それは愛の行為であるから、子供の心に憎悪を植えつけるはずのものではない。創作家の場合には、精神的疲労のために、そういう折檻が癇癪の爆発の形で現われやすいであろう。しかしその欠点は母親が適当に補うことができる。純一君の場合は、母親がこの緩和につとめないで、むしろ父親の癇癪に対する反感をあおったのではなかろうか。そのために、年とともに消えて行くはずの折檻の記憶が、逆に固まって、憎悪の形をとるに至ったのではなかろうか。そうだとすれば、漱石夫妻の間のいざこざが、こういう形に残ったとも言えるのである。
 このことに気づいたとき私は、『道草』に描いてある夫婦生活の破綻を再び意味深く反省してみる気持ちになった。あの小説の主人公も細君も、決して悪い人ではない。しかしいずれも我が強く、素直に理解し合い、いたわり合おうとはしない。二人の間にやさしい愛情がないわけでもないのに、細君は夫を「気違いじみた癇癪持ち」に仕上げ、夫は細君を従順でない「しぶとい女」に仕上げて行く。漱石はこの作を書いた時より十年ほど前、『吾輩は猫である』を書き出す前後の自分の生活をこの作で書いたと言われているが、しかし作者としての漱石は作の主人公やその細君を一歩上から憐れみながら、客観的に批判して書いている。漱石の心境はもはや同じところに留まっていたのではない。しかし漱石の家庭生活がその心境と同じように一歩高いところへ開けて行っていたかどうかは疑わしい。夫人が素直に漱石について歩いていれば、あるいは漱石がその精力を家庭の方へ傾けていれば、たぶんそうなっていたであろう。しかしこの期間の生活の痕跡を一身に受けている純一君は、明らかにその反証を見せてくれたのである。『道草』に書かれた時代よりも後に生まれた純一君は、父親を「気違いじみた癇癪持ち」として心にきつけていた。それは容易に消すことができないほど強い印象であった。私はそこに十歳以前の子供に対する母親の影響を見たのである。
 これは私が漱石に接しはじめてから後にもわたっている出来事である。だから私は、漱石の明るいサロンが、家庭の悲劇の犠牲において作り出されていた、と感ぜざるを得ないのである。ああいうサロンの空気は、すでに『吾輩は猫である』のなかにも見いだすことができる。漱石はそこでは妻子に見せるとは異なった面を見せていた。何十人もの若い人たちに父親のような愛を注ぎかけた。そのための精力の消費が、夫として、あるいは父親としての漱石の態度に、マイナスとして現われるということはあり得たのである。漱石を気違いじみた癇癪持ちと感じることは、夫人や子供たちの側からは、それ相応に理由のあることであろう。漱石に対する理解や同情がありさえすれば、問題をそこまでこじらさなくてもすんだであろうとはいえる。しかしこれは夫人や子供たちに漱石と同程度の理解力や識見を要求することにほかならない。そういう要求はもともと無理である。漱石の方からおりて行って手を取ってやるほかに道はなかった。そのためには漱石は、家庭の外に向かって注いでいる精力を、家庭の内に向けるほかはなかった。もしそうしていれば漱石は、実際の漱石とはかなり別のものになっていたであろう。そういう漱石が、よりよい漱石であったかどうかは別問題である。が、少なくとも自分の子供の内に憎悪を烙きつける父親ではなかったろうと思われる。
 純一君にベルリンで逢ってから二年後に、漱石夫人の『漱石の思い出』が出版された。その中に漱石を一種の精神病者として取り扱っている個所がある。特に烈しいのは『道草』に書かれた時期のことである。そこに並べられているいろいろな事実から判断すると、夫人の観察は正しいと考えざるを得ないであろう。しかし実際に病気にかかったのであったならば、『吾輩は猫である』や『道草』などは書かれるはずがないと思う。当時漱石は、世間全体が癪にさわってたまらず、そのためにからだを滅茶苦茶めちゃくちゃに破壊してしまった、とみずから言っている。猛烈に癇癪を起こしていたことは事実である。しかしその時のことを客観的に描写し、それを分析したり批判したりすることができたということは、漱石が決して意識の常態を失っていなかった証拠である。それを精神病と見てしまうのは、いくらか責任回避のきらいがある。一体にこの『漱石の思い出』は、漱石を「気違いじみた癇癪持ち」に仕上げて行く最後のタッチであったような気がする。

 漱石と接触していた三年の間に、漱石と二人きりで出歩いたことは、ただ一度しかない。たしか大正四年の紅葉のころで、横浜の三渓園さんけいえんへ文人画を見に行ったのである。
 私は大正四年の夏の初めに、大森から鵠沼へ居を移した。そのころにちょうど東京横浜間は電化されたが、鵠沼から東京へ出るには汽車のほかはなく、それも二時間近くかかったと思う。木曜日の晩に漱石山房で話にふけっていれば、終列車に乗り遅れるおそれがあった。それで木曜会に出る度数は減ったが、訪ねて行くときは、午後早く行って夕方に辞去するようにした。そのころ、門の前まで行くと、必ず人力車が一台待っていた。客間には滝田樗陰たきたちょいんがどっかとすわって、右手で墨をすりながら、大きい字とか小さい字とか、しきりに注文を出していた。漱石はいかにも愉快そうに、言われるままに筆をふるっていた。
 たぶんその関係であろうと思うが、そのころにはしきりに文人画の話が出た。いい文人画を見た記憶などを漱石はいかにも楽しそうに話した。それを聞いていて私は原三渓はらさんけいの蒐集品を見せたくなったのである。三渓の蒐集品は文人画ばかりでなく、古い仏画や絵巻物や宋画や琳派りんぱの作品など、尤物ゆうぶつぞろいであったが、文人画にも大雅たいが蕪村ぶそん竹田ちくでん玉堂ぎょくどう木米もくべいなどのすぐれたものがたくさんあった。あれを見たら先生はさぞ喜ぶだろうと思ったのである。
 私はその話を漱石にしたように思う。そうして「それは見たいね」というふうな返事を聞いたようにも思う。しかしその点ははっきりとは覚えていない。覚えているのは漱石を横浜までつれ出すにはどうしたらよかろうと苦心したことである。あらかじめ三渓園の都合をきいて、日をきめて訪ねて行く、という方法を取るのでは、漱石はなかなか腰を上げないであろうというふうに感じた。それで、今から考えるとまことに非常識な話であるが、十一月の中ごろのあるうららかに晴れた日に、いきなり漱石をさそい出しに行ったのである。こんな日ならば気軽に出かける気持ちになるであろう、出かけさえすればあとは何とかなるであろう、と思ったのである。鵠沼から牛込までさそいに行ったのであるから、漱石山房へついた時にはもう十時ごろになっていた。玄関へ出て来た漱石は、私の突飛さにちょっとあきれたような顔をしたが、気軽に同意して着替えのために引っ込んで行った。
 今の桜木町駅のところにあった横浜駅に着いたのは、もう十二時過ぎであった。そのころ私はナンキン町のシナ料理をわりによく知っていたので、そこへ案内しようかと思ったが、しかし文人画を見せてもらう交渉をまだしていないことがさすがに気にかかり、馬車道の近くの日盛楼という西洋料理屋へはいって、昼食をあつらえるとすぐ三渓園へ電話をかけた。ちょうどその日に何か差支えでもあれば、変な結果になるわけであったが、その時には私はその点を少しも心配していなかったように思う。電話では、喜んでお待ちするとの返事であった。で私は、自分の突飛さをほとんど意識することなしに、自分の計画の成功を喜びながら、昼食をともにしたのである。
 私はその日、のりものの中や昼食の時などに、漱石とどんな話をしたかをほとんど覚えていない。ただ一つ覚えているのは、市電で本牧ほんもくへ行く途中、トンネルをぬけてしばらく行ったあたりで、高台の中腹にきれいな紅葉に取り巻かれた住宅が点在するのをながめて、漱石が「ああ、ああいうところに住んでみたいな」と言ったことである。
 三渓園の原邸では、招待して待ち受けてでもいたかのように、款待かんたいをうけた。漱石としては初めて逢う人ばかりであったが、まことに穏やかな、何のきしみをも感じさせない応対ぶりで、そばで見ていても気持ちがよかった。世慣れた人のようによけいなお世辞などは一つも言わなかったが、しかし好意は素直に受け容れて感謝し、感嘆すべきものは素直に感嘆し、いかにも自然な態度であった。で、文人画をいくつも見せてもらっているうちに日が暮れ、晩餐ばんさんを御馳走になって帰って来たのである。
 漱石は『吾輩は猫である』のなかで、金持ちの実業家やそれに近づいて行くものを痛烈にやっつけている。また西園寺さいおんじ首相の招待を断わって新聞をにぎわせた。そういうことから私たちは漱石が権門富貴に近づくことをいさぎよしとしない人であるように思い込んでいた。またそれが私たちにとって漱石の魅力の一つであった。しかし漱石は、いつだったかそういうことが話題になったときに、次のような意味のことを言った。相手が金持ちであるとか権力家であるとかということだけでそれに近づくのを回避するのは、まだこちらに邪心のある証拠である。ためにする気持ちが全然なければ、相手が金持ちであろうと貧乏人であろうと、大臣であろうと小使であろうと、少しも変わりはない。――ちょうどこの言葉に現わされているような態度を、私は実際に目の前に見るように感じた。

 滝田樗陰のことで思い出したが、たぶん大正五年の春であったと思う。木曜日の午後に、樗陰は墨をすりながら、きょうは先生に大きい字を書かせるといって意気込んでいた。漱石は半切はんせつに、「人静月同照」という五字を、一行に書いた。二、三枚書きつぶしてから、今度はうまく行ったと言って漱石が自ら満足する字ができた。樗陰も、これはいいと言ってしばらくながめていたが、やがて首をかしげて、先生、この文句は変ですね、と言い出した。漱石は、変なことはないよ、いい文句じゃないか、と答えたが、樗陰は、いや、おかしい、と頑強に主張した。漱石は立って書斎から李白の詩集を取って来て、しきりに繰っていたが、なるほど君のいう通りだ、人静月同眠だね、と言った。樗陰は、そうでしょう、そうでなくちゃならない、月同照は変ですよ、と得意だったが、漱石は、しかしそうなるとまことに平凡だね、といかにも不服そうだった。樗陰は、文句が違っていちゃしようがない、さあ書きなおしてください、と新しい紙を伸べた。漱石は、君がいやなら、これは和辻君にやろう、なかなかいいじゃないか、と言って、「人静月同照」の半切を私にくれた。私が直接漱石からもらった書は、これ一枚だけである。
 私は、「人静月同照」という掛け軸を、今でも愛蔵している。これは漱石の晩年の心境を現わしたものだと思う。人静かにして月同じく眠るのは、単なる叙景である。人静かにして月同じく照らすというところに、当時の漱石の人間に対する態度や、自ら到達しようと努めていた理想などが、響き込んでいるように思われる。
(昭和二十五年十一月)

底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「新潮」
   1950(昭和25)年12月号
入力:門田裕志
校正:米田
2012年1月5日作成
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