響きそのものが違うのは、その響きを立てる松の姿と欅の姿とを比べて見れば解る。直接音に関係のあるのは葉だろうと思うが、松の葉は緑の針のような形で、実際落葉樹の軟らかい葉には針のように突き刺すことができる。葉脈が縦に並んでいて、葉の裏には松の脂が出るらしい白い小さい点が細い白線のように見えている。実際強靭で、また虫に食われることのない強健な葉である。それに比べると、欅の葉は、欅が大木であるに似合わず小さい優しい形で、春芽をふくにも他の落葉樹よりあとから烟るような緑の色で現われて来、秋は他の落葉樹よりも先にあっさりと黄ばんだ葉を落としてしまう。この対照は、常緑樹と落葉樹というにとどまらず、剛と柔との極端な対照のように見える。が一層重要なのは枝のつき工合である。松の枝は幹から横に出ていて、強い弾力をもって上下左右に揺れるのであるが、欅の枝は幹に添うて上向きに出ているので、梢の方へ行くと、どれが幹、どれが枝とは言えないようなふうに、つまり箒のような形に枝が分かれていることになる。欅であるから弾力はやはり強いであろうが、しかしこの枝は、前後左右に揺れることはあっても、上下に揺れることは絶対にない。松の風の音は、右のような松の葉が右のような松の枝に何千何万と並んでいて、風によって上下左右に動かされて立てる響きなのであるが、欅の風の音は、右のような欅の葉が右のような欅の枝に同じく何千何万と並んでいて、風によってただ前後にだけ動かされて立てる響きなのである。それが非常に違うのは当然のことだと言ってよい。
松風の音に伴って起こってくる連想は、パチッパチッという碁石の音である。小高いところにあるお寺の方丈か何かで、回りに高い松の樹があり、その梢の方から松籟の爽やかな響きが伝わってくる。碁盤を挟んで対坐しているのは、この寺の住持と、麓の村の地主とであって、いずれもまだ還暦にはならない。時は真夏の午後、三、四時ごろである。二人は何も言わない。ただ時々、パチッパチッと石を置く音がする。
わたくしにはこの寺がどこであるか解らない。また碁を打っている住持と地主が誰であるかも解らない。しかしいつのころからか、松風の音を思うと、そういう光景が頭に浮かんでくる。碁石の音が、何か世間に超然としている存在を指しているように思える。松風の音はそういう存在の伴奏なのである。
わたくしの子供の時分には、こういう住持や地主が農村の知識階級を代表していた。その後半世紀を経たのであるから、そういう人たちはもう一人も残っていないであろう。たといそういう種族のうちで生き残っている人があるとしても、そういう生活の仕方は、もう許されなくなっているであろう。しかしああいう存在はあっていいと思う。あれもギリシア人のいわゆるスコレー(ひま)を楽しむ一つの仕方であろう。
底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「心」
1961(昭和36)年5月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
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