人生が苦患の谷であることを私もまたしみじみと感じる。しかし私はそれによって生きる勇気を消されはしない。苦患のなかからのみ、真の幸福と歓喜は生まれ出る。
 ある人は言うだろう。歓喜を産む苦患は真の苦患でない。苦患の形をした歓喜は真の歓喜でない。お前は苦患をも歓喜をも知らないのだ。お前の体験はそれほどに希薄だ。
 しかし私は答える。歓喜を産む可能性のない苦患は「生きている人」にはあり得ない。苦患の色を帯びない歓喜は「生に触れない人」にのみあり得る。そのような苦患と歓喜とは、息をしている死人や腐った頽廃者などの特権だ。
 苦患は戦いの徴候である。歓喜は勝利の凱歌である。生は不断の戦いであるゆえに苦患と離れることができない。勝利は戦って獲られるべき貴い瞬間であるゆえに必ず苦患を予想する。我らは生きるために苦患を当然の運命として愛しなければならぬ。そして電光のように時おり苦患を中断する歓喜の瞬間をば、成長の一里塚として全力をもってつかまねばならぬ。
 苦患のゆえに生を呪うものは滅べ。生きるために苦患を呪うものは腐れ。

 ショペンハウェルの哲学は苦患の生より生い出る絶妙な歓喜への讃歌であった。
 生を謳歌するニイチェの哲学は苦患を愛する事を教うるゆえに尊貴である。
 苦患を乗り超えて行こうとする勇気。苦患に焔を煽られる理想の炬火。それのない所に生は栄えないだろう。

 私は痛苦と忍従とを思うごとに、年少のころより眼の底に烙きついているストゥックのベエトォフェンの面を思い出す。暗く閉じた二つの眼の間の深い皺。食いしばった唇を取り巻く荘厳な筋肉の波。それは人類の悩みを一身に担いおおせた悲痛な顔である。そして額の上には永遠にしぼむことのない月桂樹の冠が誇らしくこびりついている。
 この顔こそは我らの生の理想である。

 苦患を堪え忍べ。
 苦患に堪える態度は一つしかない。そしてそれをベエトォフェンの面が暗示する。苦患に打ち向こうて、苦患と取り組んで、沈黙、静寂、悲痛の内に、苦患の最後の一滴まで嘗め尽くす。この態度のみが耐忍の名に価するだろう。
 苦患に背を向け、感傷的に慟哭し、饒舌に告白する。かくしてもまた苦患の終わりを経験することはできる。しかしそれを真に苦しみに堪えたと呼ぶことはできない。
 卑近の例を病気に取ってみよう。病苦は病の癒えるまで、あるいは病が生命を滅ぼすまで続く。言を換えて言えば、病苦は続く間だけ続く。病気に罹った以上は誰でも最後まで苦しみ通すのである。耐忍するもしないもない。しかも我々は病苦に堪え得る人と堪え得ぬ人とを区別する。同じ病苦を受けるにもそれほど異なった二つの態度があるからである。
「しかり」と「否」と。受ける態度と逃げる態度と。生きる人と死ぬ人と。これがまず人間の尊卑をきめるだろう。

 生の苦患に対する態度については、それが道徳的に大きい意義を持てば持つほど、より大きい危険がある。
 病苦は号泣や哀訴によってごまかすことはできても、全然逃避し得る性質のものでない。しかし精神的な生の悩みは、露出させる事によってごまかし得るほかに、また全然逃避することもできるのである。
 ある内的必然によって意志を緊張させた場合を想像する。喩えて言えば、ある理想のために重い石を両手でささげるのである。腕が疲れる。苦しくなる。理想の焔に焼かれている者は、腕がしびれても、眼がくらんでも、歯を食いしばってその石をささげ続ける。彼の心は、神の手がその石を受け取ってくれる瞬間のためにあえいでいる。しかしこれと異なった態度の人は、腕が疲れて来るに従って、石を大地に投げ捨てた時の安楽と愉快とを思う。そして自分にささやく。「こんな石をささげているのはばかばかしいではないか。これを投げ捨てれば俺の生は自由に軽快になるだろう。そこに真の生活があるのだ。」こういう自己是認ができるとともに、石が地に落ちる。彼は苦患を脱する。
 こうしてある種の人々は生から逃げ出して行く。そして漸次に息をしながら死んで行く。何ものも人格に痕を残さない。人格は一歩も成長しない。腐敗がいつのまにか核実にまで及んでいる。

 製作の苦しみは直ちに生の苦しみであるとは言えない。製作の苦しみが人格の苦しみに根を持つ時、初めて貴むべき苦しみになるのである。
 生活と製作とは一つでなければならぬ。これは自明のことである。しかしそれは恋をしながら同時に恋物語を書いて行くという意味ではない。製作は花、生活は根である。一つの生に貫ぬかれてはいるが、産む者と産まるる者との相違はある。偉大な花は深く張った根からでなくては産まれない。
 真に価値ある苦しみはただ根にのみ関する。大きい根から美しい花の咲かないことはあっても枯れかかった根から美しい花の咲くことは決してあり得ない。根の枯れるのを閑却して、ただ花のみ咲かせようとあせる人ほど、ばかげた哀れなものはないだろう。
 しかしその哀れな人々が、大きい顔をして、さも生きがいありそうに働いている。

お前の生を最もよく生きるために、
お前の苦しみを底まで深く苦しめ。
生が愛であることを、
愛が苦しみであることを、
苦しみが愛を煽ることを、
愛が生を高めることを、
お前のその顔に刻みつけろ。

底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
   2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「科学と文芸」
   1916(大正5)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
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