強い女王スカァアが剣持つ手の掌に死の影を握って支配していたスカイの島をクウフリンが立ち去った時、そこには彼の美を惜しむなげきがあった。クウフリンはアルスタアの王コノール・マック・ネサの招きに依ってアイルランドに帰ったのであった。そのときレッドブランチの党派は血に浸っていた。予言する人たちの眼には恐しい事が起って拡がって行くのが見えていた。
 クウフリンは年齢からいえばまだ少年であった、しかしスカイに来たとき少年であった彼は丈夫おとことなってその地を去った。女王もほかの女たちもクウフリンより美しい人を見たことがなかった。彼は松の若木のようにたけ高く柔軟しなやかで、皮膚は女の胸のように白く、眼は烈しく輝く青色で、その中に太陽の光のような白い光が宿っていた。少し身を屈めて弓に矢をつがえ、妻呼ぶ鹿の声を聞きながら草原に立つ時、或はまた、木に倚りながら、鷹狩の夢でもなく狼狩の夢でもなく、まだ見たことのない女の夢を見ている時、或はまた砦に剣を振り槍をしごいて勝負する時、競争場に戦車を走らせる時――その時、いつも彼の美を見ている人目があった。そして彼を美の神アンガス・オォグ自身かと疑う者さえあった。クウフリンの身辺には光があった、ちょうど日の入り方一時間前ぐらいの山々の夕ばえのような光であった。彼の髪はアンガスや金髪の神たちと同じ色であった。頭に近い辺は金を射出す土の色の茶色、中ほどは火焔のような赤さ、火の色の黄金の霧に散らばる髪の末の方は風ふく日の陽の光のように黄いろかった。
 しかしクウフリンはスカイの島で一人の女をも愛さなかった。また一人の女もあらわにクウフリンを愛し得なかった。それはスカァアがクウフリンを慕っていて、誰にもせよ女王の邪魔するのは自分の身に死の衣を着るようなものであったからだ。女王はレルグの子クウフリンのためにいつも輝かしい顔を見せていた。クウフリンの光まぶしい顔を見る時、彼女の眼のなかには暴風の暗いくもりは見えなかった。彼女は悦んで一人の女を殺した。それはクウフリンが些細の事のためにその侍女に小言をいった為であった。また或時女王が海賊の三人の捕虜の美しい男ぶりを愛でてその生命をゆるしてやったことがあった。クウフリンは何も云わず真面目な様子をして彼等を眺めていた。それを見た女王はその捕虜の一人一人の胸に剣を刺し通した、そして赤いしずくの落ちるその刃を愛の花としてクウフリンに贈ったこともあった。
 しかしクウフリンは夢見る人であった、彼は自分の夢に見るものを愛していた、その夢の中の女はスカァアではなかった、又このさびしい海岸に打ち上げられた人たちや負けいくさの終りに其処に船を乗り上げた人たちのためにミストの島を恐しい場所とした彼女の部下の女軍の女たちの一人でもなかった。
 スカァアは自分の甲斐ないのぞみを深く思いつめていた。或る風もないたそがれ時であった、彼女はクウフリンにもし愛している女があるかと聞いて見た。
「あります」彼は答えた「イテーンです」
 女王の息は早くあらあらしくなった。その時クウフリンが真白い胸から赤い血を流して彼女の足もとに白い顔をして倒れていると想像することは、彼女には愉快であった。しかし彼女は下脣をかんで静かに問うた。
「イテーンというのは誰」
「ミデルの妻」
 こういって青年は身を返して無愛想に歩み去った。女王は知らなかった、クウフリンが夢見ているイテーンはアイルランドで彼の見たことのある女ではなく、仙界の王ミデルの妻であった、あまりに彼女が美しいので、美の神マックグリナは彼女のために照り輝く玻璃はりの室を造ってやった、その中で彼女は夢のなかに生きていた、その光の部屋で、あかつきには花の色で、たそがれには花の香で養われていた。“O ogham mhic Gr※(グレーブアクセント付きE小文字)ine, tha e boidheach”と彼女はいつも夢の中で溜息をついている、いつでも永久に誰のいかなる恋の溜息の中にも、彼女のその溜息が交っているのだった。
 スカァアはクウフリンが砦の篝火かがりびの揺めく影に見えなくなるまで見送っていた。深く考えこみながら、彼女は長いこと其処に立っていた、沈みかかる夕日の上にうす茶色の鳥の羽のように見えていた新月の刃が青黒い空に銀色の光に現れて来て、やがてそれが星ぞらに海中の船跡のように見えるまで、其処に立っていた。そして女王の考えていたことはこうであった、アイルランドに使をやって、その使にミデルとイテーンを探し出させて、ミデルを殺して死骸を自分の許に持ち帰らせ、それを彼女からの贈物としてクウフリンにやるか、それとも、イテーンをスカイの島に連れて来させ、彼女が美を失って衰え死ぬのを女王自身で見届けるか、どちらかということであった。どちらのやり方もクウフリンの心をよろこばせ得ないかも知れない。暗い山の沼のような女王の心はそういう思いの影になおさら暗くなった。
 ゆっくりと彼女は夜のやみの中を砦の方に歩いて来た。
「月はある時は東から昇ると見える」女王は独言をいった「ある時は始めから西に見えていることもある、恋する心もそうである。もし私が西に行ったら、さて、月は太陽と同じ方からのぼるかも知れぬ。もし私が東に行ったら、月は入り日の上の白い光であるかも知れぬ。男おんなの心を知っている誰にはっきりいい切ることが出来る、愛の月は満月となって東に現れるか、それとも鎌の刃の如く西に現れるかと」
 つぎの日であった、アイルランドから便りがあった。一人のアルトニヤ人が国王コノールからといってクウフリンの許に剣を持って来た。
「この剣は病がある、レルグの子クウフリンよ、あなたがこの剣を救わなければ、剣は死ぬ」とその男がいった。
「アルトニヤ人よ、その病は何のやまいか」クウフリンがきいて見た。
「剣は渇いている」
 クウフリンは了解した。
 クウフリンの出立の夜、スカァアを仰ぎ見る者はなかった。彼女の眼には炎があった。
 月の昇るころ、女王は砦に帰って来た。彼女に出会った人たちは誰もその顔を見る勇気がなかった。その顔には、雲の陰の雷電の如く、死が籠っていた。しかし彼女の女軍の総大将メエヴは彼女に会いに来た、メエヴは喜びの便りを持って来たのであった。
「私はそのよろこびの便りのためにもお前を殺したいと思う」陰気な女王は女将軍に云った「クウフリンが再び帰って来たという事よりほかに何のよろこびの便りがあろう。ただお前の生命を助けて置くのは、あの夏の海賊どもが南の方の私の砦を焼いた時、お前が私の生命を救ってくれたからだ」
 そうはいったものの、スカァアはその便りを得てよろこんだ。海賊船が三艘スカアヴィック湾に押し流されて、暴風と狭いあら海との為に難破した。三艘の船に乗り組んでいた九十人の中でたった二十人が岩まで這い着いた。その人たちがいま砦の中にいましめられて死を待っているのであった。
「女兵どもを呼び寄せ、神代石の側の樫の木の下に集めて、砦に縛られている二十人の男たちを其処に連れて来させよ」と女王は命じた。
 メエヴからその命令が伝えられた時、火の光が散らばり剣と槍とのかち合う響があった。じきに一同は大きな樫の木の下のその石の前に集った。
「海賊どもの足の縄を切って、立たせてやれ」女王は命令した。
 ロックリンから来た丈たかい金髪の男たちは後手に縛られて立った。婦女子の慰みものになる怒りと恥が彼等の眼に燃えていた。剣の歌の響もない彼等の死はにがい死である。
「彼等の長い黄いろい髪をつかんで、樫の枝を下に抑えつけて、一本の枝ごとに一人ずつ髪を結びつけよ」スカァアは命じた。
 沈黙の中にこの命が行われた。海賊どもの蒼い顔に影がさした。
「枝を放せ」スカァアは命じた。
 大きい枝を下の方に抑えつけていた百人の女兵が飛び退いた。枝も上にはね上がって、その枝ごとに一人ずつ生きた人間がぶらさがった、長い黄いろい[#「黄いろい」は底本では「黄ろい」]髪の毛で風に揺られながら。
 彼等は立派な男たちで、強い勇士であった、しかし彼等の黄いろい[#「黄いろい」は底本では「黄ろい」]髪は彼等よりもなお強かった、その髪の毛よりも彼等の垂れ下がっている枝はなお強かった、そしてしなった木の実の如く彼等をぶらぶらとゆり動かす風はその枝よりもなお強かった、星は彼等の髪を銀の色に光らせ、篝火の光は彼等のおどっている白い足の裏を赤くそめて。
 その時女王スカァアは声高く長く笑った。その声よりほかに何の音もなかった、スカァアがその笑いかたをする時、誰も声を出す者はない、その笑いかたをする時は彼女はいつも狂気であった。
 やがてメエヴが進み出て、持っていた小さい琴をかき鳴らし、その荒々しい音に合せて海賊等の死の歌をうたった。

ああ、あわれ
大洋に船行かするはおもしろや
妻はほほえみ子等はよろこび笑う
大船の青き海にこぎいづる時――あわれ
あわれ

されど子等は笑わじ狼の来るとき
妻はほほえまじさむき冬の日
夏の日の船人らふたたび帰らんや、あわれ
ああ、あわれ

彼等ふたたびは帰ることあらじ
髪黄なるひとびと大洋を越えてきたる
彼等は野の林檎か、青き樹の枝に揺るる
風にゆれて鴉に眼をついばます
ああ、あわれ

そを見るは女王スカァアのよろこび
大石のほとりの樹の上に生るよき木の実を見たまう
長き、まだらの木の実、黄いろき根にひかれ風にゆらぐ
人の子の如く彼等はむなしき空に足をおどらす
ああ、ああ、あわれ

 メエヴがうたい止めた時、其処にいる一同は剣と槍を鳴らし、かがやく松明を夜のなかに揺り動かしてうたい合せた。

ああ、あわれ、あわれ
あわれ、ああ

 スカァアはもう笑わなかった。彼女はいまは疲れていた。死のよろこびも彼女の心にある痛みのために何の甲斐がある、クウフリンという痛みのために。
 それから間もなく砦は真暗になった。篝火のほのおも一つ一つ消えた、そしてたった一つの赤い光が夜の闇の中に残った、砦の見張りの火であった。すべての上に深い平和が来た。月に仔牛も鳴かず、犬もほえなかった。風は息ほどに静かになって、花から花へ香を運ぶ力もなくなった。樫の大木の枝々には不思議な木の実が、古い松の木から垂れるヘムロックのように、灰色して力なく、動きもせずに垂れていた。

底本:「かなしき女王 ケルト幻想作品集」ちくま文庫、筑摩書房
   2005(平成17)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「かなしき女王 フィオナ・マクラオド短編集」第一書房
   1925(大正14)年発行
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
※「されど子等は笑わじ狼の来るとき」の前を、底本の親本にもとづいて、1行あけました。
入力:門田裕志
校正:匿名
2012年5月14日作成
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