「世界の食通から『料理の王』と賛美されたフランス随一の板前オウグュスト・エスコフィエ老がこのほど亡くなった。
 翁は外国にあって――わけても英・独・米等の地に永く留まって、フランス料理の醍醐味だいごみあまねからしめたので、『美食の大使』とも呼ばれていた。
 ロンドンのサボイ・ホテルやカルトンで腕をふるっていた頃には、どれほどのいしん坊がはるばる海を渡って彼の皿を求めに来たか知れない。
 大戦前、しばらくの間独帝に仕えた折りのこと、朕を毒殺するも容易であろうといったカイゼルに対して、フランス人は不意討ちなどはつかまつりませぬと敢然といい放ったものだという。
 その死にって、パリのあらゆる新聞が筆を揃えて、偉大なる損失を悼んだのも、また、先に政府が勲章をもって功績に報いたのも、調理を芸術の一分野とる、いかにも美食国らしい振舞いではないか」
 右は「料理王逝く」として去る四月二十八日の東朝所載の記事。いかにもその料理王なるひとの生涯は思い見てうらやましきことだ。

       すべての日本は外国に優る

 その料理王の料理、いうがごとくしてそれが日本人であるなら、僕らのごときは毎日のように彼の料理を食ったことか分らない。
 昔から僕らは日本という国、およそ何事も精神的のことであるかぎり、いかなる外国にも劣ることなしと考えているが、料理人ばかりは、この話に価するような者は一人もいないようだ。

       日本料理と西洋料理との根本相違

 もっとも日本料理と西洋料理とは、根本的に行方が違うようである。西洋料理はだいたいにおいて拙い材料を煮様、焼き方によって美味くする。従って、発達した理知がもっとも必要だ。しかし、目はいらない。それというのは西洋料理は美術的でないから。西洋料理では物の色は大きな役目をしているといえない。従って、目を喜ばす色を持つ料理はないといってよい。だから、食器類が美術的によき発達をしていない。白くして汚れがない程度を喜ぶに過ぎない。
 こう考えてくると西洋料理なるものは、さほどむずかしいものとは考えられない。記事中の名料理人なるものは、どんなひとか知らないけれど、とにかく、一世に鳴った人物であってみれば、料理の好きな人間であったに違いなかろう。味覚上天才を持っておったことも、一大盛名をする第一の要素となっておったと見るべきだ。
 しかし、このひと、欧米の料理界において著名をうたわれたのは、料理の腕もさることながら、人間が相当に出来ていたに違いない。

       最後は人間の問題

 その人間の力というか、人格というか、人間が出来ているということ、それが根本での働きをして欧米唯一の王冠を得たものと思う。
 日本の料理界を見るとき庖丁を持たせば、達者に使える者は幾人もおる。煮炊きさせても、かれこれ役に立つ者もないではないが、ただうらむらくは人間の出来ている者がない。なにをするにしても、人間の出来ているということが、根本の問題であることは動かすべからざる事実だ。人間が出来ておって物が出来る。当たりまえながら、それで一人前なのだ。なんにも出来なくても、人間さえ出来ておれば、立派なものだ。いわんや人間が出来ておって物が出来るとしたら鬼に金棒だ。すなわち一人前の人間である。
 そういう意味において、日本の今の料理界は淋しい。まして日本料理は、美術的であるから審美眼が要る。また、食品材料の品種がむやみに多いから、これをいちいち見分ける体験と鑑定力がいり用だ。
 ひと口にたいといってもうなぎといっても、あるいはだいこんといっても、実に多種多様だ。ピンからキリまで幾通りあるか知れない。これがよし悪しを見分け、その特徴を捉えて、得失を考え、適宜にあんばいし、無理のない、合法的な真に美しい、食って美味い料理にすることは容易なわざではない。まったくへなちょこな人間では出来るものではない。

       質の異なる日本料理と西洋料理との吟味

 日本の料理は材料がよいために、西洋料理のごとく、複雑な技巧を用いないで美味く食えるものだ。よい魚ならば、塩を振って炭火でじかに焼いて、それで最高料理の一つになる。野菜のごときも新鮮であるならば、なんの手数も要しないで簡単に美味く食える。従って、日本料理は料理人の知恵で拵えた味が美食として大きな働きをするのでなく、天然の味を生かして味わうことが根本的となるわけだ。複雑な調味料や複雑な調理法は、日本料理に無用な場合が多い。
 こういうと、きわめて日本料理は簡単に考えられるが、この天与の天味を味わうということは、たかなかむずかしい。それはこれを知るひとがきわめて少ない一事で、かように断ぜられる。
 西洋料理のごとく中国料理のごとく、人間の取り繕った味というものは大衆に分りやすい。だが分りそうで分り難いのは、前いったように天然の味を知ることだ。

       一般に分り難い天然味と大衆に分りやすい人工味

 天然の持ち味は実にその数が多い。千種の魚があるとすれば、千の異なった持ち味がある。万の野菜があるとするならば万種の持ち味がある。これをいちいち味わって身につけることは、なんでもないようであって容易ではない。いわんや、それをいちいち生かすことにおいてをやだ。そこへゆくと料理法で、ひとの作った味は、その数にもかぎりがあってきわめて容易だ。数からいってもまったく覚えやすい。また、同じ人間仲間の作ったものであるだけに、直接親しみやすいところがある。そのせいか、たいていの人間は人知で出来た味付け物を喜ぶ。それから先へはなかなか歩まない。
 これを絵画で譬えれば、愚にもつかぬ絵を喜ぶ者が、天然の美に関心ないようなものだ。すすきの絵を見て、それが芸術上愚にもつかぬ絵であっても喜んでいて、本当の薄を見るとき軽視するがごときだ。美しさにおいてはいうまでもなく、本物の薄がもともと美しいのであるが、その薄の美しさは分らないで、下手でも絵の薄を喜ぶ。
 味を知ることにおいても、たいていはこの程度のものが多い。要するに日本料理の名手たらんとする者は、天然固有の「味」を天分の舌に認識して、それをいかに生かすかに苦心する者であらねばならん。日本料理は西洋料理の鍋の中でゴッタ返す手腕が物をいうのではない。食品材料の良否を弁別することを第一とする。それが出来得る力こそ、日本料理の根本を知る者だ。しかも、その上、美術鑑賞の可能要素が要る。それというのは、よき料理になればなるほど、料理に関連する食器その他が美術価値を高めてくるからだ。
 日本料理は見る料理ではなくて見るに足る料理となるわけだ。暗室で食う料理でないかぎり、盲人の食う食料でないかぎり、美を離れて存在するよき料理というものはないはずだ。
 フランスの名人というオウグュスト・エスコフィエ老は、果たしていうところの美と天味を知っていたかどうか。画でいえば精々栖鳳せいほうとか、鴈治郎がんじろう程度の技巧的名人肌ではなかったか。西洋人の世界一は、口ぐせの場合が多いようだ。

底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
   2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
   1993(平成5)年発行
初出:「星岡」
   1935(昭和10)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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