一

 淋しい風が吹いて來て、一本圖拔づぬけて背の高い冠のやうな檜葉ひば突先とつさきがひよろ/\と風に搖られた。一月初めの夕暮れの空は薄黄色を含んだ濁つた色に曇つて、ペンで描いたやうな裸の梢の間から青磁色をした五重の塔の屋根が現はれてゐた。
 みのるは今朝早く何所どこと云ふ當てもなく仕事を探しに出た良人の行先を思ひながら、ふところ手をした儘、二階の窓に立つて空を眺めてゐた。横手の壁に汚點しみのやうな長方形の薄い夕日がぼうと射してゐたが、何時の間にかそれも失くなつて、外は薄暗の力が端から端へと物を消していつた。みのるは夕飯に豆腐を買ふ事を忘れまいと思ひながら下へおりて行くのが物憂くつて、豆腐屋の呼笛の音を聞きながら、二三人家の前を通つて行つた事に氣が付いてゐたけれども下りて行かなかつた。そうして夕暮の空を眺めてゐた。
 晴れた日ならば上野の森には今頃は紫いろの靄が棚引くのであつた。一日森の梢に親しんでゐたその日の空が別れる際にいたづらをして、紫いろの息を其所等一面に吹つかけるのであらうと、みのるは然う思つて眺めてゐた。今日の夕方は木も屋根も乾いた色に一とつ/\凝結して、そうして靜に絡み付いてくる薄暗の影にかくれて行つた。みのるはそれを淋しい景色に思ひしみながら、目を下に向けると、丁度裏の琴の師匠の家の格子戸から外へ出て來た娘が、みのるの顏を見上げながら微笑をして頭を下げた。みのるはこの娘の顏を見る度に、去年の夏、夕立のした日の暮れ方に自分が良人の肩に手をかけて二人して森の方を眺めてゐたところを、この娘に見られた時の羞恥を思ひ出した。今もその追憶が娘の微笑の影と一所に自分の胸に閃いたので、みのるは何所となく小娘らしい所作で辭儀を返した。さうして直ぐばた/″\と雨戸を繰つて下へおりて來た。
 豆腐屋の呼笛が何所か往來の方で聞こえてはゐたけれども、もう此邊までは來なくなつた。みのるは下の座敷の雨戸もすつかりと閉めて、茶の間の電氣をひねつてから門のところへ出て見た。
 眼の前の共同墓地に新らしい墓標が二三本えてゐた。墓地を片側にして角の銀杏の木まで一と筋の銀紙をはりふさげたやうな白々とした小路には人の影もなかつた。肋骨の見えた痩せた飼犬が夕暮れのおぼろな影に石膏のやうな色を見せて、小枝をくはへながら驅け廻つて遊んでゐた。さうして良人の歸つて來る方をぢつと見詰めてゐるみのるの足の下に寄つてくると、犬はみのると同じやうな向きに坐つて、地面の上に微に尻尾の先きを振りながら遠い銀杏の木の方を見守つた。
「メエイ。」
 みのるは袖の下になつてゐる犬の頭を見下しながら低い聲で呼んだ。呼ばれた犬はつとした儘でその顏だけを仰向かせてみのるを見詰めたが、直ぐその顏を斜にして、生きたるものゝ物音は一切立消えてゆく靜まり返つた周圍から何か神秘な物音に觸れやうとする樣にその小さい耳を動かした。無數の死を築く墓地の方からは、人間の毛髮の一本々々を根元から吹きほぢつて行くやうな冷めたい風が吹いて來た。自分の前に横たはつてゐる小路の右を眺め左を見返つてゐたみのるは、二三軒先きの下宿屋の軒燈が蒼白い世界にたつた一とつ光りをちゞめてゐるやうな淋しい灯影ばかりを心に殘して内へ入つた。

 義男が歸つて來た時はばら/\した小雨が降り初めてゐた。普通よりも小さい義男の頭と、釣合ひのとれない西洋で仕立てた肩幅の大きな洋服の肩をみのるの方に向けて、義男は濡れた靴を脱いだ。垂れた毛を撫で上げながら明るい茶の間へはいつて來た義男は、その儘奧の座敷まで通つてしまつて、其所で抱へてゐた風呂敷包みと一緒に自分の身體も抛り出すやうに横になつた。
「駄目。駄目。何所へ行つても原稿も賣れなかつた。」
「いゝわ。仕方がないわ。」
 みのるは義男が風呂敷包みを持つて歸つて來たので、きつと駄目だつたのだと思つてゐた。何時までも歩きまわつてゐた事が、みのるには雨に迷つた小雀のやうに可哀想に思はれた。
「おなかは?」
「何も食べないんだ。何軒本屋を歩いたらう。」
 義男は腹這になつて疊に顏を押付けてゐるので、その聲が物に包まれてゐる樣にみのるに聞こえた。
 義男が居ない間に、みのるは一人して箸を取る氣になれないので、今日も外に出てゐた義男と同じやうに何も食べずにゐた。それで義男の言葉を聞くと急にみのるは食事といふ事にいつぱいの樂しみをつながれて、臺所へ出て行つて働き初めた。膳の支度が出來るまで義男は今の樣子の儘で動かなかつた。

       二

「僕は到底駄目な人間だね。僕にやとても君を養つてゆく力はないよ。」
 默つて食事を濟ましてしまつた義男は、箸をおくと然う云つてまた横になつた。それに返事をしなかつたみのるは、膳を片付けてしまふと箪笥の前に行つて抽斗ひきだしから考へ/\いろ/\なものを引出して其所に重ねた。
「おい。行つてくるの?」
「えゝ。だつて何うする事も出來ないもの。」
 みのるは包みを拵へてから、平常着ふだんぎの上へコートを着て義男の枕許で膝の紐を結んだ。
「ぢや行つてきます。一人だつていゝでせう。淋しかないでせう。」
 みのるは膝を突いて義男の額を撫でた。義男の狹い額は冷めたかつた。
「僕も一緒に行く。」
「ぢや着物を着代へなくちや。洋服ぢやおかしいから。」
 義男が洋服を脱いでゐる間、みのるは鏡の前へ行つて、頸卷えりまきをしてくると大きい包を抱へて立つてゐた。そうして自分一人なら車で行つて來てしまふのにこの人と一緒だと雨の中を歩かねばならないと思つたが、口に出しては何も云はなかつた。
 みのるは重い包みを片手に抱へたまゝ戸締りをしたり、棚から傘を下したりした。包が邪魔になるとそれを座敷の眞中に置き放しにして來て、在所ありかを忘れて又彼方此方あちらこちらを探したりした。
 二人は一本づゝ傘を手にして庭の木戸から表に廻つた。
「留守番をしてゐるんだよ。お土産を買つて來て上げるからね。」
 雨のびしよ/\と雫を切らしてゐる暗い庭の隅に、犬の白い姿を見付けるとみのるは聲をかけた。犬は二人して外に出る時はいつも家の中に閉ぢ籠められておくことに馴らされてゐた。怜悧りこうな小犬は二人の出て行く物音に樣子をさとつて、逐ひ籠められないうちに自分から椽の下にもぐり込まふとしてゐるのであつた。
 門をしめて外に出てからも、みのるはひつそりとしてゐる犬の樣子がいつまでも氣に掛つて忘られられなかつた[#「忘られられなかつた」はママ]。少し歩いてくると義男は氣が付いたやうにみのるの手から包みを取らうとした。
「持つてつてやるよ。」
 雨の停車塲は遲れた電車を待合せる人が多かつた。つい今しがた降り出した雨だけれども、土も木も人の着物も一樣に濕々じめ/″\した濡れた匂ひを含んで、冷めたい空氣の底にひそかに響きを打つてゐた。みのるは包みを外套の下に抱へてゐる義男を遠くに放して、その傍に寄らずにゐた。電車に乘つてからも二人は落魄した境涯にあるやうな自分々々を絶えず心の中で眺め合ひながら、多くの他人の眼の集つた灯の明るい電車の中で、この夫婦といふ縁のある顏と顏を殊更合はせる事を避けてゐた。みのるは時々義男の外套の下から風呂敷包みの頭が食み出てゐるのを見た。前の狹い外套の裾は膝の前で窮屈そうに割てゐた。みのるは顏を背向けると、その見窄らしい義男の姿を心に描いて電車の外の雨に濡れてゐる灯を見詰めてゐた。

 自分を憫れんでゐるやうな睫毛の瞬きが、ふるえて落ちる傘の雫の蔭にちら/\しながら、みのるは仲町のある横丁から出て來た。角の商店の明りの前に洋傘を眞つ直ぐにして立つて待つてゐた義男の傍に來た時、みのるの顏は何所となく囁き笑ひをしてゐた。
「うまくいつた?」
「大丈夫よ。」
 嵩張つた包みが二人の間から取れて、輕い紙幣が女のコートの衣兜かくしに殘つたといふ事が、二人を浮世の人間並みらしい感じに戻らせた。つい眼の前をのろ/\と横切つて行く雫を垂らした馬鹿氣て大きな電車を遣り過ごすうち、今まで何所かへ押やられてゐた二人の間の親しみの義務を、このにお互の中に取り戻しておかなくてはならないといふ樣な顏付きで、みのるは男の顏を見詰めてわざと笑つた。
「なんでもいゝや。」
 義男もあごの先きを片手でこすりながら笑つて云つた。けれども義男の眼にはみのるの笑顏が底を含んでるやうな鋭い影を走らしてゐたと思つていやな氣がしたのであつた。
「寒くつて。何か飮まなくちや堪らないわ。」
 みのるは義男の先きになつて歩いた。向側を見ると何の店先も雨に曇つて灯が濡れしほたれてゐた。番傘が通りの灯影を遮つてゆく――泥濘ぬかるみの路に人の下駄の跡や車の轍の跡をぼち/\と光りを帶たはねが飛んでゐた。
 二人は區役所の前の小さい洋食屋へ入つて行つた。
 室には一人も客はなかつた。鏡の前に行つて顏を映して見たみのるは、義男に呼ばれて暖爐の前に肩を突き合せながら手をあぶつた。みのるはこんな時義男がいぢけきつて、自分の貧しさをどん底の零落において情なく眺める癖のある事を知つてゐた。義男がからつぽの樣な瞼を皺つかして、頬の肉にだらりとした曲線を描きながらぼんやりと暖爐の火を見詰めてゐる義男の身體を、みのるは自分の肩でわざと押し轉がす樣に突いた。さうして義男の顏を横に見ながら、
「見つともない風をするもんぢやないわ。」
と云つて笑つた。義男は自分の見窄みすぼらしさをからかつてゐる樣な女の態度に反感を持つて默つてゐた。こんな塲合にも自分だけは見窄らしい風はしまいといふ樣に白粉くさい張り氣を作つて、自分の情緒を燕脂えんじのやうに彩らせやうとしてゐる女の心持がいやであつた。義男はふと、みのると一所になる前まで僅かの間同棲して暮らした商賣上りのある女の事を思ひだした。その女は毎晩男の爲めに酌の相手こそはしたけれども、貧しい時には同じ樣に二人の上を悲しんで、そうして仕事に疲れた義男を殆んど自分の涙で拭つてくれるやうな優しみを持つてゐた。浮いた稼業をしてゐた女だけども、みのるの樣に直きと、
「何うにかなるわ。」
と云ふ樣な捨て鉢な事は云つた事がなかつた。
「どうしたの。默つて。」
 みのるは自分の身體をゆら/\と搖らつかせながら、其の動搖のあほりを義男の肩に打つ衝けては笑つた。
「僕は今日不快な事があるんだ。」
 義男は暖爐の前に脊を屈めながら斯う云つた。
「なんなの。」
 義男の言葉は欝した調子を交ぜてゐたのに反して、みのるの返事は何處までも紅の付いた色氣を持つて浮いてゐた。
「××にね。僕の作の評が出てゐたんだ。」
「なんだつて。」
「陳腐で今頃こんなものを持ち出す氣が知れないつて云ふのだ。」
 みのるは聲を出して笑つた。
「仕方がないわね。」
「仕方がない?」
 義男は塲所も思はずに大きい聲を出してみのるの顏を睨んだ。みのるは默つて後を振返つたが、人のゐない室にははすに見渡したみのるの眼に食卓の白いきれがなびいて見えたばかりであつた。そうして、それ/″\に食卓の上に位置を守つてゐる玻璃器にうつつた灯の光りが、みのるの今何か考へてゐる心の奧に潜かに意を寄せてゐる微笑の影のやうにみのるに見えた。みのるは顏を眞正面まともに返すと一人で又笑つた。
「君も然う思つてるんだね。」
「然うだわ。」
 義男の腫れぼつたい瞼を一層縮まらした眼と、みのるの薄い瞼をぴんと張つた眼とが長い間見合つてゐた。
 みのるはその作を原稿で讀んだ時、
「おもしろいわ。結構だわ。」
と云つて義男の手に返したのであつた。義男が自分の仕事に自分だけの價値を感じてるだけ、みのるも相應に自分の仕事に心を寄せてゐるものと思つてゐた。それが急に冷淡な調子で、世間の侮蔑とその心の中を鳴り合せてゐる樣な餘所餘所よそよそしい態度を、みのるが見せたといふ事が義男には思ひがけなかつた。經濟の苦しみに對する義男への輕薄な女の侮蔑が、こんなところにもそのほとばしりを見せたものとしきや義男には解されなかつた。
「君は隨分同情のない事を云ふ人だね。」
 しばらくして斯う云つた義男の眼は眞つ赤になつてゐた。給仕が持つて來た皿のものをみのるは身體を返して受取りながら何にも云はなかつた。

       三

「君はそんなに僕を下らない人間だと思つてゐるんだね。」
 二人は停車塲から出ると、眞つ闇な坂を何か云ひ合ひながら歩いてゐた。硝子に雨の雫を傳はらしてゐる街燈の灯はまるで暗い人間の隅つこに泣きそべつてゐる二人の影のやうに見えてゐた。
 二人が生活の爲の職業も見付からず、文學者としての自分の小さい權威も、何年かかんの世間との約束からだん/\はぐれて了つた事が義男にはいくら考へても情けなかつた。そうして自分の多年の仕事に背向いてゆく世間が憎いと一所に、その背向いた中の一人がみのるだつたと云ふ事にも腹が立つた。一人が一人に向つて石をなげうてば相手の女は抛つた方へその心を媚びさせて行くのだと思ふと、義男はあらゆる言葉で目の前の女を罵り盡しても足りない氣がした。義男はさつきのみのるの冷笑がその胸の眞中まんなかを鋭い齒と齒の間にしつかりとくはへ込んでる樣に離れなかつた。
「君はよくそんな下らない人間と一所にゐられるね。價値のない男をよく自分の良人だなんて云つてゐられるね。馬鹿にしてる男のまへでよく笑つた顏をして濟ましてゐられる。君は賣女より輕薄な女だ。」
 義男は斯う云ひ續けてずん/″\歩いて行つた。みのるは默つて後から隨いて行つた。みのるの着物の裾はすつかり濡れて、足袋と下駄の臺のうしろにぴつたり密着くつついては歩行あゆみのあがきを惡るくしてゐた。早い足の義男にはても追ひ付く事が出來なかつた。
 漸くみのるが家内うちにはいつて行つた時は、もう義男は小さい長火鉢の前に横になつてゐた。みのるは買つて來た小さいパンを袋から出して、土間の中まで追つて來たメエイにちぎつて投げてやりながら、わざといつまでも明りのついた義男の方を向かずにゐた。
「おい。」
 義男は鋭い聲でみのるを呼んだ。
「なに。」
 然う云つてからみのるは小犬を撫でたり、
「一人ぼつちで淋しかつたかい。」
と話をしたりして其所から入つてこなかつた。義男はいきなり立つてくると足を上げてみのるの膝の上に頭をもたせてゐた犬の横腹を蹴つた。
「外へ出してしまへ。」
 義男はさも命令の力を顏の筋肉にでも集めてるやうに、「出せ」と云ふ意味を示すやうなあごの突き出しかたをすると、その儘其所に突つ立つてゐた。小犬は蹴られた義男の足の下まで直ぐ這ひ寄つてきて、そうして足袋の先きに齒を當てながらじやれ付かうとした。
「あつちへお出で。」
 みのるは小犬の頸輪くびわを掴むと、自分の手許まで一度引寄せてから、雨の降つてる格子の外へ抛り付ける樣に引つ張りだした。そうして戸を締めて内へ入つてくるともとのやうに火鉢の前に寢轉んでゐた義男の前に坐つて、涙と一所に突き上つてくる呼吸を唇を堅く結んで押へてゐる樣な表情をしてその顏を仰向かしてゐた。
「別れてしまはうぢやないか。」
 義男は然う云つてあをになつた。
 放縱な血を盛つた重いこの女の身體が、この先き何十年と云ふ長い間を自分の脆弱な腕の先きに纒繞まつはつて暮らすのかと思ふと、義男はたまらなかつた。結婚してからの一年近くのたど/\しい生活の中を女の眞實をもつた優しい言葉に彩られた事は一度もなかつたと思つた。振返つて見ると、その貧しい生活の中心には、いつもみだらな血で印を刻した女のだらけた笑ひ顏ばかりが色を鮮明あざやかにしてゐた。そうして柔かい肉をもつた女の身體がいつも自分の眼の前にある匂ひを含んでのそ/\してゐた。
「僕見たいなものにくつついてゐたつて、君は何うする事も出來やしないよ。僕には女房を養つてゆくだけの力はない。自分だけを養ふ力もないんだから。」
「知つてるわ。」
 みのるは、はつきりと斯う云つた。唇を開くとその眼から涙があふれた。
「ぢや別れやうぢやないか。今の内に別れてしまつた方がお互ひの爲だ。」
「私は私で働きます。その内に。」
 二人は暫時しばしだまつた。
 この家の前の共同墓地の中から、夜るになると人の生を呪ひ初める怨念のさゝやきが、雨を通して傳はつてくる樣な神經的のおびえがふと默つた二人の間に通つた。
「働くつて何をするんだい。君はもう駄目ぢやないか。君こそ僕よりもみやくがない。」
 義男は斯う云つてから、みのると同じ時代に同じやうな文藝の仕事を初めた他の女たちを擧げて、そうして現在の藝術の世界を今も花やかに飾つてるその女たちを賞めた。
「君は出來ないのさ。僕がふるければ君だつて陳いんだから。」
 みのるは默つて泣いてゐた。不仕合せに藝術の世界に生れ合はせてきた天分のない一人の男と女が、それにも見捨てられて、そうして窮迫した生活の底に疲れた心と心を脊中合せに凭れあつてゐる樣な自分たちを思ふと泣かずにはゐられなかつた。
「君は何を泣いてるんだ。」
「だつて悲しくなるぢやありませんか。復讐をするわ。あなたの爲に私は世間に復讐するわ。きつとだから。」
 みのるは泣きながら斯う云つた。
「そんな事が當てになんぞなるもんか。働くなら今から働きたまへ。こんな意氣地のない良人の手で遊んでるのは第一君の估券が下る。君が出來るといふ自信があるなら、君の爲に働いた方がいゝ。」
「今は働けないわ、時機がこなけりや。そりや無理ぢやありませんか。」
 みのるは涙に光つてる眼を上げて義男の顏を見た。義男の見定められない深い奧にいつかしら一人で突き入つて行く時があるのだと云ふ樣な氣勢けはひが、その眼の底に現はれてゐるのを見て取ると、義男の胸には又反感が起つた。
「生意氣を云つたつて駄目だよ。何を云つたつて實際になつて現はれてこないぢやないか。それよりや別れてしまつた方がいゝ。」
 義男はち切るやうに斯う云ふと奧の座敷へ自分で寐床をこしらへに立つて行つた。
 みのるは男の動く樣子を此方こつちから默つて見てゐた。義男は片手で戸棚から夜着を引き下すと、それをはすつかけにり延ばして、着た儘の服裝なりでその中にもぐり込んで了つた。その冷めたそうな夜着の裾を眺めてゐたみのるは、自分たちが火の氣もないところで長い間云ひ爭つてゐた事にふと氣が付いて急に寒くなつたけれども、やつぱり懷ろ手をした儘で冷えてきた足の先きを着物の裾にくるみながら、いつまでも唐紙のところに寄つかゝつてゐた。そうして兎もすると、男が自分一人の力だけでは到底持ちきれない生活の苦しさから、女をその手から彈きだそう彈きだそうと考へてゐる中を、かうして縋り付いてゐなければならない自分と云ふものを考へた時、みのるの眼には又新らしい涙が浮んだ。
 義男の力が、みのるの今まで考へてゐた男と云ふものゝ力の、そうにしたならそのかいにも足りない事をみのるは知つてゐた。その頼りない男の力にいつまでも取り縋つてはゐたくなかつた。自分も何かしなければならないと云ふ取りつめた考へによく迫られた。けれどもみのるは何も働く事が出來なかつた。義男が今みのるに云つた樣に、義男の前にみのるはなにて見せるだけの力量を持つてゐなかつた。自分の内臟を噛みひしいでもやり度いほどの口惜くやしさばかりはあつても、みのるは何も爲る事も出來なかつた。みのるは矢つ張りこの力のない男の手で養つてもらはなければならなかつた。
 みのるは溜息をしながら立上ると義男の寢床の方へづか/″\と歩いて行つた。そうして其の夜着を右の手を出して退けた。
「私も寢るんですから。夜具を下さい。」
 二人の仲には一と組の夜のものしきや無かつた。義男はその聲を聞くと直ぐに起きて枕許の眼鏡を探してゐたが、寢床を離れる時に、
「寢たまへ。」
と云つて又茶の間の方へ出て行つた。その男の後を少時しばらく見てゐたみのるは丸まつてゐる樣な蒲團を丁寧に引き直してから、自分の枕を持つて來てその中にはいつた。
 みのるは床に入つてから、粘りのない生一本の男の心と、細工に富んだねつちりした女の心とがいつも食ひ違つて、さうして毎日お互を突つ突き合ふ樣な爭ひの絶へた事のない日を振返つて見た。そこには、自分の紅總べにふさのやうに亂れる時々の感情を、その上にもあやしてくれるなつかしい男の心と云ふものを見付け出す事が出來なかつた。

       四

 義男がやつとある職業に就いたのは櫻の咲く頃であつた。自分たちの生活の資料を得る爲に痩せた力のない身體を都會の眞中まで運んでゆく義男の姿を、みのるは小犬を連れて毎朝停車塲まで送つて行つた。時にはその電車の窓へ向けて、戀人のやうに女の唇からキスを送る白い手先きが、温い日光の影を遮る事もあつた。みのるは小犬に話をしかけながら墓地を拔けて歸つてくるのが常だつた。そうして二階の窓を開け放つて、小供の爪の先きが人の肉體をこそこそと掻きおろしてくる樣なきつい温さを含んだ日光に額をさらしながら、みのるは一日本を讀んで暮らした。讀書からみのるの思想の上に流れ込んでくる新らしい文字も、みのるは自分一人して味はふ時が多かつた。そうして頁から頁への藝術の匂ひの滴つた種々な塲景が、とりとめのない憧憬の爲に揉み絹のやうに萎えしぼんだみのるの心を靜に遠く幻影の世界に導いてゆく時、みのるは興奮して、その頬を一寸傷づけても血の流れさうな逆上した頬をして、さうして墓地の中を歩き廻つた。袖にさわつたばらの小枝の先きにも心を惹かれるほど、みのるの心は何もも懷しくなつて涙が溢れた。無暗むやみと騷ぎ立つ感情の押へやうもなくなつて、誰とも知らない墓塲の石にその額を押し付けた事もあつた。ぬきんでた樣な青い松と、むらがつてる樣な咲き亂れた櫻と、夕暮れの空の濃い隈をいろどつてゐる天王寺のあたりを、みのるは涙を溜めながら行つたり來たりした。

 ある晩二人は上野の山をぶら/\と歩いてゐた。櫻の白い夜の空は淺黄色に晴れてゐた。森の中の灯は醉ひにかすんだ美しい女の眼のやうに、おぼろな花の間に華やかな光りと光りを目交めまぜしてゐた。
「いゝ晩だわね。」
 みのるは然う云つて、思ふさま身振りをして見せると云ふ樣な身體付きをしてはしやいで歩いてゐた。この山の森の中にそつくり秘められてゐた幾千人の戀のさゝやきが春になつて櫻が咲くと、靜な山の彼方此方あちこちから櫻の花片はなびらの一とつ/\にその優しい餘韻を傳はらせ初めるのだと思つた時に、みのるの胸は微かに鳴つた。みのるは天蓋のやうに枝を低く差し延べた櫻の木の下に、わざわざ兩袖をひろげて立つて見たりした。そうして花の匂ひに交ぢつたコートの古るい香水の匂ひを、みのるはなつかしいものゝ息に觸れるやうに思ひながら、兎もすると捉みどころもなく消えそうになる香りを一と足一と足と追つてゐた。
 義男は義男で、堅い腕組みをして素つ氣のない顏をしながらみのると離れてぽつ/\とるいてゐた。義男の頭について廻つてゐる貧乏と云ふ觀念が、夜の花の蔭を逍遙しても何の興味も起らせなかつた。長い間の窮迫に外に出る着物の融通もつかなかつたみのるは、平生着ふだんぎの上にコートだけを引つかけて歩いていた。その貧しいみのるの姿を後から眺めた時の義男の眼には、かうした舞臺ですべてを忘れてはしやいでゐるみのるの樣子は、醜さを背景にした馬鹿々々しさであつた。
「もう歸らうぢやないか。」
 義男は斯う云つては足をとめた。
 二人は環のやうに取りめぐつてゐる池の向ふの灯を、山の上から眺めながら少しの間立つてゐた。その灯がさゞめいてるのかと思はれる樣な遠い三味線さみせんの響きが、二人の胸をそはつかした。みのるは不圖、久し振りな柔らかい着物の裾の重みの事を思つて戀ひしかつた。みのるの東下駄あづまげたの先きでさばいてゐた裾はさば/\として寒かつた。
「吉原で懇親會をやるんだそうだ。」
 義男は斯う云つて歩きだした。明りの色が空を薄赤く染めてゐる廣小路の方をうしろにして、二人は谷中の奧へ足を向け直した。遠い町で奏でゝゐる樂隊の騷々しい音が山の冷えた空氣に統一されて、二人の耳許を觀世水のやうにゆるく襲つては櫻の中に流れて行つた。みのるの胸には春と云ふ陽氣さがいつぱいに溢れた。そうしてこの山のそとに、春の晩に醉ひ浮かれた賑やかな人々のどよめきの世界があるのだと思つた。その中に踏み入つて行く事の出來ない自分の足許を見た時にみのるは何とも云へず寂しくなつた。
「どうかして一日人間らしくなつて遊びまわつて見たいもんだわね。」
 みのるは斯う云はうとして義男の方を見た時に、丁度二人の傍を三保の松原を走らせた天の羽車のやうな靜さで、一臺の車が通つて行つた。薄暗い壁に貼りつけた錦繪を覗いて見るやうに、幌の横から紅の濃い友禪模樣の美しい色が二人の眼を遮つていつた。そうして春の驕りを包んだ車の幌は、唯ゆら/\と何時までも二人の眼の前から消えなかつた。
 みのるは其れり何も云はずにゐた。默つてゐる男が今どんな夢の中にその心のすべてをほどかしてゐるのだらうかと云ふ事を考へながら、みのるはいつまでも默つて歩いてゐた。

       五

 義男にもみのるにも恩の深い師匠の夫人が遂に亡くなつたと云ふ知らせが二人の許にとゞいたのは、四月の末のある朝であつた。
 義男が一張羅の洋服で出てしまふと、仲町から自分たちの衣服を取り出してくるだけの豫算を立てゝゐたみのるは、何うにもその融通の出來ない見極めをつけると、小石川の友達のところへでも行つてくるより仕方がないと思つたみのるは好い口實を作る事を考へながら出て行つた。
 友達の家の塀際には咲き揃つた櫻が何本か並んで家の富裕を誇るやうに往來の方に枝を垂れてゐた。みのるは其家そこの主人の應接で久し振りな顏を友達と合はせた。みのるには自分が借りるのだといふ事が何うしても云へなかつた。一人身ならば自分が借りると云へるのだけれども、一家を持つてゐるものが主人の面目を考へても、そんな貧しい事は云はれるものではないと云ふ考へがみのるの頭の中を行つたり來たりしてゐた。
 利口な友達は人の惡るい臆測は女のたしなみではないといふ樣なおとなしい笑顏を作つて、みのるの手から他の知人へ貸すといふのを眞に受けたらしい樣子を示しながら、一と襲ねの紋付を出して來た。
「お葬式は黒でなくちやいけないけれども、生憎私には黒がないから。」
 友達の出した紋付は薄い小豆色だつた。裾には小蝶のひがあつた。

 その日は雨が降つてゐた。みのるは白木蓮の花を持つて、吾妻橋の渡船塲わたしばから船に乘つた。船が岸を離れた時のゆるやかな心のすべりの感じと一所にみのるの胸には六七年前の追懷の影が射してゐた。船の中からみのるは思ひ出の多い堤を見た。櫻時分の雨の土堤にはなくてならない背景の一とつの樣に、茶屋の葭簀よしずれしよぼれた淋しい姿を曝してゐた。そうしてくしけずつたやうな細い雨の足が土堤から川水の上を平面にさつとかすつてゐた。みのるは又、船が迂曲うねりを打つてはひた/\と走つてゆく川水の上に眞つ直ぐに眼を落した。自分の青春はこの川水のさゞなみに、何時ともなくぢり/\と浸し消されてしまつた樣な悲しみがそこに映つてゐた。深い思ひを抱いてうつら/\と逍遙さまよつた若いみのるの顏の上に雫を散らしたどての櫻の花は、今もあゝして咲いてゐた。それがみのるには又誰かの若い思ひを欺かうとする無殘な微笑の影のやうに思はれてそこにも恨みがあつた。
 言問こととひから上にあがると、昔の涙の名殘りのやうに、櫻の雫がみのるの傘の上に音を立てゝ振りこぼれた。土堤の中途でみのると同じ行先きへ落合はうとする舊い知人の二三人に出逢ひながら、師匠の門をくゞつた時は、義男と約束した時間よりもおくれてゐた。
 中に入ると人々の混雜が、雨の軒端のきばに陰にしめつたどよみを響かしてゐた。表から差覗さしのぞかれる障子は何所も彼所かしこも開け放されて、人の着物の黒や縞がかたまり合つて椽の外にその端を垂らしてゐた。裏手の格子戸の内に泥のついた下駄がいつぱいに脱ぎ散らしてあつた。みのるは臺所で見付けた昔馴染の老婢に木蓮を渡してからあがはなの座敷の隅にそつと入つて坐つた。そこでは母親に殘された小さい小供たちが多勢の女の手に、悲しそうな言葉で可愛いとしまれながら抱かれてゐた。總領の娘も其所に交ぢつて、障子の外へ出たり入つたりする人々を眺めてゐた。昔みのるがお手玉を取つたり鞠を突いたりして遊び相手になつた總領の娘は、何年も親しく逢つた事のないみのるの顏を見ると、その眼を赤く腫らした蒼い顏に笑みを作つて挨拶した。みのるの眼はいつまでもこの娘の姿から離れなかつた。
「この子はあなたの眞似が上手。」
 みのるに然う云つて師匠が笑つた時は、まだ四才ぐらゐの子であつた。みのるのいつもするやうに風呂敷包みを持つて、氣取つたお辭儀をしてから、
「これはみのるたんだよ。」
と云つてみんなを笑はせた。幼ない時から高い鼻の上の方の兩端へ幾つも筋が出る樣な笑ひかたをする子であつた。みのるはこの娘のこゝまで成長して來たその背丈せいだけの蔭に、自分の變つた短い月日を繰り返して見て果敢ない思ひをしずにはゐられなかつた。
「おい。」
 みのるは斯う呼ばれて振返ると、椽側に立つた義男はあごでみのるを招いてゐた。傍へ行くと義男は、
「これから社へ行つて香奠かうでんを借りてくるからね。」
と小さい聲で云つた。
「いくらなの。」
「五圓。」
 二人は笑ひながら斯う云ひ交はすと直ぐ別れた。みのるは其室そこを出て彼方此方あちこちと師匠の姿を求めてゐるうちに、中途の薄暗い内廊下で初めて師匠に出逢つた。顏もはつきりとは見得ないその暗い中を通して、みのるは師匠の涙に漲つた聲を聞いたのであつた。
「あなたの身體はこの頃丈夫ですか。」
 師匠はみのるが別れて立たうとする時に斯う云つて尋ねた。みのるは昔の脆い師匠のおもかげを見た樣に思つてその返事が涙でふさがつてゐた。

       六

 その晩みのるは眠れなかつた。いつまでもその胸に思ひ出の綾が色を亂してこんがらかつてゐた。そうしてある春の日に師匠から送られた西洋すみれの花の匂ひが、みのるのその思ひ出に甘くまつはつて懷かしい思ひの血の鳴りを響かしてゐた。
 あのなつかしい師匠に離れてからもう何年になるだらうかと思つてみのるは數へて見た。師匠の手をはなれてからもう五年になつた。そうして師匠の慈愛に甘へて一途にその人を慕ひ騷いだ時からはもう八年の月日が經つてゐた。その頃のみのるの生命は、あの師匠の世態に研ぎ澄まされたやうな鋭い光りを含んだ小さい眼のうちにすつかりと包まれてゐたのであつた。その師匠の手をはなれてはみのるの心は何方へも向けどころのないものと思ひ込んでゐた。そうして船で毎日の樣に向島まで通つたみのるは行くにも歸るにも渡しの棧橋に立つて、滑かな川水の上に一と滴の思ひの血潮を落し/\した。
 それほどに慕ひ仰いだ師匠の心に背向いて了はねばならない時がみのるの上にも來たのであつた。其れはみのるが實際に生きなければならないと云ふほんとうの生活の上に、その眼が知らず/\開けて來た時であつた。毎日師匠の書齋にはいつて書物の古い樟腦の匂ひを嗅ぎながら、いゝ氣になつて遊んでばかりゐられない時が來たからであつた。そうして師匠の慈愛が、自分のほんとうに生きやうとする心のはたらきを一時でも痲痺しびらしてゐた事にあさましい呪ひを持つやうな時さへ來た。この師匠の手をはなれなければ自分の前には新らしい途が開けないものゝ樣に思つて、みのるはこの慈愛の深い師匠の傍を長い間離れたけれども、その後のみのるの手に、目覺めたと云ふ證徴しるしを持つた樣な新らしい仕事は一とつとして出來上つてはゐなかつた。みのるはその頃の自分をかこふやうな師匠の慈愛を思ひ出して、いたづらな涙にその胸を潤ほす日が多かつた。そうして唯一人の人へ對する堅い信念に繋がれて傍目わきめもふらなかつた幼ない昔を、世間といふものから常に打ち叩かれてゐる樣なこの頃のみのるの心に戀ひしく思ひ出さない日と云つてはないくらゐであつた。
 今夜は殊にその思ひが深かつた。みのるは今日の、夫人の棺前の讀經を聞きながら泣き崩れる樣にして右の手でその顏を掩ふてゐた師匠の姿を、いつまでも思つてゐた。義男はその晩通夜に行つて歸つてこなかつた。

「その紋付は何うしたの。」
 一と足先きに葬式から歸つてゐた義男は、みのるが歸つてくるのを待つてゐて直ぐ斯う聞いた。みのるは今日の式塲で義男の縞の洋服がたつた一人目立つてゐた事を考へながら默つて笑つた。
「借りたの。」
 うなづいたみのるも、うなづかれた義男も、同じ樣に極りの惡るそうな顏をした。こんな時にお互に禮服の一とつも手許にないと云ふ事がれい/\とした多くの人の集まつた後ではことに強く感じられてゐた。
「あなたの服裝なりは困つたわね。」
「まあいゝさ、君さへちやんとしてゐれば。」
 義男は然う云つてから、もう一度みのるの借着の姿を見守つた。義男はそれを何所から借りたのかと聞いたけれども、みのるは小石川から借りたとは云はなかつた。もとの學校の友達から然うした外見みつともない事をたと云つたなら、義男は猶厭な思ひがするであらうと思つたからであつた。みのるは自分の許へ親類の樣に出入りしてゐる商人の家の名を云つて、其所から都合して貰つたのだと云つた。そうして、何時も困つてゐるといふ噂のある義男の友人の妻君が、ちやんとしてゐた事をみのるは思ひ出して感心した顏をして義男に話した。
「私たちみたいに困つてゐる人はお友達の中にもないと見えるわ。」
「然うだらう。」
 義男は然う云つて着てゐた洋服を脱いだ。そうして少時しばらくズボンの裾を引つくり返して見てから、
「これもこんなに成つてしまつた。」
と云ひながらそのり切れたところをみのるに見せた。秋か春に着るといふ洋服を義男は暑い時も雪の降る時も着なければならなかつた。そうして何か事のある度にこの肩幅の廣い洋服を着てゆく義男の事を思つた時、今日のみのるは例の癖のやうに自分どもの貧しさを一種の冷嘲で打消して了ふ譯にはいかなかつた。さん/″\悲しみの光景に馴らされてきたその心から、眞から哀れつぽく自分たちの貧しさを味はふやうな涙がみのるの眼にあふれてきた。
「可哀想に。」
 みのるは彼方あちらを向いて、自分も着物を着代へながら然う云つた。世間を相手にして自分たちの窮乏を曝さなければならない樣な羽目になると、二人は斯うしていつか知らず其の手と手を堅く握り合ふやうな親しさを見せ合ふのだとみのるは考へてゐた。
「何うかして君のものだけでも手許へ置かなけりや。」
 義男は然う云ひながら入湯に出て行つた。一人になるとみのるは今日の葬列の模樣などが其の眼の前に浮んで來た。花の土堤をその列が長く續いて行く途中で、目かづらを被つて泥濘ぬかるみの中を踊りながら歩いてゐる花見の群れに幾度かくはした。そうして醉漢の一人がその列を見送りながら、丁度みのるの乘つてゐた車の傍で、
「皆さんお賑やかな事で。」
と小聲で云つてゐた事などが思ひ出された。みのるは義男が歸つて來たならばそれを話して聞かそうと思つた。柩の前に集つた母親を失つた小さい人々を見て、みのるもさん/″\泣かされた一人であつたけれ共、その悲しみはもう何所かへ消えてゐた。

       七

 みのるの好きな白百合の花が、座敷の床の間や本箱の上などに絶へず挿されてゐる樣な日になつた。義男の休み日には小犬を連れて二人は王子まで青い畑を眺めながら遠足する事もあつた。紅葉寺の裏手の流れへ犬を抛り入れて二人は石鹸の泡に汚れながらその身體を洗つてやつたりした。流れには山の若楓の蒼さと日光とが交ぢつて寒天のやうな色をしてゐた。そのれた小犬を山の上の掛茶屋の柱に鎖で繋いでおいて、二人は踏んでも歩けそうな目の下一面の若楓を眺めて半日暮らしたりした。その往き道にある別宅らしい人の家の前に立つと、その檜葉ひばの立木に包まれた薄鼠塗りの洋館の建物の二階が横向きに見えるのを見上げながら義男は「何も要らないからせめて理想の家だけは建てたい。」といつも云つた。みのるが頻りに髮をいぢり初めたのもその頃であつた。みのるは一日置きのやうに池の端の髮結のところまで髮を結にゆく癖がついた。みのるの用箪笥の小抽斗こひきだしには油にんだ緋絞りのてがらの切れが幾つも溜つてゐた。
 こんな日の間にも粘りのない生一本な男の心の調子と、細工に富んだねつちりした女の心の調子とはいつも食ひ違つて、お互同士を突つ突き合ふやうな爭ひの絶えた事はなかつた。女の前にだけ負けまいとする男の見得と、男の前にだけ負けまいとする女の意地とは、僅の袖の擦り合ひにももつれだして、お互を打擲ちやうちやくし合ふまで罵り交はさなければ止まないやうな日はこの二人の間には珍らしくなかつた。みのるの讀んだ書物の上の理解がこの二人に異つた味ひを持たせる時などには、二人は表の通りにまで響ける樣な聲を出して、それが夜の二時であつても三時であつても構はず云ひ爭つた。そうして、終ひに口を閉ぢたみのるが、憫れむやうな冷嘲あざける樣な光りをその眼に漲らして義男の狹い額をぢろ/\と見初めると、義男は直ぐにその眼を眞つ赤にして、
「生意氣云ふない。君なんぞに何が出來るもんか。」
 斯う云つて土方人足が相手を惡口する時の樣な、人に唾でも吐きかけそうな表情をした。斯うした言葉が時によるとみのるの感情を亢ぶらせずにはおかない事があつた。智識の上でこの男が自分の前に負けてゐると云ふ事を誰の手によつて證明をして貰ふ事が出來やうかと思ふと、みのるは味方のない自分が唯情けなかつた。そうして、
「もう一度云つてごらんなさい。」
と云つてみのるは直ぐに手を出して義男の肩を突いた。
「幾度でも云ふさ。君なんぞは駄目だつて云ふんだ。君なんぞに何が分る。」
「何故。どうして。」
 ここまで來ると、みのるは自分の身體の動けなくなるまで男に打擲されなければ默らなかつた。
「あなたが惡るいのに何故あやまらない。何故あやまらない。」
 みのるは義男の頭に手を上げて、強ひてもその頭を下げさせやうとしては、男の手でひどい目に逢はされた。
「君はしまひに不具者かたはになつてしまふよ。」
 あくる日になると、義男はみのるの身體に殘つた所々の傷を眺めて斯う云つた。女の軟弱な肉を振り捩斷ちぎるやうに掴み占める時の無殘さが、後になると義男の心に夢の樣に繰り返された。
 それは晝の間に輕い雨の落ちた日であつた。朝早く澤山の洗濯をしたみのるはその身體が疲れて、肉の上に板でも張つてある樣な心持でゐた。軒の近くを煙りの樣な優しい白い雲がみのるの心をのぞく樣にしては幾度も通つて行つた。初夏の水分を含んだ空氣を透す日光は、椽に立つてるみのるの眼の前に色硝子の破片を降り落してゐる樣な美しさを漲らしてゐた。何となく蒸し暑い朝であつた。みのるのセルを着てゐたその肌觸りが汗の中をちく/\してゐた。
 それが午後になつて雨になつた。みのるは干し物を椽に取り入れてから、又椽に立つて雨の降る小さな庭を眺めた。この三坪ばかりの庭には、去年の夏義男が植えた紫陽花あぢさゐが眞中に位置を取つてゐるだけだつた。黄楊つげの木の二三本にあられのやうなこまかい白い花がいつぱいに咲いてゐるのが、隅の方に貧しくしほらしい裝ひを見せてゐたけれ共、一年の内に延びてひろがつた紫陽花の蔭がこの庭の土の上には一番に大きかつた。その外には何もなかつた。輕い雨の音はその紫陽花の葉に時々音を立てた。みのるはその音を聞き付けるとふと懷しくなつて其所に降る雨をいつまでも見詰めてゐた。
 義男がいつもの時間に歸つて來た時はもうその雨は止んでゐた。みのるは義男の歸つてからの樣子を見て、その心の奧に何か底を持つてゐる事に氣が付いてゐた。
「おい、君はうするんだ。」
 みのるが夜るの膳を平氣で片付けやうとした時に義男は斯う聲をかけた。
「何故君は例の仕事をいつまでも初めないんだね。止すつもりなのか。」
 其れを聞くとみのるは直ぐに思ひ當つた。
 一週間ばかり前に義男は勤め先きから歸つてくると「君の働く事が出來た。」と云つて新聞の切り拔きをみのるに見せた事があつた。それは地方のある新聞でそれに懸賞の募集の廣告があつた。みのるがそれ迄に少しづゝ書き溜めておいたもののある事を知つてゐた義男は、それにこの規程きていの分だけを書き足して送つた方が好いと云つてみのるに勸めたのであつた。
「もし當れば一といきつける。」
 義男は斯う云つた。けれどもみのるは生返事をして今日まで手を付けなかつた。それに義男がその仕事を見出した時はもう締めきりの期日に迫つてしまつた時であつた。その僅の間にみのるには兎ても思ふ樣なものは書けないと思つたからであつた。
「何故書かないんだ。」
 義男はその口を神經的にとがらかしてみのるに斯う云ひ詰めた。
「そんな賭け見たいな事を爲るのはいやだから、だから書かないんです。」
 みのるの例の高慢な振りがその頬に射したのを義男は見たのであつた。
 みのるはその萬一の僥倖によつて、義男が自分の經濟の苦しみをのがれ樣と考へてゐる事に不快を持つてゐた。この男は女を藝術に遊ばせる事は知らないけれども、女の藝術を賭博の樣な方へ導いて行つて働かせる事だけは知つてゐるのだと思ふと、みのるは腹が立つた。
「そんな事に使ふやうな荒れた筆は持つてゐませんから。」
 みのるは又斯う云つた。
「生意氣云ふな。」
 斯う義男は怒鳴りつけた。女の高慢に對する時の義男の侮蔑は、いつもこの「生意氣云ふな。」であつた。みのるはこの言葉が嫌ひであつた。義男を見詰めてゐたみのるの顏は眞つ蒼になつた。
「君は何と云つた。働くと云つたぢやないか。僕の爲に働くと云つたぢやないか。それは何うしたんだ。」
「働かないとは云ひませんよ。けれども私が今まで含蓄しておいた筆はこんなところに使はうと思つたんぢやないんですからね。あなたが何でも働けつて云なら電話の交換局へでも出ませうよ。けれどもそんな賭け見たいな事に私の筆を使ふのはいやですから。」
 義男は突然いきなり、手の傍にあつた煙草盆をみのるに投げ付けた。
「少しも君は我々の生活を愛すつて事を知らないんだ。いやなら止せ。その云ひ草はなんだ。亭主に向つてその云ひ草はなんだ。」
 義男は然う云ひながら立上つた。
「そんな生活なら何もも壞しちまへ。」
 義男は自分の足に觸つた膳をその儘蹴返すと、みのるの傍へ寄つて來た。みのるはその時ほど男の亂暴を恐しく豫覺した事はなかつた。「何をするんです。」と云つた金を張つたやうな細い透明なみのるの聲が、義男の慟悸の高い胸の中に食ひ込む樣に近くなつた時に、みのるは有りだけの力をその兩腕に入れて義男の胸を向ふへ突き返した。そうしてから、初めてこの男の恐しさから逃れるといふ樣な心持で、みのるは勝手口の方から表へ駈けて出た。

 外はまだ薄暮の光りが全く消えきらずに洋銀の色を流してゐた。殊更な闇がこれから墓塲全體を取りめぐらうとするその逢魔あふまの蔭にみのるは何時までも佇んでゐた。ぢいんとした淋しさが何所からともなくみのるの耳の傍に集まつてくる中に、障子や襖を蹴破つてゐる樣な氣魂けたゝましい物の響きが神經的に傳はつてゐた。
 然うして絹針のやうに細く鋭い女の叫喚さけびの聲がその中に交ぢつてゐる樣な氣もした。それが自分の聲のやうであつた。みのるの身體中の血は動いた儘にまだゆら/\としてゐた。何所かの血管の一部にまだその血が時々どんと烈しい波を打つてゐた。けれどもみのるは自分の心のみやくを一とつ/\調べて見る樣なはつきりした氣分で、自分の頭の上に乘しかゝつてくる闇の力の下に俯向いて、しばらく考へてゐた。さうして、その清水に浸つてゐる樣な明らかな頭腦あたまの中に、
「自分どもの生活を愛する事を知らない。」
と云つた義男の言葉がさま/″\な意味を含んでいつまでも響いてゐた。
 みのるは全く男の生活を愛さない女だつた。
 その代り義男はちつとも女の藝術を愛する事を知らなかつた。
 みのるはまだ/\、男と一所の貧乏きうぼうな生活の爲に厭な思ひをして質店しちみせの軒さへくゞるけれども、義男は女の好む藝術の爲に新らしい書物一とつ供給あてがふ事を知らなかつた。義男は小さな自分だけの尊大を女によつて傷づけられまい爲に、女が新らしい智識を得ようと勉める傍でわざとそれに辱ぢを與へる樣な事さへした。新らしい藝術にあこがれてゐる女の心の上へ、猶その上にもしたゝるやうな艶味つやを持たせてやる事を知らない義男は、たゞ自分の不足な力だけを女の手で物質的に補はせさへすればそれで滿足してゐられる樣な男なのだと云ふ事が、みのるの心に執念しふねく繰り返された。
「私があなたの生活を愛さないと云ふなら、あなたは私の藝術を愛さないと云はなけりやならない。」
 先刻さつき義男に斯う云つてやるのだつたと思つた時に、みのるの眼には血がにじんで來るやうに思つた。
 男の生活を愛する事を知らない女と、女の藝術を愛する事を知らない男と、それは到底一所のものではなかつた。義男の身にしたら、自分の生活を愛してくれない女では張合のない事かも知れない。毎日出てゆく義男のがま口の中に、小さい銀貨が二つ三つより以上にはいつてゐた事もなかつた。それを目の前に見て上の空な顏をしてゐる事が出來るみのるは、義男に取つては一生を手を繋いでゆく相手の女とは思ひやうも無い事かも知れなかつた。
「二人は矢つ張り別れなければいけないのだ。」
 みのるは然う思ひながら歩き出した。初めて、凝結してゐた瞳子ひとみの底から解けて流れてくる樣な涙がみのるの頬にしみ/″\と傳はつてきた。
 みのるの歩いてゆく前後には、もう動きのとれない樣な暗闇がいつぱひに押寄せてゐた。その顏のまわりには蚊の群れが弱い聲を集めて取り卷いてゐた。振返ると、その闇の中に其方此方そちこちと突つ立てゐる石塔の頭が、うよ/\とみのるの方に居膝ゐざり寄つてくる樣な幽な幻影を搖がしてゐた。みのるは自分一人この暗い寂しい中に取殘されてゐた氣がして早足に墓地をめぐつてゐる茨垣ばらがきの外に出て來た。
 其邊をうろついてゐたメエイが其所へ現はれたみのるの姿を見附けると飛んで來てみのるの前にその顏を仰向かしながら、身體ぐるみに尾を振つて立つた。突然この小犬の姿を見たみのるは、この世界に自分を思つてくれるたつた一とつの物の影を捉へたやうに思つて、その犬の體を抱いてやらずにはゐられなかつた。
「有難うよ。」
 小犬に向つてから云つて了ふとみのるの眼から又涙がみなぎつて落てきた。みのるは生れて初めて泣き/\外を歩くと云ふ樣な思ひを味ひながら、右の袂で顏を拭きながら家の方へ歩いて行つた。

       八

 みのるは外に立つて暫時しばらく家の中の樣子を伺つてから入つて行つた。茶の間の電氣をけて其邊を見まわすと、其處には先刻さつき義男が投げ付けた煙草盆の灰のこぼれと、蹴散らされた膳の上のものとが、汚らしく狼藉としてゐるばかりで義男はゐなかつた。しばらくしてみのるが座敷の汚れを掃除してゐる時に、二階で人の寐返りを打つた樣などしりとした響きが聞こえたので、義男は二階に寐てゐるのだとみのるは思つた。あごの骨の痩せこけた、頸筋の小供の樣に細い顏と頭を、上の方で組んだ兩肱の中に埋め込んでかな疊の上に寢轉んでゐる義男の姿がこの時のみのるの胸に浮んでゐた。
 さうして、みのるの心はその義男の前にもう脆く負けてゐた。自分が筆を付けると云ふ事が、義男の望む「働き」と云ふ意味になつて、さうして義男を喜ばせる一とつになるならそれは何の造作もない仕事だと云ふ樣な、女らしい氣安さにその心持が返つてゐた。
 長い間世間の上に喘ぎながら今日まで何も掴み得なかつたみのるの心は、いつともなく臆病になつてゐて、うしてその心の上にもう疲勞の影が射してゐた。みのるは如何程強い張りを持ち初めても、直ぐ曉の星の樣にかうして消へていつた。そうして矢つ張り唯一人の義男のなさけに縋つて行かなければ生きられない樣な自らの果敢ない悲しみを、みのる自身が傍から眺めてゐる樣な心の態度で自分の身體を男の前に投げ出して了ふのが結局おちだつた。

 みのるは其のあくる日から毎日机に向つて、半分草しかけてあつた或る物語の續きを書き初めた。兎もすると厭になつてみのるは幾度止そうとしたか知れなかつた。少しもそれに氣乘りがしてこなかつた。
 今日まで書きかけて机の中に仕舞つておいた作といふのは、みのるの氣に入つたものではなかつた。自分の藝が一度踏み入つた境から何うしても脱れる事の出來ない一とつの臭味くさみを持つてゐる事をつく/″\感じながら、とう/\筆を投げてしまつたその書きかけなのであつた。だからみのるは後半を直ぐに續けて行かうとする前に、もつとその前半を直して見なければならなかつた。みのるの自分の藝に對する正直な心が、自から打捨うつちやつた作をその儘明るい塲所へ持ち出すといふ樣な人を食つた考へに中々陷らせなかつた。みのるは何時までもその前半をいぢつてゐた。
「君はいつまで何をしてゐるんだ。」
 それを見付けた義男は直ぐに斯う云つてみのるの傍に寄つて來た。
「到底駄目だから止すわ。」
「駄目でもいゝからやりたまへ。」
「私は矢つ張り駄目なんだ。」
 みのるは然う云つて自分の前の原稿を滅茶苦茶にした。
「こんな事はね。作の好い惡るいには由らないんだよ。それは唯君の運一つなんだ。作が駄目でも運さへ好ければうまく行くんだからやつて終ひ給へ。ぐづ/\してゐると間に會やしないよ。」
 義男はみのるの手から弄り直してる前半を取り上げてしまつた。それを見たみのるは、
「書きさへすればいゝ?」
 斯ういふ意味をその眼にあり/\と含まして、義男の顏を眺めた。その心の底には何となく自暴やけの氣分が浮いてきた。唯義男の強ひるだけのものを書き上げて、さうしてそれを義男の前に投げ付けてやりさへすれば好いんだといふ樣な自暴な氣分だつた。
「私が若し何うしても書かなければあなたは何うするの。」
「書けない事はないから書きたまへ。」
「書けないんです。氣に入らないんです。」
「そんな事はないからさら/\と書き流してしまひたまへ。」
「氣に入らないからいやなの。」
「惡るい癖だ。そんな事を云つてる暇に二枚でも三枚でも書けるぢやないか。」
 義男は日數を數へて見た。規程の紙數までにはまだ二百餘枚もありながら日は僅に二十日にも足りなかつた。義男は何事も一氣に遣付ける事の出來ない口ばかり巧者なこの女が、※(「赭のつくり/火」、第3水準1-87-52)り豆の豆が顏にぴんと痛く彈きかゝつた樣に癪にさわつて小憎らしくなつた。
「成程君は駄目な女だ。よし給へ。よし給へ。」
 義男は然う云ふと一旦取り上げた原稿を本箱から出してきて、みのるの前にぱら/\と抛り出した。その俯向いた眼にいつにもない冷めたい蔭が射してゐた。
「止せば何うするの。」
 みのるは机に寄つかゝつて頭を右の手で押へながら男の顏をなゝめに見てゐた。義男の顏は、眼の瞬きと、蒼い顏の筋肉の動きと、唇のおのゝきと、それがちやんぽんになつて電光をはしらしてゐた。
「別れてしまうばかりさ。」
 義男はぽんと女を突き放す樣に斯う云つた。みのるが何も得ないと云ふ見極めを付けると一所に、義男には直ぐ明らかな重荷を感じずにはゐられなかつた。義男にしては二人の間を繋いでるものは愛着ではなかつた。力であつた。自分に持てない力を相手の女が持ち得るものでなければ一所には居たくなかつた。女の重荷を、殊にみのるの樣な我が儘の多い女の重荷を引つてゐては、自分の身體がだん/\に人世の泥沼ぬまの中に沈み込んで行くばかりだと思つた。義男はもうこの女を切り放さなければならなかつた。――斯う云ふ時にはいつ手強てづよい抵抗をみのるに對して見せ得る男であつた。直ぐにその塲からでも何方いづれかゞこの家を離れゆくと云ふ氣勢けはいをはつきりと見せ得る男であつた。そこには男が特にみのる一人に對して考へてゐる樣な愛なぞは微塵も挾まれなかつた。
「書くわ。仕方がないもの。」
 みのるの眼にはもう涙が浮いてゐた。さうして其邊に取り散らかつた原稿をまとめてゐた。

       九

 みのるは唯眞驀ましぐらに物を書いて行つた。自分を鞭打つやうな男の眼が多くの時間みのるの机の前に光つてゐた。みのるはそれを恐れながら無暗むやみと書いて行つた。蚊帳の中にランプと机とを持ち込んで暫時しばらく死んだ樣に仰向に倒れてゐてから、急に起き上つて書く事もあつた。朝から夕まで家の中に射し込んでゐる夏の日光を、みのるは彼方此方あちこちと逃げ廻りながら隅の壁のところに行つてその頭をさん/″\打つ突けてから又書き出す事もあつた。
 さうして出來上つたのが締切りの最後の日の午後であつた。義男はそれにみのるの名を書き入れてやつて、小包にしてから自分で郵便局へ持つて行つた。みのるはその汗になつた薄藍地の浴衣の袂で顏を拭ひながら、この十餘日の間の自分を振返つて見た。男の姿に追ひ使はれたペンの先きには、自分の考へてゐる樣な美しい藝術の影なぞは少しも見られなかつた。唯男の處刑を恐れた暗雲やみくもの力ばかりであつた。そのやみくもな非藝術な力ばかりで自分の手には何が出來たらう。然う思ふとみのるは失望しずにはゐられなかつた。
 それは八月の半ばを過ぎてからであつた。ある朝その日の新聞の上に、ふとみのるの、心にとまつた記事があつた。
 みのるは義男が勤めに出て行つてから、[#「から、」は底本では「から。」]家の入り口の方へ釘を差しておいて自分も外に出た。[#「出た。」は底本では「出た、」]さうして廣小路へ來ると其所から江戸川行の電車に乘つた。
 色の褪めた明石の單衣を着て、これも色の褪めた紫紺の洋傘かうもりしたみのるの姿が、しばらくすると、炎天の光りに射られて一帶に白茶けて見える牛込の或る狹い町を迷つてゐた。敷き詰めた小砂利の一とつ/\に兩抉りやうぐりの下駄が挾まるのでみのるは歩きくて[#「歩きくて」はママ]堪らなかつた。その度に慟悸が打つて汗が腋の下を傳はつた。地面から裾の中へ蒸し込んでくる熱氣と、上から照りつける日光の炎熱とが、みのるの薄い皮膚はだをぢり/\と刺戟した。みのるの顏は燃えるやうに眞つ赤になつてゐた。
 みのるは橋の角の交番で「清月」と云ふ貸席をたづねると、其所から江戸川べりの方へ曲がつて行つた。清月はその通りの右側にあつた。もとは旗本のやしきでもあつたかと思ふ樣な構造をした古るい家であつた。みのるはその式臺のところに立つて、取次に出た女中に小山と云ふ人をたづねた。
 みのるは直ぐに奧に通された。がらんとした廣い座敷に、みのるは庭の方を後にしてこれから逢はうといふ人の出てくるのを待つてゐた。何所も開け放してありながら風が少しも通つてこなかつた。さうして日中の暑熱あつさに何も彼もぢつと息を凝らしてる樣な暑苦しさと靜さが、その赤くなつた疊の隅々に影を潜めてゐた。みのるは半巾はんけちで顏を抑へながら、せつせと扇子を使つてゐた。
 煙草盆を提げながら小作りな男が奧の方から出て來てみのるの前に座つた。瞳子ひとみの黒い瞼毛まつげの長い眼が晝寢でも爲てゐた樣にぼつとりと腫れてゐた。よく大坂人に見るやうに物を云ふ時その口尻に唾を溜める癖があつた。笑ふと女の樣な愛嬌がその小さな顏いつぱいに溢れた。
 小山はみのるの名前は知らなかつたけれども義男の名前は知つてゐた。手に持つてるみのるの名刺をいぢりながら、小山はみのると話をした。
 小山は自分たちのこしらへてる劇團に就いて口を切つた。それからこの前の一回の興行はある興行師の手で組織された爲に世間から面白くない誤解を受たりしたけれ共、今度の第二回は酒井や行田ゆきだと云ふ人の助力のもとに極く藝術的に組織すると云ふ事を長く述べ立てた。さうして、女優は品行の正しい身性みじやうのあまり卑しくないものばかりを選むつもりだと云つた。滑かな大坂辯が暑い空氣の中に濁りを帶びて、眠たい調子をうね/\とひゞかしてゐた。
 小山は話しをしてる間に、少しは分つた事を云ふ女だと云ふ樣な顏をして、時々みのるの言葉に調子を乘せて自分の話を進めて行つたりした。
「然う云ふ御熱心なら、一度よく酒井先生とも行田先生とも御相談をいたしまして、其の上で御返事を差上げると云ふことに。多分よろしからうとは思ひますが私一人の考へ通りにも參りませんによつて、あとから端書を差上げると云ふ事にいたしませう。」
 みのるはそれで小山に別れを告げて外に出た。
 誰もゐない家の軒に祭りの提燈がたつた一とつ暑い日蔭の外れに搖れてゐるのを見守りながら、みのるがつと家へはいつた時は、もう庭の上にも半分ほど蔭ができてゐた。みのるは汗になつた着物も脱がずに開けひろげた座敷の眞中に坐つて何か考へてゐた。
 夜るになつてみのるは義男と祭禮のある神社へ參詣に出かけた。墓塲を片側にした裏町には赤い提燈の灯がところ/″\に、表の賑やかさを少しちぎつて持つて來た樣な色を浮べてぼんやりと滲染にじんでゐた。その明りの蔭に白い浴衣の女の姿がなまめいた袖のなびきを見せて立つてゐたかどもあつた。通りに出るといつもびれた塲末の町は夜店の灯と人混みの裾のもつれの目眩しさとで新たな世界が動いてゐた。
 二人は人に押返されながら神社の中へ入つて行つた。赤い椀を山に盛つた汁粉の出店の前から横に入ると、四十位の色の黒い女が腕まくりをして大きな聲で人を呼んでる見世物小屋の前に出た。幕が垂れたり上つたりしてゐる前に立つて中を覗くと、肩衣かたぎぬをつけた若い女が二人して淨瑠璃でも語つてゐる樣な風をしてゐる半身が見えた。その片々の女は目の覺めるほど美しい女であつた。薄暗い小屋の中から群集の方へ時々投げる眼に、瞳子ひとみの流れるやうなたつぷりした表情が動いてゐた。艶もなく胡粉ごふんのやうに眞つ白に塗りつけたおしろいが、派出な友禪の着物の胸元に惡毒あくどい色彩を調和させて、猶一層この女を奇麗に見せてゐた。鼻が眞つ直ぐに高くて口許がぽつつりと小さかつた。
「まあい女だわね。」
 みのるは義男の袖を引つ張つた。
「あれが轆轤ろくろつ首だらう。」
 義男も笑ひながら覗いて見た。上の看板に、肩衣をつけた女の身體からによろ/\と拔け出した島田の女の首が人の群集を見下してゐる樣な繪がかいてあつた。義男はかうした下等な女藝人の白粉おしろいが好きであつた。その女の眼に義男は心を惹かれながら又歩きだした。
 二人は三河島の方を見晴らした崖の掛茶屋の前に廻つて來た。葭簀よしずを張りまわした軒並びに鬼灯ほゝづき提燈が下がつて、サイダーの瓶の硝子や掻きかけの氷の上にその灯の色をうつしてゐた。そこで燒栗を買つた義男はそれを食べながら崖の下り口に立つて海のやうに闇い三河島の方を眺めてゐた。この祭禮の境内へ入つてくる人々が絶えず下の方から二人の立つてる前をよぎつて行つた。
「あなたに相談があるわ。」
 みのるは云ひながら、境内の混雜を見捨てゝ崖から下へおりやうとした。
「何だい。」
「もう一度芝居をやらうと思ふの。」
「君が? へえゝ。」
 二人は崖をおりて踏切りを越すと日暮里の方へ歩いて出た。みのるは歩きながら酒井や行田のやらうとしてゐる新劇團へ入るつもりの事を話した。行田は義男の知つてゐる人だつた。まだ外國から歸つて來たばかりの新らしい脚本家であつた。その人の手に作られた一と幕物の脚本を上塲する事にまつてゐるのだが、そのむづかしい女主人公を演る女優がなくつて困つてゐると、晝間小山の云つた事にみのるは望みを繋いでゐた。けれども其所までは話さずに舞臺に出ても好いか惡るいかを義男に聞いて見た。義男は默つて燒栗を食べながら歩いてゐた。
 義男はまだ結婚しない前にみのるが女優になると云つて騷いだ事のあるのは知つてゐた。けれどもどんな技倆がこの女にあるのかは知らなかつた。その頃みのるがある劇團に入つて何かつた時に一向噂のなかつたところから考へても、舞臺の上の技巧はあんまり無さそうに思はれた。それにみのるの容貌きりやうでは舞臺へ出ても引つ立つ筈がないと義男は思つてゐた。外國の美しい女優を見馴れた義男は、この平面な普通なみよりも顏立ちの惡るいみのるが舞臺に立つといふ事だけでも恐しい無謀だとしきや思はれなかつた。
「今になつて何故そんな事を考へたんだね。」
 義男は燒栗を噛みながら斯う聞いた。
せんから考へてゐたわ。唯好い機會がないから我慢してゐたんだわ。」
 義男は舞臺の上のみのるを疑つて中々それに承知を與へなかつた。
「何故いけないの?」
 みのるはもう突つかゝり調子になつてゐた。
 裸になつた義男は椽側に寐そべつて煙草をのんでゐた。みのるはその前にぶつつりと坐つて※(「赭のつくり/火」、第3水準1-87-52)え切らない義男の容體を眺めてゐた。
「そんな悠長な生活ぢやないからな。」
 義男は然う云つて考へてゐた。みのるが演劇に手腕を持つてゐて、それで澤山な報酬が得られる仕事とでも云ふのならいけれ共、海とも山とも付かない不安なさかいへ又踏み込んで行つて、結局は何方どつちう向き變つて行くか分らないと云ふ始末を思ふと、義男には却つてお荷物であつた。それに自分が毎日出てゆくある小社會の群れに對しても、それ等の人の惡るい仲間たちに舞臺の上の美しくないかも技藝に拙い女房を見られる事は義男に取つては屈辱だつた。そんな事をみのるが考へてる暇に常收入のある職業を見付けて自分に助力をしてくれる方が義男には滿足だつた。
 生活の事も思はずに、斯うして藝術に遊ばう遊ばうとする女の心持が、又何日いつかのやうに憎まれだした。
「君はだまつて書いてゐればいゝぢやないか。」
「何を書くの。」
「書く樣な仕事を見付けるさ。」
「文藝の方ぢやいくら私が考へても世間で認めてくれないぢやありませんか。今度はいゝ時機だからもう一度演藝の方から出て行くわ。私には自信があるんですもの。それに酒井さんや行田さんが、ステージマネジヤならきつとやれるわ。」
 みのるは眼を輝かして斯う云つた。みのるは實は筆の方に自分ながら愛想を盡かしてゐたのであつた。それはこの間の仕事によつて自分で分つたのであつた。ひそかに筆の上に新らしい生命を養ひつゝあるとばかり自負してゐたみのるは、この間の仕事にそれがちつとも現はれてこなかつた事を省みると、自分ながら厭になつてゐた。けれ共義男には然うは云はなかつた。何故ならあの時にみのるは義男に向つて自分の大切な筆をそんな賭け見たいな事に使はないと云つて罵り返したのであつた。その自分の言葉に對してもみのるには其樣そんなおめ/\した事は義男の前で云へなかつた。
 自分ながら筆の上に思ひを斷つ以上、もう一度舞臺の方で苦勞がして見たかつた。新聞で見た新劇團の女優募集の記事はこの塲合のみのるには渡りに船であつた。
「僕は君は書ける人だと思つてゐる。だからその方で生活を助けたらいゝぢやないか。第一そんな事をするとしても君の年齡はもうおそいぢやないか。」
「藝術に年齡がありますか。」
「そりや藝術の人の云ふ事だ。君はこれからやるんぢやないか。」
「それならよござんす。私は私でやりますから。あなたの爲の藝術でもなければあなたの爲の仕事でもないんですから。私の藝術なんですから。私のする仕事なんですから。然う云ふ事であなたが私を支へる權利がどこにあります。あなたがいけないと云つたつて私はやるばかりですから。」
 斯う云ひきるとみのるの胸には久し振な慾望の炎がむやみと燃え立つた。そうして自分を見縊みくびるこの男を舞臺の上の技藝で、何でも屈服さしてやらなければならないと思つた。
「そんな準備の金は何所から算段するんだ。」
「自分で借金をします。」

       十

 みのるを加入いれると云ふ意味のはがきが小山の許から來てから、間もなく本讀みの日の通知があつた。
 みのるの前に斯うして一日々々と新たな仕事の手順がはかどつて行くのを見てゐると、義男は氣が氣ではなかつた。平氣な顏をして、何所か遠いところに引つ掛つてゐる望みの影を目をはつきりと開いて見据えてる樣なみのるの樣子を、義男は傍で見てゐるにこらへられない日があつた。
「舞臺の上がまづくつてみつともなければ、僕はもう決して社へは出ないからな、君の遣りかた一とつで何も彼も失つてしまうんだからそのつもりでゐたまへ。」
 それを聞くとみのるは義男の小さな世間への虚榮をはつきりと見せられた樣になつて不快いやな氣がした。何故この男は斯う信實がないのだらうと思つた。少しも自分の藝術に向つての熱を一所になつて汲んでくれる事を知らないのだと思つて腹が立つた。そうしてその小さな深みのない男の顏をわざと冷淡に眺めたりした。
「ぢや別れたらいゝぢやありませんか。然うすりやあなたが私の爲に耻ぢを掻かなくつても濟むでせう。」
 こんな言葉が今度は女の方から出たけれども今の義男はそれ程のかどを持つてゐなかつた。女が派出な舞臺へ出るといふ事に、女へ對するある淺薄あさはかな興味をつないで見る氣にもなつてゐた。
「君にそれだけの自信があればいゝさ。」
 義男は然う云つて默つた。
 清月でみのるは酒井にも行田にも逢つた。何方もみのるの見知り越しの人であつた。酒井といふのは、一方では、これから理想の演劇を起そうとして多くの生徒をごく内容的に養成してゐる或る博士のもとに働いてゐる人であつた。みのるはこの酒井のハムレツトを見て、その新らしい技藝に醉つたことがあつた。
 眼と鼻のあたりに西洋人らしい俤はあつたがせいの小さい人であつた。行田は圖拔けて背の高い人であつた。いつも眼の中に思想を蓄へてると云ふ樣な顏付をしてゐた。笑つても頭の奧で笑つてる樣なぬつとした容態があつた。
 鋭くしやんとした酒井と、重くかゞみ加減になつてる行田とはいつも兩人ふたりながら膝前をきちりと合はせて稽古の座敷の片隅に並んで座つてゐた。
 その中を例の小山は睫毛まつげの長い愛嬌に富んだ眼を隅から隅へ動かしながら、その小さな身體をちよこ/\と彈ましてゐた。
 みのるの外に女優が二三人ゐた。どれも若くて美しかつた。早子はやこと云ふのは顏は痩せてゐたけれども目をつぶつたりすると印象の強い暗い蔭が漂つた。そうして口豆くちまめな女だつた。艶子つやこと云ふのがゐた。顏の輪廓の貞奴に似た高貴な美しさを持つてゐた。その中にゐて、みのるは矢つ張り行田の手で作られた戯曲の女主人公をやる事に定まつてゐた。
 その女主人公は音樂家の老孃であつた。それが不圖戀を感じてから、今まで冷めたく自分を取卷いてゐた藝術境から脱けて出てその戀人と温い家庭を持たうとした。その時にその戀人の夫人であつた女から嫉妬半分の家庭觀を聞いて、又淋しくもとの藝術の世界に一人して住み終らうと決心する。と云ふのであつた。
 他の俳優たちは誰もその脚本を笑つてゐた。他の俳優といふのは壯士俳優の三流ぐらゐなところから、手腕うでのあるのをすぐつて來た群れであつた。その中からこの脚本に現はれた人物に扮する樣に定められた男が二人ほどあつた。その頭では解釋のしきれないむづかしい言葉が續々と出てくるので閉口して笑つてゐた。
 みのるが詰めて稽古に通ふ樣になつた時はもう冷めたい雨の降りつゞく秋口あきぐちになつてゐた。雨の降り込む清月の椽に立つて、べろ/\した單衣一枚の俳優たちが秋の薄寒さをかこつ樣な日もあつた。朝早く清月に行つてみのるが一人で臺詞せりふをやつてる時などに、濡れた外套を着た酒井が頸元えりもとの寒そうな風をして入つて來る事もあつた。お互の挨拶の息が冷めたい空氣にかぢかんでる樣な朝が多くなつてゐた。
 行田も酒井もいつも朝早く定めた時刻までには出て來てゐた。そうして怠けた俳優たちがうそ/\集つてくるまで、二人は無駄な時間を空に費してゐる事が毎日の樣であつた。藝術的の氣分に緊張してゐるこの二人と、旅藝人のやうに荒んだ、統一のない不貞ふてた俳優たちとの間にはいつもこぢれ紛雜ふんさつ[#ルビの「ふんさつ」はママ]が流れてゐた。酒井は殊にぽん/\と怒つて、藝人根性の主張をやめないその俳優たちを表面から責めたりした。酒井の譯したピネロの喜劇は全部この不統一な俳優たちの手で演じられる事になつてゐた。その稽古が少しもつまないと云つて、酒井は「ちつとも藝術品になつてゐない。然うてん/″\ばら/\では仕方がない。」と云つて一人でぢり/\してゐた。
 けれども演劇で飯を食べてるこの連中は、酒井などから一々臺詞にまで口を入れられる事に就いて、明らかな惡感あくかんを持つてゐた。俳優たちは沈默の反抗をそのふところ手の袖に見せて、酒井の小言の前で氣まづい顏をしてゐる事が多かつた。
「初めからのお約束ですから、少々氣に入らない事があつても一致してやつて頂かなけりや困ります。どうでせう皆さん。もう日もない事ですから一とつ一生懸命になつて臺詞を覺えて頂く譯には行きませんか。」
 酒井の傍に坐つた小山が、こんな事を云つて口に皺を寄せながら向ふに集まつた俳優たちを眺めてゐる事もあつた。
 その中で女優ばかりは誰もも評判がよかつた。皆が舞臺監督の云ふ事をよく聞いて稽古をはげんでゐた。
「こんなに女優が重い役をやると云ふのは今度が初めだから、一とつ思ひ切つた立派な藝を見せていたゞき度い。女優の技藝によつてこの新劇團の運命が定まるやうなものだと思つて充分につて頂きたい。女優と云ふものも馬鹿に出來ないものだと云ふ事を今度の興行によつて世間へ見せて頂きたい。」酒井は斯う云つて女優たちを上手におだてた。
 その中にゐて、みのるには例の惡るい癖がもう初まつてゐた。自分の氣分がこの俳優の群れに染まないと云ふ事がすつかりみのるを演劇の執着からはなしてしまつた事であつた。みのるは芝居をする事がもう厭になつてゐた。そうして、何時もこの俳優たちの低級な趣味の中に自分を輕く落して突き交ぜやうとする努めの爲にだん/\疲れてきた。清月にゐる間の自分を省みると、そこには蓮葉はすつぱな無教育な女が自分になつて現はれてゐた。
 もう一とつ厭な事があつた。
 みのるの役のワキ役になる女優に録子ろくこといふのがゐた。みのるよりも年嵩としかさで舊俳優の中から出てきた人だつた。目の大きな鼻の高い役者顏の美しい女であつた。みのるはこの録子と一所にゐる間は始終この女の極く世間摺れした心から妙に自分と云ふものを壓し付けられる樣な自分の感情の沮喪そさうの苦しみがつゞくのであつた。録子は女役者にもなれば藝妓にもなると云ふ樣に世間を渡り歩いてきた氣の強い意地つ張りが、誰に向つても自分の心持にりを打たして、相手をぐいと押退ける樣な態度を見せた。みのるはそれにぢり/\して、この録子を恐れた。そうしてワキの録子がみのるの仕科しぐさの上につけ/\と注文をつけたりしても、みのるは自分の藝術の權威を感じながらこの録子に向つては言葉を返す事が出來なかつた。
 みのるは小供の頃小學校へ通ふ樣になつてから、何年生になつてもその同じ級のうちにきつと自分を苛める生徒が一人二人ゐた。みのるは毎朝何かしら持つて行つてその生徒に與へてはお世辭をつかつた事があつた。そうして學校へ行くのがいやで堪らない時代があつた。丁度今度の録子に對するのがそれによく似た感じであつた。
 録子は女主人公の戀人の夫人をする事になつてゐた。行田も酒井も「あれでは困る。」と云つて、その古い芝居に馴らされてしまつたそうして頭腦のない録子に手古摺てこずつてゐたけれ共、録子はそんな事には平氣であつた。そうして演劇をするについては一生懸命だつた。みのるは遂々たうとうこの録子に負けてしまつた。そうして其役を捨てると云ふ事を行田に話した。みのるはその時泣いてゐた。
「然うセンチメンタルになつては困る。今あなたにめられては困る。」
 口重くちおもな行田は一とつことを繰返しながら酒井を連れて來た。酒井は柱のところに中腰になつて、
「今あなたがそんな事を云つては芝居がやれなくなりますから何卒どうぞ我慢してやつて頂きたい。あなたの技藝は我々が始終賞めてゐるのですから、我々の爲にと思つて一とつ是非奮發して頂きたい。私の方の學校で今ヘツダを演つてる女生がありますが、それにもあなたの今度の技藝に就いて話をしてゐる位です。是非それは思ひ返してやつて頂き度い。」
 酒井は如才なくみのるをなだめた。
 けれどもみのるは何うしても厭になつてゐた。
 この劇團の權威をみとめる事が出來なくなつたのと同時に、みのるは自分の最高の藝術の氣分をかうした境で揉み苦茶にされる事は、何うしても厭だといふ高慢さがあくまで募つてきて、誰の云ふ事にも從ふ氣などはなかつた。明日から稽古に出ないと云ふ決心でみのるは歸つて來てしまつた。
 けれどみのるの眼の前には直ぐ義男と云ふ突支棒つつかひばうが現はれてゐた。この話をしたら義男はきつと自分に向つて、口ばかり巧者で何も遣り得ない意氣地のない女と云ふ批判を一層強くして、自分を侮るに違ひないとみのるは思つた。けれ共矢つ張り義男にこの事を話すよりほかなかつた。
「よした方がいゝだらう。」
 義男は簡單にかう云つた。さうしてみのるが想像した通りを義男はみのるに對して考へてゐた。
「私はもう何所へもゆきどころがなくなつてしまつた。」
 みのるは然う云つて仰向きながら淋しさうな顏をした。

       十一

 みのるのた事は、他から考へると唯安つぽい人困らせに過ぎなかつた。つまりは矢つ張り出なければならなかつた。
 初め義男はみのるに斯う云つた。
「自分から加入を申込んでおいて、又勝手によすなんてそれは義理がわるい。何うしても君がいやだといふなら、僕が君の出勤を拒んだ事にしておいてやらう。」
 義男は然うして劇團の事務所へ斷りを出した。劇團の理事も行田もその爲めに義男を取り卷いてみのるの出勤をせがんで來た。
 劇團の方ではみのるに代へる女優を見附ける事は造作のないことであつたかも知れないが、これだけのむづかしい役の稽古を積み直させるだけの日數の餘裕がなかつた。開演の日はもう迫つてゐた。經營の上の損失を思ふと、小山は何うしてもみのるに出勤して貰はねばならなかつた。行田も義男にあてゝ長い手紙をよこした。
「みつともないから好い加減にして出た方がいゝね。僕も面倒臭いから。」
 義男は斯う云つて、いつも生きものを半分なぶり殺しにしてその儘抛つておく樣なこのみのるの、ぬら/\した感情を厭はしく思つた。然うしてこの女から離れやうとする心の定めがこの時もその眼の底に閃いてゐた。二三日してからみのるは再び清月へ通ひ出した。

 演劇の上でみのるの評判は惡るくはなかつた。誰もこの新らしい技藝を賞めた。けれども又、同時に誰が見てもみのるの容貌きりやうは舞臺の人となるだけの資格がないと云ふことも明らかに思はせた。
 藝術本位の劇評はみのるの技藝を、初めて女優の生命を開拓したものとまで賞めたものもあつた。けれども單に芝居といふ方から標準を取つて行つた劇評は、みのるを惡るく云つた。その態度が下品で矢塲女のやうだと誹つたものもあつた。みのるの容貌はほんとうに醜いものであつた。無理に拾へば眼だけであつた。外の點では唯普通なみの女としても見られないやうな容貌であつた。
 みのるは自分の容貌の醜いのをよく知つてゐた。それにも由らず舞臺へ上り度いといふのは唯藝術に對する熱のほかにはなかつた。そこから火のやうに燃えてくる力がみのるを大膽に導いて行くばかりであつた。けれども女優は――舞臺に立つ女はある程度まで美しくなければならなかつた。
 女は、そこに金剛のやうな藝術の力はあつても、花のやうな容貌がなければ魅力の均衡つりあひは保たれる筈がなかつた。みのるの舞臺は、ある一面からは泥土どろを投げ付けられる樣な誹笑そしりを受けたのであつた。
 みのるはそこにも失望の淵が横つてゐるのを、はつきりと見出した。みのるはある日演劇が濟んでから、雨の降り止んだ池の端を雨傘を提げて歩るいて來た。今夜も棧敷ざしきからみのるの舞臺を見てゐた義男が一所であつた。
 みのるは此時程義男に對して氣の毒な感じを持つた事はなかつた。義男は此演劇が初まつてから毎晩芝居へ通つて來た。然うしてその小さな眼のうちは、はたの批評を一句も聞き漏らすまいといつもおど/\とふるへてゐた。義男の友達も多勢見に來た。これ等の人の前で舞臺の美しくない女を見ながら平氣な顏をしてゐなければならないと云ふのは、この男にしては非常な苦痛であつた。技藝は拙くとも舞臺の上で人々を驚かせるほどの美を持つた女を有してゐる事の方が、この男の理想であつた。義男はその爲に毎日出て行くある群れの塲所にゐても絶へず苦笑を浮べてゐなければならない樣な、にがい刺戟にくわすのであつた。
 義男も疲れてゐた。二人の神經はある悲しみの際に臨みながら、その悲しみを嘲笑のくうの中にお互に突つ放さうとする樣な昂奮を持つてゐた。
「今夜はどんなだつたかしら、少しはうまく行つて。」
「今夜は非常によかつた。」
 二人はかう一と言づゝを言ひ合つたきりで歩いて行つた。毎夜舞臺の上で一滴の生命の血を絞り/\してる樣な技藝に對する執着の疲れが、かうして歩いて行くみのるを渦卷くやうに遠い悲しい境へ引き寄せていつた。その美しい憧憬あこがれの惱みを通して、誹笑の聲が錐のやうにみのるの燃る感情を突き刺してゐた。池の端の灯を眺めながら行くみのるの眼はいつの間にか涙んでゐた。
「全く君は演劇の方では技量を持てゐるね。僕も今度はほんとうに感心した。けれども顏の惡るいと云ふのは何割もの損だね。君は容貌の爲めに大變な損をするよ。」
 義男はしみ/″\と斯う云つた。義男は自分の女房を前において、その顏を批判するやうな機會に出逢つた事がいやであつた。同時に、みのるがそのすべてを公衆に曝すやうな機會を作り出した事に不滿があつた。
「よせばいゝのに。」
 義男は斯う云ふ言葉を繰り返さずにはゐられなかつた。

       十二

 僅な日數で芝居は濟んでしまつた。みのるが鏡臺を車に乘せて家へ歸つた最後の晩は雨が降つてゐた。一座した俳優たちが又長く別れやうとする終りの夜には、誰も彼も淡い悲しみをその心の上に浮べてゐた。男の俳優は樂屋で使つたいろ/\の道具を風呂敷に包んだり、鞄に入れたりして、それを片手に下げながら帽の庇に片手をかけて挨拶し合つてゐた。この劇團が解散すれば、又何所へ稼ぎに行くか分らないと云ふ放浪の悲しみがそのてん/″\の蒼白い頬に漂つてゐた。しつかりした基礎もとゐのないこの新しい劇團は、うこれで凡が滅びてしまふ運命を持つてゐた。何か機運に乘じるつもりで、斯うして集まつた俳優たちは、又この手から放れて然うして矢つ張り明日からの生活の糧をそれ/″\に考へなければならなかつた。みのるは車の上からかうして別れて行つてしまつた俳優たちの後を見送つた。
 芝居の間みのるが一番親しんだ女優は早子であつた。新派の下つ端の女形をしてゐると云ふ可愛らしい早子の亭主が、みのると合部屋の早子のところへ能く來てゐた。早子には病氣があつた。昨晩血を吐いたと云ふ樣なあくる日は、傍から見てゐてもその身體がほそ/″\と消えていつて了うかと思ふ樣な、力のないぐつたりした樣子をしてゐた。毎日喧嘩ばかりしてゐるといひながら、矢張り亭主がくるとかつらを直してやつたり、つくつた顏を見直してやつたりしてゐた。今度の給金の事でよく小山ともつれあつてゐたのもこの早子だつた。みのるはこの早子が忘られなかつた。別れる時その内に遊びに行くと云つた早子は何日になつてもみのるの許へ來なかつた。

 また、小さな長火鉢の前に向ひ合つて、お互の腹の底から二人の姿を眺め合ふやうな日に戻つてきた。
 何時の間にか秋が深くなつて、椽の日射しの色が水つぽく褪めかけてきた。さうして秋の淋しさは人の前髮を吹く風にばかり籠めてゞもおく樣に谷中やなかの森はいつも隱者のやうな靜な體を備へてぢつとしてゐた。その森のおもてから目に見えぬほどづゝ何所どこからともなく青い色が次第に剥げていつた。
 二人の生計くらしは益々苦しくなつてゐた。寒くなつてからの着料なぞは兎ても算段の見込みが立たなかつた。家の持たてには二人の愛情が濃い色彩を塗つてゐた爲に貧弱な家財道具にもさして淋しさを感じなかつたものが、別々なところにその心を据えて自分々々をしつかりと見守つてゐる樣なこの頃になつては、寒さのとつつきのこの空虚からつぽな座敷の中は唯お互の心を一層すさましくさせるばかりだつた。それを厭がつてみのるは自分で本などを賣つて來てから、高價たかい西洋花を買つて來て彼方此方あつちこつちへ挿し散らしたりした。然うしたみのるの不經濟がこの頃の義男には決して默つてゐられる事でなかつた。
 まるで情人と遊びながら暮らしてゞもゐる樣な生活は、どうしても思ひ切つて了はねばならないと義男は思ひつゞけた。七十を過ぎながら小遣ひ取りにまだ町長を勤めてゐる故郷の父親の事を思ふと義男はほんとに涙が出た。只の一度でも義男は父親の許へ菓子料一とつ送つた事はなかつた。義男だといつても自分の力相應なものだけは働いてゐるに違ひなかつた。それが何時も斯うして身滲みじめな窮迫な思ひをしなければならないといふのは、只みのるの放縱がさせるわざであつた。
 義男は又、昔の商賣人上りの女と同棲した頃の事が繰り返された。その頃は今程の收入がなくつてさへ、何うやら人並な生活をしてゐた。――義男はつく/″\みのるの放縱を呪つた。
 この女と離れさへすれば、一度失つた文界の仕事ももう一度得られるやうな氣もした。みのるが自分の腕に纒繞まつはつてゐる爲に、大膽に世間を踏みにじれないといふ事が自分に禍ひをしてゐるのだと思ふと、義男はこの女を追ひ出すやうにしても別にならなければならないと思ひ詰める事があつた。
「何か仕事を見付けて僕を助けてくれる譯にはいかないかね。」
 義男は毎日の樣にこれをくり返した。
 遂に男の手から捨てられる時が來たとみのるは意識してゐた。
 十何年の間、みのるは唯ある一とつを求める爲めに殆んど憧れ盡した。何か知らず自分の眼の前から遠い空との間に一とつの光るものがあつて、その光りがいつもみのるの心を手操り寄せやうとしては希望の色を棚引かして見せた。けれどもその光りは、なか/\みのるの上に火の輝きとなつて落ちてこなかつた。みのるは義男の心の影を通して、自分にばかり意地の惡るい人生をしみじみと眺めた。
「何も彼も思ひ切つてしまひたまへ。君には運がないんだから。そうして君はあんまり意氣地がなさ過ぎる。君は平凡な生活に甘んじて行かなけりやならない樣に生れ付いてるんだ。」
 斯ういふ義男の言葉をみのるは思ひ出した。けれども、みのるは矢つ張りその一の光りをいつまでも追つてゐたかつた。遂に自分の手に落ちないものとまつてゐても、生涯その一縷の光りを追ひ詰めてゐたかつた。然うしてその追ひ詰めつゝゆく間に矢張り自分の生の意味を含ませて見たかつた。
 二人はある晩酉の市から歸つて來てから、別れるといふことを眞面目に話し合つた。
「第一君にも氣の毒だ。僕の働きなんてものは、普通なみの男の以下なんだから。僕はたしかに君一人養ふ力もないんだから一時別になつてくれたまへ。その代り君を贅澤ぜいたくに過ごさせる事が出來る樣になつたら又一所になつてもいゝ。」
 これが別れるとまつた時の義男の言葉であつた。
「義男と離れたなら自分は何うしやう。何うして行かう。」
 みのるは直ぐに斯う思つた。さうして自分の傍から急に道連れの影を失ふのが、心細くて堪らなかつた。今まで長く凭れてゐた自分の肌の温みを持つた柱から、すべり落されるやうな頼りなさが、みのるの心を容易に定まらせなかつた。
「メエイとも別れるんだわね。」
 みのるは庭で遊んでゐた小犬を見ながら斯う云つた。この小犬は二人の長い月日を叙景的に繋ぎ合せる深い因縁をもつてゐた。二人をよく慰めたものはこの小犬であつた。みのるは思はず涙がこぼれた。
「あなたに別れるよりもメエイに別れる方が悲しい。妙だわね。」
 みのるは戯談じようだんらしい口吻くちぶりを見せてから、いつまでも泣いてゐた。

       十三

 みのるは一旦母親の手許へ歸る事になつた。義男はあるだけの物を賣り拂つて一時下宿屋生活をする事に定めてしまつた。
 こゝまで引つ張つて來てから、ふとこの二人を揶揄からかふやうな運命の手が思ひがけない幸福をすとんと二人の頭上に落してきた。それは、この夏の始めに義男が無理に書かしたみのるの原稿が、選の上で當つたのであつた。
 それは、十一月の半ばであつた。外は晴れてゐた。みのるが朝の臺所の用事を爲てゐる時に、この幸福の知らせをもたらした人が來た。
 その人は二階でみのるに話をした。その人が歸つてしまつてから二人は奧の座敷で少時しばらく顏を見合せながら坐つてゐた。
「本當にあたつたのかしら。」
 義男は力のない調子で斯う云つた。
 みのるの手に百圓の紙幣さつが十枚載せられたのはそれから五日と經たないうちであつた。二人の上に癌腫の樣にたゝつてゐた經濟の苦しみが初めてこれで救はれた。
「誰のた事でもない僕のお蔭だよ。僕があの時どんなに怒つたか覺えてゐるだらう。君がとう/\いふ事を聞かなけりやこんな幸福は來やしないんだ。」
 義男自身がみのるに幸福を與へたかのやうに義男は云ひ聞かせた。
「誰のお蔭でもない。」
 みのるも全く然うだと思つた。みのるはある時義男が生活を愛する事を知らないと云つて怒つた時、みのる自身は自分の藝術の愛護の爲めにこれを泣き悲んだりした。そんな事に自分のペンすさませるくらゐなら、もつと他のペンの仕事で金錢といふ事を考へて見る、とさへ思つた。
 けれども義男に鞭打たれながらあゝして書き上げた仕事が、こんな好い結果を作つた事を思ふと、みのるは義男に感謝せずにはゐられなかつた。
「全くあなたのお蔭だわ。」
 みのるは然う云つた。この結果が自分に一とつの新規の途を開いてくれる發端になるかも知れないと思ふと、みのるは生れ變つた樣な喜びを感じた。
「これで別れなくつても濟むんだわね。」
「それどころぢやない。これから君も僕も一生懸命に働くんだ。」

 選をした内の一人に向島の師匠もゐた。その人の點の少なかつた爲に、みのるの仕事は危ふく崩れさうな形になつてゐた。義男は口を極めて向島の師匠を呪つたりした。さうして却つてこの人に捨てられた事を義男はみのるの爲めに祝福した。他に二人の選者がゐた。その人たちはみのるの作を高點にしておいた。義男はこの人たちを尋ねることをみのるに勸めた。一人は現代の小説のある大家であつた。この人は病氣で自宅にはゐなかつた。一人は早稻田大學の講師をしてゐる人で、現代の文壇に權威をもつた評論家であつた。みのるはその人を訪ねた。義男はみのるが出て行く時に、みのるが甞て作して大事に仕舞つておいた短篇をその人の手許へ持つて行く樣に云ひ付けた。その人の手から發行されてる今の文壇の勢力を持つた雜誌に、掲載して貰ふ樣に頼んで來た方がいゝと云ふのであつた。
 みのるは義男の云ひ付けを守つてその短篇を持つて出て行つた。今までのみのるなら、こんな塲合には小さくとも自分の權識といふ事を感じて、初對面の人の許へ突然に自作を突き付けるといふやうな事は爲ないに違ひなかつた。けれどもみのるの心はふと痲痺してゐた。
 みのるが訪ねた時、丁度其人は家にゐた。さううしてみのるに面會してくれた。「あれは確に藝術品になつてゐます。いゝ作です。」
 その人は痩せた顏を俯向かしながら腕組みをして然う云つた。みのるの出した短篇の原稿もこの人は「拜見しておく。」と云つて受取つた。
 その人は女の書くものは枝葉が多くていけないと云つた。根を掘る事を知らないと云つた。それが女の作の缺點だと云つた。みのるは然うした言葉を繰り返しながら歸つて來た。さうして逢つてる間にその人の口から出た多くの學術的な言葉を一とつ/\何時までも噛んでゐた。

       十四

「あの仕事にはちつとも權威がない。」
 みのるは直きに斯う云ふことを感じ初めた。片手に握つてしまへばはじも現はれない樣な百圓札の十枚ばかりは直ぐに消えてしまつた。けれどもそんな小さな金ばかりの問題ではない筈であつた。
 義男に強ひられて出來た仕事の結果は、思ひがけない幸福をこの家庭にぎ入れたけれども、そのみのるの仕事には少しも權威はなかつた。社會的の權威がなかつた。仕事の上の權威から云つたらまだ一面から誹笑を受けた演劇の方に、熱い血が通つた樣な印象があるとみのるは思つた。
 みのるの心は又だん/\に後退あとずさりして行つた。義男がさも幸運の手に二人が胴上げでもされてる樣な喜びを見せつけてゐる事にも不足があつた。二人の頭上に突然に落ちたものは幸運ではなくつて、唯二人の縁をもう一度繋がせる爲めの運命の神のいたづらばかりであつた。二人の生活はもう直ぐに今までの通りをくり返さなければならないに定まつてゐた。
 みのるははつきりと「何うかしなければならない。」と云ふ事を考へた。もう一度出直さなければならないと考へた。空間を衝く自分の力をもつと強くしなければならないと考へた。みのるの權威のない仕事は何所にも響きを打たなかつたけれども、その一端が風の吹きまわしで世間に形を表しかけたと云ふ事が、みのるの心を初めて激しく世間的に搖ぶつた功果ママのあつたのはほんとうであつた。
 その後みのるは神經的に勉強を初めた。今まで兎もすると眠りかけさうになつたその目がはつきりと開いてきた。それと同時に義男といふものは自分の心からまるで遠くなつていつた。義男を相手にしない時が多くなつた。義男が何を云つても自分は自分で彼方あつちを向いてる時が多くなつた。みのるを支配するものは義男ではなくなつた。みのるを支配するものは初めてみのる自身の力によつてきた。よく義男の憎んだみのるの高慢は、この頃になつて義男からは見えないところに隱されてしまつた。さうしてその隱された場所でみのるの高慢は一層強く働いてゐた。
「僕のお蔭と云つてもいゝんだ。僕が無理にも勸めなければ。」
 かういふ義男の言葉を、みのるはこの頃になつて意地の惡るい微笑で受けるやうになつた。義男の鞭打つた女の仕事は義男の望む金といふものになつて報ゐられた。そこから受ける男の恩義はない筈だつた。又新しく自分は自分で途を開かねばならないといふみのるの新しい努力に就いては、男はもう何も與へるものを持つてゐなかつた。
 少しづゝ義男の心に女の態度が染み込んでいつた。男を心から切り放して自分だけせつせとある段階を上つて行かうとする女の後姿を、義男は時々眺めた。あの弱い女がかうしてだん/\強くなつてゆく――その捩ぢ切つた樣に強くなつた一とつの動機は矢つ張り發表された例の仕事の結果だとしきや思はれなかつた。然うして自覺の強みを與へたものは矢つ張り自分だと思つた。
 けれども義男は何も云はなかつた。みのるの爲た仕事は何うしてもみのるの仕事であつた。みのるの藝術は何うしてもみのるの藝術であつた。みのるは自分の力を自分で見付けて動きだしたのだ。義男はそれに口を挿むことは出來なかつた。義男は然う思つた時、この女から一と足一と足に取り殘されてゆくやうな不安な感じを味はつた。

 ある時この二人の許へ訪ねて來た男があつた。これは義男と同郷の男で帝國大學の文科生であつた。この男の口からみのるは何日いつかの自分の作を選した眞實ほんたうのもう一人を知つた。それは簑村といふ新らしい作家であつた。新聞に發表されてゐた選者の一人は病氣であつた爲、その人の門下のやうになつてゐる簑村文學士が代選したのだといふ事がこの男を通じて分つた。この大學生は簑村文學士に私淑してゐる男であつた。
 みのるはそれから間もなくこの大學生に連れられて簑村文學士をたづねた。その人の家は神樂坂の上にあつた。
 其の家へ入つた時、みのるは上り口の薄暗い座敷の中で箪笥の前に向ふむきに立つてゐる男を見た。初めて來た客を奧へ通すまで其所に隱れて待つてゐる樣な容態があつた。その障子が開いてゐたのでみのるの方からすつかり見えた。
 昔はどんなに美しかつたかと思はれるいゝ年輩の女に奧へ通されて待つてゐると、今向ふむきに立つてゐた人が入つて來た。それが簑村文學士だつた。言葉の調子も、身體も重さうな人であつた。
 この文學士は作を選する時の苦心を話した。その原稿が文學士の手許にあつた時、夏の暴風雨と大水に出逢つてすつかり濡らして了ふところだつたのを、文學士の夫人が氣にかけて持ち出したといふ事だつた。その時崖くづれで家が破壞された爲この家へ移つたのださうであつた。
「あれを讀んだ初めはそんなに好いとも思ひませんでしたが中頃から面白いと思ひだした。けれどもね、百點をつけるといふ譯にはいかないと思つてゐると、家へ有野ありのといふ男がくる。それに話をすると其れぢや折角の此方こつちの主意が通らないといけないから百二十點もつけておけといふんでせう。有野は自分に責任がないからそんな無茶な事をいふけれども私にはまさか然うもゆかない。それで思ひ切つてあなたの點と他の人の點を二三十も違はしておいた。他の選者の點の盛りかたを見るとあなたは危ない方でしたね。」
 文學士は、この女の機運は全く自分の手にあつたのだといふ樣な今更な顏をしてみのるを眺めた。さうしてその作の中からいゝと思つた所を拾ひ出して賞めた。
 みのるにはこの文學士のどこか藝術趣味の多い言葉に醉はされながら聞いてゐた。さうしてこゝにも自分に運を與へたといふ樣な顏をする人が一人居ると思つた。
 今噂した有野といふ文學士が丁度來合せた。その人は痩せた膝をすぼめる樣に小さく坐つて、片手で顏を擦りながら物を云ひ/\した。
「けれどもね。けれどもね。」といふ口癖があつた。その「ね」といふ響きと、だん/″\に顏の底から笑ひをみ出させて來る樣な表情とに、人を惹きつける可愛らしさがあつた。
 みのるはこの中にゐて、久し振りに自分の感情が華やかに踊つてゐる樣な氣がした。簑村と有野は、各自てんでに頭の中で考へてゐる事を、とんちんかんに口先で話し合つては、又自分の勝手な話題の方へ相手を引つ張つてゆかうとしてゐた。みのるはその兩人ふたりが一人合點の話を打突ぶつつけ合つてゐるのを聞いてゐると面白かつた。
 その内に簑村の夫人が歸つて來た。昔の女形をんながたにあるやうな堅い感じの美しい人であつた。又其所へ若い露國人が來てこの夫人に踊りの稽古をして貰つたりした。
 みのるは逆上のぼせきつた顏をして、夜おそくまで引き留められてゐた。さうして又大學生に連れられてこの家を出た。歸る時一所に出て來た有野文學士と、みのるは暗い路次の外れで挨拶して別れた。
 家へ歸つた時義男は二階にゐた。其所に坐つたみのるを見た義男は、その逆上のぼせの殘つた眼の端にこの女が亂れた感情をほのめかしてゐる事に氣が付いた。義男はこの頃にない女に對する嫉妬を感じながらみのるが何と云つても默つて居た。
「私が入つて行つた時にね、簑村といふ人はあがはなの座敷の隅に向ふを向いて立つてゐたの。それがすつかり私の方から見えてしまつたの。」
 みのるはこればかりをくり返して一人で笑つてゐた。
 その晩みのるは不思議な夢を見た。それは木乃伊みいらの夢であつた。
 男の木乃伊と女の木乃伊が、お精靈しやうらい樣の茄子の馬の樣な格好をして、上と下とに重なり合つてゐた。その色が鼠色だつた。さうして木偶でく見たいな、眼ばかりの女の顏が上に向いてゐた。その唇がまざ/\と眞つ赤な色をしてゐた。それが大きな硝子箱の中に入つてゐるのを傍に立つてみのるが眺めてゐた夢であつた。自分はそれが何なのか知らなかつたのだが、誰だか木乃伊だと教へた樣な氣がした。
 朝起きるとみのるはおもしろい夢だと思つた。自分が畫を描く人ならあの色をすつかり描き現して見るのだがと思つた。さうしてあれは木乃伊だといふ意識がはつきりと殘つてゐたのが不思議であつた。
「私はこんな夢を見た。」
 みのるは義男の傍に行つて話をした。さうして「これは何かの暗示にちがひない。」と云ひながら、その形だけを描かうとして机の前へ行つた。
「夢の話は大嫌ひだ。」
 然う云つた義男は寒い日向で痩せた犬の身體を櫛で掻いてゐた。

底本:「田村俊子作品集 第1巻」オリジン出版センター
   1987(昭和62)年12月10日発行
底本の親本:「木乃伊の口紅」牧民社
   1914(大正3)年6月15日発行
初出:「中央公論」中央公論社
   1913(大正2)年4月
※「場」と「塲」の混在は、底本通りです。
入力:小鍛治茂子
校正:小林繁雄
2006年9月15日作成
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