夏が、厭なのではない。夏につきものの、ゴロゴロピシャに、また二、三カ月、悩まされなければならぬのかと思うと、心底、気持が暗くなってくる。
いつか、私のところへ来たある雑誌の記者が、あなたは雷がお嫌いだそうですね? と空っとぼけて聞くから、まさかにいい年をして、初めて逢った記者クンに、ほんとうのことをいって、こいつ臆病な奴だなんて思われるのは敵わんから、ええまあね、あんまり好きな方ではないでしょうねと、他人事みたいな顔をしてくれたら、へえそうですかね、その程度のお嫌いなんですかね? 私はまた、青い顔をして蚊帳でもお吊りになるんだと思ってたんですがね。だって小説家のKさんのところへ行きましたら、そうだねえ、まず雷嫌いの横綱は、橘氏だろうね。あるいは、大関くらいかも知らんが、関脇とは下らんよ! って、笑ってられましたからねと、大真面目にいわれて、返事に困ったことがある。ヘッポコ小説家だから、小説の方はなかなか横綱までゆかぬが……横綱どころか! フンドシ担ぎも覚束ないが、ほほう、してみると、雷の方ではいつの間にか、横綱の近くまで出世してるのかな! と、苦笑したことがある。
子供の前で顔色なし
横綱だか、取り的だか知らんが、ともかく、雷はイヤですね、実に厭だ。ゴロゴロピカリとくると、もう生きた心地はせん! いい年をして、子供たちの手前、面目ないから、別段戸棚に潜るわけでもなければ、蚊帳を吊るわけでもない。平気な顔を装うて、机の前に坐ったり、人と話はしているが、上の空だ。一切の思念がことごとく雷にばかりいってしまう。ピカッと光るたんびに、五体が竦む。ハッとしどおしで、眼を閉じてみたり、胆を冷やしたり、鳴り始めてから鳴り終るまで、雷さまのことばかり、考えている。
今のは、どの辺で鳴ったのかな? もう、頭の上へ、戻ってきたんだろうな? 今のは光ってから口の中で、十勘定してから鳴ったから、大分遠のいたか知れん? なぞと夢中で考えてるから、人から何か聞かれても、トンチンカンな返事ばかりする。夕立ちが済むと、私はもう芯が疲れて、グッタリして、道の十里も歩いたほどに、へとへとになる。
そのくせ、雨雲が切れて、陽の光が、さっと樹間から洩れて、音が大分遠のいた頃から、無暗やたらと、精神が爽やかになって、年甲斐もなく、ハシャギたくなる。今日はまあ、これで救われたと思うと重荷を下ろしたように吻っとして……、夕立ちがきて涼しくなったのと、雷から解放されて蘇生した喜びとで、人の知らぬ二重の爽快感を、私だけは味わっているわけなのであるが、今まで憂鬱千万な顔をして黙然と死んだようにヒシ固まっていたオヤジが、急に気も軽々とハシャギ出すのは、よほど滑稽なのであろう。
雷が済んだから、お父さん、吻っとしたろう? なんて子供から冷やかされる。子供も五つ、六つ、七つ、八つくらいまでは何とかゴマカス手もあるが、もう二十歳、二十一となってはゴマカシても、とてもおっつくものではない。
「お父さんは、子供の時分に、お前たちのお祖母さんが、あんまり雷を怖がったもんだから、それがお父さんにまで、伝染して、もうどうにも直らんよ! お前たちはお父さんみたいに、なってはいけない! 雷を怖がるのは、お父さんだけにして、お前たちは怖いものなしに、のんびりと、大きくなるんだぞ!」
と、仕方がないから雷の時だけは、オヤジの威厳を棄てて、私は子供たちと、友達づき合いをする。
有難いことに、ふだん私は、子供に呶鳴ったこともなければ子供に説教したこともなく、子供と友達みたいにして遊んでるもんだから、雷に首を竦めていたからとて、子供たちはこのオヤジを、そう馬鹿にしてる様子もない。癇癪持ちの一方ならぬ、ガムシャラおやじだが、雷だけは性に合わんのだな! と、子供心にも、憐れんでいてくれる様子である。
ゴロゴロと遠くの方でやり出すと、大丈夫だヨ、大丈夫だヨ、お父さん! 今日はこっちの方角だから、そう大して、鳴らないよ! と、中学二年の末っ子などは、御注進に駈けつけて来てくれる。
「バカバカ、何言ってる、大きな声を出して! そんなことなんぞ、お父さんは心配してるんじゃない!」
と、えらそうな顔をして見せたっておっつかぬ。
「なァンだい、人がせっかく、親切に教えに来てやったのに! さっきから、そんなところに突っ立って、空ばっかり見てるじゃないか!」
と、子供は膨れっ面をする。困ったオヤジです。いくら体裁をつくったって、子供の方がよく知っとる。
弱将の下、強犬なし
私は、デカという、頗るもって強豪な中型の秋田犬を飼っている。こいつのオヤジは、昔間違って、狼罠にかかってキャンキャン啼き叫んでいたが、誰も助けに来てくれないと知ると、罠にかかった自分の脚を、自分で食い切って、三本脚でビッコ引き引き戻って来たという剛のものだけに、このデカの強いことも、また無類である。
どんな大きな犬と噛み合いをやっても、まだ一回たりとも、音を挙げたためしがない。負けても、相手に食いついたっ切り離れないのだから、抛っとけば、命のほどが危ない。こっちが青くなって、必死に引き分けてやるほど、気性の敢為な獰猛極まる奴であるが、このデカ先生もまた、生得、雷様がお嫌いらしく思われる。ピカピカとくると、たちまち犬舎を飛び出して、どっかへ姿を晦ましてしまう。
夕立ちが済むと、ノコノコと、どこからか現れてきて尻っ尾をふったりジャレついたり、ハシャギ廻るのであるが、どこへ行くのか、初めのうちはなかなかわからなかった。が、最近、やっとわかったのは、このデカ氏はピカピカゴロゴロの間中、光の届かぬ椽の下の一番奥の方に身を潜め、息を殺しているわけなのであった。
なるほど、弱将の下、勇卒なしとは、よくいったもんだ! としみじみ感じたのであるが、こいつもやはり、雷様のお通りになった後は、爽涼感と蘇生と二重の喜びを、感じるらしい。恐怖の去った後でハシャギたくなるのは、何も人間だけとは限らねえもんだな! と、つくづくそう感じたことである。
電車で逃げる
今では、もう観念したのと、年を取って、逃げ出すのが億劫なもんだから、夕立ちになっても、死んだ気で、家にじいっとしているが、ここまで精神修行をするには、随分私も苦労したものであった。
以前は、一天俄に掻き曇って、ゴロゴロゴロゴロ鳴り出すと、とてもじっとして、家になんぞ、落ちついていられるもんではない。大急ぎで着物を着換えて停車場へ駈けつける。省線電車に乗って雷の来ない方へ逃避をやらかして、我が家の方の夕立ちが済んだ頃を見計らって、晴れ上がった西の空に、七色の虹を望みながら、悠然と御帰館相成ろうという寸法であったが、問屋がそう旨く卸してくれぬことがあって、一度酷え目に遭ったことがある。
西南はるかな空がかき曇って、ドロンドロンドロドロということになったから、例のごとく停車場へ急いだと思いな。何でも高円寺に住んでいた頃であったが、中野、東中野、大久保と、電車の行く先もって天地晦冥、ガラガラピシャン! と、今にも顔の上へ落下してくるかと、安き心地もなく電車の中で首を竦めていた。どうも、四谷、飯田橋、お茶の水方面の空が、黒雲に掩われてると思ったから、新宿でコースを変えて、池袋方面へ逃げた。ところが、ゴロゴロピシャリはなかなかもって、新宿どころの騒ぎではない。行く手も後方もピカピカと、雲を劈く稲妻に囲まれて到頭進退谷まって、御徒町で電車を降りて、広小路の映画館へ飛び込んだら、途端にバリバリズシーン! と、一発落下した。
この時だけは、よくも気絶しなかった! と、後で自分ながら感心したことであったが、プツッと映画が切れて、暗黒の中で観客は、もう、映画どころの気分ではない。アハハと泣き笑いみたいな、悲愴極まる声を出して、キナ臭い匂いの中で騒いでいる。そこを逃げ出して、途方に暮れつつ電車に乗って、晩の十時頃やっとの思いで、雷も立ち去ったろうと、恐る恐る高円寺の駅まで帰ってきたことであったが、駅を出てみると、あの土砂降りの大雷雨にもかかわらず、不思議や! 駅前の土は、少しも濡れていない。
松虫鈴虫が、虫屋の店で、夏の夜の景物詩を奏でて、浴衣の袖を翻した夜の散歩の男女で、通りは埋まっている。死の一歩手前まで、逐い詰められたような私の気持とは、およそ、似ても似つかぬ長閑さであった。狐につままれたような顔をして、家へ辿りついて、
「どうだい? 夕立ちは、酷かったろう?」
と聞くと、いいえと妻は、怪訝そうな顔をしてる。
「蒸し暑くて蒸し暑くて、……今日は、一雨来るかと思って、せっかく楽しみにしてたのに、どっかへ夕立ちが逃げてしまって到頭、一雨も降らずじまいよ」
と、きた時には、私はううん! と、へたばってしまって、玄関に腰を降ろしたまま、しばらくは口もきけなかった。夕飯も食わずに、へとへとになって、夕立ちの来る方来る方と、東京中逃げ廻ったバカ野郎はどこのどいつだと、自分を罵りつけてくれたいような気がした。
夏は雷から逃避行
今度の戦争へはいる、五、六年前のことであった。その時分は私も、日本橋に、小さなオフィスを構え、どうやら貿易屋で、飯が食えていた頃であったから、せめて自分の家だけは、一番雷の鳴らぬところへ建ててそこから東京へ通勤しようと考えた。
雷の鳴りそうな日は、社長は御欠勤になって、その安全地帯の自宅で、悠然と読書にシャレ込もうという寸法であった。ノコノコと中央気象台まで出かけて行って、一体東京近辺では、どこが雷が鳴らないでしょうね? と、尋ねたことがある。途方もないバカなことを、聞きに来た男を迷惑がりもせずに、若い二人の技手が、――今なら技官というところであろうが、親切に応待してくれた。
なるほど、気象台には、こういう調べがついているんだなと、感心したことであったが、長さ二尺、幅一尺ぐらいの、大きな図表を十五、六枚も持ち出して来、私のために調べてくれた。それには一枚一枚に日本地図が印刷されてあって、その上に波のように青い線が、ビッシリと一杯に彩られてある。一月に三十回以上雷の鳴るところ、十回以上鳴るところ、五回以上鳴るところといった風に、細かな統計が取ってあった。
「比較的、雷の鳴らないところというお望みなら、海岸へ住むんですな。東京近辺では、逗子、葉山。千葉県では内房地方、……その辺が、月五回の部分に当りますから、一番雷が尠いわけですね。絶対鳴らないところ? そんなところは、日本中探したって、ありゃしませんよ。樺太には、一カ所そういうところもありますが、その代りそこは、冬雪の降ってる最中に、鳴りますよ。まさか樺太から、東京へ通勤もできんでしょう?」
と、その若い技官は件の図表を調べてくれながら、私を冷やかした。
房州よりは、湘南という方が、何か聞こえが明るいから両方同じくらいの程度に雷の尠いところなら、ようし逗子へ家を建てようと、私は考えた。そして家を建てるなら、まずその土地になじんでおかぬといけんから、今年の夏は家中で逗子へ避暑だと私は、勇み立った。妻と女中に二人の子供、私を入れて総勢五人、桜山の葉山へ抜けるトンネル入り口近くの農家の二階二間を、一夏借りたのであったが、何が月に五回のところも、海岸地方もクソもあるものか!
鳴ったにも、鳴ったにも! 行った晩から東京と変りなく、鳴り轟いた。中央気象台のクソ野郎! 人にウソを吐きやがって! と私は、頭から湯煙りを立てた。
そして挙句の果てに、気絶せんばかりに、大鳴りに鳴り轟いたのは、昭和何年だったか、もう今では年も忘れてしまったが、あんまり恐ろしかったから、月と日だけは今でも忘れることができぬ。七月三十一日の、晩であった。ガラガラバリバリゴロゴロズシンとのべつ幕なしに地鳴り震動して、私はもう、死んだ方がいいと、往生観念したくらいであった。
妻も女中も、雷なんぞ、鵜の毛で突いたほども、感じてはおらぬ。子供二人はグウグウと、高鼾で眠っている。私一人が、パッパッと往来が真昼のごとくに明るくなるたんびに、眼を閉じ耳を塞ぎ心臓を破れんばかりに、ドキつかせた。到頭堪らなくなって、妻と女中に笑われ笑われ、階下へ逃げ込んだ。入れて下さい! とばかりに、お百姓夫婦の眠っている、破れ蚊帳の中へ、飛び込んだ。お百姓は素っ裸体で、フンドシ一つで眠っている。その廻りに、黒ん坊みたいな子供が四人、ウジャウジャと寝て、その向うに腰巻一つの内儀さんが、肥った尻をこっちへ向けている。
寝るところも、横になるところも、ありはせん。そのないところを私は、無理に亭主の尻っぺたのあたりに割り込んで、湿っぽくて日向臭くて、汗臭くてムンムンするような蒲団を、亭主から剥ぎ取って頭からひっかぶって、震えていた。酔狂な! と、後で散々私は妻から笑われたが、酔狂にそんな真似ができますか!
半分死んだ気で頭を抱えてたのを、未だに忘れることができぬ。
何でも、この時の大雷雨は、逗子鎌倉地方では、八十年ぶりとかいうことであった。鎌倉の八幡宮の、杉の老木が二本も落雷で裂け、おまけに東京では八十カ所も落雷したと後で新聞に出ていたから、東京にいてももちろん私は、右往左往して仰天したに違いなかったであろう。しかし、東京で雷に遭うのと、逗子で遭うのとでは、私の気持の持ち方が違う。中央気象台で、なまじ有難そうな図表なぞを見せられて、安心して出かけて行ったばかりに、もう腹が立って腹が立って、……今でもその時のことを考えると中央気象台へ押しかけて行って、愚痴のひとつも並べたくなってくる。
が、もう、十何年も昔のことだ。あの時の若い技官二人は今頃は出世して、どこかの測候所長にでもなっているに違いない。
雷さんはイキなもの
昔の物語を読むと、バカげたことが書いてある。若い女房が、たった一人で留守番をしてるところへ、ピカリゴロゴロ……ちょっくら、雨宿りを、さしておくんなさい! とはいって来た途端に、ピカッときて若い男に、アレエとばかり女房は縋りつく。しっぽり濡れて、二人は割なき仲となりにけりというのであるが、そんなバカげた話があって堪るものか! と私は考えていた。
私のような雷嫌いには、およそこれは、想像もつかぬ光景である。アレエ! と縋りつく方は、よろしい。これは、あり得ることである。私だって、縋りつくであろう。問題は、縋りつかれた男の方の、出方であった。ゴロゴロピカピカの真っ最中に、いくら艶かしく縋りつかれたからとてそんな恐怖のタダ中で、味な気なぞが起るものか! そんなバカをしたら、恐怖とアレが入り交じって、心臓が麻痺してしまうであろう。ゴロピカの最中は、二人でただ抱き合っていて、やがて、西の空が明るくなって、ゴロゴロが遠のいて、初めて人心地がついてから、抱き合ったが百年目とばかりに、そろそろ心臓がアレの方に向うのが、本当であろうというのが、私の意見であった。難しくいうと「古物語に現れたる、私の雷観」というところであろうか。しかし私の考えは、間違っていたことに、気がついた。
全世界の雷研究に及ぶ
抱きつかれた瞬間、心臓は恐怖とアレの二重働きをせず、恐怖はどこかへ行って、もっぱらアレに一重働きをするから、決して、心臓麻痺の心配は要らねえということに、気がついたからであった。そこで、私自身の体験へ、移ろう……。と、言ったところで、誰も私なんぞに、抱きついた女があったわけではない。
選りに選って私ごときクマソタケル然とした男に抱きつく女なぞのあろうはずもないことであるが、今から一昔の前、西班牙の公使が、フランコ政権を代表して、日本に駐していた時分であった。この公使館に、頗る優美な女がいた。明眸皓歯、風姿楚々たる、二十三、四の独身の秘書であったが、私は、このお嬢さんに、ゾッコン上せあがってしまった。
瞳の黒い、笑うと可愛い靨を、にいっと刻むなんてなことになってくると、雷の話をしているのか、お嬢さんの惚れ気を語っているのか、わけがわからなくなってしまうが、わたしこの夏は二十日間ばかり、休暇が貰えますのよ。どこか日本の景色のいいところ、案内して下さらない? なんてなことになったから、バカな私は有頂天になって、オウ、イエス、シュア、シュア! とばかり、身銭を切って恐ろしく方々へ、この秘書を引っ張り廻してくれた。
大島へ行って、三原山の噴火口を覗かせて、富士山麓の河口湖へ行って、野尻湖へ連れて行って、最後に、松島へすっ飛んだ。夏だから、大島の元村で、ゴロゴロピカッ! 河口湖で、もっと酷いやつをピシャンバリバリ! 野尻湖ときたら、天地も砕けんばかりのやつを、ゴロピシャッ!、しかし割合、平気でしたね。あの恐ろしい雷が、この夏だけは!
何ともないデス。なるほど、上せあがった時は、心臓は恐怖を忘れて、アレの方へばかりドキツクということを、私は身をもって体験したわけであったが、このお嬢さんが亜米利加へ行っちまったら、また駄目だ! たちまち私の心臓はまた、恐怖専門へ逆戻りした。物心ついてこの方、たった一夏でも、雷から解放された夏なぞというものは、私にはかつて覚えなかったが、この夏だけは私にとっては、まったく、雷を意識の外に逐いやった、極楽のごとき夏だった。その代り、恐ろしく暑っ苦しいこと夥しい夏でもあった。
このステノグラファーは、西班牙人だと思ってたら、なんと、智利生まれだということが、後でわかったが、なあに智利だって西班牙だって、人種に代りはない。同じラテンだから、私にとっては、カルメンさんの情熱だったということになるのであるが、私は誰にでも、逢う人もって、雷のことを聞くのが痼疾だから、もちろんこの女を掴まえても、忘れずに雷のことだけは、根掘り葉掘り聞いた。
「夏のマドリードの雷は、酷きや?」
「オウ! ……時々……」
なんて具合にネ。
「バルセローナは?」
「ヤッパリ、時々……」
「どのくらい酷きや? 卒倒するくらいか?」
「ワタシ雷デ引ッ繰リ返ッタコト、ナイカラ、ワカラナイ。チョウドココグライ……モット酷イコトモアル」
野尻湖の雷と、女は比較しているのであった。
「リスボンは?」
「葡萄牙ハ、ワタシ行ッタコトナイカラ、少シモ知ラナイ。西班牙デ、一番酷カッタノハ、カステイルノ高原……」
「智利のサンティアゴは?」
「娘ダッタカラ、ワカラナイ!」
「ヴァルパライソは?」
「オウ、テリブル!」
と女は笑ったが、ヴァルパライソの雷がテリブルなのか、その時バリバリと、頭上で炸裂した野尻湖の雷に、テリブルと顔をしかめたのか、そこのところは定かでない。
これもちょうど、その頃であった。なぜ、そんなことをしてみたのか? 自分でもその気持がサッパリわからないが、御苦労千万にも私は、私のところへ引合いをよこした海外の商館や、取引先へ宛てて、雷のことを問い合わせてやったことがある。甚だ恐れ入り候えども、当商会は雷のことについて非常なる興味を有し居り候間、左記御返事下され候はば、有難き仕合せに御座候、とか何とか書いて、無暗やたらに出した覚えがある。
一つ、御地では夏、雷が大変屡々に鳴るや?
二つ、かなり烈しく鳴るや?
貴下に忠信なる
橘商会拝
てなわけなのであるが、十銭切手を貼ると、世界中どこでも、郵便の行く時代であったから、私はこれを至るところへ飛ばせてくれた。印度から注文が来ても、タイから引合いが来ても、平気の平左で「雷の話」という本を、一心に読み耽っている社長が、気が狂ったように雷の問合せばかり全世界に発送しているのであったから、タイピストはクスクス笑いを怺えているし、こういう問合せを貰った外国の商館でも、さぞかし面食らったことであろう。なんだ俺の取引相手は、日本の貿易屋じゃなくて、気象台だったのか? と、眼を廻したかも知れぬ。が、外国人のことだから百本くらい出したのに、十五、六本ぐらいは、律義に返事をよこしたように、覚えている。前にも言ったように、何のためにそんな問合せを出したのやら、雷が鳴らないところがあったら、そこへ移住しようという肚があったわけでもないし、手紙を出した当の本人に、出したわけがわからんのだから返事などももちろんもう忘れてしまったが、今でも覚えてるやつだけを二つ三つ並べてみようか。
ヴェネズエラ、カラカスの商人 鳴る、鳴る、盛んに鳴るヨ。
和蘭、アムステルダムの商人 鳴ります。
瑞西、ベルンの商人 鳴る、ビュッヒュウと鳴る。
笑わせちゃいけない、瑞西の雷は、ビュッヒュウと鳴るんだそうな。
印度、ボムベイの商人 強大に鳴る。天地も破れんばかりに鳴る。
この返事を読んだ途端、将来洋行しても、ボムベイだけは絶対行かぬと私は決心した。
タイのバンコックの海軍の軍医少将で、シュミトラさんというオッサンは、何か私が日本の間諜で、タイの気象状況でも知りたがっていると勘違いしたのであろう。遺憾ながら、余は気象上の通報を認むるの自由を有せずと、恐ろしく堅っ苦しい返事をくれた。
弊商会は雷に興味を有せずなんて、怒ってきたのもある。亜米利加のオレゴン州ポートランドのオッサンは、いかにもヤンキーらしく、まず貴下の学界における地位を明示せよ。余は、恐るべき著述を贈呈せんと言って来たが、私には学界に地位がねえから、今もって恐るべき著述を送って来ん。ウルグアイ、モンテヴィデオの、ドン・ペドロ何とかいうオッサンは、なんとハヤ、書簡箋三枚に亘ってビッシリ一杯と、当地ではいつ雷が鳴って、どんな具合に自分がビックリ仰天して、どんな具合に平気であったかということを仔細に書いてよこしたが、困ったことに全文西班牙語であったから、私にはちんぷんかんぷん読めん。
ラッソーさんという、西班牙語のわかる、商大の先生が遊びに来たから珈琲をふるまって読んでもらったが、読めども読めども尽くるところなき雷の日記には、ラッソーさんは呆れ返ってしまって、このモンテヴィデオの手紙の主は、何だ? と聞くから日本の医療器械の輸入商人だと答えたら、
「なんて狂人野郎だ! ピンからキリまで雷のことばかり書いてやがる」
と目を廻してせっかくの親切な相手を、莫迦扱いしてしまった。
その西班牙語の手紙の中で、今でも覚えてるのは、ここに特筆して御報いたしたきは、
「数年前、小生は智利アリカ北方の砂漠を旅行中、三度も烈しき雷鳴の轟き渡るを聞けり」
という一節であった。砂漠というところは、雨が降らねえからカサカサして、砂漠になったのであろう。雷は雷雲によって発生するものであり、雷雲は雨を伴う。だのに砂漠で雷が轟き渡るとは、コレいかに? 解せねえ話じゃねえか! と思ったが、ともかく日本広しといえども、砂漠で雷が鳴ることを知ってるのは、俺一人であろうと、私は得意になった。これだけの未発見の知識を、私一人で蔵しておくのは、勿体ねえから中央気象台にも教えてやろうか! と思わぬでもなかったが、いつかウソを吐いて、私を逗子で酷え目に遭わせた恨みがあるから、止めにしてくれた。
ついに雷専門の雑学者
頼まれもせんのに外国まで問合せを出すバカだから、もちろん逢う外人もって、失礼ですが御地では雷は鳴りますかね? とばかり、片っ端から聞く。オウ、イエス! というのが、大概の人の返事であった。オウストラリアのメルボーンでも鳴る。シドニイも鳴る。亜米利加は至るところ鳴る。殊にシカゴあたりは非常に猛烈だと、ある亜米利加人が教えてくれた。
しかれば、世界至るところ、雷の鳴らぬところはねえということになるのだが、神は何が故にこんな人騒がせな、迷惑極まるものをゴロゴロピカピカ至るところに暴れさせるのだろうか? と、私は慨嘆これを久しゅうしたことであった。カタコトの英語を振り廻して難儀しながら外国人にまで雷のことを聞く男であったから私はもちろん、日本人にはなおのこと、聞いてみる。
時に、どうです、あなたのお国の方は、雷は酷いですかね? なぞと、他人事みたいな顔をして聞いてみる。そこで今、その蘊蓄の一端を羅列してみると、まず満州、昔はサッパリ鳴らなかったが、日本人が入り込むようになってから、大分鳴り出したという話。ただし、あんまり強くはねえそうだ。次は札幌を中心とした北海道、これも以前はあまり鳴らなかったが、最近は内地並みに鳴り出したという話。もちろん酷いことはないであろう。京都は酷い。熊本も酷い。甲府も酷い。殊に酷いのは、富士山麓地方。
関東では、日光から出て、宇都宮方面へ流れ出してくる雷雲。負けず劣らず酷いのが、伊香保を中心として榛名をめぐって、前橋、高崎あたりを襲うやつ。この辺のは、ガラガラゴロゴロなぞという生易しい音ではない。ズバン! ズバン! バリバリバリバリババーン! と頭の上ではなく、空の横ッチョあたりのところから紫色の火花を散らして、釣瓶打ちにして雷撃してくる。もう一つ酷いのが、軽井沢、そして信州の山岳地帯。上州や信州では、毎夏必ず五人や十人は雷のために死人が出る。だから私は、自分の故郷でありながら、上州や軽井沢の方へは、絶対に足を向けないのだ。あんなところに住んでる人の気持が知れん! とある時私は、以上のような話を、ある小説家にしたことがある、と思ってくれ。
「驚いたね、これは!」
とその小説家先生が腹を抱えたから、雷学の私の蘊蓄のほどに驚嘆したか? と思いの外、
「君は小説家だと思ったら、これは驚いた。雷専門の、雑学者だね。私設雷専門取調委員長ってところだね……つまり……ソノ……臆病なんだな」
と吐したには、腹が立った。以来私は、この小説家とは道で逢っても、口もきかん。
ともかく何と笑われても私は雷が怖くて、恐ろしくて仕方がない。雷を嫌悪し憎悪し、恐怖し、呪詛し、戦慄するもの私のごときはないであろう。そしてこれをもってこれを観れば、私という人間はいい年をしてよほどの、臆病者なのであろう。
臆病なればこそ、五尺六寸四分の大い図体をして、鬼をもひしがんばかりの獰猛な人相をしているくせに、カミナリが怖いなぞと、バカばかりほざいているわけなのであるが、しかし自分ではそう思いながらも、人から臆病もの呼ばわりされると、無性に腹が立つ。
私が雷を恐れるのは、何か私の身体が特別に雷の感度に鋭敏な、電気の良導体みたいにでき上がっているからであろう。臆病とか臆病でないとか、そんな人間の本質なんぞに関係のある話ではないぞ。昔、豪勇なる武士で、青蛙を見ると口がきけなくなるという蛙の良導体みてえな、豪傑があったではないか! と、理屈の一つもヒネクリたくなるのであるが、何と詭弁を弄しても、結局は臆病なるが故の、させるわざであろうと心の中で苦笑している。
その反動からかは知らないが、
「私は臆病です、ですから雷が嫌いなのです」
と、正直に告白している人を見ると、私はその人に何ともいえぬ親愛と、尊敬の念の湧き出ずるのを、禁じ得ない。
今の世代の読者には親しみのない名かも知れないが、昔「肉弾」という本を書いた桜井忠温という有名な陸軍少将があった。どうせ少将なら、髭でもヒネッて踏ん反り返ってつまらねえ野郎だろうと思っていたが、何かの本に、
「大砲の弾よりも爆弾よりも私は、雷がオッカナイ」
と、このヒトが書いているのを見た途端から、私はこの少将に多大の親しみと、尊敬を払わずにはいられなくなった。
最近では、「魚臭くない魚の話」とかいう本を書いた、東大教授の末広恭雄という博士がある。この人も何かの雑誌に「雷がオッカナイ」ということを率直に告白していた。それを見た途端、やはりこの人にも私は、言わん方ない親愛を感ずるようになった。
同病相憐れむ、気持の現れかも知れないが、世の中には雷の嫌いな人も、決して尠くないであろうと考える。もしそういう人が、私にも親しみと尊敬を懐いてくれたら、有難てえことになるぞ!
と思ったから、ちょっと人直似して[#「人直似して」はママ]、正直ぶってバカばかり並べ立ててみた次第。尊敬してくれんでもいいから、笑わんでおいて欲しい。