三月二十四日にTが亡くなつた。その二日ばかり前に私は彼と会つて一時間ばかり話をした。その時も彼は空襲がだんだんひどくなるから母さんは早く軽井沢に行つた方がよろしい、自分たちもすぐあとから行くからと私を急かしてゐた。もし軽井沢から急に東京に帰れない場合は彼の妻の実家である岐阜県の大井町へ行つてみるつもりらしかつた。急に彼に死なれて私は疎開する気もなくなつたけれど、それから三月ばかり立つて六月中ばにやつとのこと軽井沢に出かけて行つた。
 故郷を持たない人たち、つまり東京人種が無数に軽井沢にあつまつて来てゐた。別荘をもつてゐる人たちはその自分の家に住みついて、不自由ながらもどうにか夏の生活をはじめ、私たち宿屋組もいろいろの工夫をして、なるべくふだんの生活に近い暮しをしようとしてゐた。馬鈴薯や林檎を買ひ出しに行つたり、町のすみの店でこつそり紅茶をさがし出して来たり、すしやで売り出したカボチヤランチといふのを買ひしめて宿の女中さんたちに御馳走してみたり、その日その日はものを考へるひまもなく流れた。三度の食事をしてゐれば、ほかの不自由さはどうにか我慢ができた。インキがないから万年筆を持つて宿屋のお帳場に行つてインキを入れ、二階の奥の部屋まで帰つて来て手紙を書き、さて封筒がないから、またお勝手に御飯つぶをもらひに行つて不器用な手つきをして、ありあはせの紙で封筒みたいなものを張り、それからポストまで出かけて行く、こんなことも波の上の生活みたいに落ちつかない毎日の暮しの一部であつた。
 六月末であつたか、駅の方まで用たしに行くとき、私は一人の立派な奥さんと道づれになつた。立派といふのは、東京に於ける過去の生活が立派であつたらうと思はせる人で、この日の奥さんは黒いモンペ姿で包を一つしよひ一つはぶらさげてゐた。彼女は三十と四十の中途ぐらゐの年頃に見えた。「信州はずゐぶんとぼしいところでございますね」と彼女が言つた。私は宿屋生活をしてゐるので、一週間に一度ぐらゐ田舎の買物に出れば、どうにか用が足りるといふ話をすると、彼女は溜息をして、一軒の家を持つてゐるととても大へんだと言つた。三笠の部落にゐるので、ついその二三日前に学校の先生の方からの知らせで、あがつまの野原にたくさん蕨があるから父兄の人たちに採りにゆくやうにと言はれて、行つたさうである。(ある上流子弟の学校の父兄会のグループが団体で疎開してゐるらしかつた。)電車に乗つても時間のかかる所だから、蕨とりにそこまで出かけた人たちはごく少数で、それに先生が二人ほど案内係りで行つたらしいが、はてしもない高原にその僅かの人数が散らばつて蕨を採つてゐると、ひとりひとりが背負ひきれないやうに沢山とれた。初めにきめて置いたとほり駅にもどつて来てお弁当をたべようとすると、もう何時の間にか時間が経つてゐて、帰りに乗るはづであつた電車はあがつま駅を出てしまつた。奥さんたちも先生もどうすることも出来なかつた。それから何時間も駅にゐて、やうやく夕方の電車に乗つて夜になつて帰つて来たと話した。奥さんは悲しさうに笑つて「蕨のために、そんな心配をして、あれが食べられるかどうかもわかりませんのに、でも、昔の人は食べましたわねえ!」と言つて、彼女も私もむかし山の中で蕨だけしか食べないで飢え死んだ名士を同時に思ひ出したのであつた。二人とも情ない顔をして歩いて行つた。「奥さん、あまり御不自由のときには、町の方にいらしつてお訪ね下さい。すこし位は何かあるかもしれません……」と私は宿屋の名を言つて別れた。
 亡夫の故郷である新潟の田舎に従弟がみそ醤油の商売をして繁昌してゐた。亡夫の父が東京に出てくる時に、自分の家敷とすこしばかりの金を弟にやつて分家させた、その叔父の長男である。彼はたびたび手紙をよこしたり、軽井沢にも訪ねて来て、平和になつて東京に帰れるのは何時の事か分らない。私たちの家は広いから隠居所をあけて待つてゐます、宿屋生活をきり上げて新潟の方にいらつしやいと言つてくれた。ほんとうに、その方が安全のやうに私にも思はれたが、夫の故郷に一度も行つたことのない身にとつては、わかい時から毎年来て住みなれた軽井沢を捨ててそちらに行くことは勇気の入ることであり、それにお金がなくなつた時、はるばる新潟から東京までお金を作りに出て来ることは相当な努力だつた。むかしから友だちつきあひをしてゐる宿屋の主人にも相談してみたが、来春まで今の儘でしんばうなさい。その時分になつたら、あるひは東京に帰れるかもしれません、もしもつと悪い状態になつたら、その時に新潟へ行らつしやい。地方の裕福な家庭の中に、たとへこんなあぶない世の中だとしても、御本家として乗り込むのは相当に骨がをれます。もう少し待つて御らんになる方がいいでせうと言つてくれた。
 それで、いよいよの時まで延ばさうと思つたが、先方の親切に対しても何とかあいさつをしなければならないので、東京から軽井沢まで一しよに来て暮してゐた若い家政婦のKを代理に新潟まで使にゆかせることにした。軽井沢で手に入る少しばかりの土産と、私の冬の着物やショール浴衣なぞあちらに預かつて貰ふやうにと持たせて立たせた。
 朝の八時何分かの汽車で立たせてしまふと、何か安心したやうな気持になつてふとんや毛布なぞ出して屋根の物干に上がつて乾した。私のゐる二階の部屋は奥座敷の上にたつた一間だけ建つてゐて、南と西は遠くまで見晴らせた。朝から夕方まで信濃の山々の山ひだがいろいろに変つて光るのを見るのも愉しかつた。朝の汽車で立たせたKが今ごろ何処まで行つたらうかと、まだ自分が行つたことのない駅の名なぞ考へてみた。お一人でおさびしいでせうから、お夕食はお勝手にいらしつて、うちのみんなと一しよに上がりませんかと誘ひに来てくれたので、下に降りてうちの人たちと食べた。
 部屋にもどると、もう日も暮れたので窓の戸を閉め、お茶を入れてゆつくり飲み、部屋のすみの肘かけ椅子を電燈の下まで持ち出して本を読んでゐた。一人のせゐかいつもよりもつと静かだつた。ちやうど九時ごろ私は本をわきに置いて、もう今ごろ彼女が亀田駅に着く時分だと思つた。さう思つてから私は眠つたつもりはなかつたが、椅子ですこし眠つたらしい。誰か側に来たので眼をあげて見た。Tが来たのだつた。いつでも週間の日に着てゐたねずみ色の服で、勤めの帰りに私の家に寄つて茶の間でお茶をのむ時のやうに、髪がすこし乱れて、ふだんの時のとほりに微笑して「かあさん、あのね、……ですよ」と言つた。彼は私の腰かけてゐる右手の横から出て来て私の正面に来たとき、さう言つた。この世にゐない人とも思はず私はそれに返事をして、何か一言いつた、その自分の声で眼をあけてTと眼を見合せた、その瞬間Tがすうつと右手にうごいた。その動いて行く姿がはつきり私の眼に見えて、私が首をそちらに曲げた時に彼は消えてしまつた。夢でなく、これはまぼろしである、私は彼とはつきり顔を見合せたのであつた。ああ、何の用だつたらう? 私が一人でゐる時に、何を知らせに来たのかしら? 体がふるえるやうな感じで、Tは別れても私のことを気にかけて始終心配してゐるのだ。何を知らせに来たのか? 時計を見るとまだ九時半をすこし過ぎたばかりだつた。
 Tと別れてからちやうど五月ぐらゐ経つ。亡くなつたのが三月二十四日、けふは八月十日である。生きてゐた三月から今日までつづいてまだ彼は私のすぐ近辺にゐるのだつた。しかしその彼が何を言ひたくて来てくれたのだらう? 今日は私が一人であたりが静かになつてゐるせゐでもあるが、いま、この国に、私たちの身に一大変化が来るのだらうか? それとも軽井沢に大きな危険が来るから私に逃げろとでも言ひに来たのかしら? 私はいろいろくり返して考へて見たけれど、何よりもまづ不断の彼の勤めがへりの無事な姿が目に浮いて、それに微笑をふくんだ愉しさうな調子が思ひ出された。あぶない時の知らせではない。それなら、何の知らせ?
 考へぬいて私は階段を下り、いつも主人が宵のうち坐つてゐる茶の間に行つた。「あのね、Fさん、いまTが私のところに来ましたよ。何か言ひかけたんですけど、私が何か言つた拍子にふいと消えてしまつたんです。何かの知らせに来たと思ふんですが、何でせう?」宿の主人も眼を大きくして「Tさんが!……それは何か急な御用ですね。何か変事があるのでせうか? それとも、東京のお宅の事でせうか?」彼もTがまぼろしに来たことを疑はなかつた。しかし二人でどんなに考へても何の知らせに来たのかわからないから、明日まで待つてみようといふことになつた。
 翌日Tが来た話を書いて速達をTの妻に出した。
 八月十三日、一月おくれのおぼんで宿屋では亡くなつた仏たちの魂まつりをする飾りつけをした。私も自分の部屋の西の壁に添つた棚の上にTの写真をかざり、花とお茶を供へた。階下の部屋のH老夫人からお手製の菊の花のお菓子を贈られたので、これも供へた。じやがいもで造つた白とうす紅の大輪の菊がうつくしかつた。その菊は、ほとけもさぞ喜ぶだらうと思はれる美しい色だつた。
 午前中Kが新潟から帰つて来た。白米、小豆、みそ、みそ漬といろんな土産を貰つて来たので、その晩彼女は小豆御飯をたいて仏に供へ私たちも頂いた。Tの来た話もして、何の用だらうかと話し合つた。
 八月十五日、けふ午前中に天皇陛下御自身で一大事の御放送をなさるから、奥の広間のラヂオの前にあつまるやうにと言つて来た。日本がポツダム宣言を受け入れて降服したのだといふことが、そのラジオの陛下のお言葉よりも早く私たちに伝つて来てゐた。その時私は眼がひらかれたやうにTに向つて呼びかけた。「これでせう? この知らせを持つて、もう心配するなと言ひに来たのでせう?」心でさう言ふと私は涙がはらはら流れ出した。私の身にとつての一大事、全日本人にとつての一大事、それを彼の霊も強く感じたので、早く知らせて喜ばせようと思つて、平和な時のやうな静かな声で私に呼びかけたのだつた。「ありがとう。あなたも安心して下さい。私たちの国はどうにか生き残るでせう。」私は棚の前に坐つてお香をたいた。Tの写真はわかい派手な顔をしてゐたが、私の心に映るのはそれより四五年もふけて渋い顔に微笑してゐる彼だつた。「戦争さへおしまひになれば、あたしもどうにか生きて行けるでせう。見てゐてね」彼の眼と私の心の眼がぴつたり合つて霊が握手したやうに思つた。
 午前、御放送があつて後、みんなぼんやりしてゐた。泣く人もあり溜息をする人もあり、これからどうするの? と言ふ人もあつたが、興奮する人はだれもゐなかつた。午後Tの妻から速達の返事が来た。すこしの時間のちがひで御放送より遅れて来たけれど、前日に彼女が知らせてくれた手紙で、彼女の兄が内閣に近い官吏なので、この降服の話は三四日前に彼女にうすうす聞えてゐたらしく「もう心配なさらないでも大丈夫ですと申上げようと思つて、それでもまだ言つては悪いのかと、ぐづぐづして遅くなりました。Tはお母さんにそれをお話に行つたのですね。どうぞ御安心なさつて。もう火は降つて来ません」と書いてあつた。彼女はTがまぼろしに来たことを少しも不思議には思はないらしかつた。その夕方、宿の主人と私は茶の間でお茶を飲んだが、しづかな、がつかりした気持だつた。
 東京にもう一度住めるやうになるかどうかもはつきり分らず八月と九月を過し、十月になつて私はいよいよ帰京する気もちになつた。新潟の従弟が軽井沢まで見舞に来てくれた。彼の親切に私はしみじみ礼を言つて、もし東京に住みにくいことがあれば今度こそは越後へまゐりますから、どうぞよろしくと頼んだ。
 その頃になつて南瓜や甘藷がたくさん姿をあらはして私たちの食膳をゆたかにした。追分あたりからどんどん牛肉が来るやうになると、私はその肉を買つて東京の家の地主さんや親しい家に贈つたりした。
 皇太后様がこの夏終戦ちよつと前から、峠道の近藤邸に御滞在になつていらしつた。戦争中は知事さんなぞがお見まひに出るだけで、まことに静かにしていらしつたが、秋になつてからは宮内大臣とか東京の貴婦人なぞが御機嫌伺ひに見えて、さういふ人たちがみんなこの宿屋に泊つてにぎやかになつた。皇太后様はお散歩にもお出にならず、ただ女官たちが馬車に乗つて買物に出かける姿を時々見かけた。みんなが喪服のやうな黒い服を着けて二頭立の馬車に五六人が乗つて、追分まで野菜を買ひに出かけるのを旧道から駅へ出る一ぽん道の中途で見たことがあつた。路傍にたつてその馬車をよけてゐた人たちも、何もいはずただ溜息をついた。自分たちばかりでなく、宮中の人たちまで寒く不自由らしいのをみんな一つ心に感じたのであらう。
 峠の路へゆくと、いろいろなきのこがとれた。それまで私は山国の秋を知らなかつたので、街のすしやのをばさんに誘はれてきのこを探しに行くことが愉しかつた。ある日大小のいろんなきのこを籠に入れて帰つてくる道で、しろつぽい、まるい、きのことは少しちがふ形の物を見つけて「をばさん、これは何でせう?」とをばさんに渡さうとした。「あら、およしなさい、蛇の玉子ですよ」とをばさんが言つたので、私は投げ捨てるのも悪いやうな怖いやうな気もちで、もとの枯草のかげにまた置いた。東京そだちの私は一生に初めて蛇の玉子を見て奇妙な心もちがした。このまるい小さい殻の中で蛇が今そだつてゐる!
 十月のごく末になつて軽井沢を立つて来た。以前のうつくしさはなく荒れ果てた軽井沢ではあつたが、その朝の浅間山はしづかな平和な姿を見せてゐた。煙はみえなかつた。その山の姿につながりがあつたかどうかわからないが、私はTのことを心に思つた。もう一度彼が私に見える日があるかしら? もう一度会へる。たぶん私が死ぬ日のじき前に会へる。さう思ふと、私はたいへんに頼もしい気もちになつた。

底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
※「ラヂオ」と「ラジオ」の混在は、底本通りです。
入力:竹内美佐子
校正:伊藤時也
2010年10月14日作成
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