「奥さんは以前洋行されたんじやないですか?」といふやうなことから「私はひどく無精ですから、船に乗つたりして何処へゆく気もしません」と言ふと「僕は行つて来たいですね、ちよつとでよろしい、半年ぐらゐでも。僕たちの洋行は五千円もあれば、パリからロンドンまで行けますね。足りなくなつたらパリから帰つてくれば、それでもいいんです」とそれを愉しい夢のやうに言はれた。わかいその日の文学者はほんとうにその五千円を欲しいと思つてをられたやうだ。
「男の方はようございますね、私も男ならきつと行きたいでせう」と私はため息をして、そして心の中では別の事を考へてゐた。私が考へてゐたのは、お金がほしい、たくさんお金が欲しい、自分がどこへも行かれない代りにかういふ熱心な文学者を世界じう歩かせて上げたいと、大へんせんえつな願ひであつたが、わかく純粋な心に考へてゐたのである。
玄関で別れる時、私はすつかり肩の張らないお客さんのやうに「さつき菊池さんがいらしつた時、うちじうスキヤキのにほひがしてゐたやうで、初めてのお客さんにすつかり恐縮してをりました」と言ふと、靴をはきながら「さうでしたか? 僕はさういふ事はあまり気がつかないんです」と言つて笑つてをられたけれど、小心な善良な私の心持をよくのみこんで下さつたらしい。その夜以来私は何かとすぐ菊池さんに相談をかけた、手紙や電話で。それはいつもアイルランド文学の事や翻訳のことだつた。菊池さんは何時も頼まれた以上にいろいろ世話をやいて下さつた。私は好運であつた。あそび半分のやうな私の仕事なぞ誰が読んでくれたらう。それは家庭の女の仕事に好奇心を持つ人もゐたかもしれないが、菊池さんが序文を書いて下さつたり出版書店の紹介をして下さつたりして、どうにか一冊一冊の本にすることが出来たのである。
小石川富坂上のお宅にも雑司が谷のお宅にも伺つたけれど、その後に私はどこか京橋辺の喫茶店の二階でお会ひしたことを覚えてゐる。やはり何か本のことであつた。衝立のそとにテイブルや椅子があつて、そこでお菓子とコーヒが出た。お別れしようとして立つたとき菊池さんが「ああ、さうだ、あなたに伺へばわかる。わかい女は、つまりお嬢さんは、夏羽織を着ますか?」と訊かれた。「着ません。あれは奥さんだけです。奥さんだつて着ない方がいいのでせうけれど」私が言ふと「あれは余計な物ですね。いま新聞に書いてる小説のお嬢さんに、羽織が入るかどうかと、ちよつと気になつたんです」と菊池さんが笑つて言はれた。それからもう一世紀の何分の一か過ぎて、終戦後は奥さんたちの羽織も完全にすたれた、そんなものを羽織つてゐると、斜陽といふ形容詞をかぶせられる世の中である。
最後にお訪ねしたのは文藝春秋社の二階で、下のグリルに下りてアイスクリームを頂きながらお話をした。この時は本のことでなく人事で、こみ入つたお話だつた。私は絽のひとへを着てゐたから、たぶん八月の末か九月であつたらう。その時ぐらゐからあと、私は文学夫人でなくなつて普通の家の主婦になつた。カタカナの文学はもうすつかりすたれて、それに大きくなつた息子と娘を持つてゐる主婦はペンに用がなくなり、ひどく生真面目みたいな顔で暮してゐた。時々、浜さくやローマイヤの食堂なぞでお会ひしたこともあるが、ただ目礼するくらゐになつた。私の遠慮であつたのか、それとも全然別世界の住人になつたためであつたか、菊池さんはさういふ風な考えかたをする人ではなかつたのだから、私自身の引込思案からそんな風になつたのだらうと思ふ。いま遠い昔のいろいろな事を思ひ出して、あの方の寛大な心に深くお礼をいひたい。この気もちが届くかどうかは分らないけれど、届けばうれしい。
底本:「燈火節」月曜社
2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:伊藤時也
2010年10月14日作成
2010年12月13日修正
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