大正のいつごろであつたか、大森新井宿で私はサラリーマンの家の平和な生活をしてゐた時分、或る日奇妙なおじいさんが訪ねて来た。どんな風に奇妙なのか、ただ取次に出た少女が奇妙なおじいさんと言つた。おじいさんは名も言はずただ一枚の短冊を出して、これを奥さんにお目にかけて下さい、用向きもそこに書いてありますと言つたと彼女が取り次いだ。その短冊にはよく枯れた字で書いてあつた「たづね寄る木の下蔭やほととぎす鳴く一声をきかまほしさに」。私がそのほととぎすのわけで、新井宿の家は椎やけやきの大木がずつと垣根をとりまいてゐたから、つまり、木の下蔭であつた。
 座敷に通すとおじいさんはていねいに名のつた。自分は師匠はございませんが、わかい時から和歌の修行をして歩いてをります何のなにがしといふ者で、奥さんが和歌をなさるといふことを風の便りに伺ひまして、おなつかしさのあまり、ぶしつけをかへりみず伺つた次第で、お目にかかれてありがとうございますと言つてお辞儀をした。彼は年ごろ六十かもう少し上かも知れなかつた、古い着物ながら身ぎれいにして大きな合切袋がつさいぶくろをそばに置いて坐つた。煙草もはな紙も、手拭も矢立も鉛筆も、うすい紙の短冊を三四枚かさねて三つ折にたたんだものや、古い歌の本、そのほか一さい合切入れてあるらしかつた。話しながら時々その袋の中から何かしら取り出してゐた。むかし武者修行が諸国を旅して廻り、ある土地の道場に試合を申入れてそのあと、そこの家に泊つたりしてゐたことは古い物語で読んでゐるが、おじいさんは試合に来たのではなく、ただありあまる歌道の智識をその道の若い人に聞かせたい気持らしく、すこしも高ぶることなく愉快に話してくれた。しりとり川柳といふやうなものがこの頃ラジオのとんち教室で毎週放送されてゐるが、おじいさんはしりとり歌がとても上手で、しりとり歌を三十一首くらゐ並べて、その一首毎のはじめの一字を横に並べて読むと、これがまた三十一字のみごとな歌になつたりして、じつに驚嘆すべき腕前なので私はすつかりかぶとをぬいでしまつた。
 一首のおしまひにの字がついたらお困りになりませう? と訊いたら、いや、和歌にはの字は用ひませんですな、の字の代りにの字を用ひますから少しも困りませんと言つた。なるほど、私だつて作歌の時にでなく、を書く位の事はよく知つてゐたのに、なぜそんな間抜けな事をきいたものか、うつかりものがすつかり恐縮した。その時はお茶とお菓子ぐらゐで別れたが、その後おじいさんは時々現はれて、よく話して行つた。さういふ時なにか食事代りの温かい物を出し、おじいさんに役にたちさうな小さな贈りものをした。お小づかひを上げたら一ばん役に立つのだがと思つても、それを上げてよいものかどうか分らないから、お金は上げないで、何かおじいさんの喜んで食べてくれさうな物を出した。池上のお山の向うに婆さんと二人で暮してゐますと言つても、その家は教へなかつた。三月か四月に一度ぐらゐきつと訪ねて来た。おじいさんが暫らく見えないことがあつた。はてな、おじいさん病気かしらと思つてゐると、半年ぐらゐ経つてまた見えた。どうなさいました? しばらくお見えになりませんで、お噂してゐましたと言つたら、やつぱり病気してゐたといふことだつた。その時が最後でおじいさんはもう来なかつた。たぶん立てない病気になつたか、それとも亡くなつてしまつたのか、私は折々彼の事を考へた。はがきのやりとりをするといふほどの現代風もおじいさんと私の交際にはないことだつた。私はこの話をいま書きながらもおじいさんの霊によびかけてゐる。しばらく御無沙汰をしました、おじいさん、今どこにいらつしやいます?
 のどかなにぎやかな大正時代を遠くとほり過ぎて、昭和十九年六月疎開のつもりで私は井の頭線浜田山に移つて来たのだが、その引越しのあと片づけがまだ終らない或る日、めづらしい短冊の客に接した。名ばかりの小さな玄関にだれか人声がしたので出てみると、それは四十前後の男のひとで、着古したセルの単衣に昔風なちりめんのへこ帯をしてゐた。この時分に国防色の服装をしない男性は殆ど一人もゐなかつたから、この人の和服にちりめんのへこ帯はちよつと奇妙に見えたのである。彼はぴよいとお辞儀をして古びた短冊を出した。字を書いてある短冊が歌であるといふこともその瞬間私には考へつかなかつたほど、この国ぜんたいも私も戦争の空気に取りまかれてゐた。しかしとにかく、私はずゐぶんぼんやり者である、その短冊を手に取らうともしないでびつくりした顔で、あの、何でございませう? と訊いた。その人は驚いた顔をして私を見つめて、ちえつ! と舌うちして短冊を邪けんに引つこめて、ぐるりと背中を私に向けて怒りきつた足どりで門を出て行つた。その時である、私は何かしら長いこと嗅ぎなれたやうな体臭を嗅いだ、体臭といつてもその人の生活様式から生れる精神的のにほひで、肉体の体臭ではない。彼のにほひは、その後姿だけが文字ある人のにほひをさせてゐた。私はハツとして、あの人は私に面会を求めて来たのだと初めて気がついたが、もうその時、声をかける時間を過ぎてしまつたので、黙つて手をこすりながら彼の後姿を見送つて、ずゐぶん私はぼやけてゐると自分にあきれてゐた。
 彼は浜田山かこのむさし野のどこかにさびしく暮してゐる歌よみかあるひは歌の先生かもしれないのだ。そして新しくこの田舎に越して来た一人の歌よみに面会をもとめて、女性に敬意を表するため古風なたんざくを出したものと思はれる。彼も怒り以上にひどい幻滅を感じたことであらう。黒い羽織でも着た御隠居さんらしい女歌人に会ふ代りに、かすりのモンペをはいた髪をもじやもじやさせた小母さんに会つたのだ。その小母さんは働いて疲れきつてゐるから、古い短冊をうりに来たとでも思ひ違ひをしたのだらう。ばか! 豚に真珠だ、と彼は怒りきつて帰つて行つたと思はれる。それにしても彼の短冊にはどんな歌が書いてあつたか、それを読まなかつたことは怠慢であり、じつに失礼であつた。私はどこにともなくおわびを言ひたい。しかしながら、その日ばかりでなく、今日でも、私に短冊を下さることは、あわただしい心の私に短冊を下さることは、たしかに豚に真珠である。

底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:伊藤時也
2010年10月14日作成
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